AnfoWorld オムニバス情報1(1999.03.13更新)

目次
 
●人の評価と給料(1999.3.13)
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)
●新Power MacintoshG3発売される(1999.01.16)(1999.01.31追記)
●文化(1998.12.30)
●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)
●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)
●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.31)
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
●Windows98のリリース(1998.8.03)
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)
●G3に触れる(1998.1.11)
●Macなともだち(1997.12.21)
●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)
●Windowsの世界(1997.12.21)
●インターネットの功罪(1997.12.21)
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 

●人の評価と給料(1999.3.13)

【給料の査定】
 例年4月になると、一般の会社では、給料の話題が喧しく(かまびすしく)なる。昇給が、その人の能力や人格を評価する大きな度合いとなるため、社員の昇給に対する関心は尋常ではない。
 一般的に言うと、日本経済は芳しくないため、年々、支給率がか細くなり、ほとんどの人が数千円から10,000円程度の昇給となってる。
 給料の査定権を持つ、課長以上の役職者は、この金額の間で各個人の能力の格差をつけるわけだから、部下に納得させる査定を行わせるのは至難の業だ。査定された個々の能力が1,000円程度の開きしかないというのは寂しい限りである。
どんなに頑張っている人でも、「5時までオトコ」の従業員に比べて1,000円引だけの格差では一生懸命働く力が沸いてこなくなってしまう。
 
 近年の日本経済は、物価がどんどん下がって、製品も軒並み安くなってきており、- これをインフレーションの反対のデフレーションというのだが - 、給料が上がらないのも致し方ないのかと受け止めざるを得ない。今は、ほとんどの会社が仕事がないから、仕事があるだけでも感謝しなければならない時なのかも知れない。
 プロ野球選手の年棒とか証券マン、銀行マンの給料が良いとマスコミが喧伝し、我々はそういう報道を見てやるせない思いに駆られるのであるが、やはりそれは一部の会社であって、ほとんどの会社がバラ色の支給をしているのではないということが最近わかってきた。
 上には上があり、下にも下がある。一般社員の給料の不満の鉾先は、大抵他の会社に勤めている友人などのちょっと条件の良い例を聞きかじり、憤満の気炎をブハーッと、酒の席上で上司や会社友人に吹き上げるのが通例である。
 週末の夜の帰宅電車は、一杯ひっかけたサラリーマンが吊革につかまり、会社の体制や、上司との折り合い、部下の不満で気炎を上げる風景をよく見かける。
そんな情景を、昔の私は(20歳の頃の若い時は)、なんて弱い人間だろうと軽蔑していたが、今同じような年になると、痛々しい感情が沸いてくる。おとうさんがんばってるんだなという・・・。
 グダを巻いて(正確には:管を巻いて)それで心の平静が保てるならば、自分も皆の吐き出すそうした汚物を片づけてあげようかなと思ったりもする。心の中の毒物や汚物を体外に排出する行為を心理学用語で「カタルシス」と言う。これは非常に重要な行為で、強気と弱気の精神の綱渡りをしている中、精神を安定させるには汚物を排出させなければならない。体でも汚物を排泄し新しい食物を取り入れるわけであるから当然と言えば当然の行為である。
 
【人の評価】
 人が人を評価するのは、難しいものである。100%評価するのは無理な話。時代々々に要求される能力が変わるであろうし。
 例えば会社を興す時期にはインテリゲンチャより体を張って働いてくれる社員が欲しいが、ある程度会社が安定すると会社間でお付き合いができるインテリ(有名大学卒)が欲しくなる。
 東京大学卒の人間が入社する会社は、それだけで会社のステータスとなる。大学を受験したことがある人なら東京大学受験がいかに難しいかわかろうというものだ。誰でも努力すれば入れるものではない。それでもプロ野球に入るより東大合格の方がはるかに簡単だ。プロ野球は毎年80名弱しか入れない。東京大学は8,000人入学できる。これだけでもプロ野球は選りすぐられた超エリート集団であることがわかる。
 話がずれた。
 会社が安定すると頭のいいヤツが重用されるのは、今も昔もかわりない。豊臣時代も基礎を築き上げたのは、加藤清正、福島正則といった武闘派(彼らは字の読み書きができなかった)だったし、豊臣が天下をとると文筆に明るい石田三成の文人派が重用されるようになった。徳川時代も戦をやっていた時代は、榊原康政、本田平八郎忠勝、安藤直次(紀州家に後見人=家老として赴任)らが活躍するが、政権奪取後は、文人派の本多正信、正純親子、僧天海などの知謀知略家が悪知恵の限りをつくして政権安泰のために東奔西走した。傾向として、武闘派武士の方が潔く、文人派武の方が小賢しい一面がある。
 
 話がまた、ずれた。
 人の評価である。
これは、完全に査定する側に権利がある。相性の良い上司に巡り会えた部下は幸せである。仕事がしやすいし失敗も大目に見てくれる。我が儘も言える。査定も良い。でも現実はそんなうまい具合に上司に巡り会えるとは限らない。
 5年ほど前に、堀田力氏の「おごるな上司」という本を買い求めて読んだ。当時ちょっとしたベストセラーになった本で記憶されている方も多いと思う。堀田力氏は京都大学法学部を卒業して東京地方検察庁の検事としてロッキード裁判に凄腕をふるった人である。
 この本は、耳の痛いことばかり書いてある。合点することも多く、早速取り入れようと思ってもなかなか実行に移せなくてはがゆい思いもしている。禁酒、禁煙が断行できない人の気持ちがよくわかる。人間なんて弱いものである。ベストセラーになるくらいのたくさんの人がこの本を読んでいるのに、会社が一向に良くならないのは禁酒・禁煙ができない人たちの集まりだからかなぁと斜に構えてしまう。
 この本の中で、人の評価に対して面白いコメントがあったので紹介する。
堀田氏は、自己の評価を2割増し評価と規定している。
 「亡くなられた伊藤栄樹元検事総長は、「人は己の能力を2割がた高く評価している」と言われましたが、私の経験からしてもそのとおりで、人事権者と受け取る側の評価の落差は、ほぼ2割くらい。このギャップが人事異動のときに不満となって出てくるのです。」
 「最近は評価を自己申告制にしたり、部下が上司を評定したり、様々な試みがなされるようになりましたが、ひと昔前は勤務評定については完全な秘密主義で、上司が自分にどんな評価をしたかがわからず、人事異動の結果で推し量るしかありませんでした。
 ところが、たまたま私は人事課長になり、秘密資料を見ることができるようになった。そこで私自身の過去の記録を見てみたところ、自分が思っていたよりも平均して2割がた低く評価されていたことに気づいたのでした。」
 「人は、他人の能力に対しても、自分の長所を基準にして評価をしがちです。自分を2割がた高く評価している分が、他人に対する評価にもあらわれてくるのです。
 たとえば、自分は判断が早く、決裁も延ばさず、仕事をスピーディに進めることができるという点に自信を持った中間管理職がいたとしましょう。彼は自分の部下に対しても果敢な即断力を要求し、そうした特徴を持った部下をより高く評価するに違いありません。
 一方、ものごとを慎重に考え、決断を急がない部下に対しては、判断力の鈍い、決断力に欠けた者として、低い評価を下す。その部下自身が、様々な角度から問題を思慮深くとらえ、慎重に対処することを自分の長所だと考えていても、即断力の上司からは低い評価しか受けられないことが多いようです。
 ところが、人事異動でその部署に今度は慎重型の上司がきたとすると、同じ部下でも、一転して慎重型の人が高い評価を受けるようになる。そして即断型の部下は、おっちょこちょいだの、軽挙妄動などと、マイナスの評価を受けるようになるでしょう。」
 
【会社の給与支払いの現実】
 会社は、自らの労働で、従業員に給与を支払わなければならない。500人の従業員の会社で平均給与が35万円とすると、月々の従業員の支払いは、1億7500万円になる。
これを1年間、ボーナスを含め、約18ヶ月の支払いをすると、約31億5000万円かかる。この給与を支払うため、事業所は、少なくとも5倍から10倍以上の年商(300億円以上)を商う必要がある。この給与を確保するため、会社は血道を上げて競争力のある体質作りをすることになる。
 競争力のある体質とは、価値のある商品の開発できる組織であったり、有用な人材の確保であったり、財力の確保であったりする。
 
 従来、給与算出方式は、基本給に仕事の能力を反映するやりかたであったが、こうすると経営上不具合が出るため、基本給は低く抑えて、能力に応じて、能力給、職務手当、ボーナスを支給しようというやり方を大手企業が採用している。
 例えば、定年退職後、国や社会保障機構から払われる年金とは別に、会社自体が長年勤続した従業員に対して、退職後、退職金とは別に一定期間年金のようなものを支払う制度がある。この制度では、支払金額の査定に、勤続年数と基本給が効いてくる。
もらう方にしてみれば、もらう給料は多ければ多いほど良いのだが、それを支払う金額は、会社に残された者が働いてお金を作り、そしてその人たちに支払うというものである。これは、会社が潰れてしまえば当然支払われない。
 こうした年金は、国の年金制度と同様大きな問題となっている。年金の支払いが、入金額より超過してパンク寸前になっていることはマスコミなどでご承知の通りであるが、10年後、20年後には働く若者が確実に減って、我々が受給する年金がストップになる可能性が十分に考えらる。
 
 会社全体で儲かった年には、その製品に直接関わっていなかった人にもボーナスや一時金が支払われる。しかし、全体の業績が悪いと、たとえ、好調に売り上げている部門でも相応の見返りが難しく、彼らのボーナスなどに反映されないという不公平感が出てくる。だからこれを改めるために、厳密に査定しよういう考えもあるが、境界をどうするかというような各論で難しいせめぎ合いがもたれている。
 
【現在の経営者たちは昔、学生運動の急先鋒】
 労働組合の弊害について少し述べてみたい。
日本の労働組合は1960年安保に青春時代を送った若者に大きな発展を見、そして1970年安保を乗り越えた、当時の若者たちが急先鋒となって組織作りを行った。今の年齢でいくと、50歳から60歳の人々である。こうした人々は、搾取と呼ばれる言葉に敏感で、団結という言葉に身を震わせて青春時代を送った。
 我々40歳代は、こうした兄貴達に日和見としてこづかれ、親たちからは、「兄貴たちのようにアカになったら勘当だ!!」とどやされて育った。兄貴達が、ヘルメットを被って集会行動に集まり、火炎瓶を投げつけて体制に立ち向かっている姿を見るにつけ、どうしたらよいのか、悲しい気持ちになった記憶がある。
そんなモラトリアムな三無主義の典型と言われた1950年代組ももうfourties(40歳代)のおやじである。
 
 こうした学生運動をとりまく青春の葛藤は、三田誠広や、柴田翔、庄司薫、村上龍などの芥川賞作家が、その受賞作品にきっちり書いている。三田誠広は「僕って何」という作品の中で学生運動のあり方をコミカルに批判していた(学生運動は腹が減った。パンも食えない、そして与えられないデモ参加なんて改革じゃない)。柴田翔は、「されど我らが日々」の中で自己を見つめすぎ極限まで自分を追いつめる。庄司薫は暗い世相の中、「赤ずきんちゃん気をつけて」で飛び抜けて明るい登場人物を登場させた。村上龍は「限りなく透明に近いブルー」で退廃した青春像を描き出した。
 
【労働組合の崩壊】
 会社員の多くはもはや、労働組合に期待を寄せなくなった。
思想では評価できるものの、実際の政策ではことごとく失敗した。
1989年11月のベルリンの壁の崩壊がその象徴となった。
マルクスは、資本階級が暗躍すると労働階級が搾取されて劣悪な労働条件を強いられると主張した。たしかに資本主義の初期はその傾向がたぶんにあり、米国の奴隷や、英国の植民地政策、日本の富岡の製糸工場、小林多喜二の「蟹工船」などに見られる通り、マルクスの主張を如実に教えてくれるものであった。
しかし、現実は、資本階級に搾取される資本主義国家の方が全体的レベルが向上した。逆に労働者の社会や国は、決して豊かにはならなかった。これは歴史が証明している。
 
 労働組合が失敗した問題点は2つある。
一つは、指導者階級が官僚化したこと
もう一つは、労働者たちの労働意欲が低下したことである。
 
 過日、関連会社の社長と大阪に車で出向く仕事があり、車中でたまたまN自動車の労働組合の話になった。N自動車の凋落ぶりはごぞんじの通りで、その主因の一つに労働組合があまりに強かったことは有名な話。
 その社長は昔、知り合いにN自動車の幹部組合員がいて、大学時代(1970年代)選挙運動に借り出されたという。労働組合幹部達が、昼間から酒を飲み、豪奢に昼飯を食っている(高級料亭に繰り出した)のを横目で見ながら、労働組合の落日を察知したという。
 ことほど左様に、労働組合幹部のモラルが低下してしまった。労働者の組合なんだから絶対そんなことをしてはいけない。共産主義は宗教であるから、貧しい人たちの救われたいとするエネルギーで成り立っている。そうした宗教の教祖が民衆の意に反することをしていはいけないのだ。誰もがわかることなのにできない。ソビエトでも共産党員は随分豊かな暮らしをしていたと言う。北朝鮮では、共産党員に加え「成分(せいぶん)」(出自:家柄、学歴)と賄賂(わいろ)で生活レベルが規定されていると言われている。日本人を親戚にもつ北朝鮮の人たちは成分が悪いと言われ、どれだけ優秀で努力しても組織の幹部には絶対なれないという。
 
 共産主義国にかぎらず労働組合が強かった旧国鉄の仕事ぶりを見ても、労働意欲の低下の根本的原因がどこからくるかわかろうというものだ。つまり「社会主義的”平等”」が問題なわけだ。働いても、働かなくても賃金が同じなのだ。そして事なかれ主義。成功の報酬はわずかで、ライバルの失敗の数を血眼になって探して引きずり降ろす。山崎豊子が「大地の子」で文革(文化大革命)の悲惨さを書いているがあれこそが共産主義の代表的事例だと思っている。
 1984年12月、仕事で10日ほど中国の北京に出張した。米中の国交が樹立して十余年が経ったとはいえ厳然と共産主義を掲げていた中国は、良くも悪くも共産主義の面影を随所に見せていた。おもしろい光景として、中国の人々は昼時の30分も前になると昼飯を食うために食器を用意しそわそわと仕事をしていたことを思い出す。食べ遅れるとろくな物がなくなってしまうので1日の内の一番大切なことを今か今かとまっているのである。
仕事そっちのけで。
だから、我々が11時30分ごろ仕事を頼みに出向こうものなら大変。まったく取り合ってくれず、「午後出直せ」とつっけんどんに断られる。私は、これを北京セミナーで使用した機器を日本に送り返すため、申請手続きのために出向いた役所でこの光景に出くわした。
 そういえば、北京空港の通関もすさまじいものがあった。通関の役人がふんぞり返って通関の業務をしていた。自分の非は認めず相手の非ばかりあげつらう。化粧っけの無い女性担当官が、ヒステリックに老人や若い娘に書類の不備をなじる姿は見ていて気持ちのいいものではなかった。その役人の机の下には昼飯用のアルマイト食器と箸がしっかりとしまわれていたことだろう。
 
 自由主義的平等は、違う。
働きに応じて報酬が受けられるというのが自由主義の平等である。みんな豊になりたいから一生懸命働く。働いた分だけ報酬がもらえる。そうして社会全体が豊になっていった。
 
