AnfoWorld オムニバス情報2(2000.02.19更新)(2003.11.23追記)

目次
 
●武蔵野(2000.02.19)(2003.11.23追記)
●クリスマス界隈(2000.01.11)
●2年に一度の東京モーターショー(1999.11.02)(1999.11.29追記)
●名古屋名物「味噌煮込みうどん」(1999.10.5)
●立食パーティの参加の仕方(1999.09.08)
●2000年問題( = Y2K)(1999.08.09)
●食感-texture: イギリス人の食感(1999.07.31)
●分散力(1999.6.28
●書き言葉と話言葉(1999.5.17)
●Linux(ライナックス)(1999.4.30)
●ISO9000について(1999.4.18)
●脳死(のうし)(1999.4.1)
 

 

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●人の評価と給料(1999.3.13)
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)
●新Power MacintoshG3発売される(1999.01.16)(1999.01.31追記)
●文化(1998.12.30)
●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)
●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)
●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.31)
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
●Windows98のリリース(1998.8.03)
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)
●G3に触れる(1998.1.11)
●Macなともだち(1997.12.21)
●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)
●Windowsの世界(1997.12.21)
●インターネットの功罪(1997.12.21)
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 

●武蔵野(2000.02.19)
武蔵野に憧れた。
 京都の柔らかな地形の風情と比べるべくもなく、ましてや、「かきつばた」で有名な沼地の愛知豊田の風情にも似ていない、広大な荒れ地と落葉広葉樹の続く関東平野に憧れた。
新幹線に乗って西を目指す人々の車窓に写る風景は、名古屋を過ぎて大きな木曽川(揖斐川・長良川)を渡るあたりで風景が一変するのを感じたことがあるだろう。車窓に拡がる低い山々とよく枝打ちされた杉、松の林、伊吹山に向かう関ヶ原、米原あたりに拡がる美田に歴史が見える。
名古屋あたりから、近畿地方、中国地方へかけての関西は早くから農耕文化がひらけ、製鉄や製塩、あるいは土器や陶器をつくるために、山林は燃料として伐りはらわれていた。しかも、この地方は花崗岩質の栄養のとぼしい土質なので、そこで二次的に生まれてくる林は、アカマツのような貧栄養質の土にもたえる樹が主となってくる。

- 足田輝一著 「カラー武蔵野の魅力」

 関東は、坂東武者の台頭によって歴史の光が当たる。
それまでの日本といえば、京都、奈良を中心とする近畿地方(大和)、そして海上の要地伊勢、北陸道の要(かなめ)大津あたりまでを指し、広大な原野が拡がる関東の地は、それこそ地の果てであった。
しかし、平安時代に発展を見る荘園の拡がりから、祖(年貢)の取り立てに不満を持つ荘園領主らが自主権を求めて関東の荒野を開拓し始め、自分たちの土地を守るために武装化すようになる。
武士の発生である。
もちろん公家(天皇を中心とした殿上人)たちの荘園を確保するためにも武装集団が雇われた。
これら武装化集団(武士)の要(かなめ)が血筋のよい、桓武天皇の子孫である平家と清和天皇を子孫とする源氏であった。この2つの大きな武装集団の流れが貴族社会の中に入ってもみ合う時代が、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてである。
 清和源氏の発生は近畿である。天皇の覇権を得られなかった皇族は苗字を名乗って平民化した。中国の苗字に習って一字の苗字とし、ちょうど鈴木とか山本の姓が多く使われるのと同じように、色々な皇族の末裔が源氏や平氏を名乗るようになった。一番勢力を持ったのは、清和源氏と桓武平氏である。平安末期、天皇と上皇の覇権争いに源氏・平氏が暗躍し(保元の乱)、はては源平同士の覇権争い(平治の乱)が起き、源氏の潰走(かいそう)によって嫡子頼朝は関東に流される。
流罪先の伊豆(後に鎌倉)で源頼朝(と彼の後ろ盾の北条氏)は坂東武者をかり集めて屈強の武士集団を再編成することになる。
武蔵野は、もとは、関東ローム層が基盤であって、火山灰の上に成り立っている。その堆積は20-30mに及ぶという。従って基盤は脆弱である。その火山灰の上に、荒川、多摩川の川が肥沃な土を運び、草木の枯肥が何代もわたって続いた。
その関東台地に落葉樹が姿を現すのは、時代が下った江戸時代に入ってからと言う。
武蔵野台地は江戸時代前までは牧場が多く、馬を飼っていた。自然坂東武者は騎馬に長じ、比類なき武力を発揮した。
当時、武蔵野は灌漑が発達していないため一面草木の地であったという。いわゆるススキの原野であった。従って、武蔵野の地は牧場として馬を育てるしか土地の利用方法がなかった。
源平の時代から戦国時代に至るまで、武蔵野一帯、多摩の丘陵から多摩川を越えて北関東の山麓にいたるまで見渡す限りススキと疎林の原野であった。京都の唐紙屋の唐紙の文様見本に武蔵野という銘柄があるそうである。その絵柄は、幾重にも重なったススキの穂と葉に宿る露を描いた文様であるそうだが、このデザインが京の町人たちが幾百年の間イメージし描き親しんできた武蔵野の姿であった。
そんなススキの地武蔵野に樹木が植えられるのは江戸時代に入ってからである。玉川上水、野比止の灌漑設備が整うにつれ立川、砂川、小平、国分寺、三鷹あたりの武蔵野に農民が入植し、田畑を開墾し防風のための樹木が植えられた(これらを称して屋敷森、屋敷林と呼んだ)。また、冬の暖を得るためと煮炊きの燃料、工業用燃料(木炭)を得るために、農民は意識的に雑木林を作った。武蔵野では屋敷森としてケヤキの大木が使われた。ケヤキ林は、その家の家格を示す象徴ともみなされ、ケヤキダイジンの呼称も生まれた。

 武蔵野は先にも触れたが、江戸時代以前は草木の蒼茫たる原野であった。我々が思いを馳せるケヤキの生い茂る武蔵野は江戸時代からである。その武蔵野の地を美しいと見出したのが、明治の小説家国木田独歩であった。それ以前の日本人の美意識は、松に代表される針葉樹林であり、落葉樹林では決してなかった。

武蔵野の武蔵野たる面影がこうして出来上がり、明治初頭、千葉生まれの国木田独歩がこの地を徘徊して散文にまとめ上げた。
 
・・・ その関東、武蔵野に高校時代より思いを馳せた。
 
武蔵野への憧憬
 私は、小説が好きだった。その小説は、明治以降文壇に登場するものは東京が独り舞台になる。それは、小説が口語で綴るスタイルが急速に普及したためである。上方の読み物は、口語体にするのが遅れた。口語体の小説の中で、夏目漱石が確固たる地位を築いていく。口語文でこれだけの表現ができるのかと当時の人たちは大きな驚きをもって迎えた。
以後、小説は東京の言葉、つまり東京が中心となる。そうした現代小説を読んで、東京に憧れた。関東の広大な平野と刺激の強い文化に憧れた。
 
 最初に、武蔵野を意識したのは、高校時代に出会った国木田独歩(明治の小説家)の「武蔵野」という作品であった。その作品には自分の住んでる土地とはまるで違う風景が描かれてあった。
当時、我々ティーンエージャーの心をとらえていた芥川賞受賞作品に、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」や、柴田翔の「されど我らが日々」、三田誠広の「僕って何」などがあった。これらの作品には、20-25才の主人公が登場し、学生運動を背景として若者特有の正義感、社会に対する挫折感、異性への欲望などが描かれていた。当然、東京を舞台としている。1ヶ月ほど前、実に久しぶりに庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み直した。その中には、日比谷、丸の内線、数寄屋橋、赤坂、Gパン、東京大学、銀座ウェストなどの東京の匂いの強い言葉が散りばめられてあった。
柴田翔の「されど我らが日々」にも狭山の家に北風に乗って舞い込む火山灰の土埃がひどいという文章があった。
高校(大学)時代、こうした小説に触れるにつけこれらの作品に出てくる東京の情景にあこがれた。明治以降、小説は東京が舞台の中心となっていて、その風景を織りなす土台としての「武蔵野」の存在は大きかった。
 私の東京に対する源流をなすのが、先に述べた国木田独歩の「武蔵野」という作品だった。
最初に「武蔵野」を読んだ時には、それほどの感動は伴わなかった。ただ、武蔵野の情景が随分自分の住んでいる三河と違うなと思った。自分の住んでる三河高原と三河平野は杉や松、檜(ひのき)などの針葉樹が多かった。山肌も白い砂状、もしくは粘土状の多い土地だった。
 
 関東に広大に広がる平野は、北海道を除いてはまず他にはみられない広さである。神戸でも、京都でも周りに山があるため方向感覚が取りやすいが、東京では遙か遠くに丹沢山渓が見える程度で、それも高台に登らなければその山々を見ることができない。関東平野の台地には、落葉樹が生い茂っている。人は木立の中で生活している。
 「武蔵野」の中で独歩は、武蔵野をロシアの落葉林の情景にダブらせている。
そんな武蔵野にあこがれて、免許を取って車を転がし始めた大学時代(1975年)に一人で東京に車でやって来て、大宮、小平を回り落葉樹の多さにビックリした。30年近くも前の事である。昨年(1999年)、自転車でふたたび大宮、川越を回り、あまりの変わり様にまたまた愕然とした。関東に憧れた落葉樹の林が全く無くなっていた。
22年前、東京に人となって(社会人になって)、仕事で入間方面に出かける機会に恵まれた。車で入間に向かうのに青梅街道を通った。その街道に植えられたケヤキの落葉樹に目が奪われた。木立の深い懐の中に道路や民家があることに、ああ、東京に出てきたんだなぁと思った。
 
 独歩は、そんな「武蔵野」が大好きだったようで、ずっと何時間も木立の中に佇(たたず)んで飽きなかったようだ。木々をわたる風に耳を澄ませて何時間も心を洗っていた。耳を傾けながら心を自然に帰していったようである。
 
自分の高校時代に過ごした町には、こうした広大な落葉樹の森がなかった。もっぱら渓流の川面に座って、水が奏でる音にずっと聞き入っていた。静寂な中にも心が洗われるような水の音が響きわたって疲れた心を静めてくれた。独歩の小説の中にある、「木立の中に自分を置いて風の奏でる音に耳をすます」、と言う風情がたまらなく羨ましかった。
東京大学構内の「三四郎池」の周りは、木立がうっそうとしげり、都内の喧噪を忘れるほどの木立の空間を作っている。休日に都内を自転車で走り、気がつくとこの三四郎池の近くに自転車を止めて、しばし休息することがある。ここも武蔵野の面影を継承しているのであろう。
もっとも、東京大学は銀杏の木立の方が見事で、12月になると辺り一面金色に変わるのは壮観である。
 
 古来、京に住む都人にとっての武蔵野のイメージは、見渡すかぎりの原野、雑木と丈(たけ)なす草、それに走獣(そうじゅう)であり、飛鳥を点景とする京とは違った詩的異郷を抱いていた。かつ一方では、鄙(ひな)の代表的な地として軽侮(けいぶ)しもしていた。つまり、京から見た坂東は野蛮な地で、人間が住む所とも思えぬ地の果てであった。
その文化のブの字も感じられぬ武蔵野の地に文化人が現れる。
 太田道灌(おおたどうかん)である。
 
太田道灌(おおたどうかん)(1432〜1486)
関東が歴史に登場するのは、源頼朝がこの地を基盤に伊豆あたりの西を中心として、鎌倉に幕府をおいた時代からである。鎌倉時代、関東平野はまだ原野であった。武蔵野の地、江戸を治めたのは、戦国時代の太田道灌(おおたどうかん)である。時代は、鎌倉時代よりはるかに下って、室町中期である。
1457年、太田道灌は江戸の地に初めて城を築く。
太田道灌が34才の時、城主上杉定正の名代として上洛し(京都にあがり)、将軍足利義政に謁見した。
将軍は歌人としてあまねく知られていた道灌に悋気(りんき)の気持ちが芽生えたのか、彼にこう皮肉った。
「そなたは、つねに武蔵野にいる。その風景はどうか」。
道灌は、義政が一般的な武蔵野の先入観(いなかで鄙びた風情)を持っていることをさとり、
「常に富士を見ております。このたび京にのぼり、なるほど華洛(からく = 都)の名に恥じずと存じましたが、しかし武蔵野ほど贅沢な景色は、いまだ都では見及びませぬ」
と肝ふとくも言ってのけた。しかしそれだけではただの田舎者の自慢のように聞こえて聞き苦しかろうと思い、即興の歌を詠んで、座を浄めた。
 わが庵(いほ)は  松原つづき  海近く  富士の高嶺を 軒端(のきば)にぞ見る
わが庵とは、道灌が築いて都にまで評判の江戸城のことである。
その江戸城から富士山が見える、というのである。海が近く、松の並木が続き、山も見えるこの風情は都の典雅にも代え難いと言うのである。
 
 自転車に乗ることが多くなって、都内を徘徊しいろいろな名所名跡を訪ね廻っている。
JR西日暮里駅から千駄木にいたる道(道灌山通り)に、道灌山下という三叉路の辻がある。
このあたりから南の地が道灌が縄張り(なわばり)して区割りした「江戸城」なのであろう。
JR日暮里駅のロータリーには、馬に跨った太田道灌の青銅象が慄然と南の方角、江戸城を見据えている。
根津神社も湯島神社も、寄進、再建に大田道灌が関わった。
 太田道灌は多芸多才の人であった。歌人としての名はもちん、政治的手腕や築城技術にもかなりの手腕を発揮した。
当時、関東は、北と南の勢力に別れていた。北は京の足利氏(室町幕府)に敵する関東公方・足利成氏(しげうじ)、南は太田道灌が家老を勤める関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉定正である。幕府は北の脅威を防ぐために上杉家に対し、城を造れ、と命じた。
その命に従って、道灌は武州岩槻(いわつき)と武州川越に城を築き、居城(きょじょう)として当時、浜に漁村が点在するにすぎない江戸の台上に「江戸城」を築いた。
 道灌の着想のすばらしさは、江戸城を平地に造ったことである。これは画期的なことだった。
それまで城と言えば守るにたやすく攻めるに難しい山城(山塞)が常識であったが、道灌は、江戸の地形を巧みに利用して城を造った。彼は、自然の地形を生かしながら人工の堀を掘り、土居(土塁)を築き、さらには複数の郭(くるわ)を組み合わせることで、防御力の点で従来の城とは全く異なる土木技術を創り出した。ただし、城郭は、現代に見るような瓦葺きではなく、葦(あし)葺きであった。
 太田道灌の名声の何割かはこの斬新な江戸城築城に負っている。
 彼は書籍にも通じ、築城(「城取極意」)・兵馬の法(「武経七書」:孫子・呉子・司馬法・尉りょう子・六とう・三略・李衛公問対、足軽戦法)に長じて、江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、歌集「慕景集」を残した。
世に軍法師範と称される程の文武両道の英傑であったが、その巨大な功績と才能は、主君扇谷定正に評価されることがなかった。このことに関しては、「道灌状」といわれる文書が残っており、道灌の無念さを物語っている。会社で言えば社長に認められず平取締役のままに捨て置かれているという感覚であろうか。
晩年には、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、主君である扇谷定正に謀殺された。
死ぬ間際に「当方滅亡」と言い残したという。
自分が死ねば扇谷は滅びるということが道灌にはわかっていたのであろう。
ちなみに、道灌と同年齢であった武将に伊豆の北条早雲がいる。早雲が下克上の先駆けとなり、一介の鞍職人から戦国大名と成り上がったのに対し、道灌はあくまでも家宰という地位にとどまった。この点に関しては様々な見解があろう。 道灌が立てば、彼の才能からすれば一国一城の主になり、西の北条氏と拮抗もしくは、併呑(へいどん)するほどの力量を持ち合わせていたに違いない。
時代は下がって現在、主君の名前上杉定正の名前は知らずとも太田道灌は生き続けている。
 
