英語の話は あのねのね。(更新:2010.01.14) (1998.3.15書き始め)
 
目次
●英語と親しむには
●英語へのアプローチの仕方
●好きなことに英語でアプローチ
●僕の中学の話
●僕の高校時代の英語の話
●僕の大学時代の英語の話
●僕の社会人時代の英語の話
●英語学校の話
●初めての海外旅行
 
   ・出発
   ・ボストン空港にて
   ・May I help you?
   ・キャンパスにて
   ・地下鉄
   ・Boston Sceince Museum
   ・セミナー
   ・日常会話
 
●アメリカとイギリス  (2000.07.01)(2001.04.01追記)
●日本人の英語と英語圏の英語 (2007.06.14)
●僕の英語の参考書 (1998.10.25) (2007.06.15追記)
●英語のいろは (1998.8.01)
●アメリカに行けば赤ちゃんだって (1998.8.23)
●英語を話せないアメリカ人 (1998.11.29) 
●書く、読む、話す (1999.01.25)
●英語上達三ヶ条 (1999.01.25)
 
おまけ
●ロンドン・パリ  (2000.07.01)
●アメリカ東部の都市  (2007.06.14)
 
 

 
●英語と親しむには
 
●英語へのアプローチの仕方  (2007.11.25書き改め)
 英語がカッコよく話せたらなぁ、と誰しも思う。思うこととできることは全く別次元で、この次元を取り持つのは、本人の才能とやる気にかかっている。
 才能がある人はうらやましいと思う。比較的努力をせずに身についてしまうのだから。しかし、英語を習得するのは、プロ野球の一軍の選手になることでもなければ、オリンピックで金メダルを取るほどの難しいことでもない。英国に行けば3才の坊やだって英語を話しているではないか。肝心なことは自分の道具として英語が身につけることであり、自分の能力に応じて英語が話せればよい。米国人だってそうしている。日本人だって能力に応じて日本語を話している。所詮、自分の考えている世界以上のことは英語に置き換えられないのだ。英語がある程度話せるようになると、今度はそれを使って何を相手に伝えるのかが問われる。「おなかがすいた」、「疲れた」などの基本的会話は比較的簡単に憶えられる。問題はそれからである。
 母国語(日本語)で何不自由なく暮らしている者にとっての英語で話さなくてはならない環境は、右利きの人が左手でものを扱うのと同じで不自由この上ない。思っていること、言いたいことのこれっぽっちも口に出せない。また、向こうの言っている話の1割も聞き取れない。
 そんな私が、なんとか不自由なく英語を聞き取って話せるようになろうと10才より英語にアプローチしてきた話をしてみようと思う。
 
●好きなことに英語でアプローチ
 「好きこそものの上手」と言われているように、チャレンジしてものにするには好きにならなければ始まらない。米国大リーグ評論家のパンチョ伊藤(故人)、D.Jの小林克也、CNNキャスター小西克也、大橋巨泉各氏らの英語のアプローチを見てみると、英語を通じて好きなものと接したいという好奇心が非常に旺盛であることがうかがえる。パンチョさんは大リーガの野球中継放送を雑音の多い短波ラジオを耳をくっつけるようにして聞いていたと言うし、大橋巨泉さんも戦後のジャズ音楽を進駐軍の流すラジオで聞いて育ったと言っている。彼らは、英語そのものではなく、アメリカ文化の一断面に非常に興味を持ち英会話が堪能になっていった。
 日本語でも同じだろう。国語そのものはそれほど興味なくても動物や、生物、城郭、クルマ、恋愛などに興味を覚え、その延長として言語も覚えていく。言語の発達過程は日本語でも英語でも全く同じだと思う。人と接することが多い人はそれだけ話す技術が向上するし、毎日テレビしか見ていない子どもの会話は、テレビからの影響を多分に受ける。人と話をしていると、言葉の端々にその人のバックグランドが見て取れる。相手の話す内容から、話す人物がどういった物事や人物、生き方に影響されて惹かれているかがわかる。こうした日本語の発達過程を見るとき、英語の発達過程をシミュレーションすることができる。
 つまり、日本語を母国語として日本で住んでいる日本人は、日本語以上に英語は上達しない。英語が上達できるかどうかは、今使っている日本語がいかにうまく話せているかどうかにかかっている。おしゃべりな人は英語でもおしゃべりになる。無口な人は英語でも無口だ。話すことが嫌いで、本を読むことが好きな人は、英語でも同じパターンになるだろう。思考力が優れている人は思考力ある英語を身につける。おしゃべりなだけの日本人はおしゃべりなだけの英語しか身につけない。
 
 英語をしゃべれるようにするには日本語に一時おさらばしなければならない。頭で英語で反応しなければならないのである。日本語の思考で考えてそれを英語に変換していたのではとてもネィティブと差しの勝負はできない。脳の中で日本語に変換する英語は、コンピュータで言うところのエミュレートモード(emulate mode = 逐次変換)になって、反応がすごく遅くなる。頭でいちいち日本語から英語に置き換えていたのでは、会話に時間がかかりすぎてしまう。英語学校に通ったときまず言われたのが、英語で考えよ、だった。
 
 【英語そのものが好きになれなかったら義務でするしかない】
 私の歩んできた周りの仲間達は、仕事柄外国人に接することが多く、好むと好まざるとに関わらず英語と相手をしなければならない。英語が得意でない人にとって英語で話せということは、右利きの人間に左で物を扱えというのと同じである。どうしても慣れ親しんだ利き腕に頼ってしまう。右手なら簡単にできることも左手では不自由でイライラする。これが日本語と英語の関係だ。ならばいっそ右腕をへし折ってしまえ。会社にスノーボードで右手を骨折して左手で1ヶ月半過ごした若者がいた。仕事は遅くなったが結構処理をしていた。なければそれなりにこなすものである。というわけで、英語の上達の近道は、1年間ほどアメリカ、それも東部に単身赴任させること、これに尽きる。精神的に滅入ってしまう精神的に線の細い者は別として、たいがいこれで一皮むける。自分自身振り返って見ても、英語を話すことができるようになったのは、26年前(1983年)に単身ボストン、ロスアンゼルス、ソルトレィクに向かって40日間ほど一人旅をした時からと記憶する。
 
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●僕の中学の話
 日本の英語は、どうも学問であるらしい。中学から高校までの私の受けた教育での英語は学問であった。たしかに学問である。国語だって学問じゃないか。しかし、日常で話す言葉は、学問以前に必需品であるはずだ。国語はつまらなくても日本語は話している。英語だって同じはずだろう。しかし、英語は誰に聞いてもつまらないという。だが日常に接する英語だったら面白いハズだ。だから日常英会話は学問としてとらえてはいけない。日本人が話す日本語を録音機に録音して一字一句書き出して文書にしてみると、とても変な日本語になる。文法がめちゃめちゃだ。英語でも同じ。それでも会話は通用するのだ。映画のシナリオを読んでみると、デタラメな文法の会話に驚く。逆に理路整然とした会話では駄目なのである。現実の会話にそういう理路整然とした会話は希有である。社会にはいろんな人がいる。日常的なことを役者が演じて映画が出来上がる。言葉がたどたどしくて結構間違える会話を役者が演じて、見る人はその人が誰だかわかるのである。ドイツっぽい英語を話すゲリラのリーダや、わかりずらいフランス語訛りの男性や、中国語訛りの華僑、そして『r』と『l』、『b』と『v』の発音を間違える日本人。そうした多様な人々が集まってアメリカは、いや、世界は形作られて動いている。
 
 バスケットボールでも、ヨットでも、音楽でも英語はあふれている。若者はこれらに実に良く順応している。だが、学校で習う英語は学問だ。aとan、the、thisなどの区別を徹底的に教える。大好きな野球ゲームを前にして1時間も2時間も延々野球の基礎をしゃべらされたらたまらない。これと同じだ。まずキャッチボールをしてバットを振り回してそれから理論的はこうこうだ、とやらないと興味は半減する。理論が好きなやつは理論好きに任せておけばよい。要は英語が使えるかどうかだ。
 
 私が英語に興味を持ったのはたしか小学校高学年だったような記憶がある。好きだったテレビマンガ「鉄腕アトム」のスポンサーが「Meiji」で、「Atom」は原子。好きだったお菓子が「Ice Cream」。こんな英語が日常に流れ出し英語で書くのがなんとなく楽しかった思い出がある。兄貴から絵入りの英単語ブックをもらって、window だの river だの sky だのを喜んで覚えた記憶がある。General Motors だの NASA だの Apollo などの名詞はすっと記憶できたが、be動詞だの前置詞だの助動詞、抽象名詞、関係代名詞になってくると興味が薄れた。まさしく学問になった。こうなってくると丸ごと覚えるしかなかった。通常は、この辺で大体の者が挫折する。しかし、自分は当時がんばり屋だったのでこれらの「学問」を難なくクリアした。成績が良いから中学の英語は楽しかった。もちろん田舎の中学での話だから教科書しか勉強しない。英語は楽しいというより成績が良かったから楽しかったと言った方が正しいかも知れない。
 
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●僕の高校時代の英語の話
 田舎の中学から都会の高校に入った自分に強烈な劣等意識が襲った。あまりにもレベルが違うのである。自分は中学教科書に出てくる単語は全て覚えて来ているのに、都会の中学から入ったヤツらはそれ以上の単語を知っていた。単語どころか熟語も慣用句も知っていた。発音もすばらしくうまかった。特に同じクラスの女子生徒の発音は自分の脳天がかち割られるほどにきれいで、相当なショックを受けた。英語の時間に、先生から指名を受け教科書を読まされるのが辛かった。そんな中で私の英語を助けてくれたのが友人『I』であった。『I』は、我々の学年でトップの成績で、特に英語がずば抜けて優秀だった。他にも英語が優秀だった者はたくさんいたが『I』は人当たりが良く誰とでも気さくに話し、皆から尊敬を受けていた。彼の話も面白かった。彼は現役で東京大学に進み物理学の博士課程を修めコンピュータメーカの研究所に就職した。『I』はざっくばらんな性格で、彼のもとに行けば何でも懇切丁寧に教えてくれた。頭の回転が速く、その思考に口がついていけないようで、とても早口なのに話が追いつかずドモル癖があった。一つの単語について延々30分以上も話すことができた。もし『I』が気さくな性格でなく排他的な人間だったら、英語ができる人間を蔑視し始めたかも知れない。劣等意識を持つ人間は、必要以上に脅迫観念をつのらせる。
 
 室町時代に日本にやってきたキリスト教が迫害にめげずある程度の布教がなされていったのに、明治以降の布教は上流階級のサロンであった。これでは上層部に広まっても下層部には広まらない。共産主義でも、宗教活動でも力を得ていく集団は一番下層の「怒り」を改革エネルギーに換えていった。そうしなければ改革ができないからである。日本の英語も何となくツンとした存在である。いや、であった。何せ学問だから。
 
 『I』は、こうした凡人の苦労がわかるようでときどき我々のレベルに話題を合わせてくれた。当時、私が知り得た彼の英語の勉強姿勢は、以下のようである。
 
 ・中学時代からすでに高校レベルの参考書、英語辞書、ラジオ番組を使っていた。
 ・問題意識が深いため、英語の学習は義務ではなく喜びであった。
 ・辞書をとにかくよく引いていた
 ・中学時代には学校の先生でさえも彼のレベルに相対できなくなっていた。
  そのくらい本を読み知識を吸収してしまっていた。
 ・当時では珍しく、高校一年生から英会話ができた。
 
  
左写真:高校時代に使用した英語の教科書。
今もときどき取り出して読み直している。 
 
 高校時代の私は、かなりの時間を英語の学習に割り当てたにもかかわらず英語の実力は向上しなかった。同学年のレベルよりわずかに良いくらいで、トップグループに入るにはほど遠かった。ただ、通信添削の増進会(Z会)の英語は面白かった。この添削は1ヶ月に2回、英語の論文を和訳して提出するもので、かなり歯ごたえがあった。この添削は後々社会人になっても原文の論文を読んだり、書物を読んだりする上で精神的支柱となった。仕事で知り合った京都大学のH助教授も彼が高校時代最も熱中したのはこの添削だったと語っておられた。
 
 
 1998年、息子が使っている高校の英語の教科書を見た。我々が習った教科書より、一層米語寄りのカリキュラムになっていた。また、米口語を多用してより現実的な英語(アメリカ英語)を身につけさせているように見えた。息子の使用している教科書は、SANSEIDOの 「The CROWN English Series I」だった。我々のテキストより50%程度厚く、テキスト、写真、図がふんだんに盛り込まれていた。テキストの中には、17年前に我々が学んだ教科書にも載っていたイギリス自然科学者『ダーウィン Charles Darwin』のエピソードがあった。 ガラパゴス島の風景と進化論の着想のエピソードは時代を超えて興味ある題材のようである。また、テキストの内容には、学生から見た視点で書かれたものが多いように思えた。息子の高校2年の教科書には、赤毛のアン、動物たちのsupersense(超能力)、ビートルズ、2001年宇宙の旅、アウサン・スー・チーなどの話題が豊富に載っていた。高校2年にもなるとさすがに歯ごたえがあった。過日、わが愚息とこのリーダーで「赤毛のアン」の読み合わせを行った。小説は、多分に前置詞(on、at、in)を駆使して状況・情景を明確にしようと努めている。こうした前置詞の妙味を味わえるようになると英語が少し分かってくる。
 
「Her chin was resting on her hands and her eyes fixed on the beautiful
pond that lay beyond the west window, and so she was far away in a daydream,
hearing and seeing nothing but her own wonderful visions.」
 
 上記の文は、彼の英語のテキスト『The Crown English Series II』 - 「Anne of Green Gables - L.M. Montogomery」(赤毛のアン)の一節である。孤児院からGreen Gable家に引き取られ、学校に通いだしたAnneが、授業中、授業がつまらなくて窓の外をボゥーと見ているくだりである。両手で頬杖(ほおづえ)ついて、教室の西窓から見えるきれいな池をながめながら自分の世界に浸っている情景である。 resting on、fixed on、lay beyond、far away in、と前置詞が多用されていて、その情景を的確に表している。手の上に顎がちょこんとのっている感じが「resting on」に、授業そっちのけでぱっちりと目を開け西窓を見ているのが「fixed on」に、西窓の向こうにはっきりと横たわる池が「lay beyond」に、自分の世界に没入し現実から遊離したさまが「far away in」にそれぞれ表れている。
 
 
 
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●僕の大学時代の英語の話
 大学時代は、高校時代より英語の勉強をしなかった。教養課程でアイルランドの話を題材にした「ダブリン市民」やヨーロッパの哲学の系譜を扱った「トーマス・アクイナス」や「チャタレイ婦人」などを勉強した。しかし新しい単語が次々と出てきて文章を味わうにはほど遠かった。この過程でも英語は学問であった。大学1年の1年間「News Week」を購読したがさっぱりわからなかった。日本の新聞でも同じであるが、新聞などの記事文は通常の文と違うのである。論文には論文の文体、会話には会話の文体、新聞には新聞の文体、キャッチコピーはまた別の文体が存在するのである。当時、それがわからず、味噌もクソも一緒だった。
 大学三年生になって、知り合いの友人で南山大学の外国語学部英文科に通う友達ができた。彼女は英語を話した。知り合いはイスパニア語を話し、「ベサメ・ムーチョ」を流ちょうに歌った。自分のまわりに英語が話せる同世代の人間ができた。刺激にはなったが会話の方はいっこうにさっぱりで、映画を見に行ってもしゃべってる内容はほとんど聞き取れなかった。当時流行った映画は、「タワーリング・インフェルノ」、「Jaws」、「明日に向かって撃て」だった。
 研究室に入って燃焼工学の勉強(輪講)を原書で行った。が、さっぱりわからなかった。頭の中に燃焼学のバックグランドがないため、キーワードに反応することができなかった。
 
 外国の音楽に関しては、中学時代から高校時代にかけてサイモン&ガーファンクル(Simon & Garfancle)、カーペンターズ(Carpenters)、ジョン・デンバー(John Denver)、ピータ・ポール&マリー(Peter, Paul & Mary)などの音楽をよく聴いた。これは大好きだった。大好きだったから自然と歌詞をそらんじることができた。歌うこともできた。好きが高じてギターを買った。3本も買った。最後のギターは「さだまさし」と同じ高いギターを買った。英語の歌を何度も聞いているうちにおぼろげながら意味が分かってきた。カーペンターズの「Yesterday Once More」や、ジョン・デンバーの「Country Road」、サイモン&ガーファンクルの「Sound of Silence」、「Boxer」、PP&Mの「Puff」、「Cruel War」、「500 Mile」、ビートルズの「Let it be」などは実に詩が良くて英語を親しむ格好の教材だった。
 
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●僕の社会人時代の英語の話
 1978年、大学を卒業して東京に出てきた。私の認識では(少なくともつい最近まで)、東京は人種のるつぼで外国人が非常にたくさんいると思っていた。確かに外国人はいる。少なくとも名古屋よりはいる。だが面白いことに、外国から来た人たちはそうは思っていない。トーキョーは、ホモジーニアス(ホモではない、単一的な民族という意味、日本人が多すぎる)と言うのである。一昨年(1996年)、Oxfordから来た同年代のイギリス人が私にそう語った。ニューヨークやロンドン、パリに比べ、東京は異質だというのである。東京は青森から、大阪から、九州から、足助からいっぱい人が集まるのに、である。東京の中心は、案内に英語の表記があるのに対し、ちょっと足を伸ばして横浜や千葉へ行けば英語の案内は途端にお寒くなるのだそうだ。首都高速の案内も、最近は整備されて来てはいるが、ちょっと前までは英語の表記がなかった。韓国ソウルでは道路標識はハングル文字なので私は運転できない。外国人も東京へ来て、私が韓国で味わったような心境になるのだな、と思った。
 
 日本の文化は、外部からの輸入が多いことは異論の無いところである。遠くには中国から色々なものを輸入した。漢字も輸入した。しかし、発音までは完全に輸入しなかった。記録としての手段、つまり、漢字を輸入し、言葉は、かたくなに「やまと言葉」を守り通した。遠い昔から、中国語に恩恵を属しながら中国語が話せる人が少なかったのは、輸入する言葉は記述語だけという日本固有の文化があったからだと思う。昔から、中国語は話せないが漢詩を書かせれば超一流と呼ばれる日本人が多くいた。
 
  江戸時代も学問書としての蘭語を輸入したが、話し言葉としての普及は見なかった。
 
 明治以降の英語でも同じである。日本人は、ホントに文法にうるさい。英語も書き言葉として輸入し、話す手段としては輸入しなかった。これが教育に連綿と息づいているように思う。学校の先生は、文法、単語、熟語に夢中になり、英語を話す観点から教育して来なかったように思える。間違えた文法表現で書き表すことは「恥」であった。むちゃくちゃな発音で英語を話しても「恥」とは思わないけれど、aとanの違いに対しては全人格を投影した。これが日本人である。フィリピン人やインド人、メキシコ人はいとも簡単に英語を話す。内容はともかくとして話す。日本人は、相当に高等教育を受けた人でも、貝のように固く唇を閉ざす。
 
 初めて日本語以外の言語で差しで外国人とつきあったことを覚えている。入社1年目(1978年)の10月、インドから一人の研修生が来社した。インドにあるその会社は、高速度カメラと解析装置を購入し、その装置の現地研修のため若いエンジニアを2週間ほど日本に派遣させたのである。私の担当は、彼の一般的な面倒と写真計測の序論を1日にわたって講義することだった。助けは誰もいない。二人で会議室に入りテキストを用いて差しで講義を行うのである。インドの研修者は電気工学出身で20才後半、数学が非常に堪能なエンジニアだった(3桁の掛け算を暗算で行い、平方根、三乗根の計算も暗算でできた!)。彼は、英語力も優れていて会話もそこそこできた。私の方は、彼の言うことの半分も理解できなかった。しかし、曲がりなりにも日本人以外の相手と情報の交換ができたことが自信につながり、英会話向上の持続力の原動力となった。彼は、ベジタリアン(vegetarian = 肉類を食べない菜食主義者)だった。日本で日本の映画が見たいと言い(日本語そのものの映画)、二人で銀座へ出かけた。後からわかったこどだが、インドでは映画が娯楽の頂点で、暇があれば映画館に足を運ぶ国民習慣があるそうだ。彼も映画が好きで日本の文化を映画を通して見たかったのだろう。
 
 
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●英語学校の話
 社会人4年目の秋(1981.10)、6ヶ月間英語学校に通った。その学校は、法人の研修生を受け入れる四谷にある日米会話学院(IEC=International Education Center。 私が通学した当時は、JACI=The Japanese American Conversation Instittuteといった)で、委託生として会社を離れて(6ヶ月英会話学校のみ)通学した。この学校は、委託生をレベルによって4から5クラスに分け能力に応じた教育を施している。仕事の都合上どうしても海外赴任しなければならないビジネスマンや、社内選抜された銀行マンがより一層の磨きをかけるために送り込まれるケースが多い。私の場合はどちらかというと前者の方で、あまり英会話の勉強をしていなかったので、入学のためのクラス分けの選抜テストは良くなかった。
 
テストは、一般的な英語の筆記試験(英検2級程度の問題)とヒアリングとスピーキングだった。一番重きをおいているのがスピーキング。テストは、LL教室(各机にマイクと、ヘッドホン、カセット録音機が配備されている教室)にて行われた。英語で答えるための質問が、これもまた英語でヘッドホンから流れ、その問いに対して3分程度にまとめてでマイクに向かって英語で答えるというものだった。この問題が3問ほどあったように記憶する。設問の内容は、自己紹介をして下さい、とか自民党の次代は阿部、竹下のどちらの政権となるかとか、好きなスポーツの紹介、嫌いなら嫌いな理由を述べなさいといったものだったと記憶する。この試験の評価は、問いに対してどれだけ英語らしく回答できるかを評価するものだった。私はといえば、テープが回る机に座ってマイクの前で、「アー、ウー、アイ、アム、・・・・ ハブ、・・・だったかな」などと支離滅裂なことをしゃべったような記憶がある。当然、入学が許可されたクラスはエレメンタリコース(一番出来の悪いコース)の少し上のクラスとなった。
 
