パソコンの文化 - Ando's view of Personal Computer culture.html
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パソコンの文化 2000.04.16記  更新 - 2007.12.02 (2016.06.21修正)
 
 更新トピック(2007.04.28)
   → パソコンの文化21 パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その7)
      - ATOK(ジャストシステム)
 
 
 
目次
 
はじめに
 
1. パソコンの文化1 (2000.04.16)
  1-1. パソコンは40代の米国オヤジたちが作り上げた文化
  1-2. ビル・ゲイツ -人となり-:
 
2. パソコンの文化2 (2000.04.16)
  2-1. コンピュータ(メインフレーム)と
     パソコンは根本的に違う
  2-1-a.アップル
  2-1-b.アップルII 
  2-2. ビジカルク(VISICALC)
 
3. パソコンの文化3 (2000.04.30)
  3-1. パソコン以外のコンピュータ
  3-2. 大型コンピュータ
  3-3. コンピュータの黎明 
  3-4. コンピュータの系譜
 
4. パソコンの文化4 (2000.05.07)
  4-1. ミニコンピュータ - DEC
  4-2. サン - SUN
 
5. パソコンの文化5 (2000.05.23)
  5-1. RISC コンピュータ
  5-2. RISC チップ
  5-3. MIPSテクノロジー社
  5-4. スーパーコンピュータ
6. パソコンの文化6 (2000.06.02)
  6-1. IBMのパソコン参入
  6-2. IBM - 巨大帝国
 
7. パソコンの文化7 (2000.06.11)
  7-1. そんなIBMがパソコンを
  7-2. IBM パソコン開発
  7-3. IBM PCの波及効果
  7-4. それでもIBMが帝国である理由
 
8. パソコンの文化8 (2000.07.07)
  8-1. パソコンOSの誕生
  8-2. ゲーリー・キルドールと人となり
  8-3. CP/M開発の経緯
9. パソコンの文化9 (2000.07.15)
  9-1. 守秘義務合意書
  9-2. CP/Mその後
 
10. パソコンの文化10 (2000.07.28)
  10-1. コンパック(Compaq)
  10-2. フェニックス・テクノロジー
11. パソコンの文化11 (2000.08.21)
  11-1. DOS/V(ドスブイ) = IBM DOS version J5.0/V
  11-2. MS-Windows(ウィンドウズ)
 
12. パソコンの文化12 (2000.09.10)
  12-1. PS/2 - PC-ATに続く32ビットパソコン
  12-2. OS/2 - IBMの対抗OS
 
13. パソコンの文化13 (2000.10.15)
  13-1. オフィスビジョン(OS-2の統合ソフト)
  13-2. トップビュー(IBMの作ったマルチウィンドウ
      表示画面ソフト)
  13-3. GUI(Graphic User Interface)を成功させた
      アップル
 
14. パソコンの文化14 (2000.11.24)
  14-1. アップルとWindows
  14-2. アップルの創始者:スティーブ・ジョブズ
  14-3. アップルのアップルらしさ
  14-4. アップルの苦境
 
15. パソコンの文化15 (2001.01.14)
  15-1. マイクロソフトのWindowsへの取り組み
  15-2. アップルのCEO
  15-3. スティーブ・ジョブズの大胆な行動
 
16. パソコンの文化16 (2001.03.25)
  16-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その1) - アドビ(Adobe)
    ■ ジョン・ワーノック(John Wornock)
  16-2. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その2) - アルダス(Aldus)
    ■ ポール・ブレイナード(Paul Brainerd)

17. パソコンの文化17 (2001.06.03)
  17-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その3) - 表計算ソフトVisiCalc
  ■ ダン・ブリックリンとボブ・フラクストン
     - 表計算ソフト 
  ■ 表計算ソフト VisiCalc - 発端
  ■ 表計算VisiCalcのアイデア - セル
  ■ ビジカルクの開発
  ■ VisiCalc出版元 ダン・フィルストラの
    パーソナル・ソフトウェア社
  ■ ビジカルクの市場
  ■ VisiCalc 市場独占のミス
  17-2. VisiCalc(ビジカルク)とビジコープ
 
18. パソコンの文化18 (2001.09.09)
  18-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その4) - ロータス
  ■ スプレッドシートソフトウェア
  ■ ロータス社設立 - ミッチー・ケーパー
  18-2. ロータス1-2-3
  ■ 開発
  18-3. ロータスデベロップメント社
     (マサチューセッツ州ケンブリッジ)
  ■ IBM PCのスプレッドシートの現状
  ■ スーツ - ロータス1-2-3にみる管理者CEO
  ■ ロータス社設立と競合会社(コンテキストMBA)の明暗
  ■ ロータス社の変革期
 
19. パソコンの文化19 (2002.06.03)
  19-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その5) - dBASE
  ■ アシュトンテイト社(dBASE)
  19-2. その他のデータベースソフト
  ■ Windowsのデータベースソフト
 
20. パソコンの文化20 (2002.10.1)
  20-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その6) - シリコン・グラフィックス
  ■ ジム・クラーク
  ■ ユタ大学とジム・クラーク
  ■ アイヴァン・サザーランドとジム・クラーク
  ■ ジオメトリエンジン
  ■ スタンフォード大学とジム・クラーク
  ■ シリコングラフィックス社設立
21. パソコンの文化21 (2007.04.28)(2007.12.02追記)
  21-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その7) - 日本語変換ソフトATOK以前
  ■ ワープロ(ワードプロセッサ)
  ■ FEPとIM、IME
  21-2. 日本語変換ソフトATOK
  ■ ジャストシステム
  ■ ジャストシステム アスキーへの問い合わせ
  ■ 一太郎の独立
  ■ ソフトバンクとジャストシステム
 
21. パソコンの文化22 (2007.04.28)
  22-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト
     (その8) - インターネット
参考文献
 
 
  お断り:
 本記事は、以下に示す参考文献を元に書き著しました。
随所に参考文献からの引用をしています。営利行為ではないので許される範囲と考えています。
この件お含みおきいただき、ご了承下さい。

 
はじめに (2000.4.16)
 自分は、パソコンオタッキーなのか?と時々自問することがあります。
パソコンオタクは、自分でマザーボードをいじったりCPUを入れ替えたりする人たちだと思っています。
私はどちらかというと文書に凝ったり、ホームページ開いたり、データ整理するのにコンピュータの活用を見い出している人間ですので、コンピュータを「文房具」という意識で見ています。
それでも、毎年2月に行われるマックワールドにはここ7年はかかさず参加していますので他の人に比べたらコンピュータに狂ってるかもしれません。なにせここ7年でコンピュータに投資したお金は300万円はくだらないんですから。
 今年(2000.02)もMac World Expo/Tokyo2000に参加しました。
マックの詳しい話はあまり興味が持たれないと思いますので、我々の世代のパソコン文化というものについて話してみたいと思います。
話の骨子は以下の通りです。
 
  ●パソコンは40代の米国オヤジたちが作り上げた文化
  ●コンピュータとパソコンは根本的に違う
  ●IBM - 巨大帝国
  ●マイクロソフトの急成長
  ●アップルのアップルらしさ
  ●日本のパソコン事情
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1. パソコンの文化1 (2000.04.16記)
 
1-1. パソコンは40代の米国オヤジたちが作り上げた文化
 
 パソコン(パーソナルコンピュータ)は、IBMに代表されるメインフレームと呼ばれるコンピュータとは、成り立ちも、考え方も、そしてそれを作り上げた人種も全く違うものです。IBMは、古き良きアメリカ東海岸の会社の文化を持った会社です。パソコンは、アメリカ西海岸のピッピー文化を色濃く投影しています。パソコンの開発は、なんでもすべてが新しいことの連続であったため、チャレンジ精神の旺盛な米国の風土、それも西海岸の文化に打ってつけでした。そして西海岸にはそれを育てるだけの土壌(知的階級、お金、電子産業)があったのです。
 
 - アメリカ - 
 アメリカという国は、フロンティア精神の上に成り立っています。
パーソナルコンピュータ産業は、それ自体がフロンティアです。
 
 - 日本 -
 日本企業は、再三再四、自動車、鉄鋼、家電分野で成功したのと同じやり方で、パーソナルコンピュータ産業を支配しようともくろんできました。しかし、ラップトップコンピュータ(東芝のDynaBook)の成功を除けば、今のところパーソナルコンピュータ分野ではあまり幸運に恵まれていません。韓国、台湾やシンガポールも同じようなものです。ですから日本は依然としてアメリカで設計され組み立てられるパーソナルコンピュータの安価で便利な部品の供給元という地位に甘んじています。パーソナルコンピュータ業界は変化し続けることが唯一の常態であり、若々しいエネルギーがその源となっています。
 大人になりすぎた日本人にこの変化は真似できないのです。日本人はあまりに事務的で、あまりに慎重で、あまりにノロマすぎます。彼らはすべてが道理にかなったレベルを見いだそうと(コンセンサスを得ようと)、ほとんど実りのない努力を続けています(ハンコ押しの社会)。しかしながら基本的に大人の指導とは無縁で育ってきた、知的なガキの集まりであるパソコン業界に初めからそんな秩序は存在しないのです。言い換えれば、日本はパソコンを主導する土壌がないのです。
 最近急成長を遂げているSonyのVAIOというコンピュータは、Windowsでは出色のできでブランド力をうまく使って小気味よいパッケージングで成功しています。これはアメリカでも通用するかも知れません。
 
 - ヨーロッパ - 
 彼らはコンピュータの外観を性能と同じように重要なものと見なし、スタイルに固執しています。その結果、外観は美しく値段が高いけれど性能の良くないハイテクおもちゃが登場します。
 ドイツなどでは、変化の激しいパソコンを主導していく風土は持ち合わせていません。フランスのように数学的素養にとんだ国は、ソフトウェアでは面白いものが出てくる可能性があります。しかし、いかんせん英語が障害になっています。
 論理的で物理現象を深く考察するイギリスは、英語という語学を有効利用してパソコン文化に入ろうとしています。しかし、自国に取り込んで花開かせるところまでは至っていません。
 
 パソコン文化を語る上で、どの人たちにスポットを当ててそれらの人物をあぶり出したらパソコンの文化がわかるのでしょう。
 以下に述べる人たちがパソコンを作り上げた人たちです。
このうちの何人の名前を知っていますか?
この人たちの体臭がパソコンの文化に大きな影響を与えたのは否定できない事実です。
私はこれから何回かに渡ってこれらの人々のいくつかのエピソードを取り上げて、パソコンがどのように発生して発展してきたかをみなさんと検証してみようと思っています。
 
  ■ ビル・ゲイツ(マイクロソフト社創始者)
  ■ スティーブ・ジョブズ(初のパソコン製作、アップル創始者)
  ■ ゲーリー・キルドール(最初のOS概念の体系者、CP/M開発)
  ■ ダン・ブリックリン(ビジカルク発明、Lotus、Excelに影響)
  ■ アラン・ケイ(マック、Windowsのファインダ概念、GUIの提唱者)
  ■ チャールズ・シモニー(ビル・ゲイツを技術的に支えた博士)
  ■ ボール・アレン(ビル・ゲイツの友人、ソフトウェアプログラマ)
  ■ スティーブ・ウォズニアク(ジョブズの友人、マイコン設計者)
  ■ スティーブ・バルマー(マイクロソフト、ビル・ゲイツの懐刀)
  ■ ドン・エストリッジ(元IBMパソコン事業部長)
  ■ ジョン・ワーノック(アドビ・システムズ創始者)
  ■ ポール・ブレイナード(アルダス社社長)
  ■ アンドリュー・グローブ(CPU製造業、インテル会長)
  ■ ジム・クラーク
  (シリコン・グラフィックス元社長、ネットスケープ社元社長)
  ■ マーク・アンドリーセン(ネットスケープ・ナビゲータ開発者)
  ■ 西和彦(元アスキー社長/マイクロソフト副社長)
  ■ ミッチー・ケーパ(Lotus社長)
  ■ ジェリー・ヤンとデービッド・フィロ(Yahooの創始者)
  ■ 浮川和宣(うきがわかずのり)(ジャストシステム社長)
  ■ Linus B. Torvalds(Linux開発者)
 
 上に述べた人たちは、近年インターネットを立ち上げた人たちを除いては、ほとんどが40才代(2000年時点)です。
 彼らの青春時代、彼らの前には巨大コンピュータビジネスとそして巨大帝国IBMが横たわっていました。彼らの誰もがIBMの巨大なる組織がグラリと揺らぐことなど夢にも思っていませんでした。
自分たちのやりたいことをやる、ホビーに徹する、それを仲間に見せて自慢する。
そんな若者(当時20才前後の若者、今は40才代の中年)達が、私がこれから述べていこうと思うパソコンの文化そのものなのです。
 ただ、ビル・ゲイツと日本人の西和彦だけは、20才の時から今のパソコンの市場を見据えていたと言います。
 彼らの意志と執念はスゴイものがあります。もっともそうした人たちは性格がすごいから敵も多かったのも事実です。
 
 パソコンの覇者となったビル・ゲイツについてその人となりを紹介しておきましょう。
 彼はとても有名になりましたから彼にまつわるいろいろなゴシップが飛び交います。20世紀で最も成功した人物だからし方ないことでしょう。ビル・ゲイツがパソコンをビジネスとして定着させた功績はとても大きなものです。
 パソコンがホビーとしての領域を出ていなかった時代に、すべての個人の机にコンピュータを置くという青写真を描きそれを成し遂げてしまった先見性とそれを実現させた意志と知力はすばらしいものです。この考えは自動車産業で成功したヘンリー・フォード以来の事だそうです。しかしビル・ゲイツの素顔は・・・、
これから紹介するエピソードは、彼がマイクロソフト社を立ち上げてWindows3.1を発売する1992年の頃のことで、かなり有名(お金持ち)になった頃の事です。
 
1-2. ビル・ゲイツ -人となり-:
 ある深夜のことだった。ウィリアム・H・ゲイツ三世(William Henry Gates III : 1955.Oct.)は、彼が住むシアトルのローレルハースト地区にある、終夜営業のコンビニエンス・ストアで買い物客の列に並んでいた。手にはバターピーカン・アイスクリームの箱を抱えている。列はゆっくり進み、やがてゲイツの番がやってきた。彼はカウンターにアイスクリームといくらかの小銭をおいて、ズボンのポケットを探りはじめた。
 「どこかに50セント割引のクーポンがあるはずなんだけど」と言って、今度はシャツのポケットを探っている。店員は待たされ、アイスクリームは溶けだした。ルートビアやビールのバックを抱えて後ろに並んでいる客たちは、ゲイツが見つかりもしないクーポンを探しているのに腹を立てている。
 「ほら、これ」と、すぐ後ろの客がゲイツに25セント硬貨を2枚差し出した。ゲイツはその金を受け取る。「100万ドル儲けたときに返してくれればいいさ」とセブンイレブンの慈善家は夜の闇に消えようとするゲイツに声をかけた。
 客たちはかぶりを振った。
あの男が30億の財産を持つかのビル・ゲイツであることをその場にいた誰もが知っていたのである。
 このゲイツとアイスクリームのエピソードには、何か真実が隠されているように思う。彼は金を受け取った。たかがアイスクリーム代50セントをポケットから出そうとしないなんて、いったいどういう人間だろう。
 金のない人間?
ゲイツは違う。
 飢えた人間?
彼はいまだかって飢えたことなどない。偏執性分裂病の人間のなかには、あの金を受け取る者がいるかもしれない。だが、ゲイツが精神病にかかったという話は聞いたこともない。子供だったら、やはり金を受け取るだろう。そう、たとえば頭はいいが、しつけの悪い9歳の子供なら。
 大当たり(ビンゴ)!
 彼は、いろんな意味で若い。悪い人間ではないが、さまざまな意味で、とりたてて良い人間というわけでもない。昔は、当然若かったが今では意図的に若い。かっては一代で築き上げた最年少の億万長者だったゲイツも36歳になり、いまでは一代で築き上げた億万長者のなかで最年少の人間としてふるまっている。
 
 一般に若い人は身近なものに関心があり、彼らの住む世界にはたいした奥行きがない。彼らの関心は、学校と大衆文化と異性に対する憧れで占領されている。サダム・フセインなどは社会科のテストに出題されない限り問題にならない。音楽は重要だ。服も重要だしダンスパーティも重要だ。ニキビはとてつもなく重要だ。
 
 ウィリアム・H・ゲイツ三世は悪い人間ではない。子供たちと同じように二次元的な人間なのである。女の子、車、そして技術の世界の緊張感に満ちた競争が彼の人生だ。社会的に立派な大人になること、彼はそんな一般的な通念はどこかに置き忘れてきてしまっている。
 若いビル・ゲイツは勝たなければならないと考えているから、異様なまでに競争心が強い。だから、彼にハンディをつけようと言えば必ず受けるだろう。有利に立たせてやろうと言えば、それを受け入れるに違いない。彼に50セント貸せば、その、なんというか・・・・。それはともかく、だからといって勝つためなら汚い手を使うと考えるのは間違っている。ゲイツは不名誉な勝利を嫌ったりはしない、ととるのが正しい。どんなものでも勝利は勝利である。
 
 ゲイツは、勝てないゲームはしない。ハーバード大学に入学したのもそうだった。彼はケンブリッジ大学で数学を専攻するつもりだったが、ケンブリッジには自分より数学の才能のある学生がいることを知ってやめたのである。故郷シアトルでも同じだ。彼の父はシアトルで弁護士として成功し、土地の名士であり、理想の父親像を演じ、市民としての責任を果たし、総じて大人である。
 「彼は人生の義務をいくつか怠っている。たとえば、父親になることだ」と、ゲイツの父は世代の闘いのコートでバックハンドのロブを返す。この人(親父)は死ぬまでこの闘いを続けるだろう。
 そこで若いゲイツは、とりあえず大人のコンテストには参加しないことにした。その代わり、父親が存在せず、父親にはまったく経験がないビジネスの世界で、自分のあらゆる優位性を活かすことにこれまでの人生を賭けてきたのだ。この世界なら、賭け率は息子のほうが高い。そして、ゲイツは彼によく似た仲間たちといっしょに、自分が父親の役を演じることができ、同時に大人になる必要がない環境を整えたのだった。
ビル・ゲイツにとって大人であり人生のライバルは弁護士であり名士でもある自分の父親だった。
 
 ビル・ゲイツは1968年に最初のプログラミングを体験した。シアトルのレイクサイド小学校の母親の会が、学校のために他社のコンピュータの利用時間を買ってくれたのである。その年の夏、12歳のビル・ゲイツは2歳年上の友人ポール・アレンと、時間割作成プログラムを書いて4200ドル稼いだ。このプログラムには、自分たちが一番かわいい女の子と同じ授業が受けられる隠れ機能まで仕組まれていたのだった。その後、二人はトラフォデータという会社を作り、ポーンビル電力局が子供とは知らずに発注した北西部送電線網のシミュレーションや、ペルビュー市の交通量記録システムなどを開発した。
 「ママ、これが前はどんなにうまく動いたか教えて上げてよ」。
トラフォデータを作ったばかりの頃、ビル少年はクライアントになりそうな相手に売り込みをしている最中にデモ・プログラムがクラッシュすると、母親に助けを求めてこんなふうに泣きついたものである。
 高校の最終学年で、ゲイツはフルタイムのプログラマとしてTRW社に雇われた。彼が上司を持ったのは、唯一この時期だけである。
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2. パソコンの文化2 (2000.04.16)
 
2-1. コンピュータ(メインフレーム)とパソコンは根本的に違う
 
2-1-a. アップル
 スティーブ・ウォズニアク(Steve Wozniak、1950.08.11〜)が最初のパソコンであるアップルコンピュータを設計したとき、この分野で新しい産業を生み出し、富を手にしようなどと大それた考えを持っていたわけではありませんでした。それどころか、コンピュータを売り出すことさえも考えていませんでした。ただ単に、シリコンバレーにあった「ホームブリュー・コンピュータクラブ」の仲間を感心させたかっただけだったのです。
 アップル I を製品にしようと考えたのは、ウォズニアクの友人、スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs, 1955.02.24〜2011.10.05 )のほうでした。彼もまた自分の存在を印象づけたいという自尊心は持ち合わせていましたが、ウォズニアクほど技術の才能を持ち合わせていなかったので、友人(ウォズ)の栄光(一人でパソコンを作り上げたという栄光)を分けてもらう代償として、フォルクスワーゲンのマイクロバスと自宅のガレージを提供しました。こうしてジョブズは(技術者というよりも広告宣伝塔として)現在知られているパーソナルコンピュータ産業(文化)を文字どおり創造したのです。
これがパソコンをビジネスとして立ち上げた歴史的な第一歩だったのです。
 こうしたパーソナルコンピュータ界のパイオニアたちは、それ以前には仕事の経験(見積もりとか製品の売り込み、マーケッティング、会社経営)などほとんどありませんでした。20才そこそこですから無理もない事です。ましてやビジネスに成功した経験など一度もありません。ウォズニアクはヒューレット・パッカードに勤める目立たない技術者でしたし、ジョブズはビデオゲーム会社(アタリ)でアルバイトをしていた程度のお兄ちゃんだったのです。
 
2-1-b.アップルII(Apple II)
 商業的にマイクロコンピュータが成功したのは、アップルIIです。
これが成功した理由は、アップルが消費者向けの電気製品に見えるマイクロコンピュータだったからです。
 ウォズニアクは、アップル II をシンプルなマシンにしました。巧妙なハードウェアのトリックを使って、安い値段で高い性能が得られるような構造にしたのです(ちなみにフル装備したアップルIIの値段は当時3,000ドル = 800,000円でした)。彼のトリックというのは、マイクロプロセッサとビデオディスプレイに同じメモリを共有させる方法であり、彼が初めて発見したものです。メモリは今でこそ安価なものですが、当時は恐ろしく高価な代物だったのです。ウォズニアクは、1977年12月に2週間ほどでフロッピーディスクにデータを書き込んだり読み出したりできるコントローラを完成させました。このコントローラは当時の他社のコントローラに比べると、集積回路の数が四分の一以下しかありませんでした。このフロッピーディスク・コントローラのおかげで、アップルIIはほぼ同時期に登場したコモドールやラジオシャックのマシンに比べて格段に優れていました。おそらく、ほかのどのマイクロコンピュータよりも優れていたでしょう。
 たった一人の人間が、そんなアップルIIを開発したのです。アップル II は、当時主流の位置にあったBASIC(Beginner's All purpose Symbolic Instruction Code)と呼ばれるプログラム言語をROM(Read On Memory)に常駐させていていつでも使える状態にありました。このアップル社オリジナルのBASICインタプリタでさえも、ウォズニアクが一人で開発したものだったのです。
 ウォズニアクがアップル II にカラーグラフィックス機能をつけたのは、自分にそれができることを証明するためであり、このマシンでカラー版の「ブロック崩し」をプレイするためだったのです。この「ブロック崩し」というのは、なんと彼とジョブズがアタリ社のために作ったビデオゲームだったのです。このゲームが動くハードウェアを小気味よいパッケージングで作ってしまったのがアップルIIだったのです。
 
2-2. ビジカルク(VISICALC)
 やがて、このマシン(アップル)は、開発者のだれ一人として予想もしなかったスプレッドシート専用機として成功することになります。
 アップル II は、最終的にビジネス分野に安住の場所を見いだしました。企業の中には会社のメインフレーム(大型コンピュータ)を利用できなかったり、コンピュータ部門に簡単な質問を依頼して社内データから答えを引き出して報告書を仕上げるまで6週間も待たなくてはならないことにうんざりしていた中間管理職が大勢いました。そんな中間管理職の要望に、アップル II は応えたのです。そして彼ら(中間管理職のビジネスマン)は、アップル II でしか使えなかった「ビジカルク」というスプレッドシートプログラムの使い方をあっという間に習得したのです。
「ビジカルク」(VISICALC)というのは、今で言うExcel(エクセル)みたいなものです。
Visi = 見る、Calc = 計算、という造語で、見やすい計算ソフトという意味でしょうか。
このソフト(表計算ソフト、スプレッドシートとも言う)のアイデアは、1979年当時ハーバード大学ビジネススクールに在学中のダニエル・ブリックリン(Dan Bricklin: 1951.07.16〜)という人が発案してこれをアップルに移植したのです。完成は1979年10月。このソフトウェアはマウスで動きました。ビジカルクは99$(24000円相当)で発売され、年間に100,000本が売れました。
 
  ▲マウスの産みの親:
ダグラス・C・エンゲルバート = マッキントッシュ発想の親。
1945年20才で海軍レーダ技師だったダグラス・C・エンゲルバート(Douglas Engelbart:1925.01.30〜)は、5年後にNASA風洞実験に従事した後、西海岸スタンフォード研究センター(SRI)に職を得、この時代にマッキントッシュの原型であるウィンドウシステムを考案し、同時にマウスを発明した。
エンゲルバートのグループが最終的にマウスに決めるまでには、ありとあらゆる種類のものが試された。
ジョイスティック、トラックボール、ライトペン、等。結局、他のものと比較してマウスが優れていることがわかった。
このプロジェクトは、政府の資金援助(ARPA=国防省先端技術研究計画局)を得ていたが、これも長く続かずSRIもこの性能の将来性を見抜けずお蔵入りとなった。
70年初め、エンゲルバートチームの主要メンバーの一部は、ゼロックスの研究所に去っていった。
彼は、歴史的な発明をしたにもかかわらずアップル社とは親密ではなく、大金持ちになったわけでもない。
 
 
 IBMは、ビジカルクを見てパソコンを開発する決定をしたと言います。これが『Lotus1-2-3』というソフトに化粧直しされ、IBMが世に出したMS-DOSで動くマシン、IBM PCの強力なソフトウェアとなります。『Lotus1-2-3』は、1982.11月発売と同時に300万ドル(7億2000万円)の注文を受け、2,000万本を出荷しました。アップルのビジカルクとは桁違いの売り上げです。IBMはこれでビジカルクを圧倒しました。
Lotus1-2-3が出る以前は、マイクロソフト社が『Multiplan』(マルチプラン)という同種のソフトを出していました。Lotus1-2-3の成功を見てより強力なスプレッドシートの開発に迫られたマイクロソフト社は、アップルのGUI(Graphic User Interface = アップルが市販化しWindowsで業界標準になった画面の表示方式)環境で動くスプレッドシートを作るべく、 Macintosh 用に『Excel』(エクセル)を開発します。
GUI環境で動くパソコンは、当時マッキントッシュしかなかったので当然といえば当然です。
 マイクロソフト社は、エクセルの開発で来るべきWindowsのOS開発の勉強をしたと言います。
Excelは、ver.2.2まではマック版しか販売をしていませんでした。アップル社がマイクロソフト社に契約を取り付けて、彼らがすでに開発して販売していていたWindowsに1986年10月1日まで搭載できないようにしていたのです。このソフトは、Lotus1-2-3やMultiplanに比べ、次元が違うといってもいいほどの機能と操作性を持っていました。1997年当時まで表計算ソフトの中では、マッキントッシュ上で走るExcelは一人勝ちの状態でした。有力な対抗馬であったLotus1-2-3も93年にマック版を登場させたものの、わずか一年で撤退してしまいました。
 マイクロソフト社は、Windowsの発売とともに(正確にはWindows用エクセルの発売を抑止されていたアップル社との契約が切れる翌年1987年10月に)、『Excel』と『WORD』をWindows OS推進の戦略物資として全面に押し出し、Windows分野で先行していた同種類のアプリケーションソフトウェア『Lotus1-2-3』を駆逐していきます。
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3. パソコンの文化3 (2000.04.30)
 
3-1. パソコン以外のコンピュータ
 我々の意識としては、コンピュータと言えばWindowsやMacなどのパソコンを思い浮かべがちです。しかし、本来コンピュータと言えば、IBMに代表されるような大型コンピュータ(メインフレーム)を指すのが普通でした。これらのコンピュータは、銀行などのオンライン処理をはじめ、JRなどの予約券発行や電車の運行ダイヤ管理、製鉄所の製造プロセス管理、自動車製造オンライン処理、大学模擬入試の統計処理など大がかりな運用に使われていました。そうしたコンピュータは大きく、書類をしまうキャビネットのような構造でちょっとした規模のオフィスの1フロアを占領するぐらいの設置スペースを必要とし、装置を安定して動作させるために年中摂氏25度程度に管理して運用されるのが普通でした。初期投資も運用費用(人、スペース、電気代)もとてつもないお金がかかったのです。
 
3-2. 大型コンピュータ
 大型コンピュータの不動の位置を築いたのが米国IBM社です。
1964年、同社がIBM360シリーズを発売したのに始まります。
IBMは、International Business Machine Corporation の略で、1924年に設立されました。
IBMが発売した『IBM360』が当時のコンピュータ業界の中心になりました。
 このコンピュータに採用されたのが、「MVS」(Multiple Virtual Storage)と呼ばれるOSです。OSというのは今や周知の単語でコンピュータの根本をなす管理プログラム(Operating System)です。1964年には、もうこうした概念が確立していたことになります。
ちなみにパソコンの初期の頃のOSは、単なるデータの記録を管理するだけの機能をもったもので、フロッピーデスクの読み書きだけを担当するというシンプルなものでした。当時、OSをDOSと呼んでいた時代があったのですが、DOSという言葉がDisk Operating System = ディスクを管理するソフト、から来ていることを理解すれば、初期のOSがどのようなものであったか理解できると思います。
IBMが採用した「MVS」と呼ばれるOSの大きな特徴は、小型機種から大型機種まですべてのコンピュータを使っても同じアプリケーションソフトが使用できたことです。
MVSの採用により、以下の三つの資産が護られることになりました。
  1. ソフトウェア資産の保護(全てのコンピュータに同じソフトが使える)
  2. 操作性の継承(全てのコンピュータが同じに扱える)
  3. データの活用(コンピュータ同士でデータが使える)
これによりIBMは、世界の汎用コンピュータ市場の6割をおさえたのです。
IBM360のOS「MVS」は大型汎用コンピュータでは実質的な標準とりました。
 
3-3. コンピュータの黎明
 コンピュータそのものは、1946年に産声を上げます。第二次世界大戦が終わった直後です。この年はIBMが設立された20年後でもあります。ということは、IBMと言うのはそもそもコンピュータを作っていなかったことになります。
最初のコンピュータは、ENIAC (エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer)と呼ばれました。このコンピュータの産みの親は、米国ペンシルバニア大学のJ.モークリィ(John William Mauchly、1907.8.30〜1980.1.8)と、J.エッカード(John Presper Eckert、1919.4.9〜1995.6.3)で、彼らによって最初の実用コンピュータが完成したのです。
このコンピュータには、スイッチング素子(メモリ)に真空管18,000本が使われ、重量も30トンという途方もないものだったそうです。今から思えばまさに巨大な恐竜でした。
 
 真空管1本の電気が5W程度と仮定すると、このコンピュータは、90KWの電気を消費します。100V電源で900Aの電流が流れる計算です。家庭用の電源が15A程度ですから、60家庭分、マンションの60家庭程度の電気をまかなう電気量であることがわかります。
 自動車安全実験で点灯するハロゲン電球の消費電力は、1500Wx132灯 = 198KWですからこれの半分くらいの消費電力をこのコンピュータはずっと消費(発熱)してることになります。
これは、相当な熱をまわりにまき散らす副産物を生み出しました。
 
 ENIACは、米国陸軍が爆撃機を迎撃するために必要な弾道計算をする事を目的に開発されたそうです。開発費は、486,000ドル(1億7500万円、現在のお金で30億円程度になるでしょうか)がかかりました。ENIACは、膨大な真空管を使ったため、その熱と光に蛾(が)が集まりました。これがENIACの中を飛び回り回路をショートさせたそうです。これ以来、コンピュータのプログラムの誤りを除くことを「デバッグ(虫取り)」と言うようになったと言われています。
 
ENIAC = Electronic Numerical Integrator and Calculator】(2000.05.19)
 戦争が激しくなるなかで、新しい兵器の開発が進むと、第一線への配備を前に、性能の評価と確認、操典(陸軍で、戦闘の原則・法則などを規定した教則)の準備などの作業がいる。
 大砲やロケットの場合、特に重要なのが、新しい兵器が開発されるたびに重力や大気の変化、砲や砲弾の大きさや材質などが弾道にどのような影響を及ぼすか、より正確な数字をはじき出して、砲の命中率を上げるための弾道計算表をつくることである。
 ところがこの弾道計算表には気が遠くなるほど時間がかかった。当時としては最新の機械式計算機を使っても、計算表一つ作成するのに30日かかったほどだが、これでも卓上の計算機を使って人手で処理する1/50の日数だったという。兵器の量産や前線への配備を急がなければならない軍部にとって、この計算時間を短縮することが急務だったのである。
 陸軍兵器局がそんな悩みを持ち込んだ先が、かねてから協力関係にあったペンシルバニア大学ムーア工科大学院のモークリー博士である。
モークリー博士は研究室の若手技術者エッカート博士とともにこの問題に取り組み、機械式に代わって真空管を使った電子式の計算機以外に解決の途はないという考え方に到達した。そして、1942年8月、二人は詳細な設計仕様書を添えた計画書を提出。翌年、陸軍当局から40万ドルの補助金を得て製作に入った。
 三年間にわたる不眠不休の努力の結果、1945年12月に電子式数値積分計算機(Electronic Numerical Integrator and Calculator)、略称ENIAC(エニアック)が完成し、陸軍兵器局に引き渡されたときには開発の目的だった第二次世界大戦が終わった半年後であった。
 真空管18,000本、抵抗部品70,000個、コンデンサー10,000個、各種スイッチ6,000個、迷路のような配線500,000本、総重量30トンの代物は、120KWの電力をくい、真空管の出す熱は24馬力の冷却装置で冷やしてもコンピュータルームの温度を50℃近くまで引き上げたという。エニアックの電源を入れると、フィラデルフィア中の電灯が、一瞬暗くなったというまことしやかな伝説も残っているほどである。
 しかし計算は速かった。人間が機械式計算機を使って手動で行っていた計算で20時間はかかっていた弾道計算が30秒ほどでできるようになった。1946年にはじめて記者団に公開されたとき、エニアックは97,367の5桁の数字を五乗する計算を、わずか0.5秒でやってのけて居並ぶ記者たちを驚かせたという。
- 「日本の条件12 技術大国の素顔(1)〜強いのかメード・イン・ジャパン」 日本放送出版界、昭和58年10月10日 第1刷
 
3-4. コンピュータの系譜
 コンピュータの性能別のジャンルとそのコンピュータが開発された年、そしてその商品を見てみましょう。
 
コンピュータのカテゴリー別歴史の始まりと商品(開発会社):
 
   汎用コンピュータ: 1951年 UNIVAC-1(レミントンランド)
   ミニコンピュータ: 1959年 PDP-1(DEC=ディジタルイクイップメント)
   スーパーコンピュータ: 1963年 CDC6600(コントロールデータ)
   フォールト・トレラント・コンピュータ: 1976年 ノンストップ
                        (タンデムコンピューターズ)
   パーソナルコンピュータ: 1977年 アップル II (アップルコンピュータ)
   ワークステーション: 1980年 アポロ100(アポロコンピュータ)
 
ちょっと興味あることに気づきませんか?
このリストからわかるようにコンピュータ業界の巨人であるIBMは、いずれのカテゴリーの創始者でもないのです。
 パソコンが出てくるまでの大型コンピュータの歴史を少しひもといて見ましょう。
ここでは、これらのコンピュータの説明をするのが本来の目的ではないので、これは箇条書きとします
 
・1951年 UNIVAC-1 (ユニバック)
   最初の商用コンピュータ。米国レミントンランド社(現ユニシス社)
   の開発した真空管方式(第一世代)
   ペンシルバニア大学を辞めたJ.モークリィとJ.エッカードが事務機メーカ
   のレミントンランド社(ピストル、タイプライターで有名な会社)の資金
   で開発。
・1953年 第二世代 - トランジスタを使用したコンピュータ IBM/1401
   レミントンランド社に対抗して科学計算用として開発。
   レンタル業務からスタート。
・1954年 IBM パンチカードシステムを開発。
   プログラム開発が楽に。
   コアメモリ採用のIBM650で大成功
・1956年3月 日本では、富士写真フィルムが最初のコンピュータ開発
   岡崎文次氏1700本の真空管を用いた日本初のコンピュータ「FUJIC」
   を開発。レンズ設計に用いた。
・1956年 日本で第二世代のトランジスタコンピュータ
   通産省工業技術院電気試験所(現 電子技術総合研究所)で開発。
   130ヶのトランジスタを用い、ELT MARK-IIIと呼ばれた。
   1957年には、MARK-IVを完成、NEC、日立、北辰電機、松下通信工業が市販化
・1958年8月 スペリーランド(レミントンランド社とスペリー社の合併会社)
   UNIVAC Solid State 80 を開発、IBM650に対抗したが、1960年発売の
   IBM/7070(大型)、1401(中型)、1620(学術用)に奪い返された。
・1964年 第三世代 - ICを使用したコンピュータ IBM/360。
   このコンピュータが業界標準となる。
   1960年テキサスインスツルメンツ社のキルビーのアイデアに基づい
   たIC(集積回路)が製品化された。
   このICをもとに開発費、製造準備費、レンタル資金、販売費など合わせ
   50億ドルを投じた社運をかけたビッグプロジェクトを展開。
   雇用65,000人、5工場を新設した。
 
 前にも述べましたが、1964年に開発された『IBM360』が大型コンピュータの金字塔となって、コンピュータと言えば「IBM」、という名をほしいままにするようになります。
『IBM360』の画期的な点を以下に挙げます。
 
   1. 論理素子にハイブリッドIC(モノリシックICは370以降)を使用
   2. コンピュータ事業に「単一製品ライン」の概念を導入。
     大型、中・小クラスの統一
   3. モデル間のハードウェアの統一
   4. OSの概念を導入
 
 IBMは、IBM360マシンの成功のおかげでコンピュータシェアが1970年で70%に達し、後の残りをスペリーランド、バローズ、RCA、GE、ハネウェル、NCR、CDCを分け合うというガリバー型ビジネスを形成することになります。
 
 日本では、通産省の技術面、資金面での国産コンピュータメーカ育成策によって国産メーカが独自にIBMに対抗できるコンピュータを開発します。1965年はNECがNEAC-2200を開発し、日立はRCA(スペクトラ70)の供与を受けてHITAC8000を発売し、1968年には富士通が独自技術でFACOM230-60を発表して、IBMの100%シェアを阻止しました。
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4. パソコンの文化4 (2000.05.07)
 
4-1. ミニコンピュータ - DEC
 我々の大学時代(1970年代)はコンピュータといえばIBMだったことは前に述べました。国産の日立、富士通はIBM互換マシンを作って日本の国策上(産業の育成上)、国の研究機関や大学の計算機センターに納入していました。
 その下にはワークステーション(ミッドレンジ)と呼ばれているミニコンピュータがありました。こうしたミニコンピュータのメーカとしては、Apollo(アポロ)があり、DEC(デック)がありSUN(サン)がありました。それに米国東部ではDG(Data General)社という会社もありました。
 
■ 米国東部 MITが母胎のDEC
 DEC(Digital Equipment Corporation)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)が母胎となって作られました。DECは、1957年、
 「コンピュータはタイプライターのように実用的で身近な道具でなければならない」
と主張するケネス(ケン)・ハリー・オールセン(Kenneth Harry Olsen:1926.02.20〜2011.02.06)によって、ボストン郊外のメイナードに設立されました。DECのコンピュータは、リアルタイム対話型コンピュータを主題にしてみんなでコンピュータが使えるタイムシェアリングという性能を備えていました。最初のコンピュータ「PDP-1」は、インターネットの走りであるARPA(米国政府)の軍需プロジェクト(ネットワーク構築)に使用されます。
 DECでは次々と小型コンピュータを開発し、1965年には後に一万ドルコンピュータと言われるようになるPDP-8を発表しました。その後1970年に不朽の名作、PDP-11シリーズを発表します。さらに1977年にはVAX11/780という新しいシリーズを発表しました。
 PDP-8、PDP-11は当時の科学者にとって垂涎(すいぜん)の的でした。マイクロソフトの創業者の一人ポール・アレン(とビル・ゲイツ)がマイクロコンピュータのためのBASICを書き直した時に使ったのが、ハーバード大学計算機センターにあったDEC社のPDP-10でしたし、MS-DOSの源流をなすパソコンのOS 「CP/M」もゲーリー・キルドールがPDP-10を使ってコーディング(プログラム)しました。
 シリコングラフィクスを設立し、そしてインターネットの火付け役となったNetscape社を設立したジム・クラークがユタ大学で3次元の画像処理の研究に使用したのもPDP-10でした。
 WindowsNT、MacOS X、Linuxの原点であるUNIXというOSの開発にもDEC社のPDP-11が使われたのです。UNIXは、1968年にAT&T(アメリカ電話電信会社)のベル研究所のケン・トンプソン(Kenneth Lane Thompson: 1943.02.04 -) とデニス・リッチ(Dennis MacAlistair Ritchie: 1941.09.09 - 2011.10.12)という二人の科学者によってPDP-11とC言語を使って開発されたものです。
 
パソコンを作り上げたのは、DEC社のPDPコンピュータと言っても過言ではないような気がします。
 どうしてPDPコンピュータが使われたかというと、DEC社のミニコンピュータが学術計算機用に秀でた性能を持っていたことと、タイムシェアリングと言って、一つのマシンを多数の人があたかも占有しているように使える機能が充実していたため若いエンジニアが比較的自由に利用できたのです。パソコンを作り上げた人たちはDECのミニコンピュータ上にパソコンのマイクロコンピュータを作り上げて、その仮想チップ(マイクロコンピュータ)に対して動作するOSやBASICを作り上げ、DEC上にある仮想チップ(マクロコンピュータ)で動作確認(エミュレーション)したのです。
 
■ DECが科学技術用計算機に重用されたわけ
 これらDECのコンピュータは、すべて「VMS」(Virtual Memory System、IBMのMVSではなく、VMSです)と呼ばれるOSで統一されていて、資産(ソフトやデータ)が保護されていたので移植性の良いものになっていました。DECは、最終的にVAXシリーズの成功で世界第二位のコンピュータメーカに成長しました。もちろん一位はIBMです。学術計算が多い企業や研究所では、DECワークステーションは垂涎(すいぜん)のシロモノだったのです。DECワークステーションは、良い製品で高性能だったのですが高価でした。3次元画像処理ソフトのVICON(英国Oxford Metrics社製品)などもWindowsマシンが高性能になる1998年くらいまではDECのVAXというコンピュータに接続して使っていました。
 現在のDECは、Windowsパソコンの性能が飛躍的に伸びWindowsという操作環境も普及してしまったので売り上げも減少してきて、コンパックというパソコン会社に1998年6月に買収されました。(そのコンパックも2001年9月米国ヒューレット・パッカード社に買収されてしまいます。)
 
4-2. サン - SUN
 SUN(サン)(Sun Microsystems)と呼ばれるミニコンピュータは、1982年2月、スタンフォード大学の卒業生によって創立されたワークステーション会社の製品です。DECよりも25年も後に設立されました。Stanford University Network Workstationの名前にちなんでSUNと名付けられました。 創立者は、スコット・マクネリ(Scott McNealy)、ヴィノッド・コスラ(Vinod Khosla)で彼らが27才の時です。これに技術面のアンディ・ベクトルシャム(Andy Bechtolsheim)と彼の友人ビル・ジョイ(Bill Joy)の4名で始められました。
 
■ 米国西部 スタンフォード大学が母胎のSUN
 東(マサチューセッツ工科大学)のDEC、
 西(スタンフォード大学)のSUN、というところでしょうか。
 マクネリの父は、アメリカン・モータース(かっての米国4大自動車メーカの一つで、現在はクライスラーの子会社)の副会長を務めたことがあり、マクネリ自身サンを設立する前は製造専門技師として自動車業界で働いていました。一方、インド系移民であるコスラは、シリコンバレーのベンチャー・キャピタリストでした。
 サン・ワークステーションは、科学技術向けの安価なワークステーションを作るのが目的だったので、初号機のSUN-1は、モトローラの68000とビル・ジョイが開発したバークレー版UNIXが採用されることになりました。しかし、従来のCISC(Complex instruction set computer、複合命令セット・コンピュータ)では、科学技術系のユーザが求めるグラフィックスや数値計算中心のアプリケーションに必要なスピードやパワーを確保することができませんでした。
 