 話はちょっとそれるが、韓国人は、米国でほんとによく働くそうである。ニューヨークの果物屋は韓国人が経営しているお店が多く、韓国人のお店のリンゴはピカピカに磨かれている。中南米から移民してきた人達のお店のリンゴは磨かれていない。自然、韓国人のお店が繁盛する。米国に移民した民族の内で韓国人は集団で、しかも大金を持って移民してきた民族だそうである。ドイツ人もイタリア人も最初のマイナーな移民は身一つで移住してきたが、韓国人は組織的に移住してきた。
これは、アメリカ史上希有なことである。
そしてロスアンゼルスなどに民族ごとすみついて生活を始め、他のひとたち(エスニック系民族)の仕事(果物屋とかクリーニングとか)を根こそぎ奪っていった。だから韓国人は米国ではあまり人気がない。1992年だったかロスアンゼルスで黒人の韓国人街への暴動事件があったが、今述べたようなことが伏線になったようである。
 
話がまたそれた。
 
今述べた共産主義国家に内在した二つの問題点は、共産主義に限らず、会社運営でも当てはまる。
やる気のある職場。これは永遠のテーマである。
 
自由主義社会は、競争原理で成り立っている。共産主義では否定された原理である。いや弁証法としては競争原理があるが、実際の社会体系の“社会的平等”の中では埋没した。
競争があれば、負けがある。負けがあれば職を失われる。
失われれば明日がない。
 
【今後の我々の生き方】
 生き残り、これが今の全世界の共通の関心事である。
生き残るためにどうするか。働く意欲をどのように活性化させるか。
会社にとって人材は命、幹部だけでとても運営できるものではない。
人の体と同じように強固な人体があって始めて健全な生活が営める。
 
 私は会社の経営者ではないので、使われる者としての考えを述べる。ただ、使われるためには使う側の考えも考慮に入れなければならないので敢えて経営者のような見方をする。
 
 前提は、1年間に支払える給与は500名に対して30億なにがしと決まっていて、財源は有限であることである。それもみんなの助けがあって達成できる額である。
 この金額を有効に使って社員のやる気を起こしたい。そして投資した富を再び膨らませて会社に引き寄せたい。
どれに(どの社員に)投資するか。なにやら競馬の馬券を買うようである。はたまた、株に投資するようなものだ。
 話はそれにそれ続けるが、マイクロソフトのビル・ゲイツは、こうした株の分散投資が抜群にうまいそうだ。大穴を当てる投資は決してしない。しかしけっして損はしない。彼がハーバート大学で大学仲間とポーカーをやって資金を調達したやり方を、マイクロソフトでやり、はたまた、マイクロソフトで設けた金を株に投資している。
 
 話を戻して、会社の社員に対する投資。
ここ数年、多くの企業で従来の終身雇用、年功序列による働く意識低下からの脱却を計っていろいろな試みがなされている。
●自己申告:自己申告によって給料を査定する方法。これによって働く意識を高め、生産性を上げる。
従来は、課長とか部長というポストを社員に与えて、それによって意欲を掻き立てていたが、ピラミッド社会でなくなり、職制上頭でっかちになり(役職者が多くなり)価値がなくなった。
●年棒制:1年間の年棒を取り決める方法。これで経営者は計画的な経営ができる。
●抜擢:従来の年功序列からの脱却。会社は未来永劫永遠に不滅では亡くなったので旧式の体制では生き残れない。生命力に満ちた人材を渇望している。
など、など。
 
話を逆転して使われる側。
 使われる立場から生き残りをかけるのは比較的簡単だ。会社に貢献できるだけの能力を備えることがまず大切。そしてできうれば、会社に忠誠をつくしてまじめに勤め上げる人間が求められる。だが、それじゃぁまるでコンピュータと同じになってしまう。コンピュータと違うところ。つまり、人間だから、人間どうしのつながりが大切となる。
 
 指導者になるには、天才よりも凡人、健康な人よりも病気をしたひとの方が良いと堀田力氏は言う。健康な人は、病気になったときの苦労を知らないから苦しみを理解できないと。天才は、なんでもぱっぱとできちゃうから、凡人が苦しんでいる仕事内容を理解できないと。それは一理ある。しかし、凡人が指導者になると、それはそれで苦労する。部下がその上司を一目おかないからである。
 プロ野球をよく引き合いに出して恐縮するが、天才肌の長島監督と、努力肌の仰木監督。長島さんには人を惹き付ける力がある。仰木さんには人を活用する力がある。でも現役時代の実績がない。そういう人を現役の選手(たとえば清原とか落合とかいった一流の選手)が一目置くかは疑問の残るところであり、それに配慮する監督の心中たるや察して余りある。
 会社でも、何も実績が無い人がリーダになったりすると、かならず赤ちょうちんで酒の肴になってしまう。
 
長い話になったが、
結論としては、人間関係を保てるインターフェースを持った、能力(英語力、電気、機械、工学、マーケティング、帳簿)を持続的に向上できる人が今後求められていく会社員のような気がする。
そうした中で、現場の状況を把握できる人がリーダになって行くんではないかと思う。
日本の社会では突出した給料はもらえない、というのが今現在の私の結論でもある。
 
 
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.2.23 追記)
 2月19日(金曜日)幕張メッセで開かれている「MacWorld Expo99」に参加した。「Think Different」という標語を昨年より掲げて他のコンピュータ会社と差別化を図ってきたアップル社。iMacとG3Macの成功で今年も無事に単独のMacWorldを開くことができた。昨年のMacWorldは、G3を全面に出した展開だったが、今年は、
  性能プラス価格それにファッション性
という一面を付け加えた。
パソコンのシェアも10%に回復し、Macの位置づけもしっかりしてきた感じを受けた。
アップル単独のための展示会、Mac宗教の1年に一度のお祭り。会場もアップルの本堂の周りを、強力なソフトメーカ(ファイルメーカ社、マイクロソフト社、Adobe社、A&A社)、周辺機器メーカ(Yano、松下、Epson、Sony、Fuji)らが取り囲む布陣となった。
 

 今回の私の参加は、休日ではなく、平日だった。休日は、別件でコンピュータの立ち上げが予定されていたためである。

平日にも関わらず人出はまずまずで各展示ブースのショータイムには毎回立見が出ていた。
  (2月23日記:3日間の総入場者数は、175,797人で、昨年の171,749人を上回った。
    [http://www.zdnet.co.jp/macweek/]
   1日減って入場者数が増えたのだから混んでるはずだ。ちなみに昨年のコメントは、
   4日間の総入場者数は、171,749人で、昨年の183,214人を若干下回った。
   Macweek1998年2月22日の報告による
   http://www.zdnet.co.jp/macweek/9802/expo/n_next.html)
 

 ファイルメーカ社やApple社など興味あるブースは一日中講演を聴いていても飽きない。プレゼンテーションの仕方、コンピュータの使い方、プロジェクターの使い方、どれをとっても洗練されている。

 おもしろい傾向として、自動車ショーなどに見られる、みめ麗しい女性がお色気を振りまいて技術説明を行う趣向とは反対に、MacWorldでは若い男性の颯爽とした講演が目立った。もちろん彼らは背広姿ではなく、会社のロゴの入ったトレーナ姿を着たラフな出で立ちである。これがスティーブ・ジョブズを始め、アメリカ西海岸で生まれたパソコン文化の文化人たちが粋(いき)に感じる姿なのだ。このスタンスは、イギリスでもフランスでもましてやドイツや日本では芽生えないものだ。もちろんアメリカの東海岸でも希薄である。
 展示会で女性が説明を行う場合、失礼な言い方だが、鵜呑みの説明が多く、聞いているこちらが浮き足立ってしまう。しかし、今回のプレゼン(presentation)は、ホントによくわかった人が親切に堂々と話すため安心して聞いていられたし、技術的に深いのでとても惹き付けられた。
 特にアップルのメインステージの講演者は自信たっぷりに説明をしていた。
 なにやら、スティーブ・ジョブズを意識したような講演だった。だが、アップルは今年何をするかということを堂々と我々信者に語ってくれた。
 

 朝日新聞(199年2月19日)の朝刊にも、カリスマ スティーブ・ジョブズを中心としたアップル軍団の戦略の慧眼に賛美を送っている。

アップル復活祭――“救世主”ジョブズ氏に喝さい
 マックワールド・エキスポ東京99 
 千葉市の幕張メッセで 一部半透明の新鮮なデザインのパソコン「アイマック」が爆発的な人気を呼び、復活を果たした米アップルコンピュータ社の展示会「マックワールド・エキスポ東京99」が18日、千葉市の幕張メッセで開幕。復活の立役者であるスティーブ・ジョブズ暫定CEO(最高経営責任者)が講演し、マックファンから喝さいを浴びた。
 ジョブズ氏は1977年にアップル社を創業。自分が連れてきた最高経営責任者と意見が合わず、85年に経営から退いた。ところが96年末、当時経営していた別のコンピューター会社がアップル社に買収され、アップル社の経営に復帰。処理速度が速い超小型演算処理装置(MPU)を開発。アイマックを発売するなどして、赤字続きだったアップル社を98年9月期決算で黒字化した。カリスマ的な魅力のある同氏を一目見ようと、講演会場には約6500人の聴衆がつめかけた。
 同氏はノータイにジーンズというトレードマークの服装で壇上に姿を現し、「アイマックは発売から4カ月半の間に世界で80万台売れた。15秒に1台売れている勘定で、今や日米でナンバーワンのパソコンだ」と胸を張った。
 また、記者会見し、「業界は(性能を重視して)何メガヘルツや何メガバイトといった言葉でマーケティングをしているが、私たちに寄せられた消費者からの質問の中で最も多いのは、自分の好きな色のパソコンを作ってくれないかというもの。アイマックはそうした消費者のニーズにこたえた」と人気の秘密を語った。
 
 今回のイベントに先立ち、我々仲間内では、このExpoにスティーブ・ジョブズが何かおみやげを持ってくるに違いない、といった憶測が乱れ飛んでいただけに、出展内容に目新しいものがなく半ばがっかりした。事前には、小型高性能のG3PowerBookがアナウンスされるだろうと喧伝されていただけに残念だった。
だが、今年もアップルは盛りだくさんの企画と戦略で我々を楽しませてくれることは間違いない。その主なものは
・プレーステーション用のゲームが動くソフトウェアの販売
  → 現在米国のConnectics社がソニーエンターテイメント社から訴えられているので、このイベント会場では静かだった。
・Mac OSXの開発
  → 昨年から、喧しく(かまびすしく)アナウンスされているOS。苦難を乗り越えて今年中には市販されるだろうか?
・G4 Macintosh の開発
  → G3Macintoshを出して次は、G4。私はいったいいつ新しいマシンを買えばよいのやら。
・新型G3PowerBookの販売
  → これを待ち望んでいるマックファンは多い。今のPowerbookは重い。私は今でも非力なPowerBook Duo2300cを使っている。
・Open GLの具体化
  → QuickDrawは業界標準とならなかった。openGLを選択したのも時代の流れか。
・AppleShare IP6.1 Applenetworkの進化
  → MacOS8.5でネットワークがかなり進化した。AppleShareはかなりすっきりとし、一発で希望するネットワークに接続できるようになった。
 
【iMacサマサマ】
 今回の展示会の柱の一つがiMac。パソコンの歴史の中で、歴史的大成功を納めたといっても過言ではない。性能やコストもさることながらデザインが大受けに受けた。このファッションとしてのパソコンのあり方に着眼して起死回生のクリーンヒットを放ったアップル社の経営陣の胆力に脱帽したい。
 アップルのメインブースにはそのiMacをずらりとならべ、訪れる客にどんどん触らせていた。この会場でも若い女性客層が多いのに驚いた。こう言っては何だが、あまりコンピュータには詳しくなさそうな客層がかなりこの展示会に押し掛け、MacWorldの祭典を盛り上げている感じを受けた。
 そういう時代に入ってきたのだ。しかめ面して無機質なマシンを動作する感覚ではなく、室内のオブジェとしての位置づけと、そしてしっかり機能を満足させるコンピュータ。それが今のところiMacであるのだ。
 自動車が、オートマチックトランスミッションの導入によって使いやすくなり、エンジンもほとんどメンテナンスフリーとなって女性の市民権を得たように、コンピュータもiMacの登場により、使いやすいファッション性を兼ね備えて生活にとけ込んだコンピュータとなった。iMacは、その提案を他に先駆けて行ったと言ってよい。

【1.3GB容量のMO - Yanoから】

 MO(光磁気ディスク)も1.3GBになった。ライバルJazと熾烈な競争を展開しそうである。CD-ROMの2枚分の容量というのもすごい。大容量なので読み書きが遅いと思いきやさにあらず。読み込みで230MB容量のMOの2.5倍の速度(4.5MB/秒)、書き込みで1.6倍のスピード(1.5MB/秒)を持つ。インターフェースはSCSI-2(Fast SCSI)。2MBのディスクキャッシュを搭載している。価格は\108,000。メディアは\3,000〜\4,000。FireWireやUSBでの接続モデルはなかった。
 

【DVD-RAM - 松下から】

 この製品を見ることを忘れてしまったのだが、松下が他社に先駆けて、DVD(Digital Video Disk)メディア(5.2GB)を使った読み書きができる装置を出展した。ドライバー装置は\100,000。メディアは1枚\4,000。これもすごい記録媒体だ。
 
【クロスプラットフォーム】
 ビジネスではDOS/Vマシンのシェアが高い。個人ユースでは逆にMacの人気が高い。だが今後、iMacの人気とiMacのネットワーク構築の容易さが受けて、ビジネスでもiMacを設備しようという動きが出ている。
DOS/Vの世界、Windowsマシンで活躍しているアプリケーションソフトは、実はマッキントッシュから育っていったものが多い。マイクロソフトのExcelは、マッキントッシュから始まった。Wordもそうだ。Adobeの画像ソフト(フォトショップ、イラストレータ)に至ってはマックを広告業界の標準機にまでさせたソフトウェアだった。Windowsの発展とともに、マックで培われたソフト開発会社の比重がWindowsに移っていく。ソフトをWindows用とマック用の2つ別々に開発するなどとても非効率であるからだ。自然売れるWindowsマシンに力が注がれる。一昨年まではこうして主要なソフトウェアメーカがWindowsへ鞍替えしていった。
 しかし、G3マックの成功、iMacの成功、マイクロソフトの資本参加とアプリケーションソフト(Office98)の開発によって再びマックにも光が射し始めた。アプリケーションソフトを開発するスタッフが戻ってきたのだ。
 クロスプラットフォーム(Windowsでもマックでも動作する)ソフトウェアが急速に進展している。
アップルでは、PCIバス規格やUSB通信規格、RAGE画像表示などDOS/Vマシンの後塵を拝してきた技術を積極的に取り入れ、iMac、G3Macで整備によってDOS/Vマシンと遜色がなくなってきた。また、モニタの画像を表示する方式では、独自のQuickDraw方式を採用し続けてきたけれど、今の主流であるOpenGLのライセンスを取得してシリコングラフィックスなどのコンピュータとデータの互換性が保てる環境も整備されつつある。また、USB、FireWire、100BASEイーサネットなど最新のインターフェースも標準装備した。データの互換性やアプリケーションの互換性に関してもかなりのレベルまで達してきたと言ってよい。
 これにネットワークにつなげてデータを共有する環境が整いつつある。DOS/VのフロッピーもMOも読めるようになった。DOS/Vと通信できるようにもなった。
 