 クラスは15名ほどだった。銀行マン、通産省の役人、郵政省の役人、6ヶ月後に海外に赴任することが決まっているタイヤメーカのエンジニア、この学校の途中で海外に赴任してしまった貿易商社マン、社内教育の一環として送り込まれたエンジニアなど、23才〜30才までの社会人がほとんどで、動機も様々だった。教師は基本的にはネィティブと呼ばれるアメリカ人、もしくは日系2世のアメリカ教育を受けてきた人たちで構成されていた。授業のやり方が、我々の受けた日本の戦後教育とは随分と違っていて興味深かった。基本的に、教師は生徒に対し絶えず興味を引くように語りかける。現代では双方向とかインタラクティブとか言う言葉が盛んになっているが、いわゆるこれである。
 
 我々が受けてきた日本の教育は、先生は授業では絶対権威であって「教える」、「教えられる」立場が極めて明確だった。つまり一方通行になりがちなのが日本古来の教育だった。ここのところは司馬遼太郎の本を読むと盛んに出てくる。もちろん、私が読んだ書物の時代背景は江戸時代から明治にかけてであるが、日本中で優れた師がいると伝え聞くと、書生は着の身着のまま赴き(転がり込み)、師の身の回りの世話をやきながら教えを請う。少し学問が出来あがると、お世話になった師のもとを辞去し全国を旅しながら有名な師の門戸を叩く。自分より上だと思うとしばらく逗留して教えを請う。こんな風にして朱子学、陽明学、蘭学などが浸透していったと書かれてある。
 
 私が通った英語学校のやり方は、今述べた方法とは全く違いまさにアメリカ式で、教師は生徒の能力を引き出すパートナーとして振る舞い、授業の運営の半分は生徒に行わせるやり方だった。
 日米会話学院の授業の骨格は、ヒアリングとスピーキング(hearing & speaking)、それにレポートが中心だった。1コマ50分の授業で1日5コマ程度あった。ヒアリングは先生が15分ほどの面白い話題を話す。生徒はそれを理解しながら要旨をメモする。これを翌日レポートして提出する。メモは完璧にメモできないのでハンディ録音機(ウォークマン)を机の上に置いて録音し、家に帰って何度も聞きながらレポートをまとめる。ヒアリングの授業では、話す前に今日は何の話題をするかということと、話題のキーワードを15語ほど予め教えてくれる。英語でトピックを話した後に質問を受け付ける。会話の内容が面白いときは内容の質問まで飛び出す。勿論これらはすべて英語。稚拙な会話の投げかけであったことは想像に難くない。トピックは、アメリカの気候の話であったり、迷信の話であったり、成金長者であったりした。主に米国週刊雑誌「TIME」からネタを仕入れていたようだった。
 
 スピーキングは、先生からトピックを与えられそれをもとに5分程のスピーチを行う。これは全員が一人一人スピーチを行い、クラスの全員が聴衆者となってこれを聴く。スピーチの後ではディスカッションを行う。勿論これも英語。トピックは、我が町の紹介、宝物の紹介、スポーツ観戦の醍醐味、パンとご飯の味わい方、などみんなが興味を持てそうな話題を提供する。ディスカッションの後、講演者に対し、話題提供の適切度、スピーチの内容、理解度、表現内容、プレゼンテーションの内容、コメントを加えて採点する。採点表は先生の採点表と併せて講演した者に渡される。また、これらの派生として、ディスカッション、ミーティング、討論があり、グループを2組から4組ほどに分かれてトピックについてディスカッション(英語で討議)をする授業もあった。これらは、死刑問題、老人医療問題、エネルギー問題、後進国開発援助、プラント契約などの話題が取り上げられ、クラスを二手に分けてdebate(討論)を行う。または各人が架空の国の政府役人となって先進諸国にパワープラント建設の援助や、資金援助の話し合うための会議を行う授業もあった。
 
  
この英語学校では、秋に「Home Comming Day」と呼ばれる学園祭が開かれる。
この写真はその学園祭のクラス対抗英語大会のもので、
「CNN」ブロードキャスト、ニュースプログラムを行ったときのもの。
英会話手練れのメンバーがニュースキャスターをつとめ、
クラスメンバーは、各トピックごとに趣向を凝らした。
われわれは「ロッキー」よろしくボクシング世界選手権を英語で実演した。
左の仲間(クラスは依託科、英会話科、秘書科合同)は、中国のトピックを英語で行った。
我がクラスは、この趣向でこの年の優秀賞をもらった。今は無き板橋浪治校長も喜んで見てくれた。
 
 
 メイン授業は、「Bellcrest」と呼ばれるビジネスシミュレーションプログラムで、ビデオ、オーディオカセット、テキストが教材だった。これらの教材は、Oxford Pressが出版していた。Bellcrestという英国の自動車用部品を製造販売する中堅会社が新しい電子コンポーネントの開発をする中、市場調査、会議、資金調達、競争相手との売り込み合戦、工場の火事などの事件を乗り越えて新製品を市場に投入するというもの。予めテキストで話の内容を理解しておき、授業でビデオを見ながら、各人がベルクレストの社員(あるいは部長、社長)になってテキスト(もしくはビデオ)の出来事をクラスの中で再現する。電話のかけ方から、ミーティングの骨子、議事録の取り方、ビジネスレターの書き方、会議のやり方、売り込みなどを再現していく。
 6ヶ月間の英語学校は、すべて英語漬けの毎日で、くる日もくる日もレポートの提出、カセットのヒアリング、クラスメートとのディスカッションに終始した。学校の授業料は会社が支払う関係上成績も会社に渡るため、皆必死になって勉強した(授業料は新入社員の平均月収の6倍だったと記憶する)。これだけ必死になるのも珍しいくらい必死だった。寝るのは大抵1時過ぎで、朝7時には起きて英字新聞に目を通して学校へ向かい、通学の途中にはウォークマンで英会話のテープを聞くという毎日だった。この学校のおかげで英会話のとっかかりができた。
 また、週2回のタイピング(typing)コースにも会社が授業料を払ってくれたので、タイプライターの勉強をすることができた。このコースも結構面白かった。このタイプのおかげでタイプを打つことが誰よりも速くなった。自分で筆記するより3倍の速さでタイプを打つことが出きるようになった。
 6ヶ月の英語学校を通してわかった英語(文化)は、
 
 ・ 欧米人は、こちらから話しかけなければ相手は自分のことを全くわかってくれない。
 ・ 数字を英語でわかることが英会話の基本。
 ・ 中学英語を完璧にマスターすれば英会話の第一段階は終わり。
   (たとえて言えば、自転車でのふらふらながらも乗ることができる段階)
 
この3つだった。
 だが、自分の英会話はまだまだおぼつかなかった。臆することなくしゃべれるようになるまで、「清水の舞台から飛び降りる」心境に開き直るまでまたしばらく時間がかかった。英語学校でもらったカセット教材を暇を見つけては聴いた。
面白いもので、最初は全く理解できなかったフレーズも数百回も聴いているうちに何となくわかってくるようになった。
 
 
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●初めての海外旅行
 27歳になるまで一度も海外に出たことはなかった。23歳になるまで一度も飛行機に乗ったことがなかった。英語学校を卒業して1年後、単身で米国に渡る辞令が出た。期間は40日間。特別大きな任務があったわけではない。強いて 言うなら語学力が錆びないように錆び取りと外国への見識を深めるための会社の粋なはからいではなかったかと思っている。初めての海外旅行といえば上司のカバン持ちで随行するのが一般的であるが、私の勤めた会社はそういう常識は通じないようであった。私を信じていたのか豪快な育て方が信条なのか、とにかくニューヨーク経由ボストンまでのキップとロスアンゼルスから成田までのキップが用意され、東海岸に送り込まれた。目的地で私を出迎えるものなど誰もいない。まさしく単身、ひとりぼっちの旅行である。ここらの件(くだり)は、結構面白いと思われるので詳しく述べたいと思う。
 
【出発】
 初めて海外旅行に出たのは(それも単身)、結婚して2年目の1983年6月、3月に長男が誕生し離乳を始めた頃だった。マサチューセッツ工科大学で開かれている写真計測サマーセミナーに参加するため東京を飛び立った。サマーセミナーは5日間。その翌週には、東海岸で会社の製品を扱っている現地社員と現地での販売活動を1週間共にし、それを終えたら西海岸のロスアンゼルスに飛んでバーバンク(Burbank、ロスアンゼルスの隣町)にある事務所を拠点に客先訪問を行い、その後、ユタ州ソルトレークにある高速度カメラを製造している会社の主催するセミナーに参加するという日程だった。
 処女海外旅行は初めから荒れた・・・・。
 成田からボストンまでの便は、直通便が無いためニューヨーク経由ボストン行のフライトとなった。夕刻に成田を飛び立った飛行機は北東に進路を取りすぐに夜を迎えた。緊張のせいかなかなか寝つかれない。明け方窓から眼下を見下ろすと、一面氷河のカナダハドソン湾が見えた。とんでもない所に来てしまったナ、と腹をくくらざるを得なかった。いたいけな乳飲み子の長男の寝顔が脳裏をよぎった。ニューヨークケネディ空港は午後2時頃ついた。通関は良く覚えていないがしどろもどろで通過した記憶がある。役人の言っていることが十分に理解できなかった。「どこまでいくのか」、「何しにいくのか」といった類だったと記憶する。最初のミスがここで起きた。成田を発つとき、航空会社のチェックカウンタで「預けたキャリングケースはボストンまで行きます」と伝えられた。私はこれをボストン空港まで直接運んでくれると合点した。今になって思えば、手荷物を含め最初に降り立った入国管理ですべてチェックしなければならないのは明白なのに、当時の私はそれすらの十分な理解がなかった。ボストンまで運ばれると合点した私は、ニューヨーク空港でキャリングケースを持ち出さなかった・・・。キャリングケースは、ケネディ空港のbaggage claimでグルグル回っていたことだろう。
 眠い眼をこすりながらボストン行の国内線を探した。ボストン行きの飛行機は夜7時の出発である。時間は十分にあるがどこが出発ゲートなのかわからない。空港の外に出てみた。黒人のタクシー運転手が目ざとく獲物を見つけたように手を振り降りこれに乗れと大声を出している。ひっきりなしに往来するバスや送迎車、タクシーの呼び込みの喧噪にわけがわからなくなった。空港施設内に戻り、黒人女性の案内係らしい人に自分が乗る飛行機の発着ゲートを聞いた。無料巡回バスを教えてくれてかろうじて国内線のロビーに辿り着いた。バスに乗っている間中、これがホントに正しいバスか不安だった。この無料循環バスドライバーにチップを出すかどうかもわからなかった。今だったら気軽に運転手に確認できるのに当時はそれすらもできなかった。バスの運転手は大柄な黒人女性だった。バスはオートマチックトランスミッションで動いていた。黒人は総じて親切ではなかった。比較的底辺の仕事についているせいなのか、必要最低限の仕事とサービスしか遂行しないようであった。
 話は前後するが、東海岸の日程を終えてロスアンゼルスに降り立った時にも、もっとひどい目にあった。バスのキップを買うついでにそのバスはどこから出ているかと聞いた際、売場のメキシコ系の中年女性は烈火の如く怒りだし、「私はキップを売るのが仕事であってバスの案内をする係りではない」と罵られた。日本では考えられないことである。黒人すべてが悪いわけではないのだが、不愉快な思いをさせた相手が特徴ある人間(例えば、色の黒い人たち)だった場合、「黒人は・・・」、となってしまうのは致し方がない面がある。逆に私のような小柄で東洋からきた人間が東海岸でヘマをすれば、「日本人は・・」というような先入観を彼らに植え付けることは十分に考えられることである。私がチャイニーズと呼ばれることも、韓国人がジャパニーズと呼ばれることも同じようなミステイクである。
 さて、ニューヨークで国内線出発ロビーを探していた私は、曲がりなりにも探し当てることが出来た。時間は午後5時半、出発まで2時間ある。お腹は空いていなかったが、夜は長いから何か詰め込もうと、空港の軽食レストランに入った。日本とは全く違う雰囲気だった。日本で馴染みのある食べ物など全くなかった。カフェテリアスタイルのレストランは食いたいものだけをトレイに入れて精算すればよいので会話ができなくても用が足りる。ビールとソーセージと、どでかいサンドイッチを食ったような記憶がある。周りを見回しても日本人は自分以外誰もいないようだった。椅子がやけに大きい。時間があるので電話をしてみようと思い立った。しかし電話のかけ方がわからない。日本にもかけられるようなので電話ボックスに書かれてあるLong Distance callの手順に従ってかけてみようとした。クォータ(25セント硬貨)を入れてダイヤルをする、しかしすぐ2ドル50セントを入れろと電話口の向こうのアナウンステープが回る。そんなにたくさんの硬貨など手元にあろうハズがなく、そうこうするうちに電話が切れてしまった。アメリカではテレホンカードがないと、硬貨では電話がつながらないことがわかった。
 
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【ボストン空港にて】
 週末(金曜日)のためかボストン行きの飛行機便の出発が遅れた。まわりはすべて英語、それもネイティブ。初めて聞く言い回しのため一回だけでは何を言っているのかわからない。こんなことを言っているのだろうと網を張って聞く。聞いた後で何度も頭の中でその音を繰り返して言葉にしていく。おぼろげながらわかればしめたもの。しかしほとんどの場合徒労に終わった。言ってることの半分も理解できなかった。
 7時半の出発が1時間も遅れ、ボストンには10時半近くに着いた。かなり遅くなってしまった。・・・ちょっと心細い。baggage claimで成田からのスーツケースを待つ。しかし出てこない。客は一人減り二人減りでとうとう自分一人になった。このとき、私の犯したニューヨークでのミスがわかった。しかたなく空港職員に事情を話した。この職員は白人の30歳代の女性で、私のカバンの引換券番号を照会してニューヨーク空港に据え置かれていることを確認してくれた。そのカバンは翌朝、マサチューセッツ工科大学のDormitory(宿舎)に届くよう手続きをとってくれた。
 手続きは終わったが時間は夜の11時をとうに過ぎていた。空港にはタクシーが1台とまっているだけだった。私が最後の客で、おそらくそれが彼の客になるであろうと想定される状況だった。初めて乗るタクシー。タクシーの運転手は60歳過ぎの巨漢の白人だった。「随分てこずったようだが、このクルマに乗ってく気はあるかね。もっともこのクルマを逃しちゃ他の手だてはないようだが」と言ったような気がする。ボストン訛りのひどく聞き取りにくい英語だった。こちらは、というと、緊張と疲労がかなり蓄積していた。「マサチューセッツ工科大学のDormitoryに行きたいのだが」としっかり言うと、「あいよ、乗んな」と返事が返ってきた。
 通じたようだ。
でもホントに宿舎に連れていってくれるのか心配だった。ボストンの深夜を右も左もわからずタクシーに連れられて行く。アメリカのタクシー(cab)は、運転席と後部座席が1インチ(25mm)もあろうかと思われる厚い強化プラスチックで隔離されている。そのプラスチックの中央部に小さな窓が開いていてそこから金銭を渡すようになっている。
 私を乗せたcabは静寂のボストンを走った。不安な気持ちは自分を開き直らせた。私は運転手に向かって何やら話し始めた。ボストンのことやタクシーの事、ホントに自分はMITの宿舎に行けるかなどを聞いた。お金を渡す小窓に口を付けるようにしてしゃべった。タクシーは突然道路に止まった。何か怒っているような口振りで盛んに右腕を前に振った。まずいことになったと思ったが、よくよく見ると助手席に乗れと言っているようだった。訛りのある彼の言葉を意訳すると「お前の英語は聞きづらいから、そんなにしゃべりたいんなら助手席へ乗れ」と言っているようだった。客と運転手の間にこんなこともあるものかと不思議な思いに捕われながら、運転助手席に乗り込んだ。助手席に乗り込んでからの会話はスムーズにいった。幸せなことにタクシーの運転手は朗らかなタイプで、深夜のドライブを東洋からやって来たへんちくりんな英語を話す小人との会話と一緒に楽しんでくれた。彼はとても朗らかにしゃべり、そのため運転がおろそかになるときがあった。道路に穴ボコがありそれにクルマがはまりそうになったとき思わず「前に気をつけてッ、穴が!」と悲鳴を上げた。くだんの運転手は、「オーライ、わかってるって。お前はオレのカミさんみたいなことを言う」といってブレーキをかけながら回避した。
 マサチューセッツ工科大学の宿舎には深夜1時過ぎに着いた。タクシー料金は25ドルだったような気がする。私はこれに15ドルのチップをつけて40ドル払った。アメリカで最初に払ったチップである。払いすぎのような気もしたが小銭がなく20ドル紙幣2枚を渡した(これは、当時の換算レートでいくと\10,000)。おつりをもらう口上を知らなかったのがホントの理由である。アメリカ社会はチップをかなり素直に喜ぶ。タクシーのオヤジはありがとうの最上級の言葉を言い宿舎の玄関まで送ってくれ、深夜になった不幸を哀れんでくれた。 ・・・ 宿舎の受付はシャッタが降り店じまいの様子だった。幸いなことに玄関は開いていた。受付から2階に上がる階段に腰かけて、さてどうしたものか、朝までこの階段で夜を明かそうかと思案した。今になって思えば大学敷地内などで犯罪の起きる確率は低いのだが、当時の私はそんな理性が働くはずもなく、ほとほと途方に暮れた。体が横たえるベッドをほしがっていた。
 
【May I help you】
 30分くらい立ったろうか、外から何やら話し声が聞こえ二人の若者がドミトリーに入ってきた。「相手にからまれでもしたらまずいことになるなぁ」と思った。彼らは目ざとく私を見つけた。こういう場合はしょうがないから、「やぁ」と元気に振るまって正直にいきさつを話すしかないないと観念した。東洋からやってきた貧しい人間で取るものは何もない風を装いつつ(大学の宿舎に止まるような人間など金持ちであろうハズはないのだが)、訥々(とつとつ)としゃべった。 事情を聞いた二人の内、一方の若者は非常に親切だった。一人は用事があるからと別れたが、あごひげを生やした目元の涼やかな若者は備え付けの構内電話で管理人と連絡をとり、部屋を開けてくれる交渉までしてくれた。生き馬の目を抜くアメリカで親切なこともあるものだと感心した。彼は管理人がやってくるまで彼は私に付き合ってくれた。聞くと、彼はMITのコンピュータ・サイエンス科で助手をしていて、新しい概念のプログラムを開発中だという。その時、お礼をしなければという一念で名前を聞き出したのだが、そのメモが紛失し未だそのお礼を果たしていない。ロケット博士の糸川氏が、アメリカ人は「May I help you」の精神がある、この精神がある限りアメリカは亡びない、と「逆転の発想」で書いておられたが、帰国後この本を読み大いに合点した。詰まるところ、アメリカ人は世界観が我々東洋の島国とは違い、全世界を規範におきながら自らの価値を世界に求めているようである。そのように親は子供をしつけるのだという。「May I help you」はボストンのような古きアメリカのWASPの本山ではなおさらのことであろう。
他人に親切にすることを何のてらいもなくできるアメリカの懐の深さを思い知らされた。
 かくして深夜、宿舎の部屋のキーを渡された私は、糊のきいたシーツのベッドにありつき、足を投げ出して大の字で眠ることができた。いまだ到着しないスーツケースが気になりながら。
注)WASPとはアメリカ社会を牛耳る一握りの階層の人たちで、
白人(White)、アングロサクソン(Anglo Saxon)人、プロテスタント宗教(Protestant)
をさす。ボストンを含めた東海岸に多い。
 
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【キャンパスにて】
 目を開けると土曜日の朝だった、セミナー開催まで2日ある。疲れているはずなのに朝7時に目が覚めた。6月なのに緯度が高いせいかとてもすがすがしかった。宿舎の玄関に備え付けられてあったvending machine(自働販売機)でコーラを買ってキャンパスを歩いた。コーラを飲み終わって空き缶を青いゴミ箱に投げ入れた。投げ入れるときちょっと変な気がした。ゴミ箱にしては少しきれいなのである。これは実は、郵便ポストだったことを程なくして知った。「〒」マークもなく(アメリカ人には郵便ポストとわかる鳥の絵は描いてあったが当時の私は無知だった)、日本の郵便ポストとはほど遠い威厳も何もない鉄製の青い箱が無造作に芝生に置かれてあればゴミ箱と勘違いもするだろう。その後、渡米の度に、この青い郵便ポストを見るにつけコーラの空き缶を投げ入れた事を思い出し苦笑いを禁じ得ないでいる。
 
【地下鉄】
 日曜日に、地下鉄でボストン中心に出た。マサチューセッツ工科大学からボストン中心へはチャールズ川を渡る。電車は汚く、スプレーペイントがかけられていた。ニューヨーク地下鉄よりましなようだが日本にはない光景だった。科学博物館に行くためにボストンの中央(名前は忘れた)で下車した。地下鉄駅構内は薄暗く、人影もまばらでオシッコの匂いが強かった。プラットフォームを歩いていたら2人組の黒人が歩いてきた。190cmはあろうかというほどの大男達だった。ガムをクチャクチャ噛みながら、独特のリズムをとった歩き方で近づいてくる。地下鉄のホームはそれほど狭いわけではなかったが、彼らを避けるため私は壁よりに沿って歩いた。彼らはしかし、かなり壁よりに寄って私に向かってくる。ホームにはこの黒人二人と私以外にはいない。ボストンの人たちはあまり地下鉄を使わないのかな?と思ったがもう遅い。視線は合わさないようにしていたが明らかに彼らは私の方を見ていた。「まずいことになるかも知れないな」と心の中で呟いた。でも取られるものは何もないな。金目のものといえば、18才の時にオヤジにもらったPentax KMの35mm一眼レフカメラ、Casioの\4,000の腕時計、財布の中に$200。それだけだった。「$200取られたら昼飯が食べられないな、帰りは歩きかな。まさか傷つけるようなことはしないだろう。」と思いながら歩いた。彼らは私の横をぎりぎりに通り過ぎた。もし立ち止まったり、視線を合わせたら、暇そうな彼らは何か行動を起こしたに違いない。と、被害妄想をかきたてられるくらい怖かった。人権差別はいけない、くだんの黒人は私に何もしていないじゃないか、と思ってもそれを振り払うだけの理性がなかった。アメリカという国は、日本と歴史的成り立ちも文化も全く違う国で、特に東海岸に来ると日本がホントにちっぽけに見えるくらい存在が希薄になる。これは西海岸(ロスアンゼルス)などで東洋系の人間があふれているのとは大違いだ。
 