■ UNIXで台頭
 マクネリとコスラの事業計画は、オーストリア人でスタンフォード大学の大学院生、アンディ・ベクトルシャムが考案した設計図に基づいて、安価なワークステーションを製造し、ネットワークコンピュータとして他の大学や研究所に販売するというものでした。
 OSはもちろん、UNIX(ユニックス)。
このOSは、WindowsNT、Windows2000、Mac OS X、Linuxで有名になっているネットワーク指向のOSの本山ともいうべきものです。ライバルのDECが自分のOS 「VMS」に固執していたとき、SUNはユーザーの希望するUNIXという新しいOSをひっさげてネットワークの分野を駆逐していきます。このUNIX(ユニックス)は、後にSolaris(ソラリス)というソフトに統合されていきます。
 SUNワークステーション開発の発端は、コンピュータ事業に大々的に参入しようと言う気持ちで作られたものではありませんでした。彼らはそんな気持ちは全くもっていなかったのです。つまり、米国政府(DARPA)が軍需上推し進めているコンピュータによるネットワーク環境の整備に応えるために、そして、それに技術的な性能を確かめるために出来上がったものです。
ですから、ベクトルシャイムが考えた青写真を実際に作ってくれるコンピュータ会社を探すことから彼らの仕事はスタートしました。最初に3コム(スリー・コム、ネットワーク関連の製品開発で有名な会社)のボブ・メトカーフにSUNワークステーションの製造を持ちかけましたが、断られてしまいました。
 ベクトルシャイムは、IBMにまで話を持ちかけました。
ビックブルーはフォーマルなことを好む会社だ、と友人から言われた彼は、大学の演劇学科からタキシードを借り、それを着てIBMでのプレゼンテーションを行うことにしたそうです。タキシードを着てIBMに現れた彼は、タキシードと絶妙にバランスのとれた白いテニスシューズ(!!!)を履いていました。理由は何故かわからないのですが、IBMにもSUNワークステーションの製造を断られてしまいました。
 結局、どこの会社もSUNワークステーションの製造に関心を示してくれなかったのでベクトルシャイムは、自分でサン・マイクロシステムズという会社を始めることにしたのです。ビノド・コスラとスコット・マクニーリという二人のスタンフォード大学院生と、バークレーから来たビル・ジョイの三人が、彼のパートナーになってくれました。そして、スタンフォードの三人がハードウェア設計とビジネスプランの作成を担当し、ジョイが、ソフトウェアを担当することになりました。彼は、UNIXオペレーティングシステムのバークレー・バージョンで重要な役割を果たした経験があり、SUNの発展に重要な役割を果たすことになります。
 SUNには独自の技術を作り出す余裕はありませんでしたから、新しい技術はいっさい開発しないことにしました。もしSUNワークステーションが独創的なコンピュータだったとしたら、スタンフォード大学は設立したばかりのこの会社にロイヤリティーを要求していたでしょう。しかし、このワークステーションは、それ自体がそれほど画期的なものではありませんでした。
ネットワークにはボブ・メトカーフが開発したイーサネットを採用しましたし、外部記憶装置にはスモール・コンピュータ・システムズ・インターフェース社(SCSI)の仕様に準拠した市販品を使っていました。また、ソフトウェアはビル・ジョイが作ったバークレー版UNIXを採用しました。バークレー版UNIXがDECのミニコンピュータVAXでうまく動いていましたから、ベクトルシャイムと彼の友人達は単にVAXをもっと安いハードウェアに交換したかっただけだったのです。
言語からオペレーティングシステム、ネットワーク、そしてウィンドウ・システムまで、すべてがあり合わせの規格品ばかりだったのです。
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5. パソコンの文化5 (2000.05.24)
 
5-1. RISC コンピュータ
 1983年、SUNマイクロシステムズのビル・ジョイとベクトルシャイムは、自分たちのワークステーションを開発するに当たり、RISCと呼ばれる新しい技術をマイクロプロセッサに応用できないかと模索し始め、1985年には、RISCチップの実質的な設計を完成させました。
 この図面をインテル、モトローラに持ち寄って、製造してくれと頼んだのですが一顧だにしてもらえませんでした。彼らは、当時自社のCISCチップ(インテル8088、モトローラ6800の16ビットCPU)による市場シェアをいかに維持していくかという事に頭がいっぱいだったので、RISCの出現を逆に脅威と受けとめました。
 実現が暗礁に乗り上げたとき、ほんの気まぐれにジョイは、マイクロプロセッサ市場への進出が阻まれている日本の大手のチップメーカにコンタクトしてみることを提案したのです。
 彼らからのプレゼンテーションを受けた富士通は、即座にゲートアレイタイプのRISCチップと一連のサポートチップの開発作業に取りかかりました。
 次に、サンは市場競争力の高いチップを安定して供給するために、規模は小さいながら技術力のある米国のチップメーカー2社との間で製造ライセンス契約を交わしました。バイポーラ・インテグレーテッド・テクノロジーズ社と、サイプレス・セミコンダクタ社の2社でした。この2社は、富士通とは異なるタイプのRISCチップを生産することになりました。バイポーラ社は、高性能チップ市場にターゲットを絞り、ガリウムひ素チップ上でSPARCをインプリメントする方法をとり、サイプレス社はCMOSタイプのSPARCチップを開発することになりました。
 その後、SUNはLSIロジック社と契約を結び、さらに1988年には、ダラスの大手チップメーカ、テキサス・インスツルメンツ社とも契約しました。
 チップの供給元を確保したサンの次の狙いは、
  「SPARCチップの高速性を十二分に発揮できる最適化されたUNIXが手に入る!」
ということを、SPARCチップについて検討しているユーザやコンピュータメーカにアピールする事でした。
 
■ ビル・ジョイ(Bill Joy)
 ここでUNIXの天才児ビル・ジョイ(William Nelson Joy:1954.11.4〜)が活躍する場が与えられます。
 SUNという会社を設立して数週間たったころ、マクネリとスコラはコンピュータのパワーを引き出すためベクトルシャイムの紹介でビル・ジョイというコンピュータの天才児がSUNに合流します。ジョイは当時、カルフォルニアバークレー校の大学院生で、AT&Tが開発した『UNIX』[MULTICS("MULTiplexed Information and Computing System"の略)]と呼ばれるOSをもとに科学技術アプリケーション向けに改造したバークレー版UNIXの開発に取り組んでいました。ジョイはSUNに合流して、さまざまなUNIXマシンで使える新しいオープン・アーキテクチュアを作り上げるという立場に立ち、サンのSPARC戦略の責任者になっていきました 。
UNIXというOSをひっさげて、学術分野に確固たる地位を築いたというのがSUNコンピュータなのです。
 
5-2. RISC チップ
 1985年までに、SUNは「エンジニアリング・ワークステーション」という新しいコンピュータのカテゴリーを確立しました。そしてライバル企業もこれに着目し、サンに追いつこうとエンジニアリング・ワークステーション市場に参入し始めました。受けて立つSUNは、「この業界で有利な立場を維持する最善の方法は製品の性能を着実に上げていくことであり、それはRISCプロセッサによって可能になるはずだ」、と考えていました。
 ただし1985年には、まだRISCプロセッサは発売されていませんでした。
 RISCはIBMの古いアイデアで、Reduced Instruction Set Computing(縮小命令セットコンピューティング)を略したものです。この内部構造はシンプルで、ごくわずかな命令で動作するようになっています。そのおかげで、RISCプロセッサは超高速処理が可能となります。これに対して従来のプロセッサをCISC(Complex Instruction Set Computing / 拡張命令セットコンピューティング)と呼んでいますが、CISCチップの場合には「部屋を横切れ、ただし、犬は踏まないこと」といった特定の動作を表すのに特別な命令を用意しなければなりません。ところが、これがRISCだと、たとえば「歩け、歩け、またげ、歩け、歩け」のように単純な命令をいくつか使うだけですみますからより高速に処理できるのです。
 RISCプロセッサはCISCに比べてより小型化でき、シリコン(回路基板)にも納めやすい構造でしたのでより安い値段で作ることができます。そのうえトランジスタの数も少なくてすみますから、歩留まりも良くなります(通常は10万個以下です)。処理速度と密接な関係があるクロックスピードも、簡単に速くすることができます。しかもRISCの設計は、もっと高速な半導体技術へと転換するのに比較的簡単に行えるのです。そしてRISCの場合には、ハードウェアもソフトウェアも単純な設計にしなければなりません。言い換えれば「バカ」ということなのですが、そのおかげでより頑丈な製品を作りやすいという面もでてきます。
 
■SPARC プロセッサ
 サンの努力にもかかわらず、インテルもモトローラもRISCには関心を持ってくれませんでした。どちらの会社も、利益の大きいCISCの商売を危険にさらしたくなかったのです。これは先にも述べました。
 そこで1985年、ビル・ジョイとデイブ・パターソンは、自力で「SPARC」(スパーク)[ Scalable Processor ARChitecture ]というRISCプロセッサを設計することにしました。その頃になると、インテルもモトローラも他社にプロセッサをライセンス供与することをやめ、自社製品だけで高い収益を上げるようになっていました。言うまでもなく、古くからのセカンドソース・メーカーはインテルやモトローラのやり方に激怒していました。そこでサンはそうした会社と契約を結んで、SPARCを製造してもらうことにしたのです。
 サンはサン自体がSPARCの設計者でしたから、当然、他社より安くSPARCチップを買うことができました。またサンのエンジニアは、SPARCの高速版がいつ発売されるかも知っていました。こうした決定的な事実を知っていたおかげで、サンはエンジニアリング・ワークステーション市場を独占するだけでなく、新参者でありながらかってはIBMとDECが支配していた市場へも参入することができたのです。
 
■サンのSPARC戦略
 サンは、こうしてサンと競争しているハードウェア会社及びソフトウェア会社を震え上がらせました。サンは事実上無料で、自社のシステムソフトウェアを公開しました。それが、同様のソフトウェアを販売しているマイクロソフト社やアドビ社といった会社を脅えさせたのです。業界はハチの巣をつついたような騒ぎになってコンソーシアムを結成し、サンより優れた標準を設定し、それをもとにしてソフトウェアを作ることに決めました。ただし彼らはそれを無料配布するつもりはなく、販売しようとしました。
 サンはライバルの動きに対して毅然とした態度を取ります。サンの言葉を借りると「『壁に向かってボールを投げつける』ような強気の態度で臨めば、単にライバル会社よりも早く、より新しくより強力なSPARCシステムを市場に投入でき、高い収益を保って有利な立場を維持できるはずだ。」としていたようです。サンはそう信じて、他社がサンのハードウェア・アーキテクチャを使ってクローンを作ることを本気で奨励しました。そういう今までにないやり方が、DECやIBMといった既にゆるぎない地位を確立している競合ハードウェアメーカーをも震え上がらせることになるのです。
 ワークステーション市場で風下に回されたライバルDEC社は、MIPSコンピュータ・システムズ社のRISCプロセッサを使ってサンに対抗しようとしました。けれどサンに拮抗するまでの成功はしていません。またヒューレット・パッカード社は、サンを打ち破ることができないなら仲間になろうと考えました。そして、実際にサンと提携してソフトウェアの開発を進めました。一方、IBMは独自のRISCプロセッサを開発して、サンに対抗しようとしました。しかし、ビッグブルー(IBM)は、RS/6000プロセッサの開発に、サンの買収に必要な金額よりもはるかに多くの資金を投入することになってしまいました。このRS/6000もまた、失敗したも同然でした。
 
■RISCチップの開発会社
 ここで、RISCチップを紹介しておきましょう。
RISCチップは、最近(2000年春)、ソニーが開発したプレーステーション2にも採用されています。
母胎はMIPS(Microprocessor without Interlocked Pipeline Stages)というチップで、その技術を東芝が持っていてPS2に反映したというものです。
この他に、RISCチップを製造している会社を以下に示します。
 
 ★ 開発会社:サン・マイクロシステムズ
   商品名:SPARC
   主な採用会社:サン・マイクロシステムズ、
   テキサス・インスツルメンツ、
   富士通、東芝、松下、シャープ
 ★ 開発会社:ヒューレット・パッカード
   商品名:PA-RISC
   主な採用会社:ヒューレット・パッカード、
   日立製作所、沖電気工業
 ★ 開発会社:MIPSテクノロジーズ
   商品名:MIPS
   主な採用会社:シリコン・グラフィックス、
   シーメンス、オリベッティ、日本電気、東芝、ソニー
 ★ 開発会社:IBM、モトローラ、アップル
   商品名:パワーPC
   主な採用会社:IBM、モトローラ、アップル、ブル
 ★ 開発会社:DEC
   商品名:アルファ
   主な採用会社:DEC、クレイ・リサーチ、三菱電機(製造)
 
 
5-3. MIPSテクノロジー社
 RISCチップをもっとも多く手がけた会社がMIPSテクノロジーという会社で、ワークステーション全盛時のころはRISCタイプのCPUの65%シェアを押さえていました。この会社は、カリフォルニア州サニーベイルが本拠地です。
 しかし、パソコンの台頭とともに会社経営も安定せず絶えず不安定な立場にありました。特に、1987年は、瀕死の状態にありました。資金は底をつき、業績は最悪、だれが見ても立ち直る見込みは少なかったのです。そんなとき、ロバート・ミラーは、MIPS社の技術を高く評価して、将来を確信し、社長兼CEOとして同社を見事に立て直しました。
 MIPS社はこれまで大手企業2社から資金援助を受けています。ひとつは日本の久保田鉄工(子会社クボタ・コンピュータは日本市場でのシステム販売代理店)で、1987年に2500万ドルの投資をして20%の株式を取得しています。タイタンの名前で日本でもかなりの量のワークステーションを売りましたがWindowsの性能の攻勢に業績が悪化し、クボタはワークステーション事業から撤退します。
 もう一社が世界第二位のコンピュータ会社DECで、1988年に1000万ドルの投資を行いました。これまでMIPS社のRISCチップは、米国の中小半導体メーカ二社によって製造されていましたが、現在ではこれらに加え日本電気、ジーメンス、LSIロジック(米国)とも製造契約を結び、高品質なMIPSチップ(Microprocessor without Interlocked Pipeline Stages Chip)の安定供給をしています。
また、MIPS社は、DECや、ソニー、タンデム・コンピュータ、シリコン・グラフィックスに対してチップ技術を供給する契約を結んでいます。
 
5-4. スーパーコンピュータ
 このほか、科学計算に特化したクレイのようなスーパーコンピュータもあります。
詳細は、
 
AnfoWorld オムニバス情報
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと
     (スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
 
で紹介しています。
 また、グラフィクスに特化したシリコン・グラフィックスコンピュータもあります。
シリコングラフィックス社についてはジム・クラーク(創設者)の項目で触れたいと思います。
 
5-5. ビジネスコンピュータ
 このほかにも中小規模の企業向けにビジネス目的に作られたオフィスコンピュータ(もしくはビジネスコンピュータ)というものも現れ、IBM、日立などの大型コンピュータを導入するには大がかり、とする企業向けに日本電気や東芝、日本デジタル研究所、SORDなどが製品を作って納めていました。
 
■SORD
 SORDは、1980年、M200パソコンとSORD PIPSという表計算ソフトを売り出して一躍時代の寵児(ちょうじ)となりました。他の多くの電気会社がハードウェアしか作らないのに、この会社は、SORD(=Soft + Hard)の名前の如くソフトウェアもパッケージングして\500,000で販売していました。このコンピュータは、BASICを使わずに、100個あまりのコマンドで関数計算、グラフ作成、データ検索ができるPIPS(Pan-Information Processing System:汎用情報処理システム)言語を持っていました。非常に簡単な構造で高度なことができたために、注目され最盛期の1983年には210億円の売上をあげました。
社長は、椎名暁慶(しいな たかよし:1943.12.15〜)氏。
この会社は、発想がユニークであったためIBMからも(日本の企業からも)引き合いが合ったそうですが、椎名氏はこれを断ったそうです。これが後に会社がつぶれてしまう原因となりました。彼は自社の製品がオープンになることをおそれ、パテントもオープンマーケットも展開しないというクローズドな政略を取りました。
その結果、パソコン(NEC PC-9801シリーズのMS-DOSパソコン)の波に飲まれてしまったのです。
 パソコンは、今述べたワークステーションとは発想が根本的に違い、もっとパーソナル(個人がゲームやワープロ用として、あるいは小さな事業所の会計程度)に使えるよう、CPUの性能を控えて安価で使いやすいことを目的としていました。言い換えればマイコンオタクのアップルの小さな会社(当時)や、コモドール、ラジオシャックが細々とやっていくような規模のビジネスだったのです。
 
 この世界にIBMが参入することによりパソコンは様相が一変します。そのパソコンの波に大型コンピュータでさえ命を縮めてしまったのです。当のIBM自体がそのことをを一番恐れて、それを回避するためパソコン分野に進出して大型コンピュータを保護するという戦略を打ったつもり、であったのです。
 自ら自分のクビを絞めた?
 結果的にはそうなりました。
それだけ、パソコンと呼ばれるパッケージングが大きな市場(潜在需要)を持っていたことにもなるのです。
 
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6. パソコンの文化6 (2000.06.02)
 
6-1. IBMのパソコン参入
 アップルの成功を横目で見ていたIBMは、当初パソコンの存在を軽く考えていました。決して自分たちの牙城 = 大型コンピュータを中心としたビジネスは崩れないと確信していました。
IBMは逆に、コンピュータがパソコンの社会になることを決して望んでいなかったし、そうさせてはならないとも思っていました。そうならないためにあらゆる手を打ってもきました。
彼らの戦略は、メインフレーム(大型コンピュータ)の市場の安泰にあり、メインフレームにつながる端末としてパソコンを位置づけていました。当時のパソコンの性能ならば大型コンピュータを脅かす要素など何一つなかったのです。メインフレームのお客へのホンのサービスのつもりで、超大企業ビックブルー(IBM、会社のロゴが青い文字なので米国ではIBMのことをビックブルーと言っています)はパソコン市場に参入したのです。
 IBMは、できるだけ手間ひまかけず超特急でパソコンを作り上げるために、開発を100%外部に任せ、規格のほとんどを公開しました。規格を公開することによりいろいろなメーカが安い価格でものを作ってIBMに持ってくると考えたからです。
 パソコンを動かすオペレーティング・システム(OS)についてもそのように考え、2、3のソフトウェア会社に依頼を申し込んでいました。その要求にうまく取り入ったのが若き実業家ビル・ゲイツだったのです。そう、彼は実業家だったのです。彼は、パソコン用に移植が完了していたBASICとパッケージに加え、MS-DOS(マイクロソフト・ディスクオペレーティングシステム)をにわか作りでまとめ上げ、IBMに取り入ってしまったのです。
マイクロソフト社のその後の急成長はご存じの通りです。IBMもマイクロソフトがここまで急成長をするとは思わなかったでしょう。
 そして自分自身が凋落することも・・。
 
■ IBMパソコン戦略の誤算
 IBMは、パソコンを開発するに当たってパソコンの仕様、技術資料をすべてを公開しました。CPUとデータのやりとりをするBIOS(基本入出力)のプログラムソースまでも公開しました。ただし、IBMは、これに罠をしかけました。公開したプログラムに著作権を与え法律的保護を加えたのです。そしてBIOSのチップは決して販売しませんでした。こうしておけばどんなコンピュータメーカもIBM互換機を作ることができないし、BIOSをコピーしようとしても、または一部を借用したとしても世界最大の法律専門部隊を持つIBMが違法であることをたちどころに暴き、多額の賠償金を求めることができると考えたのです。
 かくてIBMはパソコン市場にも君臨し、メインフレームへの道にも赤い絨毯(じゅうたん)が敷かれるはずでした。
 しかし、現実は、違う方向に舵が切られることになるのです。・・・
(誰も想像してなかった)崩壊の時が来ました。
 この理由は、「コンパック(Compaq)」のところで述べます。
 
6-2. IBM - 巨大帝国
ここで古き良き時代のアメリカのビジネスのやり方について見てみましょう。
巨大IBMとアップルなどに代表される東と西の会社のイメージを比較して見ることにします。
 
 ★煙突、摩天楼、半エーカーもあるマホガニーのデスク。
  社用ジェット機、銀髪、タイムカードを押す顔のない労働者の集団が
  巨大な工場で組み立てる製品。
   - これが成功した東海岸企業の昔ながらのイメージです。
 ★バレーボール、ジャンクフード(ハンバーガショップ等)、週100時間労働、
  だだっ広い事務所に代わる小さな仕切の部屋、Tシャツ、アジアでは見られな
  い働く人も動いている機械も見えない工場。
   - これが、現代のパーソナルコンピュータ業界(西海岸、シリコンバレー)
     における成功した企業のイメージです。
 
■ IBMの黎明
 前にも述べましたが、再度IBM社についてその会社の成り立ち、体質について考えてみましょう。IBM社は、1970年代後半に台頭したパソコンの文化とはかなり違う会社であることに気がつかれると思います。
 コンピュータは今でこそ脚光を浴びた花形商品ですが、登場当初は地味な存在でした。今でこそコンピュータは小型化され、処理時間が短縮化され、省エネ化された「哺乳動物」程度に進化を遂げていますが、初期のコンピュータは文字どおり「恐竜」そのものでした。巨大で、鈍く、重く、しかも膨大な量の食糧(電力)を消費しました。恐竜が絶滅の道をたどったように、この初期のコンピュータも「絶滅」しました。
 世界最初のデジタルコンピュータの開発は、1937年にハーバード大学の数学者ハワード・エイケンによって手がけられました。エイケンは学生の手を借りながら、IBM社(当時、IBMはコンピュータでなく穿孔カード・タブレータを作っていました)と提携し、1943年に「マークI」を完成させました。マークIは少なくともその図体からして見る人を圧倒する機械でした。長さが50フィート(15m)、高さが8フィート(2.4m)を超え、部品数は750,000個で、それぞれの部品は長さにして約500マイル(800km)の針金で接続されていました。マークIの「頭脳」は、3300個の電気的リレースイッチで構成されていました。初代マークIの考案、デザインには数年が費やされ、完成までに数千時間に及ぶ労働が投入されました。このマシンは、徹頭徹尾、電気技術者、金属工らによる手作業によって仕上げられたものだったのです。
 
■ IBMのビジネスのやり方
 IBMのメインフレーム・ビジネスは、コンピュータの性能や価格の安さではなく、「信頼できるサービス体制」の上に成り立っています。会計処理に使われているシステム370/168が故障すると、たとえブルードホー湾であろうとヒューストンであろうとIBMの人間は修理のためにすぐさま先方の会社に出かけ、システムをバックアップし再稼働させるのです。
 顧客サービスが、世界で最も利益の大きな会社を作りだしたのです。
 話はそれますが、コピーマシンで有名な米国ゼロックス社も顧客サービスで会社を成り立たせるという方法で成功しています。こうした新しいビジネス方法を考えるアメリカは柔軟だなって思います。
 しかし、IBMが採用した顧客サービスは、メインフレームという何十億円という投資する規模のビジネスではな成り立つものの、数十万円のパーソナルコンピュータに応用するとなると話は別です。オフィスの中にある1ダースのうちの1台、あるいは100台のうちの、もしくは1000台のうちのたった1台のパーソナルコンピュータが故障した場合にIBMのようなサービスが成り立つかどうかを考えたとき、白いつなぎを着て待機しているIBMの保守要員の30%ないし50%以上は維持できなくなって解雇せざるをえないでしょう。現実問題として、パソコン自体が安くなりすぎてエンジニアを派遣するよりもコンピュータを取り替えてしまった方がはるかにてっとり早いと考えるようなビジネスになっています。ハードディスクのフェイルセーフ(fail&safe)を考えたときも、二つか三つのハードディスクで自動的に同じ内容をバックアップして、故障の際に併走していた別のハードディスクがバックアップするというシステムが発達しました。機械が自動的に保守をするシステムです。このシステムをより高機能にしたものとしてRAID(Redundant Array of Independent Disks)と呼ぶ技術があります。
 
■ IBM社員の意識
 年商600億ドルのIBMは、ほとんどの国家より大きなGNP(国民総生産)を持っています。IBMの従業員数は約38万人。そこに配偶者と一人当たり平均1.8人の子供を加えると、IBMは実に100万人以上の市民をかかえていることになります。
 人口統計学的に見るとIBMはクウェートによく似ていますが、気質的にはスイスに近いと言われています。IBMはスイスに似て保守的で、いくぶん怠惰で、変化の速度は遅いのですが裕福です。どちらの国も、出ていく金より多くの金を手に入れる習慣があります。どちらも学習速度が遅く、自分のペースで周囲に適応して行きます。
 スイスもIBMもどんなことが起こっても生き残れます。
と、少なくとも自分たちはそう信じています。どちらもノロマかもしれませんが、そうだからと言ってへたに干渉しない方がいいようです。両方とも自分たちのものを守るためなら戦うし、小突かれたりしようものなら汚い手を使ってでも仕返しするでしょう。スイスには自分たちの守るために各家庭にマシンガン(ライフルではなくマシンガンですよ)を持っていますし、永世中立国として国民皆兵の義務があり国を挙げて武装化しています。
 IBMの市民は、コンピュータを発明したわけではありません。最強のコンピュータを作ったわけでもありません。IBMの市民は、ほかの誰よりも多くのコンピュータを作っただけなのです。今でこそジーンズと言えば誰でもリーバイスを思い浮かべますが、リーバイスとは対照的にファッショナブルなジーンズをデザインするグロリア・バンダービルトと競っていた時代がありました。けれど、辛うじて生き延びたのはリーバイスのほうでした。こうしてリーバイスがジーンズの代名詞になったようにIBMもコンピュータの代名詞になりました。
 IBMの社員は独自の言語を持ち、それに固執しています。例えば、ミニコンピュータは、「ミッドレンジシステム」と呼びます。モニタは、「ディスプレー」です。外部記憶装置であるハードディスクは、固定されているわけでもないのになぜか「固定ディスク」と呼んでいます。カッコつけすぎの感じがしないでもありません。
 IBMの人間はやや独善的で、少々ノロマでいささか太りすぎています。IBMの社員はほとんどが新卒で入社するのでほかの会社で働いた経験がありません。彼らの生活スタイルは中流階級そのものであり、シリコンバレーの企業とは全く正反対なのです。なにか日本の大手企業に入社する若者たちに似てなくもありません。
 
■ IBMの体質
 IBMの全従業員は、明らかにマネージャになろうという野心を抱いています。会社側もマネージメントを唯一最大のビジネスにすることによって、従業員がそう望むことを奨励しています。IBMの重役が商品をデザインしたり、ソフトウェアを書いたりすることはありません。彼らは商品デザインやソフトウェア作成を管理するのです。彼らはいくつもの会議に出席します。そのため、労力の大半は仕事をマネージすること(外部、内部との折衝、管理)に費やされることになります。実際に仕事をする重役など、ほとんどいないのです。すなわち、IBMが作り出すマシンの大部分のハードウェアとほとんどすべてのソフトウェアは最下層の連中、つまり見習い社員が作っているといっも過言ではありません。その他の社員は全員、会議やマネージメント、マネージャになるための勉強であまりに忙しすぎて自分の専門知識をIBMの製品に活かすチャンスがほとんどありません。
 IBMという会社には何かの決定をくだすたび、修正するたびに、これをいちいちチェックし、確認するマネージメント階層が無数にあります。この巨大な安全ネットのおかげで、IBMは間違った決定がくだされることはまずありません。間違った決定どころか、どんな決定をくだすのもきわめて困難なのです。これがこの会社の最大の問題点であり、流れの速い業界に足を踏み入れたIBMにとってはいずれ決定的な没落の原因となると言われていました。日本の大きな会社にもよく当てはまる事です。
  IBMは、会社内組織がしっかり構築しすぎているため、きわめて高い地位にある人間を除けば、鈍重で反芻することしか能がない重役たちを生み出す原因にもなりました。彼らは命令のことしか頭になく、しかも何をいつやらせるかの指示は会社まかせです。例えば、新しい仕事にかかる前、IBMの人間はその仕事の遂行に必要だと会社が考えるあらゆる情報を与えられます。このブリーフィング(briefing:簡潔な指示書、書類)は、自分でそれ以外の資料を読んだり、独自の調査をしたりする社員がいないくらい徹底したものだそうです。もしIBMのマーケティング担当重役が自社のパーソナルコンピュータと他社の製品との違いを知っているとしたら、それはほぼ間違いなくブリーフィング資料で知ったことなのです。間違っても他社の製品を自分で調べることなどありません。自社製品(メインフレーム)だってそうなのです。
 IBMは古きよき時代の東海岸の大企業で、一流大学を出た若者が青いスーツを身にまとってブリーフィングによって仕入れた資料に基づいてミーティングとマネージメントに明け暮れるわけです。
 なにやら日本の大企業もこうした米国の大企業にあやかって同じシステムを導入しているような感じを受けます。まあ、ビジネスそのものが欧米からきたものですからしかたのないことでしょう。
 IBMの実体を知れば、よくもまあ、こんな大きな舵取りの必要な会社が流れの速いパソコンに参入したものだと思いになるでしょう。
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7. パソコンの文化7 (2000.06.11)
 
7-1. そんなIBMがパソコンを
 そんな企業風土(パソコンの文化 - その6)を持つIBMの人間の目にマイクロコンピュータ市場参入が魅力的に見えてきたのは、実は企業内競争があったからです。IBM社内では、社内のほかの部門と内戦をしながらメインフレームのマーケットシェアを苦労してもぎ取っていくのはもうウンザリという気運がありました。マイクロコンピュータ市場では社内のライバルに気を使う必要もなく、反トラスト法もありません。そして何よりも重要なのは、パソコンの顧客は、IBMにとってはまったくの新顔ばかりで過去にIBMのセールスマンと固い握手をかわした人間は一人もいないと言う事実でした。新しい世界、新世界だったのです。
 マイクロコンピュータ開発につぎ込まれる資金は、IBM自身がマイクロコンピュータを売らないかぎりIBMには入ってこない、だからマイクロコンピュータを売る。この考えには説得力がありました。マイクロコンピュータ市場に対する猛攻を指揮したIBMの重役たちは、この新しい戦場での成功こそが彼らを権力の源泉、すなわち、ニューヨーク州アーマンクにあるIBM本部へと導くこと(平たく言えば出世すること)であると理解したのです。スティーブ・ウォズニアクやスティーブ・ジョブズがパソコンを始めた動機と比べると、IBMはパソコンをビジネスとしてとらえていたのをはっきりと見て取ることができます。
 1980年、マイクロコンピュータ市場には数多くの企業が参入していました。しかしIBMには、アップルもアタリもコモドールもラジオシャックも同じような雑魚(ざこ)に見えました。小人の国へ行くガリバーのような気持ちではなかったかと考えます。いずれもとるにたらない小さな会社ばかりというわけです。しかし、米国内におけるマイクロコンピュータの総売り上げは既に10億ドル(2,000億円)に達していましたから、それら小人を蹴散らして、10億のおいしい蜜を奪い取る(市場を占有する)価値は十分にあったのです。実際、IBMのパソコン分野への本格参入によってこの市場は爆発的な伸びを示したのです。
 1983年私が初めてアメリカへ出張し、東海岸の会社に自社製品をもってPRに回ったとき、多くの会社のオフィスの秘書の机にIBM PCがあったのを鮮明に覚えています。IBMの電子タイプライターがこのパソコンに変わったんだ、ととても新鮮だったのを記憶しています。
 
7-2. IBMのパソコン開発
 1981年8月に発売されたIBM PC(モデル5150)は、フロリダ州ボカ・レイトン(Boca Raton, Florida)にある反逆的な独立部門が作ったものだそうです。これはIBMで最初に開発されたパーソナルコンピュータではありませんでした。ボカで以前に作られたものを含めて少なくとも4種類がこれまでに設計され、アーマンク(Armonk、N.Y.本部)の経営陣に提出されています。こうした初期のものと最終的にIBM PCとなったものとの大きな違いは、
「1年後にIBM PCを市場に出す。」
という大命題を課せられていたことです。ほかのプロジェクトは先行投資の意味合いが強く、期限などが決められていない言わばIBM時間での開発でした。それがホントの時間(時間を区切られてホントに出荷するというタイムスケジュール)で開発を命じられたのです。
この命題が課せられたのは1980年7月のことで、その人物はエントリー・システムズ部(ESD)研究室長、ビル・ロウ(William C. Lowe)でした。
 IBMにとって、一年というのは時間と呼べるほどの単位ではありません。IBMは全てがゆっくりで4年経っても完成のめどが立たないプロジェクトもたくさんありました。既存のシステムに機能を追加するだけでも4年もかかるとしたら、コンピュータシステムを一年で作るなんて不可能としか言いようのないものでした。
 実際のところ、1年でパソコンを開発するなんてとても不可能でしたし、ロウもそれをよく承知してました。他社のハードウェアとソフトウェアを組み合わせてシステムとして機能するものを作り上げ、外側にIBMのラベルを貼り付ける。IBMがとれる最前の方法は、それぐらいしか考えられなかったのです。
そして、ビル・ロウ(William C. Lowe)はこの方法を選びました。
ロウとその部下たちは、その後何度も繰り返すことになるルール破りの皮切りとして(そしてそれがIBMの恒常的な体質となるのですが)、全ての部品を下請け会社から買うことに決めましたた。そして手始めにソフトウェア探しにとりかかったのです。
 ロウは、安定した会社からオペレーティング・システムを買おうと考えました。彼はOSを考えた時、そのOSは天才プログラマー、ゲーリー・キルドールが開発した評価の高い『CP/M』しか頭にありませんでした。CP/M(Control・Program/Monitor、後Control Program for Microcomputers)というOSは、ゲーリー・キルドールが1975年にインテル8088用のCPUチップのために開発したもので、現在のパソコンの中にも組み込まれているBIOS = 「基本入出力システム」(Basic Input/Output System 略してBIOS)という考えを初めて導入したシステムです。BIOSは、マイクロソフト社が開発したMS-DOSにも踏襲されて(一説にはごっそりコピーしたと言われていますが)、Windows98の核にもこの痕跡がありました。
 IBM PCのOS決定までのくだりは面白いのでマイクロソフトのところで詳しく触れたいと思います。
 
7-3. IBM PCの波及効果
 パーソナルコンピュータ業界におけるIBMの成功は、まぐれ当たりでした。三年以下ではどだい何も作れない会社が、一年間でどうにかこうにかパーソナルコンピュータとそれに組み合わせるオペレーティングシステムを作り出したのです。それから18ヶ月後、IBMは少しばかり改良されたマシン、PC-XTを発表しました。さらに18ヶ月後、IBMはXTの五倍の性能を持つ真の第二世代の製品、PC-ATを発表しました。そして1981年から84年にかけて、IBMはパーソナルコンピュータの「標準」を確立しました。そのおかげでアメリカの企業社会がパーソナルコンピュータを本気で受けとめるようになり、現在にいたるパーソナルコンピュータの産業が生まれたのです。
しかしながらIBMは、1984年以降この業界のコントロールを失ってしまいました。
 PC-ATの開発によって、エントリー・システムズ部門にもようやくIBMの現実がのしかかってきました。つまり、パソコンを売り始めた最初の頃は部門の責任で勝手に指揮をとっていても良かったのですが、この分野の波及効果を見て本部からIBMスケジュールで管理されるようになったのです。
 その結果、PC-AT以降のIBMは新しい製品系列を開発するのに三年以上かかるようになりました。メインフレーム(大型コンピュータ)の基準で考えれば、三年というのは悪い数字ではありません。しかし既に述べたように、IBMにとってメインフレームはコンピュータですが、パーソナルコンピュータは単なる集積回路の固まり(100%外注によって製作されたもの)でしかありませんでした。そしてパーソナルコンピュータは、半導体の価格対性能比の曲線に対応することになっています。つまり、製品の価格は、どんどん安くなっていくというパソコンの市場価格原理に突入していったのです。けれどもIBMにはそうした市場に対応できる力はありませんでした。IBMは、1986年までに業界を引っ張っていくような新しい製品系列を作るべきだったのにそれをやらなかったのです。
 
 別の会社が支配権を握る番がやってきました。
 
 それが、コンパック・コンピュータでした。
コンパックについては、項を改めて紹介しましょう。なぜクローンメーカが出てくるようになって帝国IBMが瓦解したのかも興味あるところです。
 コンパック・コンピュータは一年で8088ベースのIBM PCクローンを作り、半年で80286ベースのPC-ATクローンを作りました。IBMは1986年までに80386ベースのマシンを発表するべきだったのに、間に合わなかったのです。理由は、前にも述べた「東海岸の大企業」の体質でした。
そしてビッグブルー(IBM)を待てなかったコンパックが、IBMを追い越してデスクプロ386を発表してしまいました。これに続いて他のクローンメーカーからもすぐに386マシンが発表されたのですが、面白いことに、これらはいずれもIBMのクローンではなくコンパックのマシンのクローンだったのです。
 一方、ビッグブルーは性能曲線(パソコンは絶えず性能が向上しそれと共に価格が下がるという原理)から脱落し、二度と追いつくことはありませんでした。
 IBMの後ろを走っていたコンパックをはじめとするクローンメーカがペースがあがらないリーダを見限って追い越し先に走り出してしまったのです。
 
 IBMは、MS-DOSにオペレーティングシステムとしての特別な地位を与えました。これはマイクロソフト社を間接的に巨大企業として促成することになりました。
 IBMはまた、多くの会社が作る拡張カードが同じマシンでどういった用途に使えるかを決めるPC-ATの16ビットバスの『標準』を設定しました。
市場のリーダーが自社製品を市場にもっと浸透させるには、他のハードウェア会社やソフトウェア会社の助けが必要です。標準というのは、いわば市場のリーダーが自分を助けてくれる関連会社に与える慈悲(蜜)のようなものなのです。
 
 IBMの役割はそこで終わりました。
 
 IBMが性能曲線からはずれても、IBMが定めた標準は相変わらず指針として機能し続けました。市場の主導権を握る可能性はIBMが脱落した後、クローンメーカーの手にゆだねられ、実際にそうなって行きました。そしてIBMは、自社の市場占有率がゆっくり落ち始めたことに気づくことになります。
 ですが、1980年代後半のIBMは依然としてパーソナルコンピュータ業界の最大手であり、相変わらず技術的な大混乱を引き起こすだけの巨大な潜在能力を持っていました。なにせ米国の中枢とも呼べる優秀な法律家を自社で雇って法律問題に関して強い力を持っているのですから。そして、ビジネスブームをもっと楽なペースに落とす方法を他の会社よりはるかによくわかっていました。IBMは、以下の戦略を立てることによりこれからも業界を引っ張るという姿勢を具体的に示しました。
 
 1. 製品ではなく方向性を示し、競合メーカに無駄な浪費をさせ、決してIBMの前には走らせない。
 2. 製品の発売を予告し、実際の発売までにたっぷり時間をかけ競合会社をいたぶる。
 3. ときには、製品を出さず、出すようなそぶりを示してじらす。
 4. 独自の標準品を他社に強要する(OS/2)
 5. 製品を発表し簡単に自社製品を否定する
   (PCネットワーク/PC-LANプログラム→トークンリング)
 
 しかし、1990年代にはいると凋落は誰の目にも明らかとなりました。IBMに変わってパソコンをリードし始めたのが、Windowsの移植を成功させたマイクロソフトでありCPU製造業者であるインテルでした。世間はこれらを総称して「ウィンテル」と呼び始めました。
 
7-4. それでもIBMが帝国である理由
 1980年以来、IBM PC開発チームのリーダとしてドン・エストリッジ(Philip Don Estridge:1937.06.23 - 1985.08.02 )は、これまでのIBMの経営上考えられない方向を打ち出して来ました。彼のチームは、可能な限りIBMらしくなくなることによって成功を収めました。IBM PCは爆発的に売れたし収益は上がっていたのです。通常なら昇進するはずでした。ところが、エストリッジのやり方はIBMのやり方とは違うという理由で、彼は信頼性を失い、製造担当副社長のポストにしかつくことができませんでした。
 そんなとき、フロリダ州ボカ・レイトン(Boca Raton, Florida)にある彼の自宅にアップルの腕利きセールスマン、スティーブ・ジョブズ(当時28才、1983年)がリクルートに現れます。
 小さな会社の重役が三菱重工業のような巨大企業のS製作所副所長の所に「100万ドルの契約金と200万ドルの引っ越し代、年俸100万ドル = 当時で合計9億円でうちに来ませんか?」とコンタクトをとるようなものです。
エストリッジは閑職に追いやられようとしていましたし、IBMにいてもおそらくトップにはなれない。アップルとの相性は完璧だし、給料はとてつもない額を提示されたのです。しかし彼はしばらくの間悩み抜き、親しい友人達に相談した結果、この話を断わりました。内面の心的葛藤の結果でした。
このエピソードは、エリートIBMマンの生き様が見えてとても興味深いものです。
 たとえアップルに社長のイスが用意され莫大な報酬が約束されても、ドン・エストリッジにIBMを辞められるわけがなかったのです。
 なぜならアップルはただの会社にすぎませんが、IBMは国家だからです。
 ドン・エストリッジは、1985年8月2日、不幸な一生を終えます。デルタエアラインに乗り合わせた彼は天候不良によって飛行機がマイクロバーストに合い、テキサス空港での着陸失敗の事故で夫人と共に他界してしまいました。ドン・エストリッジ48才のことでした。
 
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8. パソコンの文化8 (2000.07.07)
 
8-1. パソコンOSの誕生
 IBMがパソコン分野に進出しようとして製品開発を急いでいるとき、コンピュータを動かすOS(オペレーティングシステム)にはCP/Mを採用しようと考えていました。が、どういうわけか、それがゲーリー・キルドール(Gary Kildall)のデジタルリサーチ社の製品であることを彼らは知りませんでした。いつもなら信頼できるはずのブリーフィング資料にCP/MというOSはマイクロソフトの製品だと書かれてあったのです。運命の女神がここでビル・ゲイツにほほえんだのです。
 ゲイツは、IBMからこの問い合わせのための電話がかかってきたときにそれは間違いだと答え、パシフィック・グローブのゲーリー・キルドールの電話番号を教えたのです。それでもIBMとマイクロソフトのあいだで取引が成立する余地はありました。1980年当時、マイクロコンピュータにとってはOSだけではなくプログラムを開発するために組み込まれるBASICも必需品と見なされていて、マイクロソフト社はマイクロコンピュータ用BASICの供給元としては最古参であり最も有名な会社であったからです。しかし、マイクロソフトは、当時OSまでは手がけていませんでした。
 
■デジタル・リサーチ社(Digital Research Inc.)
 IBMがパソコンを作ろうと決心したのは1980年7月。IBM PC開発担当責任者のビル・ロウにとって、設立からわずか5年しか経っていない西海岸の二つのソフトウェア会社(OSのデジタルリサーチ社とBASICのマイクロソフト社)の作る製品を軸にして、新しいコンピュータ製品ラインを作るという提案は大胆できわめてリスクの大きいものでした。
 ビル・ロウは、デジタルリサーチとマイクロソフトに腹心の部下を派遣して、二社の経営者がどんな人物であるかを調べさせました。IBMの人間がデジタルリサーチのゲーリー・キルドールと話をするためにカリフォルニア州パシフィック・グローブ(Pacific Grove, California)に到着したとき、ゲーリー・キルドールは会社にいませんでした。IBMとの約束があったにもかかわらず、彼は自家用飛行機で空を飛んでいたのです。彼は飛行機が好きでカーレースが好きでした。とても東海岸の由緒ある大企業の範疇に入る人間ではなかったのです。
  第一印象はよくありませんでした。
 ゲーリー・キルドールが空を飛び回っているあいだ、会社に残っていたデジタルリサーチの人間は、IBMの連中が何を話しに来たのか見当もつきませんでした。またIBMの連中も、守秘義務の合意書にサインをもらうまでは何一つとして話すつもりはありませんでした。
 前にも述べたように、IBMはどんな場合にも1956年の裁判所布告に従って行動しなければなりませんでした。それがこの会社の競争力を規制していたのです。しかしアメリカの企業のなかで最大の法務スタッフを抱えているIBMは、本来は制約であるはずの規制を利点に変える方法を発見しようとしていました。そこで登場したのが守秘義務合意書と呼ばれるものです。これはテクノロジーにはかすり傷もつけずに人間だけを破壊する合法的な中性子爆弾のようなものと言われています。
 
8-2. ゲーリ・キルドールの人となり
 ゲーリー・キルドール(Gary Arlen Kildall:1942.5.19〜1994.7.11)は、ビル・ゲイツとは対照的な感覚を持ったプログラマでした。
天才プログラマという名を欲しいままにした人間で、私個人はとても興味を持っていた人物です。
そんなゲーリー・キルドールに、1996年のNHKのスペシャル番組「新・電子立国」の中で会うことができました。大柄でちょいと太めのプロレスラーのような体つきをした人物でした。モータースポーツが好きで飛行機が好きで、という人物でした。インタビューに応えるゲーリー・キルドールは、ぼそぼそと話し陰湿な感じを与え、人との対話が苦手なように見えました。この点でも、オシャベリのビル・ゲイツとは違うし、激情家のスティーブ・ジョブズとも違う好対照の人間のように思えました。彼はインタビューを終えた数ヶ月後の1995年、52才で他界してしまいました。
 ゲーリー・キルドールは、もし、人生の歯車のかみ合わせがどこかで一つ違っていたら、ビル・ゲイツに替わってコンピュータ業界最大のヒーローになっていたかもしれない人物なのです。しかし現実はそうはなりませんでした。そのため、ゲーリー・キルドールは、"20世紀最大のビジネスチャンスを逃がした男"という、何とも様にならないレッテルを張られることになりました。
 ゲーリー・キルドールは、1942年、米国ワシントン州シアトルに生まれました。ビル・ゲイツと同じ町です。ワシントン大学で数理分析学を学び、コンピュータ・サイエンスで博士号を取りました。1974年、彼が32才の時、インテル製マイクロプロセッサー『8080』用にCP/M(Control Program for Micro - Computer)というOSを開発します。これを機に彼はデジタルリサーチ社を起こし、その販売に乗り出します。
 CP/Mは瞬く間にパソコンのOSとして圧倒的シェアを占めるようになり、8ビット・パソコン用OSとして事実上の業界標準として位置づけられるようになりました。MS-DOSが世に出る7年前です。
 
8-3. CP/M開発の経緯
CP/Mの開発経緯は以下の通りです。
 1970年はじめ、ゲーリー・キルドール(Gary Kildall)はカリフォルニア州モンタレー(Monterey, California)にある海軍大学院でコンピュータサイエンスを教えていました。30歳にも満たない若い教授だったそうです。彼の専門は、コンパイラのデザインでした。コンパイラとは、FORTRANやPascalといった高級言語で書かれたプログラムを、コンピュータが直接読みとれるアセンブリ言語に翻訳するソフトウェアのことです。
 1972年のある日、、大学の掲示板にあった「i4004を25ドルで売りたし」という広告に興味をおぼえました。i4004というのは、1971年に米国インテル社が日本の会社(ビジコン社の嶋さん)から委託を受けて開発した電卓用の小型演算処理4ビットマイコンチップの事です。これを\5,000で手に入れたのです。
 4004を手に入れた彼は、航海学の学校を経営する父親のために、航海関係の問題を解くマシンを作ろうとしました。
 インテル社の4ビットマイコン4004をいじるうち、4004の性能に不満を持った彼はこれを製作したインテル社を訪ねるのですが、逆にマイコンチップの魅力にとりつかれてしまいインテルのエンジニアといっしょに働くようになります。初めは週に一日のコンサルタントだったのですが、インテルの8ビットマイコンチップ8088が発表された時は、そのソフトウェアの開発者の一人になっていました。
 