 Windowsと Macintosh を接続するソフトウェアに、Miramar Systems社から出されている「PC MACLAN for Windows 98/95」(\36,000)がある。このソフトウェアをインストールするとイーサネット経由で相手のパソコンを認識できるようになりデータの通信が可能となる。
 Windowsと Macintosh フォーマットのメディアを相互に読み書きするには、Software Architects社の「Mac Mounter98」(\9,800)、「DOS Mounter 98」(\12,800)がある。Windowsには「Mac Mounter98」をインストールし、マックには、「DOS Mounter 98」をインストールする。これで1.44MBのフロッピーディスクはもちろん、MO、Zip、Jaz、SyQuest、Bernouli、PD、CD-ROM、ハードディスクが読めるようになる。
 データの圧縮・解凍用ソフトにはAladdin社が開発した「StuffIt Expander5.0」(\14,800)が極めつけだ。Windowsでよく使われるzip形式の圧縮を解凍することはもちろん、自社のStuffIt形式(.sit)、compactPro方式、bin形式、LHa形式、BASE64形式など様々なデータを解凍してくれる。
 インターネットを介して相互のコンピュータをリモートでアクセス、データの更新ができるソフトウェアがNetpia社の開発している「Timbuktu Pro」だ。ティンブクツと読む。おかしな名前だがアフリカの砂漠にある地名だそうだ。地の果てまでリモートコントロールが可能という意味なのだろう。
 
 上の写真は漫画家のモンキーパンチ氏と、しが・きみえ氏。dit社のブース講演をされた際に撮影したもの。漫画家にはマックを使用している人が多い。漫画家は、マウスは使わないのだそうだ。もっぱらワコムなどのタブレットペンを愛用しているのだそうだ。モンキーパンチ氏はルパン三世などの劇画をマックで仕上げるのにだいたい2日間で終えるという。A3のコンピュータ用紙に描いて、JPEG圧縮で編集部にメールで送るのだそうだ。印刷はA4に縮小されるのだが十分な品質だという。マックのおかげでここ2年ぐらいは編集部の人と顔を会わせたことがないと言っていた。
 

【データベースの統一】

 アップルのソフトウェア部門であった子会社クラリスの一部門が独立してファイルメーカ社となったのは昨年。ユニークなカード型データベースソフト「ファイルメーカPro」の成功によってさらに洗練された統合的なネットワークのデータベース環境を提供しようと意欲的である。
 ビジネス業界では、企業が蓄えたデータを如何に効率よく集約するかが大きな課題になっている。メインフレーム(IBMのような大型計算機)を使用している大手企業では基幹データベースといって「ORACLE」、「SYBASE」を使用しているところが多い。この下に位置するのがWindowsNTをベースにしたネットワークデータベースで、「4D = 4th Dimension」、「Access」、「SQL Server」、「Excel97」などが使われている。
こうしたデータベースを共通の資産としようと提案するるのがTCO = Total Cost of Ownershipと呼ばれるものでファイルメーカーはこれを目指している。またビジネスネットワークで使われているODBC = Open DataBase Connectivity(マイクロソフトが提唱しているAccessなどに使われるデータのインタフェース)対応も目指している。
 インターネットという言葉と、社内(限られたコミュニティ)を電子ネットワークで結ぶイントラネットという言葉が出たと思ったら、インターネットを通じて社外と常時コミュニケーションをとるイクストラネット(Extranet)という言葉が出てきた。これはおもしろかった。
 データベースも最終的には統合的にまとめられるのだろう。現在、パーソナルコンピュータレベルでのデータ管理は、ファイルメーカプロとマイクロソフトのAccess、Excel、それにロータス1-2-3である。ロータスは、残念ながら Macintosh とは全く関係ない世界である。これらが使いやすくなって他のデータと協調性が出るものが次代を生き残っていけるものと考える。私個人は、ファイルメーカをかなりの比率で使用しWindows環境の元でもかなり重宝して使っている。
 
【AOLの戦略】
AOL(America On Line)という米国インターネットプロバイダ会社の出展が目を引いた。左の写真はそのブース。会場に10台程度のiMacを置き、訪れたお客様に自由に電子メールを楽しめるような工夫をしていた。
 折からの映画「You've got M@il」(主演:トム・ハンクス、メグ・ライアン)のコマーシャル権を得ているのか、この映画を展示ブースに大々的に取り上げて日本でのプロバイダ獲得に非常に意欲的なところを見せた。
 AOL社は日本では、まだなじみが薄いかもしれないが、米国では最大規模の会員数を誇るインターネットプロバイダ会社だ。最近インターネットブラウザソフト会社の老舗「Netscape Communications」社を買収して反マイクロソフト陣営の急先鋒になったのは有名なところである。AOLは現在1500万人の会員。これは世界最大なのだそうだ。登録が非常に簡単で、なおかつ最初の100時間は通信が無料。iMacにもすでにバンドルされているのだそうで、おきまりのコースに従って設定をすれば、iMacは購入後速やかにインターネットができるらしい。私の知り合いでiMacを買った女性は、我々がいろいろな助言をし、おきまりの立ち上げをしなかったので立ち上げに結構時間を食ってしまった。
 今回はNIftyServeの出展がなかった。NTTのOCNも出展がなかった。プロバイダ会社の出展がない中、AOLの出展は目を引いた。最近のAOLは、魅力的な戦略もあってか、日本での加入者が激増しており、問い合わせが難しくなっているというのを人づてに聞いた。

【デジタルカメラ戦争】

Casioが先鞭を付けたパーソナルユースのデジタルカメラ。この市場も戦国時代に突入している。Casioやオリンパス、ミノルタ、Kodakらの出展がない中、SonyとFujiフィルムの2社が盛大にデジカメ市場の覇権をねらって火花を散らしていた。Fujiは爆発的人気を呼んだ100万画素のFinePixを進化させた230万画素のデジカメ(FinePix2700、\94,800)を主軸に、他種類のデジカメを出展していた。
 Sonyは、フロッピーにそのまま画像が記録できるデジタルマビカの無料貸し出しサービスを行って、これを借り受けるお客の長い行列ができていた(右写真)。貸し出して撮影したフロッピーはそのまま持って帰ることができ、一般のブラウザソフト(Netscape Communicator、Internet Explorer)で見ることができる。デジタルマビカ(MVC-FD81)は\99,800で85万画素のプログレッシブCCDを採用。VGAモード(640x480画素)で25枚〜40枚の画像をフロッピーにを記録できる。XGAサイズでは10〜16枚。インフォリチウムというバッテリの開発で、使用時間も格段に向上し連続撮影2時間ができるようになった。私のもっている3年前にかったSonyの35万画素のデジカメDSCのバッテリーは30分しかもたないのだ。その昔一斉を風靡したDSCも進化し、211万画素になった(DSC-F55K)。価格は\115,000。カールツァィスレンズを使用して、効率の良い反射光も取り入れた液晶パネルの採用で、バッテリ使用時間も伸び、1,000枚の撮影が可能になった。

 

 

 

●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)

 老いも若きも、青春時代にはそれぞれ想い出に残る「歌」がある。
私の親父は、美空ひばりが好きで、彼女の歌がテレビから流れると食い入るように聞き入っていた。
 戦後の廃墟の中で美空ひばりが若者たちに与えた夢と希望は、計り知れないものがあったのだなと、子供を持つ年頃の30歳になって思った。たしかに美空の歌はツヤがあったし、歌もうまい。高校時代は、まったくそんなこと思わなかったのだが・・・。
 
 ここに紹介する二人の女性ミュージシャンは、24年も前から第一線で活躍している大御所である。
ユーミンは、昨年12月、今までの集大成アルバム(但し松任谷時代からのもの)「Yuming Neue Musik」をリリースするや、瞬く間にヒットチャートトップにランキングされた。若い年代層から中年層まで幅広く支持されている。
 
 中島みゆきも20代-40代の女性を中心に根強い人気をキープしている。
一体全体、彼女たちのどこが魅力なのだろう。20年以上もトップランクに座り続けるのは容易じゃない。
 
  ひょっとすると、彼女らは一千年を生きる魔女!?
 
 私が初めてユーミンを知ったのは大学1年生の時(1973年)だった。当時、荒井由美といっていた彼女は、お世辞にもうまいとか、きれいとか言えるシンガーソングライターではなかった。が、メロディーラインがそれまでの女性シンガーソングライター(森山良子、ジョン・バエズ)らとは際だって違っていた。メロディラインがとてもおしゃれだった。ユーミン以前の一流のシンガーソングライターには、思想性が求められ、ジャンヌ・ダルクのような戦闘家でなければならず、声は高音部まで透き通るように伸びなければならず、はたまた音程は決して外してはならなかった。ジョン・バエズしかり、森山良子しかり、赤い鳥しかり、トワ・エ・モアしかり、チェリッシュしかり、ウィッシュしかり。加藤登起子さんはちょっと違うかな。
 
 しかし、ユーミンは全く違った。音程の安定しない歌、しゃがれた声、一風変わった風体。売れない頃の荒井由美は、よく深夜放送にせっせと顔を出し、若者に新作LP(塩ビの黒い30cm円盤レコード)を売り込んでいた。彼女の初期の頃の作品「ルージュの伝言」など今聞いても楽しいメロディだ。歌詞にそれほど深い意味があるわけでなく、おしゃれなメロディラインに沿って感覚的に情景をちりばめているという感じだった。服装と一緒で、彼女の作風には思想性などなくてよく、オシャレという感覚が重要であったのだろう。
 宮崎俊原作の映画「魔女の宅急便」には、ユーミンの歌が使われていたが、彼女のミュージックは、バックミュージックとしてとても乗りやすく映画に似合う音楽である。彼女のメロディラインは、それまでのメロディとは全く異なった新風を巻き起こした。
 
 私が今の会社に入社した1978年、日本の音楽界の大御所、作曲家の古賀政男氏が死去され、その人となりのコメントを求められたユーミンは、「全く関係ないヒト!」と一蹴(いっしゅう)した。他のミュージシャンは、それなりにお愛想を混ぜてコメントしていた。ユーミンのコメントを聞いた当時の営業課長A氏は、烈火の如くユーミン批判をした。当時の新人類であった私は、その集中砲火を受けながら、昭和初期と昭和中期の音楽感覚のズレを感じた。
ちなみに私は、古賀政男氏を尊敬している。「影を慕いて」、「丘を越えて」、「二人は若い」、「湯の町エレジー」の歴史的存在価値を認めている。しかしながら、私の心の支えとなったかどうかは別である。これらの歌を青春時代の歌とする諸先輩とは思い入れが違う。だから、A氏のように、烈火の如く怒るマグマが私にはなかった。
 
 八王子の呉服屋生まれの彼女は幼少期を横田基地の「アメリカ」の雰囲気の中で育ち、ピアノを通じて独特のメロディラインを形成した。彼女の歌は、彼女だけでなく、好んで別のミュージシャン(ハイファイセット、サーカス)が唱っていた。ユーミンは、松任谷正隆氏(当時、吉田拓郎などの編曲を手がけていたミュージカルコーディネータ。車も大好きなぼっちゃんぼっちゃんしたおとなしい性格の大柄な人)と結婚して、さらに音楽のセンスに磨きがかかった。メロディラインにつけるアレンジがとても洗練されていた。こういう夫婦の組み合わせはステキだと思う。
 山下達郎・竹内まりやのコンビもしかり。マンガの世界では弘兼憲史氏(早稲田大卒、松下電器産業を経て課長・島耕作で一躍人気漫画作家になった)と紫門ふみ(さいもん・ふみ、徳島県出身、お茶の水大学卒、弘兼氏のアシスタントを経て、東京ラブストーリで人気、サイモン&ガーファンクルが好きで作家名を紫門とした、ちなみに彼女は私と同じ年のハズ)の夫婦の組み合わせが成功している。弘兼氏の女性の描き方がとても色っぽくなったのは、彼女の影響である。同じ漫画家の本宮ひろし氏も、奥方が森田じゅんで、結婚を境に本宮氏のマンガの女性が生き生きとしてきた。森田じゅんさんは、私の高校時代(1970年代前半)に雑誌「りぼん」で活躍し、顔の表情とキャラクタの動かし方が巧みだった。実姉がマンガが好きで、特に森田じゅんさんのマンガが好きだったのを覚えている。
 作家の司馬遼太郎さんも、奥さんの影響が大きいらしい。産経新聞時代の職場結婚で、新聞社時代は司馬氏より奥さんの方が筆がたったと言われている。司馬さんの女性描写もとても魅力があり、奥さんの影響と信じている。
 
 話を戻して、ユーミン。彼女のステージはとてもケバくて、とても同年代とは思えないほどで、「歌が下手なのを、ステージパフォーマンスでカバーしているんだ」と思っていた。(今でもそう思っている。しかし、ユーミンは、トータル的に雰囲気がある。ドリカムの吉田嬢の方が歌は断然うまいけど、何回も聴けない。ユーミンは何回でも聴ける。)
 彼女の強みは、そうした前衛的な作風の中にも、郷愁をさそう詩風を織り交ぜていることである。「冷たい雨」、「ひこうき雲」、「卒業写真」などメロディーも流れるようにやさしく詩もホロッとくるような所があって、ティーンエージャーの心をググッと引きつけるのだろう。
 大学時代に、「海を見ていた午後」という詩を聞いて、
 --- この詩には、横浜根岸の山手の「ドルフィン」というレストランが出てくるのだが、---
 『ソーダ水の中を、貨物船が通る、』
というフレーズが妙に気に入って、
会社に入社した早々、そのドルフィンとやらに、高校時代からの友人と出かけていき、コップの水を通して日本石油のコンビナートを見た。貨物船は水の中で通らなかったし、晴れた日だったが三浦岬も見えなかった。・・・・。
 
 
 方や、中島みゆき。
彼女はずっと独身。最近はビールの宣伝や郵便葉書の宣伝に出ていたが、昔からコンサートと深夜ラジオのDJ以外、人前に出ることはなかった。シンは強いが結構シャイ(内気)なんだと思う。
北海道札幌の出身で、親父さんは産婦人科の医者。父親の仕事の関係上北海道を転々と移り住んで、高校・大学(札幌藤女子大学)を通じてフォークソンググループのサークル活動をしていた。
私が初めて彼女の存在に気づいたのは、24年前の19歳の時。当時、ヤマハが新人発掘の場として、ポプコンというグランプリを開催していて、23歳の彼女が、1975年の秋の本選会で「時代」という曲でグランプリをとり、世界歌謡祭でもグランプリをとった。その前々年は、たしか、小坂明子の「あなた」という曲。高校三年の受験の年に聴いた曲で、この「あなた」という曲も甘酸っぱい記憶がある。小坂さんはその歌一つだけで終わってしまった。同じ時代には高木麻早、八神純子、チェリッシュ、ウィッシュらがポプコンから輩出された。
 