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【Boston Science Museum】
 ボストン科学博物館は、結構広くて良く整備されていた。日本の上野の科学博物館も大好きで何回となく訪れているが、こちらの方が規模が大きい。アメリカはこの種のオーガナイズはしっかりしているなと感じさせた。今も覚えている日本の出展物は、屋久島で育った樹齢1000年以上の屋久杉の輪切り展示だった。1Fのイベント会場ではお姉さんが子ども達を相手に科学の不思議実験をおもしろおかしく実演していた。アメリカはこの種のプレゼンテーションがまことにうまい。実験の内容は、風船の科学についてで扇風機を使って風船をうまく空中に浮かせていた。単なる扇風機だったら風船はどっかへ飛んでいってしまうのだが、扇風機にちょっとした工夫がしてあって、扇風機の流れが非常にきれいに流れるように吹き出し口にスクリーンがつけられていた。この流れを層流というのだが、層流で吹き上げられた風船は中空にぴたりと止まっていた。
夕方、博物館を出てリャールズ川まで歩いてその川を渡ってMITの宿舎(ドミトリー)に帰った。チャールズ川ではヨットが出ていた。川の堤ではジョギングを楽しむ人たちを見た。これらの風景はアメリカで成功した人たち(多くは白人)の証だった。しかし、ボストンダウンタウンの公園では、着衣が汚れて髪の毛も何週間も洗っていない南米系の人たちがうつろな目で日曜日の午後を過ごしていたし、黒人居住区では多くの黒人が屯(たむろ)していた。
 
チャールズ川の反対側よりMITを望む。
川の向こうの球形ドームがMITのシンボルの講堂。 日曜日、ダウンタウンに出た折に撮影
 
【セミナー】
 月曜日の朝、マサチューセッツ工科大学の講堂をすり抜けて、セミナー受付室に出向く。受付室では4名ほどの淑女(50歳ほどと思われる品の良い白髪の女性)が受付をしてくれた。
   所定申込用紙に記載漏れがないか
   支払いはどれで行うか
   セミナーテキストはあるか
などをテキパキこなした。ここらあたりの対応は手慣れていて見事だった。アメリカ人はマニュアル化することが本当に得意で、それに従ってテキパキとこなしていく。笑顔も絶やさない。May I Help you? ってやつだ。日曜日に出会った黒人連れの恐怖、科学博物館から帰る途中で公園で見た古びた車(バン)でアイスクリームを売る貧しそうな南米人、帰途道に迷って黒人街に入ってしまい、そこで垣間見た古びた町並みの木造エントランスステップに佇むたくさんの黒人老人や若者、 - これらの社会もアメリカだし、利発そうで、衣食住に不自由のない白人女性もアメリカなのだ。
 さて、このインテリそうな白人淑女は私にセミナー参加のための手続きをこまごまとやってくれた。私の方は彼女の言葉の一字一句を逃さないように緊張しながら応対した。彼女の英語はわかりやすかった。東海岸の淑女の話し方はちょっとおしゃれだ。イギリスの「ハッ、ホッ」というような腹式呼吸のようないい回しと違ったマイルドなしゃべり方である。イギリスの言葉は、サッチャー元首相のしゃべり方を想像してもらえればよい。米国東部の淑女の話し方はどちらかというと「Sound of Music」映画に出てきたジュリー・アンドリュースのようなしゃべり方である。
 日本を飛び立って4日目になり、その間一人の日本人にも出会わず、絶えず英語に神経を集中していると徐々に向こうのリズムに慣れてくる。だが、相変わらずこちらの口から出るのは、「Yes」、「No」程度の言葉だった。
 ・・・リズムをつかめばしゃべれる、絶対・・・。言葉は喉仏まで来ている。この喉のつっかえを何とか取り払えばと必死だった。
 セミナーは、ハロルド・エジャートン(Harold Edgerton)博士が主宰する高速度写真セミナーで、35名ほどの参加者があった。エジャートン博士は、1932年にクセノン管を使ったフラッシュ光源を発明した人として非常に有名な人で、80有余才の高齢ながら茶目っ気できさくな人柄なためか米国内でも人気が高かった。先生は、1989年(高速度写真セミナーに参加した6年後)に他界された。先生の研究室は現在ミュージアムラボとなっている。先生のしゃべり方は、快活で人を笑わせる話術を持ち合わせているようであったが、私にはさっぱりわからなかった。単語をひとつずつきっちり話してくれず、ちょうど江戸っ子言葉のべらんめえ調のような話し言葉だった。米国に住んでいる人たちは、英語のフレーズがすべてわかるから少しぐらい言葉の端々を崩しても(端折っても)言っていることが飲み込めるのだが、私のように一字一句を脳細胞にため込んでフレーズを照合する外国人にとっては難儀なことだった。これは慣れるしかない。
 参加者は、RCAのテレビ開発エンジニア、チェンソーの会社エンジニア、台湾の軍研究所の研究者、米国物理研究所などさまざまだった。彼らは会話を実に大切にする。会合で集い会うとまずハーイと声をかけ合い、当たり障りのない会話を自然に始める。まず自分の紹介。俺はテキサスから来た、とか、俺は軍関係だから仕事の内容は言えない、とか、とにかくストレートである。言えないものは言えない。しかしハロー(Hello)だ、と、こういう具合である。日本ならどうであろう。不必要な会話はない。黙すことが会社への忠誠であり、研究内容を全くしゃべらないことが美徳とされている。もっとも最近は、国際会議に多くの日本人が参加して彼らが欧米(特に米国)のスタイルを日本に持ち帰り、呉越同舟の会合でもなごやかな会話が増えてきている。
 
【日常会話】
 「どうも初めまして。」という言い方は何通りかあることがわかった。中学で習うのは、
  I am glad to see you.
だが、米国でこんなこという人はめったにいない。これはイギリスの非常にあらたまった時の言い方で、アメリカのように気さくに「いやぁ、どうも、どうも」という文化には全く似つかわしくない。先日(1998.6)、Oxford 大学の物理学博士と時間を共にしたとき、この質問をしてみた。イギリスでも今は、あまりこの言葉は使わないそうである。イギリスでもアメリカハリウッドの映画やテレビ番組が入り込みアメリカ英語が生活の中にかなりの比重で入り込んでいるという。いったいぜんたい「初めてお目にかかれて光栄に存じます。」などという言葉をどこで使えばいいんだろう。私が習った当時の文部省は、このフレーズさえ知っていればどこへ行っても恥ずかしくないと思っていたのだろうか。
 一般的に、気さくに声をかけるときは、
  Nice to meet you.
  How do yo do?
あたりが穏当だろう。何度も会っている人に対しては、
  How are you?
しばらくぶりで会う人たちには、
  How (are) you doing
  Have you been?
あたりをよく使っている。会社で知り合った現地社員にしばらくぶりに会って、Have you been? と言われたときにはホントにビックリした。当時私はこの言い回しを知らなかったのである。頭の中に該当するフレーズが何も用意できなくて、何を言っているんだがさっぱりわからなかった。頭の中の英語の引き出しをひっくり返してブンブンとサーチしているのがわかるくらい必死で言葉を探した。だが、わからなかった。件のアメリカ人も気を利かして片言の日本語で「ゲンキダッタ?」と言ってくれたのでようやく合点した。
 会話は、ホントにその場に遭遇してつみ取って行くしか方法がないなぁとつくづく感じた。特に場所場所で言い方が変わったり、話す年代で共有する言葉があったり、黒人同士では独自の言葉を持っていたりで、このあたりは興味を持って耳を澄まして聞くしかない。
 黒人は、彼らが仲間うちで使っている独特の言い回しを白人が使うと気分を害するからまねをするなとクギをさされたことがある。また、俗語は教科書には出てこないから現地で体験するか映画で覚えるしかない。もっとも映画の中の言葉はとても汚い言い回しが多いので気をつけなければならない。
 
 はじめて渡米して憶えた単語を少々披露する。
西海岸ロスアンゼルスでレストランに入ってウェイトレス(高校生のアルバイト風)に注文したら、
   I ('ve) got(ten) it. (アイライッ)
ときた。ここは大衆レストランのようなところで、ウェイトレスの教育もそれほど行き届いているわけではなさそうだった。この「わかった。あいヨ。」的な言い方をされたのは後にも先にもこのレストランでの若いウェイトレスだけだった。会議やビジネスでこのような言い方をされることはまずない。しかし、アメリカ人はgetの単語が大好きである。何だってget(もしくはgot、've got)で片づけてしまう。この言葉さえ知っていれば日常生活はOKというほどの言葉である。アメリカのマンガを見ているとこのgotの言い回しや、以下に紹介する言葉が頻繁に出てくる。要するに話し言葉だ。従って、フォーマルの場ではあまり使わないほうが無難である。
 要求を示す単語で、 want to 〜 があるが、これが短縮されると
  wanna(ナ)
となる。 I wanna mug of beer. などという。もちろんこれは話し言葉である。日本人が頻繁に使っていいものか悩む。なにしろ「ビールをくんねぇ」見たいな東京地方の言い方のようなものだから、日本人であるならちゃんとwant to と話した方が無難なような気がする。もっともこういった類の口語をたくさん知っていて全編このような色調でしゃべれれば問題はない。
 私がこの渡米で知り合った現地社員の知り合いの家で、独立記念日の家庭ホームパーティが開かれ、それに招かれた際、英会話が下手と自認している私に「まともな英語をしゃべっている」と逆の評価を受けた。これが一人のアメリカ人だったら「お上手」と聞き流してしまうが、行く先々で興味深くどこで英語を習ったとか、いつから勉強しているのかと聞かれた。こっちは必死で聞いて、そして話しているのに、相手は自分が思っている以上の評価をしているのである。これは、私がまともな文法に則って話しているからなのだと後になってわかった。町のレストランで知り合った人と話していてこの思いを強くした。その人は標準英語をしっかりしゃべれなかった。日本でも同じだろう。地方の片田舎で日本の標準語がしゃべれずその地方だけの言葉を使っている人に、日本の標準語を片言ながらスラスラとしゃべっている外国人から話しかけられて居住まいを正すのに似ている。
 話し言葉は、時として無用の言葉が装飾される。話すリズムを取るためである。これがわからないとその言葉に呪縛される。日本人は言葉を断片的に出さず、前の文に受ける接続詞をつけてしゃべる。「だからね、そうそう、それで、じゃあ、いや、あのー、でね、でも、でしょう、わかる」。
 これはドイツ人も同じで、soということばが日本の「そう」と一緒である。昔ドイツ人と会話をした際、「日本人の教育熱はすごく高く所得のほとんどを教育費に回します・・」と話した時、彼は、「Ah, so」と応えた。ドイツ語の「so」と日本語の「そう」は同じなのである。
ことほど左様に、日本人は英語でも日本語と同様に接続詞を多用する。and, but, so など、アメリカ人にとっては冗長と思えるくらい接続詞を多用する。特にso は日本語の「そう」とニュアンスが似ているため日本人は好んでこれを使う。
 しかし、アメリカ人はこのsoは、同じ状況で使わない。日本人はリズムをとるために使用するが彼らはこれを理解しない。 彼らのリズムの取り方は、主に
 えーと well
 相づちの you know(ウ)
 黒人がよく使う man(まん)
 話の後につける there(ぜぁ)
が使われる。もっとたくさんあるかも知れないが今思い出せる単語がこれである。意味は、「それでね、だよね、だよ」的な意味合いである。人にはそれぞれのしゃべり方のスタイルがあり、いろいろな言葉に影響されて取り入れるので、すべてのアメリカ人がこの言葉を使っているわけではない。manなどは黒人以外はあまり使わないし、you knowなども一部の人だけである。ただ、こうした言葉は知っていないと聞き流せないので頭がパニックになってしまう。こうした、どうでもいいような相槌言葉や、つなぎ言葉は、いろいろなタイプの人たちが話す言葉に耳を傾けて鍛錬を積む以外に方法はなさそうである。
 
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●アメリカとイギリス (1998.10)(2001.04.01追記)
 アメリカ英語とイギリス英語ではしゃべり方が違う。もっとも、アメリカでも東部と西部、南部では言葉づかいが違うし、人種によっても違う。アメリカ言語の母胎はもちろん英国英語であるが、国が新しいため独立後彼ら独自の言葉を追加した。主に英国英語よりは簡単なことを旨として、短縮化もされたようだ。Webster辞典で知られるアメリカ人 Noah Webster(1758-1843)が1828年に編纂した 「An American Dictionary of the English Language」は、アメリカ英語を決定づける70,000語の大辞典で、日本の英語辞典の基礎ともなっている。
1990年に初めてイギリスに渡ったとき、アメリカの言語とイギリスの言葉は細かいところでずいぶんと違っているのに気づいた。
 イギリスはアメリカに比べ歴史がうんと長く、地方地方によって言語形態も違う。歴史的に見ると、イギリス英語はケルト人の住んでいた頃の先住民言語を母胎として、ローマ人が支配した時代にはラテン語が入植され、その後、フランスの征服によってフランス語が入り、哲学用語はギリシャ語を採用したいきさつがある。これらの複雑な状況の中で、イングランドが国として力をつけ英国連邦のリーダになるに従って標準英語を作り出していった。17世紀に活躍したシェークスピアの文章は古典英語とも言えるべきもので、今の英語とは随分異なった単語や言い回しが多いと聞く。
 
 一方アメリカは、17世紀のピルグリムファーザーズと呼ばれる移住者の言語が母胎となってアメリカ英語ができあがった。従って、アメリカ英語はイギリスの一部の地域の言語だったわけである。イギリスでは、ロンドンの言葉やオックスフォードの言葉に微妙な違いがあるし、ウェールズやスコットランド、アイルランドにいたってはかなり違う。
 スコットランドの言葉で「ロッホネス」という言葉を知っているだろうか。ネッシー恐竜で有名な「ネス湖」のことである。「Loch Ness」と綴り「Lake Ness」の意味を持つ。-ch音をクと呼ばず、ホと呼ばせるところに歴史を感じさせる。ことほど左様にイギリスの言葉には地域によってかなりのバリエーションがある。
 アメリカは、国を作る時に最初に法律を作って言語も統一し、汽車と車、それに飛行機という最新の技術を導入して新天地を開拓していった国であるため、言語は広い大陸であっても比較的統一されている。イギリスは、たくさんの文化を持った国々が統一を果たしていったため言語の成り立ちがアメリカと違う。
  イギリス人とアメリカ人では言葉の抑揚が違う。イギリスの方が素朴な発音をする。appleなどは、日本人の発音に近いアップルとう言い方をするがアメリカ人の「a」はアとエを同時に発音する。巻き舌もアメリカ人の方が強い。アメリカ人のしゃべり方は顎を上下のみならず水平に動かす(ちょうど牛が餌を食べるような運動をする)。イギリス人はこのような顎の動かし方はしない。
 
 ロンドンの議事堂の近くで生まれ育って、Oxford 大学物理の博士課程を修了した若者と話をする機会を得た。NHK出版『変わるイギリス 変わらないイギリス』(石川謙次郎 著)という本を読んだ矢先でもあり、好奇心を露わにしていろいろ聞いた。まず、やはり、イギリス人のインテリは大学に相当の誇りを持っている。次に言葉、特にイントネーションに非常に神経質だ。自分こそは正当の英語を話すというプライドが見え隠れする。
 面白かったのは、我々がイギリスとフランスは犬猿と思っていたことが、実はこのインテリの言を借りれば、実は、イギリスはフランスにかなりイカレていると言うことだった。フランス語をしゃべることが、彼らの仲間うちではステータスであることも知った。イギリスで最高料理はフランス料理だし、お酒はワインが好きだと言えば、「私はインテリなんだよ、階級は中層中流階級以上だよ」といっているのと同じだ。京都の人間は嫌いだけれど京都にあこがれる日本人と同じかな。フランスはイギリスのふるさとという見方もある。物事をあまり理詰めに考えない。オブラートにつつんだ言い方をするのが好きだ。だから理詰めで考えるドイツは苦手なようだ。彼に2番目に好きな国は?と聞いたらポルトガルという意外な答えが返ってきた。ドイツは3番目にも4番目にも出てこなかった。また、他の人から「イギリス人はヨーロッパ人」と呼ばれるのはすごく抵抗があるらしい。京都の人に「出身は大阪ですか?」と聞いた時、ものすごく怒られたことを思い出す。「だから、英国はユーロ(Euro)に加盟しないんですよ。」とくだんのOxford インテリはきっぱりと言った。(1998.10)。
 
【英語と米語】 (2001.04.01)
 国内出張先の書店でたまたま、大石五雄氏の「英語と米語」(丸善ライブラリー177、平成7年11月20日発行)という書物に出会った。この新書は英語と米語の違い、生い立ちについて細かく分析されていた。
 氏は、H.L.メンケンの「The American Language」(1923、1957)を参考文献として引用して米語の成り立ちを以下のように説明している。
 アメリカ大陸にイギリス人が移動を開始したのは17世紀初頭。南部にジェームズタウン植民地を作ったり、北部にプリマス植民地を築いてから1776年に独立するまでのアメリカはイギリスの植民地下にあり、文化的にも言語的にもイギリスを模範として憧れていたため英語の面ではあまり目立った変化はなかった。
 1776年にアメリカがイギリスから独立すると政治的のみならず言語的にも目覚め、英語の面で独立しようとする機運が生まれた。その代表者がN.ウェブスターであった。彼はアメリカ英語はイギリス英語から独立すべきであること、イギリス英語を模範としないことを訴えた。
 アメリカの国力が強くなり、それとともに米語の力が強くなって米語がイギリスに逆流するようになると、本家イギリスでは米語に対する強い拒否反応があったという。
 書は、1787年の第三代大統領トーマス・ジェファーソンが使用した新語「belittle」(みくびる、けなす)に対してイギリスの雑誌が激しくたしなめたことを挙げたり、1863年にはカンタベリー大寺院の司祭が「女王英語がアメリカ人によって下品にされている」と憤慨したことを紹介している。1938年には、ある下院議員が議会での演説で、アメリカへの航海に出発しようとしている旅行者に対して、「アメリカ英語を覚えて帰ってこないように希望する」という趣旨の警告さえ出した。
 しかしながら、1940年代に入るとイギリス人の中にも現実を直視し、アメリカ英語への理解を示す動きが起こった。「アメリカ英語は英語に対して有用な貢献をしている。なぜなら、それは明快で、生き生きとし、美しいからだ」という論調が現れた。第二次世界大戦が終わると、アメリカの国際社会における影響力が絶大なものとなり、それとともに、イギリス人によるあからさまなアメリカ英語批判も少なくなった。そして、些細な言語的相違を問題視するよりも、共通の言語を持つアングロサクソンの絆を重要視する発言も現れるようになった。
 現在のアメリカ人とイギリス人は、互いの言語をどのように意識しているのであろうか? アメリカ人の多くは、数多く派生してきたイギリス英語の中の1種類と見なしていて、特別な思いや偏見をもたずイギリス英語との相違を冷静に見ている、と本書では述べている。また、イギリス人もアメリカ英語を英語圏の一英語として認め、イギリス英語から見て正しくないとかあまりにくだけているとは思っていないというものであった。ただ、調査を行った中のイギリス人の20%は、「アメリカ英語は、文法規則に厳格ではない」、「イギリス英語には似ても似つかない」、「あまりにくだけすぎている」と思っていると述べている。
 
   ■ ウェブスターの改革
    18世紀末のアメリカにおいて言語面での独立を訴え、それを実行したの
   は愛国心に燃えた辞書編集家のN.ウェブスター(1758-1843)であった。
   彼は、コネティカット州出身でイェール大学を終えた後に、教師をしたり弁
   護士を開業したりしていた。教育の改革を志した彼は、まずよい教科書を作
   ることを考え、1788年に The American Spelling Book というベストセラー
   の教科書を出版した。この教科書は全国で一千万冊も売れたと言われるが、
   発音に忠実に綴るというアメリカ英語の伝統を作った。
    ウェブスターの愛国心は、1789年に発表した Dissertations on the
   English Language という論文にはっきりと現れる。その中で彼は次のよう
   に述べた。
 
「アメリカは名誉ある独立国だから政治的にはもちろん、言語においても
独自の体系を持つべきであり、その場合、英国の英語はもはや基準とはなり
得ない。なぜなら、その英語は衰退しつつあるからだ」
 
    ウェブスターが、アメリカ英語の綴りの改革を提案したのは、1806年に
   出版した A Compendious Dictionary of the English Language と1828
   年の An American Dictionary of the English Language という二冊の辞
   書においてであった。
 
 
 
 ■ アメリカでは使わないイギリス言葉 
1990年から2000年までは、仕事の関係上イギリス人と付き合うことが多く、イギリスへも何度か渡った。
イギリスへ来て面白かった言葉を紹介する。
 
often: 私はこの言葉を「オーフン」と発音するように中学校時代と高校時代に習った。決して「オフトゥン」とtを発音しないようにと。しかし、イギリスに来てイギリス人が「オフトゥン」と発音したことに仰天した。それも一人や二人ではなく、大学の教授あたりの教養ある人も使っていた。アメリカ人はこの発音をしない。もっともアメリカ人はoftenよりusuallyを使っているような気がする。6年前、デトロイトに行ったときオハイオ州生まれの米国人が、私と二人だけの会話で「オフトゥン」を使った。彼とは10年来の付き合いで、人となりを良く知っていたので、彼はシャレのつもりでこう発音したのだと合点した。彼が後にも先にもこの言葉を使ったのはあの時だけだった。テレビか何かで英国風の番組を見て感化されたのだなと思った。
 