■ インテルのマイコンチップ開発
 4ビットマイコンチップが日本の会社で既に倒産してしまったビジコン社から電卓用として開発されたのは先に述べた通りです。ビジコン社の嶋さんの着眼点はすばらしかったのですが、マイコンチップが高すぎて電卓としての日の目を見ることができませんでした。インテルは契約上このチップの製造権と販売権を確保していましたので、コンセプトのおもしろい4ビットマイコンの使い道を他に求めるようになりました。
 1974年、インテルは同社のマイクロプロセッサ・ファミリーに8008と8080を加えました。チップだけを作ってもなんの使い道もないので、チップが動く周辺部を作らなくてはなりません。インテルはマイコンチップが動くためのソフトを開発する環境(制作ソフト)を整えようとしました。このソフトを開発するために前にも述べたDEC社のPDPというコンピュータが最適と考えました。ちょうど、ビル・ゲイツとポール・アレン(マイクロソフト創業者)がハーバード大学でやろうとしたように、インテル社もDECのタイムシェアリングシステムを使って、DECのコンピュータで仮想的にi8080マイコンチップの振りをするソフト(エミュレートさせるソフトウェア)を作って、この仮想チップを動かアプリケーションを開発しようとしていました。DECのPDPコンピュータ上に仮想の8080チップを作成するためにゲーリー・キルドールは雇われました。この時には確固たるマイクロコンピュータシステムがまだなかったので、インテル社はマイクロプロセッサを利用した装置のソフトウェアを開発する最良の方法として、大型システム上のエミュレータを使うことを考えたのです。
 
■ パソコンOS - 怠惰なゲーリー・キルドールから生まれたシステムソフト
 ゲーリー・キルドール(Gary Kildall)は、インテルの仕事場まで車を運転していくのが疲れたからと言う理由で、最初のマイクロコンピュータ用オペレーティングシステムを開発しました。
 ゲーリー・キルドールは、まずインテル社のマイクロチップ用にプログラミング言語を開発し、ついでプログラムの作成にとりかかるまでになりました。彼が4004マイコンチップに採用したのはPL/Iという複雑な言語で、この言語を使ってマイコンチップを動作させるのはとても苦労がいったそうです。さらに8ビットマイコン8008にこの言語を使ううちに、彼はその拡張版を作り上げてPL/Mと名付けました。これがのちにCP/M(Control・Program/Monitor)というOSに進化していきました。
 ゲーリー・キルドールの仕事は、「インタープ/80」と呼ばれるエミュレータを書き、さらに、「PL/M」という高級言語を開発することでした。ゲーリー・キルドールにとって苦痛だったのは、ソフトウェアの難しさではなくインテル社にあるミニコンピュータ(DEC社のPDP-10)を使うためパシフィック・グローブの自宅からシリコンバレーまでサンタクルーズの山々を越えて50マイル(約80キロ)の道のりを運転しなければならなかったことででした。このドライブの退屈さに彼は我慢できなかったのです。彼は自宅で仕事ができる環境設備を考え、マイクロプロセッサにIBMが開発したばかりの8インチのフロッピーディスクドライブ外部記憶装置を使って、完璧な環境を整えようとしました。
  → この発想がDOS(Disk Operating System)の走りだったのです。
 
しかし、この装置の価格は500ドル(約15万円)もして、ゲーリー・キルドールには手の出る代物ではありませんでした。そこでフロッピーディスクドライブのメーカー、シュガート・アソシエーツ社を説得して、一万時間の耐久テストが終わった使い古しのドライブをタダで手に入れました。そして、友人のジョン・トロードがインテレク-8とフロッピーディスクドライブをつなぐコントローラを作り、ゲーリー・キルドールはインテルのタイムシェアリングシステム上のエミュレータを使って「CP/M」というオペレーティングシステムを開発したのです。 Control Program for Microcomputers(マイクロコンピュータのための制御プログラム) の頭文字をとったと言われるCP/Mですが、もともとは Control Program/Monitor(マイコンをチェックするための制御プログラム) を略した呼び名でした。
 このようにして、ゲーリー・キルドールは、TOPS-10オペレーティングシステムが走るDECのPDP-10ミニコンピュータでパソコンのOSの元祖とも言えるCP/Mを開発したのです。
 
■ CP/Mのシステム構築
 ゲーリー・キルドール(Gary Kildall)は、多くの開発者たちと同様、CP/Mのデバッグのためにゲームソフトの類を作りました。そしてハードウェア設計者ベン・クーパーと組み、4004を使った占星術マシンを開発します。これは星の位置を計算して占星術的に未来を予言するというマシンで、新しいハードウェアやソフトを試験するのに向いてはいましたが、操作が難しいため商品としては失敗でした。しかしゲーリー・キルドールはそのゲームプログラムの開発過程でCP/Mの機能を整理し、ソフト作りに必要なツールであるデバッガ、アセンブラ、エディタを洗練されたものにしました。
 彼はさらに、大学時代の友人ジョン・トロード(John Torode)を仲間に引き込みます。トロードがテープやディスク装置とのリンクを実現したことにより、CP/Mは初期のマイコンにとって初めての本格的なOSとなりました。そして1979年にマイクロソフトとIBMがDOSを市場に投入するまで、CP/Mは業界をリードすることになります。キルドールの設立した会社、インターギャラクテック(のちのディジタル・リサーチ)は、1977年にCP/Mを5万ドルでIMSAI社に売りました。
 
■ BIOS(バイオス)のアイデア
 こののち、キルドールとトロードは、CP/Mをベースに各種のフロッピーディスクを繋げるため、コントローラとインターフェイスをとる部分を独立させるためコードモジュール(独立したプログラム)を作ります。
 これが、パソコンの大切な機能であるBIOS(バイオス)と呼ばれるアイデアです。
ゲーリー・キルドールは、「基本入出力システム」(Basic Input/Output System 、略してBIOS)と呼ばれるアイデアを考え出し、CP/Mの中でハードウェアに依存する部分をすべてBIOSに集中させました。これにより、インテルのチップをベースにした多くの異なるマイクロコンピュータに使うOSの移植作業はBIOSを書き換えるだけで良くなったのです。
 CP/Mの開発とBIOSの発明によって、ゲーリー・キルドールはマイクロコンピュータというものを定義したのです。
 
■ CP/M販売と会社経営
 ところが驚いたことに、CP/Mがもうじき完成するという時になって、インテルはCP/Mはいらないと言い出しました。それどころか、ゲーリー・キルドールのPL/M言語にも関心がなくなったと言ってきたのです。1975年のことです。
 そんな時、翌1976年、当時2番目のパーソナルコンピュータメーカであったイムサイ(IMSAI)社がキルドールにそのOSの商品化についての取引を持ちかけてきました。
 イムサイ(IMSAI)社が最初のCP/Mコンピュータを発売してから六年間で、何十社ものメーカが50万台以上のCP/Mコンピュータを売りました。そしてプログラマたちは、キーボード、画面やデータ格納などを制御するCP/MのOSに沿った形でCP/M用アプリケーションを書くようになりました(ちょうどMS-DOSにしたがってゲームソフトやワープロソフトを作り上げるように)。
CP/Mは、アプリケーションの基盤となったことでマイクロコンピュータ用オペレーティングシステムの事実上の標準となり、長期にわたる成功が約束されました。
ゲーリー・キルドールは、インターギャラテック・デジタルリサーチという会社を設立し(のちに単にデジタルリサーチと社名変更)、コンピュータメーカに対してはCP/Mを大量販売し、一般ユーザには1セット70ドルで直接販売しました。
こうしてキルドールは、これといった努力もせずに何百万ドルもの金を稼ぐことになったのです。
 ゲーリー・キルドールは、自分でも気づかないうちに莫大な金を稼ぎ、何台ものスポーツカーや二機の自家用飛行機を所有し、そして自分の時間をどんどん食いつぶしていくビジネスに手を染めることになります。
 けれど、彼にとってこの成功は歓迎すべきことではなく予測すらしていなかったことでした。すなわちこの成功は、彼が計画的に行ったものではないことを示しています。この点が、アップルを創設したスティーブ・ジョブズやマイクロソフト社のビル・ゲイツとは違うところです。
 ゲーリー・キルドールの目標は、CP/Mを書くことであり、売ることではありませんでした。このように彼の目標は非常にレベルが低いものでしたから、危険が訪れるのも早いものでした。
 彼は、ビジネスの世界に生きるにはあまりにも常識を知りませんでした。しかし、コード(プログラムを書く能力)の神様でした。モーツァルトが作曲をするのと同じで、必要なコードはすべてが文字どおり頭の中に浮かび、あとはそれを苦労もなくただキーボードで打ち込むだけというタイプのプログラマだったのです。
 彼には、だから、経営的な手腕は、まるでありませんでした。良くも悪くもデジタルリサーチ社は彼の会社でした。従って、経営のおざなりから自社のオペレーティングシステムで動く言語の開発に遅れをとっていまいました。なにせ気が向かなければ仕事をしないような人柄だったのです。デジタル・リサーチが会社として健全であったのなら、ビジネスとして会社を続けていくのに必要なオペレーティングシステムのアップデートや、1980年以降にやってくる16ビット・マイクロプロセッサの新時代に向けてシステムを拡張することに神経をとがらせなければならなかったのにも関わらず、無関心、無神経だったのです。
 IBMのPC-AT機の標準OSになぜ、CP/Mが選択されずにMS-DOSが採用されたのかは以降に述べます。
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9. パソコンの文化9 (2000.07.17)
 
9-1. 守秘義務合意書
 守秘義務合意書は、仕事の関係者が取引先の秘密を明らかにすることを制限するものです。
この合意書は、例えば、200名ほどの小さな会社Nが国内大手の自動車メーカーTに対してエンジンの中を見るための画期的な可視化光学系を開発してくれと依頼され、その際にN社がT社の守秘義務合意書にサインしたとします。
  注意して下さい。自動車メーカーT社が作った守秘義務合意書に、です。
  小さな光学メーカーN社がサインするのです。
  逆の場合は、N社がT社に対して作らなければなりません。
  そして双方の合意した契約を交わすのです。
 サインをすると、その時から、光学メーカN社は自動車メーカーT社から打ち明けられた本件に関する全ての情報(どのようなエンジンで何を見ようとしているのか、光学系はどのようなレイアウトで材料は何を使ってカメラは何を使うか)をライバル会社はもとより、どのような相手にも漏らしてはならない、という取り決めになります。反対に自動車メーカーT社は、外部に対してN社に仕事をさせているとか、別の光学メーカーP社に対してライバルのN社にこんな仕事をさせているがお前の所でもやるか、といったことをしゃべっても法的に問題にならない、とするものです。なにしろ、N社はT社に対し、N社自らの守秘義務を求めてはいないのですから。
 つまり、守秘義務合意書は、強い立場のものが自らの情報財産を守るために弱い立場のものに強要するもの、ととらえて正しいと思います。
 
 IBMの場合、標準的な守秘義務合意書はそれ以上の意味を持ったのです。IBMの合意書にサインすると、これから先IBMに供給する事になるであろう部品業者がIBMに話したことはどんなことでも機密ではなくなりますが、IBMが部品業者に話したことは全て機密扱いになるというものです。
 この守秘義務合意書に従って、IBMはパソコンを発売するのに際して仕様や技術資料をIBMの手から一般に公開しました。それがパーツサプライヤーが計画したものであってもです。しかし、パーツサプライヤ自らが発表することは許されなかったのです。
 IBMがパーソナルコンピュータを発売するに当たってパソコンのOSの話をするため西海岸のデジタルリサーチを訪れたとき、デジタルリサーチ側はこの守秘義務合意書を用意していず、IBMが用意した守秘義務合意書をサインしなければならないことになったわけですが、ビジネスというものをおよそ理解していないゲーリー・キルドール(Gary Kildall)はその約束すらすっぽかし、サンタクルーズの山々のどこか上空を飛んでいました。IBMの訪問を受け応対にでた妻、ドロシー・キルドールはIBMの守秘義務合意書を一瞥しただけでサインを拒否しました。彼女は、彼女なりの考えで悪い方向の想定、すなわち、IBMが法的措置をとり、馬小屋とホットタブのある彼女の新しい家を競売に出してしまうという光景を思い描いてサインを恐れたのです。そこでIBMの連中は、エイコーン(IBMのパソコン開発のコードネーム)に関する計画を一言も話さないままこの街を去りました。しかし、オペレーティングシステムが不要になったわけではありませんでした。
 IBMがデジタル・リサーチ社とまともな折衝ができないまま、BASIC言語のソフトウェアの話をするべくマイクロソフト社と接触した時、すでに発売されている16ビットCPUのためのオペレーティングシステムはこの世になく、8ビットマシン用だけでした。IBMは16ビットCPU用のOSをほしがっていたのです。もしIBMがゲーリー・キルドールが空港から帰ってくるのを待っていれば、デジタルリサーチが16ビットCPUインテル8086やその弟8088で使えるオペレーティングシステム「CP/M-86」の開発にすでにとりかかっていることがわかったはずでした。CP/M-86は、IBMがパーソナルコンピュータを発売しようと考えているのと同じ頃に完成する予定だったのです。この存在さえ知っていれば、IBMは最も道理にかなった選択ができたはずなのです。そしてマイクロソフトの今日があったかどうかもわからないほどの内容なのです。
 
■急造 MS-DOS
 当時、マイクロソフト社は50人程の会社で、OSを作っていず、各種BASICに加えてFORTRANやCOBOLを売っていました。CP/Mは、当時もっとも進んだマイクロコンピュータ用OSと評判が高く、ライバルのパソコンであるアップルIIより優れたワードプロセッサやデータベースプログラムが使えました。マイクロソフト社は当時、アップルIIコンピュータでCP/Mを使えるようにする「ソフトカード」と呼ばれる拡張カードを作っていました。ビル・ゲイツは、このカードとこれに付属するCP/Mで繁盛し、CP/Mの最大の売り手だったのです。ゲイツはだから、OSの商売がどれほど儲かるかをよくわかっていました。
 マイクロソフト社はCP/Mの最大の販売会社だったのでデジタルリサーチがCP/M-86をまもなく完成させることを知っていました。しかしIBMとの二回目の会合では、ゲイツもポール・アレンもスティーブ・バルマーもそのことを一切口にしませんでした。
 デジタルリサーチがオペレーティングシステムをとりマイクロソフトはプログラム言語市場を占有する。CP/Mを開発し販売しているゲーリー・キルドールはそう考えていました。
が、ビル・ゲイツの方が世間をよく知っていたようです。
ビル・ゲイツは、彼がIBMに売りたいと思っていたOSを彼の会社のワシントン湖をはさんだ対岸にあるシアトル・コンピュータ・プロダクツという会社で見つけたのです。
 あとはこれを手に入れさえすればよい。
 1980年9月のある晩、マイクロソフトの本社にビル・ゲイツ、ポール・アレン、スティーブ・バルマー、そして日本市場での多大な実績(この時期、マイクロソフト社の全売り上げの半分近くを日本のアスキーマイクロソフトが稼ぎ出していました)を買われてマイクロソフトの副社長に就任したばかりの西和彦の四人が顔を揃えました。
 せっかくのビッグ・チャンスをみすみす見逃す手はない。IBMの求めるOSを、IBMの求める三ヶ月という短期間内にマイクロソフトとして独自に開発することができないかどうか。この無謀な企てにビル・ゲイツもポール・アレンも不安を隠しませんでした。その逡巡を西和彦氏が断ち切ったと言います。このときのことを、ビル・ゲイツはのちに次のように語っています。
 「ケイ(西)が叫んだんです。『やるべきだ、絶対にやるべきだ』と」。
「僕は言ったんです。シアトル・コンピュータ・プロダクツのOSを買ったらいいじゃないかって。それでポール・アレンが『SCP-DOS』というのを買いに行った。シアトル・コンピュータは『8086』の基板を作っていて、僕はそれを輸入していたから、CP/Mと同じ機能を持つOSがあることを知っていたんですよ」。
 この『SCP-DOS』に改良を加えることによって誕生するのがマイクロソフト・ディスク・オペレーティング・システム、すなわちMS-DOSだったのです。
 実はこのSCP-DOSは、業界ではQDOSと呼ばれていました。Quick & Dirty Operating Sytem (急ごしらえの汚いOS)の頭文字を取ったQDOSは、小さな会社が開発する8086ベースのコンピュータに載せることを念頭に作られたもので、CP/Mの16ビット版クローンソフトと言っていいものです。開発者のティム・パターソン(彼は自分のOSを86-DOSと言っています。QDOSなんて言いませんわね)もCP/Mから「低次元の借用」を認めていますが、大半のコードは自分で書いたものだと主張しています。
 QDOSはすでに完成していること以外、特筆すべき特徴はありませんでした。ビル・ゲイツがこのOSの権利を買い取るためにシアトル・コンピュータ・プロダクツに五万ドルを支払ったのは、何よりも時間を買いたかったからです。この時、五万ドル(1200万円)は50人程度のマイクロソフト社にとってさぞかし大変な金額だったに違いありません。
 ここで、かってなかったほど大変な立ち回りが展開されることになります。ビル・ゲイツはフロリダまで飛んで、QDOSをIBMに売り込みました。1500キロ離れた司法省の法律家がこれを知ったら、聞き耳を立てたことでしょう。当時、コードを盗んだと言って富士通を訴えていたIBMの法務部は、集団発作を起こしたに違いないのです。
 けれど、フロリダに飛んだゲイツは、IBMの守秘義務合意書を忠実に守り、MS-DOSと名を変えたQDOSの本当の由来については多くを語りませんでした。シアトル・コンピュータ・プロダクツの支援を得て完成した、としか言わなかったのです。
 
■ゲーリー・キルドールの反旗
 IBM PCが発表される数週間前に、ゲーリー・キルドール(Gary Kildall)はマイクロソフトのQDOSのコピーを手に入れて「デスクアセンブリ」と呼ばれるテクニックを使ってQDOSの中を覗きました。そして、CP/Mのコードが広い範囲にわたってそのまま盗まれている箇所を見つけた出したのです。
 憤りを感じたゲーリー・キルドールは、ボカ・レイトン(Boca Raton)に向かい、IBMに証拠をつきつけました。しかし、IBM PCが軌道修正するにはもはや遅すぎました。たしかにマイクロソフトとIBMは、明らかにデジタルリサーチの著作権を侵害していました。解決の方法として、ゲーリー・キルドールと金で片を付けるか、彼をだますか、著作権侵害に対処する現実的な選択肢はこの二つしかありません。IBMは、この問題にその両方で対処しました。
 彼らは、なんとQDOS( = MS-DOS)と同時にデジタルリサーチのCP/M-86を売ることで合意したのです。そしてデジタルリサーチに、売上見込みに対する前払い金として多額の小切手を書いたのです。ゲーリー・キルドールは喜んで帰宅し、非常に優れた製品であるCP/M-86は市場で優勢な地位を維持できると彼らの裁量に満足しました。しかし、結果的にはそうはなりませんでした。IBMは合意のもとに価格の決定権を持ち、PC-DOS( = MS-DOS)を60ドルで売り、CP/M-86を240ドルで売ったのです。ゲーリー・キルドールはIBMにだまされ続け、不満を言うこともできませんでした。
 
9-2. CP/Mその後
 これまで述べたように、マイクロソフト社が開発したMS-DOS(IBMは、これをPC-DOSと呼んだ)は、Windows全盛になった現在でも細々と販売されているのをご存じでしょうか?
 Windowsの使い勝手がよいことは理解できても、人間の操作を介さない分野では、現在でもMS-DOSが使われているのです。
 MS-DOSは現在のOSに比べると遙かに軽いOSで、古いマシンでもサクサクと動作してくれます。486というインテルのCPUはおろか、それ以前の386でも十分で、メモリも16MBもあれば事足ります。
 また、MS-DOSの歴史は長いのでソフトもたくさんあります。パソコン通信などで相変わらず多くのソフトが出回っています。
このOSを作って一大財産を築いたマイクロソフトはもはやこのOSは販売してません。というよりも、このOSから離れたがっているようでもあります。
WindowsNTは、端からMS-DOSではコーディング(プログラム)されていないOSですし、Windows2000もNTの流れを汲むOSです。
マイクロソフトは、MS-DOSの痕跡をとどめないOSをすべてのコンピュータに移植したいようです。
そう、あの、あこぎなことをして急ごしらえした、しかしそれによって世界を制した、MS-DOS、Windows3.1の寝覚めの悪い過去から脱却しようとしているようです。
 
 現在のところ、MS-DOSと互換性のあるOSがいくつかあって、それを入手する事ができます。
もっとも入手しやすいのは、IBMの「PC DOS」です。IBMは、実は、以前からDOSを販売していて、Windows95発売後にもPC DOSはバージョンアップが行われました。現在では西暦2000年対策を施した「PC DOS2000」が売られています。
 また、米国Caldera社からは「DR-DOS」とうMS-DOS互換OSも販売されています。DR-DOSはもともと米国Digital Research社(デジタルリサーチ社、CP/MのOSを作ったゲーリー・キルドールが興した会社)が開発していたものですが、のちにデジタルリサーチ社は、米国のNovell社(ノベル社)に買収されました。そしてそのNovell社のDOS開発部隊がCalderaという会社に移動していったん「Open DOS」という名前でOSを開発し、その後また「DR-DOS」に名前が戻って現在に至っています。
 これを見る限り、やはりMS-DOS(マイクロソフト社の開発したOS)は、デジタルリサーチ社のCP/Mのパクリであったことがわかります。まあ、これはあまり法的な根拠はなく、こんなことを文面にしてマイクロソフト社に見つかったら厳しいお叱り(場合によっては裁判沙汰?)を受けるかも知れません。
 MS-DOS互換OSでは、さらに「Free DOS」というものもあります。これは名前の通りフリーなソフトなので今後おもしろい展開をするかもしれません。
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10. パソコンの文化10 (2000.07.28)
 
10-1. コンパック(Compaq Computer Corporation)
■BIOS(バイオス)の開発
 IBM PCには、特別な部品は使われていませんでした。部品の大半は、他のメーカから買ったできあいのものでした。IBMは、IBM PCの設計を他社がコピーするとは思っていませんでした。他社がこれを作ろうとしたら、IBMより高い単価で部品を買わなければならないという計算があったからです。ですから、IBMは気前良くシステムの技術情報を公開していました。だから、逆に言えばPCクローンを作るのは、ある意味では実に簡単なことだったのです。
 IBMは、コピーを推奨していたと考えるかもしれませんが、これには全く正反対の意味がありました。IBMの技術文書には、罠が仕掛けられていたのです。
 その罠とは、IBM PCのROM-BIOSに焼き込まれているプログラムの完全なリストだったのです。
 ROM-BIOS は、CP/Mというソフトを開発したゲーリー・キルドール(Gary Kildall)が発明したもので、同じバージョンのCP/Mをさまざまなタイプのコンピュータで使えるようにするためのプログラムです。基本入出力システム(BIOS)は、汎用のオペレーティングシステムの本体を特定のハードウェアにつなぐ役割を持っています。
今、IBM PCと完全互換するクローンを作るには、IBM製のROM-BIOSチップを使うか、あるいはIBMのものとそっくりなチップを作らなければなりません。IBMはそのROM-BIOSチップを販売していませんでした。また、IBMのROM-BIOSには著作権があり、ROMに焼き込まれたコードは法律で保護されていました。IBMが著作権を持つBIOSコードを公開したのは、他社がIBMのコードを見ずに、あるいは影響を受けずに独自のBIOSを書いたと主張するのをきわめて困難にするためだったのです。
 コンパック・コンピュータは、このBIOSを独自に開発し完全互換することに成功した会社なのです。これは、リバースエンジニアリングの勝利でもありました。リバースエンジニアリングとは、競合他社のマシンが持つ機能を法的に保護されている実行方法を避けてコピーする技術のことです。リバースエンジニアリングには、うんざりするほど長い時間と多くの費用がかかります。その上、この作業はバージン、つまりIBMのROM-BIOSを一度も見たことがないと証明できるプログラマしかまかせられない、しかも優秀なバージンを捜すのが、これまた大変なのです。
 
■コンパックの創立
 コンパックは、15人の上級プログラマによる数カ月にわたる労力と100万ドルの資金を費やして、IBM PCのBIOSリバースエンジニアリングに成功しました。
 コンパックは1981年、ロッド・キャニオン、ジム・ハリス、ビル・マート(Rod Canion、Jim Harris、Bill Murto)によって設立された会社です。設立の経緯はあいまいでレストラン経営、HDD装置製作、などいろいろな話がなされていて、最終的にヒューストンのレストラン、ハウス・オブ・バイズで相談をしていた三人は、テーブルに敷かれたブレースマットにコンパックの最初の構想をメモしたと言います。
 三人の創業者全員が、テキサス・インスツルメンツ社(TI)でマネージャの経験がありました。コンパックはテキサス・インスツルメンツ社のスピンアウト組ということもできます。彼らは、IBMと張り合おうとしていたほかの連中とは違って、本当に重要なのはハードウェアではなくソフトウェアだと言うことに気づいていました。自分たちのコンピュータを成功させるのは、発売当時からすぐに利用できるソフトウェアが大量に必要だ。だから、彼らはあえてIBMに対抗するようなコンピュータを作るよりも、全く同じコンピュータを作ってIBMで使われているソフトウェアをごっそり利用してもらおうと考えました。つまり、彼らは、IBM PCの徹底的な互換を作ることに決めたのです。Compaqの名前の由来は、Compatibility(互換性)とQuality(品質)から来ています。つまり、IBMコンピュータと全く同じで品質が良いですよ(同じ品質なら安いですよ)という意味なのです。
 
■コンパックの販売戦略
 コンパックの設計者たちは、IBMより厳密なコスト計算を行いました。その結果、多額の間接経費を必要とするIBMよりも小企業の方が低価格で製品を作れ、なおかつそれなりの利益を上げられることを導きました。しかも、単にIBMより安く作れるとういう程度ではなく大幅に安く作れるという検証をしたのです。ちなみに、コンパックの最初の製品は、同等の性能を持つIBM PCに比べて約100ドルも安く作ることができました。
 新製品を売り込む会社ならどこでもそうであるように、顧客がコンパックのコンピュータに乗り換える気になるようにコンピュータの機能をさらに加えることにしました。単に差別化するために、コンパックの最初のモデルは13kg弱しかないポータブルなものにしました。IBMはポータブルを作っていなかったのです。
 コンパックは、コンピュータディーラ、それもすでにIBM PCを売ったディーラに高い評判を得ました。コンパックの製品はすぐに入荷するが、IBM PCの供給はとぎれがちだったのです。またディーラへのマージンは、36%で、IBMの33%より利率もよかったのです。また、IBMと違って、大企業へ直接販売をせずすべてディーラに任せていたことも好印象を与えました。
IBMに遅れること一年、コンパックの製品は1982年暮れにIBMと同じくまずシアーズ・ビジネスセンターとコンピュータランドで売り出されました。
 IBMより高性能のマシンを持って、IBMの尻尾につかまったコンパックは、初年度に47,000台のコンピュータを売り、111,000万ドルの売り上げを達成しました。これは、設立まもない企業の最多売り上げ記録でした。
 ヒューストンのコンパックの本社では、夜遅くまでこうこうと明かりがついています。一般的に言われているアメリカの仕事文化と違うことがわかると思います。
社員は長時間猛烈に働いています - そしてそれが気に入っているふうでもあります。個人には、大きな責任と自由が与えられているそうです。新しい試みが奨励され、たとえアイデアが失敗に終わっても会社からの支援は無くならない。その結果、コンパックはパソコン業界で最高かつ最も革新的な会社になり、メガメディアで最も明るい未来が約束されていると言われています。コンパックで働くならストレスと変化が好きでなければなりませんが、ここには成長と一番乗りのどでかい機会があるのです。
 
 2000年前までパソコンの販売台数1位の座にいたコンパックも同様のクローンマシンで急成長を遂げたDellコンピュータに首位の座を奪われ、2001年9月には米国ヒューレット・パッカード社に買収されました。2001年8月末には、折からのIT産業市場の急ブレーキもあって同じ業界の雄であるGatewayも縮小路線を打ち出し、日本市場からの撤退を表明しました。
 
10-2. フェニックス・テクノロジー(Phoenix Technologies Ltd.)
 コンパックの成功の後、ボストンにあるフェニックステクノロジー社(1979年設立)もIBM互換のBIOSチップを開発しました。ただし、この会社は、これでコンピュータを作らずそれをクローンメーカに売ることを生業(なりわい)としました。フェニックス社から一個25ドルでROM-BIOSを買えば、たとえニュージャージーの倉庫で会社を始めた二人組でも、見た目にIBM PCそっくりでIBM PCと全く同じように動くコンピュータを組み立てられるのです。しかも、こうして作られたマシンはIBMより30%もやすい値段で買えるのです。
 こうしてBIOSクローンメーカーの台頭でIBMのもくろみはものの見事にはずれ、コンパックを中心とするIBM PC互換機を作るパソコンメーカが主導権を握り、パソコンそのものを左右するオペレーティング・システム MS-DOS - Windows、およびインテルのCPUがパソコンの舵を取っていくようになりました。
現在、BIOSチップを開発している会社は先に述べたコンパック社を始めとして、
 Phoenix 社
 AMI (米国 American Megatrends Incorporated) 社
 Award(米国 Award Software International) 社
 それに IBM 社
などが製造販売しています。
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11. パソコンの文化11 (2000.08.21)(2002.03.09改)
 
11-1. DOS/V(ドスブイ) = IBM DOS version J5.0/V
 DOS/Vと呼ばれる言葉を聞いたことがあるでしょう。今でこそOSの一元化が進み、ハードウェアの互換性も高まってきたのでこうした言い方をする人は少なくなりましたが、1990年代後半はWindows、DOS/V、MS-DOS、クローン、PC-AT互換機、などといろいろな言葉が飛び交い、よく理解せず使っていました。当時、これらの言葉の意味をよく理解してちゃんと使い分けていた人はどれだけいたでしょう。
 当時、私のまわりの仕事場では、Windowsで使えるコンピュータをDOS/Vと呼んだり、IBM PC-AT互換機と呼んだり、Windowsコンピュータと呼んだりしてました。
 ちょっと時代を遡って(さかのぼって)MS-DOSができた時代を見てみましょう。
マイクロソフト社が開発したOS、MS-DOSは、1981年に登場します。このOSを載せて16ビットパソコンをIBMが作り、このパソコンで動く表計算ソフト「Lotus1-2-3」が大当たりし、空前の大ヒットを見ます。
 
 日本も大ヒット??
 
には違いないのですが、日本には日本のお家事情があり、IBMのハードウェアを用いた、いわゆるPC-ATコンピュータ相当を用いた(これをPC-AT互換機という)MS-DOSではなく、NEC(日本電気)のPC-9801というコンピュータにMS-DOS(その前はN88日本語BASIC)をのせたコンピュータがバカ売れしていたのです。
ここでPC-ATというものの本当の姿を紹介しておきましょう。
 
・IBM社 PC/AT
  PC/ATは、IBM社が1984年に発売したパーソナルコンピュータ。
  PC/ATは、「The Personal Computer for Advanced Technologies」の略。
・基本仕様:
  CPU: インテル80286
  基本スロット: ATバス16ビットISAバス
  最大内蔵メモリ: 16Mバイト
  プロセッサモード: リアルモード,プロテクトモード
・特徴:
  マザーボードにすべての機能を搭載するのではなく、
  拡張カードをバスに取り付けて機能を拡張する。
  IBM社が、ハードウェア/ソフトウェアに関する技術
  資料を公開した、「オープンアーキテクチャ」方式。
 
 これを見ると、現在のコンピュータとは全く性能がかけ離れていることがわかります。インテルの80286のCPUなんか誰ももう使ってませんし、ISAバスの拡張ボードも使ってません。RAMメモリが最大16MBなんてOSすら走りません。こんなPC/ATの性能仕様を知らないで、「使用するコンピュータはPC-AT互換機でお願いします。」なんて言っていた1990年代後半当時を恥ずかしく思い起こします。
 
 この意味の裏側には、NEC9801シリーズではなく米国などで使われているWindowsが走るコンピュータハードウェアのことを指していたのです。ハードウェア内部仕様は大きく変わってしまったのにも関わらずこの言葉が使いやすかったため、何の配慮もせず使っていたのです。ですから、Windowsで走るコンピュータのことをPC-AT互換機と言ったのは正しい表現ではなかったのです。
 強いてそうしたニュアンスを持たした表現をするとすれば、PC/AT互換機ではなく、DOS/Vマシン対応機と言ったほうが正しかったのでしょう。なお,DOS/Vの「V」はグラフィックの仕様である「VGA」の「V」のことです。VGA(Video Graphics Array)は1987年にIBMが決めたモニタ画面のグラフィック表示規格で640x480画素、16色という取り決めです。ですからこれもまた古くなってしまってますけど。
 今はもうマイクロソフト社はMS-DOSそのものから脱却したがっていますから、DOS/Vという言い方すらなくなって来ているのが実状です。
 
 NEC PC9801のヒットについては後で触れます。
 日本ではDOS/Vと呼ばれる魔法のソフトが出るまではPC-AT互換機はあまり売れず、NEC PC-9801シリーズのコンピュータが一人勝ちしていました。
 
 何故???
 
その理由は、PC-AT互換機は、NEC PC-9801シリーズパソコンに比べて安価だったけれど、日本語処理ができなかったからです。これが世界的に普及したPC-AT互換機が日本で普及せず、日本語処理の堪能なNEC 9801シリーズに後塵を拝していた一番の理由です。
NEC9801コンピュータは、コンピュータの内部に漢字変換をするハードウェア回路(ROM = ロム)を持っていました。
インテルがマイクロチップを出した1970年代前半、マイコンが受けつける情報は数字のみ、いや2進法のビットのみで、論理回路そのものでした。それを人間がわかりやすいようにアセンブラと呼ばれる数字データに変える論理プログラムができ、フォートランと呼ばれる言語で動くようになり、BASICと呼ばれる英語構文に似たプログラム言語が開発され、これをマイコンに移植しました。これらは、マイクロソフトのビル・ゲイツ(実際はポール・アレン)やアップルのジョブズ(実際はウォズニアク)がやったのです。だからこれらはすべて米国の環境でした。
日本でもそれを応用にしてマイコンが快適に動くようカナが走るようにしたり漢字が扱えるようになりました。当時、コンピュータの性能は今ほど進んでいたわけではなかったので、日本語変換はハードウェア(回路)で担当するという手法が使われていました。
それをうまく行ったのが日本電気のグループで、これがNEC PC-9801シリーズの大成功につながるわけです。
ですから、アメリカ、ヨーロッパがIBM PC-AT互換機にMS-DOSを載せてLotus1-2-3でビジネス社会に革命を起こしていても日本は、一太郎の日本語ワープロが動き、マイクロソフトの「マルチプラン」が動くNEC PC-9801が圧倒的に強かったのです。
ですけど、PC-AT互換機の価格は魅力的でした。
このPC-ATを日本語環境で動かすために、日本語が理解できる手だてを考えなければなりません。NEC PC-9801がやったようなやり方でコンピュータに日本語変換のROMを入れるとすると、PC-AT互換では無くなってしまうのでソフトウェアで補う必要があります。
それも、ご本尊のMS-DOSを傷つける(手を加える)ことなく。
こうした日本語変換の付属OS作りが日本IBMで始まりました。
このOSを作り出す前、日本IBMでは日本語対応にすべくAX規格を打ち出したのですが、ハード側に漢字ROMを拡張ボードに入れることをしなければならず、これがまた100,000円と高価であったため日の目を見ませんでした。
 
ソフトによって日本語変換ができるシステム、これが完成したのは1990年です。
これは「DOS4/V」と呼ばれました。翌年、1991年3月にはさらに使い勝手のいい変換ソフトを目指すべくハードメーカーおよびソフトメーカーを巻き込んだ団体を組織します。この組織は、OADG(Open Architecture Developers Association)と呼ばれました。日本語名の正式名称は,「PCオープン・アーキテクチャ推進協議会」と言います.
こうしたOADGの努力のおかげでMS-DOSそのものになにも手を加えず日本語をソフト的にサポートできる変換ソフトが誕生したのです。これができたのは、ちょうどWindows3.1が発売された時期で、CPUは486に移行し始めた頃です。日本IBMの手によるDOS/Vの成功により、安価なDOS/Vマシン(ハードウェア)が堰(せき)を切ったように米国、台湾から流れ込み米国の優れたソフトの日本語化が進み、日本のパソコンの地図がNEC PC-9801からぐらりとDOS/V互換機に傾いて行くことになります。
 
●DOS/Vマシンを普及させたもの
 日本語の表示をソフトウェアで処理するDOS/Vは、ハードウェア(漢字ROMを持つ)で処理ができるPC98シリーズよりも日本語処理速度の点で劣っていました。しかも、我が国にはPC98シリーズ用の多くのソフトウェアがありました。このため,DOS/Vマシンは、当初から急速に普及したわけではありません。
しかし、CPUが発達して処理速度が大幅に向上し、Windows環境でも十分に使える能力になってきた時点で、PC98シリーズでなければならないメリットが減少してきました。Windows対応ソフトウェアは、マシンがDOS/Vであっても、PC98シリーズであっても動作しまました。DOS版のPC98シリーズ用のソフトを使う必要がなければ、もうマシンにこだわる必要はなくなったのです。そしてユーザーは安価なDOS/Vマシンに流れ出して行ったというわけです。こうしてマシンの価格破壊が始まりました。
 
 
11-2. MS-Windows(ウィンドウズ)
 俗に言う「Windows(ウィンドウズ)」のことです。
MS-Windowsは、米国マイクロソフト社がIBM MS-DOSをマッキントッシュのようにマルチタスク、マルチウィンドウズで操作できるように開発したソフトウェアです。
MS-Windowsは、DOS/V用(外国製の安価なパソコン)にもNEC98用(日本語漢字ROMを搭載したパソコン)用にも供給されていました。MS-Windowsの有利な点は、どのコンピュータであれWindowsのOSが搭載されていればWindowsに対応したソフトウェアが異機種間でも運用できることでした。
これは、画期的なことでした。
今までのパソコンは、海外の製品で良いものがあってもNEC PC-9801シリーズのコンピュータでは動かすことができなかったのに、Windowsを載せることでなんら問題なく使用できおまけに日本語環境も使えるようになったのです。
WindowsとDOS/Vの環境によって、日本のパソコンの地図がガラリと変わるようになりました。
MS-DOSは、テキスト(文字)・モードのOSであるため
これを搭載したパソコンは使いやすいとはいえませんでした。
 1983年11月、マイクロソフトの総帥であるビル・ゲイツは、アップルの使い勝手の良い環境を視野に入れながら、MS-DOS上で走るGUI(Graphical User Interface)の機能、つまり「ウィンドウズ」の開発を決断し発表しました。この決断は、MS-DOSを開発して2年も経っておらず、MS-DOSは破竹の勢いで勢力を伸ばしている時期の決断でした。
 最初のバージョンであるウィンドウズ1.03の出荷を始めたのは1985年11月でした。
このビルゲイツが想定したウィンドウズは将来を見越して多くの機能を盛り込んでいたため、メインメモリが256KBという当時のパソコンにとってはメモリをたくさん食いすぎて移植に非常な困難を伴ったと言われています。つまり発表はしたけれどもほとんど使えるようなシロモノではなかった、ということです。
ウィンドウズは、その後に発表されたどのバージョンでも、将来のマイクロプロセッサの性能を見込んで設計されていたため、出荷された当初は、遅い、オソイという厳しい評価をいつも受けていました。当時のパソコン性能ではヘビィすぎたのです。
1987年12月には次のバージョンの『ウィンドウズ2.0』とインテルの新しいマイクロプロセッサ80386に対応した『ウィンドウズ386』の2つを同時に発売しました。けれど『ウィンドウズ2.0』は、スケーラビリティ(MS-DOSのアプリケーションソフトをこのソフトで問題なく使えるという意味)の面で問題がありました。MS-DOSで開発されたソフトがWindows2.0で動かないという問題が出たのです。
しかし、1990年5月にリリースしたウィンドウズ3.0では、MS-DOSとの間のアプリケーション・ソフトウェアのスケーラビリティを確保していました。
ウィンドウズ3.0は、
 
  1. いくつもの大きなアプリケーションソフトを起動できるマルチタスク機能が充実
  2. GUIの採用による操作性の改善
 
がなされていたため、発売と同時に爆発的なヒットとなりました。
 
 1992年4月、マイクロソフトは、Windowsの地位を決定づける最新バージョン「ウィンドウズ3.1」を発表します。このOS発表の意義の大きさは、ウィンドウズ3.0を搭載したパソコンであれば、MS-DOS向けやウィンドウズ3.0向けに開発されたアプリケーション・ソフトウェアがすべて走ったことです。ウィンドウズはオープンであり、MS-DOSとの間のスケーラビリティも備えていました。それで、ウィンドウズ3.1は爆発的なヒットとなったわけです。
ウィンドウズ3.1は、3.0に比べて以下のような特徴を持っていました。
 
  (1) 高速セットアップモードでは、半分の手続きで
     セットアップが完了し使いやすい。
  (2) プロセッサは80386以上を想定、32ビットの
     アーキテクチュアに対応しているので、ファイル
     転送、複写、データの印字など約2倍から5倍の
     スピードになった。
  (3) 複数のアプリケーション・ソフトウエアが動いてい
     るときに、障害が起きたアプリケーション・ソフト
     ウェアだけを強制終了させることができるようになった。
  (4) 「トゥルー・タイプ」アウトラインフォントを標準サポート。
     アップルのように文字表現に広がりができるようになった。
  (5) 複数のアプリケーション・ソフトウェア間で効率の良い
     データ共有を行うOLE ( Obect Linking and Editing )
     機能を実現した。
  (6) 動画や音声を取り扱うマルチメディア機能を標準装備し、
     ペン・コンピューティングにも対応した。
 
●IBMの失敗
 Windowsの成功は、マイクロソフトにとって自立の(IBMから乳離れする)道を選んだことになります。IBMの庇護を受けられないマイクロソフトは大きな決断をしたとも受け取れました。マイクロソフトが自立していくことに対してBMが手放しで喜んでいたわけではありません。むしろマイクロソフトの成長を阻んだという事実が浮かび上がってきます。彼らはMS-DOSの成功、そしてPC-AT互換機の実質的なリーダになりつつあるマイクロソフト社(ソフト面)とコンパック社(ハード面)の2大勢力の牽制をするため、IBM主導の新しいコンピュータ、OS、そしてアプリケーションソフトを開発します。
それが、OS/2というソフトであり、PS/2というコンピュータでした。
『OS/2』は、ウィンドウズの兄弟です。ウィンドウズの基本コンセプトはOS/2と同じです。なにせOS/2も基本コンセプトはマイクロソフトが作ったのですから。しかし、IBMはOS/2というマルチタスク、マルチウィンドウOSを独自に押し進め、マイクロソフトは、Windowsを推進します。このライバル関係については、Windows95が出された時も、日本では女優の山口智子を起用して『OS/2』の宣伝を大々的に繰り返していましたのでご記憶されている方もおられると思います。しかし、結果はみなさん存じの通りです。誰も『OS/2』を使うことにはならず、時代の波の中に埋もれてしまったかのようです。『OS/2』の開発のようすは次回に述べたいと思います。
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12. パソコンの文化12 (2000.09.10)
 
12-1. PS/2 - PC-ATに続く32ビットパソコン
 1980年代は、IBMとマイクロソフト、それにインテルの三社の関係は良好であり、IBMが1987年4月に発売した32ビットパソコン「PS/2」用にもマイクロソフトはOS/2という新しいOSをIBMとともに共同開発してました。
PS/2というコンピュータは、
  ・80386 32ビットマイクロプロセッサを搭載
  ・マルチタスク機能
  ・仮想記憶(バーチャルメモリ)
  ・VGA(Video Graphics Array)装備
という機能を持っていました。
誰がみても、16ビットパソコンPC-ATに続く後継機種です。
このパソコンに搭載したOS「OS/2」は、マイクロソフトのウィンドウズと同じGUI機能を持つ「プレゼンテーション・マネージャ」というプログラムを採用していました。
IBMでは、そのころ、メインフレーム、オフコン、パソコンと大きく三つの体系に分かれていた製品群を統合して利用するため、SAA ( Systems Application Architechture ) という新設計思想を推進していました。大型コンピュータ(メインフレーム)を頂点としたコンピュータ王国のシステムラインアップをこれで構築する考えだったのです。
 
■ IBMとマイクロソフトの関係に暗雲
 IBMは大型コンピュータを視野に入れたグローバルなコンピュータ体系のもと『PS/2』(パソコン)の位置づけを行い、PS/2はその第一弾と位置づけたので、IBMから『OS/2』の開発を委託されていたマイクロソフトは話し合いの結果、ウィンドウズをSAAに合うように改定しました。それがOS/2であったのです。この時期、マイクロソフトにとっては『OS/2』も『Windows』も一緒のものだったのです。また、双方ともこのOSを32ビットパソコンの標準OSに育てたいという思惑があったので、二社の関係は親密でした。
  ところが、この関係が怪しくなってきます。
原因は、IBMが次期標準機になるであろうパソコンPS/2の詳細仕様をオープンにしなかったからです。これは伏線があります。昔、1984年、IBMがパソコン分野に進出して業界標準になる16ビットパソコンPC-AT機の詳細仕様を全てオープンにしたため、コンピュータの主導権をコンパック以下クローンメーカに奪われてしまったという苦い経験がありました。
 IBMは、この轍(てつ)を踏まないために、PS/2の発売に当たってコンピュータのデータ伝送路であるバスにマイクロチャンネル・アーキテクチュアという独自の技術を採用し、その仕様や技術情報を外部に公開せず、オープンからクローズドな戦略を展開したのです。
IBMが戦略を転換したことで、互換機メーカは、PS/2互換機の開発が難しくなります。マイクロソフト社は、IBM以外のメーカやISV(Independent Software Vendor = 独立系ソフトウェア会社)などが誰もが利用できるOSを開発してほしいと願っていましたので、両者の歩調が合わず二社の関係は悪化します。
 