 中島みゆきを語るときには、この「時代」という曲を外して語ることはできない。女性にしては珍しく哲学的な俯瞰、仏教的な諦観がある詩だ。当時、この詩を聞いた私は、中島みゆきに空恐ろしいものを感じた。長い黒髪を後ろで束ね、ジーンズウェアに身を包み、ギターを抱えて本選会に臨んでいた。ただ、この歌は、米国フォークシンガーのボブ・ディランの唱う「時代は変わる = The Time has changed.」に内容がとても良く似ていて、その和製パクリであると感じていた。当時の彼女の歌唱力はそれほど高くはなく、結構音を外していた。リリースされたLPの「時代」でも音がはずれていた。化粧っけのない女性で、眉が濃くて、髪の毛も黒々。アイヌの血でも混じっているのかと思ったほどである。3年ほどしてやっとパーマをかけた。メロディーもユーミンほどにあか抜けてはいなかった。しかし彼女には、日本人の心をつかむメロディラインを持っていた。
 「時代」という詩が時代と共に受け継がれ、テレビ番組のバックミュージックとしても取り上げられ、ギターのみのインスツルメンタルとしてもなかなか味のある曲となっていった。
10年前に仕事で知り合った若者とスナックで飲んだ時、18歳の青年(私は33歳)が「時代」を歌った。この時、「この歌はスタンダードナンバーになったんだな」と思った。
 中島みゆきの歌には恐ろしい魔力が秘められていて、20年前に思春期や青年期を送り、失恋や片想いに悩んだものにとってはとても思い出深い曲である。
大学4年の頃、友達同士でワイワイがやがややっていて、ふとラジオから中島みゆきの曲が流れてくると、誰も口をきかなくなり、シーンとなった記憶がある。それほどの魔力を持っていた。
その後の彼女の活躍はご存じの通り。
テレビドラマの挿入歌、湿った失恋と怨念を歌わせたら彼女の右に出るものはないであろう。彼女は感受性が強く、人間関係の少々複雑に絡んだ家庭で育ったような感じを受ける。
 
 会社に入り立ての頃、川崎市民ホールに彼女のコンサートがあって、一人でノコノコ出かけて行った。その同じ場所に、今の会社のT営業所の所長K氏(当時、大学三年生)がナケナシの金をはたいて(所長、失礼!)、同じコンサートに見に来ていたという。当時は知る由もなかったが、同世代の者が彼女に引きつけられるのがわかるエピソードである・・・。
あの時、聴いた「鳳仙花(ほうせんか)」という歌が妙に心の中に残っている。
まあ、その、つまり、私も当時、恋をして微熱が続いていた状態にあったわけである。
 「ホームにて」という歌も、それはそれは哀しい歌だ。今でも青色の電車がホームに滑り込んでくるとこの歌を思い出してしまう。
 「遍路」という歌もなかなか捨てがたい歌だ。これは路(みち)をモチーフにしている。
 イルカという女性シンガーソングライターは、伊勢正三さんからもらった「なごり雪」という曲をヒットさせてスタンダードナンバーにしたが、その「なごり雪」にも同じようなシチュエーションのフレーズがある。列車や飛行機、古くは船、そして手紙などが別れのモチーフになるようだ。
 井上揚水の初期の作品「心もよう」にも出てくるとおり、当時の私は、
  遠くで暮らすことは、二人によくない・・・
というフレーズを地でいくような生活を送っていた。
 40も過ぎるとさすがに当時の曲は重苦しく、「時代」以外は聴きたいとも思わなくなった。「時代」はそれほど枯れた歌なのだ。また青春の熱い血をたぎらすだけのエネルギーを持ったとても哲学的な歌なのである。
 
話は戻って、ユーミン。
昨年暮れ、家のカミサンが買ってくれた2枚組のCDアルバム「Yuming Neue Musik」を聴いて年末を過ごした。クリスマスには「恋人がサンタクロース」を聴いて。原田知世の笑顔を思い浮かべながら。「You don't have to worry, worry」と「守ってあげたい」を口ずさみながら。
年を食うと軽い音楽が良い。
 
 作風も、色恋のアプローチも違う二人。
方や叙景をモチーフとし、方や叙情(情念)でうったえる。
作風も、方や軽いスナック菓子のような感じで、方や古来のテンプラのような質感を持つ。
 
 10年後もこの姉御達は頑張っていることだろうか。
私もそれまで元気にがんばろう。これら姉御の10年後を見届けたいという興味があるので。
 
 ここ十数年の私は、新しい音楽とは無関係で生きてきた。が、ひょんな事から土曜日夜にフジTVで放映している吉田拓郎出演の「Love Love愛してる」を見だして、最近のミュージシャンがおぼろげにわかるようになってきた。髪の毛をおったてて髪を染め、メン玉の周りを鴇色(ときいろ)に塗りたくった、いわゆる、ビジュアル系というミュージシャンを見て(私には彼らが全部同じに見える)、これらの中で10年後に果たしてどれだけの歌が忘れられずに、また、どれだけのミュージシャンが生き残っているだろうか?と思った。TMリボルーションも、ウルフルズも20年前の「もんたよしのり」になってしまうのだろうか。ルナ・シーも30年前のグループサウンズ「オックス」と同じ運命なのだろうか。
 はやりは、流行熱のようなものだ。
年を取ると何度もそのうねりを経験して、経験する毎にそのうねりが自分の心の中で振幅の度合いが徐々に小さくなるのがわかる。
 
 
 
 

 ●新Power MacintoshG3発売される(1999.1.15)(1999.1.24追記)

 アップルから、また、新型Power MacintoshG3が発売された。
今回のマッキントッシュは、高性能のG3CPU(第三世代のPower PC)を搭載し、クロックは300MHz、350MHz、400MHzの3種類。このクロック周波数は、2倍のクロック周波数を持つPentiumIIプロセッサの性能に相当する。CPUからデータを受ける二次キャッシュメモリがPentiumと違ってコンピュータの直ぐ近くに配置されていて、そのクロック周波数が高いためである。今のところ、PentiumIIに、600MHz〜800MHzのものはないから、まさにカッ飛びCPUである。
→ 1999.1.23追記 この説明で私のパソコン師匠AY氏よりクレームがついた。「安藤さん、アップルの巧妙な宣伝文句に踊らされて事実とは違う事を述べてはなりません。最近発表されたインテル社のPentium Xeon チップはクロック450MHzを持ち、パワーPCと同じように最高2MBのサイドキャッシュを設けていて決して遅くない(プロセッサ・コアと同じクロックで動く)。アップルのあのやり方はいただけません」と、・・・。お師匠さんご指摘ありがとさん。以後気をつけます。このチップは、ワークステーションの領域を完全に見据えたチップで、コンピュータグラフィックス部門で有名なシリコン・グラフィックス社(SGI)がこのチップを4基搭載して、且つ従来よりかなり安価に設定したコンピュータを発売した。このコンピュータは、速いらしい。SGIがこの安価版コンピュータを発売した背景には、映画「TITANIC」にOpenh GLによるWindowsNTマシンがたくさん使われて、SGIの牙城を脅かしていることに起因している。
でも、現時点のDOS/Vパーソナルコンピュータでは、Photoshopなどの処理はG3のが速いんだって。(まだ、性懲りもなく逆らうかぁ、とお師匠さんから怒られそうですぅ。)
新型G3チップの配線には、電気抵抗の低い銅を使って0.22um巾の配線を施しているという。CPU自体の消費電力は4.1W。開発は、米国IBMが行った。パワーPCは、モトローラとIBMが競争のような形で競って開発をしていて共同ではないようだ。また、昨年は、G4 Power PCの開発アナウンスも米国モトローラ社で行われPower PCの性能は留まるところをしらない(http://www.land-mac.co.jp/land/service/G4/G4.html)。
 システムバスクロックも旧G3Power Macintoshの66MHzから100MHzに変更された。この部分でも50%のパワーアップになっている。こうしてシステム全体がカッ飛びマシンになったわけだ。
 
 また、画面を表示する画像アクセラレータにもATI社のRage128グラフィックアクセラレータが使われている。このアクセラレータは16MBのグラフィックメモリーが搭載されている。これらはかなり強力な機能でQuickDrawが俄然生きてくる回路だ。いままで、マッキントッシュは、DOS/V機に比べると画像表示が遅かった。それは、DOS/V機が各社競って高速の画像ボードを採用するため、画像ボードメーカもこれに対応して高性能のボードを開発したため進歩が速かった。方やアップルはボードから設計するため、最新のPCI画像ボード採用が遅れ、後手後手にまわっていたというのが偽らざるところである。描画速度に関してはDOS/V機にやっと追いついて、トータルでは追い越した感を受ける。
 また、画像表示では、業界標準になりつつあるOpen GL規格にアップルは乗り遅れてしまった。Macには、彼らが独自に開発したQuickDrawががありこれに固執しすぎたこの規格はQuickTime同様アップルの根幹をなす規格であったが、孤立しすぎてしまった。その間OpenGL陣営は着実にシェアを伸ばしコンピュータグラフィックス分野に確固たる地位を築いた。アップルはそうした状勢の中、次期OSからこの規格を取り入りれる方針を打ち出している。
そうは言っても、新型G3Macのカッ飛びは疑うところがない。
 その顕著な表れが、米国コネクティクス社 (Connectix)が開発した、バーチャル・ゲーム・ステーション(Virtual Game Station)である。これは、SONYのプレイステーションのゲームができるソフトウェアである。これがあればプレイステーションのゲームがG3マックで楽しめる。 コネクティクス社が、何故真っ先にG3マック用にバーチャル・ゲーム・ステーション(Virtual Game Station)を開発したかというと、G3プロセッサに基づいたMacはある程度一律のハードウェアを使っているため、様々なグラフィックスカードが使われているインテルベースのシステムよりもソフトウェアの調整がしやすいためだ。
同社は、「Macintoshは技術的にやりやすい」、「Windowsプラットフォームで難しいのはハードウェアが多岐にわたることだ。Macの方が簡単に広範囲の互換性を獲得できる」 ともコメントしている。
→1999.1.23追記: この話題を家の息子と高2の甥っ子に話したら、即座に反応があった。高2の甥っ子はインターネットで関連記事に飛んでいき、どんなソフトウェアが動くか調べてメールをくれた(叔父さんは、プレーステーションはあまりやらないんだよん)。愚息は、愛読書「週刊ザ・プレーステーション」2月5日号(1999 Vol.135)のトップページを指し示し(かのG3の特集)、早く新型G3とバーチャル・ゲーム・ステーションのソフトを買えと暗にモーションをかけてくる。この記事の中に少々興味ある所があったので引用させてもらおう。
 ザ・プレ(雑誌編集部)では、その実用性を確かめるべく複数のMacでVGS(バーチャル・ゲーム・ステーションを動作させ、検証を行った。
  このVGSは、いまのところ「G3Mac」と呼ばれているものに対応が限定されている。これは、VGSがまだ進化途中であり、複数の機種をサポートするより、機種限定でエミュレーション性能を向上させることを優先した結果だ。実際には、G3Macより以前のMacでも動作はしている。だが、そのエミュレーション速度は満足できるものではない。
 しかし、VGSで推奨されているiMacでは、実用に十分な速度を再現している。「鉄拳3」(格闘技ソフト)や「GT」(車のレースソフト)などの3Dポリゴンをふんだんに使った“重い”といわれているソフトに関しては満足がいくものではないが、そのほかのゲームやRPG(ロール・プレーイング・ゲーム=画面がそれほど速く動くものではなくプレーヤがたくさんの選択肢を選びながらすすめるゲーム、ドラゴン・クエストやファイナル・ファンタジー)などは実用に耐えられる速度を実現している。また、「Yosemite」と呼ばれる最新最高速のG3Macでも検証した。このMacであれば、現在の所不安定な動きが多少見られるが、その動作速度は(3Dポリゴンをふんだんに使った)前述のソフトであっても実用に耐えうることがわかった。
 プレーステーションの装置は、今\15,000程度。かたやG3MacはiMacで\160,000、G3Mac400MHzでは\420,000程度する。これにVFSが\5,500。この価格差を考えると、プレーステーションをするためだけにG3Macを買うはずがない。VGSが発売された当初、ソニーは訴えるのではないかと憶測が飛び交ったが、どう考えても訴訟にはいたらない。ソニーは、セガのドリームキャストとシェア争いに躍起。アップルがパソコンでもプレーステーションができますと援護射撃してくれソフトが売れれば結構なのではないか。それに開発元の米国コネクティクス社にロイヤリティを若干でももらって、仲良くした方が絶対賢い。アップルもやっとゲームもできるMacになるし・・・
 ちなみに、ファイナルファンタジーVII(1997.1.31-1991.1)というロール・プレーイング・ソフトは全世界で672万枚売れたんだって。愚息が教えてくれた。そして、来月2月からは第8作が発売されてより動きのリアルになるのだという。う〜ん、672万枚かぁ。すごい数だ。プレイステーション本体は、昨年北米だけで1000万台売れたという。1000万台!!!。iMacは80万台なのに。
 1999.01.29 cnetが伝えるところによると、Sonyは1998年にソニープレーステーションを5,070万台販売したそうな。(1台\20,000とすると、1兆円だ!!)
 また、同社は、このソフト開発と販売について、コネクティクス社を訴えたという。しかし、訴えられてもコネクティクス社は販売の準備を進めている。Sonyが訴えた理由は、このプレーステーションのエミュレーションソフトが出回ることによりゲームのソフトが違法コピーされて出回ることを怖れているためだという。コネクティクス社は、これに対し海賊版ゲームをプロテクトする機能をバージョン1.1から織り込むとしている。  いろんな側面からの利害打算があるんだなぁ。
 
 高性能に加え、値段も非常に魅力的だ。300MHzが20万円台前半、350MHzが30万円前後、400MHzが40万円前後となっている。しかも本体には標準で128MBRAM、9GBHDDがついている。
 この他、
・4基のPCIボードスペース
・4基のSDRAMスロット
 (最大1GBまでのDRAMが装着できる)
・USBインターフェース
(最高127個のUSB周辺機器の取り付け可能)
・FireWireの標準装備
・10/100BASE-Tインターフェース装備
が挙げられる。
 FireWireは、アップルが1986年に発表し、1996年にマイクロソフトが取り上げ、1997年にSonyを始めとしたビデオメーカが本格参入したもので、簡単なケーブル接続で最大400ビット/秒(50Mバイト/秒)のデジタル転送が可能な機能である。この機能は、1000 x 1000画素 8ビットの画像を1秒間に50枚転送できる性能である。
また、DVD(デジタルビデオディスク)が再生できるCD-ROMトレーやオプションでZipが搭載されている。
iMacと同じようにフロッピードライブは装着されていない。
 