 このoftenについて、先日、「英文法の謎を解く」(副島隆彦、ちくま新書、1995.8.20第1刷)を読んだ折りコメントが載っていた。
 「この[しょっちゅう][しばしば]を意味するoftenだが、アメリカ人は[オフン]と発声し、イギリス人は[オフトン]と発声する。英米で発声が違う音だと言えば、それで済むことなのだが、実は、アメリカ人でも、oftenのtを発音する人が増えており、[オフトン]と言うようになって来ている。このへんのことは、実は、もっと細かく、[英米音の違い]として、日本人向けに書かれた本を出版すべきなのである。イギリス人とアメリカ人の間では、双方の言語学者が、語法だけでなく発声の違いを巡って、それこそ殴り合いケンカのような学者論文や一般啓蒙書が何十冊も出版されていて、よく読まれている。ちなみにカナダは、英連邦(The Commonwealth ザ・コモンウェルス)のファミリーなので、イギリス音に近く、カナダ人は[オフトン]と発声する人が多いということもある。」 (1999.5.22記)
 
cheerio: ロンドンっ子が別れ際に使う言葉のようである。初めて聞いたとき何と言っているのかわからなかった。「チアリオ」と発音するそうだが、私には「チャオ」と聞こえた。ラテン語の「チャオ」という挨拶言葉を彼らの仲間に通じる言葉として使っているのかと思っていたらちゃんとした挨拶語だった。アメリカだったら、
    See you.
    Have a nice day.
    Good bye.
    Take care.
    Take it easy.
などと言うのだろうが。このCheerioは、50才前後の男が別れ際に使っていた。知り合いでも何でもなく道を聞いて別れ際に Cheerio! と言い合うのである。これも、他日Oxford 大学の物理学博士に聞いてみた。これはやはり古い言葉で若い人は使わないと言う。ちなみにこの物理博士は私と同年代の44歳である(2000年当時)。最近見た映画「TITANIC」で、主人公 Jack が三等客室の仲間達と元気に挨拶をするときこの「cheerio」を使っていた。主人公 Jack は二十歳そこそこ。とすると、1910年代ではこの言葉は若い人たちにも使われていた? 
 話はそれるが、最近聞いた話で、Jackというのは、Johnの俗称で、友達に対する愛称らしい。身分が良くなってくるとJohnと呼ぶのだそうだ。海賊なぞは、民度が低いのでジャック(Jack)となる。
  
at the moment: 今んとこは、今回の場合は、という意味でイギリス人はこの言葉をよく使う。話し言葉の最後につける。つけることによって前の話が決定的で絶対的なものではないニュアンスを漂わせる。この辺はとても日本的だ。アメリカ人はといえば、基本的に言い回しの最初にあいまいな旨を意志表示する。I' not sure that〜等のように。
  
Did you !:昨日でっかい魚を釣りましたよ。」 「Oh, did you !」(オー、ィッジュゥ)という会話が成り立つ。イギリス人は相づちを打つのに、このDid you ! をよく使う。これも、最初聞いたとき、何を言っているのかわからなかった。わからないから返す言葉が無くて会話が止まってしまう。わかってしまえばどうってことないことなのだが・・・。このほかに、
    Are you?
    Is it?
    Does he?
などと使う。
  
toilet: アメリカで、「トイレに行きたい」とはっきり言うのはタブーとされている。トイレに行きたいときやトイレを教えてもらう場合は、rest roomとか、men's room はどこかと訊ねる。決してtoiletと言ってはならない。日本語でトイレは品がいいが、「べんじょ」ははしたない。何やら臭ってきそうでいけない。「オシッコしてきます」なんてもってのほかだ。このもってのほかが「toilet」に当たるらしい。しかし、イギリス人は頻繁に「toilet」を使う。
アメリカの仲間同士の言葉では「P」(ピィー)を使う。これは、どうも幼児言葉かもしれない。アメリカ人に聞いてみても良く使うという返事はない。映画「フォレスト・ガンプ」で主人公フォレストが大統領に会って握手をしながら、「今の気持ちは?」と訊ねられたとき、ドクターペッパー(Dr. Pepper)というドリンクを飲みに飲んでオシッコを我慢していた彼は、「I wanna P.」と言った。知恵遅れの、場所と時をわきまえないフォレストの発言に、アメリカ人なら爆笑するシーンだ。このピー(P)はアメリカ以外では使われていない。イギリス人に聞いても、オーストラリア人に聞いても知らなかった。アメリカの会社で身内の会議の際、休憩時間を「ピータイム(P time)」と言っているというのを聞いたことがある。茶目っ気のあるアメリカ人ならではのことである。ちなみにPはpissの略でションベンを意味する。
  
pint of: イギリスで食事をするのはパブ(Pub)が定番だ。アメリカにはこの手のレストランが少ない。ニューヨークのような大都会にはあるだろうが、普通あまり見かけない。しかし、イギリスはこのパブが社交の場である。言っておくがパブには日本人が想像するようないかがわしいニュアンスはない。日本のようにお店の女将が客に媚びを売ったりすることはまずない。1杯のビールで人生を語らう社交の場である。老いも若きも寄り集って楽しいひとときを過ごす。ちなみにイギリスで一番人気があるのがビールである。ウィスキーと思いがちだがこれは違う。ウィスキーは北部スコットランドのお酒であり、ロンドンに代表されるイングランドのお酒ではないのである。従って、イギリス人はあまりウィスキーを飲まない。たいがいビールである。さもなくばワインである。ワインに造詣が深いことがソーシャルステータスの目安とされている。私はワインは全くダメなのでこの辺の事情はわからないが、イギリス人はワインを好んで飲む。
 さて、ビールを頼むとき、アメリカではビールの銘柄を指定するだけでよいが、イギリスではビンや缶では出してくれいないため、銘柄と容量を指定する。そのビールの種類たるやすさまじく多い。地酒だからである。ビールの容量の単位がpint(パイント)である。1パイントは日本のビールの大瓶約1本分(0.568リットル)である。この半分がハーフパイント(half pint)。イギリスはフランスが提唱するメートル度量の仲間入りをしているが容量、重さに関しては依然ポンド法を採用している。水10ポンドの重さの容量が1ガロン(4.563リットル)で、その1/4が1クォート(quart)。1クオートの半分がパイントとなる。つまり8パイントが1ガロンとなる。日本では縄のれんをくぐって「生、ちゅう(中)」とやればそれですむが、イギリスでは「a pint of lager, please」などという。ラガーだけでは通じない場合があり銘柄を指定しなければならないが、その銘柄が多いのでお気に入りのビールを見つけるまで一苦労である。
  
a: アルファベットの最初の文字である。Oxford 大の人間と話していてcastle(城)の話題になったとき、彼は、「ースル」と発音した。わからないでもなかったが、「キャスル」ではいけないのかと訊ねた。彼は、「イギリス人は、少なくとも(教養ある)私は、そう発音しない。それはアメリカ語である。アメリカ語を英語と思ってもらってはこまる」と応えた。うぅ〜ん。aは、cだのbだのvだのが前につく場合、アーと発音するよりェア(ae)(= 発音のシンボル記号が出せないので失礼)と発音するのが一般的ではないかと聞いたら、それは米語だと応えた。catは「キャット」ではないかと聞いたらら、正しくは「カット」だと言った。だが、cutではない、catだ、と言ったが発音の違いがわからなかった。確かに、イギリスでは I can't を「アイ カ〜ント」と言っているなぁ。(1998.10)
 なぜ、イギリスとアメリカでこの母音の違いが認められるかというと、それはアメリカがこれらの言葉を輸入した時期が17世紀初頭であって、その後、母国イギリスでは[ae]という16世紀あたりまで使われていた発音が変わり[a:]音になったけれど、アメリカはそのままイギリスの古語をそのまま使い続けたからだそうである(大石五雄著「英語と米語」丸善ライブラリー177)。面白いことに、この[ae]音はアメリカ西部に色濃く残り東部は[a:]が使われているという。その理由は、ニューヨーク、ボストン、南部などはイギリス文化に近くて、独立した後もイギリスの文化や流行にあこがれてイギリス英語の変化に対して敏感に反応し、急速にそれらの都市に広まったからだそうである。(2001.04.01)
 
the: 冠詞。カナダ人を家庭教師にもつ友人Kとの話:
 「安藤さん、the appleのtheってどう発音します?」
 「定冠詞のtheだろ、母音の前につけるtheは「ズィ」って発音せよって中学からそう習ってるよ。」
 「でしょぅ! でも僕の習ってる先生は、そんな区別しなくて[ザ]で統一しちゃって良いんだって言ってる。」
そんなバカな、と、ちょうど折り合わせたOxford(英国)から来ている人間に聞いてみた。
 「僕ら学校で冠詞の発音の区別を習ったけど、イギリスはthe apple や the End は、[ズィ]って発音してるんでしょ?!」
 「いや、必ずしもそうでもないよ、少なくともOxford 州では[ザ]って発音してる。知っての通り、イギリスは非常に古い国だから、言葉の発音が地域地域で微妙にズレている。統一なんてとれてなくて地域地域で使ってる。それでも、我々はわかっているから問題ない。もっとも、スコットランド言葉やイングランド南東部では自分たちでもわからない訛でしゃべる人たちがいるけど。」
 「へぇ〜、びっくり、じゃぁ聞くけど、ニュースのアナウンサは、the appleを[ズィ]って発音してる?」
 「[ザ]って発音してるよ。」(1999.04)
その後、研究熱心な私は、八重洲ブックセンターへ行った折、高校英語の参考書を調べたが、すべて、母音の前の定冠詞theは、[ズィ]と発音せよ、と書かれてあった。
 そうこうするうちに、今週、今度はOxford大学出身のインテリが来日した。同じ質問をしたら、
「うぅ〜ん、やっぱりthe[ズィ]って言うよ、だってthe End[ザ・エンド]なんて発音しにくよ。」
彼が言下に[ズィ]だと言わずに、うぅ〜んとしばらく考えて応えたのが印象的だった。ちゃんと学校では習わないような感じを受けた。「こういう問題って、小学校や中学校の国語(英語)のテストに出ないの」と聞かでもの質問をしてしまった。
いやいやこれは奥が深い。つまるところ、我々が習ってる英語って一体なんだろなぁと思わされてしまう。今回来日したインテリの方が文章いっぱい書いてるし、技術論文もいっぱい書いてるから信用出来るんだろうけど、私のように文章をいっぱい書いてる日本人だって、
   「五、六、七、八」を
   「ごう、ろく、ひち、はち」
と発音し、
   「ごう、ろく、しち、はち」
が正式な日本語であることをつい最近まで知らなかったしなぁ。
ちなみに、これは名古屋から西は、今も七を「ひち」と発音し「しち」とは発音しない。(1999.04)
 
J Walker: 2000年6月に家内とイギリス・パリを旅行した。ロンドンでは、歩行者が横断歩道を車を縫うようにして、信号を無視して渡る人が多いのに気づいた。今回は、ヒースロー空港からレンタカーを借りてロンドン市内の宿泊ホテルまで運転したのだが、運転する側から見る歩行者は横断歩道から身を乗り出すようにして我々の車が通過するのを見ているので、彼らがいつ飛び出すか気が気ではなかった。翌日、我々が地下鉄に乗って目抜き通りに出て歩いているときも、赤信号なのに渡る歩行者を何度も見かけた。昨年、英国人が来日し、大阪駅の近くを一緒に歩いていた際、大阪の人たちが信号を無視して横断しているのを見て、We say that's J Walker. It's regal in UK. と言った。信号無視横断者をJ Walkerと言うんだそうな。もちろん由緒正しい英語辞典には載っていない。彼は、この法(J Walker)は英国のみであって米国にはないと言った。本当に合法的かどうか知らないが、東京よりも頻繁に信号を無視して横断歩道を渡る大阪の人に親しみを覚えたのは確かである。しかし、J Walkerとう言葉はどこから来たのであろうか? Jは、JackとかJohnから来た言葉であろう。この言葉は英国人の一般的な俗称で通っているらしい。スコッチウィスキーに、Johnny Walkerというブランドがあって、そのラベルに胸を張って堂々と歩いている人が描かれているが、その姿になぞらえて言っているのであろうか?(2000.07)
  
1990年に英国に行ったときの写真。左の写真は郵便ポスト、日本と同じだ!!
 右の写真は、投宿したホテル。
イギリス人は総じて古いものを大切に使う。
特に家は昔ながらのものに手を入れて長く使うのが好きだ。
これは、ドイツでも同じ。
アメリカや日本のようにケバケバしい看板がないので、
ホテルも、パブもよく見ないとそれがホテルかどうかの識別が難しい。

 ホテルは、会合や、結婚式にも使われる。
この写真はホテルの駐車場に停めてあった新婚さんのウェディングカー。
 
 ロンドン橋、京都鴨川のように血生臭い歴史のある名所。
 
 
 
●日本人の英語と英語圏の英語(1999.04)(2007.06.14追記)
 
 英語を母国語とする人と日本人の英語感覚には微妙にズレがある。
 観念的に覚える日本人の英語と実際に使われている現地の英語では語感のニュアンスが違う。
 
Memorial: 2007年5月、カナダの関連会社社長が来日し仕事を共にした。その社長はとても勉強熱心で、カナダで仕事を営む傍ら2年間ほど日本語を勉強していた。しかし、日本語の修得は一筋縄にはいかずとても覚えきれなかったと言い、3年前に勉強を辞めてからはすっかり言葉を忘れてしまったと嘆いていた。カナダでの勉強は個人レッスンであり、カナダ在住の日本人を先生にして習っていたという。授業料は、1時間50ドルで2時間、週一のペースだったそうでだいたい月4万円くらいの授業料を払っていたということになる。カナダ在住の日本人は40才くらいの女性であったそうである。
 来日した彼は、当事使っていたテキストを持ってきていた。久しぶりの日本出張で、日本語を少し喋りたいと思ったのであろう。トロントから東京の14時間のフライトでそのテキストの1/4ぐらいを復習したと言っていた。
 東京から踊り子号に乗っている間中、そのテキストを使って日本語の復習をした。私が英語のセンテンスを喋り、彼が日本語で訳して答えるという形となった。また、彼が日本語の単語を発音して、私が英語で英訳するという相互学習も行った。彼は日本語を勉強し、私は英語の勉強をするという先生と生徒を相互に演じたことになる。2時間近く飽きもせず行った。
 とても面白かったのは、彼が「kekkon-kinenbi」(結婚記念日)と質問したのに対して、私が「Memorial wedding day」と答えた時であった。そのとき、彼は豪快に笑い、そんな英語はないデス!と言った。
Memorialと言うのは、とても悲しい出来事の記憶という意味なのだそうである。だからMemorial Day (戦没者記念日)と言ったり、Memorial War (戦争記念日)という言葉を使い、楽しい記念事は、anniversaryという言葉を使わないといけないと教えてくれた。同行した仕事仲間の日本人にもこのことを言ったら、彼もMemorialには悲しい出来事の記憶という意味合いは理解しておらず、楽しい思い出もメモリアルで良いと思っていたと言った。愛のメモリーっていう歌があるくらい日本人はメモリアルという言葉に哀しい意味合いを持っていない。失恋すれば悲しいのであろうが・・・。これはとても興味あることだった。ほとんどの日本人は、この言葉の意味を理解していないのではないか、と思う。実際に、英和辞典で調べてもmemorialは悲しい出来事の記憶という意味では紹介されていない。例題を見て、はじめてそのような意味合いに取れる言葉を見い出すことができる。
 実際の所、結婚生活そのものが人生の墓場だという人もいるので、そういう人にとってはまさにMemorial wedding dayだろうと我々は納得したのであるが、くだんのカナダ人は苦笑いをしただけであった。
 
 
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●僕の英語の参考書 (1998.9.27→2001.04.23)(2007.06.15追記)
英語を学ぶようになっていろいろな本を読んだ。以下の本は英語を学ぶ上で非常に参考になった。
 
『英語の基礎』 梶木隆一 旺文社
 高校時代に購入した大学受験用の参考書である。非常によくまとめられていた。これが一番の基礎である。この本を徹底的に頭に入れておけばだいたいの応用が可能である。この参考書が今でも本屋にあるかどうかは知らない。少なくとも息子(高校1年、1998年)はこの参考書を知らない。
 
『英文標準問題精購』 原仙作 旺文社
 高校時代に大学受験用として購入した参考書である。一流の作家の文が紹介されてその解説と対訳が載っている。ここに乗っている文章は日常会話では使うことはまずない。また、新聞や雑誌の言語もこれらの参考書に載ることはない。日常会話や新聞などには文学的味わいが無いし、難しい単語や言い回しも使わない。この参考書には、ラッセルやモーム、スタインベックなどの文章の触りが載せてある。言い回しや、英語圏のインテリの考え方、書き方が参考になった。
 
『試験にでる英単語』 森一郎 青春新書
 高校時代(1971 - 1974)に大学受験用として購入した参考書である。ここに出てくる単語をマスターすればだいたいの本は読めるようになる。もっともこの単語を全部理解すれば相当難関な大学に合格できる。私の場合、半分程度しかマスターできず大学に入った。社会人になって英語学校に通うようになって再び目を通すようになった。今でも年に1回はこれを見て単語力のポテンシャルを測っている。
 
『日本人の英語』 Mark Petersen (マーク・ピーターセン) 岩波新書
 社会人になって、名古屋に出張した折り名古屋駅の松坂屋のブックストアで買い求めた。新幹線で東京に帰る時に読んだ。あまりにも面白くて車中でほとんど読んでしまった。Petersen氏は日本語がうまい。日本語がうまいからついつい話題に引きずり込まれる。日本人が間違えそうな言葉使いをおもしろおかしく紹介している。theやa(an)などの冠詞の使い方とか、ofの使い方を実例を挙げて紹介している。その後、気が向くと読み直して6回ぐらい読んだ。
 
『続 日本人の英語』 Mark Petersen (マーク・ピーターセン) 岩波新書
 『日本人の英語』の続編。好評だったための続編と思われる。日本語がうまい。英語もうまいだろうけれど。気が向くと読み直して5回ぐらい読んだ。
 
『心にとどく英語』 Mark Petersen (マーク・ピーターセン) 岩波新書 (2001.03.26記)
 マーク・ピーターセンさんの本が好きで、「ボチボチ別な本が出ているかな」と名古屋に出張した折、名古屋駅の三省堂書店で買い求めた本。やっぱり面白くて一気に読んでしまった。これも前の本と同様何回も読み返せる本となるであろう。初版は1999年3月19日。私が購入したのは2000年6月のもので6刷であった。この本は英語の言い回しの微妙な部分を映画の中にその表現を求めて引用し説明している。映画の題名も多くの人がわかるようなスタンダードな映画(ローマの休日、カサブランカ、ゴッド・ファーザー)を引き合いに出して題材としている。面白かったのは日本の映画(小津安二郎監督:秋刀魚の味)を引き合いに出してそれが英語の字幕になった時のニュアンスの違いも紹介し、日本と米国の文化、考え方の違いを浮き彫りにしていたところである。日本語を良く知って、国民性も良く知っているマーク・ピーターセンさんならではの視点と感心した。
 
『英語と米語』 大石五雄 丸善ライブラリー177 (2001.04.01記)
 イギリス英語とアメリカ英語の違いを歴史的にながめ、発音、綴り、句読点、略語、語い、古語・古語法、地名、互いの反応について書かれた書物。アメリカとイギリスで発音がなぜ違うかの理由がこの本を読むことによって理解できた。ずっと疑問に思っていたcatやfastなどのa音の違いや、r音を巻き舌にしてしゃべるアメリカ人がどうしてイギリスと違うのかを説明している。
 
『英語とわたし』 岩波新書(新赤版)702 (2001.04.15記)
 英語に深く関わっている著名人23名が英語との付き合いを寄せている。ニュースキャスターの筑紫哲也氏、スポーツランナーの有森裕子氏、劇作家の鴻上尚史氏、国連で活躍された明石康氏などの人たちが、色々な立場から英語との関わりや上達のヒントを教えてくれる。これらの人たちは、みな先天的に英語に堪能で、なんの苦もなく英語を身につけられたと思っていたのに、想像に反して私と同じような次元でもがいて英語を習得されていった様子がうかがえた。彼らに共通した英語の取り組み方は私と同じような見解で、好きになること、問題意識を持つこと、腐らず持続すること、であることを実感した。
 
『やりなおし基礎英語』 山崎紀美子 ちくま新書232 2000.01.20初版 (2001.04.23記)
 平易な文体で、英語と日本語の違いを十分に意識しながら親切に解説した本。英語の表現を完全に日本語に置き換えることは難しいことをこの本は教えている。つまり、英語にしかなくて適当な日本語がない単語や、その逆の言葉も多いことを教えている。また表現についても、英語には英語独特の言い回しがありそれを日本語に直す場合、日本人の感情にすんなりと入るような工夫が必要であることを説いている。I、you、they、などの主格を持つ英語圏の発言形態と、主語を曖昧にする日本人では表現のニュアンスが違う。here、thereのもつ空間の間合い、aとtheの違いなど日本人の「てにをは」に相当するツナギの部分の正確な理解でぐっと英語に近づくことができ、英語らしい表現ができると教えてくれる。また、この本は、英語の語源にも触れていて、ヨーロッパの多くの言語を吸収しながら「英語」が成立した過程を簡潔に、しかもわかりやすく解説している。
 
『英語の不思議発見』 佐久間治 ちくま新書
 英語の歴史について、単語がどこから来たのか教えてくれる。比較的平易な文で、冗談も交えて入り込みやすい構成になっている。この本を読んで、英語は、元祖ケルト人が使っていた土着の言葉にフランス支配によるフランスが移植され、哲学用語にはギリシャ用語があてがわれてきたことが良くわかる。
 
『英語口頭発表のすべて』 中村 輝太郎 丸善
 国際学会や、国際シンポジウムなどで英語で発表したことが3回ほどある。国際会議で発表する際に参考にした本。中村氏自身が何度も国際学学会に参加されて、その体験を元に書かれているのでわかりやすい。日本人が陥りやすいミステイクも細かく紹介されている。
 
『科学技術英語の書き方』 松本 安弘・アイリン共著 北星堂書店
 国際学会や、国際シンポジウムなどで英語論文を書き上げるとき参考にした本。1983年に購入。かなり高度な技術論文を引用して詳細な解説が加えられている。技術論文の言い回しを学ぶ上で参考になる。
 