■ Windows3.1の発表
 IBMとマイクロソフトの路線の違いが明確になってから1年半ほど経過した1992年4月、マイクロソフトは折から開催中のシカゴのコンピュータ・ショーで最新のバージョンであるウィンドウズ3.1を発表します。IBMと袂(たもと)をわかつ公の発表でした。Windowsとしては2年ぶりの改定になりました。
これに対し、1987年4月に発売したPS/2コンピュータにOS/2 ver 1.0 を搭載したIBMは、その後OS/2の改定を行い、ver 1.1, 1.2, 1.3 とバージョンアップし、マイクロソフトがウィンドウズ3.1を発表する直前の1992年3月末にはOS/2 ver 2.0 の発表を行いました。
 この時期になるともはや両社の対立は誰の目にも明らかで、パソコンのOS市場を実質的に押さえてきたマイクロソフトに対するIBMの公然の巻き返しが始まります。
 
■ WindowsNTの発表
 両者の対立の深まりとして決定的な出来事があります。
『WindowsNT』の発表です。
『WindowsNT』は、現在のオフィスでは標準OSになりつつある馴染みの深いものだと思います。
簡単に言えば、個人ベースで発達したWindowsの操作環境を継承して、ネットワークで定評のあるUNIXというOSの概念を核に取り入れた安定性高い、それでいて使い勝手の良いOSのことです。マイクロソフトは旧来のMS-DOSの痕跡を持つ安定性に問題があるWindows95/98を暫時切り捨てて、WindowsNTとWindows2000に切り替えつつあります。WindowsNTはMS-DOSという痕跡を残していませんから、OSの構造から見れば全く別のもの、ということができます。このOSは当然IBMとはなんら関係ないものです。むしろ、IBMが戦略として掲げているメインフレームを頂点としたコンピュータ帝国を築き上げるという路線に矢を射るものでした。
 1993年5月24日、ジョージア州アトランタで開催されたアメリカ最大のコンピュータショー「コムデックス」と同時開催したウィンドウズ・ワールドで、マイクロソフトは新しい32ビット「ウィンドウズNT」を発表します。
 一方、IBMは、ウィンドウズNTの正式発表にぶつける形で、コムデックス直前の1993年5月18日に、OS/2の最新バージョン2.1を発表、それと同時にウィンドウズNTの対抗OSである「ワークプレスOS」を製品化することも明らかにしました。
 
12-2. OS/2 - IBMの対抗OS
 新しいPS/2 (パソコン界の大金字塔PC-ATの後継機種) コンピュータに合わせて、IBMは1987年に「OS/2」という新しいオペレーティングシステムを発表しました。OS/2は、実は、IBMがメタファー社やロータス社との間でアプリケーションソフト開発と平行して、マイクロソフトが開発していたものでした。この時期、ビル・ゲイツはIBMにべったりでしたし、IBMもマイクロソフト社に対してOS開発の多くを依存していました。
 
 OS/2の優れた点は、一台のコンピュータで同時に複数台のアプリケーションを動かせる本物のマルチタスク・オペレーションシステムだったことです。OS/2にはIBM自社用に「拡張版」と呼ばれる特別バーションのOS-2を用意していました。この拡張版には
「データマネージャ」というデータベースや、
「コミュニケーション・マネージャ」というIBMのメインフレームとのインターフェース
まで含まれ、高性能なメインフレーム用端末の機能を持たせようとしていました。PS/2の開発には、IBMパソコンのクローンを作って急成長し業界の主導権を握ってしまったコンパック社への対抗以上の意図があったのです。
 IBMは、パーソナルコンピュータの世界で反改革を起こそうと企てていたのです。IBMに忠実な数百万の企業ユーザーを、コンピュータ帝国の帝王である『メインフレーム』(大型コンピュータ)に再びひれ伏させようというもくろみでした。
 これらのパーソナルコンピュータとメインフレームの統合を目指したIBMの計画「SAA」の中の圧倒的な魅力を持つアプリケーションの役割は、「オフィスビジョン」(今で言うところのマイクロソフトの『OFFICE』のような統合ソフト)が果たすはずでした。
 
■ ビル・ゲイツOS/2コンセプトに難色
 OS/2 1.0はインテルのCPU、80286で動くよう設計されていました。IBMとの関係が親密だったOS/2開発初期のマイクソロフト社ビル・ゲイツは、IBMにOS/2のターゲットはストレートに80386にすべきだと主張しました。しかしIBMは、386にするとあまりにもミニコンピュータの性能に近づいてしまうのではないかと心配していました。386版OS/2を走らせた6台のPS/2モデル80でネットワークを組めば、IBMが販売しているAS/400ミニコンピュータの三分の一の価格で二倍の性能が達成できてしまう、そんなことをしたら、AS/400ミニコンピュータに20万ドルも払うユーザがいなくなってしまう。そもそもIBMがパソコン、386ベースのモデル80(PS/2)を開発した唯一の理由がコンパックがすでに何千台ものデスクプロ386を売っていたから、という単なる理由からだったのです。それ以上のものはありませんでした。ましてやそのパソコンを自分のところのミニコンピュータにとって換えようなどという大それたことは考えも及ばなかったはずです。
 そこでIBMは、マイクロソフトの技術的な側面からの反対にもかかわらず、OS/2はゲイツが的確にも「脳に障害がある」と形容した286のマイクロチップをターゲットにして開発を進めたのです。
 OS/2は、大きなメモリ空間をアドレスでき、仮想メモリも扱うことができました。マルチタスクや、マルチスレッドに対応しているだけではなく、マイクロソフトが別個に開発しているウィンドウズや先鞭をつけて先行しているマッキントッシュに比べて多くのグラフィック・オプションを備えていました。仕様だけ見れば、OS/2はとてつもない製品だったのですが、その仕様の裏側にはゲイツが「貧弱なコード、貧弱な設計、貧弱な製作過程、その他さまざまな貧弱さ」と呼んだものが潜み、IBMは、その製品化に際してその役割をマイクロソフトに押しつけてきたのです。
 
■ OS/2とマイクロソフト
 1989年までのマイクロソフトは、IBMの指示に従ってOS/2とこのオペレーティングシステム対応のアプリケーションの開発に専念していることを公然と認めていました。表面的には、マイクロソフトとIBMのあいだには万事うまくいっているように見えました。しかし水面下では、両者の関係に大きな問題が持ち上がっていたのです。
イギリスのハースリーにあるIBMの研究所に勤めるグラフィック・プログラマの一団は、IBMにとっては積極的で好ましい連中でした。彼らは「プレゼンテーション・マネージャ」(マイクロソフトのPowerPoint、 アップルのクラリスインパクトのようなもの)の開発にあたって、開発の当初はできが悪くインプリメントの難しいグラフィック・イメージ・モデルを使うようにと作る側であるマイクロソフトに強制しました。ところがその後、OS/2をはじめとするSAAのオペレーティングシステムの開発では、あの嫌われ者のワーノックの会社、アドビ・システムズの製品であるポストスクリプトを使うように要求してきたのです。
 1990年初め、OS/2はファイルシステムを新しくするなど、いくつかの改良を加えた1.2にバージョンアップしました。しかしながらOS/2が1セット売れるあいだに、MS-DOSが200セット売れるという状態は変わっていませんでした。マルチウィンドウ、マルチタスクはまだまだ完成の域に達していなくて、安定性があって使い勝手の良いMS-DOSの方がまだマシ、と市場は考えていたのだと思います。
そこでゲイツはIBMに、286ベースのOS/2を破棄して386ベースのバージョン2.0に移行すべきだともう一度提案しました。ところが、テキサス州オースチンにあるIBM研究所は、マイクロソフト社とは別に「OS/2ライト」の通称で呼ばれているOS/2 1.3を独自に用意していたのです。
バージョン1.3「OS/2ライト」は表面的にはすばらしいものに見えましたが、実際はそれほど充実した製品ではありませんでした。1.3は1.2より処理速度が速く、メモリも2Mバイトしか必要としませんでした。しかしながらユーザーインターフェイスの応用速度を上げるために、サブシステムの性能を犠牲にしていたのです。つまり、「OS/2ライト」の実際は、外見ほど優秀な製品ではなかったのです。しかし、評論家に高く評価されるソフトウェアをようやく作り出せたことに気分をよくしたIBMは、OS/2ファミリーの全製品を1.3対応に使用するといい始めました。その中には、ネットワーク・ソフトウェアやデータベースプログラムまで含まれていました。これらの製品がそのOSに合うように最適化が必要なユーザーインターフェイスさえ持っていなかったのに、です。
 処理速度の遅いインテル80286CPUに対応したOS、「OS/2ライト」バージョン1.3の将来性を危ぶみ、インテルのCPUチップ80386に特化したOS/2バージョン2.0への移行を強く推していたマイクロソフト社にとって、IBMのこの考えは「傷ついた脳から生まれたもの」としか思えませんでした。IBMが行おうとしている開発コンセプトを知ったビル・ゲイツは、それをはっきり口にしたのです。
OS/2のできの悪さを見たビル・ゲイツは、MS-DOSの消滅(OS/2によって出番がなくなること)も、MS-DOSの利益の消滅もあり得ないことを見抜きました。
1989年を境にして、マイクロソフトはOS/2から離れ始めました。マイクロソフトにとっての次なる最善の道は、MS-DOSに新しい顔を与えることだったのです。そして、その新しい顔はウィンドウズの新しいバージョンだったのです。マイクロソフトは、七年間にわたるマッキントッシュのアプリケーション開発を通して、グラフィカル・ユーザインターフェース(GUI)について学んだことを、ウィンドウズの新バージョン3.0にすべて盛り込もうと考えていました。ウィンドウズ3.0は、386プロセッサを搭載したより強力なパーソナルコンピュータをターゲットにしていました。ゲイツ自身が、「1990年代のビジネス用途のデスクトップ・コンピュータ市場を独占する」と予測するパーソナルコンピュータをターゲットにしよう考えたのです。マイクロソフトにとってのウィンドウズは、ユーザーにOS/2の機能の90%しか提供できないけれどMS-DOSの資産価値を損なわない製品だったわけです。ゲイツはしだいに「OS/2はネットワーク・アプリケーションを走らせるためだけのオペレーティングシステム」と見なすようになっていました。
 
■ 『OS/2』販売の見識者の予測
 PS/2の発売予測から何カ月もたってようやくOS/2 1.0が出荷されたとき、パーソナルコンピュータ業界の大物の誰もが自社のマーケットリサーチ・アナリストに、OS/2の数量ベースはいつMS-DOSを上回るかと尋ねたといいます。多くのアナリストたちは、1990年代の早い時点、場合によっては91年にも逆転するだろうと予測しました。しかし、実際にはそうはなりませんでした。
 ただ一人、ビル・ゲイツだけは、OS/2は、絶対にMS-DOSを追い抜けないと踏んでいました。理由は先に述べたとおりです。しかし、他の人たちはIBMの大きな力を過信して、MS-DOSはOS/2に飲み込まれるだろうと考えていたのです。これはとても興味あるところです。
 一体全体、パーソナルコンピュータ業界におけるマーケットリサーチの実態ってのはどのようなものなのでしょう。
マーケットリサーチ会社は買い手と売り手の双方を調査して、未来を予言しようとします。彼らは何百万バイトものデータを集めて処理をし、S字需要曲線に当てはめて何がヒットし、何がヒットしないかを予測するのです。彼らがやっている大部分の仕事は、プードゥー(Voodoo)*の呪術なのです。従ってプードゥー(Voodoo)と同じように、彼らの予言の当たり外れは、いけにえ、つまり顧客の精神状態によってどちらにも変わるものなのです。つまり、顧客が喜ぶような評論を下してやることがマーケットリサーチ会社の大きな仕事で、買い手や売り手が嫌がる予測(たとえそれが本当だとしても)はしません。そんなことをすればオマンマ(食事)にありつけなくなってしまうからです。プロ野球が「読売巨人軍」を中心に回っていて、評論家達が(阪神の掛布も、広島から移籍した川口も日本テレビで)巨人を阿って(おもねって)評論活動をするのと同じ原理です。
 
   ▼Voodoo:ブードゥー教 (西インド諸島などの黒人間に行なわれる
    アフリカ起源の一種の魔教)、(ブードゥー教の)まじない, 魔法
    画像ボードで3Dfx社が出している製品にVoodooとうのがあります。
    摩訶不思議、ほんとかいな、という言葉のニュアンスでしょうか。
 
 顧客であるハードウェア会社やソフトウェア会社は、マーケットリサーチ会社に数千ドル、ときには数十万ドルもの金を払います。それで何を得るかと言えば、自分の勘が正しいかどうかを確認しているにすぎないのですけど。誰もが知りたがったのが、OS/2の数量ベースの売り上げがいつMS-DOSを上回るかということだったことを想い出して下さい。この仮題には、「IBMが推しているのだから、OS/2はMS-DOSを追い越すはずだ」と言う前提条件(欠陥でもあるが)が当然あります。そもそもお金を払って予測を依頼する顧客がOS/2 の成功を望み、リサーチする側もそれに応えるような回答をだそうとしているのですから、OS/2の成功間違いなし、となってしまうのです。そしてデータクエスト、インターナショナル・データ・コーポレーションやインフォコープといったマーケットリサーチ会社はいつもの需要曲線にしがみついて、OS/2は大ヒットになるだろうと繰り返し予言したのです。この予言に反対する意見はまったくありませんでした。
 
■ OS/2の失敗
 OS/2 1.0は大失敗でした。売り上げもひどいものでした。少なくとも最初のバージョンに関する限り、性能的にもひどいものだったのです。ユーザは、なにも今さらOS/2にしなくてもという感覚がありました。たとえば、アプリケーションの一つであるクォータデック社の「Desqビュー」などを使えば、既に手持ちのMS-DOSアプリケーションでもマルチタスクで動かすことができたのでOS/2を必要としなかったのです。IBMの製品という点だけの理由で魅力を感じていた独立系のソフトウェア開発会社もOS/2の失敗が確実になってきた段階でOS/2用アプリケーションの開発をストップしました。
ですけど、OS/2の失敗はすべてがIBMの責任というわけではありませんでした。
 OS/2の失敗の原因の半分は、1980年代末に起こったコンピュータ・メモリの危機的な品薄状態にありました。(このメモリの危機的な品薄状態というのは、日本の半導体メーカ、特に東芝、が米国市場を圧倒しているのでアメリカ政府がその危機を打破するために東芝パッシングをしてメモリの入荷を抑えたという裏話があります)。
 
■ OS/2の失敗とメモリ
 MS-DOSは、哀れにも640Kバイトしかアドレスできません。これは、MS-DOSの根本規則です。
今我々はRAMを64MBだ、128MBだと言って増設して使っていますが、MS-DOSにはそのメモリを認識できる能力(アドレス)が0.64MB(=640KB)しかなかったのです。
ところがOS/2は最大16Mバイトまでのメモリを利用でき、実際、少なくとも4Mバイトのメモリがないと最低限の処理速度も達成できなませんでした。しかし不運なことに、アメリカの半導体メーカーが、ちょうどダイナミック・ランダムアクセス・メモリ(DRAM)の市場を日本に譲り渡したとき、それまでの6倍という突然の需要が生まれたのです。
 1975年、日本の通産省は、日本国内の代表的半導体メーカーをNECと東芝、富士通と日立と三菱という二つのグループに分けました。そして、アメリカの64KビットDRAM市場に国ごと挑戦して勝ったのです。そして1985年には、この二つの日本のグループはアメリカのDRAM市場の90%を占めるようになりました。すでにDRAM市場に参入していたインテルをはじめとするアメリカの半導体メーカーは利益を上げられなくなり、DRAMの生産を中止せざるを得なくなりました。その結果、世界的なDRAMの品薄状態が起こることになったのです。そこへさらに悪いことにアメリカ商務省が、アジアのDRAMメーカーはダンピング、すなわち生産コストを下回る価格で販売していると非難したのです。日本企業はアメリカ政府との間で、アメリカでのDRAMの販売数量を規制するという取引を結びました。信頼できるDRAMの供給元が、ほかに存在しない時、にです。これはとんでもない間違いだったのです。こうしてアメリカに入ってくるメモリが絞られたため、メモリの供給量は落ち込み、同時に需要が上昇しました。そしてお馴染みの需要 - 供給効果(欲しい客がたくさんいるのにものがないと価格は上がり、商品がだぶつくと価格が下がる)によってDRAMの価格は上昇を始め、わずか二、三ヶ月のあいだに二倍まで高騰しました。こうした品薄の状況の中1MビットDRAMの唯一の供給元だった東芝は、1989年にDRAMだけで10億ドル以上の収益を上げました。その最大の貢献者は、ほかならぬアメリカ政府だったのです。そして割を食ったのがパソコンユーザとOS/2を開発したIBMだったのです。
 価格が二倍になるというのは、どんな業界にとっても大問題です。しかも、価格は継続的に下落するものだという前提で成り立っている業界にとっては、パニックを引き起こしかねないほどの大問題でした。OS/2を襲ったのはまさにそのパニックでした。DRAM価格は単なるバブルにすぎませんでしたが、それでもしばらくのあいだは、これで世界も終わるのではないかというほどひどい状態が続いたのです。DRAMの突然の値上がりで、ユーザーが自分のシステムでOS/2を走らせようとすると、必要なメモリ(4MB程度)を追加するのに1000ドル(\140,000)の費用が必要でした。(今 = 2001年では128MBのDRAMが15,000円ほどで手に入ります。当時これだけのメモリを買おうとしたら4,480,000円 ! も払わなくてはなりません。)すでにOS/2アプリケーションの開発に着手していたソフトウェア開発会社はそれだけの金を出してOS/2を購入するユーザがどれだけいるだろうか、と不安になりました。
 1988年秋、メモリをやたらたくさん食うアップルは値上げをやむなくされ、マッキントッシュの売り上げに壊滅的打撃を受けましたが、値上げの主な理由はDRAM価格の上昇にあると説明していたくらいなのです。
同じようにメモリ価格の高騰は、OS/2用ソフトウェアの需要と供給の双方のバランスを断ち切ってしまったのです。
現在のWindows(DOS/V)の成功の裏にはRAMが非常に安くなったことと、CPUの性能が驚異的に上がったことが上げられます。
 7年前までは、RAMが1MBで\10,000ほどでしたから、128MBのRAMを実装しようとしたら128万円が必要でした。RAMが非常に高いので、ソフトウェアでRAMの容量を見かけ上2倍にしたり4倍にしたりすることを真剣にやってました。こうするとシステムが不安定になったり、速度が遅かったりでパソコンを動かすのに薄氷を踏む思いで操作をしていたのを思い出します。RAMの価格が下がったのと同時にこのソフトウェアは急速に姿を消して行きます。今現在、DRAMメモリは日本ではなく、韓国やマレーシアなどの東南アジアで安く作られています。
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13. パソコンの文化13 (2000.10.10)
 
13-1. 「オフィスビジョン」(OS-2の統合ソフト)
 コンピュータで使うアプリケーションソフトは「Office」(WORD、Excel、Power Point)しか知らない、というパソコンユーザが多いことと思います。しかし、パソコンにはたくさんのアプリケーションソフトに支えられて今日の大きな市場に成長してきました。アプリケーションソフトも時代とともに淘汰(とうた)が繰りかえされました。『オフィスビジョン』というのは、IBMが意欲的に取り組んだ統合ソフトです。現在のマイクロソフト社の『Office』のようなものです。しかし、これも荒波にもまれて藻屑(もくず)と消えてしまいました。
 1989年5月16日、このアプリケーションソフトはIBMの大々的な発表で幕が開きました。IBMの国内マーケティング部門の部長であるジョージ・コンレイズがその発表の演壇に向かいました。まだ43歳のコンレイズは、IBMの出世街道をすばらしいスピードで駆け上がっていました。テレビカメラの向こうでは、25,000人に及ぶIBMの社員のほか、部品会社の人間や重要な顧客たちが衛星経由でこのプレゼンテーションに見入っていました。
 「オフィルビジョン」は4,000人年の労力と10億ドル以上(2400億円以上)の費用がかかっていました。慎重に作られた台本をもとに、コンレイズをはじめとする関係する人々がこの製品を説明しているのを聞いていた人達はオフィルビジョンはアメリカのビジネス界に革命を巻き起こすのではないかと思えてきたと言います。巨大なメモリと処理能力を持つIBM PCの『オフィスビジョン』は、彼らの構築するコンピュータシステムの中で「プログラマブル・ターミナル」と呼ばれていました。プログラマブル・ターミナルは、ビル内にあるすべてのメインフレームからもしくは必要であれば地球上のあらゆるメインフレームからデータを集めてくることができました。ネットワーク環境に強い、大型コンピュータとの相性のよいアプリケーションソフトだったのです。ユーザは、データがどこにあるかを知る必要はありませんでした。必要なデータが集まると、今度はそれをわかりやすいカラフルなグラフィック表示に変えてくれるのです。オフィスビジョンの登場で、企業の経営者たちは初めて社内のコンピュータに蓄えられた貴重なデータを直接、そして気楽に目を通せるようになるのです。このシステムがあれば重役室の向こうからでもデータにアクセスし洗練されたツールを使って通信を行い、直感的に理解できる方法で全社的な情報を表示し利用できるのです。さらに『オフィスビジョン』は、タイピストやファイル整理係の仕事まで助けてくれるはずでした。 
 「このすべてが一台あたり7600ドル(\1,100,000)で手に入るのです。もちろん、この価格にはIBMのメインフレームの料金は含まれておりませんが。」とコンレイズは壇上で発表します。
 IBMはPS/2(コンピュータ)、OS/2(OS)、そしてオフィスビジョン(アプリケーションソフト)を使って、他の誰もがチャンス到来と考えていたコンピューティングの新しい波に彼らも飛び乗ろうとしていました。
  コンピューティングの第一の波はメインフレームでした。
  第二の波はミニコンピュータで、
  第三の波はパーソナルコンピュータでした。
そして次に、
  「ネットワーク・コンピューティング」という第四の波
が迫ろうとしていると考えられていました。そこでIBMはSAA( Systems Application Architechture = 大型コンピュータからパソコンまでの統一的に構築する考え) と『オフィスビジョン』の両側面に大量の資金を投入し、第四の波が最初の三つの波とどうよう彼らを中心に回るように努力したのです。つまり、ネットワークの時代になってもIBMは主導権を握り続ける、という波乗りを目指したのです。
メインフレームは大企業向け、ミニコンピュータは中規模の企業向けでした。そしてパーソナルコンピュータは小企業だけでなく、企業の経営者たちが『オフィスビジョン』環境の中で、「プログラマブル・ターミナル」として利用することを目指したものだったのです。
  ・・・
 だがIBMにとって残念なことに、1991年になってもオフィスビジョンは姿を見せませんでした。結局、使いものにならないコード(プログラム)の山を築いただけで、出荷期日も守れませんでした。
そのうえ、アメリカの産業界は、従業員が使うコンピュータに各従業員の経費の一割しか割り当てるつもりがないという事実に直面するのです。
つまり、秘書が使えるコンピュータは、3000ドル(\450,000)のパーソナルコンピュータであり、エンジニアが使えるワークステーションは一万ドル(\1,500,000)であるといった具合です。
仮にも、もし、『オフィスビジョン』がきちんと動いたとしての話なのですが、オフィスビジョンはこの基準の少なくとも二倍の費用がかかるのです。これに気付いたIBMは新しく贅肉をそぎ落としたオフィスビジョン2.0の発表を行いましたがこれも見事に失敗しました。
 
 
13-2. 「トップビュー」(IBMの作ったマルチウィンドウ表示画面ソフト)
 もう一つ、IBMが開発して失敗したアプリケーションソフトウェアを紹介しましよう。
 IBMは戦略の一つとして、パーソナルコンピュータビジネスで優位に立つために顧客に対し、ライバルが開発している製品を自社もすでに開発をしていると発表し、顧客の注意を引いてライバル製品の立ち枯れさせる作戦をよく取ります。パーソナルコンピュータの性能は常に上がり、価格は常に下がるのが原理原則ですから、買う側はもっといい製品がでてくるまで購入を遅らせようと考えます。IBMはそうしたユーザーの心理を逆手に取った戦略を良く立てるのです。これは、IBMに限らず大手メーカーは新製品の発売予定がないときでも対抗措置としてこのユーザー心理を巧みに利用します。
 たとえば1983年から1985年にかけて、アップルはGUI環境で動く画期的なパーソナルコンピュータ、リサと Macintosh を発売しました。これに対してビジコープ社は、IBM PC用グラフィック環境である「ビジオン」を発売し、マイクロソフトは「ウィンドウズ」の最初のバージョンを出荷し、デジタルリサーチでは「GEM」を作り、サンタモニカにあるクォーターデック・オフィス・システムズという小さな会社は「DesQ」を作りました。
 IBMは競合するようなグラフィック関係の自社製品がないにもかかわらず、こうした製品をすべて脅威と受け取りました。IBM PCのソフトウェアのパートナーであるマイクロソフトのウィンドウズさえ、IBMにとっては脅威だったのです。そこで、すでに販売されているこうしたグラフィック環境に対抗するために、IBMは「コンピュータの画面にポップアップ・ウィンドウを表示し、複数のアプリケーションの切り替えやプログラム間のデータ変換が簡単にできる独自のソフトウェアの開発をする」と発表したのです。このソフトウェアは1984年夏、PC-ATと同時に発表されました(発売ではなく発表です!)。IBMはこの新しいソフトウェアを「トップビュー」と名付け、一年以内に出荷されるだろうと発表したのです。
 クォーターデック・オフィス・システムズが開発した「DesQ」は、1984年春にアトランタで開かれたディーラー向けの展示会コムデックスで大評判になりました。このショーの直後、クォータデック社はベンチャーキャピタルから二度目の資金調達を行って、550万ドル(7億円)を手に入れました。そしてサンタモニカの浜辺から1ブロックしか離れていないところに移転し、月に2,000セットのペースでDesQを出荷し始めました。DesQは他のウィンドウ・システムと違って、既存のMS-DOSアプリケーションと一緒に動かせるという利点を持っていました。また、複数のアプリケーションを同時に走らせることもできました。これは当時、アップルコンピュータの「リサ」以外のシステムでは不可能なことでした。
 そこへ、IBMが「トップビュー」を発表したのです。「DesQ」の全潜在ユーザーは、そのニュースを聞いてたちまちのうちに鞍替えって、IBMが発売すると約束した驚異的なソフトウェアを待つことにしたのです。IBMは驚異的ソフトウェアを作るのがたいして得意でないことを、みんな忘れてしまったようです。
 実は、IBMが独力でパーソナルコンピュータ用ソフトウェアを作ったことなど、かって一度もありませんでした。「トップビュー」はその定説を覆して、マイクロソフト社の助けなしでIBMが独自に開発することになっていました。
 「トップビュー」のアイデアは他のウィンドウ・システムすべてに打撃を与え、「ビジオン」と「DesQ」の息の根を止めました。「DesQ」を製造販売していたクォーターデック社にいたっては、50人いた社員が13人まで減ってしまったほどなのです。クォーターデック社の共同設立者で、パーソナルコンピュータのソフトウェア業界では珍しい女性経営者の一人テリー・マイヤーズは、母親から二万ドル(\3,000,000)借りて、なんとか赤字を出さないように会社をやりくりしたそうです。その間に部下のプログラマたちが死にものぐるいになって、これから発売されるはずの「トップビュー」と互換性を持つようにDesQを書き換えたのです。この新しいプログラムは、「DesQビュー」と名付けられました。
 1985年にようやく登場した「トップビュー」は、まったくの失敗作でした。この製品は処理速度が遅いうえに使いにくく、そのうえIBMが約束した機能を何一つ実現していなかったのです。現在でもトップビューを買うことはできますが、そんなことをする人間は誰一人としていないでしょう。「トップビュー」がいまだにIBMの製品リストに残っているのは、そうしないと全開発費を損失として処理しなければならず、その結果、決算に悪影響を及ぼすことになるからです。(これは1995年当時の話ですから、現在は損失として計上してるかもしれません)。
 
 
13-3. GUI(Graphic User Interface)を成功させたアップル
 アップルが時代をリードしてパソコンの一大潮流とさせた、使いやすい表示画面 = GUI(Graphic User Interface)も、もとを辿ると、アップルがゼロックス研究所から強引な形でアイデアをいただいたものでした。
アップルの成功で、他のライバルも同じような試みをしますが、アップルほどたくみに、洗練された形で組み上げた会社はありませんでした。
 ライバルとは先にも述べましたが以下のような会社がGUIを想定したパソコンの表示画面ソフトを作っていました。
  ビジコープ社の「ビジオン」
  ・マイクロソフト社の「ウィンドウズ」
  ・デジタルリサーチ社の「GEM」
  ・クォーターデック・オフィス・システムズ社の「DesQ」
  ・IBMの「トップビュー」
 
■ ビジコープ社
 話のついでにビジコープ社についてお話しておきましょう。
ビジコープ社は1982年以前は、パーソナル・ソフトウェア社と呼ばれていました。それ以前はソフトウェア・アーツ社と呼ばれていました。なぜそれほど社名を変えたかわかりませんが、パーソナルコンピュータ業界では忘れてはならないソフトウェア開発者の一人であるダニエル・ブリックリン(Dan Bricklin)の会社です。彼は、「ビジカルク」と呼ばれるパソコンのソフトウェアの最も基本的な表計算の概念を考え出しソフトを作った人です。このビジカルクが、マッキントッシュでヒットし、マイクロソフト社がマルチプランに採用し、Lotus1-2-3を作り、エクセルを作り出していく元になったソフトです。ビジカルクは、恐らく最初のキラーアプリケーションと呼ばれるものでしょう。非常に訴求力が強く、そのソフトを使うためだけにコンピュータを買う人がいるほどのソフトのことをキラーソフトと言います。
 そのビジコープ社は、1982年秋にネバダ州ラスベガスで開かれたコムデックスで、IBM PCを魅力的に見せるグラフィカルなインターフェース、「ビジオン」(コードネームはクエーサー)を発表します。マイクロソフトのウィンドウズの初期バージョンが出たのが1985年11月ですから、これより3年も前に出荷されていたことになります。また、アップルがゼロックスのパロアルト研究所を訪れてGUIのアイデアを盛り込んだコンピュータLisaを発売したのが1983年1月ですから、「ビジオン」は3ヶ月も早くMS-DOSのマルチウィンドウズソフトができていたことになります。ですから、このソフトはWIMP(Windows' Icon' Mice' Pointers = ウィンドウズ、アイコン、マウス、ポインタ)を使ったシステムを見る初めてのものだったのです。
 ただ、ビジコープ社にとって不幸だったのは、「ビジオン」は既存のDOSのアプリケーションを走らせることができなかったので、実際に「ビジオン」を使ってワープロなどを走らせようとすると、ビジオン上で動くアプリケーションソフト、つまり、スプレッドシート、グラフ描画プログラム、ワードプロセッサ、そしてマウスがセットになったパッケージを1,765ドル(420,000円)という大金をはたいて買わなければなりませんでした。
 この「ビジオン」は出荷が遅れ、価格も高すぎ、動作は遅く、バグも多く、ハードウェアに対する要求もやっかいなものでした。
 ビジコープ社の「ビジオン」は歴史の中に埋もれましたが「ビジカルク」(表計算ソフト)は生き続けました。1年後の1983年10月にコントロール・データ社が「ビジオン」を買い取りましたがその後いつの間にか市場から姿を消してしまいました。しかし、スプレッドシートだけは1985年にロータス・デベロップメント社が権利を買い取り「ロータス1-2-3」の中で生き続けMS-DOSのキラーソフトとなっていきました。
 
■ ゼロックスパロアルト研究センター(PARC)
 アップルがその洗練したパソコンの画面表示を成功させ、マイクロソフト社のビル・ゲイツが喉から手がでるほどほしがり、彼の戦略をWindows1本に絞ったGUI(グラフィックインターフェース)の最初の開発は、ゼロックスのパロアルト研究所(米国カルフォルニア州パロアルト コヨーテ)で産声を上げます。この機能を備えたパソコンは、Alto(アルト)と呼ばれていました。1973年初頭のことです。面白いことにこのコンピュータは開発されただけで発売はされませんでした。ゼロックス社のパロアルト研究所は親会社の財力にものを言わせ世界の最高水準の研究者を集め将来のコンピュータを研究させていた機関です。
 1970年パロアルト研究所が発足された当時、ゼロックスはコピー機の世界市場を独占していましたが、同社の役員たちは紙はいずれなくなる運命にあると悲観的になっていました。1990年には、ペーパーレスオフィスが誕生するだろうと予測していたのです。人々が紙でなくコンピュータの画面を読むようになったら・・・・。ペーパーレスオフィス市場で支配的な地位に立てるような計画を考え出さない限り、ゼロックスは危機に陥ってしまう。その計画をゼロックスPARCが考え出してくれるはずでした。PARCは、とても頭のキレる研究者のグループで、彼らはスタンフォード大学の近くにあるスタンフォード工業団地のコヨーテ・ヒル・ロードに施設を構えていました。
 
■ ビットマップ表示(発明者:バトラー・ランプソン)
 Altoを開発したのは、バトラー・ランプソンというハーバード大学物理学を卒業した人物です。彼はコンピュータ画面のグラフィック強化を図るため、「ビットマップ」表示方式を導入します。ビットマップというのは画面を1点1点コンピュータで管理し描画させる方式です。 画面上(A4判の紙を横に置いた程度の大きさ)のすべての点(ピクセル)がコンピュータのメモリ上のビットに写像(=マップ)されて、あるビットがオンかオフかによって、画面上のピクセルが消えたりついたりするというものです。ビットマップ方式は非常にたくさんのメモリを消費します。Altoの画面は何と50万個ものピクセルから構成されていました。これは当時としてはとても負荷のかかる方式でした。
今では画像の表示を1,280x1,024の100万画素、それにも各画素を8ビットx3原色を与えるようになっています。当時は白と黒だけでしたから今は当時の3400万倍の情報量を提供してます。この方式を採用することによってコンピュータの表現が格段に向上するようになりました。
Altoには、(現在主流になった)マウスを登場させています。マウスは、エンゲルバートとその研究者たち(ビル・イングリッシュら)が持ち込んだ入力装置です。
 「Alto」コンピュータには、このほかにもアイデア盛りだくさんの機能がありました。例えば彼らは、Altoの画面にアイコンの導入しました。画面を机の上と見立てた表示構成としたのです。これを難しい言葉を使うとdesk topメタファーの導入を果たしたのです。
 ユーザは画面の中のファイルキャビネットから書類を取り出し、プリンタに書類を印刷し、他のコンピュータから送られてきたファイルを郵便受けで受け、一連の書類をファイルフォルダに格納し、そして書類など一つ一つをアイコンで表してました。ディレクトリの中からファイルを選ぶ代わりにAltoでは実際にそのファイルを目で「見る」ことができたのです。印刷についても印刷コマンドを入力する代わりにカーソルをプリンタに移動すればことが足りました。これは画期的な出来事でした。パソコンが真に個人ユースの時代になる能力を随所に持っていたのです。
 しかし、ゼロックスはこのAltoを発売しませんでした。
 
■ マウス(発明者:ダグラス・エンゲルバート)
 ダグラス・C・エンゲルバートについて少し触れておきましょう。
 1945年20才で海軍レーダ技師だった彼は、フィリッピンの海軍図書館でバニーバ・ブッシュ(MITの元副学長で米国科学研究所開発局局長)の書いたエッセイ「科学技術の今後の動向 - As We May Think」(アトランティック誌)を読み触発されます。5年後NASA風洞実験に従事した後、西海岸スタンフォード研究センター(SRI)に職を得ました。その後83年、コンピュータネットワークの会社「タイムシェア」社を設立します。彼はSRI時代にウィンドウシステムを考案しました。同時にマウスを発明します。エンゲルバートのグループが最終的にマウスに決めるまでには、ありとあらゆる種類のものが試されました。ジョイスティック、トラックボール、ライトペン、等々。結局、他のものと比較してマウスが優れていることを彼らの実験を通して覚っていったのです。
 このプロジェクトは政府の資金援助(ARPA = 国防省先端技術研究計画局)を得ていましたがこれも長く続きませんでした。お金を出してれていたSRI(西海岸スタンフォード研究センター)側が彼らが研究したマウスの将来性を見抜けずお蔵入りにしてしまったのです。こうして1970年初め、エンゲルバートチームの主要メンバーの一部はゼロックスの研究所に去って行き、かの地でマウスを熟成させ、アップルのマッキントッシュに搭載されることで日の目を見ることになります。
 ダグラス・C・エンゲルバートは、歴史的な発明をしたにもかかわらずアップル社とは親密ではなく、大金持ちになったわけでもありませんでした。
 
■ イーサネット(発明者:ボブ・メトカーフ = Robert Metcalfe)
 Altoの2番目の画期的な機能はネットワーク機能です。ゼロックスのAltoはイーサネットを備えてました。今、イーサネットは、10Mビット/秒から100Mビット/秒、そして1Gビット/秒に行こうという業界標準になっているネットワーク通信機能です。Altoはこの機能を装備しコンピュータ間をこのネットワークでつなげようとしていました。
PARC(Xerox Palo Alto Research Center)のボブ・メトカーフ(Robert Metcalfe)が率いるチームは、1973年当時、何台ものコンピュータやプリンタ間の通信速度を上げる方法を探していました。コンピュータもプリンタもそれ自体の処理速度は速くなっていましたから、プリントに時間がかかる原因はそのどちらでもありませんでした。問題は、二つのマシンをつなぐケーブルにありました。
 印刷するページの画像はいったんコンピュータのメモリ上で組み立ててから、ビット単位でプリンタに転送しなければなりません。プリンタの解像度が600dpi(ドット・パー・インチ = 解像度の単位で1インチ当たりのドット数を表す)の場合、ケーブルを経由して1ページあたり3,300万ビット以上のデータを送り出さなければなりません。コンピュータは1ページ分の画像を1秒間でメモリ上に展開でき、プリンタはそれを2秒でプリントできます。しかし当時は高速だと考えられていたシリアル転送を使っても、このデータを全て送り出すには15分近くかかったのです。
 メトカーフは、この通信方式に、電話の共同加入線(パーティライン = party line)を導入しました。パーティラインの共同加入者である隣人が善良な人間であれば、電話をかける前に受話器に耳を傾けます。イーサネットの装置も、これと同じ事をします。つまり、回線の様子をうかがって、他で転送が行われているようならばランダムに時間をあけてもう一度かけ直します。イーサネットには同軸ケーブルが使われ、一秒間に267万ビットのデータを転送できます。解像度600dpiで印刷する場合、いままでは15分かかっていた転送時間を12秒まで短縮できるようになったのです。
 2.67Mbps(メガビット・パー・セカンド)の転送速度を持つイーサネットは、とんでもない製品でした。これは後でわかったことですが、コンピュータとプリンタをつなぐだけでなく、コンピュータ同士の接続もできるようになりました。どのAltoにもイーサネット機能が付いていましたから、このAltoをネットワークで接続した場合には各コンピュータにアドレスと名前をつけることになります。全ユーザが自分のアルトに好きな名前をつけるのです。
 2.67Mbpsのイーサネットは頑丈で比較的単純な技術でした。これをPARCは10Mbpsまで速度を上げました。
 
■ Small Talk = GUIのプログラムモジュール(発案:アラン・ケイ)
 ゼロックスパロアルト研究所で開発されていた「Alto」コンピュータの画面表示をするためのプログラム言語に「small talk」と呼ばれるコードモジュールがありました。この言語は現在では主流になっているオブジェクト指向の言語であり、画面を構築する上で必要な要素、例えば、画面のポップアップメニュー、オーバーラップするウィンドウ、スクロールバーなどの機能を全てに渡って統一することができる大変便利なものでした。この共通コードを導入したアップルはさらにメニューバー、プルダウンメニュー、1ボタンマウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、ゴミ箱といったコンセプトを導入していったのです。
 この言語を発案したのが、アラン・ケイです。アラン・ケイは、コロラド大、ユタ大学コンピュータサイエンスを卒業しています。ユタ大学は、常温核融合研究で有名な大学で1960年代にはコンピュータの環境が副次的にそろっていました。ここでの研究資金はARPA(国防省先端技術研究計画局)と呼ばれる軍需予算が当てられていました。学科長にはディブ・エバンズがいてMITから優秀な人材を引き抜いていました。最大の獲物はイバン・サザーランドで、彼はTXコンピュータを使い「スケッチパッド」と呼ばれる製図ソフトウェアを開発しました。アラン・ケイは、イバン・サザーランドの影響を受けて、インターフェース「small Talk」と呼ばれるコードモジュール(プログラム言語)、及びオーバラップウィンドウ(紙が重なって有限のディスプレー上に表示される手法)を発案しました。
 アラン・ケイは、XEROXパロアルト研究所でアルトのソフトウェア開発を担当しました。アラン・ケイは、ジャズミュージシャンという異色の肩書きも持っています。常に発案をする人のようで、パロアルト研究所を退社し、アップルのを引き抜きに応じてアップルに移り、リサの開発に関わりました。また、マイクロソフト社もアラン・ケイをアップルから引き抜きウィンドウズの開発を始めました。
 彼はその間一貫して小型コンピュータ(ダイナブック)でこれらの処理を行う、という彼のビジョンを持ち続けています。
 
■ アップルへの触発 = GUIへの胎動
 Altoは一般向けには販売されませんでしたが、シリコンバレーではよく知られた存在でした。PARCの研究者たちは自分たちが創ったものを誇りに思っていたので、訪問客が来る度にこの装置を見せびらかしていました。彼らの仕事に格別な感銘を受けた訪問客の中にジェフ・ラスキンという人物がいました。彼はアップルの社員で、マッキントッシュというコード名の小さな目立たない研究プロジェクトを指揮していた人物でした。彼は、1970年代初期に、スタンフォード人工知能研究所の研究員としてPARCを訪問した際に、多くの時間をここで過ごしここでの研究に大いに触発されていました。
 ジェフ・ラスキンの勧めでアップルの創始者スティーブ・ジョブズがPARCを訪問するのは1979年12月のことです。ジョブズがPARCを訪問するまでにはかなりの紆余曲折がありました。ジョブズは当時(もっともこれは今もそうだと言われていますが)物事を良いものと悪いものの2種類にしか見ず、ラスキンのことは「役に立たないろくでなし」と見なしていました。そのため、ラスキンの勧めを全く無視していました。
 ジェフ・ラスキンには、ビル・アトキンソンというソフトエンジニアの味方がいました。彼は、カルフォルニア大学サンディエゴ校でラスキンの生徒だったのです。彼は大学卒業後アップルに入社し、ラスキンとは別のジョブズが直接指揮を取っている「リサ」というコンピュータの基本的なグラフィックソフト『リサグラフ』という仕事をしていました。リサグラフは後年Quick Drawと呼ばれるアップルの基本的な描画ソフトになるものです。アトキンソンは実はジョブズの大のお気に入りだったのです。ジョブズはアトキンソンの仕事ぶりを高く評価し、彼は絶対に間違いなど犯さない英雄と見なしていました。ラスキンはそこで、アトキンソンに入れ知恵をして彼からゼロックスPARCを訪ねるようジョブズに進言させます。するとジョブズは、彼から魔法にでもかけらたように快く聞き入れたのです。
 ビックマウス(大ボラ吹き)のジョブズは、複写機の巨人ベンチャーキャピタル部門であるゼロックス・デベロップメント社に声を掛け、大胆にも「ゼロックスPARCの中を見せてくれたら、アップルに対して100万ドルの投資をさせてあげますよ」と言い放ったのでした。当時、アップルは輝かしい成長を遂げていた時期で2回目のプライベートな増資の最中でした。ゼロックスは、これに一枚加わることに乗り気で、アップルからの視察団がPARCをのぞき見することを許可することにも積極的でした。アップルに投資することは、やがて株式が公開されれば、かなりの利益を生むことが期待できるからです。
 こうして、創始者スティーブ・ジョブズ以下主だったアップルの技術者がゼロックスPARCを訪問し、彼らがやろうとしていたことがその地にあったことに大いに驚き、喜び、啓発されて自分たちのプロジェクト「リサ」、そして「マッキントッシュ」に反映して行ったのです。
 よく、アップルはゼロックスからアルトを盗んでリサとして売り出したなどと言われますが、これはちょっと違います。そうだとすれば、「リサ」チームのひらめきと困難な仕事を過小評価していることになります。アップルはゼロックスから設計図を受け取ったわけではありません。インスピレーションを得ただけなのです。
 ゼロックスは、1981年6月「Alto」の市販品である「Xerox Star」というワークステーションを$16,595(約400万円)で発売します。このコンピュータは、マウスで動き、マルチウィンドウで、スクロールバーが付きポップアップするウィンドウを備えていました。遅れること1年と半年、1982年10月10日、アップル社はGUIを兼ね備えた「アップル・リサ」を発売します。価格は$9,995(約240万円)でした。このコンピュータはゼロックスのスターをさらに進化させ、メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタンマウス、クリップボード機能によるカット&ペースト、ゴミ箱と言った新しいアイデアを盛り込んでいました。
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14. パソコンの文化14 (2000.11.24)
 
14-1. アップルとWindows
 マイクロソフトは、アップルとは対照的に、大したアイデアをもっていません。しかしそれを実施する段階になると、すばらしい力を発揮します。例えばマルチメディア分野、テキスト、グラフィックス、サウンドや動画を統合する「マイクロソフト・マルチメディア・ウィンドウズ」は、さまざまな素材をつなぎ合わせただけで、きちんと統合されてもいないし、見るべきものもない技術でした。けれど、実際の面ではすばらしい仕事をしています。マイクロソフトは製品発表がうまく、開発企業の面倒もきちんと見てくれます。なんといっても、同じ人間が長期にわたってプロジェクトを運営する体制になっています。業界でリーダ的な地位にあれば、新しい技術を導入し続ける限りその地位から追い落とされることはない。これがマイクロソフトの考えなのです。
 