 新型G3Macは、モンスターマシンと呼ぶにふさわしい性能で、パーソナルコンピュータのシェアを確実にアップルに呼び寄せている。5期連続の黒字に加え、今期1/4半期も黒字間違いなしであろう。なにせ、本日発売されたばかりのこれらのG3コンピュータが午後4時の秋葉原で品切れの看板が出されたのだから。
 デザインも非常に斬新だ。このデザインは好みが別れるところだが、他のライバルと違いを際ださせ、マックを強烈に印象づけるに成功している。iMac以来アップルは、かなり思いきった経営戦略をたて、これがことごとく当たっている。
 奇抜なデザインは、取り回しがしずらいものであるが、新型G3Macは取り回しが結構いい。
 ワンタッチでコンピュータの腸(はらわた)があけられ、メモリーやPCIボードの取り付けが非常に簡単にできる構造となっている。
 現行のモデルは初代iMacと同じブルーのスケルトンカラーになっているが、おっつけフルーツカラーのコンピュータが出てくるに違いない。
 秋葉原の売場では、女性客が目立った。日頃通い続けている秋葉原のMac量販店なので昔から客の流れを良く知っているつもりであるが、そのお店に、最近とみに女性客が多くなった。
 これはアップルの明確な経営戦略の表れであろう。使いやすいというのがこれほどのマーケットをもつものかと改めて思い知らされた。もっとも、私自身も使いやすいマック故に、仕事に余暇にと良き伴侶として6年以上も付き合っている。
 また、女性客と店員の間でiMacに交わされている会話でボディカラーの話題がかなり多いことに驚いた。おじさんである私は色なんかどうだっていいじゃないかと思うのだが、見目麗しきお嬢さんは、ほんとに熱っぽく「色をどうしよう」と相談していた。あハァ〜ン、という感じである。たしかにコンピュータにカラーリングして売るというのは、旧来あまりなかった。室内の調度品として考えればコンピュータのカラーも大事なわけかと合点した。
 今回の販売戦略の大きな特徴として、「スマートローン」(手頃な月々の支払い)もヒットしていた。コンピュータ販売フロアのデモ機コーナの隣にスマートローンの受付できる申し込み記入のための大きなテーブルが用意されていた。そこでは、見目麗しき女性が2、3人テーブルに向かって、ローン契約書に必要事項を記入していた。たぶん、月々\3,000程度の支払いで、さらに安くなったiMac(\128,000)を手に入れてインターネットや電子メールをはじめようと言うのだろう。
  一昔前の電話とテレビとアルバムが一緒になったのが今のiMac。女性の部屋にiMacがこぞって置かれるのを想像すると、なにやらこれは「革命」ではないかと思えてしまう。家電量販店は面白くないだろうな、おいしいとこすべてアップルに取られてしまってるから。
 何せ、アップルは昨年8月から12月の4ヶ月間で800,000台のiMacを売ったそうなのだ。全世界で15秒に1台の割合で売れたそうである。もちろん単一モデルでの売上の世界新記録。iMacだけの売上で1600億円程度達成した計算となる。
 こうした、万事上向き傾向にあるアップル社は、メシア(宗教上の救世主)であるスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs、アップルの創設者でカリスマ)によってその教団が率いられている。ほんとに今のアップルには神がかり的なものさえ感じる。
 ここ2年のアップル社は、スティーブ・ジョブズでなければできない思いきった断行で、結果的にアップルを見事蘇(よみがえ)らせてしまった。スティーブ・ジョブズの人となりについてはまた改めて触れることにしたい。
 現代のパーソナル・コンピュータを支配する人物を2人挙げよと言われれば、私は、ビル・ゲイツとこのスティーブ・ジョブズを挙げる。
 ジョブズには、ビル・ゲイツにはないカリスマ性がある。若い頃のジョブズはとにかく手がつけられないほど思いつきを口に出す人間で、独善的に物事を決め、それを動かした。感情の起伏が激しかったという。だが、人前でスピーチすることや人を引きつける立ち回りには非凡な能力を発揮した。
 このカリスマ性はビル・ゲイツには希薄だ。ビル・ゲイツの才能は、大学時代ポーカーで鍛えた“ばくち”の確率理論を使って、繊細に市場に投資し、確実に投資を回収したところだろう。
 ジョブズは、ジョン・スカリー(元アップル社CEO)に追い出され、新しいコンピュータ会社NeXTを作り、再びアップルに舞い戻ってきた。アップルに復帰してすでに2年が立とうとしているがジョブズの肩書きは、CEOではない。しかし、大きな展示会では、必ず派手なパフォーマンスを披露し、マック教信者を心酔させている。
 アップルは現在の所、家庭、個人ユース向けのパーソナルコンピュータで起死回生の神がかり的な逆襲を試みている。だが、目をビジネス分野に向ければ、まだまだDOS/V機の占める割合が高い。Windows98は成功しているとは言い難いが、WindowsNTは着実に地盤を固めワークステーションの分野にじわりじわりと進出しだしている。シリコングラフィクスもSUNもDECもじりじりとシェアをWindowsNTにうばわれている。それほどWindowsNTマシンは、ネットワーク環境に優れ(もっともDOS/V機だが)、高速性能も顕著になっている。
 アップルも、家庭ユースでのシェアを伸ばしてはいるが、サーバーとしてよく使われているWindowsNTとの融合性を取らなければならない。このネットワークはまだまだ未整理だ。Mac OSXがこのいばらの道を切り開くキーであると言われている。聞けばかなりおもしろいOSである。この新OSもきっとアップルと我々マックユーザに新たな福音をもたらし、いばらの道をさらに切り開いてくれるだろう。
 

 

 

●文化(1998.12.30)

 文化についてふっと考えた。
 
 私の思考はいつも色々なところにふらふらと出かけている。それでいて私の思考は絶えず拠り所を求めている。一つのことを上から下から横から前からながめる所がある。それでいて突然、それを投げ出して別のものを見つめ出す。まあ、これは私に限らず他の人でも、幼児でも同じことなのだが、ちょっと違うところは、その投げ出した物にまた再び戻ることである。もちろん二度と戻らないものもあるが、だいたい戻る。
 戻ってくると、前に見えなかったものが見える。気分が変わっていて新しい観点からそのものを見ることができる。
 
 文化についてもそうである。
 文化を最初に深く意識したのは中学2年と記憶する。友人と二人で私の家で歴史の年表を作っていた。学校の掲示板に貼るためボランティアで全紙5、6枚にわたってまとめていた。そのとき、明治から大正にかけて、盛んに文明とか、文化とかデモクラシーという言葉が出てきた。友人と資料を写し書いていたのだがどうも意味が分からなかった。
文化祭、文化鍋、文化包丁、文化住宅
当時は、文化という言葉が流行していた時代で、新しい科学的なことを文化と言っていたように記憶する。
 

 高校になって、自分の思考や好みが京都の文化人に傾倒していくのがわかった。京都大学教授で南極越冬隊長だった西堀栄三郎の人柄に触れ、あんな人になりたいなぁと思うようになったし、京都大学フランス語教授の桑原武雄の書いた人物書評の筆致の巧みさに、あんな風に簡潔に美しくかけたらなぁと思った。京都大学物理学湯川秀樹教授のものの考え方に強烈に引かれたし、進化論で独自の見知を開いた今西錦司教授にも引かれるものがあった。そして日本の文化を論じたらこの人の右に出るものはいない司馬遼太郎氏、バランスのとれた経済評論家堺屋太一氏、鋭い洞察力で文明を論じた京都大学高坂 正堯教授。京都をとりまく関西には独創的な切り口を見せる文化人がきら星の如くにいる。

 
 文化というのは、ある時代や場所で多くの人たちによって支持されそして普及したもの、と解釈すればわかりがいいだろうか。普遍的なものではなく、流行が大規模になってある一定期間継続されれば文化になるようである。その期間はどのくらいかというと、地域によって異なる。国レベルで言えば30年から50年以上を言うのであろうし、会社なら10年程度、家庭なら5年程度継続すれば文化になろうか。
 
日本の文化の一例をあげる。これは今の日本の風習にはない。しかし、この習わしを通して、日本人は独特の文化を作っていた。
若衆制 ーーー 若衆組、若者組、若連中等とも呼ばれ、時に若衆宿、あるいは単に『やど』ともよばれた。村落における若衆制は、ポリネシア、メラネシア、インドネシアなど太平洋諸島全円に広く存在しているもので中国、朝鮮には存在しない。
若衆達はムラの祭礼を執行する一方、自分の集落の娘たちについては自分たちで彼女らを支配していると思っていた。一種の神聖意識というべき感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのを許さなかった。
かれらは、夜中、気に入ったムラの娘の家の雨戸を開け、ひそかに通じる。一人の娘に複数の若衆が通(かよ)ってくる場合がしばしばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親はだれだと指名する権利があった。
娘に名指しされれば、たとえ出来心であっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれた子が、ときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題がおこることはなかった。
その集落で生まれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落結束の暗黙の要素になっていたようである。
この制は、明治以後大いにすたれた。
若衆組に加入(やど入り、組入り、若者入り)するのは十五歳前後で、妻帯すると、ふつう脱会する。加入の時は、ムラのオトナ制に属する人の紹介が要る。加入には儀式があり、上座に若衆頭が着座し、左右に世話役がすわり、ついで年齢順に、若衆達が居並ぶなかで、さまざまな宣誓をする。
加入すれば、夜は宿で仲間とともに寝るのである。
           ーーー 司馬遼太郎著 - この国のかたち^ - 、文藝春秋
 
 私は、この本のこのトピックを読んでホントにビックリした。なぜなら、このことを全く知らなかったからである。確かに、平安時代に貴族が夜、慕う女性のもとへ通ったという「通い婚制度」があったことは知っていたが、夢物語のような話で現実味に乏しかった。しかし上のトピックは、西日本の地域で成されてきたことなのである。年頃の娘を持つ家では、夜戸のカギを外していたという。地域がまとまって外部からの危険がなければできない風習である。司馬氏の「菜の花の沖」を読むと、淡路島で育った主人公高田嘉兵衛も成人したときに、この若衆宿に入ったという件がある。ちなみに、南方系のしきたりでは、男は成人するまで下帯(フンドシ)はしなかったそうである。嘉兵衛ももちろん小さい頃はフンドシは締めず、そのままだった。たしかに、江戸時代に描かれた子供の絵を見ると、前髪を垂らした少年が金太郎の腹当てはしているが下半身はむき出しになっている。成人になると、前髪を剃り(月代=さかやき)、褌をしめた。そして名前が変わり、決して童らとは遊べなくなった。この風習は、西日本にあって東日本の習わしにないという。
これが文化というものである。
 
婚姻雑話 ーーー 7世紀の大化改新の後、統一国家の成文 大宝律令ができた。この法律の模範は『唐律』であったが、大宝律令に入れなかったものが三つある。
一つは、道教(唐においては国教)、二つ目は、宦官(かんがん)、三つめは同姓不婚(どうせいふこん)であった。これは、受け皿として盛りようもなかった。日本はいわば南方社会で、いとこ結婚精度を大目に見ねば、大混乱してしまう。
たとえば、大宝律令の編纂中に在位していて、その施行の翌年に崩御した持統天皇(女帝)の配偶者(天武天皇)は、いとこどころか叔父にあたる。またこの時代に生きて、後年、元明天皇(女帝)になるひとも、血縁の濃い草壁皇子と婚姻していた。
「韓国ではどうでしょう」と、友人の玄文叔氏に電話できいてみた。「ありえないことです」玄氏はたとえば慶週金氏(けいしゅうきんし=慶州地方の金姓の人々←安藤注)はたとえ百万人をこえるとしても、それはすべて血族だから結婚できない、いとこといえば同姓同本ですから、といった。
           ---- 司馬遼太郎著 - この国のかたち(2) - 、文藝春秋
 
大阪大学溶接工学研究所松縄研の金氏によると、10年に一度特赦が出て同姓でも結婚できる機会があり、どうしても好きになったもの同士はこの時期まで待つという(安藤注)。
 
 日本は、中国や朝鮮からほとんどの文化を取り入れていたかと思ったらどっこい南方の文化も取り入れていたのだ。
そういえば、日本は、纏足(てんそく)という風習も中国から輸入しなかった。
 
 若者に共有する文化、地方に根ざす文化。
茶髪やルーズソックスなどは若者に受け入れられた文化だろう。
食文化で言えば、上方は昆布を中心とした出汁の文化ができ、関東は「かつを出汁」の文化ができた。名古屋は赤味噌の文化を作った。清酒や醤油は元は上方の文化だ、江戸時代の江戸はこれらを生産せずすべて上方から下りてきた「下りもの」であった。価値のあるものを「下りもの」と言い、価値のないものを「下らない」といった。
 
 文化は永遠不変ではない。お祭りに対する文化も、今の若者には引きつける部分が希薄になりつつある。この風潮を哀しいとみるか喜ばしいと見るかは人それぞれである。昔は、それが文化であった。今はまた独自の文化を作り上げている。これが長く続くかどうかはわからない。すたれるかもしれないし長続きするものなのかも知れない。
 「神」についていえば、若者には神々しい神が宿る心がない。神が宿る心のない人間には、決して神は宿らない。たとえ、神がこの世に存在していたとしても。親の愛を感じない子供がいるように。だからイエスは、「(とにかく)信ぜよ、信ずるものは救われる」と説く。救われたいという心が大事なのだ。救われたいという心の持ち主は虐げられた人々に宿る。貧民層、人種差別、身体に障害を持つものはこの心がある。
 今行われている祭事は、みな形骸化された行事になっている。何かしら集まって酒をふるまってワイワイやりたいという文化だけが残り、神が宿ることへの文化は捨てた。
 
 軽佻浮薄な日本の文化の一側面
だから、日本人はなんだってお祭りさわぎにするし、贈り物をする。
クリスマスだって贈り物があるからあれだけ日本人の文化にとけ込んだ。贈り物がなければ絶対輸入されなかった風習だと司馬氏は言い切る。バレンタインだってチョコレートを贈るという行為にすり替えられて定着し、日本の文化になった。お正月はお年玉を贈る。江戸時代から続く商習慣の中元、歳暮の付け届けは国民的行事だ。今はまたハローウィンも輸入しようとしている。これだけ贈り物をする国民も珍しいのではないか。
 
 こだわりの文化
 そうかと思えば、ものへのこだわりも日本独特の文化だ。この文化のおかげで日本の工業製品の品質が向上した。細かいところにまで目を行き渡らせて、きめの細かい壊れない製品や丈夫な製品を作ってきた。これは、かんざしや小道具の細かな芸を愛でる日本人の「目」が転嫁した表れであろう。日本の「職人文化」が形成されていった。日本人は、自分の車に異常に執着する。キズをつけないように神経質になりながら所有し、月に1度はワックスをかけ泥を落とす。その潔癖さは病的なほどだ。
 この文化が生きて、日本の工業製品はあれよあれよという間に世界のトップレベルになってしまった。半導体製品も、非常に高度な技術とこだわりを要求する分野であるが、この生産技術の分野に日本は、東京大学、京都大学をはじめとした超優良な人材を惜しげもなく投入する。欧米ではちょっと考えられない事らしい。ISO9000シリーズを取得しなくても日本には品質を守るという暗黙の不文律のような規則、つまり文化があった。ISO9000は文章化しなければ社会が保てない欧米で発達し、これを形式的でも励行しない限り仲間に入れない風習を作った。仲間外れにされたくない日本はこれに従わざるを得なくなった。ISO9000を取得しても決して品質は向上しない。ISO9000に魂を入れない限り。ISO9000を取得した英国の企業ですさまじく品質の悪い経営をしているのを目の当たりに見ている。
 きれい好きという点では、ヨーロッパ人も清潔好きだ。ドイツ人にいたっては、病原菌(19世紀後半)の発見以前から病的なほどに清潔な衛生文化をもっていた。日本人もきれい好きという点では尋常一様ではない。
 司馬氏は日本人の病的清潔さを「アメリカ素描」の中で、「19世紀から20世紀にかけて、よく働くということで忌み嫌われた日本人が、アメリカ社会でかすかに許容されたのは、清潔好きということだった。清潔好きもまた一つの文化にすぎないのだが、美徳に似たもののようにうけとられた。」と書いている。
 日本の細かい事へのこだわりや、清潔好き、お祭り好きは文化であるから、深い思想に裏付けられている訳ではなく、たんなる集団性癖ととらえた方が話が簡単だ。ドイツにいくと、これに深い思想が加わる。ドイツ人もきれい好きだし細かなこだわりを示すが、こだわりが思索的である。だからこそ、ドイツでは多くの哲学者が輩出されたし、合理的なものの考え方が日本より数段優れている。
 