山吹の花
このエピソードは、私が高校一年の時、古文の最初の授業で習った物語で、非常によく覚えているものである。
ある日、遠乗りにでかけた太田道灌は、突然のにわか雨に当たった。彼は蓑を借りようと、たまたま近くに通った農家にかけこんだ。農家に入り、声をかけると、出てきたのはまだ年端もいかぬ少女であった。貧しげな家屋ににあわず、どこか気品を感じさせる少女であったという。
「急な雨にあってしまった。後で城の者に届けさせる故、蓑を貸してもらえないだろうか?」
道灌がそう言うと、少女はしばらく道灌をじっと見つめてから、すっと外へ出ていってしまった。蓑を取りにいったのであろう、そう考え、道灌がしばし待っていると、少女はまもなく戻ってきた。
しかし、少女が手にしていたのは蓑ではなく、山吹の花一輪であった。雨のしずくに濡れた花は、りんとして美しかったが、見ると少女もずぶ濡れである。
だまってそれを差し出す少女は、じっと道灌を見つめている。この少女は頭がおかしいのであろうか、花の意味がわからぬまま、道灌は蓑を貸してもらえぬことを悟り、雨の中を帰途についた。
その夜、道灌は近臣にこのことを語った。すると、近臣の一人、中村重頼が進み出て次のような話をした。
「そういえば、後拾遺集の中に醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれたものに、
   七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき
という歌がございます。その娘は、蓑(みの)ひとつなき貧しさを恥じたのでありましょうか。しかし、なぜそのような者がこの歌を...。」
そういうと、重頼も考え込んでしまった。道灌は己の不明を恥じ、翌日少女の家に使者を使わした。使者の手には蓑ひとつが携えられていた。しかしながら、使者がその家に着いてみると、すでに家の者は誰もなく空き家になっていたという。道灌は、この日を境にして歌道に精進するようになったという。
 
将軍の猿
これも、道灌を語る上で有名なエピソード。
ときの室町幕府将軍、足利義政は一匹の猿を飼っていた。この猿は人を見れば引っ掻くという乱暴な猿であった。多くの者が被害にあったが、将軍の手前我慢するしかない。あるとき、道灌は主君扇谷定正の名代(みょうだい)として上洛し、足利義政のもとに伺候することになった。義政や近臣たちは、猿が名高い道灌を引っ掻く姿をひとめ見ようと待ちかまえていた。ところが、道灌が入って来るやいなや、猿は小さくなって震えだし、道灌の様子をみつつ、何度もお辞儀をする始末。
「さすがは道灌。」
皆は感嘆し、道灌にさらに一目置くようになったという。
実は、道灌はこれのあることを予測し、密かに猿の守役に賄賂を送り猿を借り受け、したたかに殴りつけた後、お辞儀をすると胡桃をやるといった方法で、手なずけていたのである。つまり、猿は道灌を見て怯え、胡桃が欲しくてお辞儀をしていたという訳である。後にこれを知った人々は、道灌の知恵に関心したという。
 
 
徳川家康 江戸城入城
 道灌が主君上杉定正によって殺された後、江戸城は荒放題になっていた。徳川家康が豊臣秀吉の政略にあい(三河、駿河、浜松の現勢力を減ずるために、関東移封を促した)、関八州に進出する。当時、家康が小田原北条氏を絡め取って関八州を手中に治めたとき、江戸城は北条氏の城代として遠山景政が入っていた。しかし彼は、家康との決戦のため本城の小田原城に籠城していたため、遠山配下のものが江戸城の留守居をしていた。家康は、そのものに説得して江戸城を接収した。譲り受けた城はもちろんそのままでは使えない。
 当時の江戸城は、単なる掻き上げ城(土を盛っただけの土台で、熊本城や大阪城のような高い石垣で作られた城ではない)で、東南(今の東京駅あたり)は城の裾近くまで波に洗われ、東から北(大手町から九段、靖国神社)は雑木林で、西北(麹町、三番町)は水の腐った溜池(ためいけ)で狐狸(こり)の棲み家同然だった。
 江戸に入城した家康は、江戸の下町に縦横に堀を通して排水を図り、神田山の台地を崩して豊島の州を埋め立て、広大な土地を造成した。また、上水道(神田川、玉川上水)を引き、日本橋から南方面、京橋から新橋に至る一帯に町人地を作った。新しくできた地には、彼が東海の大名であったときからの御用商人達を移住させ、城下町の商工業の管理・統制に当たらせた。こうした大土木工事(天下普請)を1603年将軍となった翌月から着手し、三百の町を新たに作り、3年後には五層の天守閣を持つ壮大な江戸城を築いた。この空前の土木工事には、全国の大名によって普請人夫(千石夫)が動員された。幕府の命ずる工事を、大名がお金と人員を供出する「助役(すけやく)」は、戦時の軍役(ぐんやく)とならぶ重大な義務とされた。
 江戸城の整備ができた1633年(寛永10年)頃の江戸の人口は15万人と言われ、それが110年後の1745年(享保)には100万人を越えたと言われている。
 
 こうして草木しか生えない商品生産の未成熟な武蔵野の地に人工的に作られた江戸の人口は爆発的に増えた。100万人の人口の半分の50万人は大名、旗本、およびその家来で、まったく商品を生み出さない消費だけの人間であった。この消費するだけの人たちを支えるために商人や職人が集まった。こうして江戸にさえ出ればなんとか食えるという状況が、江戸期を通じて(はたまた2000年の現代も)続いた。
 
 江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が極めて低いことであった。これに対し、上方および瀬戸内海沿岸は商品生産力が高度に発達していたため、江戸としては、あらゆる高価な商品を上方から仰がねばならなかった。
上方から下ってくる
「くだり物」
とうのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治語の舶来品というイメージに相応していた。これに対して関東の地のものは「くだらない」として卑しまれた。一昔前の国産品という語感と同じである。
江戸初期は、江戸では醤油すらつくれなかった。醤油は紀州が産地であった。その紀州人が銚子に下って江戸の消費のために醤油醸造をはじめた。
油も江戸ではできなかった。菜種は作付けできてもそれから油を取る(搾油する)産業基盤がなかった。
綿や木綿、あるいは紙も同じであり、塩ですら錆のついた鉄鍋で煮出しただけの赤っぽい塩ができるくらいで、商品としての白さを持つ塩はできなかった。酒は関東でも生産できたが火山灰地で水質が良くなかったために旨い酒は上方から運ばなければならなかった。灘(なだ)でつくられる透き通った酒(清酒)がとても珍重された。当時酒といえば米麹も一緒に入った「にごり酒」が一般であった。
 
 江戸はいつもいつも普請でわき返っていた、そして火事も多かった。あまりに軒が狭く密集しているため延焼が防ぎきれないためである。火事と普請にわき返る膨脹を続ける江戸にあって、使う道具はもとよりクギ一本まで上方から取り寄せた。
 
 上方と江戸を結ぶ太い輸送手段が必要になる。
 
 河村瑞賢が、幕府の命を受けて開いた内国沿岸の長距離海運(大阪-江戸を中心とした太平洋航路 = ひがしまわり、と大阪から瀬戸内海、下関、日本海を回って出羽に出る日本海航路 = にしまわりの二つの航路開拓)によって、従来の荷駄による陸路輸送から一気に輸送力が高まった。しかし船の大型化を怖れた幕府は、船の建造でも細かな規則を設けたために、菱垣廻船や樽廻船(酒を運ぶ船)などの千石船の輸送力には限界があり、かつ船の構造上、外洋での踏破性が貧弱で繰船術に困難を極めた。
幕府は、船が堅牢になり踏破性が向上すると外国の渡航が容易になることを恐れ、千石積以上の積載ができる船の建造や多マスト、甲板付の船の建造を許可しなかったのである。
 
今の武蔵野
 武蔵野は、昔の面影をどんどん消している。
昨年夏(1999年)、25年前に出会った大宮・日進町あたりの面影を追い求めて自転車で徘徊した。
落葉樹が平地に林立する風景はもはやどこもにもなかった。びっしりと宅地造成され、落葉樹に変わって住宅が建ち並んでいた。
今、昔の武蔵野の面影を見ようと思ったら玉川上水堤を歩けばいい、と言った人がいた。
その玉川上水を自転車で走った(2000.02.12)。
井の頭公園から小平に至る片道15Kmほどの玉川上水を往復した。
武蔵野の面影は小平に多く残っていた。
小平にある、玉川上水の周り(上水新町)はところどころに林があり、それが公園となって武蔵野の面影を残していた。
三鷹から小平かけての玉川上水の地形はフラットな台地で自転車でとても漕ぎやすい地形であった。
玉川上水の源流は、JR青梅線「羽村駅」西に流れる多摩川の羽村取水所から始まる。立川、砂川、小金井、小平、三鷹、吉祥寺、井の頭公園を経て新宿・四谷大木戸まで長さ43km、高低差100mの水路である。この高低差は、100m進むごとに25cmの勾配となるが、起伏に富んだ武蔵野の丘陵をこの勾配で造成していったのはなかなかの技術と感心する。
 
玉川上水
 玉川上水は、武蔵野台地の稜線を流れていると言われている。つまり台地の上の一番高い所を西から東に流すことによって、北にも南にも分水できるようにした。この結果、北側には野火止用水・仙川上水、また南側には青山上水・三田上水を分水し、井の頭の池から流れ出る神田川と合わせて江戸の水需要を賄った。 三鷹から小平にかけての玉川上水は、武蔵野台地を3mほど穿ち(うがち)、巾10mほどある用水路である。両壁は台地の断層をそのまま残していて、特に石垣を積むでもなく土留め工事をされているふうでもなかった。その断層を見るに、関東ローム層の上に腐葉土がうっすらと表皮をなしているという感じであった。土は、埃っぽくパウダーのようであった。これが関東ローム層の火山灰かと納得した。この土は褐色で埃っぽく、乾燥すれば後塵となって辺りを漂い、雨が降れば泥まみれになり、冬には霜柱が立つという。水を潤沢に蓄えるという感じではない。水を保持できないからシダ・コケの類の森はすくなく、カラッとした森ができあがるのだろう。
余談であるが、私が生まれた愛知の土は粘土のような土地が多い。近くに瀬戸があり、焼き物の町として知られているが、粘土層の地質のためか、砂塵が舞うという経験をしたことがなかった。今回、玉川上水を自転車で走って、自転車にパウダーのような砂がタイヤのリムにうっすらと積もったのを見て、関東ローム層の火山灰というのを身をもって体験した。
 玉川上水の歩道は上水を挟んで2つあるが、東京方面に向かう道の方が整備されていて道幅が広く、羽村に向かう歩道は道が細い。こちらの歩道は、道の真ん中に桜の木があったりで快適な道とは言えなかった。反対側の歩道は広くゆったりとしていて、二人並んで歩いても巾に十分に余裕があった。この上水を散策する人たちは、東京方面に向かう小路を利用することが多いように見受けられた。水路の両側には、けやきと桜が植林されていた。4月には上水一帯に桜が咲き住民の憩いの場となるのであろう。
 
 徳川家康が江戸幕府を開いた当時(1603年)、江戸への生活用水の賄いは井の頭の池を水源とする神田上水があてがわれていたが、1635年三代将軍家光によって各国大名の参勤交代が制定されると江戸の人口が爆発的に増加した。各国の大名は江戸住まいのために、奥方、その周りを世話する者、江戸詰め武士などを住まわせ、それらをとりまく商人、町人が江戸に流れ込んできた。
幕府は、この生活用水確保のため多摩川からの引水を計画し、江戸の町人、加藤庄右衛門と清右衛門の兄弟に認可を下し、7,500両を与えて工事にあたらせた。彼らは、老中松平信綱の家臣安松金右衛門の設計を取り入れて、承応2年(1653年)4月に着工、翌3年(1654年)6月に江戸城内までの給水を完成した。わずか一年足らずである。
松平伊豆守信綱(まつだいら・のぶつな)は、当時(1640年代、三代将軍家光の小姓から江戸に詰め、4代将軍家綱の時代の老中)川越城主でもあり、新田開発にあたり野火止用水を玉川上水から分水する計画をたて野火止(現在の埼玉県新座市、JR武蔵野線新座駅一帯)に水田を拓いた。
 幕府は、完成した玉川上水の水路5ヶ所に水番屋を設けて見廻せる一方、要所32ヶ所に高札を立てて水を汚すものを取り締まった。
この玉川上水の完成で、江戸の生活用水はもちろん、1655年には野火止への分水、そして、小川、砂川、国分寺の3分水が行われた。こうして水の確保ができた武蔵野台地の立川、砂川、小平、三鷹一帯は、新田開発が急速に進んでいった。
 
 玉川上水は、江戸、明治、大正、昭和を通じて使用された。正確には昭和40年まで使用された。以降、新宿副都心計画が持ち上がり淀橋浄水場の廃止により、玉川上水の小平監視所から下流域は水が途絶えてしまった。
1986年(昭和61年)8月東京都の清流復活事業により、小平 - 高井戸間に再び上水の清流がよみがえり、市民の憩いの場となっている。
玉川上水から別れている野火止用水も昭和59年(1984年)8月に清流が戻っている。
 
武蔵野風景の原点 - 江戸の新田開発
 上水の整備によって、武蔵野に新しい風景が誕生する。明治の国木田独歩が発見した「武蔵野」の風景である。それまでの武蔵野の風景はススキ野原であった。ススキは茅(かや)とも呼ばれていた。カヤは、住宅の屋根を葺いたり、家畜の肥料としたり、暖をとるための材料となり利用価値は高かった。東京の日本橋の近くにある茅場町(かやばちょう)も、もとはススキの群生する地区で住民の共同の茅場として使用されていたのだろう。
 さて、先にも触れたが武蔵野の新風景の新田開発である。
 江戸中期(1690年代後半)、柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が新田開発に力を入れ、彼の推進で拓いた村が、武蔵野の真ん中にある三富新田(さんとめしんでん)である。現在の埼玉県入間郡三芳町と所沢市の間、関越自動車道所沢インターチェンジの近くにある。当時柳沢吉保は、川越城主(江戸詰めでは将軍綱吉の寵愛を受けた老中格)であった。彼は新田開発を進めるにあたり、まず、巾6間(11m)の大道を縦横に切り拓いた。現在も残るケヤキの並木道もその一つである。その大道の左右を、間口40間(73m)、奥行375間(680m)つまり5町歩(49,500m2)の区画に区切った。そして道路沿いを住居と屋敷林に、その奥を畑地に、いちばん奥を雑木林にと、整然と割り当てた。この区割り地区に付近の村々から農民を入植させ、元禄9年、上富、中富、下富の山村ができあがった。これが三富新田の起源である。この区割りは、小平小川町にある小川新田にも見られる。こうした新田開発は、享保年間(1716-1736)、将軍吉宗の行った享保の改革の一環として行われた武蔵野新田82ヵ村として知られている。ただし、三富新田には、玉川上水が完成し野火止の地まで分水されてもこの地までは水を引くことができず、水田として利用できないため畑(オオムギ、コムギ、アワ、ヒエ、オカボ、ソバ、サツマイモ、カブ、大根の栽培)として利用された。
新田開発に何故、雑木林が必用であったのか?
 畑地の奥にある雑木林は、その下草や落ち葉が畑の肥料となった。材木は暖房や煮炊きの燃料となるとともに不作の年には現金収入ともなった。これらの林を作るために、新田開拓のはじめに一戸あたり3本ずつのコナラの苗木が配布されたという。
 水の少ないこのあたりは、いまでも強い風が吹くと土煙が舞い上がる。畑を区切る雑木林の帯は防風林としての働きもなした。
 農家経営のなかに組み込まれた薪炭(しんたん)林としての役割こそ、武蔵野の雑木林が成立した理由があった。雑木林は自然の森林と思われがちだが、武蔵野の雑木林は人間が人工的に作った経済林であった。
太古、広い武蔵野を覆っていたと思われる照葉樹林を伐りたおしたり、火をかけたりして開拓すると、その後は一面のススキ原になる。このススキ原を人手をかけずに放っておくと、そこにはクヌギやコナラなどの落葉広葉樹の林ができる。いわゆる雑木林である。
照葉樹林:掌より少し小さめで葉面のクチクラ層が厚く表面が光沢のある葉をつけた落葉することのない木々。東南アジアなど温暖地域によく見られる。代表的なものは、シイ、カシなどのブナ科、クスノキ、タブノキなどのクスノキ科、ツバキ、ヒサカキなどのツバキ科がある。
クヌギやコナラは、芽生えてから20年くらいで木炭や薪にするのにちょうどいい太さに育つ。これを根元から伐って、木炭に焼いたり、薪の長さに切りそろえたりして燃料として利用する。地面に残った株からは、新しい芽が何本も伸びてきて、また、20年ほどたつと、薪炭として利用できるようになる。こういう成長と伐採を周期的に繰り返しながら、その下草や落葉をも利用してきたのが武蔵野の雑木林であった。
雑木林から取れる木によって作られる木炭の需要はかなりのものであり、江戸における重要なエネルギー源であり、また農家にとっても重要な農業経営の副産物であった。   - 足田輝一著 「カラー武蔵野の魅力」
 