■ Quick Time
 マイクロソフトとは対照的に、アップルは「クイックタイム」(QuickTime)というきわめて洗練されたマルチメディア用アーキテクチュアを開発しています。クイックタイムは、ビデオ画像とアニメーションと音を Macintosh のプログラムとして統合するツールです。アップルの「クイックドロー」という描画ソフト(グラフィックス)に時間の要素を加えたのです。クイックタイムは自動的に音と映像の同期をとり、ビデオシーケンス(連続した画像)の再生、停止、編集をコントロールする機能を持っています。クイックタイムには、画像圧縮技術が応用されていますから、必要なメモリもはるかに少なくてすみます。クイックタイムは、当時産声を上げたマイクロソフトのウィンドウズ用マルチメディア拡張機能などと比べて問題にならないほど優秀な技術でした。
 マイクロソフトは、アップルからGUIの概念を借用してWindowsを立ち上げました。アップルはGUIの考えは著作権を侵害するとしてマイクロソフトを訴えて、長い法廷闘争を展開しますが、結局アップルは裁判で敗れます。裁判所は、画面の表示方法に著作権はないと判断したのです。
 
 画面の表示機能はたやすく盗めても、プログラムであるQuickTimeは盗むことができません。マイクロソフトは、新らしいマルチメディアほしさに経営が行き詰まったアップルと資本提携し、WORDなどOfficeの統合ソフトとの相乗りを認める替わりにQuickTimeの技術をもらったと言われています。
 マイクロソフトはQuicktimeの使用ができない期間、みずからの規格AVI(Microsoft Audio/Visual Interleave File Format)を1992年に作ります。そして2次元表示としてゲームソフト用にDirect-Xという規格を作り上げ、米国シリコングラフィックス社が開発したOpenGLプログラムも採用して業界を席巻し、アップルがその前より提唱してきたQuickDrawを駆逐してパソコン業界の標準としました。
 
 マイクロソフトはこのように、会社として戦略をしっかり立てて、技術以上にマネージメントに重点を置いて経営戦略を展開します。
 アップルは、マイクロソフトとは違って短期的な展望しか持っていないのも事実です。アップルは常に盛大な花火を打ち上げながら、その戦略を継続しようという意識を持っていないようです。
 
 
14-2. アップルの創始者: スティーブ・ジョブズ
 よきにつけ悪しきにつけ、アップルのアップルらしさというのはすべてスティーブ・ジョブズが生んだものなのです。
 ジョブズはパソコンの創世記から現在に至るまでパソコンの歴史と共に歩んできました。そうビル・ゲイツもそうです。そして彼らは同年代です(もちろん私も同年代です)。スティーブ・ジョブズは1955年サンフランシスコに生まれます。高校時代から電子工作に熱中し、エレクトロニック関係の企業を回っては不要な部品を分けてもらい、「クリームソーダコンピュータ」を作ることを趣味としていました。オレゴン州ポートランドにあるリード大学時代ジョブズはインドに放浪の旅に出、ヒッピー「キャプテン・クランチ」に出会い、電話のただがけ機械「ブルーボックス」を二人で作り上げます。
 アタリ社にアルバイトのような形で雇用され、コンピュータ仲間と、これもアルバイト的にマイクロコンピュータボードの基板(これが後に言うアップルI)を作り上げ、アップルを創設していくのです。
 ジョブズの両親はウェストコーストの電子産業会社の平凡な一般社員でした。父親はスペクトラ・フィジックス社(レーザでは先駆的な会社)の機械工で、母親はバリアン社(マイクロ電子管で歴史的に有名な会社)で経理の仕事をしていました。方やビル・ゲイツはシアトルで上級社会である弁護士の家に生まれています。大学も東部のハーバード大学に入学しています。
 ジョブズの人となりを語るとき、賛辞より誹謗中傷が多いのは致し方のない事かも知れません。強烈な個性、間違っても信念を曲げない性格だからこそアップルをあそこまで持ち上げられたし個性豊かなコンピュータができたとも言えます。マッキントッシュを考えだし、プロジェクトを立ち上げたジェフ・ラスキンは、そのプロジェクトの途中でジョブズに取り上げられてしまい、その悔しさを「ジョブズに関する極秘メモ」として社長に送りつけジョブズを非難しています。ジョブズの性格を垣間見ることができるので紹介します。
 
 ・約束の時間をいつも守らない
 ・思慮の浅い誤った判断を下す
 ・相手の話を聞かない
 ・人の手柄を横取りする
 ・威厳を保つために非合理な決断を下す
 
 当時、アップルではこんなジョークも流行っていたと言われます。「電球を取り替えるのには、何人の社員が必要か。ジョブズなら一人で十分。電球を握りさえすれば、後は彼を中心に地球が回転するから。」
 一方で、取るに足らないことでもジョブズの口から語られると、それが世界を変えるかのようなすごいことのように思われ、ジョブズのペースに巻き込まれ、チーム全体がやる気を出すと言うことがあり、これがジョブズ・マジックとも言われています。とにもかくにも傑出した風雲児であるあことは間違いないようです。
 
 そのジョブズは、1985年にふたたび孤児となり(アップルを追い出され)、別の会社、ネクスト社を設立しました。またしても、父親の役割を演じられる場所を作り出したのです。アップルを追い出されたジョブズは怒りにまかせてアップル株をおそろしく安い値段で売り払い、一から出直して大企業をターゲットにした最高級のワークステーションを製作する会社「NeXT」を設立しました。彼は、その後も人気映画『トイ・ストーリー』を制作したアニメーション・スタジオ「ピクサー」を設立しました。
 この年、アップル社は合理化を理由に1200人の従業員をレイオフしました。
 1990年、アップルは再び困難に直面します。マイクロソフトが、MacGUIへの初めての挑戦者としてウィンドウズ3.0を市場に出したのです。マックは比較的高価であり、その値段と性能は標準的なビジネス・ソフトウェアを使ったとしても、PCに張り合うことができませんでした。
 1990年当時、マックが欲しくても買うことができず、随分悔しい思いをしたユーザーをたくさん知っています。私もそのうちの一人でした。また、マックはそうした意味で「お高い(お高く鼻にとまってる)」存在でした。その意味で今でもマックファンを嫌悪しているDOSユーザを知っています。
(2001年頃になるとこうしたマック嫌悪の人達は激減したように思えます。かって高圧的だったマックの鼻っ柱の強い立場が衰えて6年がたとうとしていますからそうした感情は薄れてきたかのようです。それにWindows98とインテルプロセッサーでかなり完成度を増したパーソナルコンピュータに仕上げていますからそうした変な感情を持つより自分たちの(Windows)パーソナル環境をいかに気持ちよく使うかに興味が移っています。)
 また、お高くとまっているのはユーザだけでなく、アップル自体もお高くとまっていました。たしかに当時その性能は群を抜いていて洗練された表示画面と使いやすさは垂涎(すいぜん)の的だったのです。
しかし、
  おごれる平家は久しからず。
Windowsの挑戦でマックの牙城に火がついたアップル陣営は、マックOSをサードパーティのコンピュータ製造企業にライセンスしようと試みますが、それも失敗に終わり、アップルの株は下落しました。
下野に下ったジョブズが、アップルの危機に際して再びアップルに戻ることになります。
 彼が戻ってからの一年半のあいだに、ジョブズは何千もの人々を怒らせ、何百万もの人々に希望を与え、そしてみんなを驚かせました。
 
 
14-3. アップルのアップルらしさ
 
■ スティーブ・ジョブズとウォズニアク
 1975年、クパティーノのハイスクール卒業後、どう生きていこうかと自己省察に耽っていたジョブズは、インドを放浪し、オレゴン州の共同農場で過ごしたのち、エレクトロニクスへの情熱を育むためにシリコンヴァレーへと舞い戻りました。アタリ社のゲーム・プログラマーとして働く傍ら、自家製(ホームブルー = homebrew)コンピュータ・クラブという名の愛好家グループがカリフォルニア州メンロパークで開催する夜間の会合に参加していましたが、そこで出席者の一人が実物のアルテアを持参しました。他の愛好家はその粗雑な機械を新しい玩具と見ましたが、ジョブズは金儲けの機械と見ました。ここが視点の鋭いものの発想というべきでしょう。
 自分でコンピュータを造る才能がなかった彼は、ホームブルーの仲間であるスティーブ・ウォズニアクに助けを求めます。“ウォズ”と呼ばれていたいたずら好きのこの男は、MOSテクノロジー6502という新型マイクロプロセッサ用のプログラミング言語を完成し、それを走らせるためのコンピュータ基板を設計したばかりでした。ホームブルーでは、ウォズのような愛好家がいつもパーツやコンピュータ・キットを持ち込んでいました。ウォズもジョブズと同様長髪で大学をドロップ・アウトしていましたが、彼とジョブズの共通点と言えばせいぜいその程度でした。ウォズは太い眉に濃いあごひげを生やし、質素な風采で、スポットライトを浴びることよりもコンピュータのキーボードを叩く孤独をはるかに好むタイプでした。
 ウォズは独学でエンジニアリングを修め、シリコンヴァレーの祖として名高いヒューレット・パッカード社に年収24,000ドル(約480万円)の職を得ていました。ジョブズは赤と白で塗り分けられたフォルクスワーゲンのヴァンを1,500ドル(約30万円)を手放し、ウォズはヒューレット・パッカード65というプログラマブル電卓を250ドル(約5万円)で手放して事業資金を捻出し、二人はカリフォルニア州ロスアルトスにあるジョブズの両親の家のガレージで開業しました。今のアップル社の原型です。1976年4月1日の事でした。開業したアップル社は、ウォズが設計した回路基板を50個製作し、地元のディーラー(BYTE Shopと呼ばれるコンピュータショップのチェーン店)を通じて愛好家に1個500ドルで販売しました。これがアップルIと呼ばれたものです。
 彼らは、最初のコンピュータ アップルI(といってもこれは基板のみ)で8,000ドル(約160万円)の利益をあげました。ジョブズはこのことに大いに気をよくして事業を拡大しもっと多くのコンピュータを作ろうとしました。次のコンピュータを作るにはもっとたくさんの資金がいることを知ったジョブズは、1976年8月アルバイト先のゲーム会社「アタリ」の社長ノラン・ブッシュネルを訪ねました。彼はベンチャーキャピタル会社セコイア・キャピタル社を紹介しますがこの会社は彼に興味を示さず、代わりに34才のマイク・マークラを紹介しました。マイク・マークラは1975年にフェアチャイルド・セミコンダクター社とインテル社のストックオプションで一財産をなし、隠居生活をしいた人物です。若いのに隠居生活とは羨ましい限りです。
 マイク・マークラは92,000ドル(約1,840万円)の個人資産とBank of Americaに債務保証をして25万ドル(5,000万円)の信用貸しを取り付けました。この資金繰りのおかげでジョブズ、ウォズニアク、マークラの3人は1977年1月3日、アップル・コンピュータ社を法人化しました。
 
■ 「アップル」社のいわれ
 ジョブズはビートルズ・ファンでアップル・レコードにあこがれていたこともあり、自分たちが興した会社をアップルコンピュータ*と名づけることにしました。こうして1976年エイプリルフールの日に、アップルコンピュータが誕生したのです。ちょうど私が大学2年の時です。従ってジョブズも大学2年生ということになります(実際には彼は大学を中退してますから社会人ということなのでしょうが)。大学時代にこうしたビジネスの世界に入るというアメリカの土壌と日本とは異質の感じを受けます。日本での大学生といえば時給何百円かのアルバイトがせいぜいです。アップルはたまたま成功した事例でしょうけど、アメリカにはこうした若い世代のビジネスへの参加が認められているのです。PCクローンコンピュータで財をなしたマイケル・デルも商才のある若者で大学時代にPCクローン販売を手がけて大成功を収めています。日本人は年齢で社会的なクラス分けをする傾向が強いのですがアメリカにはそうした考えはないようです。実力の世界であると言われる所以です。
 1980年の時点でIBMがパソコン市場への参入を計画していたころ、アップルはパソコンの総売上の16%を占めていました。これは同社が達成した最高の数字であり、当時の顧客は大半が愛好家と学校中小企業関係でした。
 *アップルの由来:アップル社の正式な由来をアップル社は公式的に発表していません。スティーブ・ウォズニアクが「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モーリッツ著)で語っているところによれば、スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアクの二人とも社名にはそれほど気を配っていなかったそうです。ただ、カルフォルニア州の法律で、会社を設立するためには地元紙で公告しなければならず、早急に社名を考える必要がありました。当初考えられていたのは「エグゼキューテック(Executek)」、「マトリックス・エレクトロニクス(MatrixElectronics)」などという名前だったそうです。
 しかし、彼らはこのような名前が気に入っていませんでした。ハイウェイの85号線をドライブしながら、二人は別の社名を考え始め、ジョブズが「アップルコンピュータというのはどうか」と突然言い出したそうです。ウォズニアクは、ジョブズがリンゴ園で働いていたことと、二人とも音楽好きであったのでビートルズのレコード会社として有名なアップから思いついたのではないか、と本の中で語っています。
 この他、「ジョブズがリンゴダイエットを当時やっていたから」、「ジョブズが働いていたアタリ社よりも、電話帳で前に掲載される名前にしたかった」、「当時の小さなコンピュータ企業にありがちなハッカー的なイメージを連想させないですむから」などという理由もいろいろささやかれていますが、もちろんこれといった根拠があるわけではありません。
 
 
■  Macintosh の由来
 マッキントッシュの名はアップルの別のエンジニア、ジェフ・ラスキンがつけたもので、ワシントン州の豊富なリンゴに着想を得ています。けれどジョブズはジェフ・ラスキンが開発していたマックを目にするや否や、自分のベイビーにしてしまいました。ジョブズはそれまで別のコンピュータプロジェクトアップル「リサ」の開発販売の舵を取っていたのです。
 ラスキンの開発したマックはコンピュータだったのですが、まさに独自の人格を備えていました。当時“パーソナル・コンピュータ”という名称は矛盾した言葉でした。コンピュータは実際には、全然個人向き(パーソナル)ではなかったからです。大きなケースに収められ、威嚇的に角張っていて、魅力的に見せるための配慮と言えばオフィスのコピー機程度にサイズを収めた程度だったのです。パーソナルとは名ばかりでその装置を使い始めると、なおいっそう非人間的に見えました。
 ジョブズは、1979年12月のある日にラスキンの研究室に訪れるや、その技術の偉大さと、ジョブズをいっそう裕福で有名にする潜在的な力を Macintosh に即座に見い出したのです。そこで目にしたことに触発されたジョブズは、アップル リサ開発の技術者にせっついてグラフィカルな画面を新型コンピュータ・リサに組み込ませました。リサは、彼のよちよち歩きの娘にちなんだ名前です。リサは洗練された実に画期的なマシンだったのですが、一万ドル(240万円)とあまりに高価だったため、たいして売れませんでした。無謀かつ前例のない行動を取ることで知られるジョブズは、ラスキンが大事に暖めて育てていたマッキントッシュ・プロダクトを奪い取ってしまいました。リサの性能と使いやすさを1000ドル(24万円)という低価格で実現したマッキントッシュを自分のものにしてしまったのです。彼は一群のプログラマーを集め、アップルのメイン・キャンパスから離れた場所にあるビルに彼らを隔離しました。
 この隔離政策はアップル社内で進行していた分裂の象徴でもあり、この分裂が原因で同社はその後大きな混乱へと直面していきます。特にアップル社の稼ぎ頭だったアップルII部門のエンジニアたちは、同僚たちの特別待遇にひどく憤慨しました。ジョブズは彼ら(マッキントッシュ・グループ)に備え付けのマッサージ器を与え、冷蔵庫を絞り立ての新鮮なオレンジジュースで満たし、二時間以上の飛行機旅行はすべてファースト・クラスといった具合に甘やかしました。ファースト・クラスで旅行したことのあるアップルのエンジニアなどいなかったのです。極めつけはマッキントッシュの開発の行われているビルのロビーには、ベーゼルドルファーのピアノとそのビルの中庭に堂々と展示された一万ドルのスピーカーが置かれていて、その近くには、ジョブズがめったに乗る暇のないBMWのオートバイを停めていました。まさしく彼らはエリート、選ばれた人々だったのです。その他の人間はすべて、ジョブズ流に言えば“わからず屋”の“野暮”にすぎませんでた。
 実際のところ、アップルには、リサからの流れであるれアップルIIのグループと、マッキントッシュのグループの二つの流れがあり、彼らの確執はすごいものでした。
 
 
■ スティーブ・ウォズニアク(Steve Wozniak)
 通称ウォズと呼ばれているスティーブ・ウォズニアクは、アップル創業期の中心人物です。初代アップルの基本コンセプトは彼が全て作り上げたと言っても過言ではありません。ウォズはジョブズよりも4才年上、その土地では名門のヒューレット・パッカードのエンジニアとして電卓部門で年収24,000ドル(約480万円)の仕事に従事していました。
 アップルIIの成功後、飛行機事故で重傷を負い、記憶喪失や後遺症に悩まされます。マッキントッシュプロジェクトにも参加していましたが、記憶喪失が激しくアップルを退社します。一部では大企業に成長していくアップルの方針と自分の理想の開きに失望したともささやかれています。その後、家電リモコンを開発する会社CL9を設立したり、小学校の教師などをしたりして過ごしています。現在でもエンジニアの間では、ウォズニアックを尊敬する人が多いのも事実です。
 以下に述べる「ブレイクアウト」ゲームのエピソードは、ウォズニアックとジョブズの役割と人柄を如実に表しています。天才エンジニアでありながら、人柄は温厚で世事に疎い所も多くありました。ここのところが今でも愛され尊敬される一因になっているのでしょう。
 「ミスター・ストレート」とあだ名されるほど、真面目で実直な性格でしたが、いたずら好きの一面もあったようです。高校時代、いたずらで時限爆弾に見えるおもちゃを作り、友人のロッカーに仕掛けておいたところ、それがあまりにも精巧な出来だったために大騒ぎとなり、校長が決死の覚悟でグランドの真ん中まで全速力で運んだというエピソードが残っています。
 
 
■ 最初の事業 ジョブズとウォズニアクの役割
  - 「ブロック崩し」ゲームのエピソード
 アップルを創設する前の1976年、スティーブ・ジョブズはアタリ社の最初の50人の従業員の一人でした。アタリと言えば、ノラン・ブッシュネルが1972年に創設した伝説的なシリコンバレーのゲームメーカーでした。
 我々の大学時代である1974年当時、ゲームセンターにようやくテレビゲームの走りである「ブロック崩し」が出回り始めました。この影響を受けて1979年の「スペースインベーダ」の爆発的なブームを引き起こし、テレビゲーム時代へと進んで行きます。そして1983年のファミリーコンピュータ時代を迎えるわけです。
そのテレビゲームのはしりが米国アタリ社だったのです。
 ちなみにアタリという社名の語源は、日本古来のゲームである「碁」の用語でチェスの「チェック」に相当する言葉です。この電子ピンポンとも言うべきアタリのポンは、まるで山火事のようにアメリカ中のゲームセンターや家庭に広まりました。ブッシュネルは成功者にのし上がろうと必死でした。彼はポンを変形した「Break Out = ブレイクアウト」というゲームを考え出しました。ブレイクアウトというのはプレイヤーが画面の下にあるパドルを使ってボールをはじき返し、上にある壁のブロックをうち崩すというゲームです。
 ブッシュネルは、技師だったジョブズにその回路を設計させようとしました。これをジョブズは当初一人でやろうとしましたが自分の手に余るものだと気づくと、友人のスティーブ・ウォズニアクに助けを求めました。「ジョブズは複雑なものなんて全然設計できないよ。僕の所へ来て、アタリがどんなゲームを作りたいのかを説明したんだ」とウォズニアクは振り返っています。「それだけじゃないんだ。それを4日でやれっていうんだ。あとになって考えれば、ジョブズは北の方の農場につぎ込む金が必要だったんだろうね。」
 複雑なゲームを、そんなに短い期間で設計するのは一つの挑戦でした。ウォズはヒューレット・パッカード社でフルタイムで働いていたにも関わらず、ジョブズと一緒に4日間連続徹夜して、実際に動作する試作品を作り上げました。最後には二人とも単核球症にかかってしまうのですが、それでもウォズはそれがすばらしい経験だったと考えていました。「あんな製品を作り上げたことをものすごい誇りに思っているよ」とウォズは振り返ります。「ノラン・ブッシュネルはできるだけ少ないチップでゲームを作りたかったんだ。もし50チップ以下でできたら700ドル(17万円)もらえるからそれを山分けしようとジョブズが言ったんだ。そして40チップ以下なら1,000ドル(24万円)になるって。4晩かかってチップの数は42だった。あと2チップ減らすために、もう一度考え直す気がしなかったんで、700ドルで妥協することにしたんだ。」
 出来上がったゲームをアタリに届けた後に、ジョブズはウォズに対する支払いを引き延ばしました。現金を入手することが難しいと言うのを表向きの理由にしていましたが、最後には350ドルの小切手を書き、残りはオレゴン州のオールワン・ファームという農場につぎ込みました。ジョブズはジョブズで友人の助けで自分のボスに認められたことができて喜んでいました。ブッシュネルは、「ブレイク・アウト」が記録的短期間で設計できチップの数もかなり少なかったことに感激していました。ウォズは自分が一番好きなことをして、ポケットマネーを稼ぐことができたことに満足していました。「たとえ25セントしかもらえなくてもやったと思うよ。」とウォズは言っています。
 ウォズが「ブレイク・アウト」のプロジェクトと良き友スティーブ・ジョブズに関する捨て置きならない事実に気づいたのは1984年になってからでした。10年近くもこの事実が知らされてなかったことになります。この事実がわかったのは、マッキントッシュのプロモーションのために、フォート・ロダーデールのユーザーグループのクラブに出かける飛行機の中で起きました。ウォズは回想しています。「アンディ・ハーツフェルドが『ザップ!』を読んでいた。それはアタリに関する本で、スティーブ・ジョブズがブレイクアウトを設計したと書いてあったんだ。本当は僕たち二人で仕事して、報酬として700ドル(17万円)もらったんだと説明したよ。そしたらアンディは、『違うよ、5,000ドル(120万円)って書いてあるよ』って言うんだ。よく読んでみたら、実際にノラン・ブッシュネルがスティーブに5,000ドル払ったときの様子が書いてあるんだよ。僕は思わず叫んでしまったね。」
 ウォズが気にしたのは金のことではなかった。もしジョブズが頼めば、ウォズはそのプロジェクトを無報酬ででも引き受けただろう。彼は、そういった技術的な挑戦に対して燃えることができたからだ。気に入らなかったのは、友人に欺かれたことだった。そのことを思い出してみると、ジョブズの行動は彼の性格をよく表していることに気づく。
 「スティーブ・ジョブズは電子部品のサープラス・ストアで働いたことがあった。ある部品を30セントで買って6ドルで売ることができればいくらで仕入れたかなんて必要ないんだと、いつも言っていた。買い手には6ドルの価値があるんだからと。それが彼のビジネスに対する哲学なんだ」
と、ウォズは二人の価値観の違いについてそうコメントしました。
 
 
14-4. アップルの苦境
 そんな小さな世界にビッグ・ブルー(IBM)が飛び込み、互換機がその後を追うとアップルのシェアは急激に低下し、1982年には6.2%に落ち込んでしまいました。ジョブズは当時まだ26歳で、この大富豪の自尊心はアップルの成長と連動して膨れ上がり、IBMの宣戦布告で大いに傷つくことになったのです。
 ジョブズの傲慢さ、自分がおよそ誰よりも知り尽くしているという揺るぎない自信は、ある文化を誕生させました。尊敬に足る競争相手には敬意を払い、そこから学ぶ代わりに、相手の品位を落とすことを良しとするような文化です。彼がアップルに吹き込んだ尊大さを明確に示しているのは、IBMが最初のパソコンを発表したときにアップルが主要な新聞に掲載した次の広告です
  --- 「ようこそIBM。マジで (Welcome, IBM. Seriously)」
不遜(ふそん)という言葉は彼のためにあるのではないかと思えるくらいその若者は自信に満ち満ちていて、恐れという言葉を知らないかのようでした。
 ジョブズは、ですから、自分のスタッフにはなおさら敬意を払いませんでした。彼らの多くは夜も週末も徹して焦眉の課題となった仕事に取り組んだのですが、その挙げ句、ジョブスから侮辱を受け人前での嘲笑を耐え忍ぶハメになるのです。当時アップルのマーケティング担当マネージャをしていた中年のビル・カーリーは、アップルで働き始めた最初の週の出来事をこう回想しています
--- 「私はジョブズと他の数人のマネジャーとの会議に出ていたが、彼は半ズボンにランニング・シューズ、靴下なしといういでたちだった。ある人物と意見が食い違ったとき、彼は靴を蹴って捨て、素足をテーブルに乗せたんだ。足でそいつの考えを変えさせたのさ。」
 またあるとき、ジョブズはアップルの社内コンピュータ・システムの監督を担当している100名あまりの社員の一団に言葉を述べるために呼ばれました。社員食堂のテーブルの周りに集まった聴衆の前に立つと、ジョブズは頭を振って顔にかかった褐色の長い髪をかきあげ、鋭い調子で言ったそうです。
「お前らはみんな野暮の一団だ。少しでもガッツがあるなら、コンピュータを開発しようと努力してるはずだ。」
こうした扱いのせいで、アップルの多くの人間はジョブズを避けようとしました。「ジョブズとの接触は最悪の極みだった。」と、以前マネジャーを務めていた、社員食堂の野暮の一団の一人、ピーター・カヴァナーは回想しています。
「結局けなされるのさ。スティーヴが絶対正しかったんだ、たとえ間違っていたとしてもね。」
 対人能力に欠けていたにせよ、ジョブズは非の打ちどころのない予言者であり、その完全主義にもとづく品質へのこだわりがアップルの空前の偉業を成し遂げたのです。
 --- ジョブズがマッキントッシュを生んだ(正確には育て上げた)
という言葉は事実なのです。
 このジョブスと対比されるビル・ゲイツも相当なわがままですが、ジョブズのしつけの悪さに比べれば非常によく教育を施された育ちの良い子と言えるでしょう。ジョブズとビル・ゲイツどちらかを上司に選ばなければならないとしたら多くの人がビル・ゲイツを選ぶでしょう。
 
■ ジョブズ更迭
 1985年4月10日。この日はアップルの創業者スティーブ・ジョブズがアップルを去った日でした。
当時、マックの製品としてのコンセプトは十分に印象的でしたが、使いづらいのも事実でした。というのは、マックを芸術的傑作にしようとするあまり、ジョブズはプログラムを走らせるに十分なメモリーや記憶用のハードディスク・ドライブといった不可欠な機能を犠牲にしたのです。実際、マックが最初に登場したときには専用のプログラムはほとんどありませんでした。売れ行きもひどいものでした。他方、アップルの大黒柱であるアップルIIは、競合製品の猛攻と業界の低迷により勢いが衰え始めていました。1985年には、アップルの売り上げは20億ドルをピークにして一年にわたり下降線をたどっていきました。これは同社が会社として歩き始めて初めてのことでした。その一方でIBM PCとPC互換機はマーケット・シェアを拡大していました。
 当時、アップルのCEOをしていたのはジョン・スカリーという人物でした。彼は、ペプリコーラの再建で手腕を発揮した人で、その手腕を見込んてスティーブ・ジョブズ自ら東部に赴いて、西部の地に呼び寄せた人物でした。経営者としては折り紙付きの人物でした。
ジョブズがスカリーを説得した殺し文句、
「あなたは一生、砂糖水を売る人生で終わるのですか」
とう言葉はあまりにも有名です。
 アップルには西部のヒッピー文化はありましたが、東部の正当なビジネスセンスを持った文化はありませんでした。東部の貴公子ジョン・スカリーはジョブズに請われて西部にやってきたのです。
そのスカリーは困難なアップルの経営難にあって、十分に大人であり、その裁量を十分に発揮すべき立場にあったのですが、ジョブズは彼を魔術で呪縛して力を出さないようにしていました。アップルはPC-AT互換機陣営に対抗すべく、新製品を従来の二年間という間隔よりも早いペースで出さなければならなかったのですが、この新製品の遅れの大きな原因がジョブズの完全主義にあったのです。ジョブズは、マッキントッシュ事業部以外にもますます干渉するようになっていました。そうしたジョブズの干渉に業を煮やしたアップル中のマネジャーがスカリーに殺到して苦情を述べはじめました。早くジョブズを抑えないと船が沈んでしまう、と彼らは訴えたのです。
 スティーブ・ジョブズを抑える? 相手はアップルコンピュータの創業者であり、革命を起こした若者、テクノの導師であり、スカリー自身を東部からはるか西方の約束の地へと導いた当の人物なのです。
 
 1985年4月10日の取締役会議にその日は訪れました。
その日、ジョブズには何が起きるかわかっていました。ジョブズはジョブズで会議の前に役員会のメンバーを見方につけようと説得して回り、スカリーと対峙しようとしました。彼もクーデターを起こそうと試みたのです。最終的に、午後遅く始まり24時間近くかかったマラソン会議のすえ、役員会は全員一致でジョブズを会長職に祭り上げることを決定し、スカリーに実行を許可しました。
 その後、ジョブズはスカリーに考えを翻すように懇願しました。いい子にするから。変わるから、と。家族の車をめちゃくちゃに壊しておきながら、そのキーを返してほしいと父親にすがるティーンエイジャーのようだったのです。同時にスカリーのいないところで、ジョブズは逆の作戦を展開していました。アップルの経営幹部の支持を取り付けて復権し、返す刀でスカリーを追放しようと試みたのです。
 陰謀について知らされたスカリーは中国への出張を取りやめ、1985年5月24日の会議でジョブズと対決しました。
 結果はこうでした --- スカリーが去るか。ジョブズが去るか。
 スカリーは会議室にいる上級管理職を見回し、スカリーに賛同する人々を募りました。「あなたは私を支持しますか、それともスティーブを支持しますか?」と、スカリーは会議テーブルに座っている人々に順に聞いて回りました。みんながジョブズを支持したなら、退く心づもりでいました。役員たちは1人ずつ回答しながら、スカリーの側についたのです。
 取締役会と上級管理職を味方につけたスカリーは翌週、ジョブズの降格を公表しました。ジョブズは数ヶ月後にアップルを飛び出し、その時連れ去ったエンジニアの一団とともに、新会社にふさわしい『ネクスト』という名のコンピュータ会社を設立しました。彼はずっと憤慨し続け、かって“ダイナミック・デュオ”(スマートな東部の経営者と西部のアイデアマンのダイナミックな二人組)と呼ばれた相棒のスカリーとは決して仲直りしませんでした。
 10年後、ジョブズは『ナードの勝利(Triumph of the Nerds)』と題するテレビ・ドキュメンタリーでのインタヴューで、スカリーについて「間違った人間を雇った」と答えています。ジョブズは多くの間違いを犯しましたが、この点については結局正しかったという歴史的な証明がなされることになるのです。
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15. パソコンの文化15 (2001.01.14)
 
15-1. マイクロソフトのWindowsへの取り組み
 
■ 巧妙なビル・ゲイツのプロジェクト分散
 マイクロソフト社とその創始者である億万長者のウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世は、マッキントッシュの世界ではとにかく評判がよくありません。熱狂的なマックのファンの多くは、ビル・ゲイツのことを世界中のコンピュータユーザーに粗悪な商品を押しつける神の敵で、業界支配とマックを押しつぶすために全力をあげていると見なしています。確かにゲイツは全てをものにしようと思っているフシがうかがえました。
 しかし、彼は絶対にマック嫌いではないのです。
それどころか、彼はマック流コンピューティングの最大のファンなのです。
どうして、マックはウィンドウズとの競争に突入していったのでしょうか?ビル・ゲイツはアップルのOSとどのような接触があったのでしょう?
 スティーブ・ジョブズは、マックが成功するには実用的なアプリケーション・ソフトが豊富にあることが必要だと気づいていました。そうしたマックのアプリケーションソフトを作ってくれるサードパーティ開発会社の中で最も重要な会社がマイクロ・ソフト社でした。しかしジョブズはマイクロソフト社がアップルにとって大事なパートナーでありながらも、彼らがマック用ソフトの開発を通して学んだことをアップルのライバルであるIBM PCでも動作するような同様のアプリケーションソフト(マッキントッシュにとってライバルになる同じようなソフト)を作るために使うだろうと疑っていました。ジョブズはこの懸念に対して周到な準備を整えていましたが、指示を誤りました。
 1982年1月22日、ジョブズはゲイツに次のような契約を飲ませます。それは、マイクロソフトが
 「マウスやトラックボールを使う財務モデリングプログラム、ビジネス向けグラフィック
プログラム、データベースプログラムを、アップル以外が製造したいかなるコンピュータに
対しても・・・販売、リース、ライセンス、出版、あるいはその他の方法で配布しないこと
を保証する」
というものでした。信じられないことに、契約のどこにも、マイクロソフトがマックと競合するOS(←これが後にWindowsになる)を開発することを拒む内容は書かれていなかったのです。これがアップルに大損害をもたらす大きな見落としであったのです。
 マックの発表から12ヶ月までに(あるいは1983年1月1日までに)、マックのためだけにマウスを使うアプリケーションを開発することをゲイツに契約させると、ジョブズはその見返りとしてマイクロソフトに貴重なマックの試作機を提供しました。
 マイクロソフトは、ジョブズとの契約に従ってアップル社以外では最大規模のマック用のソフト開発を始めます。しかし、同時にIBM PCとその互換機用にウィンドウズの開発も始まったのです。ビル・ゲイツはあっさりとアップルにもIBMのどちらに転んでも大丈夫なように投資を分散したのです。ビル・ゲイツはコマンドライン・インターフェースのMS-DOSで富を蓄えていましたが、彼もジョブズ同様、この業界の未来はGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)にあることを悟っていました。ですから、アップルが独自にマックのOSを作っていたので、ゲイツはマイクロソフトがPCの世界で同じ役割を担うことを狙っていたのです。
 この手口はポーカーの手口に実に良く似ています。
 ジョブズを出し抜こうと張り切っていたビル・ゲイツは、機先を制するため1983年11月10日にニューヨークのヘルムズレイ・パレス・ホテルでウィンドウズを発表します(発売は発表の2年後になりました)。その席上で1984年の終わりまでに全てのIBM PC互換機の90%以上がウィンドウズを使うことになると予言しました。その発言をしたわずか数ヶ月後、アップルが Macintosh を発表した時、ビル・ゲイツはクパチーノの振興会社(アップル)の忠実なサポータとして、その発表の壇上に立ち、マルチプラン(データベースソフト)とマイクロソフトBASIC(プログラム言語ソフト)はすぐさま入手可能であると発表しました。マイクロソフト社はマック用ソフトウェア部門に多大な投資を行っていて、 Macintoshが発売される数ヶ月後には数多く発売されるであろうメジャーなアプリケーションソフトの機先を制して利益を得ようと燃えていたのです。
 ビル・ゲイツは公共の場ではマックに対する大きな期待を表明していましたが、裏ではマイクロソフトのウィンドウズ・プロジェクトを全速力で進めていました。文字ベースのMS-DOSの上に、グラフィカル・ユーザー・インターフェースをかぶせるというのは難しい課題でした。さらに最終的な成果がマックに似すぎていれば訴えられるかも知れないという問題も付け加わっていたのです。
 1985年、ウィンドウズ1.01が出荷される数週間前になって、マイクロソフトはアップルがウィンドウズとマックのインターフェースの類似点に関して告訴してくるのではないかと心配になっています。そこでビル・ゲイツはアップルのCEO、ジョン・スカリーを威嚇すべく切り札を出します。
 『アップルが告訴を考えるならばマイクロソフトはマック用のWORD(ワードプロセッサー)とエクセル(表計算ソフト)の開発を止める』と。
 当時、アップルは困難な時期にありました。マックは1ヶ月に2万台しか売れず、月10万台という予測をはるかに下回っていました。アップルはマイクロソフトの10倍の収益があるのにも関わらずアプリケーションソフトはマイクロソフトにたよらざるをえない状況を、ビル・ゲイツは強か(したたか)にも熟知していたのです。
 こうした微妙なバランス(力関係)の中で、ジョン・スカリーはビル・ゲイツに彼の人生の最大のプレゼントを結果的にもたらしました。1985年10月24日(Windowsを出荷する1ヶ月前、ビル・ゲイツが30歳になる4日前)、アップルとマイクロソフトの間で次のような約束がなされます。
 
 『アップルはマイクロソフトがマックのいくつかの技術をWindowsで使うことを許可するが、それと引き替えにマイクロソフトはWindows版エクセルの出荷をしばらく引き延ばして、マックにビジネス市場での足がかりを確保するチャンスを与える。』
 
 そして、マイクロソフトがWindowsを出荷した11月20日の2日後、ビル・ゲイツとジョン・スカリーはラスベガスでのコムデックス(巨大なコンピュータ展示会)のさなかに3ページにわたる極秘契約書にサインを交わしたのです。
 このサインはマックで使用されているマルチウィンドウ、ポップアップウィンドウ、マウスによる操作などの環境をマイクロソフトがWindows環境で使用することを許可する代わりに、アップルは、マイクロソフトにマック版WORDをアップグレードさせ、ウィンドウズ版エクセルの出荷を1986年10月1日まで引き延ばさせるというものでした。マイクロソフトは彼らが開発したエクセル、ウィンドウズ、ワード、マルチプランの視覚的表示はアップルのリサ、 マッキントッシュのGUIから派生したものであるということをアップルから承認をもらったようなものでした。口汚くののしれば、マイクロソフトはアップルの至宝を手に入れ、アップルは食い物にされたのです。
 しかし、極秘契約を結んだからといって、マッキントッシュの視覚表示(GUI)にMS-DOSを変えていくのは至難の業でした。実際にウィンドウズの地位を確定したと言われているWindos3.1にしてもその使い勝手は Macintosh のOSにはるかに及ばないものだったのです。それに加えてエクセルのWindows版の開発も悪戦苦闘の連続で出荷されたのが1987年10月、極秘契約から1年も遅れているのです。・・・なにも契約結ばなくてもできはしなかったのです。
 
 コンピュータ業界のどの重役に聞いても、
  ソフトウェアビジネスとはとりあえず製品を売っておいて、
  あとは定期的なアップグレードで利益を刈り取る年貢集めゲームなのだ、
と教えています。マイクロソフトに限らず、バグの多いソフトをリリースせざるを得ないのは競争相手を出し抜いて、とりあえずユーザに権利を買わせ、ユックリとアップグレードをしながら年貢を納めさせ財政を潤すやり方が一般的だからです。
 それにしても、文化の違う文字表示のMS-DOSの文化にGUIを被い被せ、Windowsの世界を広げ、且つそれをものにしていったマイクロソフトの執念と熱意は頭が下がります。マイクソロフトはこうしたやりかたをいついかなる時も踏襲して、MS-DOSを成功させ、Windowsを成功させ、WORDを成功させ、Excelを成功させ、Internet Explorerを成功させたのです。
 アップルは以下で述べるマイクロソフト社への訴訟でもわかるように、1985年の契約がウィンドウズ1.0にしか適用しないように心がけ裁判もその路線で勝ち抜くという戦略を立てていきました。しかし、マイクロソフト社はそれがウィンドウズのその後のアップグレードにも適用できるという解釈に立ちました。マイクロソフト社は一連の好ましい判決に支えられて、新しいウィンドウズを発表するたびにマックに近づいていきました。
 
 
■ アップルの訴訟
 1988年1月、マイクロソフトはウィンドウズ2.0を出荷します。これはマック風のアイコンを採用し、タイル状のウィンドウズではなくオーバーラップ可能なウィンドウを採用していました。その表示画面はアップルの懸念を払拭するにはあまりにも似すぎていました。1988年3月17日(聖パトリック祭の日)にアップルはサンノゼの連邦裁判所に11ページ及ぶ訴状を提出します。訴状の内容はマイクロソフト社がリサとマックの画像の視覚表示を真似たコンピュータプログラムを作って、アップルの著作権を侵害したというものです。この裁判でもう1社被告とされたのがヒューレット・パッカード社でした。ヒューレット・パッカード社は、ウィンドウズで動くニューウェーブというソフトウェアを出していました。アップルはこの裁判で、損害賠償として55億ドル(約1兆円)を請求したのです。
 マイクロソフトはこれに反訴して、1985年にアップルと結んだ契約によって、問題となっている機能を使う権利がウィンドウに与えられていると主張しました。しかし、アップルは、契約書がウィンドウズの最初のバージョンにしか適用されないと主張しました。裁判は思惑通り、ウィンドウズの開発者達の間に不安の種や不信感、疑いと言ったものを広めていきました。ボーランド社のフィリップ・カーンに言わせれば、これは「起きてみて自分の相手がエイズだったことに気づく」のに似ていました。
 1988年7月25日、地方裁判所判事のウィリアム・W・シュワルツァーは、訴えにあったウィンドウズ2.03の189の視覚表示のうち10個を除いては、1985年のライセンス契約が適用できると裁定しました。自信に満ちたマイクロソフト社は堂々とウィンドウズのアップデートを続け、1990年5月22日、ニューヨークのシティー・センター・シアターでバージョン3.0を発表しました。
 しばらくすると裁判所は、1985年の契約はマイクロソフト社にとって万全な保護にはならないと判断し、アップルの著作権独自性を認めました。そして申し立てにウィンドウズ3.0を加えたうえで、マイクロソフトによる反訴の多くを却下しました。しかし、1991年8月14日、裁判所がアップルの視覚表示の独自性を再考すると流れは変わりました。
 1992年4月25日、地方裁判所判事のブォーン・R・ウォーカーは、たった4分間の言い渡しで争点となる範囲を著しく縮めました。「ウィンドウズ」と「ニューウェーブ」のインターフェース要素のほとんどは1985年の範囲にあるか、あるいは著作権で保護できないものだという裁決を下したのです。
 1993年8月24日、裁判所はアップルの訴えを却下し、事態はマイクロソフトに有利な形で大団円を迎えようとしていました。1994年9月アップルは、控訴裁判所の第9巡回区に上訴しましたが控訴裁は原判決を維持しました。12月19日、アップルは最後の頼りとして最高裁判所に裁判を見直して書類移送命令書を出すように請願しました。
 1995年2月21日、裁判所はアップルの訴訟を退け、7年間で1000万ドル(約12億円)を要した法廷での争いに幕を下ろしたのです。
 
 
15-2. アップルのCEO 
 アップルが何年か成功したのは、その専売特許の技術 - つまりマック - が、他のパソコンより使いやすく、カルト的ファンがついたからでした。おかげでアップルは自社製品に高い価格を設定し、IBM互換機市場での熾烈な戦いにも超然としていられたのです。
 しかし、今日、マイクロソフトのウィンドウズを使えば、すべてのパソコンはマックと同じように使いやすいものになります。メガメディアの進展に伴って、その専売特許の技術は、かえって障害になってしまいます。人々はパソコンで互いに交流したいのに、マックでは他の大半のマシンと対話ができない(パソコン市場でのアップルのシェアは、約10%)。パワーPCを搭載したアップルの新しいパソコンは、一時期他のパワーPC搭載機と互換性(一時期、Power Computing社や、UMAX、パイオニアなどがマック互換機を販売していました)をもっていました。しかしそうなるとアップルのかっての「独自性」の強みが失われることにもなります。アップルは、現実的でやり口の汚いパソコン市場でますます価格と機能面での競争を余儀なくされることになるわけです。これはアップルがかって経験したことのない戦いです。そう、いままで、そんな激しい市場競争なんてしてこなかったのです。同社は変化に機敏に対応していないし、コンパックのような合理的で低コストの製造体制もありません。アップルの過去の偉大なる大成功は、同社を未来に対して無防備にしてしまっていたのです。
 アップルの戦略上最大の失敗は、手遅れになるまでマックのハードウェアとオペレーティング・システム(OS)をライセンスしなかったことかも知れません。業界筋の多くはこう分析しています。1984年に登場したマックは他のどの競合製品よりもはるかに優位性があり、アップルがパソコン業界を席巻できなかったのは他を寄せ付けない排他的な姿勢が強く出ていたことにあります。
 マックはアップルの独自資産である読み出し専用メモリ(ROM)と特別に設計されたASICと呼ばれるチップに強く依存していました。このため、他社がアップルの後押しなしにマック互換機を作ることができなかったのです。ここがDOS/V製品と大きく違うところです。それでもいくつかの会社(たとえばコルビー社、ダイナマック社、アウトバウンド・システムズ社)は、ユーザーが正規のマックから取り外したROMをマザーボードに取り付け、合法的に入手したOSをインストールするという方法で互換機を提供してきました。言うまでもなくこれらは努力に見合わない製品で、あまり人気は出ませんでした。
 スティーブ・ジョブズが去った後のアップルのCEOは、こうした互換機の戦略に直面します。ジョン・スカリー(時のアップルのCEO、在任期間1983-1993)、マイケル・スピンドラー(1993-1996)、その後任のギルバート・アメリオ(1996-1997)によって進められた互換機戦略も期待と失望の入り交じったものでした。Windows陣営の前にジリジリとシェアを落とし、純血を守りたいとする根強いマック信仰の障害もあって思うような展開ができないでいました。
 
■ ジョブズのその後 - ジョン・スカリー
 ジョン・スカリー(CEO在任1983-1993)は、アップルですったもんだした最後の一年に同社をメガメディアへ進ませようとしていました。彼が着手したことの大半は、残念ながら何も成功していません。スカリーのお気に入りだったニュートン(Newton、PDA = Personal Digital Assistantの一種)は、アップルで最大の失敗作になってしまいました。それは確かに未来志向の製品で、コンピュータからコンピューティングの向かう製品ではあったのですが、ニュートンはうまく機能せず、値段も高すぎました。スカリーはニュートンにアップルの未来を賭け、その賭けに負けたのです。
 スカリーはまたアップルを双方向ビデオのためのテレビ端末機のトップ・メーカーにしようとしました。アップルはブリティッシュ・テレコムとのプロジェクトを含め、二つほど実験を行ってきたのですが、あまり成果を上げられず、HP、ゼネラル・インスツルメント、IBM、シリコン・グラフィックスに追い抜かれてしまいました。アップルの他の未来志向の製品は、マックとテレビの組み合わせやワードと呼ばれるオンライン・サービスを含めたシステムなどまだ世間の注目を浴びていません。同社でいちばん好調なメガメディア製品は、ハードウェアではなくソフトウェアです。クイックタイム(QuickTime)というマルチメディアのソフトがそれで、ビデオを音楽や文字と一緒に見たり編集したりできるのです。
 