『Bellcrest』 Oxford University Press
 日米会話学院に通学していたとき(1981年)に使用したメインテキスト。Bellcrestと呼ばれる自動車部品メーカの営業課長を主人公に、会社が開発する自動車コンポーネントの売り込み、マーケッティング活動を通して実際の英会話を学ばせるというもの。教材は、テキストと会話テープ、それにビデオテープの素材があり色々なシチュエーションで会話の習得を行う。なかなか面白かった。一緒に勉強した学校の仲間とは「営業課長の秘書は美人だ」とか「マーケッティングコンサルタント会社のマーケッティングレポートは信用ならない」とか、かなりのめり込んだ会話をしていた記憶がある。学校を卒業してテキストを見直してみるとイギリス英語が多いのに気づいた。
 
『イギリスはおいしい』 林 望 平凡社
 最近(1998.6)読んだ本。林氏は慶応大学を卒業して青山学院で教鞭を執っておられる。イギリスをこよなく愛されている。イギリスの食べ物はまずいという定説を肯定しながらも、深い愛情でイギリスの食事事情に言及している。自分も何度かイギリスに訪れ英国への情が移った。最初はうまくなかったビールもうまいと思うようになった。
 
【私(安藤)の経験】
 オックスフォード大学界隈のパブでビールをハシゴした。その時は、3人でパブに繰り出した。イギリスでの風習では、3人でパブに繰り出すと3軒ハシゴしなければならない。1軒目では、一人が仲間を含むビールの代金を全て払う。2軒目は私が払う。3軒目は残りの者が払うという具合である。ここではキャッシュ・オン・デリバリー(現金引き替え精算)なので、ゴロンとした渋い黄金色の1ポンド硬貨を7、8枚ゴロゴロとカウンターに出した。イギリスの1ポンドは分厚くてゴロンとして扱いにくい。そのオックスフォードのパブで、深夜になるまで1パイントのビールで人生や哲学を語り合っていた若者が印象的だった。イギリス人はパブであまりツマミというものをとらない。1パイントのビールだけで延々と人生を語り合うのである。これは印象的だった。
1パイントのビールを3杯も飲むとさすがに酔う。だが、ミュンヘンで飲んだ2リットルのジョッキに比べればまだましだ。
 
 また、この書物では、cocs(コックス)と呼ばれるリンゴの話や、fish and chip(フィッシュアンドチップス)という国民大衆の食べ物の話などおもしろおかしく紹介している。
 食は文化で、texture(舌触り)が非常に大きなウェイトを占めていることがわかった。「そば」ののどごし、海苔のアオコのような匂い、ボテッとしたヌルヌルのナメクジのようなシイタケなど、これら食材の舌触り(texture)は理論ではなく、幼い頃から身につけた個人の文化だ。
 
『アメリカ素描』 司馬遼太郎 新潮文庫
 私の一番好きな作家、司馬遼太郎が初めてアメリカに渡った時のアメリカについての話。アメリカを知りたくて、私が最も信頼を寄せる人物のアメリカの切り口を見ようと思って読んだ本。4回ほど読み直した。単に読んだだけでは理解は難しい。実際にアメリカに行って、自分で感じたことをこの本にぶつけて見てはじめてこの本の良さがわかってくる。しかし、司馬さんは2回しかアメリカに行ってなくてこれだけの考察ができるのだからすごい。
 
『北アメリカ』 - 猿谷要 地域からの世界史-15 朝日新聞社
 アメリカを知るならこの本。猿谷氏は大学の専門がアメリカ史で、アメリカの歴史に詳しい。詳しいのみならず、この本は平易だった。アメリカのダイナミズムを感じることができた。特にインディアンとの攻防、奴隷問題など今なお現代アメリカに色濃く根ざす問題の経緯がわかりやすく紹介されている。2、3年前(1996)にディズニー映画で上映された「ポカ・ホンタス」に出てくる主人公の歴史的位置づけもこの本で紹介されている。
 
『リンカン - アメリカを変えた大統領 -』Russel Freedman
 アメリカジャーナリストRussel Freedmanが書いた本。私が小学校時代に読んだ伝記とはかなり違い、真のリンカンを書き表しているような気がした。南北戦争がかなり長引いて、リンカンの躁鬱状態が激しくなったり、ゲティスバークの演説は歴史的に有名となったが実際はそれほど大々的なセレモニーだったわけではなく、北軍が勝利して現代アメリカが出来上がったときに、逆に後代の人たちが歴史をさかのぼってリンカーンのこの演説に再度スポットライトを当てて有名になっていったこと、などが記されている。これがホントの歴史なんだろうなと思わせる記述がふんだんにある。
 
『BACK TO THE FUTURE A screenplay by Robert Zemeckis & Bob Gale』 - 外国映画英語シナリオ (株)フォーイン クリエイティブ プロダクツ 1992.6.12
 生の英語を理解するには現地で英語漬けになるのが一番であるが、そうそうチャンスはあるものではない。1983年初めて渡米した折りに、現地のアメリカ人夫婦と『Star Wars』を見に行った。しかし、残念ながら映画の中の会話が1割も理解できなかった。悔しくて帰国してから字幕スーパー付きの同じ映画を見た。「あぁ、これはこのことを言っているのだ。」と喉のつかえが下りたのを記憶している。
 六本木の書店で、ハリウッド映画を英語シナリオ本で売っているのを見つけて買ったのが「Back to the Future」。この映画は私のお気に入りで、テレビで放映したものをビデオに録画し、日本語吹き替えをOFFにして英語のみで5、6回見た。そんなとき、書店でこの本が目に止まって買い求めた。シナリオのみで言葉の解説はない。そもそも映画は話し言葉なので、この手の本は文法的な意味合いを探るよりも、話の調子を文字で浮き彫りにさせるのに便利である。これを買って6年が経過し、再度見直をしている。見直していると、今までわからなかった語句や、彼ら独自の話し言葉の調子の取り方などがわかってくる。だが、タイムマシンを設計したBrown博士は早口だ。それに難しい物理用語をしゃべる。アメリカ人なら、この博士を気ちがい扱いにして面白おかしく位置づけ、彼の言葉の一字一句など追い求めないが、話のよくわからない我々は一字一句を追い求める。これは結構野暮な注文だと気づき始めた。映画は、英会話の良き教材だと思う。
 
 「フォレスト・ガンプ - 一期一会」もお気に入りの映画でこれはビデオを買った。シナリオは持っていないが、10回ほど見ている。フォレスト・ガンプの母親(サリー・フィールドSally Field)の気品ある東部の英語と、知恵遅れを演じるトム・ハンクス(Tom Hanks)の話し方のコントラストが巧みだ。
 
 最近見た「タイタニック」も英語の宝庫だ。イギリス、アイルランド、シカゴなどの英語が聞き取れる。船の甲板で「Cheerio」(今は、ロンドンの年寄りが挨拶に使う言葉)と挨拶していたのを見逃さなかった。また、主人公の若い絵描きJackは、ウィスコンシンの片田舎チッペワ・フォールズ(Chippewa Falls)生まれであることも聞き取れた。邦訳の戸田奈津子さんは、これらせんない内容は割愛している。チッペワ・フォールズ(Chippewa Falls)なんて、セイモア・クレイの本を読んでない限り絶対に聞き取れる言葉ではない。
 
『字幕なしで映画がわかる 映画に"よく出る"英語表現』 岡山 徹 編著 SSコミュニケーションズ 1992.8.3
 英語の表現を集大成した本。とにかくスラングや独特の言い回しが事細かに解説されている。一回読んだだけですべてわかればお見事。普通はそうはいかない。これを読んで、おぼろげな英語表現をつかんで、実際に映画を見て、また読んで・・・。これを何回も繰り返す。実際の所一般的な会話にこんな会話がなされているのだろうか、と思うような表現も解説されている。きっとこういう映画で流行語が作られ、これを見た友達同士が言い合って悦にいるんだろうと思われる。とはいっても何度も渡米し日常会話のスラングがわからなくて落ち込んでしまう場合には、こういった書物や映画は何らかの参考になるかもしれない。汚い言葉は知っていても決して使わないように。
 この本には、1990年代初頭までの代表的な映画作品の中の、犯罪、脅迫、愛、取り調べ、殺人、裁判などの英語表現が紹介されている。
 
『「アカデミー賞」の英語』 小西克哉 著 カッパブックス 1991.3.30 初版
 アカデミー賞を受賞した映画にスポットをあてて、小気味良い英語の言い回しに解説を試みたもの。著者は私と同じ年代(1954年大阪生)の小西克哉(こにしかつや)氏。小西氏は、東京外語大学を卒業後1984年テレビ朝日の「CNNディウォッチ」でキャスターとして活躍。英語を交えた音楽とアメリカ事情のトーク番組を持っていた。最近はテレビに出ているのを見ていない。映画が好きで音楽が好き。音楽は私と同じくサイモン&ガーファンクル、ピーター、ポール&マリーが好きだそうだ。英語に興味を持つ人はこれらのシンガーソングライターを好む。ビートルズよりも好む。
 この本は、上で述べた岡山氏の本よりもわかりやすい言い回しについて解説が加えられている。アカデミー賞を取ったくらいの作品だからたいていの人は知っているし、そうしたバックグランドを前提としておもしろおかしく解説が試みられている。小西氏は英語、特にスラングをよく知っているので、海外に出て向こうのスラングに閉口したことのある人ならきっとおもしろく読み進むことができる。(1999.2.24記)
 
『大草原の小さな町』 Laura Ingalls Wilder
 アメリカの原風景がこの本にある。アメリカの開拓がどういう形で行われていったか知ることができる。この本は、邦訳でしか読んではいないが、原風景を知った上でアメリカを考え、英会話を知る上では貴重な本だと思う。それにしても西部開拓はチャレンジの固まりだ。冬は寒いし。気候は厳しいし。それでも彼らは教育を徹底して行っている。そもそもアメリカ自体が建国して即座に大学を作ったのだから納得できる話である。
 
『The Old Man and the Sea』 Ernest Hemingway
 原文を3回読み直した本。大好きな本と言うわけではないが、前置詞の使い方(on、at、in、around、under)が巧みに織り込まれていて、文章から状況を頭の中で展開するのに好適な作品だった。(1998.10.5)
 
『アメリカよ!あめりかよ!』 落合 信彦 集英社文庫 1991.6.25 第1刷
 落合信彦氏の高校からアメリカ留学、ペンシルバニア州オルブライト大学でのエピソードを綴った自叙伝。英会話上達の秘訣、アメリカ人の考え方、1960年代の世界を背負ったアメリカの様子がうかがえる。落合氏の家庭環境が赤裸々に書かれてありビックリした。落合氏のことはテレビコマーシャル(ビールの宣伝)程度しか知らなかった。世界を股に掛けるバイタリティある国際ジャーナリストというのが私の落合氏像だった。
 この本の出会いは、甥っ子がうちの息子に読み終えた書物を一抱えくれ、その中にこの本があって取り上げて読んだもの。
 落合氏は、母主家庭で育ち、夜間高校から米国奨学金制度に受かって単身アメリカに渡った。英会話上達法は、映画だった。丸一日映画館に詰めて何度も映画を繰り返し見た。高校卒業時は映画の内容が理解できるようになったと言うからさすが。
 空手の特技が米国大学留学で大いに役立ったのも特筆するエピソードだろう。(1998.9.20)
 
『変わるイギリス 変わらないイギリス』 石川 謙次郎 NHK出版 1993.8.25 第1刷
  著者石川氏は、時事通信社時代、ロンドン、ブリュッセルなどの派遣社員として活躍された方。私の知らない英国社会を、日本語で紹介してくれた。時代の流れでイギリスも変わりつつあるが、いまだ古いしきたりから抜け出せなくてあえいでいる。それがイギリスらしさであるとも思えた。この本では、イギリス社会には、未だ厳然とした『階級』があると説明する。私は仕事柄、イギリス人とは大学の先生や、電気、物理学の高等教育を修了した人たちとしか会わないから、これらがイギリス人だと解釈してしまう。しかし、イギリスには、7つの階級が厳然とあり、我々日本人が「学歴」に異常に固執するように、イギリス人は我々の学歴以上に階級、出自に固執するという。同書にはこう書かれている。
 「階級の区別はかってのようにはっきり定義はできないにしても、依然として残っている。イギリス人なら、おそらく30人中29人までは今日でも、自分がどの階級に属しているかはっきりと言うことができるはずである。だが、イギリス人は物事をはっきりと定義することが嫌いでおぼろげなままにしておく傾向がある。が、イギリス人の興味の対象は階級であり、その人が、または自分がどの階級にあるか興味津々である。」
 「・・・たいていのイギリス人には、イギリス人らしさの一部である階級意識がしみ込んでいる。・・・あらゆる階層のイギリス人を20人ほど救命ボートに乗せてみるとよい。2、3時間もすれば、彼らが自分たちの階級差に気づくことは想像に難くない」
 どうやって、階級差に気づくか? 石川氏(書の中で、イギリス系フランス人、トニ・マイエールの著『イギリス人の生活』を引用)によれば、それは、
   名前、地位、財産、家系、教育、語彙、言葉のアクセントやイントネーション、服装
で気づいていくとある。つまり、階級によってつける名前が違うのでそれでわかる。階級が地位を保証するので地位で階級がわかる。家系が階級を作るので家系から階級がわかる。差別のために英才教育コースがあるので出身スクールや大学で階級がわかる。階級同士で使う言葉が生まれ、言葉を共有することで階級の差別化をしている。服装でも階級がわかる、という仕組みだ。こうした客観的な事実からイギリス人は相手がどのような階級の人かを見抜くのだそうだ。これは面白い着眼だ。わたしもこれから会うイギリス人に対しこうした見方をしてみることにしよう。はたしてうまく行くかどうか。ちなみに、鉄の女、元英国首相マーガレット・サッチャーの階級は、下層中流階級から何とか中層中流階級にはい上がった人と書かれていた。サッチャーが下層中流階級だとは考えても見なかった。
石川氏は言う。
 「下層中流階級の人々はつねづね、労働者階級とはなんとかして一線を画したいと考えている。それだけに押しが強く、最も倹約家で、また中層中流階級以上に上品ぶっているともいわれる。その結果、成功した人はこの階層特有のアクセントを矯正し、ヒースやサッチャーのように中層中流階級にのし上がる。ヒースの発音がちょっとおかしいとか、サッチャーのアクセント、イントネーションがいかにもわざとらしいといわれるのも、このような事情を背景としている。」
 サッチャーは、リンカシャーの田舎町グランサムの食料雑貨商の娘で、奨学金を得てオックスフォード大学に進み中層中流階級の仲間入りを果たしている。エドワード・ヒースは、1970年第49代の首相に就任した人でOxford大学ベイリャル・カレッジで学んだが、彼の親父は建築労務者だった。
 
 この中で、語彙や言葉のアクセントの考察は面白い。どの階級がどういう言葉を使うのか調べると自ずと階級がわかるらしい。この本を呼んで、私が付き合っている人たちはイギリス社会の下層・中層中流階級らしいことがわかった。上流階級は貴族で、日本でいえば皇室やその類に属する人たちだ。まず、我々と直接関わることはない。問題は(イギリス人の関心事は)、中流階級で3つに分けられる上層、中層、下層という階級らしい。これに自分や相手がどこに入るかということが一番の興味であるらしい。中流階級の下は労働者階級と言われている。
 同書の中で紹介している上流、中流上層階級がこれ見よがしにつける子女の名前は以下の通り。
  男子:  チャールズ、マーク、マシュー、ピアズ、ペリグリン、サイモン
  女子:  ダイアナ、ディアドリ、フィオナ、セーラ、ペネラビ
 
 イギリスは大きく分けると二つの国民があるといわれている。つまり、金持ちと貧乏人。日本でもこの分け方は当てはまる。アメリカでは民族で貧乏と金持ちに分ける(持つものと持たざるもの、過去には持つものがWASPであり、持たざるものが奴隷の黒人であった)。イギリスの場合は、日本と同様、民族で分けるのではなく、階級として差別する。日本は昔、職業で階級を作っていた。英国の労働者には労働者の言葉づかいがある。それが、『マイ・フェア・レディ』で実に見事に再現されている。このミュージカルは、シンデレラのようなストーリーなのだが、このくだりで、ロンドン、労働者階級の町イーストエンドに住む主人公、貧しい花売り娘イライザ・ドーリトルが話す言葉が、労働者階級の言葉、コクニー訛りなんだそうである。
 
   The rain is Spain stays mainly in the plain.
      ライン スパイン
   In Hertford and Hampshire, Huricanes hardly happen.
    アーフォード     アリケーン  アードリー アップン
 
彼女が繰り返し訓練し矯正されるこの発音がコクニー訛りである。つまり、aの発音を「アイ」と発音し、hの発音を発しない。hの発音を発しないのはフランス人だが、この影響を受けたのかな? aを「アイ」と発音するのはオーストラリアが得意じゃないか。Good Day(グッド ダイ)は有名な言葉だ。オーストラリアは、日本で言えば江戸時代の佐渡島の関係にあった島の歴史があるからこうした言葉が標準語化したのだろう。
 
 こうした階級にいまだ縛られている英国ではあるが、新しい波も訪れていることはいる。1990年11月首相官邸入りを果たしたメージャ首相は、労働者階級の底辺からはい上がった人だ。イギリスの政治家はOxford 大卒が牛耳る中、中学の学歴しか持たないメージャ氏が首相に就任したことの意義は大きい。日本で東京大学で彩られた官僚の中で中学卒の田中角栄氏(故人)が首相になったときの新鮮さ以上の出来事だったように思える。
 また、同時期、もう一人、公立中学校を出ただけでイギリスのもう一つの頂点に達した人物がいる。カンタベリー大主教に就任したジョージ・カーリーである。
 彼らは、「階級なき社会」を標榜した。しかし、革新的な改革はまだなされていない。日本でも官僚に対する学歴偏重の問題がある。これはいずこも同じかなと考えさせられた。(1998.10.25)
 
『英文法の謎を解く』 副島 隆彦(そえじま たかひこ) ちくま新書041 1995.8.20 第1刷
  私と同世代の筆者が、銀行員時代の海外生活体験を通じて得た内容を紹介。日本の英語は、根幹的な英語教育をしていないから英米人にとってはわかりづらい英語を話していると指摘している。学校時代に習う英語には、相当古い言い回しの英語表現もあるという。現在の米語は平易な言い回しになっているのに、我々が習う英語は古いふるい古色蒼然とした言い回しがあるそうだ。以下、その引用:
 It's kind of you to ----
It's kind of you to come to see me. 「来てくれて ありがとう」
この英文を、ふつうのアメリカ人・イギリス人の前で使ったら、あなたは、相手から、ポカンという顔をされるだろう。「何だ、おマエは、日本の名門貴族の出なのか。爵位でももっているのか」
 この表現を使っていいのは、日本では、雅子妃、紀子妃レベルの人たちである。あとの人間は、使ってはならない。It's kind of you to ---- は、きわめて上品で、上品過ぎて、もはや、歴史上の雅語に入れられている表現である。したがって、正しく訳すなら、「ご来駕の儀、まことにかたじけなく候(そうろう)」とか「お目にかかれて嬉しう存じます」ぐらいの感じである。つまり、私たちが使えば時代劇になるということだ。 (1999.4)
 
TV番組 - NHK Weekend Japanology  日本放送協会のテレビ番組ウィークエンド ジャパノロジー (2007.06.15)
 テレビ番組である。NHKは、英語番組として『英語でしゃべらナイト』という人気番組を持っているが、この番組は日本の文化を英語で紹介する番組。少し硬い番組である。前者のように若い人向けというより海外の親日家向けという色合いが濃い。毎回トピックを中心に、キャスターのピーター・バラカン(英国人、音楽評論家、Peter Barakan 1951 - )、菊地真美がゲストを呼んで英語で話題を掘り下げる番組構成となっている。トピックは、相撲であったり錦鯉であったり漆塗器であったり短歌であったりする。日本古来の文化を英語でどのように表現するのかとても面白くて興味がわく。興味あるトピックなので知らず知らずに英語の表現が身についていく。番組は、地上波の総合放送(東京CH1)では日曜日の深夜1時10分から1時55分までの45分間放送されている。この番組は、NHKワールドTV向けの番組らしく、このチャンネルでは同じ内容を週6回ほど流しているそうである。私は海外向けサービスのNHKワールドTVを直接見た事はないけれど、日曜日の深夜、仕事をしながら、パソコンの小窓にこの番組を映し出して視聴するのが日課になっている。(もっとも、一般の会社員の方はこの時間帯は休み明けの仕事はじめの深夜なので直接試聴することは難しいであろう。)内容の濃い、語学力をつける意味でも良識番組である。
 
 
 
 
 
 
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●英語のいろは (1998.8.22)
 英会話に上達するには、とにかく『好きになること』、これ以外にない。好きになれば集中度が違うし、持続力も増す。何よりも取り組み方が違ってくる。問題は、どうやって好きになるか、である。英会話は、音楽の楽しみ方と良く似ている。音楽の好きな人は自然と旋律を覚えてしまう。音楽音痴な人は、面白味を感じず上達もスローである。歌が好きな人ほど英会話の上達が速いのも、英会話がリズムであることを物語っている。また、しゃべることの好きな人ほど上達が速い。もっとも会話の内容はそれほど実があるわけでなく、いわゆる「オシャベリ」であるケースが多い。上達の速い遅いの個人差は当然あるとしても、英会話がうまくなりたいという問題意識と持続力があれば絶対にモノになる。
 では、何によって好きになるか?
 人には、何かかにか興味を持つものがあるものである。服飾に興味を持つ人、野鳥や自然界の営みに興味を持つ人、コンピュータに興味を持つ人、ジャズが好きな人、スポーツが好きな人、等々。自分のくみしやすい所から英会話の山を登り始めるのが上達の近道である。それは、ちょうど幼児がことばを習い覚えていく過程に似ている。上達の根底に流れるのは一にも二にも「好奇心」である。これが無くなったとき、上達の道は閉ざされる。「好奇心」を持つこと、「好奇心」を持続させること、得られた知識を整理すること、その知識を有効に使うこと。これらが頭の中で高速に回転し出せば上達は速い。歳をとれば「好奇心」は枯渇し、持続もしなくなる。
 