 その三富新田の今の姿を2000年2月19日、自転車で回った。国道463号線(浦和所沢バイパス)を羽根倉橋から所沢に向かって走った。この街道はケヤキが植えられている。樹木は4m-10ほどの高さに育っていて10年-30年ほどの若木である。関越自動車道の所沢インターチェンジから所沢に向かう右手には現在もまだ畑が拡がっていてところどころに雑木林が見られた。ここらに拡がる畑は関東ローム層の土地で白茶けたパウダー状の砂地に大根、ネギが植えられていた。働いている人の長靴は軽い砂埃のためか歩くとすぐに砂が舞い上がりそのため長靴が全て白茶けた土埃にまみれていた。軽トラックが一台通れるくらいの細い道路を挟んだ畑は、土手に盛られた畑の体裁ではなく、鉄板で仕切られたものだった。土手を盛るほどには地質が固くなく軟弱なためであろうか。
 雑木林に分け入ってみた。雑木林は、手が入れられているという風はなく荒れるに任せられた林が多かった。下草が刈られておらず笹が生い茂って雑木林の枝木も伸び放題になっていた。薪炭を得る必要がなくなったのであろう。この土地に住む人の暖房は全て石油や電気であろうし、東京も薪炭を必要としなくなっている。大きな道路に面した雑木林は、街道の車から投げ捨てられたと思われる缶ジュースの空き缶や雑誌、ポリエチレンの袋が散在していた。細い道路を通って入っていった雑木林にも、家庭から出た粗大ゴミ(タイヤ、洗濯機、家具)が所在なげにうち捨てられていた。
 
 私が憧れた武蔵野の風景は、生活のために江戸時代に生まれて、国木田独歩が明治の時代に美しさを見いだし、昭和の時代に消滅した。
 
参考文献
司馬遼太郎 - 「義経」、「菜の花の沖」、「箱根の坂」
山岡荘八 - 「徳川家康」
井上清 - 「日本の歴史」
国木田独歩 - 「武蔵野」
日本大百科全書
足田輝一・小林義雄 - 「カラー武蔵野の魅力」淡交社 1979年10月29日初版
太田道灌:
http://www.asahi-net.or.jp/~ue2n-kwgc/doukan.htm
玉川上水:
http://www.u-gakugei.ac.jp/~c982427/homepage/zyosui.htm
 
 
●クリスマス界隈(2000.01.11)
 クリスマス、大晦日、お正月と忙(せわ)しない年の瀬、子ども達にとっては夢のような日々でもある。憂鬱な2学期終業式と成績簿を両親に見せることを除けば、クリスマスプレゼント、クリスマスパーティ、大晦日と行事が続き、年が明ければお正月のお年玉がもらえる黄金週間の日々に身も心も夢の彼方へ移ってしまう。机の棚に置かれた貯金箱も一挙に膨らんで、何を買おうかと夢も膨らんでいる。
 我々の年代(昭和30年代)も高度成長下にあってクリスマスは大きな行事だった。日本人はお祭りを輸入するのがホントに好きな民族であるらしい。お祭りならば、所かまわずどんな宗教であろうと、歴史的バックグランドがなんであろうとお構いなく輸入し享受する。
 クリスマスを楽しく暮らせる家族は仕合わせだ。クリスマスを楽しく過ごせず、随分と傷ついた幼年期を過ごした人も多いことと思う。そんなクリスマスが近づくたびに街の雑踏の中に、子ども達のいろんな顔や声が否応なく心に入ってくる。
 
【母と子のクリスマス - 我が家の8年前】
 我が家も長男が小学校低学年まではウキウキしたクリスマスらしい雰囲気があった。
クリスマスに睨んだご馳走をお母さんが数日前から準備していた。
クリスマスケーキも自分で作って、息子らにデコレーションさせていた。
(娘がいたら一緒にケーキを作るのが私とカミサンの夢だったのだが・・・)
 ある年、下のチビの水泳の大会があるとかで長男一人が留守番してみんなの帰りを待つことになった。
夕方6時には帰るから、というお母さんの言いつけで長男は一人で留守番をすることになった。
父親である私は定時の夜6時まで仕事をして7時に帰宅したが、家には長男がポツリと一人みんなの帰りを待っていた。
クリスマスの準備は、お母さんが出かけるときにすでに台所に用意してあったのだが、肝心のお母さんと下のチビの帰宅が遅れているらしい。
「お母さん帰ってないのか?」
「うん、まだ誰も帰って来ない。」
当日は、おばあちゃんとおじいちゃんも来て一緒にクリスマスを祝うことになっていた。
「そうか、でももうすぐおじいちゃんたちも来るから、コップやご馳走を並べておこうよ。」
「うん。」
といって、二人で準備にかかった。なんか楽しいハズのクリスマスもさみしい空気が漂いはじめた。
しばらくしてゲストのおじいちゃんとおばあちゃんがやってきた。
「こんばんわぁ。あらっ。おかあさんはいないの?」とおばあちゃん。
「うん、まだ帰ってこないんだ。」と井達(せいた)。
「あらそう、じゃおかあさん帰ってくるまで準備しちゃいましょう。」
って言っていろんなご馳走が食卓にならんだ。
支度ができる頃、幼稚園に上がりたての下のチビを引き連れたお母さんが帰ってきた。
「ごめん、ゴメン、試合が伸びちゃったのよ。あっ、支度できてるの?」とおかあさん。
「おかあさん遅いんだよぉ。」と不満めいた言葉を発した長男は、後は言葉にならなくなって、目頭が熱くなってハラハラと涙を流した。さすがに恥ずかしくなったのか(小学校3年生だから少しは自制心ができているのか)、すぐ袖で涙を拭いて何事もなかったようにお皿の準備を始めた。ほんのちょっとした間の出来事でおかあさんの視線をそらして反対側を向いた時のことだから、おかあさんにはそのことが見えてなかった。たまたまおとうさんが見てしまったぐらいのちょっとした出来事だった。
 
 おとうさんが帰ってきても、おじいちゃんがやってきても、おばあちゃんがきても平気な顔をしていたのに、お母さんの顔を見るなりハラハラと涙を落とした長男の振る舞いに、胸がつまる思いがした。
この日は、おじいちゃんやおとうさんからプレゼントがもらえてご馳走が食べられるのに、一人で留守番していることの寂しさ。
そのさみしさを耐えようとしても、母親という一番近い肉親の前では耐えられなくなる事実。母と子の絆の強さを感じた。
 
 世の中には寂しい思いをしている子ども達や、大人たちがいっぱいいることを息子たちもこうした感情の浮き沈みを通して会得(えとく)してほしいものだと中年になってしみじみと思う。
 
 

【クリスマスの日 - 車中のできごと2話】

クリスマスイブの日、用事があって社外に出た際、乗り合わせた電車で二つの面白い親子に出会った。
一つは、外国人の父親と7才くらいの男の子。
もう一つは3才くらいの女の子を連れた30才くらいの若い夫婦。
 
 第一話 - 外国人の子供の躾
 恵比寿から新宿に向かう山手線にラテン系(米国人?)の格幅のいい30すぎの男性が座っていた。隣に小学校1年になろうかと思われる童子が午睡(ごすい)を貪(むさぼ)っていた。顔は日本人に近かった。子供の睡魔というのはすごいもので泥のように寝入ってしまう。渋谷で60がらみの女性が乗り込んできたとき、格幅の良い父親は即座に立っておばあさんを手招きして自分の席に座らせた。息子は完全に寝入っているようで電車の揺れに呼応して父親が席を立って譲った左のおばあさんにゆら〜り、先の駅から座っている右のおばあさんにゆら〜り、と揺れた。その度に巨漢の親父は息子の体を正した。社内は無垢な寝息を立てる息子と甲斐甲斐しい父親の情景にホノボノとした風がたった。
代々木で彼らが降りる段となり、件(くだん)の親父は息子を揺り動かして起こそうとするのだがスルメイカのようになってしまっていてどうにもこうにも起きそうもなかった。親父を助けるべく、息子の両隣の老婦人が親父の引っ張るのに手伝ってスルメイカの息子を押し出した。息子は床に崩れ落ちるかと思われたが、やっと現(うつつ)に戻ったようで、トロンとした目を開けた。気が急く(せく)父親はグイと息子の手を引いた。シャキッとした息子は、何を思ったか寝入っていた座席を振り返り、「どうもありがとうございました」とはっきりとした流ちょうな日本語で老婦人に頭を下げ、そして父親に引かれるようにして降りていった。
社内は、童子の躾のよさ、寝起きなのにはっきりとした挨拶に度肝を抜かれた。
米国では、May I help you?
の観念が発達していると聞いていたが、なんとも強烈な光景だった。
家の息子なんかとてもできない行動だった。
 
 
 第二話 - 子供のダッコ
 新宿から池袋に向かう山手線の車中で戸袋付近に母親が3才くらいの娘をだっこして立っていた情景に出くわした。母親はクリスマスの買い物を終えた後らしく、少し疲れ気味で子供に相対していた。娘は、母親の耳朶(じだ = みみたぶ)が目線に入り込んだらしく、神経を集中して母親の耳に見入っていた。おかあさんの耳にはピアス孔の跡があるらしく、娘はぽっかり空いた孔にとても興味を覚えたようだった。おぼつかない言葉で「血がドバっとデタデショ?」って母親に聞いているのに、母親はとんちんかんな返答を繰り返していた。娘は、母親から「ドバって出たんだよ、トッテモ痛かったんだよぉ〜」という言葉を期待していたようで、生返事を繰り返す母親に何度も同じ質問を繰り返した。
そうこうするうちに、
「ねぇ、ママ腕が疲れちゃった。良い子だからオンリしてくれる?」
って娘に哀願した。
「イヤ、○○ちゃんイヤァ。ダッコがいいのぉ」
と少しぐずり始めた。しかし、母親は、どうにもこうにも腕が痺(しび)れているらしく、お願いだからというような諭し文句で娘を床に降ろした。娘はフェ、フゥとぐずりながらも観念したようで聞き分けよく自分の脚で降り立った。母親は痺れた腕を振りながら血の気の引いた掌を連れ添った旦那に見せていた。下ろされた娘の目線は母親の太股しか見えなくなった。
 その情景を見た私は、子供のダッコ願望というのは、自分の脚で立つことが辛いのではなく、母親の目線と自分の目線が同じにならない不安や不満からくるものだということに気づいた。もちろん体が接触して体の温もりを感じるダッコも気持ち良いものではあるのだが、目線があまりにも高い位置にある母親に対する距離の遠さ(疎外感、孤独感)が強いものであると感じた。
私が小さい時の思い出にも、親に連れられてデパートなどの盛り場に連れられて行ったとき、まわりが人の足の林だらけでとても不安になった記憶がある。子供はその目線の位置が低いため、大人の世界がとても恐ろしく見えるのに違いない。
 疲れたお母さんは、子供を降ろしたとき、自分もしゃがんで子供の目線に立ってやれば、娘は随分と安心できたのに違いない、と感じた。
 
 こうした関係は会社の中にも相似形で投影されている。我々管理者の立場は会社ではとても大きな存在である。新入社員には我々の会話が理解できないだろう。彼らは我々が何を話しているのか理解したいのに違いない。我々はそうした新入社員や若い社員に、時には、同じ目線で対してやる必要があるだろう、それが若い者が安心して、そして信頼してくれる大事なことなんだと感じた。

 

●2年に一度の東京モーターショー(幕張メッセ)(1999.11.03)

10月の週末、土曜日(10月30日)に、第33回東京モーターショー(The 33rd Tokyo Motor Show 1999)に参加した。
交通手段は、くだんの自転車(マウンテンバイク)を転がして、北区の家から千葉の幕張メッセまで行って来た。往復90Km。片道45Kmを3時間弱で転がしたから、平均時速15Km/hだった。
 「モーターショーに行くのに、モータ無しのロコモーション(移動体)で行くのかあ。」なんてアイロニカルな思いをしながら、ワッセワッセと千葉街道をひたすら漕いだ。
 幕張メッセの自転車置き場は、会場のすぐ近くにあった。それも無料。近所のおじさんがツッカケ履いて乗ってきたようなママチャリから、本格的なマウンテンバイク(プジョー、cannondale、GT)まで約100台程度が駐輪していた。
 
 前回私が参加したモーターショーは1997年。会社のフリー休暇制度があった時で、これを使って平日に行ったのでとても充実して回ることができたのだが、今回は土曜日で、人・ヒトの嵐。揉まれるように移動しなければならず、それに自転車の疲れもあったため、あまり意識を集中して展示に見入ることができなかった。
 
 前回のモーターショーは、環境問題を非常に大きくクローズアップして、各社ともどういう取り組みをしているかという技術的プレゼンテーションを熱心に展開していた。が、今年は、展示をファッション的に盛り上げてお茶を濁してるという感じを強く受けた。
 
●大きなテーマ
 ここ数年来自動車の大きなテーマは、「安全」と「環境」に集約されているといっても良い。「安全」に関してはチャイルドシートの強制着用が義務づけられるため、TAKATA、Combi、Volvoなどが熱心な展示を行っていた。安全実験のデモテープでは、TAKATAが「STALEX」と呼ばれるロータリプリズム式高速度カメラを使用し、、日産自動車が「Photosonics 1B」と呼ばれるロータリプリズム式高速度カメラ使用した画像を公開していて、いまだフィルムカメラ(ビデオ式ではない、フィルム式高速度カメラ)の価値があるのだと痛感した。
 