■ ジョブズのその後 - マイケル・スピンドラー
 スカリーの後任として1993年6月にCEOに就任したマイケル・スピンドラーは、実務派のエンジニアで、「次の大物」を追いかけるよりアップルの利益を上げることに熱心でした。このやり方は、現在のパソコン市場でアップルが沈没するのを妨げはしましたが、未来へと飛び立たせるのは無理でした。
そしてWindows95の発売でリングのコーナーに追いつめられたアップルはいつ白旗を掲げてもおかしくない情況におちいりました。業界の関心事は、瀕死のアップルをどこが救済するのかといったことでした。
 
■ ジョブズのその後 - ギルバート・アメリオ
 1996年2月スピンドラーの後をついでギルバート・アメリオがCEOの座につきます。彼のアップルのCEOとしての在任期間は短くつらいものでした。彼がCEOを引き継いだとき会社は障害の多い歴史の中でも最悪の状態でした。彼は冷静に情勢を見渡し、実質本意の治療計画を立てて実行に移しました。彼の奮闘はしばしば保身的なアップルの重役達や、容赦のない市場の現実、そして部外者のお節介で立ち往生します。彼はおそらくこうした障害を乗り越えることができた人物でした。勇気あるネクスト社の買収によってスティーブ・ジョブズを呼び戻したまでは良かったのですが、ジョブズの急襲によって短い任期となりました。
 
■ ジョブズ復帰
 1996年12月20日、11年の時を経てアップルの創業者が再びアップルに戻ります。
アップルはNext Software社を4億ドル(約450億円)で買収することを正式に発表しました。それとともに、Nextの会長兼CEOであり、Appleの創立者の一人であるSteven Jobs(スティーブ・ジョブズ)がAppleに復帰することになったのです。
 
 
 
15-3. スティーブ・ジョブズの大胆な行動
 アップルに戻ったジョブズは、アップル再建のため、思いきった行動にでます。
 
■ マイクロソフト社と資本提携
 1997年8月のマックワールドで、ジョブズは、マイクロソフトが1億5000万ドル分のアップルの株式を購入することに合意したとアナウンスし、聴衆にショックをあたえました。「ジョブズは敵の前で居眠りしている」と酷評した批評家もいましが、この取引はプラットフォームにおける消費者の信用回復のためであったのです。つまり、Office98 for Macのようなソフトウェアのタイトルが継続するのであれば、アップルはシェアの交代に一応の歯止めがかかり経営も黒字に転換するというわけです。
 アップルに帰ってきたスティーブ・ジョブズは、大胆な会社建て直しを計ります。
 まずジョブズは、アメリオが悲劇的なニュートン・プロジェクトを子会社にしたことに満足しなかったのかこれを完全に抹殺してしまいました――ニュートンのデベロッパーたちを迫害し、ウォール街を喜ばせる行動であったのです。
 アップルはハードウェア市場での影響力を回復するため、クローンメーカーであるパワーコンピューティング社を吸収し、他社とのライセンス契約にも圧力をかけました。
 当時予想もしなかった行動としては、アップルは大幅に遅れている次世代のOS「ラプソディ・オペレーション・システム」の開発を中止しました。とはいえ、これは、見かけ上は買収したNeXTを発展させたOSであったのですが。これは2001年春に出荷されるであろうOSXの伏線であったようです。
 アップルの教義はシンプルです。その教義は、アップルを有名にした製品、つまり、『マッキントッシュ』だけに集中することなのです。1997年、アップルのハードウェア部門は、市場に活気を入れるために最速のパワーPCチップである、迅速なG3プロセッサーをリリースし、それを新しいパワーブック・シリーズと新しいビジネス用デスクトップに搭載しました。
そして、Windowsのアップルへの資本参加です。
 アップルの共同創業者、スティーブ・ジョブズ氏とマイクロソフトのビル・ゲイツ会長は、1997年8月6日、ボストンで開催されたマック・ワールド・エキスポでこの衝撃的な発表を行いました。この合意の詳細については次のようなものでした。
  ● マイクロソフト社は、マック版のマイクロソフトOfficeとインターネット
    イクスプローラーを5年間に渡って開発し続ける
  ● アップルはインターネットイクスプローラーをマックのOSの標準ブラウザ
    としてマシンと一緒に出荷する
  ● マイクロソフト社はマック向けの開発を継続する
  ● マイクロソフト社はアップルとの特許紛争を解決するためにある金額を支払う。
   (額は非公開だが1億ドルと噂されている)
  ● 1億5000万ドルでアップルの議決権のないシリーズA転換権付優先株式15万株を購入。
   (これは3年間は売却できないという条件付き)
  ● ビル・ゲイツ氏やマイクロソフトの幹部は取締役などには就かない。
  ● 近い将来、アプリケーション(適用業務)ソフトの利用や開発環境で互換性を確保できる
    ようにする。
 これまでにも両社はアプリケーションソフトを共通化するために技術者の交換などを実施してきましたが、今回の合意で根本的な互換性を確立するための全面提携に踏み切ったことになりました。これによってアップルは世界中のパソコンの9割を占める「ウィンテル」のパソコンに極めて近い存在となったわけです。
 アップルのパソコン保有者にとってこうした出来事はこれまで以上に「ウィンドウズ」対応の豊富なソフトウェアを使える環境が整う一方で、アップルのパソコンの独自性が失われる恐れも持っていました。
 アップルは95年末に経営危機が表面化して以来、赤字経営が続いており、1997年に入ってこの合意が結ばれる9ヶ月間に9億ドル近い純損失を計上していました。マイクロソフトのOSと米インテルのマイクロプロセッサーを搭載したパソコンの勢いに押されてシェアを激減させてしまい、ソフト開発会社のアップル離れも招いていました。
 同日、アップルは取締役メンバーの大規模なリストラも発表しています。アップルの設立当時の出資者で創業時から役員として在籍したマイク・マークラも退任しました。変わって新しい役員には、スティーブ・ジョブズ氏の他米ソフト大手、オラクルのラリー・エリソン会長、ウィリアム・V・キャンベル氏(インチュイト社社長兼CEO)らが新たに取締役に就任します。
 アップルは、事実上の標準ビジネスソフト「Office」のマック版がほしかったのは事実でしたし、ウィンドウズとマックがネットワーク上で共存していくためにマイクロソフトの協力が不可欠だったようです(いくらマックがクリエーター向けといっても・・・)。
 そうした状況の中で今回の出来事は両社の利害が一致したと見るのが自然でしょう。で、口約束でないという証拠に、1億5000万ドルの議決権のない株をマイクロソフトが購入するという話になったのです。ジョブズならではのアクロバットな技といっていいでしょう。
 米マイクロソフトと資本・技術提携することで合意した米アップルコンピュータは、提携後も次世代基本ソフト(OS)戦略などを変更しない方針を明らかにしました。
 
■アップルはなぜマイクロソフトと提携したか?
 アップルはなぜ宿敵マイクロソフトと提携したのでしょう?
競争相手が倒れるまで執拗に攻撃を加えるビジネス手法で知られるマイクロソフトがなぜ「ひん死」のアップルに手をさしのべたのか・・・。
アップルは、OSからハードウェアまで手がけるシステム会社です。コンピュータのデザインからOS、ひいてはアプリケーションソフトまでを手がける唯一のパーソナルコンピュータ会社なのです。マイクロソフトは、OSを手がけ、アプリケーションソフトを手がけるメーカーです。しかしながら、パソコン = Windowsという名前が浸透し、おまけにビジネス部門でもWindowsNTを構築し、UNIX陣営を蹴散らすほどの、コンピュータの趨勢を握るほどの強い勢いを持っています。
 「ウィンドウズ」はパソコン業界で約90%の強大なシェアを獲得し、ほぼ市場を制覇。もしアップルの劣勢を放置すれば「独占状態」は増幅し、反トラスト法(米独禁法)に抵触する可能性もでてきます。強すぎるが故に、逆に自らの活動を縛る恐れも出てきたのです。
 アップルの市場を温存しようとする「異変」はこれまで1996年頃から様々な形で表面化しています。
 「マックはすばらしい技術プラットフォーム。しっかりとサポートしていく」。1997年初め、サンフランシスコで開かれた「マック・ワールド・エキスポ」で珍しい光景が見られました。
 「アップル文化」の聖域とも言えるイベントで、マイクロソフトの副社長が壇上に登場、アップルに賛辞を送ったのです。前後してマイクロソフトはアップル向けソフト開発の専門部隊を米国シリコンバレーに設置。「協力は惜しまない」。こう公言する幹部の態度に、潮目の変化を感じとった関係者は少なくはありませんでした。
 マイクロソフトはインタ−ネットの分野でも主導権を確立しようとしていましたが、その独自性のために孤立していました。ですから自社のブラウザがパソコン界を二分するMacOSで採用されれば一躍優位な立場に立つことができるのです。
 もう一つ、アップルは様々なソフトウェア技術のパテントを持っています。それをマイクロソフトは使いたかったようです(今回の提携も元々は、パテントのクロスライセンスから始まったと言われています)。
 マイクロソフト社によるアップルへの1億5000万ドル(170億円)の投資は、91億ドル(1兆円)のキャッシュを持つマイクロソフト社にとっては些細なものでしょうがアップルにとっては広報的に妙案でした。世界最大のソフトウェア会社がマッキントッシュ・プラットフォームに取り組む姿勢を示したことで アップルに対して危機感を持っていたユーザーに安心してマックを購入できるよう安心感を与えたのです。。もちろんマイクロソフトにとってもの抜け目がありません。マイクロソフトはマック関連の製品だけで年間3億ドル(300億円)も儲けており、この市場を生きながらえさせることはマイクロソフトにとっても利益があることなのです。
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16. パソコンの文化16 (2001.03.25)
 
16-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その1)
      - アドビ(Adobe)
 時代をパソコンの創世記に戻ってパソコンに大きな基盤を築き上げることになったアプリケーションソフトウェアに焦点を絞って見てみましょう。
 
■ ジョン・ワーノック(John Wornock)
 - アドビ(Adobe)社 Photoshopソフト、ポストスクリプト(PostScript)言語を作った人物
   孤独なカリスマであるスティーブ・ジョブズの親友
 
 世界総人口50億人のなかで、いつもスティーブ・ジョブズの味方だったと断言できる人間はわずか四人しかいない、と評論家ロバート・クリンジリーは言います。その4人の中で、ビル・アトキンソン、リッチ・ペイジとバド・トリブルの三人は、アップルコンピュータでジョブズと一緒に働いていました。アトキンソンとトリブルはソフトウェアの神様で、ペイジはハードウェアの神様でした。ペイジとトリブルは1985年にジョブズとともにアップルを退職し、新しいコンピュータ会社ネクストの設立に参加しています。
 ジョブズお気に入りの第四の人物はアドビ・システムズを設立したジョン・ワーノックです。ワーノックは、ジョブズが絶えず探し求めている父親のような人物でした。彼はまた、アップルのプリンタ「レーザライタ」とデスクトップパブリッシングを実現させた人物でもあります。
彼がマッキントッシュを世に広める後押しをしたのです。
 世界最高のプログラマの一人であるジョン・ワーノックは、ジョブズに欠けている技術面の才能を持っていました。ジョブズにとってはきわめて重要な意味があるスタイル(外観のこと、カッコ良さのこと)の問題に、ワーノックも強い関心を持っていました。ワーノックはコンピュータの画面やプリントアウトに文字や絵を表示する方法に情熱を持って取り組み、ジョブズもその情熱に敬意を払っていたのです。
 ジョン・ワーノックの才能の開花は、ユタ大学の数学科の大学院生だった頃にさかのぼります。コンピュータセンターで履修届けの処理を自動化するメインフレーム用プログラムを書いていたとき、彼よりやりがいのある問題に取り組んでいる学生がやってきて、船のブリッジから見たニューヨーク港の風景をビデオモニタに表示するグラフィック・プログラムの相談を受けました。このプログラムはリアルタイムで動かそうとしていましたから、そうなると視点となる船が港へ入っていくにつれて港の景色が徐々に変化しなければなりません。彼は、学生に今まで誰も思いつかなかった方法を説明し始めました。それは実に単純明快な方法でした。この考えはしかし当時としては大変なことでした。ワーノックの才能に驚愕した学生は教授にその話を伝え学長まで報告されました。これを機にワーノックは、博士課程の専攻を数学からもっと活気のあるコンピュータサイエンスに変更し、それがもとになってやがて世界でも屈指のコンピュータ・グラフィックスの専門家になったのです。
 のちに彼は、ゼロックスPARCでマーチン・ニューウェルとともに「JaM(John and Martin)」という言語を書きました。JaMは物体を記述し、三次元データベース中の物体を指定するための言語を備えています。JaMはさらに発展して、「インタープレイス」と呼ばれる別の言語になりました。インタープレイスは、ゼロックスのレーザプリンタに対して文字や絵を記述するために使われた言語です。そしてワーノックはゼロックスを辞めて自分の会社を作り、インタープレイスはさらに「ポストスクリプト」という言語に発展していきました。実は、JaMとインタープレイス、ポストスクリプトは本当は同じ言語なのです。しかし、著作権や何百万ドルという金の関係上、異なる言語のようなふりをしているだけなのです。
 ポストスクリプトは、文字や数字をビットマップとしてではなく数式として記述します。ビットマップというのは、画面や紙の上の小さな点のパターンのことです。ポストスクリプト言語によって有名になったものに「アウトライン・フォント」があります。
 ワーノックとゼロックスで彼の上司だったチャック・ゲシュケ(チャールズ・M・ゲシキ = Charles M Geschke)は、二年間かけて会社にインタープレイスを製品化させようと試みました。しかしながらその目論見は失敗に終わり、二人は自分たちの会社を作り、誰でも自分の仕事を美しく印字できる史上最強のプリンタを開発しようと決心しました。会社の方向をいろいろ模索した結果、コンピュータメーカにグラフィック・ソフトウェアを売り、ポストスクリプト言語を使ったプリンタ・コントローラを設計し、そして初のポストスクリプト・フォントの販売を始めるという結論に達しました。
 そして彼らの会社名をAdobe(アドビ)としました。社名のアドビは、カリフォルニア州ロスアルトスにあるワーノック家の庭の前を流れる小川の名前からとったものです。
 1982年に設立したこの新会社は、まずポストスクリプト言語を開発しました。それから、ポストスクリプトのコマンドを解釈し、印刷イメージを走査し、そのイメージを用紙に印字するためのレーザプリンタのエンジンを管理するプリンタ・コントローラの開発を始めたのです。スティーブ・ジョブズがやってきたのはちょうどその頃でした。
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 原則的に、ハードウェアが先に存在しない限り、プログラマはそれに合わせてソフトウェアを書くことはできません。しかし、この原則にはわずかながら例外があり、ポストスクリプトもそのひとつでした。
ポストスクリプトは、1980年代後半のコンピュータではあまり高速に処理できませんでした。それくらい当時としてはきわめて先進的で、複雑なソフトウェアだったのです。1980年代中期の多くのパーソナルコンピュータ用ソフトウェアに比べ、ポストスクリプトはけた違いに複雑だったのです。
 マイクロソフト社が売り出したMS-DOSの原型であるティム・パターソンが書いたQDOSは開発に半年もかかりませんでしたし、ジョナサン・サクスはLotus1-2-3を一年で完成させました。ポール・アレンとビル・ゲイツは、マイクロソフトBASICを6週間で仕上げました。アンディ・ハーツフェルドでさえ、 Macintosh のシステムソフトウェアにかけた時間は二年足らずだったのです。
しかし、ポストスクリプトは完成までに20人年もかかっているのです!!!
ポストスクリプトは、それまでに作られたパーソナルコンピュータ用のソフトウェアの中では最も先進的で、これを走らせることのできるマイクロコンピュータはほとんどなかったのです。それでもそうしたプログラムを作るという情熱と信念には頭の下がる思いです。
 はるかに大きな処理能力を持つメインフレームの世界なら、ポストスクリプトが生まれても不思議はありません。しかし、現実に成功したのはパーソナルコンピュータの世界だったのです。これは驚くべきことであり、スティーブ・ジョブズにとっては自分の信念の裏付けとなる新たな証拠だったのです。
 
 
16-2. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その2)
     - アルダス(Aldus)
 アルダス社は、マッキントッシュ用に「ページメーカ(PageMaker)」と呼ばれるDTPソフトウェアを作った会社でマッキントッシュをDTPの世界を確固たるものに押し上げました。DPT(Desk Top Publishing)はアルダス社が提唱して世に広まったものです。一時期、ページメーカーは、アドビ社のIllustratorと呼ばれるソフトと競争しましたが、1994年アルダス社がアドビ社に合併されるとアドビの製品としてDTPの世界に君臨するようになります。
 
■ポール・ブレイナード(Paul Brainerd) 
 アルダスは、ミニコンピュータをベースにした雑誌・新聞用出版システムのメーカであるエイテックス社を辞めた六人の人間によって設立された会社です。エイテックスはワシントン州レッドモンドに支社があり、そこではパーソナルコンピュータをワークステーションとして自社のシステムに組み込む作業を行っていました。マサチューセッツに本社を置くエイテックスがワシントン州の支社を閉鎖する決定をくだしたとき、支社長のポール・ブレイナードは5人の技術者とともに新しい会社を設立することにしました。そして彼らは、やがて「デスクトップ・パブリッシング(DTP)」と呼ばれるようになる技術開発にとりかかりました。ブレイナードはこの仕事に自分の時間と10万ドル(2400万円)を差し出し、5人のエンジニアたちはエイテックス時代の半分の給料で働くことに同意しました。
 アルダスは当初、共同経営ということになっていましたが、例によって五人の技術者たちは組織の雑事には関心がありませんでした。しかしある日、裁判所に集まって法人設立の書類に署名するときになって、彼らの態度は一変します。五人はそのとき、自分たちの株式の割合が1%しかなく、95%がブレイナードになっていることに気づいたのです。彼らはためらいそして拒否しました。結局、彼らの取り分を倍にすることで話はまとまったのですが。
 ポール・ブレイナードは強引な男でした。しかしエンジニアたちは、それを厳しい親父と位置づけ経営に大きなクレームをつけることもなく従っていました。ブレイナードの資金は6ヶ月と持ちませんでしたが三ヶ月で最初のプロトタイプ(ページメーカ)が完成すると新たな金集めに計画書を携えベンチャーキャピタリストを回り始めます。だが、期待するほどには資金調達ができず100万ドル(2億4000万円)の予定を立てていたのに集められた資金は84万6000ドルでした。これは開発ぎりぎりのお金でした。
 設立当時のアルダスの大手顧客はアップルでした。アップルは高価なプリンタ「レーザライタ」の売り上げを伸ばすため何らかのアプリケーションソフトを必要としていました。この時は、まだレーザライタにはレーザライタ用ポストスクリプト言語に対応したアプリケーションはまだありませんでした。アップルのディーラーは、リサの失敗で痛い目にあっており、ヒューレット・パッカードからは、はるかに安いプリンタ「レーザジェット」がすでに発売されていました。
 1984年9月、レーザライタのプロトタイプ三台がソフトウェア関係者に提供されました。一台はロータスへ、もう一台はマイクロソフトへ、そして最後の一台はアルダスへ渡されたのです。これを見ても、アップルがページメーカに対して潜在需要をはっきり認識していたことがわかります。ページメーカは、ポストスクリプトで印字する文字やグラフィックスの位置決めを行う最初の専用ソフトウェアだったのです。
アルダス社の「PageMaker」と、アドビ社の「Illustrator」は一時ライバルとしてしのぎを削りますが、アルダス社がアドビ社に吸収され、「PageMaker」(2001年現在)はアドビ社のブランドで販売されています。
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17. パソコンの文化17 (2001.06.03)
 
17-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その3) - 表計算ソフトVisiCalc
 
 「コンピュータと言えばパソコン」と言えるまでにパソコンの地位を押し上げたアプリケーションソフトウェアがこれから紹介する表計算ソフトと呼ばれるスプレッドシートソフトです。このソフトのアイデアと使いやすさ、それに個人が持つことのできるコンピュータ(パソコン)で実行できる特徴が多くの知識人に受けパソコン市場を大きく前進させました。
 このソフトウェアはどのようにして開発されたのでしょう。
 
 
■ ダン・ブリックリンとボブ・フラクストン - 表計算ソフト 
 ビジカルク(VISICALC)は、圧倒的魅力を持つアプリケーションでした。このソフトがコンピュータの購入動機になるくらい、非常に重要なアプリケーションだったのです。こうしたアプリケーションは、コンピュータをホビイストのおもちゃからビジネスマシンに変えるのに必要な最後の要素になります。コンピュータがどれほど強力な性能を持つことや、そしがどれだけ内部設計がすばらしいか、など全く関係ないのです。圧倒的魅力を持つアプリケーションソフトウェアのないコンピュータは決して成功しないのです。こうしたアプリケーションを買った当時の人々とはどんな人物だったかというと、メインフレーム(大型コンピュータ)は在庫管理や会計処理のためのマシンとしてみなし、そしてビジカルクを最初に搭載したアップルIIは、彼が個人的に使うパーソナルコンピュータであり、表計算ソフトを動かす「ビジカルクマシン」と見なしていました。
 ビジカルクと呼ばれるソフトウェアは、それ以前はどんなコンピュータにもなかった全く新しいアプリケーションでした。ソフトウェアをコンパクトにまとめてマイクロコンピュータで動かせるようにしたスプレッドシート(表計算)は、ミニコンピュータにもメインフレームにもなかったのです。マイクロコンピュータとスプレッドシートは、ほぼ同時期に誕生しました。それぞれが、お互いのために生まれてきたようなものというぐらいに相性が良かったのです。
 
■ 表計算ソフト VisiCalc - 発端
 ビジカルクは、これを開発したダン・ブリックリン(Dan Bricklin)がハーバード大学ビジネススクールに通っていたことがきっかけで生まれました。ブリックリンは、1951年米国フィラデルフィア生まれ、1973年MIT(マサチューセッツ工科大学)卒業後DECに入社、ワープロソフトWPS-8の開発リーダとして仕事に従事していました。1977年、彼は、自分のプログラマとしてのキャリアが終わりかけていると感じて再び大学に戻りハーバード・ビジネス・スクールに入りました。彼は、プログラムを書くことがどんどん簡単になり、やがてプログラムがまったく不要になって自分は仕事を失うと確信したのです。そこで1977年の秋、26才だったブリックリンはこのままではダメになってしまうのではないかと心配なり、新しいキャリアを求めてハーバード・ビジネススクールに入学したのです。ここでのスクールの学生は、1クラス80名。彼はそこで経営学を学びました。カリキュラムには、経営者が資本を投入して市場に影響を及ぼすと株価や物価、消費がどのように影響を与えるかという表計算のシミュレーションがあり、その講義には電卓が必須でした。
 ブリックリンは、ハーバードでほかの学生より有利な立場にありました。というのも彼は、財務計算を行うBASICプログラムぐらいなら、ハーバート大学のタイムシェアリングシステム(コンピュータ)を使って簡単に書くことができたのです。それよりもブリックリンを悩ませたのは、新しい問題にあわせて(パラメータが変わる毎に)その都度プログラムを書き直さなければならないことでした。そこで彼は、こうした計算を柔軟なフォーマットで処理できるような、もっと汎用的な方法はないものかと考えはじめたのです。この発想こそが実にユニークで非凡だと思います。
 ブリックリンが本当にほしかったのはマイクロコンピュータのプログラムではなく、専用のハードウェアでした。その当時、生産管理学の教授が一部の企業で生産計画に使われている大きな黒板のことを話していました。この黒板は何部屋にもわたるほど長いこともあり、列(ロウ)と行(コラム)からなるマス目に分割されていました。生産計画の担当者は、製品の製造に必要な時間、材料、人員、経費などに関係する各空間にチョークで書き込みをしていくのです。黒板上の空欄をセルと言い、セルの位置は列と行で指定できます。つまり、各セルは二次元の番地を持っていることになります。セルの中にはほかのセルと関連しているものもあります。そこで、たとえばセルF-7に書き込まれている製造品目が増加してセルC-3に書き込まれた必要人員が増えたとすると、それに比例してセルD-5の賃金総額も増やさなければなりません。一つのセルの値を変更すると、それとリンクしたすべてのセルを再計算しなければならなくなります。つまり、黒板を消して計算し直すという作業を繰り返さなければならないことになります。
そうした作業をする担当者は、再計算が必要なセルを見落として総合的な結論を出し間違えることがないようにと、常にヒヤヒヤしているのです。
 
■ 表計算VisiCalcのアイデア - セル
 黒板方式はブリックリンの財務計算機にとって格好の形態でした。何しろ、物理的な黒板をビデオスクリーンに置き換えるだけでいいのですから。ユーザーは各セルにデータや数式を一旦入れてしまえば、一つの変数を変更するだけでほかのすべてのセルは自動的に再計算され、データも書き替わります。リンクしたセルを見落とす心配もまったくなくなります。ビデオスクリーンは、実際にはコンピュータのメモリの中にあるスプレッドシートの一部を見せる窓を表示しているだけなのです。つまり箱に収まった仮想スプレッドシートは、どんな大きさにもできるのです。一度スプレッドシートを設定してしまえば、「もし部品一個につき10セント値上げをしたら、どれだけの増収が見込めるか」といった質問にもほんの数秒で答えてくれます。
 ブリックリンの生産管理の教授は、会計学の教授と同じように彼のアイデアをとても気に入ってくれました。しかし、別の教授、必要な計算を他人にやらせていた財政学の教授は、すでにメインフレーム用の財政分析プログラムがあるから、世界はダン・ブリックリンの小さなプログラムなど必要としないだろうと言いました。ところが必要としないのは財政学の教授だけで、世界中の人々は今はまだ名前も持たないブリックリンの小さなプログラムを必要としていたのです。
 未来のビジカルク・ユーザーの大半がビジネススクール出身者だったことを考えれば、ビジカルクがビジネススクールでの体験から生まれたのは何ら不思議なことではありません。ビジカルク・ユーザーの中には、分析的な経営技術を学んで就職したMBAが数多くいましたが、経営技術を学んだことよりも重要なのは、彼らがタイピングを習得していた(タイプライターを自由に使いこなせる人々だった)ことです。つまり彼らは、タイプを打つことやコンピュータを扱うのにアレルギーがなかったのです。
 ビジネススクール出身のビジカルク・ユーザーは、適切な道具さえ与えられればすべて自分一人でこなせるコンピュータ・ビジネスマンの最初の世代だったのです。
 しかしながらMBAを取得した彼らに対して、このソフトを使いたい、使えるという技能と動機が十分にあったにもかかわらず、彼らが勤めるほとんどの会社ではコンピュータにアクセスすることができなかったのです。
 
 ブリックリンは、週末を使って、アイデアの概略を説明するためのデモンストレーション・プログラムを作りました。このプログラムはBASICで書かれているので処理が遅く、一画面分の列と行しか持っていませんでした。しかしながら、スプレッドシートが持つ多くの基本機能を見せることはできました。たとえば、何もせずにただ待っているというのも機能の一つでしだ。これはスプレッドシートの優れた特質で、このプログラムは何らかの指示によって動作(イベント・ドリブン)するのです。ユーザがセルを変更しないかぎり、何も起こらないのです。こんなことはたいしたことには思えないかもしれませんが、イベント・ドリブンであるおかげでスプレッドシート全体がユーザーに反応するようになっているわけです。ほかの多くのプログラムとは違った形で、ユーザーがすべてを管理できるのです。ビジカルクは、いわばスプレッドシート言語です。ユーザーは、気づかないうちに初歩的なプログラミングをしていることになるのです。
 
■ ビジカルクの開発
 ブリックリンのデモンストレーション・プログラムが動くようになったのは、1978年初めのことでした。ちょうどマイクロコンピュータの大衆向け市場のようなものが出現し、アップルII、コモドールのPET、ラジオシャックのTRS-80が競争をはじめた頃です。彼はそれまでマイクロコンピュータを使った経験もなく、特にどのマシンが好みということもありませんでした。そこでブリックリンと彼のMIT時代の古い友人で新しくパートナーになったボブ・フランクストンは、アップルII用のビジカルクを開発しました。
 彼らは、表計算ソフト会社「ソフトウェア・アーツ社」を設立し、MITの大型コンピュータを使ってソフトを開発しはじめました。昼間は学校、夜に夜間使用料金でMITコンピュータを使用したのです。資金が不足していたので、フランクストンは夜、仕事をしました。夜間はコンピュータ使用料が安く、しかも利用者が減るからタイムシェアリングシステムの反応速度が速くなるのです。そして完成まで1年を費やしました。
 完成は1979年10月。ブリックリンとフランクストンは、ミニコンピュータ上のアップルIIエミュレータを使ってビジカルクの最初のバージョンを開発したのです。彼らは、マイクロソフトBASICやCP/Mが書かれたのと、まったく同じ方法でこのプログラムを開発しました。これをアップルIIに搭載しました。ビジカルクはマウスで動くというおまけまでついて。
 ブリックリンは当時まだハーバード・ビジネススクールに在学中だったので、のちにマイクロコンピュータのプログラムを開発する際の標準となったやり方で仕事を分担することにしました。つまり、ブリックリンが「プログラムの画面デザインはこんな感じで、こんな仕様になっていて、こんなふうに機能する」といった具合に指示を出し、実際にプログラム内部の設計をするのはフランクストンの仕事、という具合です。フランクストンは1963年からソフトウェアを書いてきた人間だったのでこれはまさに打ってつけの仕事でした。フランクストンは自分の考えでいくつかの機能を追加していますが、その中の一つに「ルックアップ」(lookup)機能がありました。ルックアップはあらかじめ作っておいた一覧表から特定の数値を取り出す機能で、彼はこれを自分の税金を計算するために作ったのだったそうです。
 
 ボブ・フランクストンは後にロータス・デベロップメント社の主席研究員を務めました。彼は非常に心の優しい性格の持ち主で、ロータス社に勤めたとき、この会社の連中が、彼のために、「ロータス1-2-3」を作ってくれたのだと思っていました。ハードウェア会社であれ、ソフトウェア会社であれ、パーソナルコンピュータの会社では社長でさえ主席研究員をどう扱ったらいいのかわかっていないようです。一般に、主席研究員は何もしなくていいのです。彼らは競争相手に引き抜かれたくないと思うほど頭のキレる連中なのです。そこで彼らは会社から肩書きとオフィスを与えられ、会社のあらゆる式典に過去の栄光を代表して出席することを義務づけられています。主席研究員が何人もいてはまずいというので、アップルコンピュータでは彼らを「アップル・フェローズ」と呼んでいるのです。
 ボブ・フランクストンは変形おたくで、あごひげをはやし、この種の連中に不可欠なフランネルのシャツを着ています。彼は、主席研究員としての自分の役割がインチキなものであることに気づいていないようでした。彼にとってこの肩書きは決してインチキなものではなく、市場性などを無視して自己の内面を見つめ、深淵な思考をするには絶好のポジションだったのです。
 
 ブリックリンらの作っているソフトウェアは、一ヶ月もあればすべての仕事が終わるだろうと考えていましたが、実際には完成までに一年近くかかりました。その間、彼らはまだ数少なかったソフトウェア販売店やアップル、アタリといったコンピュータメーカーに、ビジカルクの発売前のバージョンを見せてまわりました。アタリは関心を示したが、まだ売るべきコンピュータがありませんでした。一方、アップルの反応は冷たいものでした。
 1979年1月、彼らはアップルソフトBASICで書かれたカルクレジャー(ビジカルクの前身)を完成させその試作品をアップルに持ち込みマイク・マークラとスティーブ・ジョブズに見せました。ブリックリンらはこのソフトを100万ドル(2億4000万円)で売ろうとしましたがアップルは受け付けませんでした。彼らは当時このプログラムの重要性を把握できなかったのです。もっともこのプログラムの重要性を見抜けなかったのはアップルだけでなくビル・ゲイツでさえこのプログラムを買い取ることを拒否したといいます。
 1979年5月にサンフランシスコのウェストコースト・コンピュータ・フェアでビジカルクと改名して衆目の前にスプレッドシートがお目見えします。その後すったもんだして1979年10月、アップルIIに搭載されマウスで操作できるまでになりました。
 
 1979年10月、ビジカルクは100ドルの価格で発売を開始します。最初の100セットは、マサチューセッツ州ベッドフォードにあるマーブ・ゴールドシュミットのコンピュータショップに送られました。ダン・ブリックリンは定期的にこの店に出かけ、当惑する客に向かって製品のデモンストレーションを行ったそうです。しかし、売れ行きは思わしくありませんでした。ビジカルクの最初の画面を見てそれが未来を見ることだと気づかなかったとしても、当時のユーザーを責めるのはお門違いででしょう。なにしろ、こんな製品はいままで存在しなかったのですから。
 当時のパーソナルコンピュータのソフトウェア開発者のほとんどは、自分たちが開発する財務関係の製品はどれも主に小企業(スモールビジネス)で働く人々がユーザーになるだろうと思って疑いませんでした。たとえばアップルのマークラが愛用していた会計システムは、タイムシェアリングシステムにアクセスするだけの余裕などなく、しかも会計会社に経理の仕事をまかせたくないので、小規模な販売業者や製造業者に使われる財務管理ソフトを使っていました。ブリックリンが開発したビジカルクスプレッドシートも、同じように小企業で働く人々が予算を組んだり商売の予測を立てたりするために使われるはずでした。メインフレームやミニコンピュータの導入で大・中企業のオートメーション化がはじまったように、小企業はマイクロコンピュータによってオートメーションの時代を迎えるはずだったのです。しかし、事は目論見どおりには運びませんでした。
 
 
■ VisiCalc出版元 ダン・フィルストラのパーソナル・ソフトウェア社
 ブリックリンとフラクストンがビジカルクを開発するにあたりアップルIIを使ったのは、彼らの出版元になるはずの人間がアップルIIを貸してくれたという単にそれだけの理由でした。機種の決定に、技術的にメリットがあるかどうかはまったく関係がなかったそうです。
 ダン・フィルストラと言う人がその出版元でした。彼は、1,2年前にハーバード・ビジネススクールを卒業したばかりの人間で、自宅でマイクロコンピュータ用チェス・プログラムの通信販売をして暮らそうと考えていました。フィルストラの会社「パーソナル・ソフトウェア社」は、マイクロコンピュータ用アプリケーションソフトウェア会社の原型と言っていいでしょう。マイクロソフトのビル・ゲイツやデジタルリサーチのゲーリー・キルドールは、オペレーティングシステムや言語の開発・販売が専門でした。どちらの製品も、システムソフトウェアというラベルで一つにくくることができます。また、いずれも直接ユーザーに売られるわけではなく、ハードウェアメーカーに販売されていました。しかしながら、フィルストラはこうした販売方法とは別のやり方で、アプリケーションソフトをを小売店やユーザーに直接売っていたのです。それも、たいていは一回に1セットという小さな販売形態でした。当時そうした販売をするの格好の手本にする会社がなかったので、フィルストラは自分自身で数多くの失敗を経験しなければなりませんでした。
 見習うべきサクセス・ストーリーは他になく、金を稼ぐための原則を見つけだしたソフトウェア販売会社もない状況だったのです。そこでフィルストラはハーバードでのケーススタディーを引っぱり出し、マイクロコンピュータのソフトウェアビジネスに応用できそうな原則を持つよく似た業界を探すことにしました。
 彼が見つけた中で最も近かったのは本の出版元でした。出版業界では著者に製品のデザインと提供(インプリメント)の責任があり、出版社は製造、流通、マーケティング、販売の責任を負います。これをマイクロコンピュータ業界に移し替えると、ブリックリンとフランクストンが作った会社ソフトウェア・アーツ社は、ビジカルクを開発し、その後のバージョンアップ、製品サポートにも責任を持つ。一方、フィルストラの会社パーソナル・ソフトウェア社は、フロッピーディスクをコピーしてマニュアルを印刷し、コンピュータ雑誌に広告を載せ、製品を小売店や一般ユーザに届ける責任を持つ、ということになります。ソフトウェア・アーツ(製造元)は、ビジカルク一部につき小売価格の37.5%、または卸売価格の50%の印税を受け取ることになりました。この高い印税がのちのち彼らの前途を暗くさせ新しい波を起こさせることになりました。
 
 
■ ビジカルクの市場
 スモールビジネス市場の問題は、小企業というものがビジネスにとってはたいていはあまりおいしくないマーケットであることです。小さな会社で働いている人々の大半は、自分がどんな仕事をしているのかわかっていませんでした。会計などというものは、明らかに彼らの手に負えないものだったのです。
 その当時、ホビイストやそのうちコンピュータゲームファンになるはずの連中に対するソフトウェアの売上はピークに達していましたが、小企業に対するビジネスソフトの売上はさっぱりでした。これは、アップルやその競争相手にとっては非常に深刻な問題でした。パーソナルコンピュータ革命がまるであと五年しか続かないように思えたようです。しかし、そうした危惧をしはじめたそのあとにビジカルクの売上が急激に増加しはじめたのです。
 マープ・ゴールドシュミットの店でビジカルクのデモを見た数多くの客の中に、わずかではありましたが大企業に勤めるビジネスマンが混じっていました。彼らはコンピュータマニアであり、なおかつビジネスの世界でも認められている例外的な人間でした。こうした連中の多くはアップルIIを買い、一行40文字しか表示できないディスプレーや小文字が使えないことに半ばあきらめをもちつつもそれでも実際の仕事に使いたいと思っていました。ビジカルクなら小文字が使えなくても問題がありません。また、このプログラムは大きな仮想スプレッドシートの一部をスクリーン表示するようになっていましたから、一行40文字の制約も思っていたほど問題になりません。それがわかった彼らは100ドルを払ってこのチャンスに飛びつき、ビジカルクを家に持ち込みました。こうして、アップルIIの真の市場は小さな企業の人達ではなく大企業のビジネスマンにあることがわかったのです。アップルIIを産業界に広めたのは、アップルIIのマーケッタではなかったのです。企業に勤める仕事熱心なビジネスマンの努力でアップルIIが産業界に広まったのです。
 「スプレッドシートのすばらしい点は、大企業に勤める顧客たちが本当に頭が良くて、あのプログラムがもたらす利益を即座に理解できたことだ」と、アップル社でスモールビジネス戦略をまかされていたトリップ・ホーキンスは述懐しています。
 
 
■ VisiCalc 市場独占のミス
 「ピッツバーグのウェスチングハウス社に行ったときのことだ。あの会社はアップルIIが自分のところには適していないと結論を出していたんだが、どういうわけか本社に1000台のアップルIIが届いてしまった。それで、小口の手持ち資金でビジカルクを全部買ってくれたというわけだよ。あの会社のインテリたちが、アップルIIを有名にしてくれたようなものだね」
 スプレッドシートはパーソナルコンピュータライフの新しい形態であり、ビジカルクはアップル社が大・中企業向けのマイクロコンピュータ市場に参入するために必要な道具となりました。そして、ビジカルクがあればこの市場を独占できるかもしれない、と、アップル社営業マンのホーキンスは、そのことに気づいた最初の一人でした。ビジカルクはその当時、販売されていた唯一のスプレッドシートでした。アップルII初のしかもアップルIIでしか使えないスプレッドシートだったのです。ビジカルクは、アップル社にとって戦略的な価値がありました。ブリックリンとフランクストンがラジオシャックのTRS-80のような他のマシンに移植しようかな、と考える前にしっかりつなぎ止めておかなければならない商品だったのです。
 「最初のビジカルクをアップルのオフィスに持っていったとき、私はこれがアップルIIの成功に不可欠な重要なアプリケーションだと確信したんだ」と、アップル社のホーキンスは言っています。
 「ラジオシャックやいずれは登場するのがわかっていたIBMのマシンに、あのソフトウェアを移植してほしくなかった。そこで私はダン・フィルストラを昼食に招いて、買い取りの話を持ちかけたんだ。100万ドル相当のアップル株の譲渡ということで話はまとまったよ。あとになれば、この100万ドルははるかに大きな価値をもつはずだからね。ところがアップル社の幹部であるマークラにこの取引を承認してもらおうとしたら、『ダメだ、高すぎる』と言われてしまったんだ。」
 マイクロコンピュータ・ソフトウェアビジネスの草創期、100万ドルといったらとても大変な額でした。多少なりとも金銭のことを考えた事があるプログラマなら、だれでも自分が作ったプログラムがかっきり100万ドルで売れるときのことを想像したことがあるでしょう。このプログラムの所有権を持っていれば、アップル社は何年にもわたってマイクロコンピュータのビジネス市場を独占できたはずなのです。ダン・フィルストラにとっても、この取引はすばらしい結果をもたらすはずでした。取引が成立していれば、彼は今頃自分のアパートでチェス・プログラムの通信販売をしていられたかもしれないのです。ただし、ダン・フィルストラではなくダン・ブリックリンとボブ・フランクストンがビジカルクの所有権を持っていたことを除けば、の話です。マサチューセッツにいる二人にはまったく知らされることなく、この取引は持ち上がり、そして消えていったのです。
 ビジカルクは、アップルIIのソフトとして99$で発売され、100,000本/年売れました。IBMはライバル会社のパソコンに搭載されている「ビジカルク」を見てパソコンを開発する決定をしたと言います。
そして、同種類のソフト開発にIBMが動くのです。MS-DOSとIBMパソコンを不動にしたキラーソフト、「Lotus1-2-3」の登場です。
 「Lotus1-2-3」は、ミッチーケーパとジョナサン・サックスが起こした会社ロータス社で開発された製品で、IBMパソコン用の表計算ソフトとして発売されました。1982.11月の発売と同時に300万$の注文を受け先陣のビジカルクを圧倒します。「Lotus1-2-3」は2,000万本を出荷し、ビジカルクはビジネスに失敗しました。 Lotus社についてはパソコンの文化18で詳しく述べます。
 現在ダニエル・ブリックリンは自宅でソフトウェア・ガーデン社を経営しています。従業員3名。一時ロータスに顧問として勤めていましたが退社しています。
 
 
 
17-2. VisiCalc(ビジカルク)とビジコープ(VisiCorp)社
 
 IBM PC用に移植されたビジカルクが発売される頃には、IBM PCパーソナルコンピュータだけでなく人気のあるマイクロコンピュータのほとんどの機種ですでに使えるようになっていました。IBM PC版のビジカルクは、実は移植のまた移植でした。アップルIIのオリジナル版から移植されたラジオシャック版をさらに移植したものでした。ビジカルクはすでに二歳になり、少しばかり疲れていました。IBM PCは、最大640Kバイトのメモリを利用できるおうになっているのにビジカルクは依然として64Kバイトしか使えませんでした。しかも、アップルII版や「トラッシュ80」版同様の古くさい機能しか持っていなかったのです。これからコンピュータユーザーになろうとする人間にとって、もはやビジカルクでは圧倒的魅力はなくなっていました。彼らは何か新しいものを求めていたのです。
 ビジカルクがこれだけたくさんのマイクロコンピュータで利用できるようになった理由は、一つにはかってはパーソナル・ソフトウェア社(Personal Software)と呼ばれ、1976年にビジコープ(VisiCorp)と社名変更していたダン・フィルストラ(Dan Fylstra)の会社と、ダン・ブリックリン(Dan Bricklin)の会社ソフトウェア・アーツ社(Software Arts)との契約までさかのぼります。
ビジコープ(ビジカルクの販売会社)は、ソフトウェア・アーツと(ビジカルクの開発会社)の契約から逃れたがっていました。ビジコープは、マサチューセッツ州のフィルストラのベッドルームで生まれ、やがて活気のあるカリフォルニア州に移って派手な家に落ち着きました。しかし、シリコンバレーで起きるありとあらゆる出来事の真っ只中にいながら、ビジコープはソフトウェア・アーツとの契約に苦しめられていました。ブリックリンとフランクストンにビジカルクを一部売るごとに依然として37.5%の印税を払っていたのです。ビジカルクの売上は、ピーク時には1ヶ月3万部までに達しました。ビジコープ社は契約に従って、1983年だけでソフトウェア・アーツ社に1200万ドル(29億円)支払わなければならなかったのです。どちらの会社も、これほどの額になるとは予想もしていませんでした。
 フィルストラは、会社の負担を軽くするために新しい契約を交わしたいと思っていましたが、彼には相手に変更を強いるだけの力はありませんでした。契約は契約なのです。それに、プログラミングの内部の厳密な規則を理解しそしてその規則に従うのがブリックリンとフランクストンの仕事の基本なのです。彼らのようなハッカーが自分たちの有利な立場(今回の契約)を放棄するはずがありません。契約のもとにビジコープが権利として持っている強制力は、ソフトウェア・アーツ(ブリックリンとフラクストン)に対してフィルストラが希望するすべてのコンピュータにビジカルクを移植させることしかありませんでした。
 そこでフィルストラは、ブリックリンにあらゆるマイクロコンピュータにビジカルクを移植させたのです。
 ビジコープにもソフトウェア・アーツにも互いに37.5%という印税率が高すぎることはわかっていました。現在でこそ、印税率は15%前後が一般的だと言われています。フィルストラはビジカルクの全権利を所有したかったのですが、二年間にわたってその交渉を続けたものの両社が合意に達することはありませんでした。
 ビジコープ社は、同じ印税でビジカルク以外の製品も販売していました。その中の一つに、ミッチー・ケーパー(Mitch Kapor:後のLotusの創設者、1950 〜)とエリック・ローゼンフィールドが書いた「ビジプロット/ビジトレンド」(VisiPlot/VisiTrend)があります。ビジプロット/ビジトレンドと呼ばれるソフトウェアは、ビジカルクの機能を拡張するプログラムでした。ビジElickカルクやほかのプログラムからデータを取り込んでグラフを作成し、統計学的分析を加えてデータから傾向を読みとることができるソフトウェアでした。これは株式市場の分析には格好のプログラムだったのです。
 ミッチー・ケイパーは1951年米国マサチューセッツ州に生まれました。経歴は少し変わっていてエール大学時代は主に心理学を専攻しラジオ局やコメディアンなどの職に就いていたそうですが点々と職を変えたようです。一時期宗教にも凝りその世界に入っていきますが、1978年、ビーコン・カレッジに入学し直し心理学を勉強する傍らコンピュータに魅せられて行きます。そうした中で、マサチューセッツ工科大学(MIT)の院生らの研究を手伝うようになります。
 大学院の学生には、さまざまな研究が割り当てられます。ミッチー・ケーパーも、大学院にいた頃に数多くの研究を割り当てられていました。「ビジプロット/ビジトレンド」はその中で開発されたソフトウェアの一つでした。これはMITのスローン経営学研究室での研究の最中に書いたプログラムがもとになっていました。TROLLという計量経済学のために開発されたモデリング言語を使って、統計学の論文を書いていたケーパーの友人ローゼンフィールドは、MITのコンピュータシステムの使用時間を減らし、使用料を節約しようとしていました。そこでケーパーはこれに協力するために、彼が「タイニーTROLL」と呼ぶプログラムを書いたのです。これは、TROLLのマイクロコンピュータ用サブセットプログラムでした。このタイニーTROLLがのちにビジカルクのファイルが読み込まれるように書き直され、やがて「ビジプロット/ビジトレンド」となっていったのです。
 高い印税率にもかかわらず、ビジコープ社は当時のマイクロコンピュータソフトウェア会社の中で最も成功した会社でした。成功した会社にとってソフトウェア商売というのは紙幣印刷のライセンスのようなものなのです。アプリケーションを書く費用を差し引くと、利幅は90%近くになるのです。たとえば、ビジプロット/ビジトレンドの価格は249ドル95セントですが、販売代理店にはその60%引き、つまり99ドル98セントで卸されます。ケーパーの印税はその37.5%ですから一部当たり37ドル49セントになります。ビジコープには62ドル49セント残り、ここからフロッピーディスクとマニュアルを製造費として15ドル程度を支払い、マーケッティングのコストに約25ドル払ってもまだ22ドル49セントの利益が残る計算になります。ケーパーとローゼンフィールドは1981年と82年の2年間で、ビジプロット/ビジトレンドの印税として約50万ドル(1億1000万円)の収入を得ました。このソフトウェアが、もともとスローン研究室のタイムシェアリングシステムの使用料を節約することから始まったものであることを考えれば、これは大きな金額でした。しかし、ダン・ブリックリンとボブ・フランクストンは、ビジコープの本当のドル箱であるビジカルクからその10倍の金を稼いでいたのです。
 ミッチー・ケーパーは、この違いにどんな意味があるのかよくわかっていました。
 