 文明
 一部の人たちが共有する風習が文化であるのに対し、多くの異民族を経て受け入れられる大きな文化が、文明となる。中国文明も多くの民族の濾過を経て、巨大な統一文化 = 文明を作った。
 現在は、アメリカがその近代文明を形成している。それもおそろしく短い期間で、アメリカ文明を築き上げた。中国文明が何千年の濾過過程を経て文明を築き上げたのに対し、アメリカは200年でそれをやった。アメリカ文明は、アフリカ原住民のリズムであるジャズをアメリカに植え付け、世界に普及させた。マグドナルドも、コーラもジーンズも、バンダナも、コンピュータもアメリカの濾過装置を経て世界に渡った。
 
 何故、こんな文化について思い出したのかというと、今年も師走を迎え、あちこちで、忘年会、クリスマス、宝くじといたるところでお祭りが続き、よくよく日本人は「お祭り好き」なのだと感心したからであった。
 
 
 

●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)

 いささか旧聞に属しているが、今、フォレスト・ガンプを読んでいる。Tom Hanks主演の映画「Forrest Gump」のビデオを購入し、英語の勉強がてら何度も見る内、原作でも読んでみようと思い立った。
私の英語のドタバタ向上記は、AnfoWorld別館の「英語の話はあのねのね」を参照してほしい。
英語の不断の向上を自分の題目に上げていながら、なぜか読んだ本は、小川敏子訳の講談社から出されている邦訳本であった。 ・・・ 何のことはない、行きつけの図書館で何気なく見つけたので読んで見ようと思い立ったのである。
 原作が、映画とかなり違っていたのにはいささか驚いた。だが、原作もそれはそれで面白かった。映画と違うところは、
・フォレストは、背筋が曲がり、足に障害を持つ少年ではなく、屈強の大男だった。
・母親は、アラバマの大きな家で生涯金に不自由なく暮らしたのではなく、実際は修道院暮らしだった。
・映画のモチーフ「人生はチョコレート箱の中のチョコレート・・・」は原作にない。
・映画では、プレスリー、ジョンソン、ケネディ、ジョン・レノンなど有名人とフォレストを次々と対面させているが、原作はジョンソン大統領(と毛沢東)、それにラケル・ウェルチだけ。
・原作のフォレストは、ハーモニカを吹くのが名人、また、突拍子もなく数学(数式)が秀でている、また、チェスの名手。
・だが、所詮 IQ70 なのがこの小説のテーマで、いたる所で低能ぶりを発揮する。低脳ではあるが、彼の良い一面を行く先々で発揮し脚光を浴びる。が、必ず大きなどんでん返しがあり、周りの者に愛想をつかされる。
・大の親友ババ(邦訳はバッバ)は、軍隊で知り合ったのではなく、大学時代のフットボール寮で一緒だった。
・映画では恋人のジェニー・カランがマリファナを吸っていたが、原作ではフォレストが溺れた。
・巨漢193cmをいかして大学のフットボールの選手にはなったが、映画のようにすがすがしいストーリではない。大学を卒業していない。いくところがないので軍隊に追いやられた。米国政府は、ベトナム戦争のヒーローとしてフォレストを祭り上げたが、軍服を着る(彼にはこれしか着る物がない)フォレストはいたるところで米国国民の反感を買う。それで一悶着を起こしブタ箱に何度も入る。
・卓球では、ある程度頭角を表し中国まででかけ、親善試合で善戦する。毛沢東が沐浴中、川で溺れかけたのを助け中国で英雄視される件あたりから、ホントかいな、と眉唾っぽくなってくる。映画にはこのシーンは出てこない。
・特異まれな才能を見込まれて、宇宙飛行士になって宇宙へ出る。ここまでくると、これはかなりウソだな、と思えてくる。宇宙から帰ってきてアフリカに着陸し土着民族に捕らえられるところはドタバタで、読んでいて飽きる。物語の前半と色調が違う。あまりにフィクションっぽくて感情移入できない。これは映画に出てこない。
・マラソンマンとして全米を走り回るシーンは映画だけで原作にはない。
・ジェニーに子供ができ、それは、フォレストの子供。だが、ジェニーは再婚して夫がいる。映画は、子供を一人で育てていて、最後に彼と一緒になるが母親同様、先に死んでしまう。残された息子と父親がアラバマの大きな家で暮らすのが映画のストーリだが、原作のストーリはかなり違う終わり方をしている。フォレストは、エビ事業で財産を成した後、その財産は目もくれず、宇宙旅行で知り合ったチンパンジー(名前はスー)とハーモニカをもって風来坊をする。その風来の先で、結婚して静かな生活をしているジェニーに偶然会うというストーリである。
 
 こうしてみると映画と原作ではかなり違う。これだけ違ってよく作者Winston Groomが承諾した物だと感心してしまう。両者の色調も違う。原作はもっとフォレストを惨めに書いている。ホントにあきれるぐらいスローモーで、読者の多くが彼にある程度愛想をつかしてしまうだろう。だけども彼はひたむきなため、作中の人たちはフォレストを見放してしまうが、読者は、最終的に彼はいい奴だ、彼の存在を認めようじゃないかと言う気持ちになる。また、どんなに低能でも人より秀でているところが必ずある、という作者の訴えも見て取れる。
 映画では、Tom Hanks演じるフォレストは、観客を100%見方に引き寄せてしまう。こんな奴だったら友達になりたいよ、と思わせてしまう。映画のフォレストは、マリファナは吸わないし、男としてのお行儀もいいし、ボイラーを爆発させないし、大学は無事卒業するし、お金はいっぱい貯まるし・・・。徹底してトム・ハンクスのフォレスト・ガンプ賛歌である。
 
 映画があまりにリアルに制作されているので、ホントかなと思ってしまう。ソモソモその映画を見て、原作に興味を覚え、フォレストは実在の人物かなという興味で読んだ。読むと結構それらしい事が書いているので、フォレストって実在するんだなぁ、まだ生きていれば会ってみたいなぁ、と思ってしまう。
 
 フォレスト・ガンプの邦訳文を読んでいて、関連するようなコンテンツ(記事・内容)がないかとインターネット(Goo 経由)で探していたところ、私以上にフォレスト・ガンプに興味を持ち、しかも邦訳文と原文を読まれている人に出会った。
 この方は、鹿児島大学の医学部で精神関係の研究をされている先生であった。ホームページを読むと、いきなりフォレスト・ガンプは自閉症だった、と書かれてあった。そんなことは気にも留めなかったのでいささかビックリした。
 読んでいくとかなり説得力があり、それに、先生が英語が堪能なのにビックリした。私が英語の原文を読んでも、以下のことなど気がつかなかったに違いない。
 

フォレストガンプは自閉症だった。鹿児島大学医学部のIjichi先生のホームページ

 http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/jyajya.html
 http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/hon/gump.html
 先生のホームページから引用:
「原作を読んでみると,最初の第1〜2章は自閉症者が自分の生い立ちを記録した手記か自伝のようで,私たちにとってはフィクションらしいところが少しも見当たりません.馬鹿者(idiot)の概念にこだわっている傾向が最初のページからでてきており,一貫してみられる同じパターンのスペルミス(supposedがsposed,exceptがcept,helpがhep,allがole,whileがwile,askedがaxed,など)は,主に発音の影響を強く受けています.架空の人物フォレストが自分のことを語っているという設定ですので,IQが約70の人のスペルミスをリアルに創作しているという解釈が一般的でしょうが,全体を読み終えてみてもう一つの可能性を強く感じました.「フォレストの原形となる自閉症者がやはり存在していて,少なくとも学生時代までのストーリーは,その自閉症者の手記を元に書かれているのでは?」という可能性です. 」

 

 映画フォレスト・ガンプでは、主演のTom Hanksが非常に好演していた(彼はホントに頭のいい役者で、フォレストを演ずるとき、どういう話し方をすればIQ70のフォレストになれるか一生懸命勉強し練習したそうだ)。だから私の心の中に、Tom Hanksという人はホントはフォレストのような人ではないかと今でも錯覚してしまう。また映画が実にきれいに仕上げられていて(アラバマの生家とそこに住むお母さんや、どんどん成功していく主人公など)、とてもさわやかな気持ちにさせる。それに特殊効果撮影も手伝って、この映画の内容がホントに実在したかのような錯覚に落とし入れてしまう。
 この映画を作るにあたって監督のRobert Zemeckis(ロバート・ゼメキス)は、
馬鹿だバカだとばかにしては行けない。人それぞれには良いところがあり、素直に生きれば素晴らしい人生が待ち受けている
と教えている。
 映画の主人公フォレストは、最愛の母と妻を亡くしてしまい、最終的に一粒種の息子だけが残る。息子の面倒を彼が見て学校に送るわけだが、このシーンが自分にとっては妙にジンと来る。
愛される立場から愛する立場へ。
 母の手を引かれて行ったフォレストの学校風景と、父親フォレストがその息子を学校に送るシーンが、息子を持つ私の(そして、母親に引かれていった学校のことを思い出す私の)消えゆく記憶を蘇らせる。
 この最後のテーマと最初のシーンをダブらせて鳥の羽を飛ばしながら俯瞰撮影をする場面は、やさしい音楽も手伝って妙に郷愁をそそる。
 鹿児島大学のIjichi先生も、人間の本質的な所の研究をされていらっしゃるが、先生の切り口を拝見させていただき、再度この作品を思うにつけ、人間の本質的なところを少し見せてもらったような気がしている。
 
 

 

●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)

 マイクロソフトの勢いがすごい(今に始まったことではないが)。
 もっとも、これを書いている今、日本のマイクロソフト社は自社ソフトの販売で不当な抱き合わせ販売を行ったとの非を認めた。
また、11月24日の朝日新聞朝刊1面にネットスケープ社が米国AOL社(America On Line)に買収されることが濃厚になった旨の記事が出ていた。
http://www.asahi.com/flash/fbusiness.html#fbusiness_473
記事によると、Netscape社のシェアがマイクロソフト社のInternet Explorer(IE)に圧されシェアが90%から60%に落ち込み、MSN(マイクロソフトネットワーク)社とインターネットビジネスで激しく争っているAOL社と利害が一致しての事だという。当初は業務提携だったがネットスケープ社の収益が悪化し買収ということになったのだそうだ。
  最近のMacintoshに組み込まれているブラウザはマイクロソフト社のインターネットイクスプローラ(Internet Explorer)が中心だ。このブラウザは実に良くできているがお節介さもハンパじゃない。
 マイクロソフトと言えば「WORD」に代表されるオフィス用ソフトが有名である。最近、 Macintosh 用にWindows95/98と完全互換ができるOffice98が発売された。このソフトのおかげで Macintosh ユーザも業界標準(というよりも世界標準)である「WORD」が大手を振って使えるようになった。しかし、このWORDは、マックファンの間ではすこぶる人気が悪い。このWORDは重い。ホントに重い。ちょっとしたレポートを仕上げたいだけなのにお節介でちょこまかチョコマカ指図する。だから、私の場合、まともにWORDは使わない。使うのは、Windowsで書かれた文書を開いて読む場合と、Windowsを使用している仲間に正式なレポートをメールで添付する時だけである。ちなみに私のワープロは、エディタソフトのJeditである。これはすこぶる快調。Windowsへの受け渡しも自由。ちょっと凝ったことをするには発売中止になったマックライトIIを使っている。これは使いやすい。
 4年前、国際学会に論文を投稿するのに、 Macintosh によるWORD5.0を使った。WORDのスペルチェックと構文考察が参考になると考えたからである。当時は構文解釈の訂正提示が面白く、また構文のレベル評価(自分の書いた英語がどんくらいのレベルにあるかを判断してくれる)も目新しく愉しんで使った。
 しかし、私が信頼を寄せているアメリカ人学者の論文を打ち込んで評価させたところ、WORDは無機質に構文の訂正提示を行った。この一件以来、このソフトから遠ざかってしまった。
 
 さて、本文の主題のIE(インターネットイクスプローラ)である。インターネットブラウザは大きく分けて2つある。ネットスケープ社のナビゲータ(Navigator)とマイクロソフト社のイクスプローラ(IE)である。こんなに全世界に普及しているインターネットも、この2社がすべてを牛耳っていると思うとビジネスの大きさを痛感する。他のメーカはなぜ出来なのだろうか思ってしまう。
 ネットスケープ社がインターネットブラウザを本格的に発売するのが1994年10月。遅れをとること1年、Windows95に曲がりなりのIEをのせ、1年後、IE3.0が正式リリースされた。当初は圧倒的にナビゲータが優勢で90%以上のシェアを誇っていたが、3年を経た現在、IE4.0はナビゲータを逆転してしまった。
  実はこの両者、もとを辿ると同じブラウザソフト(イリノイ大学のモザイク)であったのをご存じだろうか。
確かに、ナビゲータは、「モザイク」の使用許可を巡って先行開発元のイリノイ大学ともめ、そのためモザイクを凌駕する「モジラ」(モザイクを焼き殺すゴジラをもじったもの)と名前を変え、コーディングもし直して、1994年にネットスケープナビゲータへと進化する。
 一方のIEも、モトを辿るとモザイクである。このモザイクは、イリノイ大学で開発された後、Spyglass社に販売権が移され販売されていた。スパイグラス社はイリノイ大学を出た人たちで作られた会社で同社にはモザイクの開発に携わった1人も勤めていた。インターネットで遅れをとったマイクロソフトがスパイグラス社に働きかけこのソフトの使用権を買い取ったのである。そして、マイクロソフトの優秀な知能と財力をつぎ込んで瞬く間にナビゲータを凌駕するソフトに仕立て上げてしまった。
 
【ネットスケープ社の先見と成功】
 1994年5月、ジム・クラークは12年前の1982年にシリコン・グラフィックス社を創立した時(スタンフォード大学の若者)とまったく同様に、七人の若者たち(この場合はイリノイ大学出身の若者)と新しい会社を旗揚げした。そして、シリコンバレーに、マーク・アンドリーセンを中心とするイリノイ大学でモザイクを開発した若者たちがやって来た。新しい会社の名前はずばり「モザイク・コミュニケーションズ社」。モザイクというインターネットブラウザソフトを作り上げた若者たちの会社であるというメッセージが、ストレートに込められていた。
1994年10月 最初のブラウザソフトモザイク・コミュニケーションズ社製「モジラ・バージョン0.9」をリリースした。
 半年間でここまでたどり着くまでにジム・クラークは12億円(1000万ドル)もの資材を投じていた。苦労の末、巨額を投じてつくられたソフトウェアであったが、彼らはこれをフロッピーに入れて販売せずに、まず自社にある巨大なサーバー室のコンピュータから、インターネットで世界に向けて無料配布した。NCSA(National Center for Supercomputing Appliocations、イリノイ大学にある国立スーパーコンピュータ応用センター)がモザイクを公開したときとまったく同様である。NCSAは文教予算と寄付で運営されている機関だから無料配布という鷹揚なことができた。ところが、ジム・クラークは利潤を追求するための1企業であるにもかかわらず、大事な飯の種をただでばらまいたのである。完成した製品を無料で配ったことに、世間の人は我が目を疑った。誰もが「ネットスケープの奴らは狂人の集団だ」などと噂した。しかし、彼らの製品はあっという間に世界中に広まり、誰もがモザイクより良いと言って使い始めた。盤石に見えた王者モザイクは、わずか1、2ヶ月でモジラにその地位を奪われてしまった。彼らはこの無料ソフトにちょっとしたからくりを仕掛けた。ソフトには使用契約書を添付し、「このソフトはお試し用である。会社で使う場合にはライセンスを買ってほしい」と。
 時をおかずして、たくさんの会社が彼らのブラズザソフトを使ってくれるようになった。
 ジム・クラークは、インターネット時代にいかに金をもうけるかと言う点について熟考し、新しいビジネスプランを編み出していた。作ったソフトウェアは、インターネットでまずばらまき、獲物が網にかかったところでゆっくり味わっていく。「豚は太らせてから食べる」戦法であった。彼らは、1年半で3800万人のユーザを獲得した。これは従来の物を媒介とした輸送手段では不可能でインターネットを通じて初めて可能になったものだった。
 1995年8月9日ネットスケープ社の株公開の日。1株28ドルで公開された同社株は、取引開始10分後には74ドル75セントまで急上昇した。終値は58ドルであった。同社株全体の評価額は2000億円に達した。資産は二階建てのビルたった一つ。まだ利益らしい利益が出ていない企業の株に、投資家が殺到した。株価はその後もひたすら上昇を続け、1995年の末には1株174ドルにまで達した。
 ネットスケープ社の株公開の2週間後、1995年8月24日にWindows95が発売された。
 