環境問題:
 (キーワード: 電気自動車、ハイブリッドカー、水素燃料電池、
  筒内直噴エンジン、GDI、D-4、高圧噴射ディーゼルエンジン、
  コモンレール、NOx、CO2、キャニスター)
 2年前のモーターショーでは、上記キーワードを大きく取り上げ、各社大々的に取りあげていたのだが、今年はトーンダウンだった。
 私のやぶにらみによると、この背景には、トヨタのプリウスの成功があると読んでいる。
 2年前にトヨタは、この環境問題をプリウスの市場投入によって回答を世間に問うた。
それも驚異的な低価格で。
このコンセプトは大いに受け入れられプリウスはベストセラーカーとなった。
 トヨタに先を越された他のメーカは、同じような車を出そうにも、技術的にも、価格的にも見合う車を市場に投入できず、今年のモーターショーでも市販できる車の発表を見ることができなかった。
 こうした状況から、各社は、別の研究開発で生き残りの模索を始めているように思えた。
 今後、化石燃料(石油)に頼らない水素燃料電池、電気自動車の開発が各社で必死になって続けられていくにちがいない。
 燃料電池システムの開発は、世界的に見て2つの大きな流れがあるそうである。
一つは、独ベンツ・米フォード両社の連合と、もう一つはトヨタ連合。
しかし、現時点の実力ではベンツが何馬身もリードしていると言われている。
ベンツグループの仲間に入っている、カナダのBallard(バラード社)が水素燃料電池で格段の高性能電池を開発していると言われている。
Ballard(バラード社)は、1995年に出力13KWの電池20個搭載した全長12mのバスのデモ走行に成功している。
【(水素)燃料電池】  朝日新聞1999年11月27日 4面より抜粋
(水素)燃料電池は、1839年に英国の物理学者ウィリアム・グローブが考え出した。1960年代のアメリカの宇宙計画ジェミニとアポロでは発電装置として使われた。
 開発費がかさむため、その後は表舞台から遠ざかっていたが、カナダのバラードパワーズシステムという会社が90年代に入って高性能の電池を開発。ドイツのダイムラーベンツ(現ダイムラークライスラー)が目をつけたのがきっかけに、車の動力源として一躍、注目を集めるようになった。
(1999.11.29追記)
 
 今後の生き残りは、ベンツとトヨタという地図ができあがりつつある。
 
電気モータとバッテリ
1965年より続けられている息の長い開発商品。
電気自動車の問題点は、重い、遅い、短い(走行距離)、高いこと。
近年、モータ、バッテリの開発が進み実用化に近づきつつある。
 開発は1875年、英国のR.ダビッドソンによってなされた。1990年に米国GE社が「Impact」を発表。1996年EVS-13の開催でリチウムイオンバッテリによる電気自動車販売が開始され、1997年には、トヨタよりハイブリッド自動車「プリウス」が搭乗する。プリウスにしても、これが確固たる位置を占めるにはまだ、高価で、しかも機動力がないため、引き続き高性能バッテリー、太陽電池、小型高性能モーターの開発が続けられている。
電気自動車は、着実に進歩している。電気自動車の一番の課題はバッテリと高効率モータ。
 電気会社が各種高性能モータを出展していた。この中で、トランスミッションを手掛けるアイシンAWがコンパクトなコミュータ専用の電動モータを出展していた。
重量が36Kgで、最高出力20KW/4,500rpm、定格13.2KW/4,500rpmとうたっていた。この出力はそれぞれ29馬力、18馬力に相当する。トルクは、76Nm/2,450rpmとなっていた。
これら電気自動車のモータのほとんどは永久磁石を用いた同期式モータである。永久磁石の性能が格段に上がったことによりモータの性能も急速の進歩を遂げている。
 バッテリーでは、従来の鉛-硫酸蓄電池に代わって、エネルギー密度のより高いニッケル水素からリチウム電池に移行しつつある。
 コミュータ用の高性能充電式バッテリを手がける「リチウム電池電力貯蔵技術研究組合」では、3KWh容量のリチウム二次電池の開発提案をしていた。この電池は、公称電圧30V、110Ahの性能で、重量25Kgのもの。
このバッテリを用いて5馬力(3.675KW)程度でモータを回すと、5時間程度の運転ができる計算になる。
 
安全:
 安全は、永遠のテーマである。この安全を大々的に掲げて大成功を収めたのがドイツのベンツ。ベンツの成功によりアメリカが引きずられ、日本が引きずられている。
 安全をテーマにした展示は昔からスェーデンのボルボ社が有名である。何故か日本ではボルボのネームバリューが高く、欧米の5割方高い値段でも日本のお客様は喜んでボルボの車を買うと言われている。
 安全実験の必要性が、我々の会社(ナック)に活力の場を与えられている。高速度カメラは必要だからである。彼らは高速度カメラを使って安全に対する車作りの貴重なデータを取り込んでいる。
 ベンツは車の安全対策に対して、いつも時代の先を読み安全に対するベンツの姿勢を世界に示してきた。
 偉大なるベンツの安全への取り組みは以下の通り。
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ベンツが主導した安全装置:
1. エアバックの量産化:1980年代。
2. オフセット衝突実験を独自に規則化して実施。
  1977年、「三叉(さんさ)式緩衝機構」
  (衝突時エンジンを搭乗室内に入らせない機構)開発。
3. 1984年、「プリテンショナー」実用。プリテンショナーとは、
  衝突の際に瞬時にベルトをリトラクターに巻き込み、乗員をシート
  に固定して負傷を最小限に防ぐ手法。
4. リクライニングシートに独自の哲学を盛り込んでいる。
  ほとんどの国産車にはリクライニングのギア機構が片側しかない。
  一つのギアで支持されたシートは、衝撃でねじれやすく壊れやすい。
  メスセデス・ベンツは、全車種でギアを両側につけている。
  シートクッション:全てがくさび形で、後部に向けて傾斜している。
  衝突時、下半身が前方にずり出してハンドルの下に潜り込む「サブマ
  リン現象」の予防策。
  メルセデス全車種のシートは、鋼鉄製のフレームにクッションスプリ
  ングを取り付けている。
5. 「ABS(アンチロック・ブレーキング・システム)」
  メルセデスが開発し、いまやほとんどの車に採用されている。
6. 1986年に発表した「ASR(アクセレレーション・スキッド・コントロール)」
  車輪のスリップを自動制御するシステム。
  日本ではATC(オート・トラクション・コントロール)と呼んでいる。
7. 1979年から自動車と路上通行者との衝突について調査を実施。
  通行者の障害部位とその程度、車側の接触部位とその衝撃力を研究。
  メルセデス車のボディーの独特な丸みは空力特性のみを追求した結果ではない。
  衝突した歩行者を傷つけず、次にひざ下から大腿(だいたい)基部へと
  段階的にフロント面が接触し、適切にボンネット上に倒れ込ませる計算の結果。
8. ウレタン製の衝撃吸収フォームをバンパーに挿入(同社が皮切り)。
  三矢星のマスコットやドアミラーを可倒式にした。
  ヘッドランプも衝撃を受けると後退する設計。
9. 97年に発表した「Aクラス」(車長3.3Eの小型車):
  小型車でありながら、現行メルセデスと同等の安全設計が果たされてる。
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レジャー応用(ワンボックスカー、ルーフキャリア):
 今回、自動車をレジャーのメインギア(主要構成品)として位置づけるメーカーが多く見受けられた。ワンボックスカーをさらに進化させて、使いやすく、汎用性に富んだシステムに仕上げていた。ステーションワゴン、ワンボックスの展示に多くの人が群がっていた。
各ブースにはマウンテンバイクを乗せた自動車があって、わたしは、自動車よりも自転車に興味がそそられた。
ベンツでも、独自にマウンテンバイクを作っていて、ちゃんと価格までつけられていた。
値段は\245,000。
フレームはアルミニウム7005(超ジュラルミン)で、ギアやブレーキは日本のShimanoのDXシリーズ。ギア・ブレーキシステムはちょっと古いタイプのもので私のバイクよりもグレードの低いものであった。
その他のメーカは、GT社やcannondaleなどの自転車を車に乗っけていた。
 
ファン・トゥ・ライブ(乗って楽しい車)
 スポーツカーも少しは話題をさらっていた、が、このモーターショーで発表された新しいモデルは無かったように見受けられた。
アウディの新しい4輪駆動車Quatroや、VW(フォルクスワーゲン車)のニュービートル、ホンダのS2000、トヨタのアルテッサに人気が集まっていたように思われた。
 
 
●新しい動き:
 ダイハツ - 新ディーゼルエンジン(2サイクルエンジン)
トヨタグループとして、660ccの軽エンジン自動車に特化しつつあるこの会社は元気だった。
このダイハツがモーターショーで新しいディーゼルエンジンを発表した。
事前に東京モーターショーのホームページを見ていた会社のY君からこの情報をもらっていた。
 このエンジンは、2サイクルのディーゼルエンジン。それも3気筒1000ccの超コンパクト。
 ディーゼルエンジンは機械効率が良い(燃費が良い)ため、ヨーロッパで圧倒的な支持を得ていて、普通乗用車でもディーゼルエンジンの占める割合は高い。
もちろん大型エンジンは全てディーゼルエンジンを使っている。
しかし構造上、小型化が難しかった。
 ドイツ・フォルクスワーゲン社が販売しているゴルフに搭載している1500ccのディーゼルエンジンが最もコンパクトなエンジンだと記憶している。ディーゼルエンジンは重いし回転数が上がらないので小型化のメリットはなかったのである。
 ダイハツは、1000ccの超小型エンジンで、しかもこれに2サイクル、ターボ、直噴という方式を採用してこれらの諸問題を解決した。
 2サイクルディーゼルエンジンは、実は日産ディーゼルがお家芸で、オイルショック以前(1977年)までは、日産のユニフローディーゼル(2サイクルエンジン)は力がある、とダンプ仲間では結構評判だったのです。しかし、燃費が悪かった。
オイルショックの影響で、2サイクルディーゼルをメインプロダクトにしていた日産ディーゼルが業績をどんどん悪くしました。そのうち、ユニフローディーゼルそのものの製造を中止してしまいました。
 今回、ダイハツは、燃費の向上を旗印にこの2サイクルディーゼルエンジンを開発したといいます。展示会場にアテンドしていた技術説明員に聞いたところ、彼らの新開発エンジンの特徴は、
1. エンジンに排気のためだけのバルブが4つシリンダヘッドについていて、
  爆発が終わった後タイミングを見計らって一挙に燃焼ガスを排気する。
2. ピストンが下死点に達したとき、シリンダ側面に開けられた吸気孔と
  掃気孔が開いてターボによって加圧された空気が一気にピストン内に充填される。
3. この方式で、ピストンが上に上がってくるごとに着火・爆発する2サイクル
  燃焼が可能。
4. 2サイクルエンジンの特徴は、高回転化、高出力化。
5. 燃料ポンプはDenso製のコモンレール方式の高圧直噴噴方式。
6. ターボ過給器機構採用
7. 燃費は、100Km/3リットル
とのこと。
このエンジンは、面白そうだった。
これでヨーロッパのディーゼルエンジンの牙城を崩せるかな? と興味津々だった。
 
●ヘッドランプ:
 6年程前あたりより車のヘッドランプに、従来のタングステンハロゲンランプに代えて、HMI(メタルハライド)ランプを導入する機運が高まっていた。しかしながら広く採用されなかったのは、
1. 高価
2. 始動に時間がかかる(水銀灯の一種なので高圧回路が必要)
  パッシング発光がしずらい
3. ビームが高輝度のため、対向車がまぶしい
などの理由がああった。
 今回、小糸のブースを訪れて見て、価格の面は別として、上記の問題点がきれいにクリアにされていて、さらに使いやすいランプシステムに仕上がっていた。
このシステムは、車の走行条件、気象条件に応じてランプの照射モードを8種類自動的に切り換えられるという。インテリジェントランプである。自動的に切り替わるランプの照射モードは以下の通り。
 1. 市街地では50m以内で幅広く照射。
 2. 郊外・直線では80mを照射、投光は対向車を考えやや左よりに強く下向きに照射。
 3. 高速走行では200m照射、しかも対向車を考慮して狭い範囲で下向きに投光。
 4. 市街地カーブは、カーブに曲がる方向に広い角度で照射。
 5. 郊外のカーブは、カーブに曲がる方向、とくに内側を広い角度で照射。
 6. 高速のカーブは、速度とステアリングの回転角度に応じて照射する方向がシフト。
 7. 市街地・交差点では、曲がる方向を広範囲に照射、歩行者の確認を容易にできる。
 8. 市街地で雨天走行では、投光ビームが両方向に別れ路肩線、センターラインを照射。
 
ランプも進化したものだなぁ、と感慨しきりだった。
ベンツのランプを見てると、白い光線を放つ車が多くなってきているが(たぶん、このランプはドイツのオスラム製品であろう)、日本も白い光源のヘッドランプを搭載した車が増えて来ると思われた。
ちなみに小糸のこのヘッドランプを搭載した車種に、
Qualis、Integra、Silvia、Legacy
などがあるそうである。
 
● 展示:
 東京モーターショーは、日本の最大のトレードショーであるため、展示形態も、各社いろいろな趣向を凝らしていた。このショーに行けば日本の実力がわかろうというものである。
 
 なんと言っても圧巻は、トヨタだった。
トヨタのブースは、全周を発光素子(LED)の大型ディスプレーで取り囲み、音と振動、映像でど肝を抜くという感じだった。照明も、メタルハライドの白色、タングステンの赤味、青フィルターをいれたタングステンランプを効率よく配置し、雰囲気の良い味付けをしていた。
このディスプレーは、若者に偏りすぎるでもなく、我々中年にとっても心地良いものだった。
大型ディスプレーも結構きれいで明るかった。
 
 ベンツのブースは、ARRIのHMIランプで固められていた。黒い色のHMIランプで、ARRISUN5と呼ばれるもので200灯くらい使われていたであろうか。
光が白色でインパクトがあるのであるが、光の質が固いので、冷たい雰囲気に感じた。
展示会での使用は万能ではない感じを受けた。
その点、トヨタの照明配置の方が照明をいろとりどりにコントロールしていて、落ち着き、情熱などの表現をうまく出していた。
 
 
●名古屋名物「味噌煮込みうどん」(1999.10.5)
 「東京で名古屋のおいしい『味噌煮込みうどん』食べたい」と会社の若者に言われた。
「味噌煮込みうどん」とは、一部の人たちには絶賛を受けている赤味噌仕立てで、麺(めん)の硬いうどんのことである。東京界隈ではめったにお目にかかることはない。
 しかし、これに一旦味をしめると、味わい深い赤味噌の出汁から容易に足を洗うことはできなくなってしまう。
 「安藤さん、東京になんでこんなおいしいうどんを食わせてくれるお店がないんですかねぇ。絶対繁盛すると思いますよ。あぁ食いたいなぁ、味噌煮込みぃ。」
と、くだんの若者は日がなうなされ仕事もそこそこで熱がはいらないようなので、「しょうがない、見つけてやるか」とインターネット探検に出た。
 
● 渋谷のうどん屋
 それで、一押しの正調名古屋の「味噌煮込みうどん」を食べさせてくれるうどん屋を見つけた。実はこのお店は、以前テレビでも紹介されていて「渋谷においしいみそ煮込みうどんを食わせてくれる店がある」と気には留めていたお店ではあった。
というわけで、9月のとある土曜日、愛車安藤号に跨(またが)って王子から一路渋谷を目指した。
 以下、その報告である。
 
● おいしい味噌見込みうどんのお店
 ★店名: 「ちた屋手打ちうどん」
 ★住所: 渋谷区宇田川町36-1空研ビル1F
 ★営業時間: 平日11:30〜15:00、16:00〜21:00、
        日祝11:30〜21:00
 ★休  み: 無休(但し、正月三が日は休み)
 ★問い合せ: 03-3780-1538
 
● 場所と店構え
 「ちた屋」は、渋谷の東急ハンズの下入口「神南小前」交差点の空研ビル1階にあった。西武百貨店からNHK放送センターに抜ける「井の頭通り」の道沿いの通りで、ヨコシネが入っている渋谷ビデオセンターの手前にある。
 この店では「味噌煮込みうどん」という名前では出しておらず、「かた麺田舎うどん」という名前で出ていた。
 東京では、味噌煮込みうどんのイメージが名古屋の味噌煮込みうどんと違う。このお店では、客から「イメージが違う。生煮えだ」と不評であったため「かた麺田舎うどん」としたんだそうである。この店の女将がそう悲しそうに話してくれた。そんな客からもう一度煮てくれと言われ煮直したそうであるが芯が強いから柔らかくならず・・・。そのお客にはお代をちょうだいせずお引き取り願ったそうである。
 店内は結構広く、中央に20cmほどの厚さの木でできた2.5mx2.5m角のテーブルが置いてあり、これを囲むように椅子が4席x4=16席あった。それに窓側に向かい合わせの10席ほどのテーブルがありその他もあわせて合計46席ほどあった。椅子は最近入れ換えたというなかなかしゃれた背もたれの高い木の椅子で一脚\50,000だと言っていた。店内のメインテーブルには生け花が飾られていて女将のお店に対する愛着を感じた。
 