 ●オウム返し、別な言い回し
 幼児のことばの発達過程を見ていると、親や身近な物を興味深く見てそれをまねることから習得していくようである。音楽もリズムで習得するし、スポーツでもそうだ。私は海外出張して、会話をする際、彼らの言い回しをできるだけ自分で復唱するようにした。これは決して恥ずかしいことではない。相手もわかってくれたかどうか確認できるのでありがたいようだった。「これはわからない」、「今何て言った?」、「あなたはこういったのか?」、「別の言い方をするとこういうことか?」などと言い返す。こうしたことが恥ずかしくなく相手に聞けるようになると話をしていて随分楽だ。
 
 ●英語で考える
 朝、友達に会ったら「Good mornig. How are you tody?」 という。
日本では、「おはよう」、「おはようございます」この二つだけでいい。しかし、日本人で朝の会話は何から始まるかなんて考える人なんて滅多にいない。朝は、「おはよう」、「おはようございます」に決まっている。
 では、アメリカではどうだろう。アメリカは多民族国家だからいろいろな風習を持ち込んでいるが、だが、おそらく日本語と同じで無意識に「Good mornig. How are you tody?」と言っている。日本では、「おはよう」といわれたら、「おはよう」、「おはようございます」と同じことをいえばいい。目上と目下で敬語がちょっと変わる程度だ。英語だと、「Good mornig. Fine thank you. How are you tody?」となる。会話が日本語より長くなりちょっとネチッこい。これを日本語的に考えると、体の調子を聞いてきているのだから何か気の利いた事を言わなければならないと考える。だが、ここであまり深く考えてはいけない。これらは、キマリだから決まりに従って応えれば良い。相手だって決まり文句を期待しているのである。日本語でもそうだが、会話には一定のパターンがある。パターンはパターンだからこれは鵜呑みにしても差し支えない。「ありがとうございます」、「さようなら」などの語源を言える日本人なんて1割もいないだろう。社会の交わりは、取り決めがあると便利なことが多く、挨拶だってこの取り決めがあってうまく社会が動いていく。電車などで相手の肩に触れた場合、チョットぐらいだったら、昔は無言ですませた。アメリカでは、ほんのちょっと触れただけでも血相を変えて「Excuse me !」と大きな声を出す。こうした習慣が日本にも及び、電車などで肩があたると「失礼」と声をかける人が多くなった。どうってこと無いことなのだが、言うと言わないでは人に与える気持ちが違う。いろいろな状況で出す言葉をカードを出すようにして出せばよい。ちなみに、アメリカで「Excuse me !」と大きな声を出されたときどうするか? 大したことでなければ「I 'm all right」でよい。この札(カード)を頭から出せばよいのだ。
 頭の中にはできるだけ日本語が入らないようにする。少なくとも会話中は、である。英語の言葉がそのまま頭の中に残るようにする。後でも述べるが数を数えるとき数を一々日本語に直していたらすごく時間がかかる。英語の単語のまま頭の中にしまっておく。英語の数字でしゃべれるようになれば、英会話の明日は明るい。
 
 ●英語で話す
 要するに、英語で頭の中を満たす。頭の中は感情、計算、判断などの中枢があり、その出入りとして言語があると考える。情報の入力は日本で住んでいれば日本語だが、外国に行って英語で情報を出し入れする時は日本語の回路は切る必要がある。少なくとも速く情報を入れて判断して出す(しゃべる)場合は、である。そのためには、状況によってしゃべるパターンを頭の中にいくつか入れておかなければならない。これが、学ぶ(まねる)ことであり、学習である。パターン化することが上手なほど上達が早い。運動能力、音感などと同じような頭の能力が要求される。歌を歌うことが好きな人は英会話も上達が早い、が、英会話の上達が早い人が歌がうまいとは限らない。念のため。何せ、米国では2億5000万の人が英語をしゃべっているのだから、すべて歌がうまいことになってしまう。これはちがう。
 頭の中を英語で満たしたら次に、考えたことを実際に使ってみることである。使わなければ上達しない。自分の思っていることを英語で相手に伝える。伝えることにより、その言葉が自分の本意とした伝達情報であったかがわかる。
 こうした学習を通していくと、会話をする相手はどのような話し方をするかに興味を持つようになる。服装だって、靴だって、コンピュータだってそうしたものを買って初めてより深い造詣が得られる。問題意識のレベルが一段階上がるのだ。
 黒人、高校生、老人など彼らは彼らなりの言い回しをもって言葉を共有している。
勇気をもって話す、最初の一歩を踏み出す。この踏み出しで上達が決まる。 
 
 ●数字が言える、わかる
 英語学校へ通って、なるほどと思ったことは、数字を英語で言わせることだった。英語で聞き取り、英語で話す。数字を自由に操れるようになると英会話の上達は速い。日本語でも英語でも日常会話の大半は数字が占めている。
     this $200
 この二つの単語だけで、実際の現場で十分通じる。例えば、デパートで$250の正札のある洋服で、この言葉を店員に投げかけたとすると、店員はすかさず《200ドルにまけろ》と判断するに違いない。店員は、なんやかやとあなたに説明をするに違いない。その説明は、
・これは、値引きできない。
・別のものなら$200で買えるものがある。
・ほかのものと抱き合わせだったらこの商品を$200で提供できる。
の3パターンであろう。従って、あなたはその説明を、そのパターンに網を張って全身全霊を傾け聞けば良い。
    I $200
 次にこの二つの単語をしゃべると、店員は《あなたは200ドルしか都合できない》と判断するに違いない。店員は、200ドルで互いがハッピーになれる提案をするだろう。200ドルの支払いに対する代価がいかにあなたに有効な価値があるかを説明するだろう。この時、店員の能力によって様々な展開が想定される。相手が英語が不得手であることを忘れてくどくどとした英語で始める店員もいるだろうし、実際に200ドルで買える別の品物を示しながら250ドルの品物との違いを簡潔に説明する店員もいるだろう。あなたは、店員がどういう反応をするか待てばよいことになる。
 
また、こんな会話の状況を想像してみる。
 ・米国に行って道を尋ねる 《三つ目の信号を左、3マイル先》
 ・明日の集合場所を教えてもらう 《午前9時、国際センタービル18階、1821号室》
 ・ホテルを予約する 《8月30日、シングル1室、3日間》
 ・野球の進行を見る 《三回の表、2アウトランナー2塁、カウント2アンド1、スコア3-2》
 ・電話番号を知る 《東京 81-3-3404-2321》
 会話でいかに数字が多いかわかるだろう。数字がわかるだけで会話の大筋がわかろうというものである。数字を言葉に表すときは一定の決まりがある。これをいち早く習得することが大事である。米国では、インチを使うし、ポンドを使う。ガソリンはガロンで、距離はマイル。土地の大きさはエーカー。はやく感覚をつかまないと大変だ。お金の感覚もドルだと数字の重みがわからないから鈍感になる。日本円だったら100円、1,000円、10,000円の重みがよくわかるのに、ドルではその価値が良くわからない。単なる紙切れに思えてしまう。実際に向こうで働いて、働いて得た2,000ドルなにがしかで生活すれば重みが出て来るであろうが・・・。
 また、米国人は、half(半分、1/2)、quarter(1/4)をよく使う。長さの目盛りも1/2、1/4、1/8、1/16と半分ずつ細かくなっていく。10進法にのっとった少数点表示は一般的でない。
同じ数字が並ぶとき、英語ではどれだけの数同じ数が並ぶかを最初に言う。
  four eight( = 8888)
  three seven and five six( = 777-66666)
という具合にである。日本語にはこれらの約束がなく、ハチハチ ハチハチと抑揚をつけて話す。まれに「ハチが四つ」という言い方をする。こうした数字表現をいちはやく習得する必要がある。
 
 ●ブロックで英語をつかむ
 ご存じのように、アルファベットは26文字しかない。日本人は、漢字(熟語)を一つのブロックとして認識し、複雑と思われる言語を意の如く操っている。漢字しか扱わない中国語もおそらく4つとか5つの漢字を一度に把握しているに違いない。英語も同じで、いやむしろ26文字しかないから単語がひとつの文字と見なされる、1センテンスを一挙に把握する。毎日接している言葉だから、センテンスはあまり逸脱しない。日本語の季節の挨拶や、手紙の書き始めの無意味な挨拶と同じである。決まり文句なのである。少しは崩しても大きくは逸脱しない。ならば、そうしたパターンを早く習得した方がいい。そのためにはたくさん本を読む。よく目を見開いて。そうすると何度も同じような言い回しが出てくる。
 
 ●センテンスで英語をつかむ
 ブロック毎になじんだ言葉が出てくると、文章そのものが頭の中にしっかりと構築される。相手の頭にこちらの言いたいことを伝えるためにはしっかりと構築された文章でないといけない。これは英語力以前にその人そのものの能力である。日本語でこれができない人は、英語ではなお難しい。5W1Hを明確にせよ、と会社でレポートを書く若者に口を酸っぱくして言うが、日本語もおぼつかないと英語も・・・。
 
 話は余談になるが、日本人で、自分の考えを文章にまとめるのが恐ろしく苦手な人が多い。たかが日本語じゃないかと思うのだが、お客と話した内容をまとめてレポートに出せと要求すると、1日も2日もたって2、3行の報告文が上がってくる。それを見て愕然とするわけだが、あまりにもそうしたことが多いので、逆に興味を覚えた。なぜ日本語が文章化できないのか。日本語文章化に悪戦苦闘している社員をそれとなく覗いてみる。あまりジロジロ見ると嫌がられるからチラッと見る。こうした人たちのパターンを何通りか整理してみた。文章化が苦手な人は、以下のような理由を持っている。
 
  ・言葉が少ない(会話が如何に限られた少ない言葉でできているかの表れ)
  ・漢字を知らない(こういう人は辞書を引くのも慣れていないから書くのが嫌になる)
  ・文章がまとまらなくて嫌気がさす(会話が如何に散漫な言の葉の羅列であるかわかろう)
  ・話し言葉と書き言葉が違う
     (普段書いてないからどういう具合に文章を書いて良いかわからない)
  ・書きたい内容が頭の中で整理されていない
 
文章を書き始める初期は誰でも稚拙である。その稚拙さに自己嫌悪しておう吐を繰り返す。おう吐の繰り返しの中で徐々にうまくなっていく。
 この話は、英語の世界でも話し言葉と書き言葉で十分通じる話である。(1999.01.31)
 
 
 
 
 
 
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●アメリカに行けば赤ちゃんだって
 昨年(1997年)5月、単身渡米して、現地のアメリカ人と行動を共にした。週末、彼の家庭にお邪魔し、8歳の男の子と3歳の男の子と付き合うチャンスに恵まれた。3歳の坊やは、どこの国の子どもでも同じだろうが、自分の世界を共有させたいらしく、彼の宝物を次々と持ってきては私に見せてくれた。Star Wars(スターウォーズ)のビデオがいかに素晴らしいかを、自分が主人公になって、(私を憎き敵に見立てて)光線銃をお見舞いしてくれた。私は、その光線銃を受けて床に倒れねばならなかった。3歳の子どもの語彙力はそれほど多くない。また、会話も長続きしない。両親の手助けがないと私の言葉が理解できないのである。両親は子どもの言語の発達過程を知っており、日常慣れた言葉で声をかける。イントネーション(抑揚)もしゃべり方も両親でないと言葉が理解しずらいようであった。日本の赤ちゃんでも知らない人が「いくつ?」と訊ねて、指を2つ出せるのは相当学習した後でなければできない。母親か身内のものが「いくつ?」と同じことを訊ねて反応させる。飼い主の指示で芸をする犬に似ている。
 発音も舌が回らないためわかりずらい。だが、-th音や、v音、b音、c音は大きく口を開けてキッチリ発音しようとするので聞いていて勉強になった。
 8歳の坊やは、言語が完成していて、発音のちょっとおかしい日本人の英語にもすぐ順応した。3歳の坊やは両親の助けがないと私の言っていることが理解できなかったが、8歳の坊やは両親の介護がなくて大体理解できるようだった。逆に興に乗ると現地用語(スラングの混じった日常語)をまくし立てるのでこちらが理解できないことがしばしばだった。彼にとっては何がスラングか何が標準語かがわからないのだろう。私が息子に喋りかけると、息子は「今、彼は何て言った?」と親父に聞くことがあった。8際の坊やは、語り言葉と単語のスペルを一致させてしゃべらない。こちらは文法通りに話そうとする。彼は1センテンスを縮めて話したり聞いているのである。この経験は少なからずためになった。
何のかんのと言っても、要はパターンなのである。おきまりの言い方があるのである。それをいかにたくさん状況を踏まえて覚え、タイムリーに言葉を出すか。現地の赤ちゃんはこれをちゃんとやっている。
 
【20歳のヤンキー娘の話】
 社用でロスアンゼルスからコロラド州デンバーへ向かう機内で、昨秋(1996年)に大学を卒業して就職したばかりの娘さんと同席して話が弾んだ。彼女は、日本なまりのちんけな日本人がしゃべる変な英語が初めてだったようだ。生粋のヤンキー娘と話ができておもしろかった。我々が相手する外国人は、日本人独特のしゃべり方に慣れているため日本人にとっては話しやすいし聞き取り易いが、構文も、発想も違う日本人の英語は慣れない米国人には奇異だろう。日本語英語に慣れない米国人の年寄り連中は聞き流すが、20歳前後の娘はむきになって発音も構文も言い直す。これが実に勉強になる。同席したヤンキー娘は頭の回転が速く(私の3倍くらい)、言葉も頭の回転についてくる。シカゴ生まれのくだんのヤンキー娘は、シカゴのカレッジを卒業した後、親元を離れてアイオワ州Des Moines(デ モイと発音した)市の保険会社に就職した。入社8ヶ月目に5日間のバカンス休暇を取り、ロスアンゼルスにやって来た。ディズニーランド、ハリウッドなどの観光旅行をした後、デンバー、カンザスを経てクルマでアイオワへ帰るのだという。ロスから直接帰らないのはカンサス経由の方が飛行機便が安いため。140km/h以上でクルマをぶっ飛ばして2時間ぐらいで帰るのだそうだ。はきはきしていてとにかく明るい。興味もリアクションも20歳の娘らしくコロコロとよく笑い感動する。機内食を良かったら食べないか(絶食のためパスしたもの)と渡したら、うれしそうにポテトチップスとチョコレートをほおばっていた。「アイオワはポテトがとれるのか」と聞いたら、「それはアイダホ。アメリカでもアイオワとアイダホはよく間違えるわよ」、「アイオワはコーンが有名よ、それに牛。ブタもいるわよ、キャッ、キャッ」。

米国中央部コロラド州は、海抜1000m以上の高地。
前に見える山はPikes Peak(14,110ft = 4,300m)。
麓から一気に駆け登るカーレースで有名。
コロラドスプリングスは、高地のためスポーツの高地トレーニングがさかん。
 
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【飲み込め】
 というわけで、英会話の上達は鵜呑み丸呑み「飲み込む」ことに行き着いた。音楽の好きな人は3分程度の歌をこともなげに覚えて歌ってしまう。理論からではなく、メロディーが好きになり、リズムが好きになり、歌詞が好きになり何度も聞いて覚えてしまう。日本語だって飲み込んで育ってきているではないか。別れ際に交わす挨拶の日本語は、
 
 じゃあね
 じゃあ、また明日ね
 さようなら
 お疲れさま
 お先に失礼します
 ごきげんよう
 帰ります
 気をつけて帰れよ
 寄り道するな
 宿題やってこいよ
 いぬるで
 バイビィー
 
などを状況に応じて使い分けている。これらの言葉は学校では教えない。自然と成立するものなのだ。そう、赤ちゃんが大人の言うことをまねながら言葉を覚えていくように。
 
【飲み込む環境を作れ】
 状況に応じて、現地人がどのような言葉を使っているかは現場に行ってみないと十分な理解が得られない。一度でも海外に出かけて、しっかりと目を見開いて雰囲気をつかんでくれば、後は、書物を読んでも映画を見ても理解は速くなる。できるだけ頭を空っぽにして英語だけで受け答えするようにする。変に自分の環境ができあがっていて英語の環境からかけ離れていると事は難しい。適応力が悪くなる。
 
【対極に自我があると上達は難しい】
 英語に限らず、物事の上達には本人がやる気にならなければ始まらない。心の動きがあって初めて頭が動き、体が動く。やる気は誰でも持つがそれを持続させるのが難しい。持続を阻害する内外の障害はいろいろ考えられる。その内の大きなものは、 
 
  ・アプローチ(勉強する教材、話題のレベル)が違っていること
  ・閉鎖的自意識
 
である。閉鎖的自意識とは、恥ずかしがることである。米国では、人前でいかに説得力をもって話すかというのが重要な教育の科目として位置づけられていて、高校課程でも「スピーチ」のカリキュラムがあると言われている。方や日本人はこの分野は野放し状態であり、これを行う教育カリキュラムはなく、意識のあるものと才能のあるものが我流で身につけるに留まっている。
 私は、よく「自意識」とはなんだろうと考えることがある。自意識は、自分を位置づける精神の柱みたいなもので、少なくとも赤ちゃんにはない。自我が目覚める3歳位から「人見知り」が始まり、これが自我の始まりだろうと言われている。
 人見知りは何故起きるか?
人見知りが激しいと、知らない人の前で自分の平素の精神を維持することができず、行動が著しく阻害されてしまう。
 人見知りは自己防衛反応であるのだが、場合によってはマイナスの効果もある。民族が多くて、すべてを成文化しないと社会が機能しない米国では、自己主張することは非常に重要な要素である。日本では、不言実行が美徳とされ、社会生活の中の一部で根強く残っている。
 多くを語らず、意を汲み、察して行動する。
 滅私奉公(めっしぼうこう、自我を出さず心身共に捧げること)、これが一つの美学として社会の中に根付いている。特に、技能工や職人の間ではいまだ根強くこの文化が根付いている。
「口を動かす暇があったら、手を動かせ」
「口で諭すより、平手が飛ぶ」
日本という風土で、しかも限られた人との交流だけの社会であるならばそれはそれで完結する。
だが、英語となると話は別だ、英語を使いたい人にとっては打破しなければならない文化だ。
 内気な人は、実は、本当は内気であることを望んでいない。素直に自分を表現できたら(自らの呪縛を解き放つことができたら)どんなに気持ちがいいだろうと思っている。だた、多くの場合、それができない。心の中のブレーキをかける力が走ろうとする力よりも強いからである。このバランスの中で、わずかに走る力が勝ったとき人は行動を起こすことができる。
 人前で意見を求められたとき、真っ先に手を上げて意見を言うことができるだろうか。100人いる中で、率先してできる人はおそらく1人か2人である。
 こうした心の中の拮抗したバランスをどのように打破するのか。自らの意志で一皮剥けるのが理想だが、多くの場合そうはならない。自分に自信を持つこと。そしてチャンスをものにすること。言い古されたことだがこれしかない。
 他人の助けがあれば、比較的楽に打破することができる。小学校の発表会であったり、中学校の代表選手であったり、はたまた会社での社を代表した交渉の場であったり・・・、チャンスはいくらでもある。チャンスをどうものにするかが、日頃の意識の持ち方で決まってくる。小さいことから始める。できることから始める。いつも前向きに、ひたむきに・・・。
 自分をコントロールすること、ややもすると負けそうになる自分にうち勝つこと。自分に自信をもって行動する。自信を持つために努力をする。取った行動に対して自己中心的にならないように振り返る。時には気心の知れた友人・知人から自分を見てもらい、サジェスチョン(評価)してもらう。
 何度も言うようだが、これしかない。
 卑屈にならない心、素直な心、喜べる心、感動できる心、こうした幼心を持った人に女神は舞い降りて、最後に微笑を投げかけるのだろう。
 
 
 
 
 
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●英語を話せないアメリカ人(1998.11)
 何度か米国に渡った折、奇妙なことに気づき始めた。最初に気づいたのは、10年ほど前、仕事でカルフォルニア州サンディエゴ(San Diego)での投宿したホテルでのことだった。このホテルで働いている人たちはほとんど英語を話せなかった。話すことを禁じられているのではなく話せないのだ。よくよく見ると、中南米からの移民のようだった。
 
 サンディエゴはカルフォルニア州の南、メキシコ国境とは目と鼻の先にあり、車で30分もとばせばメキシコ国境に着く。沖縄と同じ緯度にあり年中温暖だ。軍港として栄え、アメリカズカップ(最も歴史と由緒のあるヨットレース)が開かれたところとして有名である。Sea Worldや動物園もあり、観光地としても有名なところである。今年(1998)は、米国大リーグで地元のパドレスがナ・リーグ優勝したことで名を馳せた。私が訪れたときはホントに弱小チームで往年の国鉄、広島、産経、今の阪神、ロッテのような存在だった。それが、今年(1998)はあれよあれよの優勝。もっともワールドシリーズでは、ア・リーグ優勝のやンキースに4連勝され1勝もできなかった。ヤンキースに入った伊良部が最初この球団から申し込みを受けたが、ひじ鉄を食らわせたことでも有名。
 
 現地では、こうした移民を受け入れ、中には不法入国者( = メキシコ国境からは引きも切らずアメリカに密入国するメキシコ人が多い)が最初につく仕事がこうした賃金の安い労働だ。メキシコ人はアメリカ当局が不法入国に目を光らせて国境警備を厚くして、追っ払っても追っ払っても入ってくるという。アメリカ資本は、こうした不法入国を歓迎しているフシがあり、このような安い労働力を頼っているのが実状だという。私の滞在中、これら一連の世論をおくびもなくテレビで放映しているのを見てビックリした。昨今の日本でも東南アジア、中近東からの安い労働力に頼る企業が増えてきているのと同じことが、大資本のアメリカで半ば正論として通っているのだ。元来、アメリカ人は、資本主義の性根が座っているのかも知れない。つい最近まで、いや、今も奴隷制度の影がアメリカ社会に色濃く投影されている。奴隷制度とインディアンの先住民問題(それとベトナム戦争後遺症)は、まだまだアメリカの暗い影を落としている大いなる遺産だと言われている。
 食うために新天地アメリカにやってきた人たちは、勿論英語がろくにしゃべれない。読み書きなど望む方が無理。日本人なら大抵自分の名前を書くことができるし、英語で書かれた標識でもだいたい識別できる。考えてみれば、日本の教育システムは、こと読み書き算盤(そろばん)に関しては世界でも第一級レベルで整備されていて、結果として労働の質が高い。これは世界的に見れば特異な事かも知れない。韓国も日本と同じように平均労働力のレベルが高い。こうした手習い(高尚な学問としてではなく、日常生活の読み書き算盤の類)は、江戸時代から寺子屋制度として庶民の間に定着し、高い労働力を維持してきた。労働の質が高いからそれから生産される物も高いわけか、と変に納得してしまう。
 