【マイクロソフト社のインターネットへの大きな誤算】
 インターネットがこれほどまでに発展しようとは、実は、ビル・ゲイツは考えても見なかった。MS-DOSのOSで成功した彼は、Windowsでも盤石の寄りを見せて世界制覇に乗り出す。1993年当時、マーク・アンドリーセンらイリノイ大学の学生らが昼夜兼行でインターネットブラウザを開発していたちょうどその時、マイクロソフトのビル・ゲイツは、コンピュータ帝国を築き上げるべく次なるプロジェクトを模索していた。
 しかし、その模索は、インターネットではなかった
 ビル・ゲイツを含め、米国の業界が注目していたのは、情報ハイウェーや対話型テレビ、そして500チャンネルを有すると大々的に宣伝されていたケーブルシステムだった。
 ビル・ゲイツは、情報ハイウェーが同社にとって最大の成長部門になると考え、大きな賭にでていた。1993年、デジタル情報が流れるパイプラインを制御する技術の研究開発に、一億ドル(120億円 = ネットスケープナビゲータ開発の100倍)以上もの巨費を追加投資することを承認した。これは、タイガープロジェクトと呼ばれた。
しかし、ネットスケープの出現で全てが変わった。
タイガープロジェクトを見据えて開発が進めれていたWindows95も大きな方向転換を迫られることになる。
 マイクロソフト社は、1994年からスパイグラス社とコンタクトをはじめる。ネットスケープ社がインターネットでブラウザを無料で配布するまでは、スパイグラス社からのコンタクトに興味を示さずその要求に全く応じなかったのに、手のひらを返すように熱心になりはじめた。早急にインターネットに参入したいとするマイクロソフトと、全ての機能面でネットスケープ社に負けた「モザイク」ブラウザをうまい形で売り抜けたいとするスパイグラス社で急速な歩み寄りがなされる。
マイクロソフトは交渉事では渋い粘り腰を発揮する。ねちっこく相手が根を上げるまで交渉を続ける。最後はマイクロソフトの有利な条件で契約が終わってしまう。
これが、マイクロソフトが他のソフトメーカを買収を通して駆逐し、市場を凌駕できた実力の一側面だ。
 最終的に、このソフトの買収は、非常に買い得な製品となった。なぜなら自前のブラウザを作るには半年から1年かかるが、マイクロソフトはこれを手に入れることにより、次期OSのWindows95に載せることができるからだ。
 双方向テレビプロジェクトの情報ハイウェーを模索し巨額の開発費を投資してきたマイクロソフトも1994年に大きな舵を切った足跡を見て取れる。あまりにも大きな舵取りであった。船体がギシギシと音を立てるような方向転換、市場の優位性を維持するための強引とも言える手口。これらは、結果的には成功してるように思える。
だが、強引な商売が法の目を免れてシロと判定されれば、という条件が残っている。
 
 Windowsコンピュータは、買えばWindows95がついてくるし(なにせ他にはらしいOSがないのだから)、インターネットはマイクロソフトのエクスプローラがついているし、ものを書くにはマイクロソフトのWORDがついている。電子メールを出したければ、マイクロソフトのOUTLOOKがついているし、データをまとめようと思えばマイクロソフトのExcelがついている。画像を取り込もうと思えば、マイクロソフトのPaintshopがある。なんだってマイクロソフトである。それが買ったときからついてくる。それもおまけのソフトではなくていっぱいしに通用するソフトである。
 こんな状況で、誰が新しく金を出して、ネットスケープのナビゲータを買うだろう、誰がワープロの一太郎やWordperfectを買うだろう。誰がExcelを止めてLotusを使うというのだろう。
 首根っこを押さえたリーダが全てを支配しようとしてる。昔、石油の採掘から精製、ガソリンスタンドまで傘下におさめてしまった石油王ロックフェラーが、それはあまりにやりすぎだというので、分割させられた。
 ビル・ゲイツの経営するマイクロソフトも、OS部門とアプリケーション部門は分割しなければ自由な競争が生まれないのは肯ける。だって、新しい発想でソフトを開発しようとしても、すべてマイクロソフトにお伺いを立てなくてはならないし、美味しいソフトなら、ああだこうだ言ってマイクロソフトがもらってしまう。
今、ユニークなソフトは、 Macintosh が育てたアドビ社のフォトショップ、イラストレータやクオーク、それに音楽ソフトだけになっている。これらでも特殊用途といえば特殊用途だ。

 これらの舵取りが正しかったかどうかを、我々マックユーザは複雑な思いでながめることにしよう。

 
【ビル・ゲイツと戦った雄志たち】
●ゲーリー・キルドール: MS-DOSのライバルCP/Mの開発者
●レイモンド・ノーダ: ノベル社のCEO
●アラン・アシュトン: ワードプロセッサ「ワードパーフェクト」社のCEO
●ジム・マンジ: ロータス「1-2-3」のCEO
●フィリップ・カーン: dBASEデータベースのボーランドのCEO
●ビル・ジョイ: サン・マイクロシステムズ社の創設者、インターネット、UNIXとNTで競合
●スティーブ・ジョブズ: アップル社
●マーク・アンドリーセン: ネットスケープ社
●ローレンス・エリソン : オラクルの創業者
●米国司法省: 独占禁止法に目を光らせる
 

 

 

●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)

   9月19日(土)、銀座松屋に星野道夫の写真展を見に行った。木曜日に細君が朝日新聞の夕刊に写真展の記事が載っていたのを目にとめて教えてくれたのである。
 星野道夫氏のことはあまり知らなかった。星野道夫という名前を意識したのは2年前、高校時代からの友人であるAから久しぶりの手紙をもらったのがきっかけだった。そういえば、週刊朝日の後グラビアにアラスカの動物達の写真の特集が組まれていたことがあったことを思い出した。当時の自分は、あれは星野というカメラマンが撮っていたのか、ぐらいの認識だった。友人Aから熱い(厚い)手紙をもらって読んだときも、そういう人もいるのだなという感じしか抱かなかった。米国月刊誌「National Geographic」の1998年1月号に北極グマの特集があり、その中に星野道夫の写真が紹介されていた。友人Aから手紙をもらわなければそのまま気にも止めずそのままになっていたことだろう。その特集には2枚だけ星野道夫の写真が掲載され、他はNorbert Rosing、Glenn Williamsらの写真が掲載されていたからよほど関心がなければ見落としてしまう代物だった。
 その雑誌には、北極グマの知られざる側面がたくさん紹介されていた。曰く
・北極グマは冬期に、30,000平方マイル(200Kmx200Km)の広範囲を徘徊し、冬眠はしない。
・冬眠をせず、極寒の地での体温維持をどのように行っているかはまだわかっていない。
・当然、餌がないため冬期は食が得られない。冬期8ヶ月間、北極クマは絶食する。
 餌は夏期に高カロリーのアザラシやラッコをたらふく食べ皮下脂肪にエネルギーを蓄える。
 どのくらいの量を食べるのかも今のところわかっていない。
 最近になって、北極グマに超小型カメラを取り付け生態活動を監視する試みが始められた。
・時には人里に現れ自動車のラジエータ不凍液を飲んでしまうことがある。これを飲むと死んでしまう。
 北極クマは不凍液がとても好きだという。
・北極グマ体内からおびただしい環境汚染物質(PCB、ダイオキシン、DDT)が検出されている。
 これらはアジア、ヨーロッパ、北米で排出した公害物質を微生物が体内に取り込み、最終的にアザラシ→北極グマへと連鎖される結果だという。
 松屋銀座8Fの催事場で催された星野道夫写真展には非常に多くの人が詰めかけた。老いも若きも、男も女も、たくさんの人がアラスカの自然、星野のカメラファンダーが捕らえた自然を見ようと集まっているように思えた。色合いが実に良く、画像もシャープで、カメラ構図は星野道夫のアラスカの自然に対する情愛を感じさせるものだった。アザラシも、北極クマも人間の表情に似せた作風を作り出している。カメラは、ニコンとマミヤを使用していた。動物はニコンでオーロラや自然はマミヤで撮ったものと思う。フィルムは間違いなくリバーサルフィルムだろう。f200-400mmの長焦点距離を多用し、ザトウクジラの撮影には反射型の長焦点距離(f1,000mmだろうか)レンズも使用していた。会場には、星野が好きだったといわれるアイルランド歌手「ENYA(エンヤ)」の曲が流れていた。インクジェットプリンタ(キャノン)のカタログに使われているアザラシの子供の写真も星野の撮影したものだったことを知った。会場では、テレビ取材を受けた星野の生前のビデオが流れていた。物静かで、瞳の奧がなんとなく哀しく光っている、そんな人物だった。
星野道夫:カメラマン、1952年、千葉県市川市に生まれる。慶応大学卒業後、アラスカにわたる。
アラスカの自然をテーマにした動物たちの新鮮な切り口の写真を撮り続ける。1996年、グリズリーに襲われ43歳で他界。
 この写真展の後、再び友人Aがくれた手紙を読み返した。読み落としていた所や新しい発見があった。彼が私に寄せた「星野道夫」のことを紹介しようと思う。これが、星野道夫を最もよく書き表していると思うから。
 

星野道夫のこと

 
 安藤は、動物写真家の星野道夫を知っているだろうか。アラスカに住み、カリブーやグリズリーの素晴らしい写真を撮っている。いや、撮っていた。
 新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかも知れないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビ取材のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張っていて、そこを襲われた。
 最初、この事を新聞で読んで信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。
 「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」
とテレビのスタッフに言っていたそうだが、その判断が甘かったのか。
 
 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄(名古屋市中区)の丸善で見つけたWWF(野生生物保護基金、最近は名称が変わったらしいが)のカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を頂いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野生動物の姿があった。僕はスケールの大きいしかも悲しげな詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真からも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写し取られていた。
 最近は、西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行ける所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。
 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことで、レンタカーを借り、キャンプ場にテントを張りながら約1週間、アンカレッジ周辺やデナリ(マッキンレー)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。
 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間続いたデナリでもマッキンレー山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったときは少々ジンときた。
 アラスカは本当に広大だ。野生動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てたはるか遠くにゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見る方が本物のアラスカを味わっている気がした。
 
 あのアラスカ行きはわずか1週間であったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。
 そして丁度その頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、その中でまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されたし、第2号からは「イニュニック(エスキモー語で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひしと伝わってくる文章だった。
 僕の手元には5号までしかないので、「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを
 「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちのほうが良かったかな。」
などと言いながら読んでいた。
         (中 略)
 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊後二年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤夏樹(芥川受賞作家)が追悼文を書いている。星野と池澤の繋がりは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」頃からの雑誌を通じての関係から始まったのではないかと思う。その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。
 
 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村に行き、一夏を過ごしたことにあることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだ事だったというのだ。星野がTと書いている友人は、1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の二人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の同じ大学の同じ学科の3年先輩にあたる。
 僕が大学に入学した頃、学部の食堂の前にマロニエの木が植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる話を聞いた。マロニエは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたのであろうが、マロニエの日本名であるベニバナトチノキの名のとおり、薄紅色の花がまだ芽吹いて間もない黄緑色の葉陰に揺れていた。僕は当時珍しかったその花の写真を撮った覚えがあったので、古いアルバムを探してみたら少々色あせてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が出てきた。
 
 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマの中で最も危険なのは、マッキンレー国立公園のクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。
 池澤は書いている。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃を持つと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して十分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」
 「シンラ」の記者によれば、事故の1週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怖まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。
 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は
 「イヤな奴だな」
とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンリーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数カ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。
 
 イヤな感じがあったにもかかわらず、テントで寝ていたのはグループでの仕事で自分の空間が欲しかったからか。そして、どこかに安心感があったからか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。
 
          (中 略)
 
 今の僕の気持ちは、池澤夏樹が週刊朝日に寄せた星野への弔事が代弁してくれる。僕は、これを直接読んでいないのだが、カヌーストの野田知佑が雑誌「BE・PAL」の中で紹介していた。
 「アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、僕の自然観の支えだった。
彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。」

 

 

 

- 1996.10.29 記 -      

 
 