 ちた屋はお店を開いて40年。東京に出てきてお店をはじめたらあれよあれよと繁盛し、売り上げも鰻登りで順風満帆(じゅんぷうまんぱん)だったそうであるが、6年前から客の出入りはパタッと遠のいたそうである。バブル後の不況の長いトンネルはここにもあらわれているようだった。それと客筋。渋谷センター街に面した盛り場のお店は、最近出入りが特に激しいんだそうで、2、3年(早ければ半年)でお店が替わると言っていた。
 「最近の会社の人たちは180円コーヒーとサンドイッチ、それに立ち食い蕎麦でお昼すませる人が多くなったから、昼飯時にうちのようなお店に来てくれる人はぐっと少なくなったよ」とは女将の弁。
 
 味噌煮込みうどん(かた麺田舎うどん)の値段は、ゴハンとお新香付で\900、それに玉子や他の追加品で\1,200程度。これがこのお店では一番売れるそうである。うどんは味噌煮込みの他に普通のうどんも蕎麦も出している。釜揚げうどんもおいしいらしい。
 このお店はNHKに近いせいか、味噌煮込みうどんを目当てにタレントも結構食いにくるという。
 堺正章夫妻、梅宮辰夫、中山美穂、SMAP、そのほか大勢(とても覚えきれなかった)のタレントさんがひいきにしてると女将が話していた。
 梅宮辰夫は料理が好きなので地方へ仕事に出た折りおいしい酒の肴を見繕ってこの店を訪れ、自ら厨房に立って酒の肴を設え(しつらえ)、メインディッシュ(味噌煮込みうどん)に舌づつみを打つんだそうである。
 
● 女将(おかみ)
 ここの女将は、18才で愛知より出てきて40年間商いしてるという。もちろん旦那も愛知県出身。私が暖簾をくぐった土曜日の午後2時はお店はあまり混んでいなかったので、私が味噌煮込みうどんを食べる間中話し相手をしてくれた。
 「肝っ玉かあさん」という感じの女将で、心映えの良い人だった。年中無休で仕事一筋。ほんとにお店が好きという女将だった。
 名古屋の山本屋本店に味噌煮込みうどん食いに行って来なよと言っても忙しいから行けないと言っていた。お店は5人も使ってるし、息子もお店ついでるんだから4、5日お店空けても大丈夫じゃないの、と言ってもダメ、私がいないとダメって言う始末。
 「あんた田舎どこよ?」って聞くので「愛知県の豊田」と言ったら、「あぁ豊田。あそこで食べた鰻はうまかった、いまだに忘れられない。20年前の話だけど、あの鰻の味に勝つ鰻を以来食ったことがない」って言っていた。豊田なんか鰻では少しも有名じゃないよなぁ。きっと矢作川(やはぎがわ)でとれた天然鰻を使ったんだろうと思った。食材は天然物、それに旬のもの。これに卓(すぐる)食材なし。
 お店のメインテーブルの大きな花瓶にザックリと季節の花を盛り込んだり、粋な椅子や厚手の木机を設えて掃除の行き届いた店内を維持しているところに女将のこだわりを感じた。
 
● 食材
 味噌は、当然、赤味噌。赤味噌は名古屋というよりも、岡崎市の八帖町にある太田赤だし八帖味噌が有名である。名古屋の「山本屋本店」はこの太田赤だし八帖味噌を使っている。
しかし、このお店は西尾の赤味噌を使用してると言っていた。ブランド名を聞くのを忘れてしまったが。
赤味噌は、出汁をとるのが大変。
出汁を惜しまずに赤味噌と混ぜ合わせることにより赤味噌の良さが出てくる。その出汁のこだわりが赤出汁の良さを引き出す。
ホンマものの赤出汁の良さがわかると、コンビニで売ってるインスタントの赤だしみそ汁は食えなくなってしまう。インスタントの赤出汁はやたらからくて、人工調味料を使っているため舌に味わい深く広がらない。
 ちた屋では、味噌の出汁を作るのに、1日1斗缶(18リットル)のカツオ節を使うと言っていた。その他の出汁素材は秘密。人工調味料は一切使わず天然の素材のみ。
とったカツオの出汁ガラは蒲郡に送って水田の肥やしにすると言っていた。そこでとれたお米(愛知産コシヒカリ)をお店で使用。だからちた屋の御飯はどこにも負けないんだと女将が自慢していた。来年は蒲郡に冷蔵倉庫を作って、とれたお米をそこに保存して使う分だけ東京に送るんだそうだ。すごいこだわりである。
 
 味噌煮込みうどんというと素焼きの鍋にグツグツさせて出されるのが相場であるが、このお店ではアルミの深鍋で煮込まれて出される。
素焼き鍋に慣れているため、これはちょっと意外な感じがした。
 
 --  参考 --
 愛知に行かれて本場の味噌煮込みを食べたいと思われる方は、以下のお店がお奨めでである。ホントに本場の味噌煮込みうどんを食することができる。
●山本屋本店:一番有名なお店。いつも長蛇の列。価格が\1,300〜\2,000と高い。しかし赤だしの味は絶品。私が食べた中では最高。
麺は硬い。ごはんとお新香はお替わり自由。黒豚入り、名古屋コーチン入りなどのセットがある。
名古屋駅新幹線口地下街エスカ店、大門本店、メルサ店、堀内ビル店、栄白川店、中日ビル店、今池店
●わか松:3年前名古屋営業所のT君に連れられて入ったお店。
麺は柔らか。いきなりうまいと思った。
愛知県日進市蟹甲交差点東へ300m。蟹甲店の外に平針と御器所にチェーン店がある。
●泉七八 本店:本来はさぬきうどんのお店。K氏に連れられて入ったお店。ここは総じてうどんのレベルが高い。讃岐うどんももちろん、味噌煮込みも絶品。また行きたいお店。
愛知県刈谷市にあるお店。
●和泉屋(丈山の里):本店が安城。三河を中心として店舗数の多いお店。
新幹線三河安城駅にも出店がある。仕事で新幹線こだま「三河安城駅」で下車すると立ち寄るお店。麺は柔らかめ。値段も手頃。田舎に帰るとき岡崎や豊田のチェーン店で立ち寄って食べる。油揚げが赤味噌にはとてもよく合うのだが、このお店はこのコンビネーションをよく知ってる。油揚げの入った味噌煮込みうどんは最高。
●味くらべ:6年前にK氏と入ったお店。ここもさぬきうどんのお店で味噌煮込みうどんを出してくれる。
愛知県刈谷市にあるお店。
 

 

●立食パーティの参加の仕方(1999.09.08)

  友人Kからメールが来た。
その友人の素朴な質問がとても新鮮で面白かった。
学会やシンポジウム、セミナー、委員会などで会が終わると懇談の場になり、立食形式のパーティが催されることが頻繁にある。こうした席上で多くの人たち(日本人)はその身の置き所に神経質になる。日本ではこうした風習がないのでどのように振る舞っていいのかよくわからなくてとまどう人が多いようである。
 
●友人Kからのメール:
 よくフォーラムやセミナーの後に開かれるパーティーに出席する際の(出席者がほとんど初対面だと仮定する。立食形式であると仮定する)、振る舞いかたについて、教えてください。当方の拙い経験では、人は、一個所に固定していて、あまりグルグル回ったりしない場合があります。そのような時、自分だけ最初に話した人をその場に置いて、別の人と話しにくい感情があります。最初に話をした人もすぐに次の話し相手が見つからないということも理由の一つです。したがって、こういう場合、他の出席者も最初に話した人とずっと話していることが多いように見受けられます。これは、ちょっともったいないように思うのですが。こういう場合、安藤さんは、どうされますか?楽しみかたのコツを簡単に教えてください。
 
●私のコメント:
 結構興味ある問題ですねぇ。
立食パーティの懇親会は、欧米からスタートしていて、できるだけたくさんの人と交流を深めることを大前提としていますから、日本人のような義理人情の考え方は捨てた方がいいように思います。
 パーティの席上では、参加者は大抵あの人と話そうと大体の予定は立てておくようです。それも時間として約5分から10分。向こうも興味を示してくれればもう少し長く。
 
 相手が人気の高い人や話題の人でしたら独り占めすることができませんから、予め聞きたい内容を決めておいてお目当ての人の近くに行って周囲を見回し(場合によっては先客がいるかも知れない)、その会話の中に入っていきます。会話が秘密めいたものでなければスイマセンとか言って自分を紹介して仲間に入れてもらいます。適当な所で抜け出しても失礼にはあたりません。自分と相手の二人だけの会話でしたら会話の途切れた所で簡単にお礼を言ってまた時間があれば話したいというような別れ方をします。これも失礼にはあたりません。できるだけたくさんの人と話し合うというのが前提ですから。
 
 じっくりと話し会いたいなら、別途そうした場を設ける話をすべきです。たとえば訪問しても良いかとか、名刺を交換するとか、メールアドレスを聞くとか。
 
 場合によっては、双方かなり意気投合して長時間話すこともありますが互いが合意ならそれはそれでいいと思います。時々回りを見回して、他の人が自分をそして相手と話したがっている人がいないかどうかチェックする事は必要でしょう。
 
 シンポジウムで講演をした後のパーティでは必ず数人やってきて意見や質問をされます。それは講演の場では聞けないような初歩的な質問であったり、より深い質問であったり。そうした場合には、自分は動かなくても相手がやってきてくれます。
 
 日本人がこの種のパーティに参加して問題になるのは、日本人は場所を固定してしまうこと、歩き回らない性格があることです。日本人は傾向として内気な人種です。自己を主張する訓練をしていません。米国では考えられない人格形成過程の欠落です。だから日本人は、押し出しよく話しかけられないという性格も併せ持つことになります。
だいたい立って食べるなどという不躾な文化は立ち食い蕎麦屋以外日本見かけなかったものです。
 
 話しは変わりますが、過日マウンテンバイクで荒川河川敷をツーリングしていた時、大学生のサークル仲間が集まって河川敷でバーベキュー大会をやっていました。男10人、女性10名くらいでしょうか。バーベキューの鉄板が4枚配置されていてワイワイやってました。けれど、ナントきれいに男性と女性がそれぞれに別れてジュージュー、パクパクやってるではありませんか。何のために集まっているのか、気の若い私(おじさん)には理解できない光景でした。日本(の若者)もまだまだ古来の日本の風習をひきずってるわい、と思いました。
 
 立食パーティの基本的な考え方を相互が理解していればスムーズに楽しいパーティになると思います。日本人はまだまだ慣れないですけれどね。
 人によっては、こういういろいろな人と話すのがとても苦手な人がいます。まあこういう人は、この種のパーティではある程度訓練を積んでなれてもらわないといけません。
 
 大事なことは、そのパーティでお目当ての人を数人決めておいて10分程度の談笑ができる話題で組み上げることの訓練、スムーズに相手の会話が始められる訓練、一段落したら「ちょっと失礼します」といって切り上げられる相互の意識の持ち方。こうした基本的なスタンスを身につけることが必要かと思います。
 

 

●2000年問題( = Y2K)(1999.08.09)

 最近、2000年問題という言葉を良く耳にする。「Y2K」とも言うんだそうである。Year 2000を短縮化したものである。
 世の中の製品はほとんど全てマイコンやタイマーチップが入っていて、これが2000年1月1日のクロックの繰り上げによって計算の整合性が取れなくなって機器が挙動不審になると言われている。
 今までの日付を利用したマイコン(コンピュータ)は、年を計算するとき2000というように4桁では計算せず下2桁で計算しているために2000年は00となって、分母に00が来るような計算処理では計算ができなくなる。また表計算などでは、2000年の00を1900年の00と間違えて年月を多く計算してしまうと言われている。昔はメモリが高くCPUの処理能力も高くなかったので4桁よりも2桁で計算させるので精一杯だった。これが尾を引いて現在に至っている。
 
進化を遂げてきたクロックタイマーRTC
 現在世界で使用されている日付に関係するチップは、1995年以降120億個出回っていると言われている(1975年以降では700億個)。いわゆる『埋め込みチップ』と呼ばれるものである。コンピュータそのものではないが時間を基準にしていろんな判断を行うICのことである。このチップが安くて機能が豊富なためにありとあらゆる所に使われている。特に、データを扱う計測・プラントなどの監視、生産管理などの機能を担当している。車にも使われているとも言われている。その日付を担当するチップは、
 リアルタイムクロック(RTC)
というのが中核になっている。RTCというのは、時計機能をつかさどるもので、システムの時刻や日付をカウントするICである。このチップは外付けの水晶振動子に接続されて正確に1秒をカウントすると同時にその上位のマイコンからのコントロールによって「絶対時間」としての時刻データのやりとりを行っている。
 RTCは時刻をカウントするのには無くてはならないチップなので安価な安いものをブラックボックス的にシステムに組み込んで、いわゆる「組み込みチップ」として使われている。
 
システム奥深くに入り込んだRTC
 日時を取り扱うシステム、例えば、発電所、電話局、鉄道システム、航空管制システムなどでは、時間管理は大事で、日付の誤りは許されない。これらは当然のことながら2000年問題には厳しく対処されるべきものである。
 しかしながら、自動車などに組み込まれたチップや日付処理を行わない機器については、相対的な時間タイマー(クロック)だけをRTCからもらっているので問題ない、と多くの自動車メーカからコメントが出されている。しかし、これも絶対とは言い切れない。
 相対時間ですむ場合でさえ暦機能を持った安価な埋め込みシステム(既製の汎用製品なら1ドル以下)を使って二つの絶対時間の差を取る形で相対時間を算出している場合があり、その場合には日付機能と同じエラーが生じると言われているからである。
 
あまりにも出回りすぎた『埋め込みチップ』
700億個である。大企業が必死になって対応をはかってしらみつぶしに潰していても、3%程度は処理できない。21億個は対応がなされないまま何らかの機械に入れらている。これが2000年を境にして(実際にはクロックの誤差があるから数時間、数日遅れて2000年をカウントする場合もある)、挙動不審な動作を行うことが考えれる。これが一番恐ろしい事態だと言われている。
 
複雑な閏年(うるうどし)処理
 チップの中には、2000年では閏年処理がなされていないチップもあると言われている。2000年は閏年だそうである。現行のグレゴリー暦では、100で割り切れる年は例外的に閏年ではないそうだが、実はその中でも400で割り切れる年は、さらに例外の例外で閏年になるそうだ。地球の運行を微調整してるわけだが少々複雑である。これらの微調整をちゃんと計算に入れているチップであればこの問題は回避される。
 してみると、2000年が開けた時にパニックが想定され、2月28日を越えて3月になるか、もう一日数えるかでまたパニックが想定される。同様に3月31日にも1日ズレる問題が出てくる。
 
ナック社製品レベルでの2000年問題
 うちの会社でも2000年問題の対策委員が発足し、我々の扱っている製品に対して2000年以後、想定される不具合の把握と対策について検討を始めている。
 結論的には、我々の製品は製品の絶対時計にリンクして作動しているものは少ないので大事に至らない、というのが大枠の方向である。ほんとにそうかという保証はないのであるが(他の会社同様)。先ほど述べましたRTCがブラックボックス的に使われていると、単にクロック計算だけだから大丈夫と言えなくなるからである。しかし、我々の扱う製品は死活問題にかかわるというものではない。
 一般に使われているコンピュータでは、コンピュータに内蔵されているメモリバックアップ用のバッテリがなくなるととんでもない日付が出てくるが、個人で使う場合はそれだけですむ問題である。
 