 日本人は、会社に対する帰属意識が高く、会社に対して終生忠誠を誓うことが美徳と受け止める社会風土がある。昨今の不安な社会情勢下で、会社も忠義な社員を一生雇うだけの余裕がなくなり、忠義だけで特に傑出した才能もない社員を雇い入れておくだけの甲斐性も無くなっているため、リストラによる社会構造の変革も余儀なくされている。なによりも、プロ野球を代表するスポーツ社会が欧米の契約制度を先取りしているため、多くの日本人が茶の間でこうしたシステムを見聞きし、自らの会社システムや個人の考え方に反映させているようなフシも見受けられるようになった。
 米国資本も、国柄の事情をよくわきまえていて、労働の役割分担をしっかり決めて、決められた内容でのみの労働力提供を望む。従って、日本のように絶えず労働者の質の向上を望んでそれを育てるようなカリキュラムではなく、質の高い労働力を外部から調達し、必要が無くなれば捨てるシステムになっている。従って、アメリカ社会では容易に会社を渡り歩くことができるし、会社も容易に解雇することができる。解雇してもアメリカ社会が失業に対して一定の補償をするというシステムが成り立っている。日本も失業保険、雇用保険、年金などが整備されてきてはいる。が、まだその意識のギャップは大きく、実際の体制のギャップにも開きがある。
 
 いろんな人々が移入してきてアメリカ社会を形作っている。移民者の中には、英語をしゃべれない人が多い。日本でも中国料理屋にいくと、日本語が良くわからないウェイトレスが働いているのを見ることがあるが、アメリカではいたるところでこうした人たちがいる。こうした人たちは英語がしゃべれない。一緒に移住してきた人たちの中で、真っ先に子ども達が米国言語に適用し英語を話すようになる。その子供の子供は、生まれ落ちた時から英語の環境なので逆に英語しか話せなくなる。こうして3代を経て完全にアメリカ社会に馴染んでいく。
 この過程をみると、英語を習得するには『適応』がいかに大事かがわかる。習うより慣れろ、である。英語の言い回しや、「てにをは」である前置詞の使い方は、アメリカで使っている慣用的表現から見聞きして憶えるしか早道の方法が無い。いかに心を無にして、子供心のように言語に馴染むかが上達のカギとなる。

 

【多民族の集まりアメリカ】
 度重なる渡米の度に感じることは、アメリカの民族の多さである。民族が多くて生活形態が多様だから、アメリカ社会もそこまで立ち入って統一しようとは考えない。しかし、言語は別だ、意志の疎通がなければ物事が始まらないから言語に関しては英語を中心としたアメリカ英語を作り上げた。その集大成がウェブスター辞典である。アメリカ英語が集大成されたため、本家イギリス英語と若干の相違ができた(イギリス人に言わせると、米語は似て非なるものと公言してはばからない)。なにせ、米国は、イギリス植民地から独立を戦争で勝ち取った国だから、自分たちの言語を形成したかったのだろう。イギリスプロテスタントの民族が主導になってアメリカが作られていった。正当なアメリカ英語はある。文章化すれば一目瞭然だ。
 しかし、話し言葉は違う。民族の違いによりどうしても間違う発音や言い回しが出る。
 日本人は、「 r と l 」「 b と v 」「 c と sh とth 」などが苦手だ。correctとcollectの発音の違いを見抜けるのはかなりの英語通である。Vはブイではない。ヴィーと発音する。上の歯で下唇を噛み息を吹き出す。これは、日本の発音にはない。そもそもaをアと発音すること自体がまれだ。
 
 これは、明治時代日本の50音順をローマ字表記に置き換える際、「あ」を「a」として規定し、「い」を「i」に、「う」を「u」に、「え」を「e」に、「お」を「o」としてドイツ語表記(正確にはラテン語表記らしい、わたしはラテン語を知らないのでドイツ語に似ていると解釈した)に置き換えてしまったことの後遺症である。
  ba、bi、bu、be、bo
 これを英語読みにしたらどうなるか。ベイ、バイ、バッ、ビィ、ブゥ、となり、とても、バ、ビ、ブ、ベ、ボとはいかない。
 
 だいたい、こうしたabcのアルファベットを英字と呼ばずに何故ローマ字と呼ぶのか、ローマなんてどれほど日本に影響力を持ってラテン語を普及させたのか?という疑問が残る。ローマ字を集大成した明治時代のJ.C.ヘボン(ヘップバーン)(James Curtis Hepburn: 1815-1911)は、アメリカペンシルバニアからやってきた長老派宣教師で、かつ医師だった。彼は、村田蔵六(明治維新の官軍の参謀、長州出身、司馬遼太郎『花神』の主人公)らに医学を教える内、ローマ字表記統一性の重要性に気づきローマ字表記法を集大成した。それ以前は、オランダ語が外国語ではなかったか。明治以降は、英国よりドイツに多くを学び医学はドイツ語を大量に輸入した。それが、なぜローマ字???。
 
 ローマ字の集大成は、確かに明治時代に集大成を迎える。先に挙げたヘボンが集大成した日本語の表音表記(ヘボン式ローマ字)と、ローマ字は、日本語の50音に表記すべきとする田中館(たなかだて)らによる日本式ローマ字の二つが統一を巡って論争を続け、1937年(昭和12年)に統一見解が出される。これは、訓令として出されたため、訓令式ローマ字と呼ばれた。訓令式ローマ字は、田中館らの主張を大幅に取り入れられたものだった。しかし、太平洋戦争後、米国の管理下におかれた日本では、訓令式ローマ字表記が、米国英語とかなり違っていたため再度表記の見直しが行われ、吉田茂内閣の1954年(昭和29年)訓令式新表が発布された。それでもローマ字の歴史は深いため(ローマ字は、室町末期からの使用されていたため)、完全な英語の表音と50音の表音を一致させるのは無理だったようだ。
 
 ちなみに、なぜローマ字と言うのかというと、日本に最初にアルファベットが入ったのは16世紀フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝道のための聖書だったと言われている。あの当時、言葉の表記が一番進んだ言語はラテン語であり、その中でもラテン語で書かれた聖書が一番の文章言語であった。そのキリスト教の本山がローマにあったというわけである。室町末期の時代から江戸期を通じてこうした西洋の外来文字をローマ字と称していたようである。だから日本では、ラテン語を表音記号の本山とした。以後、ポルトガル語、オランダ語、ドイツ語、フランス語、イギリス語、アメリカ語が次々と入ってきて、古来の日本語とごちゃごちゃになりながら表記としてのローマ字が明治時代まで書き続けられた。(1999.01.31)
 
さて、話題を英語の発音に戻す。
 
 aはエイが一番オーソドックスな発音である。本家イギリスはアーと発音することが多いがアメリカは大抵エイである。appleもエイプルと発音するのがアメリカらしい。私の名前のAndoを、アメリカ人は、エィンドゥと発音する。従って、外国から電話がかかってきて「Mr. Ando, Please.」と相手がしゃべると、取り次いだ女性は遠藤さん(会社にいる別の人)に取り次いでしまう。世界的に有名な日立も英語表記は「Hitachi」だが、「ヒタチ」とは言わない。「ハィ〜チ」である。Hiはヒとは発音しないのである。ハィなのである。我々の世界で有名な東京大学名誉教授 植村(うえむら)先生は「ウエムラ」と発音されない。「ユエーラ」なのである。「U」は「ウー」ではなく、「ユー」なのである。
 去年の春、アメリカへ行って飛行機で乗り合わせた女性との会話で、Detroitという都市名をデトロイトと発音したら、「ディトロイト」と直された。Deはeの表音であるからイーであって、エーではない。Deはデではなくディなのである。reportも正しくはレポートでなく、リポートである。
 インド人は「thousand」をタウザンドと発音しth音を独特に発音する。three thousand はトゥリー タウザンドという。三と木が一緒なのだ。
 フランス人は「h」を忘れて発音する。フランスからかかってきた本田さんあての電話は、しっかりと「恩田さん(おんだ さん)」と言っていた。
 韓国人は「z」音が苦手で「zu」をジューと発音してしまう。長崎の人たちもこのザジズゼソが苦手で、ジャジジュジェジョと発音しているのを何回か聞いたことがある。
 ラテンの人たちは「r」を巻き舌でルと発音する。ドイツ人は「G」をジーと発音しないし、「i」をアイと発音せずイーと発音する。
 これらの発音は、幼児の言語の発展過程で口の動かし方を見よう見まねで親や身の回りの人々やテレビなどで吸収するためである。また、個体差があるためにうまくしゃべれる人と得意でない人ができる。
 こうした言語の形態を持った人たちがアメリカ大陸で一つの国家を形成しているのだから何かと大変だろう。貧富の差も大きいだろうし、意志の疎通も大変だ。食えない人たちは略奪しても当然と考えるだろうし、背に腹は代えられず自衛手段で武器を持つようになる。こうした、行き違いを防ごうと、言葉による主張、歩み寄りが必須なのは十分に考えられる。日本のように以心伝心で自分の考えが伝わると思ったら大間違い、何も言わないのと同じである。確実な意志表示ができなければ意志がないものと見なされる。弁護士を立てて自分の主張を代弁する稼業がもてはやされるわけである。
 
【まずは感情の動きを読む】
 言葉の前に感情がある。感情のmotivationにより言葉が形作られる。従って、相手の心の動きが予めわかれば、相手が発する言葉に網を張って待つことができる。日本人同士でも初対面で話をするとき、特に目的もなく場をつなぐときのだけの会話では、相手の真意や言い回しが分からなくて何度か聞き返すことがある。会話というのはある程度の互いの了解で成り立っていて、互いがわかるキーワードと互いが置かれた立場の相互理解で成り立っていることがわかる。
 我が家の息子たちはファミコン(今は、プレーステーション)が大好きである。のべつまくなしやっている。居間で彼らがファミコンをやっていて、私はそこで新聞を読んでいる。30分もして私が発する言葉は、子を持つ親ならわかるだろう。また、気の利いた子供ならどういう方面の言葉が返ってくるかもわかる。家(うち)の子ども達は、そういう点では強か(したたか)な輩どもだから、返す言葉を4種類くらい用意している;
 ・昨日は全くやらなかったから、きょうはその分余計にやる。
 ・これが終わったら遊んだ時間分、勉強する。
 ・お母さんが今日は良いと行った。
 ・これは借り物のゲームで明日までに返さなくてはならない、等、等・・。
それをオヤジの心の調子を横目で計って、オヤジの言葉に反応しようとしている。何て奴らだ、まったく。
 英語でも同じである。互いに置かれた立場でどのような会話が成り立つかは自然絞られるのだ。その絞られた会話に思考と指向を集中させて聞き入れば良い。
 相手の聞く耳を持たない人は、上達が難しいかも知れない。
 
 
 
 
 
 
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●書く、読む、話す (1999.01)

さて、そろそろ、『英語の話はあのねのね』、も終わりに近づいてきた。
英会話のとっかかりを求めて30年以上も七転八倒し、まだまだ違和感を感じている。それでも昔に比べれば随分と肩に力を入れずに聞き取れたり話したり出きるようになった。英語の上達は終わりがない、日本語でも同じだ。まだまだ時間がかかる。だが、年を取るにつれ集中力も持続力も途切れてきた。今持っている英語の実力だけで事をすますイヤな技術も身につけた。人生40年以上もやっていると新しいものには抵抗があるし持続もしない。
それでも英語は、仕事上でも、趣味でもひっきりなしに出てくる。体と心をむち打ってでも、意識を前に向け、手をまめに動かし、辞書を引き、考え、言葉に直し、実践する以外に道はない。
 
この項では、今まで述べてきた英語の上達法のまとめを行ってみたい。
 
話し言葉と書き言葉
 日本語と同じように、英語にも話し言葉と書き言葉の二つがある。書き言葉は本を読めばいい。話し言葉は実際に会話をするしかない。話し言葉は会話の中で身につけられる。話し言葉は、会話の中に存在する。
 話すことに慣れてくると、書くことがイヤになる。日本語でもそうだろう。話す方が格段に速いし便利だ。
英語が苦手な人に聞くと、英語は聞くよりも話す方が苦手だという。英語上達者に言わせると、英語は話すより聞く方が苦手だという。私は、もちろん聞くより話す方が苦手だった。言葉が出ないし、うまく発音できないからだ。聞く方は20単語の中に1つでも知った単語があれば、それから類推して何となくわかるのである。
 発展途上の人たちが陥る英会話のミスに、書き言葉をそのまま話そうとすることがあげられる。忠実に文法に従って話そうと意識するから、いつまでたっても英語が口から飛び出さない。会話は相互通行であるから互いに話さなければ持続できない。
 会話を持続させるためにいかにその殻を破って、口から言葉を出すかである。また、会話のパターンを如何に素早く身につけるかである。
 会話に慣れてくると、日常会話なんてあまり大したことは言っていないのだとわかってくる。日本語だってそうだ。会話など大したことをしゃべっているわけではない。
  「それどこで買ったの」
  「それいくらしたの」
  「昨日のテレビ面白かった」
  「明日はまだ水曜日で、土曜日がまちどおしい」
など、など、根も葉もない言の葉の散文である。つまり、会話はフレーズなのである。言の葉の葉っぱのようなものが集まって言葉が形成され、互いがそれで織りなして会話が成立する。
 英会話のとっかかりはそれで十分であろう、とっかかりができたらあとは、個人の能力と、興味あるものをグイグイ食べていけばよい。プロスポーツ選手が海外に渡って2、3年もするとまがりなりにもしゃべれるようになるのと事は同じである。

 

【英語で考える】
 英語で話すとき、できるだけ英語で考えるようにする。これに慣れないと英会話の上達は意外に難しい。これは単純に慣れるしかない。日本語環境にどっぷり浸かっているとどうしても日本語で考えてしまうため、日本語の組立から英語を作るようになる。しかし、これではあまりにも時間がかかる。とくに数字を扱うときに、日本の単位で考え、英語に直していたのでは時間がかかりすぎてしまう。100ドルは100ドルと考え、\12,000と置き換えないことである。10ポンドと言えばずっしりとした重さぐらいの意識で会話することである。4.5Kgだなどと絶えず頭の中で翻訳していたのでは時間がかかり過ぎる。6フィートは身の丈よりちょっと大きい程度、1インチは親指の巾程度の認識で、そのまま単位をとらえる訓練を行う。
 英語で考えるようになると、英語のフレーズが対をなして出てくるようになる。 
 英語の基本は、誰が何をするかを絶えず明確にすることだ。だから話す最初の言葉が、I、you、he、she、itという主語になる。日本語はどうであろう。多くの場合、主語がない。
「それいいね」
「それとってくれる?」
「だからやってくれって頼んだでしょう」
一つとして主語が入っていない。だけど会話がわかる。日本人は。
「ワタシは、そうは思わないけど。」
と言うときは、かなり自分というのを意識した言い方となる。
日本語は元来、そういうものだ。古文を学んだことのある人ならそうした言葉づかいに納得できるはずだ。古文には主語がない。文の中の言葉づかい、もっと言うと謙譲、尊敬、丁寧語の使い方で誰が誰に対してしゃべっているのかがわかる、というのが古来の日本語である。
 ところが英語は逆だ。先ず主語がある。それからどうしたいという動詞がその次にくる。そしてそのわけはどうしてだという説明が続く。英語の本質はそこにある。大事な事柄ははじめにもってくるというのが英語の基本なのである。日本語はその点、奥ゆかしい。文章が完結するまで文章が把握できない。
 
 「宿題をやりま・す」
 「宿題をやりま・した」
 「宿題をやりま・せんでした」
 「宿題をやりま・せん」
 「宿題をやりま・しょう」
 
最後のことばでこれだけ変わるのが日本語である。考えてみれば日本語は難しい。最後までフレーズを気を抜くことなく憶えておかなくてはならないのだから。 その意味では英語の方がとっかかりがよく、わかりやすいかも知れない。
 
【会話のキャッチボール】
会話は、一方向ではあり得ない。言葉を投げて、言葉を受けて、言葉を投げ返す。この繰り返しが会話になる。突拍子もない会話は成立しない。話す相手は、相手に向かって言葉を投げる。受け手が受け取れないようなボールは投げてはいけないと同じように、相手がわかるように話し手は受け手に言葉を投げる。
 受け手は、相手はこんな内容を話すだろうとだいたいの予想をつけて聞く。想像をはるかに超えた言葉であると、聞き返さなければならない。聞き手は、方向性をもって話し手の話を聞いている。気心しれた相手ならどんな話しをするかがわかるのでそれ程神経を集中しなくても相手の言うことがわかるし、自分の言うこともわかってくれる。初対面の人と話すときは難しい。相手がどういう興味をもっているかわからないからだ。一般的なビジネスでは、会話の目的がはっきりとしているし、会話には一般的なルールがあるから、初対面でも会話はスムーズに成り立つ。
 例えば、初対面では名刺の交換から始まり、時候のとりとめのない話し、会社の紹介、経済の様子、商品の紹介、お客の興味、質問、回答、・・・という具合である。
 これが、英会話となるとどうであろうか。英語社会でもビジネス英会話がある。しかし、・・・
 たとえば、こちらはきっちりとした英語のフレーズを知らなくて発音もしっかりできないビギナーだとする。そうすると受け手である相手がよほどうまくこちらの言葉を受けてくれないと会話が成り立たない。逆に相手の言っていることがわからないと、言葉を受け取ることができない。どういう言葉を投げてくるか不安で仕方がない。
 アメリカへ渡ったとき、ホテルの予約や、タクシーを呼んだり、お店でものを買うケースが出てくるが、想定される会話のフレーズ、言い回し(ホテルの予約をしたい、宿泊人数、いつまで、シングルかダブルかなど)が当然存在する。この場合、こういう言葉を知らないと話し手と受け手でかなり苦労する。したがって、日常会話をすんなり行うため、言い回し、フレーズを覚えることが重要なことになる。言い回しを覚えることで随分と会話が楽になる。
 特に、会話は、文法上では正確でない言い回しがまかり通るので覚える以外に近道はない。
 
【お調子もんほど上達が早い英会話】
 日本語でも、やけにしゃべるのが達者な人がいる。人前でしゃべるのがヘッチャラな人がいる。歌でもそうだ。スポーツでもそうだ。自信がもてると外的な環境に屈せず自分の普段の能力を出せるものである。
 英会話の上達は、詰まるところ屈託無く覚えていくことである。間違えても何でも、アハハと笑ってどんどん前に進んでいく。聞くよりも話す。
 リズム、リズム、リズム
リズムを持ってフレーズを覚えていく。歌うように会話を覚えていく。しゃべるのが達者な人はしゃべるのが楽しいからである。しゃべることのリズムを知っていて、そのリズムに酔いしれる事ができる人である。こうした人は会話でも何でも上達が早い。内容は知らないよ、内容は・・・。
 
【おしゃべりは嫌い】
 だけれども、オシャベリは総じて嫌われる。うるさいからである。聞き手の興味のあるなしに関わらず話しかけられて、留まることを知らないからである。時には相槌を打たなくてはならないし、聞き流せば、ちゃんと聞いてくれてないと拗(す)ねられる。無口なのも何を考えているかわからないので感心できないが、オシャベリも受け手に相当な負荷がかかる。じゃあ、どのレベルからオシャベリになるかというと、ちょっとむずかしい。きっと、相手の気持ちを考えずに一方的にしゃべり、その内容が自分中心で歯止めが効かない人がおしゃべりというのだろう。
 ある程度、英会話が上達したら必要な事だけを的確に話す練習をする必要がある。英会話の発達過程は、子供の語学発達過程とまったく同じである。子供はしゃべり始めると言葉を発するだけで皆が褒めてくれる。しかし、年を経る毎に年相応の会話が求められるようになる。英会話でも、会話に慣れない内はしゃべるだけで褒められるが、ある程度上達してくると今度は実のある会話内容が求められるようになる。しかし、これも日本語と同じで多分にパーソナリティに依存するから、オシャベリにもって生まれてしまったらそれを自覚して暮らすしかない。
 
 
 
 
 
 

●英語上達三カ条

最後に、今まで、英会話と付き合ってきて、英会話上達の3つの大事なことを3つ挙げる。
 1. 好きになる
 2. 集中する
 3. 持続する
この三カ条を絶えず守り、長い付き合いをすればいずれかものになると信ずる。その人なりに。
 
 

 - 完 -

 
 
 
 
おまけ
 
●ロンドン、パリ (2000.07.12)
 家内と連れだって初めて海外旅行をした。旅行先は、ロンドンとパリである。家内も英語を少しばかり話すことができるが、結婚して以来海外に出ることが無かったため、英会話が錆びついているのを心配して錆落としを兼ねて出かけた。初めは米国を含めて世界を一周するつもりであったがスケジュール的、金銭的に無理なことがわかり、ヨーロッパに絞った。フランスは私にとっても初めての土地である。今回の旅行の目的は家内の日頃の家庭の切り盛りに対するお礼を兼ねて、フランスがイギリスに及ぼした影響をこの目で見ることであった。
 
●ロンドンの町中
 ロンドンの街は古い町が保存されている。道路も狭く片側2車線程度が精一杯の広さで、大型トラックや大型バスが入る余地がないくらいに車道は狭い。ロンドンの2階立てバスはこうしたロンドンの町の道路事情によるものだと信じている。
 道路を挟んだ町並みも古い外観を維持保存している。日本のようにどんどん壊して新しい建物を建てるようなことはしていない。斬新な建物はロンドンの中心ではなく郊外の新しい場所に建てられているのであろうか?何度かイギリスの地を訪れ、郊外も自動車で走ったことがあるが、高層ビルにはお目にかかったことがない。ロンドン市内も郊外も古い町並みを維持している感じを受けた。
 昔(1995年当時)、イギリスからエンジニアが来日した折、彼を連れてクルマで茨城県つくば市を走ったことがあるが、彼はつくばの道路と町並みを眺めながらまるでアメリカのようだ、と言った。イギリスは街道沿いにレストランや会社の大きな看板がデカデカとせり出してはいない。静かなたたずまいの中に目立たぬように看板を出している。スーパマーケットも道路から引っ込んだ所に木々で隠れるようにして建てられている。だから我々異邦人には容易に判断できない辛さがある。昼飯を出してくれるパブにしてもホントにひっそりと看板を出している。古い看板であることを誇りに思っているように。
 ロンドンの歩行者は信号を無視して道路を渡る。これがロンドン流の横断の仕方なのだそうな。J-Walkerとい言って合法なのだそうだ。だが慣れるまでとても勇気がいった。
 上の写真は、ロンドンの中心街で見つけた果物の露商である。色とりどりのおいしそうな果物が、ロンドンのどよんとした曇り空の下で鮮やかに異彩を放っていた。
 