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18. パソコンの文化18 (2001.09.09)
 
18-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その4) - ロータス
■ スプレッドシートソフトウェア
 ダン・ブリックリン(ビジカルク開発者)がスプレッドシートの特許を取ろうとしなかったのは、大きなミスでした。ソフトウェアの特許権に関してはそれまでに何度か訴訟が起こされてきましたが、連邦最高裁判所ではいずれも敗訴に終わっていました。
 ビジカルクが発表された1979年当時、ソフトウェアというものに対して著作権しか認められないというのが一般的で、特許権はないと考えられていたのです。プログラムコードの個々の文字や特定のコマンドは書物に記述された言葉と同じように著作権で保護されます。ところがプログラムが実行する機能そのものは、著作権では保護できません。著作権では、スプレッドシートという『アイデア』そのものを保護することができないのです。アイデアを保護するには、特許権が必要だったのです。
 ソフトウェアの特許権が初めて認められたのは、1981年5月26日のことです。1974年から続けられてきた七年間にわたる裁判の結果、プログラマであり弁理士でもあるS・パル・アシジャ(S. Pal Asija)は、「スイフトアンサー」(Swift-Answer)で初のソフトウェア特許権を取得しました。スイフトアンサーはデータ検索ソフトウェアでしたが、裁判での勝訴以後そのうわさ(たくさん売れたとか使われているとか)を聞いたことは一度もありません。このソフトウェアの唯一の歴史的価値は、ソフトウェアにも特許権が認められることを証明したことです。スイフトアンサーを開発したアシジャはそれを勝ち取りました。しかし、ダン・ブリックリンにとってその判決が出るのは遅すぎたようです。
 
■ ロータス社設立 - ミッチー・ケーパー(Mitch Kapor)
 ロータス・デベロップメント社(Lotus Developmnt Co.)を1981年に創設したミッチー・ケーパー(Mitchell David Kapor:1950.11.1〜 )は、一時期ビジコープ社(VisiCorp)でソフトウェアビジネスを学びました。彼はカリフォルニアに移り、ダン・フィルストラ(Dan Fylstra)のもとで五ヶ月間働いたのです。彼はその会社でプロダクトマネージャとして新しい製品を見つけだし、それを売り込む仕事を手伝っていました。ケーパーはビジコープ社の良い部分も悪い部分も見ることができ、ビジカルク(VisiCalc)のような圧倒的魅力を持つソフトウェアが生み出す金の大きさも知りました。
 ビジコープ社では、37.5%の印税(ビジカルクを販売するためにビジカルクの開発者ダン・ブリックリンと結んだ契約)から抜け出すために、ソフトウェアの全権利を買い取りたいと考えていたロイ・フォークは、ビジカルクの附属ソフトであるビジプロット/ビジトレンド(VisiPlot/VisiTrend)にいくら払えば売ってくれるかとケーパーに尋ねました。ケーパーは最初、100万ドル(2億4000万円)を要求しました。100万というのはほとんどのプログラマが頭に描いている魔法の数字で、ソフトウェアを売ってくれと言われると彼らは決まって100万ドルと答えます。しかしケーパーはこの取引が成功したら、食べさせてやらなくてはいけない口がいくつもあることを思い出しました。彼にはプログラムコードを書くのを手伝ってくれたプログラマが何人もいて、彼らにそのときの埋め合わせをしなければなりませんでした。そこですぐにその考えをあらため、最終的な金額は120万ドルに落ち着きました。そしてケーパーは税金を差し引いた残りの60万ドルを持って、マサチューセッツに戻りました。わずか三年前にはマーブ・ゴールドシュミットの家に間借りして、これからの人生をどう生きるかを思い悩み、ステレオを質に入れて買ったアップルIIで遊んでいた彼はいろいろな勉強と大金を手に入れたのです。
 彼は、ビジコープで働いているときに、IBM PCのプロトタイプを見ています。そのときに彼は、IBM PCとPC-DOSオペレーティングシステムは新しい標準を確立し、そのことによって新しいビジネスチャンスが生まれるだろうと感じていました。ボストンに戻った彼は、持っていた金の半分、30万ドル(7200万円)をIBM PCとPC-DOSに賭けることにしました。この時点では、この二つの製品(IBM PCコンピュータとPC-DOSのOS)が成功するかどうかについて専門家の予測は分かれていましたから、彼の賭けは大胆なものだったといって良いでしょう。
 業界の権威の中には、PC-DOSの利点は認めるけれど、IBMのハードウェアに関しては特別なものは全くないという者がいました。あるいは、IBMのハードウェアは成功するだろうが、それにはもっとしっかりしたオペレーティングシステムが必要だという専門家もいました。当のIBMでさえ自分たちの賭を確実にするために、PC-DOS以外に『CP/M-86』と『UCSD p』システムという二種類のオペレーティングシステムを用意していたくらいです。しかしIBM PCと同時に出荷され、IBMの名前を冠したオペレーティングシステムは、マイクロソフトが開発したPC-DOSだけでした。
 そこにどんな意味があるのかケーパーはよくわかっていたのです。
 
18-2. ロータス1-2-3(Lotus1-2-3)
■ 開発
 ロータス1-2-3のプログラムを書いたのはジョナサン・サクス(Jonathan Sachs:1947 〜)で、ケーパーは自分のことをソフトウェアデザイナーと呼んでいました。ミッチ・ケーパーを例に取ると、ソフトウェアデザイナーというのはアロハシャツを着ていてプログラムの細部に強い関心を示すけれど、プログラムの基盤であるアルゴリズムやコードには必ずしも関心を示さない人間を指すようです。ケーパーは、1978年、アップルIIで動く『タイニートロール』(Tiny Troll)というソフトウェアを書いた後しばらくして、プログラマであることをやめました。『ロータス1-2-3』の開発におけるケーパーとサクスの役割は、一般的にはビジカルクを開発したときのブリックリンとフランクストンの役割に似ています。
 ジョナサン・サクスはかってデータゼネラル社(米国東海岸にあったミニコンピュータの会社)で働いたことがあり、その前はMITで働いていました。『ロータス1-2-3』は、彼が前にデータゼネラルのミニコンピュータ用に書いたスプレッドシートプログラムが基礎となっていました。競合製品と比べて目立つように、ケーパーは『ロータス1-2-3』に数種類の機能を持たせようと考えました。そこで、2人はサクスが作ったオリジナルのスプレッドシートに、グラフィックスとワードプロセッサの機能を付け加えようというアイデアを思いついたのです。(ロータス1-2-3というのは、この3種類、スプレッドシート、グラフ、ワープロの意味が込められているようです。)こうすればユーザーは財務データを処理し、その結果をグラフや図として描き、さらにワードプロセッサで書いたリポートとして一つにまとめられるのです。ワードプロセッサは第三のプログラマが書いたものでしたが、これが実はプロジェクト全体の進行を止めてしまうほどのボトルネックになりました。その頃のサクスは、『コンテキストMBA』というソフトウェアの初期バージョンをいじっていて、MBAの処理速度を遅くしている犯人がワードプロセッサ部分だと言うことを突き止めていたのです。そこで彼らは、ロータス1-2-3からワードプロセッサ機能を取り除き、代わりにサクスが書いた簡単なデータベース機能を追加することにしまた。ロータス1-2-3と呼ぶには、当初の予定通り三つの機能が必要だったというわけです。
 コンテキストMBAと違って、ロータス1-2-3はすべて8088のアセンブリ言語で書かれていましたから、処理速度はきわめて速いものでした。そして発売と同時に、マルチプランとビジカルクを徹底的に打ちのめしたのです。面白いことにロータス1-2-3が発売されたときビル・ゲイツは自社製品の処理速度を過大評価して、マイクロソフトのマルチプランは市場から1-2-3を消し去るだろう、とおそろしく非現実的な予測をしていました。ロータスの製品はIBM PCのハードウェアのありとあらゆる部分を利用していましたから、IBM PCでしか使えませんでした。しかも、最初のIBM PCはボード上にわずか16Kバイトのメモリしか持っていないのに、ロータス1-2-3は256Kバイトものメモリが必要だったのです。この時まで、マイクロコンピュータでこれほど大量のメモリを必要とするプログラムはなかったのです。
 ケーパーの口うるさい指示を聞きながら、サクスが1-2-3の大半のコードを書いたのだとしたら、つまり、この二人で商品を開発したのだとしたらある疑問が生じます。
  あの金はいったいどこへいったのでしょう?
 自分で出した30万ドル以外に、ケーパーはベンチャーキャピタルから300万ドル(7億2000万円)以上の資金を調達しているはずでした。300万ドルといえば、アップル?の発売に要した資金の10倍近い金額なのです。
 実は、その資金の大半はロータス1-2-3を販売するための組織作りと、製品の発売キャンペーンに使われたのです。1983年当時、パソコン市場はすでに数千種類のマイクロコンピュータソフトウェアが競争を繰り広げられ、コンピュータショップの棚スペースはそれらの製品で埋め尽くされていました。ケーパーとマッキンゼー社のコンサルタントチームは、競合メーカとの衝突を避けるために大企業に直接ロータス1-2-3を販売することにしたのです。彼らはコンピュータショップとコンピュータ雑誌を無視して、代わりに「タイム」と「ニューズ・ウィーク」に広告を載せたのです。1983年1月の発売にあたって、一般マスコミ市場向けの広告に100万ドル以上の費用をかけたのです。彼らの初年度の売上達成目標は、400万ドル(9億6000万円)という大胆なものでした。ところが、最終的に初年度の売上は予想の17倍にも達してしまったのです。これには、財務計画のパッケージソフトウェア(ロータス1-2-3)を売っている当の会社(ロータスデベロップメント社)も面食らったに違いないでしょう。ロータス1-2-3が発売されてから三ヶ月の間にそのソフトを使うIBM PCの売上は三倍になりました。
 ビッグブルーはIBM PCの成功に不可欠な圧倒的魅力を持つソフトウェアを手に入れ、ミッチ・ケーパーは金脈を掘り当てたのです。
 
 
18-3. ロータスデベロップメント社(マサチューセッツ州ケンブリッジ)
■ IBM PCのスプレッドシートの現状
 IBM PCが発表された時点で、IBM PCで利用できるスプレッドシートアプリケーションソフトウェアはすでに二種類ありました。「ビジカルク」と「マルチプラン」(マイクロソフト社開発)です。どちらも、ほかのコンピュータから移植されたものでIBM PC専用のものではありませんでした。このどちらか一方が、IBM PCの成功に導く圧倒的魅力を持つアプリケーションとなっていた可能性は十分にありました。つまり、ロータス1-2-3が入る隙などないくらいに、です。しかし、ビジカルクもマルチプランも、IBM PCの売上をセカンドギアに入れて加速を促すだけの性能と活力を持っていませんでした。しかし、このことを当時断言して言える人はいませんでした。IBM PCの推進責任者のエストリッジでさえも確信をもっていたそうだとは言い切れなかったのです。(これは、ロータス1-2-3の爆発的な売り上げを見た結果から言えることなのかもしれません。)
 とはいえ、ロータス1-2-3を待つまでもなくIBM PCコンピュータそのものは間違いなく成功したように見えました。1981年の暮れに出荷が開始されてから四ヶ月で、IBMは5万台のIBM PCを売ったのです。一方、1981年のアップルの売上台数はわずか13万5000台にとどまっていました。そして1982年の初めには、IBM PCはアップルの二倍の台数を販売しました。ただし、この時期にIBM PCを購入したのは、魅力を持つアプリケーションがあったからではなくIBMの名前にひかれた顧客が中心だったのです。
 1981年末の時点で、アメリカには200万台のマイクロコンピュータがありました。現在ではIBM互換機だけでも6000万台以上のパーソナルコンピュータがあり、さらに毎年1200万台から1500万台が売れています。圧倒的魅力を持つアプリケーションが必要になるのは、こうした成功の後半の段階、5万台程度売れても目立たなくなる時期なのです。その圧倒的魅力を持つアプリケーション、ロータス1-2-3は、1983年1月26日まで姿を見せませんでした。
 
■ スーツ - ロータス1-2-3にみる管理者CEO
 コンピュータ会社が旗揚げされ成長していくとき、通常は成長の代償として設立当初の純粋さや無垢さを失ってしまいます。25人のやる気のある技術者(テッキー)を指揮している間は何の問題もなかった創設者が、会社が500人もの従業員を抱えるまでに成長し、あらゆるタイプの人間が働くようになったとたんに惨めに失敗してしまうケースがよくあります。なぜ失敗するのでしょう?
 まず考えられることは、彼らは経営者としての訓練を受けていないことです。彼らは、IBMのような大企業で経営の道を歩んできたわけではありません。それよりも三十歳になって突然、3000万ドル(72億円)の売上と500家族、そして常にサービスやサポートを要求する顧客に対して責任を負うことになってしまうケースに陥る方が圧倒的に多いのです。彼らはこんな事になるとは想像したこともないにせよ、リーダーによっては仕事の責任を負い、なんとか対処法を身につけようと努力しようとするでしょうが、しかし場合によっては仕事の責任をとらずに会社をつぶしてしまうか、別の厄介者である経営の専門家と交代してしまうこともあるのです。
 どんなベンチャーも設立メンバーが消え始め、そのかわりにMBA(経営学修士号)を持ち、価格帯や市場普及率、戦略的位置づけといったことを考える「スーツ」たちが現れる日がやってきます。こうした新しく入ってきた連中(スーツ)は、自分が働いている会社の製品であるコンピュータやソフトウェアの内部の仕組みを理解していないことが多いのです。その結果、コンピュータおたくたちは、スーツ連中を会社が通過しなければならない一つのステップにすぎないと考えて、彼らを無視するようになります。
 コンピュータおたくは、マーケッティング部門や財務部門で働く非技術系の同僚を必要悪と見なしています。スーツが実際に何をしているかが分かればコンピュータおたくは腰を抜かすでしょうが、コンピュータおたくはスーツが雇われているのは単に自分自身への金儲けのためだと思っているのです。テッキーたちは、ちょうど『エド・サリバン・ショー』でビートルズやローリング・ストーンズを見ているティーンエージャーのようなものです。彼らはエド・サリバンが何者かは知らないけれど、彼がいなければショーが成立しないことを知っています。だから、お義理の拍手だけは送るのです。
 しかし、現実にはスーツの入社は単なる1ステップ以上の意味を持っています。会社が大きくなるのも、大きくなる途中でつぶれてしまうのも彼ら次第なのです。しかし、いずれにせよ彼らの役割というのは、彼らが会社とそのリーダの性格を決定的に変えてしまうことだけは間違いありません。
 ロータス社を設立させたミッチー・ケーパーは会社が順調になったとき、大きくなる会社がそうであるように雑仕事に嫌気がさし、ジム・マンジ(Jim Manzi:1951 〜)に経営を引き渡しました。ニューヨーク州ヨンカース出身の怒りっぽい小男、ジム・マンジはそのとき34才で、彼は権力を手に入れるためならなんでもする気になっていました。しかし彼は、CEOとして自分の会社が売っている技術に対する理解も、その技術を一緒に売っていく従業員に対する理解も欠けていたのです。
 マンジは、ロータス社初のマーケッティング担当副社長でした。彼が、コンピュータマニア向けでなく企業の経営者が読むビジネス誌や一般雑誌にロータス1-2-3の広告を載せ、個人向けではなくそうした企業に直接売り込もうというアイデアを考え出したのです。この計画は見事に的中し、ロータス1-2-3は出荷が始まって最初の一週間で100万ドルの売上を達成するという前代未聞の大成功を収めました。しかしながら、マンジは頭の切れる人間だったにもかかわらず、あらゆる意味でスーツでした。彼はロータス1-2-3を売りはしたのですが、決して自分で使うことはありませんでした。そして、自分の会社の主力製品の仕組みを理解していないことが逆に美徳でもあるかのように、専門的な知識がないことを自慢したのです。彼は、自分の変わりに他の人間に製品を理解させておけばすむ地位にありました。製品に対する専門的な知識なしでソフトウェアをうまく売れれば、自分がいっそう頭のキレる人間に見えたはずだと思っていたのです。そして、そうした外見(経営スタイル)こそ彼が求めているものだったのです。
 ジム・マンジは、ロータス1-2-3をあれほどうまくセールスできたにもかかわらず、人間の扱いがへたくそでした。たとえば4年のあいだに開発部門の部長が5人入社し、去って行きました。5人は5人とも就任してすぐ「バカ野郎!」呼ばわりされ、5人ともまるで判を押したように同じ扱いを受け、そして辞めていったのです。
 MS-DOSのアプリケーションの中で最も売れているロータス1-2-3だからマイクロソフト社のビル・ゲイツと仲がよいかというとそうでもありませんでした。1984年、ロータス社がもう少しでマイクロソフトに買収されそうになってからというもの、マンジはビル・ゲイツに対して良い感情を抱かなくなりました。その一件があって以来というもの、ビル・ゲイツを助けるようなことは一切しなくなりました。
 たとえば、ロータスは、マイクロソフトのウィンドウズのグラフィック環境で動くスプレッドシートを開発しない! という(今になっては愚かな判断、当時としてはマイクロソフトに対する嫌がらせ)に努めたのです。しかしある製品を開発しないように努めるのと、実際に開発しないのとは別問題です。マンジがウィンドウズ罵倒していたにもかかわらず、ロータスの研究室では、彼が知らない間にウィンドウズ用の低価格スプレッドシート「アムステル」の開発が進められていたのです。アムステルは最終的には「1-2-3/ウィンドウズ」という製品名で売り出され、ロータスの主力製品の一つになりました。
 マンジは、自分はゲイツのライバルだと思ってました。2人とも、パーソナルコンピュータ用ソフトウェア会社のトップに立ちたいという意識を持っていました。そして、2人とも無限の金持ちになりたいと思っていました(もっとも、実際にはゲイツだけがそうなりましたが)。その上2人は、車のコレクターとしても張り合っていました。ビル・ゲイツとポール・アレンがそれぞれ40万ドル(9600万円)払って、アルミボディのポルシェ959を一台ずつ買った時、それを知ったマンジも、この車種がアメリカ国内で発売される予定がなかったにもかかわらず一台注文したのです。アレンとゲイツにそれぞれシリアルナンバーが197と198の車が納車され、マンジは201番を取るはずでした。ところが、ポルシェは959の生産を200番で打ち切ってしまったのです・・・。
 社内でのマンジは孤立化し、従業員を相手に会社組織を引っかき回していました。彼に対抗できないようにするための自衛手段だったのです。それでも会社は、既に数百万のユーザがいたおかげで改良が滞ってからも長い間売上を維持することができ、悪い噂が広まるまでかなりの時間を稼ぐことができました。そんな暗い会社の状況にもかかわらず、1987年のマンジの収入は、給与、ボーナスとストックオプションを併せて2600万ドル(63億7000万円)にも達していました。しかし、真実は自然に広がるものです。会社経営はいきずまり、マンジでさえも会社がチャンスをつかむためには誰かを信じざるを得ない状況になりました。そして、IBMから来た古いタイプのマネージャで、技術に精通したフランク・キング(W. Frank King III)を信用することになったのです。
 フランク・キングは、IBMという地下墓地から抜け出してどうにか発売にこぎつけた革新的なデータベース言語「SQL」を発明した男です。IBMが作った独創的な製品のほとんどすべてがそうであるように、SQLも会社には秘密で開発されました。キングと彼のグループはウソをついて密かに開発を進め、完成してから社内のお偉方にこれを見せたのです。お偉方の連中は感動し、SQLは製品化されることになったのです。フランク・キングは、物事をどう進めるべきかよくわかった人物でした。
 フランク・キングはロータスに五つのオフィスを作り、そのそれぞれに開発グループを入れました。そして彼は毎日一つずつ、一週間で全グループを見て回ることにしたのです。キングはまた、長い間放置されたままになっていて隠された製品を発見しました。依然として欠陥を抱えたまま、大幅に予定が遅れていたロータス1-2-3バージョン3.0です。彼がこれを発見し、泥沼から引っ張り上げたのです。ロータスを作ったのはミッチ・ケーパーとジム・マンジでしたが、救ったのはフランク・キングだったのです。
 
■ ロータス社設立と競合会社(コンテキストMBA)の明暗
 テクノロジーのフチに立っていると、いろいろな外敵に急襲されて神経の休まるときがありません。戦略の判断はいつも危険が伴っています。PC-DOSが搭載されたIBM PCコンピュータだけをサポートし、Windowsはサポートしないと決めたロータス社は、戻ることができず落ちる寸前のところまで踏み出してしまったようなものです。ハードウェアとオペレーティングシステムの両方が成功すれば、彼らはだれも夢にさえ見たことがないほどの大金持ちになれたでしょう。しかし、どちらか一方でも標準になりそこなえば、ロータス1-2-3も失敗する。財産の半分を失い、二年間の生活を無駄にしてしまうことになるのです。
 こうしたリスクを最小限にとどめるために、ほかの会社はもっと用心深い道を選ぶことがあります。それがたとえ失敗したとしても開発途上では大きな安心が得られるのです。たとえば、米国サンディエゴにあったコンテクスト・マネージメント・システムズ社は、ロータス1-2-3よりはるかに野心的な統合ソフト「コンテキストMBA = Context MBA」の開発を計画していましたが、PC-DOSがうまくいかなかった場合に備えてコンテキストMBAを「UCSD p」システムというOS環境で書いていました。
 この小文字のpは、「pseudo」(擬似的な)を意味しています。カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で開発されたpシステムは、コンピュータの中に擬似的なコンピュータを作ることによって、さまざまなマイクロプロセッサで動かすことを目的に作られたオペレーティングシステムです。たとえば、IBM PCといった特定のコンピュータではなく、コンピュータのメモリの中だけに存在する疑似コンピュータ用のプログラムを書いたとします。すると異なるコンピュータを使ったとしても同じように動くプログラムができあがると言うわけです。この疑似コンピュータは、それを動かすコンピュータがどんなパーソナルコンピュータであろうとも同じユーザインターフェイスと同じ命令セットを持つようになっていました。ユーザが疑似コンピュータに対してアプリケーションプログラムを動かすと、疑似コンピュータはそのもとにある本物のコンピュータをプログラムするのです。pシステムは、少なくともそう言ったアイデアで設計されたものでした。
 pシステムは、異なる種類のコンピュータを使っても使用する側に対しては同じルック&フィールを与えます。しかしそのためには疑似コンピュータから現実のコンピュータへ翻訳する余分なコードを追加しなければなりません。これが、pシステムの処理速度をきわめて遅くしていました。このようにpシステムは遅いプログラムでしたが、しかしコンテキストMBAを書いているプログラマにとっては安心できるシステムでもあったのです。プログラムの移植のしやすさが、ライバルとの競争で有利に働くと考えたのです。だが、実際はそうはならなりませんでした。
 コンテキストMBAは、ビジカルクよりはるかに強力で強大なスプレッドシートを持っていました。さらにこのプログラムはデータの管理機能やグラフィックス機能、それにワードプロセッサ機能といったものをすべて巨大なスプレッドシートの中に備えていました。ミッチ・ケーパーやロータスと同じように、コンテキスト社もこのスプレッドシートソフトウェア「コンテクストMBA」に人間の想像をはるかに超えた成功を期待していたのです。
 コンテキストMBAは、ロータス1-2-3より半年も早く発売されました。しかも、ロータスの製品よりはるかに多くの機能を備えていました。しばらくの間、ケーパーと彼の新しいパートナーであるジョナサン・サクスはこれに悩まされ、コンテキストMBAを見た後でロータス1-2-3にいくつかの変更を加えたほどでした。しかし、そうした心配も杞憂に終わったのです。コンテキストMBAはスプレッドシートの概念を拡大しすぎ、なおかつpシステムの翻訳という作業を抱えていたために、ユーザーが苦痛に感じるほど処理速度が遅かったのでした。これが、製品にとっても会社にとっても命取りになりました。一方、ロータス1-2-3はIBM PCの環境にしっかり合わせて最適化した高機能プログラムとして、ゼロから開発されたソフトウェアだったのです。
 ロータス1-2-3は、こうした賭に勝ったのです。すべてにまんべんなく安全に賭を分散したコンテクスト社は一点突破の戦略を取ったロータス社に破れたのです。
 
 
■ ロータス社の変革期
 ロータス社は、ロータス1-2-3の発売初年度に5300万ドル(127億円)の売上を達成しました。そして翌1984年には、1億5700万ドル(377億円)の売上と700人の従業員を抱える会社へと成長しました。この年、マッキンゼー社のコンサルタントであったジム・マンジ(Jim Manzi:1951 〜)が、ケーパーに替わって社長に就任したのです。マンジはマイクロソフトの四倍の人員がいる営業部門を中心に、ロータスをさらにマーケティング指向の強い会社へと変えて行き、「フォーチュン」誌の1000社に入る大企業に向けてロータス社の製品を直接販売する営業戦略を組み立てました。
 ロータスが成長して設立当初のスリルがなくなり、一流企業としての道を歩み始めると、創始者であるミッチー・ケーパーのロータス1-2-3に対する関心は薄れはじめました。詐欺師のレッテルを貼られたくなかったケーパーは、驚異的な成功の後には驚異的な成功で事業を続けていくしかないと考えたのです。もしロータス1-2-3が大ヒットだというのなら、次の製品やさらにその次の製品をどうすれば大ヒットにさせることができるかを考えよう、という発想だったのです。そして、ロータス1-2-3にワードプロセッサ機能と通信機能を加えた二番目の製品「シンフォニー」を誕生させました。しかしその製品シンフォニーは、発売時800万ドル(19億円)の広告費をかけたにもかかわらず、ロータス1-2-3ほど成功しませんでした。その理由は695ドル(166,800円)という価格にも問題がありましたが、「台所の流し以外はすべてそろっている」と言われた600種類にも及ぶコマンドの多さも大いに関係していました。ロータスはシンフォニーに続いて、アップル・マッキントッシュ用の統合ソフト「ジャズ」を発売しましたが、これは明らかにマーケティングの失敗でした。ロータスは依然として印税収入の80%をロータス1-2-3に頼り、ミッチ・ケーパーは自信を失いかけていました。
 そんな年の1984年、マイクロソフト社がロータスの買収に乗り出したのです。ビル・ゲイツは、ロータスの直販部門とロータス1-2-3がほしかったのです。さらに、驚異的な成長を遂げたロータスがマイクロソフトから奪った、「最大のマイクロコンピュータソフトウェア会社」という地位をも取り戻したかったのです。買収が成立すればケーパーはマイクロソフト三番目の大株主になるはずだったのです。
 この買収は、基本的な合意に達しながら、結局は撤回されてしまいました。マンジは、技術指向が強くて強固な階層社会であるマイクロソフト社に自分の居場所はないと考えて、この計画を中止するようケーパーを説得したのです。
 その頃、ソフトウェア・アーツ社とビジコープ社は告訴と逆告訴の応酬で、互いに相手を打ちのめそうとしていました。そんな折りもおり1985年の春、アトランタに向かう飛行機に、ミッチー・ケーパーとダン・ブリックリンが偶然乗り合わせ、ロータス社がソフトウェア・アーツ社を買収する話を急遽まとてしまったのです。そして、「ビジカルク」はあっさり姿を消しました。いまや史上初のスプレッドシートは消え、最高のスプレッドシートだけが残ったのです。
 1985年にはロータスから4人の上級取締役が去りました。ロータスを自分のイメージ通りに再編成しようと考えたジム・マンジに、追い出されたようなものだったのです。
 「私は、私が知っているなかで一番思いやりがある人間だ」とマンジは言います。
 そして1986年7月、仕事を重荷と感じ、仕事に対する関心を失ってしまったミッチ・ケーパーは、ビジカルクをきっかけとしてここまで成長した会社ロータスの会長の職から突然辞任してしまったのです。
 
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19. パソコンの文化19 (2002.06.03)
 
19-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その5) - dBASE
 
■ アシュトン・テイト社(dBASE)
 dBASEは、MS-DOS時代に研究分野で使われたデータベースソフトです。データベースソフトとはカード型のデータ処理ソフトで、検索やソートなどが思いのままに出きるソフトです。現在ではマイクロソフト社のアクセスやファイルメーカー社のファイルメーカなどが有名ですが、MS-DOS時代にはこのdBASEが現れて一世を風靡しました。アシュトン・テイト社(Ashton-Tate)はロータス社がオフィスを中心に事務処理関係に強いマーケットを築いたのに対し、それほど大きなマーケットシェアを確保することができませんでしたが、データベースという新しいジャンルを切り開きました。アシュトン・テイト社はマーケッティング指向の強い会社だったと言われています。ロータス社が、優れたマーケティング能力を持つ技術指向の会社として出発したのとは好対照でした。
 1980年、従業員が三人しかいなかったジョージ・テイト(George Tate)の会社は、ウェイン・ラトリフ(Wayne Ratliff)と契約を結び、彼が1978年にCP/M上で動くデータベースプログラム「バルカン」(Vulcan)を販売することになりました。ウェイン・ラトリフは、当時マーチン・マリエッタ社の技術者でパサディナのJPL(ジェット推進研究所)にあるメインフレームで「JPLDIS」というPDS(パブリックドメインソフト)データベースプログラムソフトを使っていました。彼は、そのソフトを縮小版に書き直し「バルカン」という名前にして売りだそうとしたのです。バルカンは映画Star Trekに出てくるMr.Spockにちなんで名前が付けられたそうです。バルカンは、JPLDISから一部の機能を削ってフルスクリーン・インターフェースと組み合わせたソフトで、わけのわからないコマンドをタイプしなくても、画面に表示される書式を埋めるだけでデータの検索やソートができるようになっていました。テイトとの契約で10万ドル(2400万円)程度の儲けがあればよいと思っていたラトリフは、dBASEと名前を変えたバルカンの販売で実際には数百万ドル(5-6億円)の利益を得ることになるのです。
 ラトリフは、1982年までマーチン・マリエッタ社に勤めながら、アシュトン・テイト社との契約に従って空いた時間にdBASEIIの開発を続けました。一方、アシュトン・テイトはマーケッティングと財務管理にのみ徹していましたから、カリフォルニア州トランス( Torrance)にある同社の本社でdBASEの開発が行われることは一切ありませんでした。ところが1983年になってIBMがハードディスク付のPC-XTを発表し、そのおかげでPC-DOS市場におけるdBASEIIの大きな成功が確実になったとき、テイトはプログラムの権利をすべて買い取りました。そしてラトリフをトランスに招き、「dBASEIII」の開発責任者に就任させました。
 スプリッドシートの世界で1-2-3が成功したように、dBASEIIIはデータベース市場で成功を収めました。
 そんな矢先、ジョージ・テイトはコカインの大量吸引が原因で心臓発作を起こし、会社のデスクで死亡してしまいました。1984年の8月、テイト40才の時のことです。アシュトン・テイトの新しいCEOには、つい数週間前にダン・フィストラのビジコープから引き抜かれ、マーケッティング担当副社長になったばかりのエド・エスパー(Ed Esber)が就任しました。新しい地位についたエスパーはマーケッティングに力を入れすぎ、そしてその次に財務管理に力を傾けすぎるという過ちを犯してしまうのです。その上、大きな犠牲を払って時間を浪費し、力のすべてを間違った技術に注ぐというミスをも犯すことになるのです。この会社では、新しいプログラムをどんなものにするかはマーケッティング優先で決まりました。技術部門から介在できる余地はまったくありませんでした。当然この開発はうまくいきませんでした。dBASEの場合、マーケッターたちが仕様書を作るにあたり何が可能で何が不可能かをしっかり考えていなかったことにこの過ちの根本原因があったのです。こうしたマーケッターたちはメタプログラマとしての役割を果たさなければならなかったにもかかわらず、自分たちが何をしているのかを十分に認識していなかったのです。
 dBASEは予定より二年近く遅れてようやく出荷されました。このソフトウェアは、財務管理指向で無理矢理出荷されたのです。粗悪なソフトウェアは報いとなって跳ね返り、dBASEIVは顧客たちの苦情の嵐を引き起こし、会社はつぶれる寸前まで追いやられてしまいました。
 ラトリフは会社を去り、ナンダケット・ソフトウェアやフォックス・ソフトウェアといったライバル会社がdBASEより高性能のdBASE風プログラムや、dBASE用アドオン・ソフトウェアを作り始めました。
 アシュトン・テイトはまだ230万人のdBASEユーザを抱え、一億ドルの資金を持っていましたが会社が4100万ドルの損失を計上した1990年春、エスパーは降格されました。
 エド・エスパーは降格された一週間後に、生まれて初めてdBASEのプログラミングのレッスンを受けたのでした。
 
■ ボーランドインターナショナル(Borland Software Corporation)
 この会社は、1982年に設立され1995年に幕を閉じます。もともとはTurbo Pascal、MICRALなどの開発者用ツールが中心でしたが、その後、表計算ソフト「クワトロプロ」、データベースソフト「dBASE」(1991年)などを買収して自社ブランドとし、一般ユーザー向けアプリケーションソフトにも進出します。しかしながら、マイクロソフト社が自らのソフトウェア(WORD、Excel、Access)を開発し、OSと抱き合わせての販売攻勢の前にアプリケーション分野の売り上げが急減していきます。当時のボーランドインターナショナルの創立者兼CEOフィリップ・カーン(フランス人、Philippe Kahn:1952.3.16〜)は、マイクロソフトのビル・ゲイツと激しくパソコン業界で競争をしてきました。1980年代は、ビル・ゲイツも急成長を遂げているときなので、見物でした。しかしながらマイクロソフトの攻勢の前には後退を余儀なくされ、一般向けアプリケーションをワードパーフェクトやノベルなどに売却して、開発用ツールに回帰しようとしますが、取締役との意見対立により失敗してしまいます。彼はCEOを辞任して、新しく自分の会社スターフィッシュ(Starfish Software:1994 - 1998)を作りました。この会社は、インターネットの同期通信を手がけるソフトウェア会社で、そこそこの成功を見て、1998年にMotorolaに買収され、Nokiaに渡って彼らの携帯電話の基盤ソフトとなりました。
 
 
19-2. その他のデータベースソフト
■ Windowsのデータベースソフト
 dBASE以降、データベースソフトの世界はどのように推移していったのでしょう。
日本では、カード型データベースのdBASEはそれほど普及しませんでした。日本語入力ができるアスキーの開発した「The CARD」がパソコンのデータベースとして一世を風靡しました。この「The CARD」は文章情報も扱える可変レコード長対応になっていました。Windows95では32ビット化されロングファイル名にも対応するようになっていました。このソフトは、純国産データベースソフトとして開発されたので、対応出力帳票が充実していました。このソフトは宛名印刷機能を使えば毛筆フォントでバランスよく印刷することができ。業務ソフトとして使う上で必須であるHISAGOの伝票や定型帳票に対応しており、業務用のデータベースを設計するのにも重宝したのです。しかしこのソフトウェアもMS-DOSの時代までで、OSのWindows95がでてくると次第にその勢力を弱めていきました。細分化されたカード型データベースは徐々に姿を消し、ウィンドウズ95に対応した製品では、The CARD Ver.7.0がかろうじて残っている程度となったのです。代わりにOSの地位を有利に利用しOfficeのシステムの中に組み込まれたリレーショナルデータベースソフトウェア『Microsoft Access for Windows95』が台頭したのです。かって人気の高かったR:BASE、dBASE、Paradoxといったソフトもいつの間にか影を潜めてしまいました。
 現在、カード型データベースは、マッキントッシュで開発された『フィルメーカPro』が善戦しています。このソフトは歴史が古く、The CARDと時期を同じくして登場しました。ユーザインタフェースもわかりやすく、関数も豊富で他のデータベースとのリレーショナル機能も加わていました。The CARDより複雑なアプリケーションが組め、Windowsと Macintosh とのファイル互換など、マルチプラットフォームに対応した選択肢は、当時ファイルメーカPro3.0しかなく大きな市場を手にしました。
 
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20. パソコンの文化20 (2002.10.1)
 
20-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その6)
      - シリコン・グラフィックス
 
 シリコングラフィックス社はハードウェアとOSを作り出している会社で、アプリケーションソフトウェア専門の会社ではありません。また、アマチュアが楽しんで作り出したパソコンとはちょっと違った位置づけのコンピュータです。シリコン・グラフィックス社はそんなパソコンとワークステーションの狭間の中に位置しユニークな存在として産声を上げハリウッド映画の後押しもあって急成長しました。その会社の創始者であり中心人物であるジム・クラークがとてもユニークでアメリカらしい立身出世のパーソナリティであったので敢えてここに掲載します。パソコン世代としては少し年代がさかのぼる1940年代生まれで、どちらかというとメインフレームの世代と言えなくもありません。
 シリコン・グラフィックス社は、コンピュータのグラフィック分野で一時代を築いた会社です。現在のハリウッド映画は、コンピュータグラフィクス技術無しにはあり得ないほど浸透していますが、そのCG(コンピュータ・グラフィックス)で不動の地位を気づいたのがこの会社なのです。この会社を作ったのは、これから紹介するジム・クラークと呼ばれる人物です。彼もパソコンの歴史の中では語っておかなくてはならない人物でしょう。彼はコンピュータ・グラフィックスで名声を馳せるとともに、現在のパソコンの大きな流れを作ったインターネット分野でも類まれな才能と指導力を発揮しました。インターネットとジム・クラークの話は改めて述べるとして、コンピュータ・グラフィックスでは、彼はコンピュータをキャバスとしてその中で自由にグラフィックスを描いて踊るシステム、つまりグラフィックス専用のコンピュータを作り挙げてしまったのです。それがシリコン・グラフィックスの製品でした。
 彼のアイデアは、30才にしてユタ大学に進み、コンピュータ・グラフィックスに触れる1974年に萌芽し、スタンフォード大学の教授でありながら1982年に独自のグラフィック専用チップ「ジオメトリ・エンジン」を作る自らの会社を起こして、アイデア実現へのスタートを切ります。この次期は、MS-DOSが売れ始めLotus1-2-3が爆発的にパソコンを後押しをしていた時代でした。また、マッキントッシュもマウスとユニークなGUIを搭載したリサを発表し2次元レベルのグラフィックスを楽しむ基盤ができていた時代でした。この時期、ジム・クラークの勤めていたスタンフォード大学ではワークステーションの標準となるSUNワークステーションも産声を上げています。
 
 
■ ジム・クラーク
 ジム・クラーク(James H. Clark:1944.03〜)は、1944年3月テキサス州プレインビュー(Plainview, Texas)で生まれました。彼の生まれたブレインビューは、人口15,000人の片田舎で、彼は高校時代までをそこで過ごします。高校時代の彼は、全くアカデミックなことに興味を抱かず平凡な高校生だったようです。ただ彼は、故郷の外側を見てみたいと思い、高校を中退して海軍に入隊し、配属先のルイジアナ州に移ることになります。
彼は良きに付け悪しきにつけ田舎もので、自分の感情をストレートに表現し、それを田舎丸出しの「うんざりする」とか「ひどい田舎」などの言葉を使い、それをすぐに表情に表しました。彼の語り口は饒舌で、話し上手であり、非常に人間的で肩が凝らないために聞く者すべてを彼の話術と魅力に引き込む能力を持っていました。
 海軍大学校時代、彼はいきなりトップの成績を得ます。ここで彼は勉強に目覚めるのです。3年の海軍夜間学校を出る時には、彼の成績は3Aでトップでした。彼の才能に気づいた周りの大人たちはニューオリンズの海軍基地の近くにあるチューレーン大学(Tulane University)の夜間教室に通わせました。彼らが夜間クラスでトップの成績となるのを見た大人たちは、再び兵役を終了したばかりの貧しい若者に奨学金を与え、正式に大学に入学させました。
ジム・クラークはこうして成功への階段への第一歩を昇り始めることになるのです。
 ジム・クラークの事例を見ますと、アメリカ社会というのは、失敗するリスクも多い代わりに、人生に何度でもやり直しが効き、懐深くチャンスを与える柔軟さと健全さをみずみずしくたたえているのだなと思い知らされます。アメリカの社会というのは厳しい競争を前提にしながらも、競争のラインに立てない人たちにも公的なシステムを作っていて彼らに平等にチャンスを与えることを感じます。
 あらゆることで「結果の公平さ」だけを追求する日本の社会とは、この点が大きく違うようです。「結果の公平さ」よりも「チャンスの公平さ」が優れた才能をすくい上げ、社会を活性化していく。世界で最初にパソコンを作ったエド・ロバーツ。パーソナルコンピュータの基礎のOSを作ったゲーリー・キルドール、パーソナルコンピュータのあるべき姿を描いて見せたアラン・ケイ。彼らもまた空軍や海軍が才能を見いだし、大学への道を開いたエンジニアでした。人材を社会の財産として埋もらせてしまうことなくスカウトしていくアメリカ社会に比べて、日本社会は受験戦争のレールから外れた若者にはチャンスの目をつぶしてしまっているようです。
 ジム・クラークは三年間を海軍で過ごした後、故郷のテキサス州に戻り、地元のテキサス工科大学で物理学の勉強を始めます。学部在学中に結婚したため、自活のために昼間はフルタイムで働いていました。しばらくしてルイジアナ州にあるボーイング社に収入の良い仕事を見つけてそこに引っ越しし、学籍をルイジアナ州立大学に移しました。彼はボーイング社で働きながら、さらに物理学の勉強を続けました。
 
■ ユタ大学とジム・クラーク
 ボーイング社での最初の仕事がコンピュータのプログラミングでした。ゼネラル・エレクトリック社の「GE235」という機械を使って、アポロ計画で使われるサターン・ロケットの第一段階で使われるコンピュータのソフトを開発する仕事に従事していました。物理学からコンピュータ科学へ興味を変えながら、博士号を取得するためコンピュータ・グラフィックスの分野、コンピュータサイエンスで有名なユタ大学へ1974年に入学します。ジム・クラーク30才の時です。
 ユタ大学は当時、アイヴァン・サザーランド(Ivan Sutherland: 1938- )、デイビッド・エヴァンス(David C. Evans:1924 - 1998)、トム・ストックマンというようなスター的な研究者たちがコンピュータグラフィックスの分野で、ある種の連合を組んで研究をしていました。その研究には米国国防総省の莫大な金額が流れ込んでいたのです。
 アメリカの科学技術の発展には国防総省の莫大な資金が強力な推進役を果たしてきました。国防総省にはARPA(Advanced Research Projects Agency 高等研究計画局)というセクションがあって、そこには国防に役立つテーマと、それを遂行できる人材を広範囲に発掘し、必要なテーマについては必要なだけの費用を与えて実現させる権限を持っていました。インターネットの原型となったアーパネットも、コンピュータ・グラフィックスもARPAが資金を惜しむことのなかった重要な研究テーマであったのです。インターネットについては項をあらためて紹介しましょう。
 アイヴァン・サザーランドは、1960年代にMITのリンカーン研究所で、コンピュータ・グラフィックスの原点となる「スケッチパッド」という機械を開発した人物です。この機械を使えば、コンピュータと対話しながら、ブラウン管の上に自由に線画を描くことができました。サザーランドは、よりリアルな立体画像を描くための基礎的な理論を完成させたため、“コンピュータグラフィックスの父”と呼ばれています。サザーランドはやがてユタ大学に招聘され、コンピュータサイエンスの学部を新設し教授におさまりました。ここで彼が力を入れたのがコンピュータグラフィックス(CG)だったのです。MITでアイヴァン・サザーランドとともにCGの研究をし天才の名を二分していたのがラリー・ロバーツでしたが、彼はARPAに説得されて、核攻撃に強い、交換機を使わない、非集中型のネットワークの研究に取り組んみました。それがインターネットの原型となりました。
 アイヴァン・サザーランドの周りには名だたる人材が集まっていました。ワープロの開発者アラン・アシュトンや、パソコンのGUI(Graphical User Interface)を発明したアラン・ケイなどもアイヴァン・サザーランドの生徒でした。また、大学院に在籍したわけではなかったので、直接にサザーランドから教えを受けたわけではありませんが、コンピュータのゲームソフトを見てビデオゲームをビジネスとして定着させたノラン・ブッシュネルもユタ大学にいました。ブッシュネルは1972年にアタリというゲームソフトの会社を作りアップルを作ったスティーブ・ジョブズとウォズニアクをパソコンの世界に押し出した人物です。
 