インフラ分野での2000年問題
 我々の会社は計測装置しか関与してないので、社会に多大なる迷惑をかける次元でとらえなくてもよさそうであるが、これが、基幹産業(インフラ)、つまり、電力供給システムだとか、オンラインバンキングとか、交通制御システムとかプラントの制御システムとなると事は重大である。システムの中に使われているチップを一つ一つしらみつぶしに調べ上げないといけない。
 一見「日時」とはなんら関係なさそうなモジュールでも、チップが進化を遂げる過程でチップ構造の深いところでタイマーが働いていて2000年になるとそれが起動して不具合を起こすのではないか、という心配がされている。つまり生物の進化のような形でチップが進化してきているためその痕跡(バグ)が残っていて、ひょっとするとそれが2000年に吹き返してくるのではないかという不安である。
 だから、一見「日時」なんて関係なさそうな自動車でさえも、そうした市販の安価なチップを流用している場合には、2000年を境に不穏な挙動を示しトラブルの原因になるかも知れないという懸念がなされるのである。
 また、電力を制御しているソフトウェアも莫大なノウハウの蓄積があり、この構築で現在の電力供給が成り立っている。しかし2000年を越えるとシステムのハードがどのような挙動を起こすかわからないからソフトがどのように対処していいかわからなくなってしまう。その対応にどれだけの日数がかかるかも正確にわからない、という不安がある。最悪の事態は電力の供給がストップしてしまうかも知れないというのである。
 電力に限らず、交通信号制御、列車制御、航空機管制、各種予約、などなど、生活の基幹的な部分に支障をきたすと言われている。
 
インフラ分野の対応
 ならば、その対策をちゃんと立てればいいじゃないか、ということになるのであるが、使用されている回路、チップなどすべて履歴が追えるものばかりでなく、製造中止になったものも現実問題として使われている。こうした不安なブラックボックスは2000年対応のあたらしいボックスと交換すれば良いじゃないかとも思うのだが、現実的には交換のためのお金もかかるし、システムにはいろいろ関連するモジュールで構成されている関係上、新しいものを入れたことで新たな問題を引き起こす可能性も十分考えられ、なかなか手が着けられなかった、というのが実状である。
 このように、各分野ではこの2000年問題を血眼になってその対応や対策を立てているわけであるが、このようなことを行ったとしても、実際は30%程度の対処しかできないだろうと言われている。70%の未知なるものに対しては、実際に2000年になってみないとわからない。30%の我々の出きることをして(最善の配慮と対処をして)、後は神に祈るのみといった所である。
 2000年の年明けに、どのくらいの電力がストップするか、どれだけの列車がストップし、誤動作でポイント切り替えミスが起きないか、などなどはっきりとは誰もわからないということだ。
 
こうした認識は、日本には希薄である。
 
米国の電力業界に見るY2K
米国では、日本以上に2000年問題に対して深刻、且つ現実的な討議と対策がたてられている。米国では1998年にY2Kがクローズアップされたとき電力の主要10社のうち2社しか問題点を洗い出していなかった。電力業界にとって問題となる自働システムの中のエンベッデッド・チップについて、ある社は30万のシステムが存在しているとされ、十分な実態把握がなされないまま、さらには石油、ガス、石炭などの供給元のY2K対応についての考慮がされていなかった。この問題を組織した委員会では悲観的な空気が流れ、「もはや停電が発生するかどうか議論するのではなく、その停電をどれだけ抑えられるかを議論する問題」とまで言われた。
 彼らは、これらの問題に対して国家的なプロジェクトを作って対策を立ててきた。その結果、1999年の1月にエネルギー省に提出した最新のレポートによれば、現時点では全面的な停電の危険はほとんどないと断言できる状況にまでなったと言われている。
 ただ、やはり、デジタルで制御している発電プラントでは、発電の最大効率を得るため、DCS(Digital Control System)を取り入いれており、これが2000年を境に正常な機能を維持するかどうかわからないと言われている。DCSは燃焼時の最大効率を目指してデジタル制御するシステムでここにRTCなど2000年に不穏な動きをするとされるチップがたくさん使われている。
 
複雑系の社会
 我々の生きている社会は、相互連関、相互依存の網の目が張り巡らされている、典型的な「複雑系」である。全体として2000年バグへの対応を非常によく - たとえば99%の個別システムについて - 行っていたとしても残る少数のシステムに故障が起きればそれが全体に波及するかも知れない。それがさらに別の問題の発生につながるかも知れない。
 結局、本当のところ何がおきるかは、起こってみなければわからない。
 例えば、現在の社会は電気無しには考えられない。日本の全ての発電所の1つでもパワーがダウンしたら電力のアンバランスが生じて供給がストップしてしまうかもしれない。電力が正常でも電話回線がストップしたら、電話回線を通じて制御を行っているプラントがストップしてしまうかも知れない。
 神戸大震災の際、全く関係のないトヨタ自動車のラインが止まったのも記憶に新しいことである。
 大企業が比較的一生懸命2000年問題に取りくんでいるのに対して中小企業ではそうした取り組みに熱心でないため、こうした末端の所から大きな事故に発生しないとも限らないのである。
 
2000年問題、日本と米国の認識の違い
そうした、日本と米国の2000年問題に対する認識の違いを、7月4日の朝日新聞の1面では、辛口に批判していた。
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朝日新聞7月4日1面の記事
2000年問題あと半年、日米の取り組みに落差
 米:巨費…なお警戒感、市民がパニック?、日:中小企業対策遅れ、今の経営が大変? 
 コンピューターが西暦2000年1月1日になると誤動作する恐れがある「2000年問題」は、タイムリミットまで半年を切った。米国の取り組みは早かったものの住民の不安は消えていない。日本は対策に追い込みをかけるが、中小企業などの認識は低い。多額の経費を投じ危機意識をもつ米国と、万が一に備える警戒心の薄い日本との間には、大きな落差がある。
(ニューヨーク=黒沢大陸、科学部・勝田敏彦)
米国の取り組み
 ニューヨークで6月下旬に開かれた米証券業協会(SIA)主催の2000年問題対策セミナーには、証券会社、取引所、信託銀行などから600人以上が参加した。SIAの担当者は「だれも対策が終わったとは思っていない。業界外や対策の遅い国からの影響も心配される」と警告する。
 米政府は昨年2月、2000年問題に備えて大統領諮問委員会を発足させ、基幹企業には今年6月末までに対応状況を報告するよう求めている。
 エネルギー省によると、電力などエネルギー分野の対策の進ちょく状況は、6月末で約90%。
 この分野の想定トラブルの中で、最悪なのは停電による原子力発電所への影響だ。たとえば、炉心を冷やす冷却水の循環ポンプを動かす電力が途絶えたら、自家発電機に頼らざるをえない。それが万一故障した場合、炉心溶融という大事故を招く可能性がある。
 米国北東部がサービスエリアの電話会社ベル・アトランティックは、3億ドル(約360億円)以上かけて機器交換などをし、同月22日、顧客に影響を与える部門の対応完了宣言を出した。
 
 万一に備える危機管理計画作りも進んでいる。
 
米国病院での取り組み
 ニューヨーク州ポートジェファーソンの聖チャールズ病院は、年内に、印字できる患者データはすべてプリントで保管する予定だ。地下鉄やバスを運行するニューヨーク州交通局は、2000年になる瞬間を避けるため、「12月31日深夜にすべての電車を止め、1月1日午前零時1分から動かす」ことを検討している。
 心配の種はパニック。市民の買いだめで必要物資が調達できなくなったり、交通や通信手段のマヒで人と物の移動がストップしたりする可能性がある。
 聖チャールズ病院は、通常より2週間分多く薬品などの資材を準備するとともに、電話が不通になったときに医師は取りあえず病院に駆けつけるという手はずを決めた。ニューヨーク市は、正確な最新情報を市民に伝えるため、住民とのミーティング、ホットライン、インターネットなどで、電気、水道、交通の状況を伝えていく。
 日本の対策の一つの区切りも6月30日。政府の高度情報通信社会推進本部は行動計画で、この日をプログラムの修正、模擬テストの期限に定めていた。
 電力会社は国内51基の原発で、制御系統のソフトウエアや時計機能をもつ集積回路を調べた。資源エネルギー庁はその結果をまとめ、同21日、「安全と安定運転に支障はない」と発表した。
 日本銀行は同月、ほかの銀行のシステムとの間で模擬電文をやり取りする最終テストをし、取引が正常に行われることを確認した。
 心配されるのは中小企業だ。中小企業庁の発表によると、3月時点での「対応済み」は事務処理系で57%、制御系で45%。4月に開かれた政府の2000年問題の顧問会議では、「経営の方が大変だという会社が相当あるのではないか」と指摘された。
 
結論
 ということで、何が起きるかわからない2000年の幕開けは、どうも旅行、外出、帰省はしない方がよさそうである。交通、通信がストップしたら1週間ほどはその余波でトラブルが続きそうである。
電力や、水道が止まったことを想定し、1週間程度の買い置きをして、静かに年明けを待ってみるのが無難なところだろう。
どの程度の問題が起こるかちょっと興味もある。どこに起爆剤が仕掛けられているのか想像してみるのも興味深いものがある。
 ・電気は止まるのか?
 ・電車は止まるのか?
 ・電話は不通にならないのか?
 ・物流(コンビニへ食べ物)は滞りなく配達されるのか?
 ・病院での治療は滞りなく受けられるのか?
 ・石油、ガスなどの採掘プラントは正常に動くか?
などなど。誰も確信をもって大丈夫と言えない。

 

●食感-Texture:イギリス人の食感(1999.07.31)

 人を知るとき、「好き嫌い」というのが大きな関心事になる。好きとか嫌いというのは潜在的なもので、そして直感的なものである。これには論理だった理由はない。意味などもない。これは人間だったら大なり小なり持っているものだからある程度は認めざるを得ない。しかしだからといってこの論理が大手を振って市民権を得てしまうと人間関係は非常にギスギスしたものになってしまう。交流範囲が非常に狭いものになってしまう。
 好き嫌いの無い人の方が、好き嫌いの激しい人より付き合い易いのは事実である。好き嫌いが激しいと嫌いなものを生理的に受け付けないから、互いの人間関係が正常になろうハズがない。
 今回は、食の好き嫌いについて考えてみたいと思う。
 
 ここで言いたいことは、ものの好き嫌いは直感的なもので、個人が持っている感覚的なものと文化が育てた環境の中で育まれるということ。そしてこれは人間の深層世界の淵に位置しているのでおいそれと変えるのは難しいということである。この深層世界の中の感情を基盤として人は論理で自分を正当立てて(自分は間違っていない、自分は正しいと思いこむ)、武装化するのである。
 
 今回は、イギリス人の食習慣をもとに食感を考えてみたい。
ちなみに日本語には「食感」という言葉はない。テレビのグルメ番組でも使いだしたようなので私も使っている。食物を口にするときの感触、舌触り、歯触り、口あたりなどをひっくるめて言う。「食感」をここでは「texture」の意味として使う。
 
 食うことは人間の本質的なことである。食う物についての好き嫌いは人間の「わがままさ」のバロメータになるのではないだろうか。人間関係ではあからさまに、あの人嫌い、というと角が立つのに、食材ではあからさまに感情を露わにしてもそれほど何とも思わない。自分にも(嫌いな食べ物)アルアルとか言って共感したりする。食材も人間の性格同様、強烈な個性を発揮するものほど餌食にされ、好き嫌いが別れる。ピーマン、セロリ、玉葱、納豆、くさや、人参、など。
 
 4月に、会社関連会社の技術者が来日し、彼との雑談するの中でイギリスの食事について話が弾んだ。70歳を越えた彼のおかあさんは生粋のイギリス人なのだそうだが、彼女はイギリス料理しか食べられないという。
 みなさんは、イギリス料理と聞いて何を想像されるだろうか?
イギリス料理の話は後で述べるとして、くだんのおかあさんは、ピザだとかスパゲティ、マクドナルドは口に合わなくて食べないんだそうである。ちょっと意外な気がした。
 まあ、もっとも、うちのお袋もマクドナルドやピザは食わない。醤油と昆布、かつをのうま味をベースとした煮物、焼き魚、天ぷら、お刺身などが彼女の心許せる食事である。
 これがイギリス人だったらどうだろう。イギリス人はまず生ものは食べない。お魚の生ものに限らず、キャベツでさえもトマトでさえも煮てしまう。なんでも火を通す、これがイギリスの食生活の基本である。日本は生(なま)が基本にある・・。新鮮なものを生でいただく。これが日本の食文化の粋である。
 
 こうした中でそれぞれの食文化ができてきて、食感が育まれる。ものを口に入れたときの舌触り、歯触りを総称してテクスチャといい、好き嫌いの根幹をなすものである。舌の感覚(味覚ではない。舌に張り巡らされた感覚です)は視覚の次に優れた感覚だと言われている。一説には視覚以上と言われている。赤ちゃんがものを口にふくむのは、食欲を満たすというよりも舌でそのものの形や質感を知るためだと言われている。だから、脳の発達過程では、できうる限りものを口に入れて大脳を刺激し感覚を教え込んだ方がバランスの優れた人間が形成されるという。
 この時期にいろんな食をほおりこんでやれば、好き嫌いなくなるかも。でも親が好き嫌い激しいと子供の口にはなかなか投げ込めない。
 
 テクスチャについて、おもしろいエピソードがあるので紹介しておく。東横学園女子短期大学の林望(はやし のぞむ)先生が、「イギリスはおいしい」という本の中で次のように説明されている。
 
●テクスチュア
 「クルジェットのトマト煮」(courgette)を食べた。大英図書館のB女史に昼飯を大英博物館の食堂でごちそうになった。この一品は途方に暮れるくらいまずかった。クルジェットは日本ではむしろズッキーニといった方が通りがよいかも知れない。辞書には「クリカボチャの一種」と説明してあるけれど、カボチャなどとは似てもにつかぬ種類の野菜で、胡瓜の親戚と言った方が正確であろう。その少し水気の少ない胡瓜のような野菜を、まず委細構わずブツ切りにする。それから、腰が抜けるくらい長い時間グツグツと煮る。タマネギのみじん切りとトマトを放り込んで、ブイヨンキューブくらい入れるのであろうか。ろくに塩も入れずに、形がへたって緑の色がすっかり抜け、口に入れるとグニャッと崩れるくらい煮込むのである。と、そういう代物をできるだけまずまずしく想像してみて頂きたい。それが、大英博物館で食べた「クルジェットのトマト煮」だった。
 正直言って、私はこれを一口以上飲み込むことが出来なかった。これほどすさまじくまずいものがまたとあるだろうか、とその時つくづくイギリスに来たことを後悔しかかったほどである。
 ところが、ちょうどその時、長期の日本出張から帰英したばかりのB女史は、ひっきりなしにおしゃべりしながら、これをパクパク食べ、あまつさえ「アァ、美味しい、イギリスに帰ってきたって気がしますわ」と目を細めるので、私はすっかり驚いてしまった。
 その時、私が感じた「まずさ」の最大の要素は、塩気でもトマト味でもなく、実は、口の中でぶざまに崩れていく、「グニャッ」というか、「グズッ」というか、ともかく名状し難いその「口触り」であったことは疑いない。
 こうした、口の中で感じる「物質感」とでも言ったらよいもの、「ふわっ」「シャリシャリ」「ヌルヌル」「ポリポリ」「ガリッ」「ニチャニチャ」と様々に表現される食物の「口触り」を「テクスュア」(texture)と言う。
 