 
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.29)
 いよいよ待ちに待ったiMacの日本登場である。土曜日午後三時、秋葉原界隈のマック量販店では店内の化粧直しも入念に、iMac販売即売会を開催した。
 私がJR秋葉原駅に到着したのは午後2時30分。まず、この界隈で最大のマック店舗面積を誇るLaOXコンピュータMac館に足を運ぶ。週末来、関東地区は台風の影響で大雨にたたられ、おまけに午前中は震度4の地震。今日も雨が心配されたが、店の外はご覧の通り黒山の人だかりだった。このMac館は全5階の販売フロアがあるが各階にデモ用のiMacを並べて来店者に自由に触らせていた。iMacは全部で16台くらいあったろうか。CPUはG3の233MHzなので結構速い。ディスプレー表示もやっとDOS/Vマシン200MHzCPUクラスに搭載されるグラフィックカードに追いついた感じで、滑らかな動画を表示していた。使いやすさは今さら言うまでもない。テレビでも電源と電話線をつなげるだけというコマーシャルを頻繁に流している。
 店の前で列を作って順番待ちをしている客は、事前に予約をした人たちで且つ当日の買う順番用整理券をもらうために並んでいる人たちだった。このビルの裏まで列が作られ販売開始直前で40名程になっていた。一目iMacを見ようと詰めかけた人は圧倒的に若い人たちで、それもデザイナーなど自由業を生業としている人々と見受けられた。土曜日なのでネクタイ姿の人は皆無だった。秋葉原には、このお店の他めぼしい量販店や小売店などを2回、3回と周り、6時まで長居した。このLaOXマック館が最初から最後まで客足が途切れることなく、最後まで購入整理票を記入しているお客が店の受付にいた。
 LaOXマック館の次にソフマップに向かった。ソフマップのマック専用販売ビルはJR秋葉原駅を出て万世橋に向かう中央通りに面した、交通の便の良いところにある。ただ非常に細長いビルで5階の販売フロアを持ってはいるものの1階あたりの面積が細長い。店の外はやはり黒山の人だかり。入り口で整理券を配って狭い店内にむやみに入れさせず、順番に入場させて販売する方法をとっていた。このお店も各階にiMacをおいて自由に触れられるようになっていた。
 次に訪れたのは中央通りを末広町に歩いていった通りの右にあるT-Zone。ここも、店舗が狭いため、整理券を持たない一般の人は完全シャットアウトしていた。店内をかなり改造しiMacの受け渡しをしやすいようにしていた。店の外には人があふれていた。ツクモはiMacを売っているという触れ込みの看板が店の前にあったにもかかわらず、店内(地下1階のみ)にはデモ機もなく、お客もまばらだった。
 石丸電気は、普段は、総合パソコン館3階の一角でマックを販売している。マックの占める面積も同じフロアのWindowsより当然大きくはないのだが、この日は特別なイベントを行うでもなく、デモ機1台をエレベータの近くにおいて客にアピールしている程度だった。LaOXマック館(右写真)やソフマップが注文をひっきりなしに受けているのに比べ、繁盛している感じはなかった。
 店によって取り組み方がまちまちであったが、LaOXコンピュータマック館は、店員一人一人に至るまで客の誘導指示が徹底していて、見ていて気持ちがいいほどテキパキ応対していた。これまで、じり貧だったマックの販売を我慢しながら大きな店舗(コンピュータMac館)を縮小せず維持して、今回こうした大舞台に今までの損失を取り返すように、大きな店舗面積を有効に使って悠々と乗り切っていた(たくさんの客を消化した)感じを受けた。
 今日(8月29日)の朝日新聞では20面と21面両面による全面広告でiMacの発売をアナウンスし、販売しているお店を発表していた。これを見る限り、限られたお店での販売ということらしい。供給が追いつかないための販売制限らしいが、発売前に販売経路を巡ってトラブルがあったようである。お祭りに参加できない小口店舗が寂しげに店を開いていたのは印象的だった。
 これだけフィーバーしていているiMacであるけれど、自分はすぐにも買おうとは考えていない。ゆくゆくはと思うのであるが、私の目下の目標は、300MTG3の購入であり、これにたくさんのRAMメモリとVRAM、ウルトラワイドSCSI、ビデオボードをつけようと考えている。
 iMacの購入に踏み切れない理由の一つに、今まで購入した周辺機器をどうするかという問題がある。iMacの通信手段は100BASEのイーサネットとUSBのポートのみ。イーサネットで環境が組めて2台目を持つのならそれはそれで大いに価値がある。例えばうちの息子がインターネットをやりたくてコンピュータがほしいと言う場合。また、会社においてイーサネットのネットワークのみで使うならばそれも価値がある。私の場合は、会社と自宅を往復し、なおかつモバイルのDuo2300Cを持っているためこれらのコンピュータ間で頻繁にデータ通信を行うとなるとどうしてもSCSI通信による周辺機器を使わざるを得ない。もっともモバイルコンピュータをイーサネット対応にすれば、解決の道が拓けると考えるが。
 iMacが問題となっているのは、フロッピードライブまでそぎ落としてしまったこと。さすがにこの不満の大きさを心配したのか、iMacのデモ機の横には下のようなアナウンス(POP広告)があった。USBポートに接続して1.4MBのフロッピーも120MBのスーパーディスクも読み書きできるPanasonic のSuper Diskの案内である。定価\33,000で予約を受け付けるとあった。3.5インチベースのスーパディスクは次代の標準となるだろうか? CD、DVD、MO、ZIP、JAZ、FDDとメディアが多い中、これらを蹴散らして主導権を握るのは難しいと考える。
日本ならUSBで使えるMOが出ればこれが主導権を握る。これは間違いない。もしくはUSBで使えるCD-ROM及びライター、これも主導権を握る。アメリカならばZIP。イーサネットで直接つなげる周辺機器(MO、HDD、スキャナー)なんて出てくると面白いことになるのだが。
 
 
 さんざん秋葉原界隈を徘徊し、アップルの力を見させてもらった。帰りに念願であった35mmフィルムスキャナー(OLYMPUS ES-10S)を購入して秋葉原を後にした。
 
●8月30日 朝日新聞朝刊7面に掲載されたiMacに関する記事
 アップル「iMac」国内発売  - 新種のリンゴ 味も形も好評
 アップルコンピュータは29日、新鮮なデザインのデスクトップ型パソコンiMac(アイマック)を国内で発売した。マイクロソフトが資本参加を決めた約1年前は経営不振に陥っていたが、新製品の人気は上々。規模の拡大を追わず、的を絞った商品戦略が奏効したようだ。
 iMacは丸みを帯びた半透明なボディーを採用、これまで性能面だけで争われがちだったパソコンの世界にデザインによる競争を持ち込んだ製品と言われる。搭載した中央演算処理装置(CPU)も高性能なうえ、17万8千円と手ごろな価格。日本法人の原田永幸社長は「プロも満足する仕様なのに、一般消費者が求めやすい価格設定をした」と話す。
 発売と同時に各地の量販店前に長い行列ができ、札幌のパソコン店は発表後の約一時間で二百台を売る人気ぶり。既存のパソコン店だけでなく、音楽ファンの取り込みを狙って楽器店にも販路を広げた。15日に発表した事前予約だけで15万台に達し、売り切れ店が続出するなど好評だ。
 アップルは約20機種あった商品群を大幅に見直し、プロ向けのデスクトップとノート、一般向けのデスクトップとノートの四つの分類に的を絞った。経営悪化の要因だった在庫期間を昨年の約12週間から2週間程度に圧縮。マイクロソフトとの提携でマック上で動く応用ソフトの供給が増えたことも寄与した。赤字続きだったが、1997年10月-12月期以降は3・四半期連続で黒字になった。
(新聞に掲載されたカラー写真のコメント:発売記念イベントでiMacの周りに人だかりができた=29日、東京都港区で)

 

 
 
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
 長いこと人間をやっていると、人間の思考形態、行動原理そのものに深く興味をおぼえるようになる。若い頃は、大人達の思考形態がわからなくて、彼らが非常に大きな存在だったが、自分が大人になって昔なじみの友達も大人になると、「あぁ、こういう人間がこういう大人になっていくのだな」と合点することが多くなった。結婚して2つの命を授かり、命の発達過程を目の当たりにし、今まで見えなかったことが見えてくるようになった。
 

 日本は、学歴社会とよく言われる。義務教育と高等教育を通して、学力に重きを置いた教育がなされ、「学歴」という勲章を得ることによって社会生活のシード権を得る仕組みになっている。日本人の80%が農民で、一部の公家を除いて、明治以降、より良い社会的地位を築いていくために人々は、『お金』か、さもなくば差別できる何かを設けて階層化した。その差別化が学歴だったのだ。日本の教育システムは、明治時代手っ取り早く西洋の教育システムを導入して作り上げた。もともと日本人は江戸時代から教育は盛んで寺子屋がたくさんあったが、それは必要最低限の処方的な生活上の智恵(読み書き算盤)であって、ステータスというほどに昇華したものではなかった。江戸時代、徳川家を補佐するブレーンとして昌平坂学問所を設けてエリートを育成した。しかし、これは広く門戸を開けたシステムではなかった。明治時代になると、官僚を育てる教育機関が必要となり東京帝国大学が設立された。

 

 人間の知恵が重きを置いていなかった当時、体力と腕力に優れたものがリーダシップを取った(戦国時代の武将は字を読むことも書くこともできなかった)。武器を使い始めると、こうしたものを器用に使いこなせ、そうした集団を統率できる人間がリーダになった。頭が良いというのがリーダの一条件となった。頭が良いという判断はいろいろな基準があるので一概に言えないが、知能指数という物差しも、頭の素性を図る上である程度の判断材料にはなる。要するに頭の回転である。物事を認識できる能力、記憶能力、推理能力、類推(るいすい)能力、帰納(きのう)能力、演繹(えんえき)能力などを言う。

知能指数は生まれながらに決まっており生涯大きく変化することはないという。
この事実はショッキングなことだが事実は事実として認めるしかない。
 頭の良さは、身長とか、駆けっこと同じで先天的にある程度決められたものであるので、頭が回転できる範囲で努力しなければならない。
 
 生まれつき足の速い人は、大人になるまで速く、遅い人が突然速くなることはまずあり得ない。速い、遅いは個体差によるもので、運動能力に優れた人(脚力があって筋肉を速く収縮でき、体全体を速やかに前進できる人)が速く走る。これは誰でも認めることであろう。私は小さいころから駆けっこが苦手であった。上背がなかったこともあり背の大きな同級生に比べるとかなりハンディがあった。40名ほどのクラスでの徒競走は遅い方の上だった。背の小さいことより足の遅いことの方のコンプレックスが相当なものであった。私の親父は身長が大きく(大正生まれで175cm)、足も速かったと聞く。私は鈍足で、それがとても辛かった。運動会当日が憂鬱であった。しかし、長距離走は得意であった。小学生の時、中学生と混じって長距離の駆けっこをして上位に入ってほめられたことがある。これは相当うれしくて自信につながった。小学校6年の時には町内会の長距離走で1番になった。物事に集中すれば結果はある程度見えてくるな、とその時そう思った。身体的ハンディキャップも努力すればある程度克服できると痛感した。それが自信につながって、中くらいの上程度だった学業が中学時代には上の上になった。成績が上がったのは、もともとある程度知能が発達していたからだろうと今になって思う。4歳当時は非常におしゃべりで大人でも言い負かしていたと言うから言語に関しては相当知能指数が高かったものと思う。たぶん私の場合、言語によって知能が育まれたと考える。そしてその知能がいろいろな方面に発展したんだろうと思う。知能(頭の血のめぐり)はあっても努力して積み重ねないと実力はつかない。この年になると、学歴ではなく、その人の知能がどの程度あるかがわかるようになる。その持って生まれた知能がどの程度自己研磨されたかも大体わかるようになってきた。
 
    『集中力と持続力』、これが私の一番好きな言葉だ。
 
 知能のある人は興味が湯水の如くあふれるから瞬時にいろいろな観点から物事を見ることができる、物事に対して集中できる能力をもっている。その集中力を途切れることなく続けていけるのが実力となる。
    実力 = 集中力 x 持続力
 この式は、物理で言うところの、速度 = 加速度 x 時間、 移動距離 = 速度 x 時間、に何となく似ている。
 知能があって十分な学歴がないと当人はかなり落ち込む。挫折する。劣等感にさいなまされる。社会的な犯罪や不良のボスはこうした知能の高い挫折した人間が多いのではないかと考える。また、学歴とは関係ないプロスポーツの一流選手も、相当知能が高く、且つ運動能力も高いと思う。
 知能があって社会的に認められない人間は、何らかの形で認められたいと思うようになる。出来得ればそれは社会が認めるような前向きなことであって欲しいのだが、多くは反社会的なことで名を成してしまう。
知能は、身長や駆けっこと同じく、先天的なことなのであまり無理をしてはいけない、させてはいけない、それを息子達に無理強いをさせてはいけない。だからといって努力を怠り、怠け者にしてしまって良いわけではない。できる範囲で努力をして人生を楽しませればそれでよい。普通の人が1時間でできることは、たいてい2時間もしくは3時間かければできるだろう。1/3の知能しかなければ3倍働けばよいのだ。普通の人より2倍も知能がいい人は、大抵2倍は働かない、1/2しか働かない。まれに4倍くらいの知能を持っていて普通の人より3倍くらい働く人がいる。だが、こういう人たちは、多くの場合12倍の見返りはない。自分自身の納得とプライド、生き様で生きている。金銭的、社会的な見返りがなく、納得できなければ納得できるレベルに落として人生を送る。
 知能指数に関して以下の参考文献がある。
 
IQ (知能指数)
 京都大学の学生は見事にIQで輪切りにされていて、その90%以上がIQ140台です。残りの10%の半数はIQ130台で、半数がIQ150以上です。
 IQ130台は200、300人に一人の割でしかいませんので、公立小学校のトップの知能です。実社会でも頭の切れる人で通るはずですが、京大の学生に混じると、ひどく間がぬけて見えるから妙です。
IQ140台は、千人に一人くらいですから、小学校では全校に一人しかいない大秀才ですが、それが京大に入ると平均的学生にしかすぎません。
 IQ150以上ともなると、一万人に一人ですから、同じ年に生まれた全国の子供たちの中から探しても、二百人もいない計算になります。このクラスになると、京大でもできる学生で通ります。
 一般にIQは生まれたときに決まっていて、生涯不変と考えられています。IQ120に生まれたら、小学校ではクラスで一番ですが、京大には間違っても入れません。IQ130で学年で一番なら京大に入れますが、落ちこぼれ学生になるだけです。IQ130の京大の学生がみるみるIQ150以上になって、クラスのトップになったという例は、まだ一度も見たことがありません。二十歳くらいになると、たしかにIQは固定化して、モーロクしないかぎり、生涯不変のように思えます。
 理論的教育で子供のIQを高くすることができることには、りっぱな医学的根拠があります。大脳生理学によると、脳ミソはオマンジュウのように二層になっていて、アンコの部分は呼吸とか消化作用といった、無意識でやる人体の作用をコントロールしています。オマンジュウの皮は大脳古皮質といって、動物や、人間でも赤ん坊のときは、この二層だけで脳ミソができています。古皮質の作用は、早く言えば暗記力で、犬でもかなりのことを覚えるし、小さい子供ほど暗記がうまいのは、すでに古皮質が生まれたときに完成しているからです。
ところが、人間だけは生まれるとすぐに古皮質の上に、もう一層のオマンジュウの皮が発達しはじめて、三重になるのです。この外側の皮が大脳新皮質で、だいたい十歳くらいでこれが完成すると、脳の細胞数は150億くらいになるのです。この細胞はシナプス(細胞結合)といって、10歳から15歳の間に形成されほぼ大人の脳として完成します。そしてこの10歳から15歳までのシナプス形成期に、子供を暗記ではなく、論理的に教育するとシナプスが増加してIQが上昇することがりっぱに証明されています。
 ー わが子といどむ中学入試 - 算数の巻 - 小野博通 1988.10.21 初版 筑摩書房
1941年、神戸生まれ、京都大学医学部卒、外科学専攻、医学博士
 
 【知能指数 IQについて】 胡説綜合科学研究所
http://www.cc.rim.or.jp/~tachi/simple/simple-9.html
司:センセ、前回の解答で「IQ」という言葉が出てきましたが、よく聞く割にはどういうものかよく分かりません。教えてください。
胡:「IQ」とはIntelligence Quotient の略で、日本語では「知能指数」といいます。これは知能の発達の程度を数値化したものですが、算出に用いた式は単純で、
   精神年齢(知能年齢)/実年齢 × 100
で表されます。例を挙げると、実際の年齢が10才で、12才程度の知能があるとすれば、IQは「120」です。また、8才程度の知能であれば「80」となります。
 精神年齢(知能年齢)は実年齢の人の平均をとります。
 ところで、式を見て考えればお分かりになると思いますが、実年齢が上がるに連れて高いIQをとることは難しくなりますし、また大人になってしまうと年齢が上がることと知能が発達することがイコールではなくなりますね。
 例えば、(式の上からは)1才の子がIQ200をとるためには2才程度の知能があればいいですが、20才の人がIQ200をとるには40才程度の知能がなければなりません。ですが、20才の人と40才の人を較べても、知能の発達程度に差があるでしょうか?
 ちなみに、IQを計るのは通常は15才までです。つまり、中学生までですね。実際に私も小学生のときに、学校で何度か知能検査を受けさせられた覚えがあります。結果はどうも親には知らせていたようですよ。
司:そういえば私も受けた覚えが。親は自分の子供のIQを知っているのですか? なんか嫌だなぁ。
胡:最近は「IQでは人は計れない」といって、”心の知能指数”なるものを提唱している人がおります。たしかEQといいましたね。しかし、「指数」といって数値を出し、人を計ろうとしているところが既