 ジム・クラークは当時のことをこう語っています。
「私にとってユタ大学は、自分の能力の高さを証明してくれた場所になった。そこで多くのことを学んだことも大事だったが、それよりももっと重要だったことは、自分が世界中の一流大学を出た人々と対等にやっていけることに気づいたことだった。自分は全く無名のルイジアナ州立大学出身で、内心はルイジアナの人間の知的水準がどれほどのものなのかいつも疑問を抱いていた。ユタ大学の大学院にきて世界で最も高い知的水準にある人たちと出会ってみると自分には彼らに勝るとも劣らない能力があると気づいた。」
 
 
■ アイヴァン・サザーランドとジム・クラーク
 ジム・クラークはまた、ユタ大学で出会ったサザーランドについてこう語っています。
「出会った人の中で最も影響を受けたのはアイヴァン・サザーランド(Ivan Sutherland)だった。彼はMITとハーバード大学の両方の大学で有名になった若き天才だった。自分は、彼の生徒の中ではスター的な存在になった。彼から学んだことは多くはなかったが、彼が自分を高く評価してくれたおかげで自分のアイデアに強い自身を持つようになった。そのアイデアとはバーチャル・リアリティーである。おそらく世界で初めてそのための装置を実際に作り上げることに成功したのは自分だっただろう。その装置は、頭にディスプレーを装着し、「魔法の杖」と呼ばれるコントローラを握り、コンピュータの中の仮想世界でいろいろな設計を行うことができる機械だった。頭に装着するディスプレーは、アイヴァン・サザーランドがハーバード大学ですでに開発してたが、自分はさらにこれを発展させて、完全にインタラクティブな(対話式の)三次元設計のシステムを完成させた。この研究は本当に面白かった。」
 サザーランドは、ジム・クラークの才能を認めて彼に自由に研究ができる環境を提供したようです。ジム・クラークはその環境の中でコンピュータ・グラフィックスを次第に明確なビジョンへと導いていきます。
 彼はそのビジョンを次のように考えました。
 「当時一般的だったコンピュータグラフィックスと、自分が目指したシステムの違いは、一枚の絵を作るのに要する時間だった。普通の三次元コンピュータグラフィックスでは、たった一枚の映像を計算して作るのに2分から10分、時には1時間くらいかかった。自分は、すべてをリアルタイムつまり30分の一秒以内で起こしたいと考えた。」
 当時、彼が使用していたコンピュータはDEC社の「PDP-10」でした。「PDP-10」は、当時としては高性能のコンピュータでしたが、複雑な立体図形を一秒間に何枚ものペースで時事刻々と更新しながらディスプレーに動画として表示するための膨大な計算量をこなすことは到底不可能だったのです。
彼はこれをソフトウェアでなくハードウェアで解決したのです。それが、次に紹介するジオメトリ・エンジンです。
 
■ ジオメトリ・エンジン
 ジム・クラークは、彼の得意な幾何学知識を生かして立体図形を画面に表示するための計算だけを行う特殊な論理回路を設計しました。そして豊富な研究予算を使い瞬時にして複雑な幾何学計算を行うために部屋いっぱいになるほど巨大な論理回路を設計し、その回路に従って市販の集積回路を集めて巨大な装置に組み上げていきました。
 ここに新しい種類の立体図形表示計算専用のハードウェアが誕生しました。
この特殊な論理回路がやがて「ジオメトリ・エンジン」につながっていくのです。
 ユタ大学で目覚ましい研究成果を残し、博士号を取得したジム・クラークは、ユタ大学を離れカリフォルニア大学サンタクルズ校に職を得ることになりますが、そこは研究とはほど遠い環境だったので彼は欲求不満に陥り大学を辞めてしまいます。彼はその後、カリフォルニア大学バークレー校や、ニューヨーク工科大学を短い期間転々としました。しかしどこへ言っても時間と金のないことに変わりはありませんでした。彼は、その8年の間、コンピュータグラフィックスの機器が桁外れに高価なことにずっと悩まされ続けていました。半導体の回路技術を使えば、それほど金をかけずに、高性能なハードができることを確信していましたがその実現はもう少し後になります。彼はそのシステムに「ジオメトリ・エンジン」と名付けました。19世紀イギリスの奇才、チャールズ・バベッジは、現在のコンピュータの原型ともいえる歯車式の機械計算機を考案しました。それは動力源に蒸気機関を使い、歯車で動いたので、バベッジは「デファレンシャル・エンジン」(差動エンジン)と名付けました。ジム・クラークは、19世紀の未完の計算機「デファレンシャル・エンジン」の「エンジン」という部分が気に入っていたので目標とする幾何学計算機に「ジオメトリ・エンジン」と名付けたのです。
 
■ スタンフォード大学とジム・クラーク
 そんな彼のもとにスタンフォード大学電気工学科の教職への誘いがきました。
 スタンフォード大学は、シリコンバレーの中心部にある私立の名門大学です。鉄道経営で莫大な利益を手にしたリーランド・スタンフォードが子弟の教育、とりわけ技術者を養成する目的のために1885年に設立した大学であり、ここで育った卒業生が多くの企業を興し、そうした企業には大学が協力を惜しまないという産学協同の気風がありました。
 かってはサンタクララバレーと言われた果樹園地帯が先端産業の基地になり、シリコンバレーと呼ばれるようになったのもその中心にスタンフォード大学があったからだといわれています。
 スタンフォード大学は、創立以来伝統的に学内で育った技術を使って新しい事業を生み出すのを応援する風土が根づいていました。この大学は、研究に熱心な費用は教授の才覚でどこから調達してもいいし、大学の研究費を使って生み出された技術であっても、それを開発者は自分の技術として特許を取ってもよく、それを基に会社を興しても良い風土がありました。つまり自分たちで研究した資産をもとに個人の会社経営をしてもなんら問題ないわけです。
 彼は自分が到達したジオメトリ・エンジンのアイデアを現実にするためにベンチャー企業を作ろうと考え、準教授として着任したスタンフォード大学で会社設立のための活動を始めました。ジム・クラークが最初にしなければならなかったのは人材確保であったわけです。そこで彼は自分についてきてくれる学生をスカウトすることにしました。彼が最初にスカウトしたのは、シカゴからスタンフォードにやってきて二年目の修士課程を修了したばかりの大学院生マーク・ハナーでした。1956年生まれのマーク・ハナーは、1996年にはシリコン・グラフィックス社の副社長チーフサイエンティストとして、新製品の設計の指揮を取るようになりました。
 そのマーク・ハナーの部屋には、彼が学会から受けた表彰状や盾が飾ってあったそうです。特に目を引いたのは、彼が全米黒人協会から贈られた「名誉ある黒人賞」の黒く光る盾でした。彼は有形無形の人種差別が残るアメリカで、エンジニアとして頂点まで登りつめた数少ない黒人です。コンピュータの歴史の中で黒人が成功した珍しい人物がマーク・ハナーでした。
 そのマーク・ハナーもジム・クラーク同様に苦学生でした。大学に進学できたのは、AT&Tベル研究所の奨学金を受けることができたからだと言われています。その奨学金は、授業料はもちろん、下宿代に至る生活費までを負担してくれたのです。優れた人材には徹底した援助を惜しまないアメリカ企業の哲学を見る思いがします。
 次にジム・クラークが目を付けた学生が、デラウェア大学からスタンフォード大学の博士課程にやってきたカート・アークレーでした。彼は電気工学が好きだったので、何か具体的な物を作ることのできる研究テーマを探していました。ある時、彼が取っていた授業の先生が欠席して、ジム・クラークが代理で講義にやってきました。その代理講義でも、ジム・クラークは自分の将来に協力してくれる学生をスカウトを物色していたというわけです。
 
■ シリコン・グラフィックス社設立
 ジム・クラークは、1981年当時、ジオメトリ・エンジンの考えを、アポロ社、ヒューレット・パッカード社、ラムテック社、ラスターテック社、テクトロニクス社、DEC社、IBM社に持ち込んでいましたが、誰もこの話に乗ってくれませんでした。そのため、翌年の1982年に学生たちとシリコングラフィックス社を設立して、1983年に『ジオメトリック・エンジン』1号機を開発したのです。
 ジオメトリ・エンジンという言葉が世の中に初めて登場したのは、1982年です。アメリカ・コンピュータ・サイエンス学会グラフィック分会の定例年回で配られた論文集の127ページ「ジオメトリ・エンジン - グラフィックスのための幾何学計算用VLSI」にこの言葉が初めて使われました。発表者は、ジム・クラーク。現在では、彼の名前はさまざまなメディアに登場して有名になっていますが、わずか8年前の1994年初夏の時点では、彼はまだ知られざる人物だったのです。
 この基板回路を組み込んだ最初の製品が、1983年に出荷されています。「アイリス1000」という名のこの装置は3Dグラフィックス・ターミナルと呼ばれる装置で、コンピュータに接続して使えば、立体映像を高速に表示しましたた。彼らはこの装置を使うことによって念願であった「飛行機に乗ったスヌーピーが画面の中を飛び回らせる」ことに成功したのです。
 「アイリス1000」を出荷した翌年、これに続いて、独立した一個のコンピュータとして動作する「アイリス1400」という製品を出荷しました。この製品は、当時同じスタンフォード大学で独立したばかりのサン・マイクロシステムズ社の開発したコンピュータ基板とジオメトリ・エンジンの基板をつないで、同じ筐体の中に格納したのです。
 このシステムの最初の顧客は、エイブル・スタジオというハリウッドでアニメーションを手がけている会社でした。2番目の顧客はNASAエイムズ研究所でした。こんな調子で彼らの製品シリコン・グラフィックス ジオメトリエンジンコンピュータは売れ出して、数年のうちに大きなマーケットへと成長して行ったのです。エイブル・スタジオでシリコングラフィックスの機械のためのソフトを書いた人が、後にウェーブフロント社という会社を作り、映画の『ターミネータ2』や『ジュラシックパーク』などのコンピュータ・グラフィックスをつくるためのソフトを書いたのです。
 シリコングラフィックス社は15年間、猛烈なペースで技術革新を繰り返してきました。1996年の末にも製品ラインナップの一新を行いました。強力なグラフィックコンピュータ「オニキス」は、「オニキス2」となりました。最新のジオメトリ・エンジンの基板の名前も「リニアリティー・エンジン」から「インフィニット・リニアリティー」に変わり、加工できる映像は一段と洗練され、実写映像と見まがうばかりのリアルなものが作り出せるようになりました。
 ジオメトリ・エンジンは、すでに家庭にも入り始めています。ゲーム機の開発をシリコン・グラフィックス社が手がけたわけではありませんが、ソニーが発売し、全世界に4000万台普及している32ビットのゲーム機「プレイステーション」、「プレーステーション2」には、CPUのほかにジオメトリ・エンジンが搭載されています。このチップのおかげでゲームに登場する立体キャラクターを、画面の中で自由自在に走り回らせることができるようになったのです。
 
 
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21. パソコンの文化21 (2007.04.29)(2015.08.18追記)
 
21-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その7)
      - 日本語変換ソフトATOK以前
 
■ パソコンの言語表記
 パソコンが普及して行く過程で欠かせないものの一つに、言語表記がありました。人が使うものには人に伝える認識手段が必要です。人が最も深く理解できる手段は言語です。従って、パソコンが発達するにはパソコンに言語表現を持たせることが大きな使命だったのです。
 そのためのいろいろな取り組みがなされました。
 パソコンは、米国で発明されましたので、コンピュータの中身やOS、プログラムはすべて英語表記になっています。勿論、回路の根幹は、電気が流れる、流れないの「0」と「1」の信号の2進法論理でした。これに加えてコンピュータに指令を与えるプログラムは英語表記が使われました。英語で使われる文字は、英数字26文字、大文字や数字、特殊記号、制御文字を含めても100文字あれば十分でした。この文字に8ビットを与えて、256文字(8ビット)を表す領域を確保しました。
それが派生して、高級プログラム言語ができあがり、ワードプロセッサ機能やグラフィック機能が発達します。
しかし、パソコンのみならず1980年までのコンピュータは、英語圏での利便しか考慮されていませんでした。
 パソコンに言語表記が簡単に扱えるようになって、パソコンの普及が一気に広まりました。
 
■ JIS漢字コード
  パソコンが普及する前の大型コンピュータは、どのような仕組みだったのでしょう。
 コンピュータができた当初(1960年代)は、数値計算しか行いませんでした。それが、鉄道の運行管理や、製鉄所の生産管理、銀行の売上管理、学力テストの成績管理などをするようになって、日本では、カタカナを使うようになります。カタカナは、8ビットの文字領域に割り振ることができたのです。
私の高校時代(1970年代前半)にもらった全国模試の試験成績表は、カタカナで印字されていました。漢字の印刷は不可能でした。当時(1970年代)は、漢字を印字するプリンタはまだ一般的に出回っていなかったのです。
当然、漢字への対応が求められます。
パソコンが普及する前の1970年代は、オフィスコンピュータというジャンルが芽生えます。大型コンピュータの導入が難しい事業所が小規模なコンピュータを導入して、資材管理や給与管理、経理帳票作成などをするようになりました。この時代になってくると、漢字を扱うコンピュータの需要が増え始めます。
そこで、漢字をコンピュータに認識させる規格作りが始められました。
統一的な漢字コードができたのが1978年です。JIS漢字コードと呼ばれたものです。それ以前にも、コンピュータメーカでは独自の取り組みが行われていたことは容易に想像できます。そうした下積み研究があって、統一的なコードができあがりました。以降、JISの漢字コードを使ってコンピュータに移植する作業が活発になりました。
 JISの漢字コードは、文字(漢字)に2バイトの領域を与えて、2バイトの数値で漢字が割り降られました。2バイト(16ビット)は、65,000通りの数字が割り振られますので漢字の数は十分まかなえることになります。
例えば、2バイト表記の「82A0」というコードには「あ」が当てられ、「82A1」には、「い」が当てられました。コードは4桁の4ビット数値で表されています。4ビットは16通りの表現ができますから、0から9まではそのまま数字が当てられ、10から15までの数値はアルファベットのAからFがあてがわれました。
4ビットの4桁で16ビット(2バイト)ということになります。
 
■ 漢字入力
 初期のコンピュータに使われた漢字入力装置は、和文タイプライタの漢字文字盤入力装置です。このタイプライターは、漢字の一覧表があって、機械のアームで漢字を指定すると、その漢字に相当する鉛の活字が拾われてインクリボンを介して紙に打刻されるものでした。1990年代まで警察で発行する免許の更新を行う際に使われていて、その当時免許の書き換えに運転試験場に出向かれた人なら覚えておられると思います。日本語の和文タイプライターと言えばこうしたものだったのです。1000文字以上ある漢字盤の位置を十分に把握していないと活字を素早く拾うことができず、1時間に打てる文字数も限られていました。
英文タイプライターのようなキーボード式のものは、カナタイプのものしかありませんでした。
 それが、パソコンに米国のタイプライターのキーボードを応用するようになり、このキーボードにかなを割り振って、キーボードからかなを変換して入力するようになりました。当時のコンピュータは、ソフトウェアで漢字変換する能力がなかったので、コンピュータに専用の漢字変換処理装置を回路として備えていて、キーボードから入力する文字で漢字に変換していました。当然、単漢字変換が精一杯でした。単漢字変換というのは、
  「安藤さんはマックが好きです。」
という文字を打つとき、一気にかな文字でひらがなを打ち込んで一括文節変換をするのではなく、
  やす→[変換]→安
  ふじ→[変換]→藤
  さんは→[無変換]
  [カタカナ]マック→[無変換]
  が→[無変換]
  すき→[変換]→好き
  です。→[無変換]
という具合に逐次変換してくものです。
 
■ ワープロ(ワードプロセッサ)
 1980年代から1990年代中頃までの15年間は、ワープロ時代でした。
この当時のパソコンは、ワープロ機能が充実しておらず専用機であるワープロの方がはるかに使いやすいものでした。
ワープロは、1880年代終わりに全盛を迎えます。
ワープロの登場は、漢字変換機能が整ったことを裏付けるものでした。
▲ 東芝 TOSWORD 1978年
 ワープロが市販品として登場したのは、東芝のJW-10です。JW-10の発売は1978年9月26日でデータショーにおいてデモ展示されました。
この日を「ワープロの日」としているそうです。
「JW-10」は、キーボードによるかな漢字変換を実用化し、24ドットの表示・印刷機能、ハードディスク記憶装置を持つ画期的なもので、後のビジネス用ワープロの基本となりました。
価格は630万円で、デスク型であり重さは180kgもありました。
 ワープロは、その後大いに進化し、高性能、小型化、低価格となり、東芝は「Rupo」というブランドでワープロ業界を引っ張っていきました。
▲ シャープ 1977年
 ワープロを最初に試作展示したのはシャープで、1977年にかな漢字変換方式のワープロをビジネスショーに参考出展しました。
 シャープは、東芝のワープロの発売から1年遅れた1979年9月に、「書院」というブランドで、タブレットによるペンタッチ入力のワープロを発売しました。このパソコンの重さは、80kgで、価格は295万円でした。
▲ その他
1980年代に入ると、各社から一斉にワープロが発売されるようになります。
1980年5月に、富士通から「OASYS」、沖電気の「レターメイト」、日本電気の「NWP」、日立の「ワードパル」が発表されました。
キャノンは、「キャノワード55」を12月に発売し、初めて熱転写方式のプリンタを採用しました。
1981年5月には、リコーから「リポート600シリーズ」、松下電器から「パナワード 1000」が発売されました。
 
■ ワープロの栄枯盛衰
 ワープロは、1989年に年間最大出荷台数271万台を記録し全盛を迎えます。しかし、10年後の2000年の販売台数は、26万台となりピーク時の10分の1に減じてしまいます。累積販売は、4000万台弱。現在の35才から60才までの人なら一度は触ったことのある計算になります。
 ワープロを操れるというのが当代(1990年)のステータスで、年賀状をワープロで打つのが流行の先端だったのを覚えています。
 
■ なぜワープロは衰退したか
 現在(2007年)となっては、どこのオフィスにも、家庭にもワープロはありません。代わってWindowsに代表されるパソコンがおかれるようになりました。
 パソコンの性能が上がって、ワープロの機能も上がってくると、ワープロの単機能よりも、インターネットができて、メールが打てて、表計算ができ画像が扱えるパソコンの方が圧倒的な魅力を持つようになったのです。ワープロもインターネット機能やスキャナ機能を追加して延命を図りましたが、パソコンの性能と機能の拡張進化の前には太刀打ちできなかったのです。
 パソコンの進化がワープロの命を縮めました。
 
■ FEPとIM、IME
 パソコンの日本語変換機能を表す言葉として、初期の頃は、FEP(えふいーぴー、ふぇっぷ、Front End Processor)と呼ばれていました。これは、「先に処理する機構」という意味であり、日本語変換処理に限らずデータ転送などコンピュータ処理の前段階(コンピュータ自体のCPUを使わない処理)をこのように称していました。メインプロセッサ(CPU)負担軽減のための補助プロセッサのことを言っていました。
 日本語変換ソフトの本来は入力処理ですから、Input Method(IM)というのが正しい言い方です。Windowsでは、IME(Input Method Editor)と呼んでいます。
かつてMS-DOSがパソコンで主流だった1980年代、すなわち、パソコンの性能が非力であった時代、多くの日本語入力システムがFEP形式を取っていたので、本来であれば日本語入力システム(日本語用インプットメソッド)と言うべきものものであったのを、FEPと呼んでいたためそれが一般的に広まってしまいました。
 しかし、Windows時代に入り日本語入力システムがFEP形式でないものが増えたため、IME(本来はWindowsのみの用語)とか、日本語インプットメソッド、日本語入力システム、かな漢字変換ソフトウェアなどと呼ばれることが多くなりました。パソコンのCPU性能の向上とRAMの大容量化に伴って、日本語変換辞書を常駐させてCPUで処理しても負担がかからなくなったのです。
「日本語入力フロントエンドプロセッサ」という言葉が初めて用いられた製品は、1984年、バックス社がPC-9801用に発売したかな漢字変換システム「VJE-86」からです。VJEは、非常に賢い変換ソフトで、一時期ジャストシステム社のATOKと優秀さを競っていました。私のマックにも2000年頃までVJEを使っていました。私のメモには、1997年8月にMac用にVJE-Deltaを購入したことが記録されています。
 
■ パソコン用の漢字変換プロセッサメーカ
 パソコンで、最初に漢字変換処理ソフトを開発したのは、上でも述べたように1983年のバックス社によるVJE-86です。VJE-86は、デバイスドライバとして作られました。デバイスドライバとは、コンピュータに接続された機器の仲立ちを行うもので、プリンタなどもデバイスドライバーを仲立ちとしてデータを入出力を行っています。漢字変換処理ソフトは、キーボードの仲立ちをするデバイスドライバと言うことができます。キーボードでキー入力を行うと、これを適切な漢字変換を行ってワープロなどのアプリケーションに日本語文字列を送ることを目的としています。
 このソフトがなぜデバイスドライバとして実装されたのかというと、当時の主流OSであったMS-DOSでは同時に複数のアプリケーションを動作させる事ができなかったからです。
 VJE-86以降、MS-DOS用にATOKや松茸(管理工学研究所『松』のFEP)など、数多くのFEPが発売されるようになります。そして、マルチタスクをサポートするWindowsの発売により、日本語入力プログラムは、デバイスドライバではなく普通のプログラムとして実装されるようになりました。
 
 
21-2. 日本語変換ソフトATOK
 
 上で述べたように、漢字変換ソフトは、強烈な市場がありました。ワープロが4000万台も売れたのです。その後のパソコンもそれ以上に売れました。現在は、携帯電話に日本語入力機能がついています。この市場は、とても大きなものです。この市場で生き残って成長を果たしたジャストシステムのATOKとはどんなものだったのでしょうか。ジャストシステムは、30才の若者が1979年に設立したベンチャーでした。
 
■ ジャストシステム
 日本語変換ソフトATOKを開発したジャストシステムは、社長の浮川和宣(うきがわかずのり:1949年〜、愛媛県新居浜市生)氏、専務の浮川初子(うぎがわはつこ:1951年〜、徳島市生)社長夫人、それと、常務の福良伴昭(ふくらともあき:1963年〜、徳島生)氏で立ち上がります。彼らが開発したATOKは、パソコンに採用された時から、漢字変換のヒット率のこぎみ良さ、連節文章の変換のみごとさが際だっていました。これは同社の構造解析がみごとであり、この方面の技術的な取り組みがライバル会社より抜きん出ていたことを物語るものです。
 ATOKは、とにかく使いやすく、使う側のことをいつも考えている製品でした。
私が最初にATOKに触れたのは、1990年、NEC9801に搭載された一太郎ワードプロセッサを使った時です。
この使いやすさに惚れて、自分のマックにも導入し、この文書(2007年4月)もMacのATOK2005を使って入力しています。
 
【日本語ワープロソフトの成功】
 1980年代前半、MS-DOSを搭載したNECパソコンを圧倒的なシェアを持つ至らせたのは、ジャストシステム社のワープロソフト「一太郎」のおかげでした。
 ジャストシステムを起こした社長夫妻は、共に愛媛大学の出身で大学時代に無線仲間で知り合い、卒業2年後に結婚します。浮川氏は大学卒業後、西芝電機(船舶用エレクトロニクス製品)に入社し、初子女史は、東京の高千穂バローズに入社してプログラマとして働きます。初子女史は、結婚を機に浮川氏の勤める姫路の社宅に居を移して、姫路のオフコン会社に勤め直します。彼女はそこで中小企業向けの販売管理システムを手がけました。その仕事ぶりを夫の浮川氏が見ていて、その能力を評価し独立する意志を固めたそうです。
 1979年、彼らは徳島に帰り、自分たちのオフコンの会社を設立しました。元金は400万円。事務所は橋本家(初子女史の実家)の間借りでした。彼らのオフコンは、ソフトウェアを含めシステムで1500万円でした。創業半年で初号機が売れたものの、2号機が売れず苦戦の毎日であったと言われています。彼らが作ったオフコンは、当時としては珍しい漢字処理ができるものでした。
 夫人の母が、歌会の席で娘夫婦の苦労を詩にして発表したのが建築会社の夫人の目にとまり、2号機の成約がなされたといいます。閑古鳥のジャストシステムに命の水が注がれました。その後、会社は上向きに転じるようになります。主人は営業外回り兼キーパンチャで、夫人はプログラマでした。キーパンチャの主人は、日本語入力に音を上げます。当時は、JIS漢字コードに従ってコードを打って一つ一つ漢字に直してコンピュータに入れていたのです。その経験から、自分たちの日本語辞書を開発しようと決めました。これがATOKの源流となったのです。これを開発担当したのは、徳島大学歯学部に在籍しアルバイトに来ていた福良青年でした。青年は、アルバイトにもかかわらず辞書制作にのめり込んでいきます。
 
■ 名前の由来
 ジャストシステムの名前の由来は、大きからず、小さからず、高からず、安からず、お客様のニーズにジャストフィットするシステム販売することに由来するそうです。彼らが会社を立ち上げた当時、オフコンはハードだけであり、しかもCPUとOSの中身は公開されていませんでした。ソフトは、従って、彼らのような販売会社の手によって、自分たちのお客様の要求に合わせて作り込み納入されていたのです。
 ジャストシステムが扱っていたコンピュータ(オフコン)は、JBCC(Japan Business Computer Co、 東芝製オフィスコンピュータ)のものでした。このコンピュータに合うように、伝票プログラムを妻の初子さんが作っていました。同時期、JBCC(日本ビジネスコンピュータ)社に加え、ロジックシステム社のコンピュータ用としても漢字変換ソフトを開発します。これが後々パソコン用のソフトを作るときに有効なものとなりました。
 当時台頭してきたパーソナルコンピュータは、OSにCP/MやMS-DOSが採用されて中身が公開されていたので、日本語入力ソフトを組み込める可能性がありました。CP/Mには、パソコンのOSの原型とも言えるBIOS(バイオス)と呼ばれる概念が導入されていて、そのバイオス機能に日本語変換機能を加えれば変換できることを彼らは気づいたのです。
 彼らは、パソコン用の漢字変換プログラム作りを始めます。社長が全体設計を、初子夫人がプログラム全体を、福良氏が編集機能を担当しました。BIOSの中に組み込む日本語変換プログラムをKTIS(Kana-Kanji Transfer Input System)と呼び、これが後にATOKへと進化していきます。
ATOKは、Advanced Technology Of Kana-Kanji Henkanの略です。ATOKは、当初から単漢字変換だけではなくて、構文解析を取り入れて長い仮名文字の文章を一括変換できる機能を備えていました。これが他の変換ソフトより優れていて、しかも変換が速いという評判を呼んだのです。
 
■ パソコンに搭載 - 「一太郎」の完成
 ロジックシステム社用にKTISを組み込むかたわら、アスキー・マイクロソフト社とコンタクトが取れて、アスキーの要請で東京ビジネスショーに「ヒカリ」と呼ばれるKTISを組み込んだワープロを出展します。これがNECの目に留まり、1983年7月1日、パソコンNEC PC100にジャストシステムのワープロを搭載する話がまとまりました。納期は3ヶ月という非常にタイトなスケジュールでした。それだけ彼らの変換ソフトの完成度が高かった証拠だったとも言えます。徹夜作業で出荷作業が始まりました。
 PC100用に開発されたワープロソフトは、JS-WORDと呼ばれました。この製品は、販売権もブランドもアスキー・マイクロソフトのものでした。JS-WORDは、JX-WORDの名前でIBMパソコンでも使われました。しかし、ジャストシステムは、彼ら自らの手でその製品の販売をすることができませんでした。
 そこで彼らは、構文解析を徹底的に行った独自のワープロ(太郎)を完成させて販売を始めます。
「太郎」というのは、浮川和宣社長が大学時代に家庭教師をしていた教え子の名前で、中学生の時事故にあって亡くなった子供でした。彼はその子の名前をもらって大事なソフトウェアの未来を託そうと考えました。ところが、「太郎」という商標がすでに登録されていたので、社長は「太郎よ、日本一になれ」という気持ちを込めて「一太郎」と改名しました。
「一太郎」は、NEC9801用のワープロとして58,000円で発売され、他の競合ソフトを抑えて好調な売上げを達成していきました。
 
 彼らの会社の名前や製品の名前、仕事のやり方をみていると、とても情感に溢れていて優しい気持ちを抱かせます。お客様を大切にしたいという意識がとても高いことに気づきます。
 彼らのビジネスは成功し、月平均500本、58,000円、半年で3億円を売り上げました。当時の従業員十数名程度で、年商7,000万程度の会社が大飛躍を遂げることになったのです。
 
■ ジャストシステム アスキーへの問い合わせ
 ジャストシステムとアスキーの関係を少し詳しく述べます。
 当時、アスキーマイクロソフトの副社長であった古川亨(ふるかわすすむ:1957.07〜)は、社長 西和彦(にしかずひこ:1956.02〜)の指示でGUIで動く日本語ワープロソフトを開発してくれるソフト会社を探していました。彼らは、『日本語ワードプロセッサ』という名のPC-9801用ソフトを発売(1983年2月)したばかりの管理工学研究所に、MS-DOSベースでGUI環境を備えたワープロソフトの開発を依頼しました。しかし断られてしまいました。そうした矢先、困り果てていた古川のもとへ、四国徳島のジャストシステムと名乗る会社から著作権に関する問い合わせの電話がかかってきました。電話の用向きは、ワードプロセサとは全く関係のないコンパイラの件でした。
 当時、ジャストシステムは、オフコン上で動く独自開発した畜産管理システムを持っていて、これを全国的に販売していく前に、著作権上の問題がないかどうか確認しておく必要があって、マイクロソフトの代理店であるアスキーマイクロソフトに問い合わせをしたのでした。ジャストシステム専務である浮川初子夫人が電話をしたとき、電話口に応対に出たのが、ほかならぬ古川でした。
 初子夫人が用件を伝えると、古川は「どういう会社ですか」と聞き返してきたそうです。これこれこういう会社だと説明すると、古川はピンとくるものがあったらしく、その後、日本語ワープロの開発プロジェクトを推進する際にジャストシステムを推し、『JS-WORD』の開発にこぎつけNECの『PC-100』にバンドルすることになりました。さらに7ヶ月後、これを『PC-9801』用に移植させました。
 
 『JS-WORD』に端を発して、今やパソコン業界のそうそうたる重鎮たちになっている人たちが、ワードプロセッサに開発と販売で悲喜こもごもの愛憎劇を繰り広げていくことになります。
 ワープロは、パソコンソフトの「米」だったのです。
 そうした劇中主人公の一人である西和彦の立場から見ると、愛憎劇のあらすじは以下のようになります。
 
「マルチプラン(マイクロソフトが開発した表計算ソフト)の使い勝手を活かしたワープロを作ってくれということで、このプロジェクトがはじまった。そこにマウスのサポートをつけたりしてアスキーが販売することになるワープロ『JS-WORD』が生まれたわけ。これに続いて、さらに使い勝手をマルチプランに近づけたソフトが生まれた。ところがこれはどういうわけかアスキーが販売を断ってしまったので、作った会社が売ることになった。
 これを断った担当者は、大馬鹿者。作った会社にとっては恩人になるわけだけど。
この事件のこともあって、僕はこの日本語ワープロを使うのがいやで、長い間マルチプランをワープロ代わりに使っていた。」
 
  使い勝手をマルチプランに近づけた"ソフト"とは『一太郎』のことです。"作った会社"とはいうまでもなくジャストシステムです。そして、西が"大馬鹿者"と決めつけている担当者とは、副社長の古川亨だったのです。
 
■ 一太郎の独立
 「一太郎」は、1985年2月発売の「jx-WORD太郎」から始まります。このワープロソフトは、半年後の1985年8月に発売される「一太郎」の前身ソフトでした。日本IBMのパソコン『JX』シリーズ用に開発したワープロソフトを日本電気のPC-9801に対応させたものが「jx-WORD太郎」だったのです。
 ジャストシステムは、これより以前には、アスキーと共同で『JS-WORD』を開発(1982年10月)しています。しかし、彼らは、一太郎とのつながりを意識的に切り分けました。
 ジャストシステムが手がけたワープロソフトウェアには、以下のものがありました。
 
  『光』(試作品)  --- 1983年5月
  『JS-WORD』  --- 1983年10月
  『JS-WORD』バージョン2
    『jx-Word』  --- 1984年12月
    『太郎』  --- 1985年2月
    『一太郎』  --- 1985年8月
 
 ジャストシステムは、『JS-WORD』から『jx-Word』へ移る段階でアスキーとの関係を断ち切って、100%新しいニュー・ジャストシステムとして出発しました。『JS-WORD』の開発は、「マルチプランのユーザー・インターフェースをそのまま生かしたワープロソフトを作ってくれ」という西和彦の一言から始まりました。
 ジャストシステムが心血注いで開発したソフトは、NECのPC-100にバンドル(1983.10)され、その7ヶ月後にバージョンアップされたものが東芝の「パソピア1600」、NECの「PC-9801」に移植されます。しかし、彼らの名前はいっさい出されず、アスキーのブランド名で出荷されました。
 浮川らは、この待遇に不満を示し、アスキーに対して二つの申し入れをします。
 
   1. 『JS-WORD』については従来通りアスキーのブランドとして売ると同時に、全体の
     2、3割をジャストシステムのブランドとして販売することを認めること。
   2. 『JS-WORD』と異なる製品に対しては、ジャストシステムが自社ブランドで独自の
     販売戦略を取ってもよいこと。
 
しかし、アスキーの窓口、古川亨(ふるかわすすむ)は、これを却下しました。販売途中でジャストシステムという名前が出てきたら二重構造になってややこしくなってしまうという理由でした。
 これを受けた浮川は、『JS-WORD』についてはアスキーで販売し、ジャストシステムは、全然違う製品を売る場合には独自にやっていきたいと申し入れたと言います。アスキー古川は、そうであるならアスキーとジャストシステムの関係はご破産ということになりますよ、と言ったと言われています。
 ご破産の直接の出来事は、NECの『PC-9801』に移植したバージョン2.0のバージョンアップのプロジェクトで顕在化します。アスキーがマウス操作で使えるようなGUI環境を前提にしたワープロを望んだのに対し、ジャストシステムは、『マルチプラン』のユーザーインターフェースを取り入れながら、テキストベースのワープロソフトへの方向転換を言い出しました。
  2社の話し合いは平行線を辿り、結局決別に至ります。結局、バージョン3.0は日の目を見ず、ジャストシステムは、『jx-WORD』を開発し、これが『太郎』になり『一太郎』につながっていきます。
 1984年度2億円だったジャストシステムの売上高は、『太郎』『一太郎』を発売した1985年度には一気に9億円に増え、以後23億円、36.5億円、52.5億円と増加の一途を辿ります。
 アスキーと袂を分かつという賭に成功したのです。
 
 こうした伏線があるのでしょうか、マイクロソフトがWindowsの時代になってWordというワープロソフトのIME(インプットメソッドエディタ)としてジャストシステムのATOKを候補に上げて交渉をもつものの、ジャストシステム側は自分の立場を譲らず決裂しました。その後、Wordと同じ製品群を持つジャストシステムは苦境にたたされたようです。
 また、松下がアイコンを無断盗用したとしてジャストシステムを訴えたこともあります。会社が大きくなるとそうした経営戦争にも乗り越えなくてはならないようです。
 
■ ソフトバンクとジャストシステム
 ジャストシステムのサクセスストーリに欠かせないのがソフトバンク(1981年設立、福岡県大野城市。孫正義社長、そんまさよし:1957年8月〜)の存在です。ソフトバンクは、一時『一太郎』の育ての親と言われるほどに『一太郎』に肩入れし、販売面で協力な支援を行いました。実は、ソフトバンクは、当時営業戦略の見直しを迫られていたのです。
 ソフトバンクは、1981年に設立されます。設立後、またたく間にパソコン用ソフトのナンバーワン流通会社になり、その成長は1984年になっても一向に衰えませんでした。当時、パソコン業界は、パソコン本体が8ビットから16ビットに移行されて高速になったため、これまで以上にビジネス分野での需要が高まっていたのです。
 ソフトバンクは、ゲーム中心のソフト市場においては徹底した中立主義を貫いていて、特定のソフトに肩入れすることなく、すべてのソフトを平等に扱うことを基本方針にしていました。
 しかしながら、ゲームソフトと違ってビジネスソフトは、品揃えだけして店に並べておけば良いというスタンスでは売れず、売る側の営業マンに高い商品知識が求められました。そこで、ソフトバンクは、ビジネスソフトに関しては中立主義を止めて、同じ系統のソフトの中からソフトバンクが評価した一押し推奨商品を選んで"GSマーク(ゴールデンソフトウェアマーク)"を貼り付け、それを重点的に販売する営業戦略をとりました。
 この営業戦略にピタッとはまったのが、『一太郎』だったのです。ジャストシステムが社運をかけて世に問うた新製品は、ソフトバンク一押しの日本語ワープロソフトとして、GSマーク付で市場に送り込まれました。
 
【ソフトバンクとアスキー】
 ソフトバンクが『一太郎』に"GSマーク"をつけた理由は2つあります。
 一つは、ソフトバンクとアスキーの関係が極度に悪化していたときの出来事であったことです。ソフトバンクは、当時、ソフト流通で急速に業績を伸ばしていました。業界内での発言権を増していた孫正義に対して、業界のパイオニアを自負するアスキー陣営からは、根強い反撥が渦巻いていました。それが高じて、この時期、アスキーはソフトバンクに対して製品供給をストップしてしまったのです。
 両社の関係が円満であったら、『一太郎』販売にアスキーが圧力をかけて、GSマークを付けられなかったに違いありません。
 もう一つの理由は、『一太郎』の対抗馬の存在です。
 
【管理工学研究所 松】
 1983年12月に管理工学研究所(1967年設立、東京都)が発売した日本語ワープロソフト『松』は、月間販売本数2,000-3,000本を記録するメジャーなワープロソフトでした。月間1,000本で大当たりとされていた当時では大ヒットソフトであり、かつ1本当たり128,000円という高額にも関わらず売れていたのです。
 当時、ソフトバンクはこの製品の販売数の約半分を取り扱っていました。しかし、管理工学研究所は敷居が高い会社でした。たとえば『松』を買ったユーザーが製品について問い合わせの電話をすると、
  『わからない人はこんなもの買うんじゃない。』
平気で言う会社だったそうです。また、お店の人が問い合わせをすると、
  『わからない人は売るんじゃない。』
と応対したそうです。ある意味でプライドがとても高い会社だったのです。それ加えて、仕切りも高かったそうです。何から何まで敷居の高い会社だったようです。
 ソフトバンクの孫社長の性格から見たら、そういう会社と付き合うのは耐えきれなかっただろうと関係者は口を揃えます。
 孫社長自らも、以下のように語っていました。
 「われわれにとっては『松』という商品は非常に扱いにくいものだった。
  取引条件とかサポート体制とか、そういう流通面に対して管理工学研究所には理解する
  姿勢がなく学級肌の会社であった。だから、とてもやりづらかった。
  しかし、ワープロソフトは重要なジャンルであり、我々としてはどうしても押さえて
  おきたいソフトであった。そこへジャストシステムが大変な情熱を持って出てきたので、
  我々としては、渡りに船、全面的にバックアップを決めて支援した。」
件の管理工学研究所の方は、『一太郎』に対して全く無防備であり高をくくっていました。58,000円の『一太郎』と倍の『松』では品質が違う、『松』がほしくても買えない人間が買うソフトだと、そう思っていました。
彼らは、自分たちの会社の評判が良くないことを理解していなかったようです。どこまでも技術優先の会社であったようです。
 『松』は1984年には20,000本近く売れましたが、1985年には半分以下に落ち込んでしまいました。1984年の1年間だけが『松』の年だったのです。
 
【松と一太郎】
 頭(づ)が高い殿様商売で評判を落とした管理工学研究所とは対照的に、ジャストシステムは腰の低い前垂れ商法に徹して、卸や小売り店の心をつかむことに成功します。『松』を売る営業マンは、パソコンショップや電気屋さんなどから『見本が欲しい』と言われても、『見本が欲しければ買えば?』と対応していたそうです。方やジャストシステムの営業マンは、一軒一軒訪問して見本を置かせてもらい、製品の説明もきちんとやっていたそうです。
 そうした営業活動の結果は、誰が見ても明らかでしょう。あまり時を経ずして、管理工学研究所に対して反感を持っている日本中のパソコンショップを自分たちの味方につけてしまいました。
 ジャストシステムの社長浮川氏は、『一太郎』の発売に際して、三ヶ月の特別措置期間をソフトバンクに与えました。つまり、三ヶ月間は『一太郎』の独占販売ができたのです。ソフトバンクの営業ががぜん張り切ったのは言うまでもありません。
 ソフトバンクは、もともとゲームソフトで立ち上がってきた会社であり、ビジネスソフトの販売は脆弱でいつもライバル会であるソフトウェアジャパンというソフト流通会社の後塵を拝していました。そういう悔しい思いをしていた営業マンたちが、優れた製品を三ヶ月間独占的に扱えるということは、社運を切り開くことにもつながって、彼らのモチベーションは否応が上にも高まったそうです。
 発売後、またたく間に『松』を追い落とした『一太郎』は、以来、今日に至るまで日本語ワープロソフトとして主要の座を守り続けています。
 ジャストシステムは、日本一のソフト会社になり、あのビル・ゲイツに「日本市場での競争相手は唯一ジャストシステムだけだ」といわしめる存在になったそうです。
 
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22. パソコンの文化21 (2007.04.8)(2016.06.21)
 
22-1. パソコンを形作ったアプリケーションソフト(その8)
      - インターネット
 
■ インターネット
 このコラムも随分と時間が経ちました。9年の年月を経て「インターネット」の話を書こうとしています。2016年にあってはインターネットは生活の一部となり、ニュースはもとよりショッピングや意見を交換する媒体としてなくてはならないものとなりました。
インターネットの普及は、データ通信の確立(イーサネットの普及)、HTML言語の普及、パソコンの普及の3つの柱があったと言えます。
 
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  ---- つづく ----
 
 
 
 

参考文献:
 
●『アップル-世界を変えた天才たちの20年』(上・下)
    ジム・カールトン、山崎理仁訳、早川書房、1998.9.30初版
●『アップル・コンフィデンシャル』
    Owen W. Linzmayer、林伸行、柴田文彦訳、(株)アスキー、2000.1.12初版
●『ノンストップ・コンピュータのしくみがわかる本』
    麹町FTC研究会 著、日本タンデムコンピュータ(株)監修、1992.12.1初版、(株)工業調査会
●『次世代マイクロプロセッサ - マルチメディア革命をもたらす驚異のチップ -』
    嶋 正利、1995.2.24、1版1刷、日本経済新聞社
●『マッキントッシュ物語』
    スティーブン・レヴィ(Steven Levy)著、翔泳社
●『コンピュータ帝国の興亡』上・下
    ロバート・X・クリンジリー、薮暁彦 訳、1993.3.21初版、(株)アスキー
●『スーパーコンピュータを創った男 - 世界最速のマシンに賭けたシーモア・クレイの生涯』
    チャールズ・マーレイ著、小林 達監訳、廣済堂出版 1998年4月30日初版
●『パソコンビジネスの巨星たち』米国パソコン界を創ったキーマンに聞く成功の戦略
    Tim Scannell(ティム・スキャネル)著、日暮雅道訳、ソフトバンク(株)1991.7.20初版
●『メガメディアの衝撃』(Megamedia Shakeout)
    ケビン・メイニー著、古賀林 幸訳、1995.11.30第一刷、徳間書店
●『ビル・ゲイツ』執念とビジョンの企業戦略家
    中川 貴雄(なかがわ たかお)著、1995.7.5 初版 中央経済社
● NHKスペシャル『新・電子立国1巻〜6巻』
    相田 洋著、NHK取材班 大墻 敦、1996.12.20第1刷、日本放送協会
●『ビル・ゲイツ未来を語る - Bill Gates The Road Ahead』
    西和彦 訳、(株)アスキー、1995年12月11日初版
●『インターネット革命』
    大前研一、1995.1.30初版、1995.2.28 第5刷、(株)プレジデント発行
●『暴走する帝国 - インターネットをめぐるマイクロソフトの終わりなき闘い』
    Overdirive - Bill Gates and the Race to Contorol Cyberspace、
    ジェイムズ・ウォレスJames Wallace、武舎広幸・武舎るみ、1998.3.30 初版 翔泳社
●『AT&TとIBM』
    那野比古、講談社現代新書 1989.06.20初版
●『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』
    滝田誠一郎、実業之日本社、1997.12.19初版
●『サン・マイクロシステムズ - UNIXワークステーションを創った男たち』
    Mark Hall/John Barry、オフィスK 訳、(株)アスキー、1991.5.1初版
●『実録! 天才プログラマー』
    スーザン・ラマース/マイクロソフトプレス、岡 和夫 訳、(株)アスキー、1987.2.11初版
●『僕らのパソコン10年史』
    SE編集部 編、翔泳社、1989.9.30初版
 
 
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