●野菜は茹でる
「野菜は茹でる」というのが、多くのイギリス人が素朴に信奉している料理の方法で、それも、日本人がさやいんげんを青くしゃっきりと茹でる、と言うようなのとは本質的に違い、どの野菜も、延々と、呆れるほど長い時間をかけて(時には重曹入りの湯で)茹でる。その結果、たとえばさやいんげんならば、色はほとんどうす茶色に変じ、たかちもぐずぐずに崩れてしまう。あれでは、さぞ栄養も壊れてしまうだろうにと、人ごとながら心配するのであるが、イギリス人はそんなことには全く注意を払わない。ジャガイモも茹でる、人参も茹でる、イングリッシュ・グリーンというちょっとカリフラワーの葉っぱのようなごわごわした緑色の葉菜があるが、それも色が抜けるまで茹でる、ほうれん草もキャベツも茹でる、胡瓜も茹でる、蕪も茹でる、さやえんどうもさやいんげんも皆茹でる、老いも若きもこぞって茹でる、そうして、焼いた肉の隣に付け合わせて、塩やグレイヴィ(安藤注:肉汁)をかけて食べるのである。手間がかからないといえば、これほど手間のかからない料理もあるまい。
 
●イギリス人の食事観
イギリス人は料理というものに一般的に無関心なのであって、パリッとした歯触りやら、微妙なソースの加減といったことに憂き身をやつしているフランス人や日本人などに対しては、むしろ反感や軽蔑を抱いているらしい。ある日、「料理なんてものに大切な時間や神経を浪費するなんてばかばかしいわ」と吐き捨てるように言った、あるイギリス婦人の声調を私は今に忘れることが出来ないのである。
 もっとも、こういう伝統にはそれなりの理屈があったらしく、スティーヴン・メネルの『食卓の歴史』(All Manners of Food, Stephen Mennell、北代美和子訳、中央公論1989)を見ると、「目の前に、二つの皿が並んでいたら、自己否定の規則に従って、自分の好きでない方を食べなければならない」と考えるピューリタン的禁欲主義が、イギリスの食文化の発達を阻んだと言う味方(もっともこれはメネル自身は否定しているのであるが)が根強くあったことを述べているし、伝統的にイギリスでは「目の前にある飲物や食べ物にある種の無関心を払うのが、行儀がよいと考えられていた」とするランスロット・スタージョンの文章を紹介してもいるのである。一方でまた、リーク(leek=日本ではリーキーという人のほうが多いかも知れない、ポアロとも言う。一種の長葱)や玉葱を徹底的に茹でることに関しては、それが口臭と放屁に対するおそれという、社会道徳的な意味での防衛策と言う意味を持っていた、とそのようにジェイン・グリグソンは分析しているそうである。すなわち、イギリス人自身、料理への無関心ということに対する自覚は確かにあったのだが、彼らはそれを矯正することよりも、何か理論的に正当化することのほうに熱心だったように見える。
  - 『イギリスはおいしい』 林 望(はやし のぞむ) 1991年3月11日初版 平凡社

 

●分散力(1999.6.28)

高校時代の友人とメール交換していて面白い話題に出会った。
人間の能力で集中力というのはよく聞く言葉でとても大事なことだと思っているのだが、彼から「分散力」というのも結構大事な人間味なんだということを教えてくれた。
ちなみに、彼は、我々の仲間うちでは超エリートである。日本で最難関のT大学に進み、物性物理の研究を修め、今は世界最大のコンピュータ会社『I』社に勤務している。彼は、だから、言ってみれば集中力の天才というような人間である。その彼が、「分散力」も大事だと我々に投げかけている。彼は、いま金融などの基幹産業のコンピュータアルゴリズムの仕事に携わっているが、きっと人間性のあるコンピュータネットワーク作りをテーマにしてこういう分野に入り込んでいるんだなと感じた。
 1年前、『I』社に勤めるその彼と電話で連絡取り合ったとき、電話口の向こうの彼は昔と変わらない口調で、でもいくらか語り方がゆっくりになったかな、という感じで話が弾んだ。彼の口調は昔から相手にわからせようとして言葉を選んで話してくれる。会社での仕事内容を聞いたとき、約10秒ぐらいウーンとうなって(たぶん、この時どうやって説明しようかと準備していたのだろう)、それから3分程度の説明があった。むかしなら、マシンガンのように言葉がでてきたが、今回は、メルセデスベンツに乗っているかのようにゆったりした気分(しかし、時速150Kmくらいのスピード)で駆ける感じだった。昔はジェット機のような速さだったから随分優雅になった。声音はあまり変わっていなかったが。
 
------彼からのメッセージ---------------
連休中、法事で帰省しましたが、3、4年帰ってなかったので、久しぶりに会う人々に余計なつかしさを覚えました。おとしよりが元気であるとほっとしますね。いつもお経をあげてくれるだんな寺のお坊さんは80才でしたが、すこしろれつがまわらなくなっているところを除けば、いまでもバイクに乗るほど元気で、息子とあげるお経がまったくハモっていないのもかえってありがたいものでした。年齢を経るほどありがたい世界もあるように思います。
いわゆる老人力の一種に分散力というのがあるそうです。集中力の反意語ですが、法要のあとの食事中の会話は分散力がないとついていけないものでした。小さい子供を遊ぶのも分散力を必要とするので結構共通点があるなとおもいながらも、老人ならではの時間軸を縦横無尽に行き来する話に耳をかたむけました。前日に、痴呆になってしまったおばさんを施設にたずねました。額田の山中人里はなれたところの山の上にその新しい施設はありました。おばさんは体は元気ですが、私のことも全くわからなくなっていました。枕をおみやげと見立ててずいぶん持って買えるようにすすめられました。そこを家と勘違いしているらしく、あそこの修理がまだ済んでいない、などと指差して説明してくれます。徘徊癖があり、友人(?)とあちこち歩き回ります。他の老人達は、テレビのかかりっぱなしのホールで無表情にだまって座ったままです。休日のこともあり、何組かのビジターがいました。古くからの友人らしきグループが訪れ、感極まって泣きじゃくる老人もいました。老人達はジャージを着て、私物の一切置いてないベッドと椅子だけの大部屋で暮らしています。止まってしまった時間の中をホールにかけられたテレビの音楽がけたたましく流れる不思議な空間です。一人の老人が私やいっしょにいった甥や姪の手を握ってどこへともなく連れていこうとします。1時間もいると自分も黄泉の国の住人になってしまいかねない恐れを感じはじめます。
その後、美術館を見学したり、甥にねだられて野球の相手をしたりしているうちに、やっと彼岸から此岸にもどれた実感をいだきました。
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安藤記:
分散力という言葉は初めて聞いた。
なかなか含蓄のある言葉だと感じた。
現象をあるがままに包み込むような意味だと解釈した。
あるがままに、されるがままに。
ビートルズの不朽の名曲「Let it be」に通じるものを感じた。
こういう言葉は、年をとらないとわかないものだと思う。東京で生活しているとあまりに早く時を駆け抜けてしまう感じを抱く。こうした生活では、気の利いた生活をすること、集中して一気にやること、なんでも最先端を追い求めること、などが善とされる。
若者は、集中力こそが唯一の特権のようにとらえ、高い能力の一つと考えているが、まわりを見渡せば、分散力もけっこうな力を持っていることがわかる。
老人の会話を聴いていると、1/f周波数のような世界を感じる。
1/fというのは、一昔まえ「ファジー」という言葉に代表されたあいまい理論の一翼を担ってた考え方で、扇風機などでよく言われている風のゆるやかな周波数のことを指す。
まぁ、言ってみれば心が和む周波数のことだろうか。
老人の会話にはスローだけど、こうした相手を包むようなゆったりとしたリズムがある。
彼のメールを読んで、分散力という言葉を少し噛み締めないといけないな、と感じた。
ボケ具合というのも、結構大切な生活要素だと感じ始めている。
写真でも一緒のことが言える。
若いときはリアルに、がんがんにピントを合わせて写真をとるけど、年を取るとちょっとボケた方がいい感じを受ける。うまいボケ方をするレンズが良いレンズと思うようなってくる。
 
 
 
●書き言葉と話言葉(1999.5.17)
●電子メールの発達:
電子メールの発達と共に、我々の生活形態が変わった。
私自身も、かなり変わった。
これほどストレートでわくわくする媒体はないんじゃないかなと思う。
米国では2、3年前ほどから電子メールを使用するインターネットがネズミ産的に増えてるという。その多くは女性なんだそうである。
日本でもインターネットを始める人は年を追うごとに増えている。それも機械物を苦手とする女性が爆発的に増えている。旦那がインターネットやりたいといってもなかなか理解してくれない奥方でも、隣の奥様もやっているからという理由だと二つ返事で家庭内での認可が下りてしまうのだそうだ。ホント。
 
●電子メールの文体:
 こうした、電子メールで大きくクローズアップしているのが文体である。仲間同士の電子メールでやりとりは、「書き言葉」ではなく、「話し言葉」をつかっている。
この話し言葉こそがその人の人となりを表し、インターネット増加の秘密の一つになっている。
 我々の仲間うちの電子メールでもいろいろな人が、その人なりの話し方でメールを送ってくれる。その人がそのまま現れているようでとても面白い。
 電子メールを媒体としてコミュニケーションが発達すると、文章によっていかに自分を表現しようかと思うようになる。ちょうど服装で自己を表現するように。
 
●書き言葉と話し言葉:
自分の考えを自由に表現する「書き言葉」も時代の中で大きくうねりながら変化を遂げている。
言葉を大事にしようという人がいるが、その意に反して、話し言葉はどんどん変わる。日本に限らず、英語でもかなりの変化を遂げている。話し言葉があまりの変貌を遂げると、書き言葉は置いてきぼりをくい、ある時点で両者の差を詰める作業がなされる。
 
 ここで、日本語の書き言葉の変遷について、ちょっと振り返って見たい。
今使っている言葉が未来永劫普遍のものでなく、今までも、そしてこれからも移り変わって行くものだということが理解できる。
 愛という言葉や、宗教、郵便、範疇、哲学などということばは明治になって作られた言葉であり、昭和以後は造語を作らずに英語をそのままカタカナにして日本語として使っている。
 書き言葉は、話し言葉と限りなく近いようでそれでいてまったく違うコミュニケーション手段である。話し言葉は迅速に、自由に、限られた人たちの間で成立する。薩摩言葉(島津藩)が江戸の隠密から情報を漏らさないために発達したというのは有名な話である。女子高生たちが彼女たちだけにわかる言葉を編み出すのもそうした理由である。米国の黒人たちは、彼ら独特の言い回しをする。これを白人が面白がってまねると怒り狂うということを現地アメリカ人から聞いたことがある。
 
●文字の輸入:
 話し言葉は時代に応じ絶えず変化してきた。日本には古来から大和ことばという言葉があり、それに大陸から漢字とともに中国語、仏教用語を導入した。日本は、書き言葉を中国の漢文からスタートさせた。
しかし、大和地方ではすでに話言葉はできあがっていたので、中国語の発音、構文を完全に導入することはせず、日本の言葉にして使っていた。
音(中国の発音)と訓(日本古来の言い方)の二つの言葉の発生である。
日本人は、この二つの発音を一つの漢字に当てるという暴挙を平気で行った。この感覚はドイツ人には全くない。ドイツ語は言葉と発音が一通りにしか当てはまらない。日本人はドイツ人に似ているといわれるが、考えてみれば日本人は古来から優柔不断でいい加減なものである。新しがりやでいつもいつも下界や他人が気になる。新鮮なものを求めて馬車馬の如く時代を駆け抜けている。ちょっと前のものは古いと見下す。ドイツ人は古いものをとても大事にする。ドイツに行けばその町並みを中世のまま保存・努力しているのを見て取ることができる。イギリスも同じ。古い家を争って買い求め、それをできるだけ保持することが彼らの生き甲斐なのである。
ドイツ人、スウェーデン人の頑固さなんて日本人の頑固さに比べたらダイヤモンドと豆腐ぐらいの隔たりがあるんじゃないかと思う。日本の風土には深い思索を擁する哲学や重厚な交響楽(シンフォニー)は育たない。日本のふすま文化(大広間を作って、ふすま一枚で間仕切ってことに対処する)は柔軟性の典型である。
 
●日本流書き言葉
日本人はこの改革のほかに、勝手に(1?)カタカナを作り、ひらがなを作る。この発明は、平安時代漢字一辺倒だった書き言葉に、ひらがなを交えた柔らかい文章の登場を促した。
 平安文学の書き言葉が、当時の話し言葉であったかどうかはよくわからない。ただ、当時は、今と違った発音があったことは事実のようである
 ゐゑを
という言葉は、いまでこそ「いえお」と同じ発音になってしまっているが、平安時代には別の発音(うぃ、うぇ、うぉ)がちゃんとあり、当時の人たちはちゃんと区別して使っていたと言われている。
 はひふへほ
の発音も、平安時代は、「ふぁ、ふぃ、ふぅ、ふぇ、ふぉ」と発音していたと金田一春彦(国文学者)先生が話されていた。
 ふぁるふぁあけぼの(春は曙)
と当時の枕草子は読まれていた。
私が中学の時、祖母が「重い」という発音を「おもい」と発音せず、「よもい」と発音していたことを覚えている。「茹でる」は「ゆでる」ではなく、「うでる」と言っていた。
私の生まれた街は愛知の田舎で、大和朝廷や、京の都から仏教の伝搬とともに言葉も都から伝わり、その一部が土着の言葉と共に定着した。だから大和地方や京都で使われていた言葉がまだ生きている。文化的には近畿圏である。また、東(あずま)には東の言葉があり江戸時期急速に力を伸ばし、現在の日本語の主流になった。
話し言葉はどんどん変わる。書き言葉は、これに対し簡単に追従できない。
以下、司馬遼太郎氏の「この国のかたち」3巻「小説の言語」の中で啓蒙される内容があったので織り交ぜながら紹介したい。
 
●大衆の書き言葉(上方 = 大阪):
しかし、大衆に力がついてくると書き言葉に革命がおきる。
 近世、小説(大衆書き言葉)としての文章語は、元禄前後の大阪の町人層で発生した。
町人層と言っても、本阿弥光悦(1558-1637)に代表されるような京都の町人衆ではなく大阪(下町)で起こった。
本阿弥光悦のような京都町衆からみれば、当時の大阪は品下がる世界(下町の下品で世俗な町)だった。
江戸初期をすぎるころから、大阪は全国的な市場として圧倒的な成長を見せていた。
 大阪の商業の発展が、寺子屋を増やし教育水準を上げた。このため、日本史上最初の大衆社会が、元禄の大阪に現出した。
劇場ができ、座付作者が生まれ、俳諧が盛行した。
同じ町人といっても、能や狂言、連歌を愛したひと時代前の京都の上層町衆とは全く違っていた。
 この点、江戸初期をすぎたころの大阪は、大町人よりもむしろ大量の小町人の世界で、かれらは造形よりも、浄瑠璃や俳諧、戯作といった手軽なものを好み、かつ芝居や相撲というふうな大衆参加の興業物をよろこんだ。
 元禄文化(1688-1704)は大阪が担った。戯作や浄瑠璃がさかえ、代表的な作家として井原西鶴や近松門左衛門が出た。むろんかれらの作品が文語で表現されたことはいうまでもない。
 ただ、文語といっても十代の商家の小僧が十分に理解できるものだった。こういう文学的現象は、京都の上層町衆の文化にはなかった。敷居が高い観念が京都にはあったわけである。
 
●江戸文化登場
 やがて、大衆文化は江戸に移る。
文化・文政(1804-30)は、江戸の世である。
その時期に江戸弁が熟成する。これが日本の標準語の原型となって行く。
そいういう江戸風の口語のおかしみでもって小説を書いたのが、式亭三馬(1776-1822)だった。
 三馬の滑稽本は、筋よりも人間の機微を描くのが目的で、そのために気質とか癖で人間を分け、それぞれの典型を会話を中心として描かれた(三馬の気質ものは、明治中期の逍遙の『当世書生気質』や漱石の『坊ちゃん』に影響を与えた。)
 