●若者男性の頭髪
 イギリスの若い男性の頭髪が短いのに驚いた。プロテニスプレーヤーのアンドレ・アガシのような坊主頭が流行のようである。日本は、今また髪の毛が長くなっている傾向にある。ビジネスマンの間にも20年前のような7:3に分ける髪型が減って自然に髪をながすのが流行しているが総じて長い。ロンドンの男性は総じて短く髪を刈っていた。わたしも髪を相当短く刈っているが、その私でさえも髪が長いのではなかろうかと思うほどこちらでは髪の毛を短く刈り込んでいる。
 
●ロンドンの自転車通勤
 日本で自転車に乗っているのでロンドン市内を走る自転車に否応なく目が行く。ロンドン市内はマウンテンバイクが多い。ロンドンの町の中の車道を自動車と同じ権利で走っている。歩道は自転車が走るのは無理で御法度のような気がする。クルマのドライバーたちもこうした自転車の走行する権利を認めているようで幅寄せなど嫌がらせはない。これは東京と随分違う点だ。ヨーロッパは自転車への理解が深い。オランダは自転車専用のレーンがあると聞く。ロンドンは道が狭いからそんな贅沢は許されないのだが、自転車は歩道を走らず車道を走っている。しかし放置自転車はほとんどない。置いておこうものなら数時間もたたないうちに他のものがもって行ってしまうのだろう。だから自転車を駐輪する場合は、サドルを外し、前輪を外して頑丈なワイヤーでフレームを柵などに固定してあった。
 パリは自転車は少ない。ローラーブレードが盛んで、週末の深夜パリの凱旋門からシャンゼリゼ通りは歩行者天国ならぬローラブレード天国になり自動車を一定時間閉め出しているらしい。約9,000人程度の愛好家たちが集まって夜のパリを走り抜けるのだそうだ。
 
●庭
 イギリス人は庭をとても大事にする。
庭は四角形状が基本。生け垣を四角にして通路を造り花を植える。花の中でバラは特に愛情を注いでいる。
 明治以降、日本の庭はイギリスを基本としてきたような感じを受ける。日本には禅宗が中心としたお寺に見られるような日本独自の庭造りがある。
 
●マーケット
 スーパマーケットに入った。英国のスーパマーケットを一言で言えば、日本よりも半分程度の値段、製造のパッケージングは粗雑であるが一つ当たりの量が多い、店員の質はあまりよくない、という感じを受けた。
 ビスケット一つをとっても日本のパッケージングよりかなり大きく量がたくさん入っている。1.5倍はあるだろうか。その量で価格は日本の価格より安い。ただし、包装はあまりよくなくところどころ破れた製品がそのままおいてあった。肉もかなり量が多い。チキン一羽分がそのまま冷凍庫の中に入っていたりする。冷凍ポテトもかなり大きい。「大きな冷蔵庫がないと収納できないわね」と家内がため息混じりに一つ一つの製品の量の多さの感想をもらした。
果物も総じて安かった。リンゴやオレンジ、サクランボなど量が多くて安かった。我々の感覚ではリンゴは1個50円〜100円、銘柄品だと200-400円するのだが、こちらは1個10円-20円の感覚である。
 
●パブ
 わたしは、いつの間にかイギリスのパブの贔屓になってしまった。イギリスで飲むビールがうまい。特にアイルランド製のギネスビールが好きになってしまった。ギネスは、黒ビールでクセがあるのだがあのクリーミーな泡は他のどのビールにもないものだ。ビールを飲み終わってもボテっとしたクリーミーな泡がジョッキの底に残っていて、泡だけすすろうとジョッキを傾けるとドロっと移動して舌に乗る。
 イングランドでアイリッシュビールをうまいといってはいけないのだろうが、わたしはギネスビールとの相性が良いようだ。イギリス人は、アイリッシュパブとイングリッシュパブの違いを区別しているようであるが私にはよくがわからない。
 イギリスの友人とパブで昼飯を一緒し、クルジェットの食事を食べた。
クルジェットはイギリスの食文化の象徴。私はこれをずっとデカキュウリの水煮だと思っていた。一昨年(1997年)だったかイギリスの本を読んで、クルジェットを認識し、今回その実体を体でそして心から味わうことができた。
そのクルジェット(林 望先生という人が書いたもの)を紹介する。
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 「クルジェットのトマト煮」(courgette)を食べた。大英図書館のB女史に昼飯を大英博物館の食堂でごちそうになった。この一品は途方に暮れるくらいまずかった。クルジェットは日本ではむしろズッキーニといった方が通りがよいかも知れない。辞書には「クリカボチャの一種」と説明してあるけれど、カボチャなどとは似てもにつかぬ種類の野菜で、胡瓜の親戚と言った方が正確であろう。その少し水気の少ない胡瓜のような野菜を、まず委細構わずブツ切りにする。それから、腰が抜けるくらい長い時間グツグツと煮る。タマネギのみじん切りとトマトを放り込んで、ブイヨンキューブくらい入れるのであろうか、ろくに塩も入れずに、形がへたって緑の色がすっかり抜け、口に入れるとグニャッと崩れるくらい煮込むのである。と、そういう代物をできるだけまずまずしく想像してみて頂きたい。それが、大英博物館で食べた「クルジェットのトマト煮」だった。
 正直言って、私はこれを一口以上飲み込むことが出来なかった。これほどすさまじくまずいものがまたとあるだろうか、とその時つくづくイギリスに来たことを後悔しかかったほどである。ところが、ちょうどその時、長期の日本出張から帰英したばかりのB女史は、ひっきりなしにおしゃべりしながら、これをパクパク食べ、あまつさえ「アァ、美味しい、イギリスに帰ってきたって気がしますわ」と目を細めるので、私はすっかり驚いてしまった。
 その時、私が感じた「まずさ」の最大の要素は、塩気でもトマト味でもなく、実は、口の中でぶざまに崩れていく、「グニャッ」というか、「グズッ」というか、ともかく名状し難いその「口触り」であったことは疑いない。
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 カミサンは、このクルジェットを食べたおかげで、友人と別れた後、胃がむかつく、気持ち悪い、と車の中でお腹を抱えていた。
 英国の人たちは日本の食事のサシミや海苔を我々がイギリスの食事に思い描くと同じ感触で抱いているんだろうと思った。
 
 
●サラリーマンの昼飯
 ロンドンの町中でサラリーマンがとっていたランチは、3£程度のサンドイッチ(量が多い)とコークだった。
日本人サラリーマン(東京)はたいてい1,000円程度の昼飯。少し安い所で700-800円程度のうどんかおそば、ラーメン。もう少し安いもので500-600円のほっかほか弁当であろう。イギリス人は昼飯にはあまり頓着しないようである。
ピザレストラン、マクドナルドも昼飯どきは混んでいた。マック(McDonald)は、4£バリューというセットメニューがあった。680円だから日本よりは若干高めという感じであった。ハンバーグ65円というのはなかった。
 
 
●ロンドン郊外
 イギリスでは、ヒースロー空港でレンタカーを借りた。車種は英国のRoverという会社のRover75という車。
今年始めに新車発表されたローバーの乗用車の中では最高機種に属するものだという。イギリスは総じていろいろな車が走っている。イギリスの自動車産業が振るわなくなって輸入自動車が増えたためと思われる。日本の車も結構走っている。トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、スズキが多い。特に日産とホンダはよく走っている。そのほか大衆車としてはFord、VW(フォルクスワーゲン)が多い。英国自動車はローバー、ジャガー、ロールスロイスであるがこれらはいずれも外国資本と提携してしまっている。ローバーは以前、ホンダと技術提携していたが最近ドイツBMWの傘下に入りエンジンはBMWを使っているという。私の好きな自動車評論家の徳大寺有恒さんは、このローバー75がお気に入りで日本で楽しく乗り回していらっしゃるという。イギリスの車の醍醐味はインテリアのまとめ方と足回りのしなやかさであろう。私はこの車でその良さを十分に堪能した。しかしエンジンの非力さを感じた。V6エンジン2.5リッタなのだが、出足の加速と、80Km/hから120Km/hに加速していく時にもたつきを感じた。エンジンが思ったより吹け上がらないのである。トランスミッションはオートマチックの5速と言われていてそれを知らないためにアクセルを十分に踏み込まなかったためシフトしなかったのかもしれない。そもそもがゆったり乗るミドルクラスの人向けのクルマであろうからオートマチックの味付けもそのようになっているのかもしれない。高速道路で80マイル/hで2,000rpmちょっとの回転数であったから5速のギアが効いていたのだろう。室内はいたって静かだった。
 カミサンが「大きすぎるクルマだね」、と足下の広い空間に慣れないせいか足をブラブラさせて遊んでいた。
 
 イギリスの3日目は、ロンドン郊外、Oxford市の近くのThameという町で一泊した。この町は以前社用で来たことがありとてもすてきな田舎町という好印象を持っている。
 Thame(テーム)という街はとても小さな街でロンドンからOxfordに向かう途中の街である。中世より市場として栄え集荷した荷物をロンドンに運ぶための集散地としてもにぎわった所だそうである。街は目抜き通りをはさんで200m程度の商店街がある程度である。
わたしはイギリスに何度か来たことがあるが、こうした小さな田舎町で滞在するのが好きになった。閑静で空が青く古い佇まいを大事にしている。我々日本人が忘れている何かをイギリスの人たちは大事に守っているようでもある。いままで訪れた街は、このThameとBasildon、Tring、Abingdonである。
 ここで泊まったホテルは、The Spread Eagle Hotelと言い16世紀に建てられた古いホテルである。食事もフランス風の料理が味わえ、庭も手入れが行き届いていてかわいらしい調度品がしつらえてあった。このホテルは自分お茶をたてるための道具が無く紅茶やコーヒーなどはホテルに頼むと持ってきてくれるようになっている。我々はこのホテルに着いて街を散策し、庭を愛でてベットに横たわり、夜の10時まで日の暮れない空を見上げながら乾いた風が木々を揺さぶる音を聞き静寂な時を刻む時空に旅の疲れを癒した。
 
●パリ
 イギリスでの滞在を終えた4日目の夕刻、ロンドンヒースロー空港からパリ シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)空港に着いた。この空港はフランス大統領ドゴール大統領の名前にちなんでつけられた名前であろう。地名がロワッシー(Roissy)にあるからロワッシー空港とも呼ばれているらしい。飛行時間1時間、時差1時間であるから、ロンドンからパリに向かうときは2時間の経過になり、パリからロンドンに返るときは同一時間になる。下の写真は、ルーブル美術館の中庭である。ガラスのピラミッドがルーブル美術館の受付である。ピラミッドに行列をなしている人々は受付を待つ人たちである。
 イギリスとフランス。良くも悪くも比較される老大国である。イギリスは、16世紀から19世紀にかけ世界を制覇した国。植民地政策を積極的に取り込み、産業革命の技術も後押しして莫大な富を手に入れた。フランスはローマ亡き後、(ヨーロッパ)大陸を支配してきたフランク王国の末裔である。ヨーロッパは諸国が群雄割拠した時代が長く続いたがフランク王国はその中で一番大きく強い勢力を維持していた。そのフランク王国がいくつかの革命を経て国民を中心とした国を一番早く作り上げ憲法も制定した。イギリスも議会民主主義を発展させてきたが、フランスよりは民族の出入りが少なく、国王の力が強く植民地政策もあって民主化は少し遅れた感じを受ける。パリには、ロンドンとは違う雰囲気がある。
 まず、言葉が違う。フランス語は英語と似ていると言われ、一番多くの影響を受けた言語がフランス語と言われている。が、発音が違う。まずH音を発音しない。Hotelはホテルではく、オテルである。The音はセでは無くテ音である。ch音はチャでなくシャである。Charlesはチャールズでなく、シャルルである。表音の最後の子音は読まないことが多い。Parisは、英語ではパリスなのに、フランス語ではパリである。Champs Elyseesはシャンゼリゼ。debutはデビューと発音する。t音もs音ももちろんx音も忘れて発音される。 また、フランス語は構文にして単語を続ける時単独では忘れ去られた末尾の子音が次の単語に乗っかって音として現れる。
Quelle heure est-il?  今何時ですか?
(ケ ルーる エティル)
という構文がある。Quelleは、「いつ」という単語でケと発音する。 heureは、「時間」という単語でユールと発音する。 est-ilは、英語のIt isのことでこれが疑問文になったので倒置してest ilでそれが一つになってest-ilになりエティルと発音する。単独ではestはエであり、ilはイである。これを構文として読むときは前の単語の子音を組み入れて発音をしている。
 これを見るとフランス語は随分柔軟な国だなぁって思う。
まあ、日本語も漢字に2通りの発音があったり、構文で発音が変わったりするからあまり批判めいたことは言えないのだが。
 
●町並み
 ロンドンは通りが碁盤状。市内は道路が狭くて道が混んでる。
パリは幾何学的。斜めに走る通りがある。パリは小さな街。人口250万人程度。区割りがカタツムリ状にぐるりと回っている。
フランスは曲線を使うのが好きなようだ。建物にしても円形や螺旋階段、丸い窓、丸いバルコニー。曲線を重視したシャルル・ド・ゴール空港など曲線が溢れている。
パリは、石作りの古い建物が目立った。
 ヨーロッパ人は総じて古い家を大事にする。外側はできるだけ古いスタイルに維持しようと努める。インテリアは自分の好みに合わせてコーディネートする。庭は美観を重んじるため維持しなければならないという町々のきまりがあるらしい。イギリスの家は漆喰(しっくい)作りの家が多い。しっくいの中はレンガかも知れない。
パリもレンガ造りの町並みを保存している。
 パリの町並みは、ロンドンの町並みよりキレイな感じを受けた。市の清掃局のクルマが出て道路の掃除、ゴミの回収、街路樹の枝打ちなどを行っている光景に出くわし、市内を頻繁に掃除している感じを受けた。
 パリでも有名なシャンゼリゼ通りは大きな通りだった。中央分離を挟んで200mほどの巾がありそうな通りである。道路の両脇にはマロニエの街路樹とプラタナスの並木が続く。プラタナスの並木は大きく樹高30mほどで、樹齢は100年ほどであろうか。市の係員がリフト車を使って枝打ちをしていた。
マロニエは樹高20mほど。小振りな枝振りに整えている感じだった。花の季節は終わっていた。
 セーヌ川にかかる橋のアーチが美しい。建物も窓の飾りが凝っていて遠くから見る外観は華奢で優雅。近づいてみると粗が目立つ。絵画(油絵)のような感じ(遠くから見るととても質感があるけど、近くで見るとがさつな感じを受ける)。
パリにはコンビニが皆無。喉が乾いても自動販売機が全くないので往生した。
パリを歩くときはミネラルウォーター(Evian、Vittel)を持ち歩く必要がある。
 
 

 

●アメリカ東部の都市 (2007.06.14)
 2000年以降、アメリカとカナダにある関連会社の仕事が多くなった。カナダトロントへは数回行き、米国の東部にもちょくちょく出かけている。
 アメリカは大きい。一つ一つの州が国であり、その国が集まって大きな世界を形成している。日本人の感覚だとアメリカを一つの国としてとらえようとするけれど、アメリカ人はアメリカを世界のモデル国家とみているようで、州を国と見ているように感じる。アメリカの州は行き来が楽で、日本で言うと都道府県のような感じを受けるが、アメリカ人の感覚は国なのだろうか。経済で統合を果たし人やものの行き来が自由になったEU(ヨーロッパ)の各国とアメリカの各州がそれに近いかも知れない。
 2006年春、アメリカのニューヨーク州に訪問する機会に恵まれた。訪れたのは、アメリカニューヨーク州のシラキュースという町だった。シラキュースは、典型的な東部のアメリカという感じを抱く。ここは、ニューヨーク州の西の五大湖の近くにある小ぶりな街であり、ニューヨーク州を東京都とみなすとシラキュースは青梅市のような所になる。
ニューヨーク州の東の町と言えば、バッファロー市、ロチェスター市、シラキュース市が大きな所である。ロチェスター市は、ゼロックス社、コダック社、ボシュロム社があることで有名な古い東部の街である。バッファローは、ナイアガラ瀑布で有名で、この水を使った水力発電所が有名である。ここは、雪が多いのでも有名である。シラキュースは昔、GEの大きな工場があったことで知られている。
 アメリカを訪れて思うのは、東部の都市はやっぱ豊であるということである。東部は西海岸に比べて産業の発達が遅れてしまったと言われているが、古い佇まいの中にもしっかりと根をはった豊かな経済力と都市計画が布かれている感じを受ける。豊かさはカナダもあると思うけど、アメリカは上。走っている車のグレードが一つ違う。アメリカの西海岸では、メキシカンや黒人、エスニックなどが多いのでボロボロの車が走っているけど、アメリカの東部はそんなにボロボロの車は走っていない。
 
■ 日本レストラン
シラキュースでは、日本人をほとんど見かけなかった。しかし、日本のレストランはポツンポツンとあって、日本から移民した日本の女将さんが働いていた。連れて行ってもらった日本のレストランは、「一番」というお店と「芸者」というお店。彼らが日本をイメージするとき、ゲイシャ、ニンジャ、フジヤマ、サムライなどが強くあるためにそうした名前を使う傾向があるのであろう。日本人から見たらおかしな語感を持つこれらの言葉が、日本をイメージする大事な名詞になっているようだ。
「一番」(いちばん)というレストランは結構大きなお店で、アメリカで成功している「紅花」(べにはな)のようなステーキハウスであった。鉄板焼きでシェフがアクロバット的なヘラさばきを鉄板上で披露していた。醤油が上等だったので、料理をなんとか平らげる事ができた。昔、23年ほど前に一人で東に行ったときは、「キッコーマン」の醤油がまずくて(塩っ辛いだけ)、バーベキューなど食えたものではなかったけど、今回はちゃんとした醤油がテーブルに置いてあった。だが、こちらの食事は量が多すぎる、獣料理が多くて脂がきつい。
 アピタイザー(前菜)として、同行した現地人が「みそ汁」を頼んでいたのにはいささか驚かされた。みそ汁は普通ご飯と一緒についてくるものだけど、多くのアメリカ日本料理屋は、メインディッシュの前に食すものらしい。大きな平たいお皿の上に、樹脂製のみそ汁お椀をのせて、ワカメと豆腐の入ったみそ汁が出てきた。それを彼らはおいしそうに食していた。味噌スープは彼らは結構お気に入りのようであった。
 
■ アメリカ人の日本食に対する味覚感覚
25年間ぐらい欧米の人たちとのお付き合いがある中でわかったことは、日本の料理に関して総じて以下のような感覚を持っていることだった。
・日本のお酒(サキ)は総じて人気がある。
・お刺身(ローフィッシュ)は、好き嫌いがまっぷたつに分かれる。
 日本人は総じてお刺身が好きなのに。
 アメリカ人は、比較的刺身を食べる人が多いが、ヨーロッパ人は嫌いな人が多い。
 生ものを食べないイギリス人は、刺身を嫌いな人が多い。イギリス人は野菜でさえも煮て食べるのを基本とする。
 イギリス人の中には刺身大好き人間がいる。
 生ものを食べたことがないイギリス人にウニを食べさせてトイレに直行させてしまったという経験がある。
・焼き鳥(ヤキトーリ)は総じて喜ぶ。醤油味は意外とインターナショナルかも知れない。
・彼らが日本に来たら、格式高い料理屋に連れていくより、居酒屋へ連れて行った方がとても喜ぶ。
 彼らには高級料亭の微妙な味使いがわからない。日本での居酒屋のようなお店は、欧米には珍しく映るようだ。
 居酒屋は、いろんなものを頼めるので小さな皿に出てくるたくさんの食べ物は思い出に残るらしい。
 外国に行って、彼らの話に耳を傾けると、居酒屋の思い出話が良くでるし、私が居酒屋に連れて行った外国人は、欧州米国人を問わず思い出に残ったと話してくれる。居酒屋で頼むものは、刺身の盛り合わせと焼き鳥と煮物、焼き物、天ぷら、日本酒と焼酎で完璧。きんぴらゴボウも思い出に残ったそうな。
・彼らは日本の麺類は苦手。
 そばやラーメンの醍醐味がわからない。
 理由の一つには、麺ものの箸使いに相当のテクニックがいるため。つゆと一緒に麺を絡めて口に持っていってすすり込む所作が彼らの食生活ではあり得ないテクニック。箸の使い方もおぼつかないために、麺の食べ方はとても大変。
 (「麺を食べるときは音を立ててススって良いんだぜ」、と仲間内で話している。)
 ラーメンやそばがうまいという欧米人からの話はあまり聞いたことがない。
・総じて海苔の匂いが嫌い。
・欧米人の8割以上が「納豆」の味がダメ。
 
■ 広いニューヨーク州
シラキュースは、車で4時間ほどでニューヨークcityに行ける距離である。400kmほどの距離になろうか。
1日、時間を作って、ニューヨーク州の大きな森林のAdirondack公園(アディロンダック州立公園、右写真)に連れて行ってくれた。この州立公園は無数の湖があって森林が深く、秋には紅葉がすごくきれいな所らしい。湖がたくさんあるのでカヌーやカヤックが盛んに行われている。夏にはニューヨークから避暑や行楽でたくさんの人が訪れるのだとか。日本で言うと御殿場のような所である。
その公園の東のはずれには、Lake Placid(レイクプラシッド)という冬のリゾート地がある。ここは、過去2回冬季オリンピックが開かれた。ニューヨークは寒い。シラキュースも2006年は2m以上の積雪があったとか。
 
 
 
 
 
 - 完 -
 
 

 

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