●明治の言文一致運動:
 明治維新で、旧文化が陥没する。
 革命は過去の文化を一挙に押し流すものらしく、文学作品においても、明治19年ごろまでは、照明の消えた舞台のようなものだったと言われている。
 青少年期の森鴎外は、そのように、読むべき文芸作品のない時代に成人した。『雁』のなかの語り手である鴎外も、主人公の岡田も、やむなく中国の小説を読んだそうである。たとえば、明の中期(十六世紀)の小説『金瓶梅(きんぺいばい)』などであった。
彼らは中国語で書かれた小説を「全文を暗誦することができる程であった」といわれている。ものすごい語学力である。
 
●言文一致は東京弁:
 明治の文学の一特徴は、東京生まれの作家の時代だったことである。
 このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったことと関わりがある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在に落ちぶれた。
 明治になって文章言語も変容していくわけであるが、その言語を変える機能まで東京が独占した。
 振り返ると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの威厳を持っていたが、明治になって、単なる鄙語(ひご)になり、ひとびとは自分のなまりにひけめを感ずるようになった。
 地方から出てきて東京で小説を書き始めた者も、江戸弁を使うことにひるんだか、もしくは使えなかった。このために地方出身者はもっぱら美文(当時の用語として、文語のこと)で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、かれらの多くは小説を書くことをやめた。
 
●名古屋の人、坪内逍遙と二葉亭四迷
 坪内逍遙(1859-1935)でさえそうだった。
 逍遙は明治16年(1883年)東京大学を出て後、小説とはなにかについて、『小説神髄』(明治18年)を書き、一般大衆に訴えた。またその新概念の実例を示すべく『当世書生気質』を書いた。しかしながら、逍遙は、それを話し言葉でなく、美文で書いた。最終的に、逍遙は、美文から離れることができず、ついに小説の筆を折った。逍遙は、口語で文章を書く自信がなかった。
 このことはかれが旧尾張藩の出身で、在来、方言使用者であったことと無関係ではない。
 ただ逍遙のえらさは、口語文があたらしい明治の文学のために必要であることを知っていたことである。
 かれは同藩出身の二葉亭四迷(1864-1909)が訪ねてきた時、四迷がきれいな江戸弁をつかうのを聞いて驚いた。四迷は自分と同じ尾張藩ではあったが、江戸詰の子だった。つまり、生まれも育ちも東京の名古屋人ということである。ちょうど三河生まれの私の息子が流ちょうにこちらの東京弁を使っているのと同じである。息子たちを連れて帰郷すると、兄貴の子ども達から「東京弁しゃべっとるぅ」と好奇の目で見られたことを思い出す。
 ちなみに四迷の名前の言われは、オヤジから「おまえなんか、くたばってしめぇ」と言われた所から来ているのだそうだ。ずいぶんべらんめぇな親子だったようだ。
 話をもどして、四迷。
彼は、外国語(かれの場合はロシア語)が堪能であるにもかかわらず漢文の教養がうすく、文語体が苦手(四迷の『余が言文一致の由来』)だった。逍遙はこうした四迷におもしろみを感じる。
 逍遙は、口語による創作をすすめ、「あの円朝の落語(はなし)通りに書いてみたら」といった話は、有名な話である。
 四迷は、その通りにした。これによって明治20年、『浮雲』という実験的な作品が世に出る。
 四迷の自信のよりどころは、「自分は東京であるから、いふ迄(まで)もなく東京弁だ」ということだった。今で言えば、東京で、三河弁丸出しの文章を自信もって書くような思い切りが必要だったのかもしれない。ただ、三河弁と、東京弁の違いは、マジョリティ(絶対多数)の違い。国を動かす中心の都会で、日頃語られているような平易な文章を使えるようにすれば、コミュニケーションがよりいっそう取りやすくなるという利点がある。また一般の人への理解が格段に向上する。東京の大衆も落語のようなわかりやすいおかしみのある文章に飢えていたんだろう思う。
 
明治の時代に言文一致を始めたのはこの四迷と山田美妙だった。四迷は、「私は、・・・だ。」とする「だ」調で、美妙(びみょう)は「です」調で運動をはじめた。
今の私のこのセッションでは「だ」調で書いているが、気心の知れた友人には、「なんだよねぇ」とか「だけどさぁ」、「あら、まぁ」なんかを多用している。
で、四迷は、自分でも教養がないことを認めていて、「です」調がうまくいかなくて「だ」調におちついたと言っている。彼は、「余が言文一致の由来」という文章の中で、
 「わずかに参考にしたものは、式亭三馬の作中にある、いわゆる深川ことばというやつだ。[べらぼうめ、かぼちゃ畑に落っこちた凧(たこ)じゃあるめえし、乙う(おつう)ひっからんだことを言いなさんな]とか[井戸のつるべじゃあるまいし、上げたり下げたりしてもらうまいぜぇ]とか、ないしは[腹は北山しぐれ]の、[何の有馬の人形筆]といったたぐいで、いかにも下品であるが、しかしポエチカルだ。」
と、彼独特の感性を暴露している。下品な四迷も、ツルゲーネフの翻訳「あひびき」では、これが翻訳というものかというほどの新境地を口語体で披露した。ただの下品じゃなかった、四迷は。
 
 
●言文一致の完成、夏目漱石:
 『浮雲』の刊行から十余年をへて、それまで英文学の先生だった夏目漱石(1867-1916)が『我が輩は猫である』や『坊っちゃん』などを書きはじめ、いきなり評価を得る。
 『坊っちゃん』にはなお式亭三馬のにおいがあったものの、世間は、口語の表現力の豊かさに驚かされ、あらそって読み、その文体を学ぼうとした。つまり漱石の文章日本語は社会にとりこまれ、共有されたのである。当時、平易な口語体であれだけ見事に情景を描写できるものかと驚愕に近い衝撃があったそうだ。
 その後、漱石の文体は『三四郎』以後落ち着き、未完の『明暗』で完成した。情趣も描写でき、論理も堅牢に構成できるあたらしい文章日本語が、維新後50年を経て確立した。
 夏目漱石を評価するときは、こうした言文一致を見事に書き言葉として完成させ、しかも単に下世話な次元の低い物語でなく、論理も情趣も旧来の文体に負けないくらいの新しい文体を作ったことにある。
 今、読み返す漱石の文章は、まだまだ今の口語文章と比べてごつごつした感じをうける。
ほんとにスムーズな、流れるような文体を完成させるのは、志賀直哉である。以後、文体は志賀直哉を規範とするようになる。
 連休中に、志賀直哉の処女作「網走まで」を読み直した。情景描写が細やかで、今の文体とひとつも遜色ない。ホントによく情景を観察して書き写している。登場人物の言葉が今の言葉と若干違うがそれにしても見事な描写能力だった。
 また、国木田独歩も二葉亭四迷の訳したツルゲーネフ「あいびき」の文章に感銘を受け、「武蔵野」という作品に口語体の叙景文章を表している。私が高校時代、この「武蔵野」を読んで、楢林の東京に憧れた。20歳のとき、一人で車を名古屋から飛ばして大宮を訪れ、これが武蔵野かと、名古屋や岡崎、足助(私の生まれた町)とは違った広大な台地の原野風景に感動したことを覚えている。北海道はもっとすごいことを後になってまた知るのであるが。
 
 
●個人が生かせる書き言葉:
 こうした書き言葉は、今までの歴史を思ってみても、今後大きく変わって行くであろう。現に話し言葉はかなりの勢いで様相を変えつつある。お年寄りがなげく変わり様も、彼らが若かりしころと同じなのである。彼らが吸収して使っていた言葉が実は当時の年寄りから嘆かれていたのは、上の歴史を見ればあきらかである。
今の我々の世代から、10代の若い子たちの使っている言葉を見てもほとんど理解できない。特に女子高生は排他的(はいたてき=仲間意識が強く仲間でないものを強く排除しようとする)で、言葉に対して敏感なので言葉でグループを作る。まあ、こうした言葉は多くの人たちに受け入れられるほどイニシアチブ(主導権)を得られるとは考えられないが。
いずれにせよ、話し言葉は、
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
である。どんどん作られる。
 言葉のもつ魔力は、言葉によってお互いが共有できる鍵を持つことであるから、共有できるキーそのものが「言葉」になるわけだ。
 これからの文章は、いかにその文章がわかりやすく、親しみやすく、おもしろおかしく、イメージを掻き立てられるかによる。
 しかし、すべての世代にわたって受け入れられる文体や文章が現れるかとなるととても疑問である。現在は多様化の時代に入っている。音楽でもそうであろう。一昔前は、国民的な歌があったが、今は多様化が進み、一つの歌で時代が括(くく)れなくなってきた。たくさんの歌の中で自分に合うものを選択できるようになった。
 そうすると、文章形態も多様化するのであろうか。そうした試験が、このインターネットで行われようとしている。明治時代、口語表現のもつ柔軟な表現に多くの人が群がったように、今また、電子メールの媒体を通してどのような文体や言い回しが確立されるのであろうか。
興味はつきない。
 
 
 

●Linux(1999.4.30)

 先週、うちのカミサンが朝日新聞の朝刊を読んでいて、
「ねぇ、おとうさん、コンピュータでリヌッ、ん・??、ライナ、なんだぁ!?、このライナ・・なんとかコンピュータって知ってる? どんなものなの?」と聞いてきた。
 彼女は、Linux(ライナックス、ヨーロッパは多分リナックス)をインストールしたパソコンが各社から発売になったという記事を読んで質問に及んだものと思われる。
 コンピュータのことなら、おとうさんに聞けば何でもわかるとするカミサンの浅はかというか、かわゆいというか。まぁ何にしても、私はよう知らん。
 Linuxというのはコンピュータを動かす最も基本のソフトウェアOS(オーエス、Operating System、Windows95などがこれに当たる)のこと。世界のパソコン市場がマイクロソフトのWindowsで席巻されている中で、このLinuxは、徐々に浸透をはじめ、マイクロソフトを気が気でなくさせている。
 
 こういう話題の深い掘り下げは、会社のコンピュータお師匠Y君に限るというので、さっそくを取材した。
 
●初級編
・Linuxは、1991年当時学生だったフィンランド人ライナスさんが
 UNIXというOSをパソコンレベルで使えることを目的に開発。
・これを、インターネット上でプログラムを無料公開した。
・プログラムが公開されたことで、人気が沸騰しいろいろな人が手を加え、
 ネット上で開発が続けられ、瞬く間に洗練されたOSになった。
・Linuxは、無料で入手できる。
・コンピュータネットワークでのサーバ(たくさんのコンピュータの管理を行う)
 機能として非常に有効である。
・データ通信、コンピュータ相互間のファイル管理などが洗練されている。
・高価なコンピュータを必要とせず、古いコンピュータでも十分に使用可能。
・我々のような一般ユーザが使うには、未だ問題が多い。というか全く使えない。
 つまり、WORDとかExcel、Photoshop、FilMakerなどは使えない。
・使用に際してもコンピュータの知識がないと使えない。
・普通のユーザーが気づかない形で多くコンピュータにLinuxをインストール
 してネットワークを利用して管理すれば、近い将来驚異的な作業環境が見えてくる
 (ただし、これは今現在は可能性だけ)
 
・例え話として、
 Linuxとは「Unix世界」のiMacに例えることができる。
  iMacとは、昨年5月 Macintosh から売り出されたコンパクトなコンピュータで
  パソコン市場最も短期間で、最もたくさん売れたコンピュータ。
  簡単に誰でも操作でき、高性能なので爆発的に売れた。
  つまり
  → 今 話題沸騰、大人気 専門雑誌まで創刊され流行になってしまった
  → 今までに比べて 安い 使いやすい 初心者向きである。
    でもパワーユーザーの判っているUNIXに比べ、
    一部パワーユーザーには 不評 やっかみが多い。
  「急に有名になったけど、今までの**だって充分な機能が」 
  「確かに初心者には良いけど 今までの歴史や今後の拡張性を考えると。。。」
  → 新しいコンセプトが従来のUNIX製品にはない重要な点
  つまり、iMACのデザイン優先(色と素材)とコストパフォーマンスで流行したように
  Linuxは、オープンソース(プログラムを全部公開)として爆発的に普及している。
  曰く、Linuxは、今のところ、あくまでも「Unix世界」での初心者向き。
 
 
●上級編
> 1. Linuxって何?
ライナスさん(Linus Torvalds:フィンランド人)が、1991年、学生時代に作ったUNIX(ユニックス:コンピュータのOS)なので Linuxと呼ばれた。
スヌーピーが好きな人は当然 毛布を抱えた「ライナス」君を思い浮かべるだろう。
(最近は、Linuxの読み方がリナックスになりつつある)
UNIX(ユニックス)とは、今までワークステーションと呼ばれるパソコンより1クラス上のコンピュータで動いているOSのこと。SUNやHPやシリコングラフィックスコンピュータなどに使われている。ネットワークで使うのに非常によくできたOSで、WindowsNTと呼ばれるOSは、このUNIXを多分に意識して開発された。
 
   【豆知識】
   UNIXは、1968年にAT&T(アメリカ電話電信会社)のベル研究所
   のケン・トンプソンとデニス・リッチという二人の科学者によって
   開発された。開発の動機は、それまで使用していたタイム・シェア
   リング・システム(TSS)がユーザフレンドリでなかったからだっ
   た。二人は、DECのミニコンPDP-7で高級言語のC言語を使って独
   自のOS開発をはじめ、完成させたのがUNIXだった。UNIXは、技術
   者に評価されたが、AT&Tは求めに応じてソース・プログラムであ
   るソースコードと技術情報を公開した。ところが、自分の都合の良
   いように、それを置き換えるコンピュータメーカやユーザが続出し
   た。その結果、UNIXとはいうものの、オリジナル版とは微妙に異な
   るUNIXが世の中に出回るようになった。コンピュータ業界ではこれ
   らのUNIXを「方言」といっている。1980年代の半ばの段階では、
   世界で方言は1000を越えるのではないかと言われるようになって
   いた。
   その後、UNIXは、統合の機運が高まり、最終的に大きく分けて2つ
   の流れができる。現在SUNの上級技術重役のビルジョイがスタンフ
   ォード大学学生時代に作成したBSD版と、AT&Tが開発をさらに続
   けたシステムV(ファイブ)の2つ。
   しかし、1993年3月、Windows NTの開発でUNIXの危機に火がつ
   いた両陣営は本格的に統一の模索をはじめた。
   米国HP(ヒューレット・パッカード)、IBM、サンソフト、ザ・サン
   タ・クルーズ・オペレーション、ユニベル、USLの6社が発起人とな
   り、その他、25社以上の賛同を得て、「共通オープン・ソフトウェア
   環境」を提唱する『COSE』(Common Open Software
   Environment)を発表した。目的は、業界標準ソフトウェアの共通仕様
   化を促進し、異なるUNIXシステム製品間の移植性(ポータビリティ)、
   統一性、相互運用性(インターオペラビリティ)の向上を推進すること
   であった。
 
   COSE発足の2年前に、すでにフィンランドのライナスさんはシコシコ
   PCで動くUNIXを書いていたことになる。
 
PCで動くUNIXにも、この両方の流れを受けたものがある。個人で開発したものや企業が開発したものなど100を超える。Linuxは、システムV系に属している。基本となったのはMimixと呼ばれる製品だった。
PC-UNIX(パソコンで動かせるUNIX)は多くの種類が出回っているが、Linuxの特徴は「オープンソースのOS」として世に出されたため有名になった。
オープンソースとは、プログラムが誰でも見えるように、ソースコード(ソフトの設計図)を完全に公開したプログラムのことを言う。
(正確には公開することが義務付けられている)
従って、当然の利点として、インターネット上でこのプログラムをタダで入手できるので、とんでもなく大勢の人々が入手して、物凄い勢いで改善されている。
(ネットスケープ社もブラウザソフトNetscape Communicatorのプログラムソースを昨年公開したが、Internet Explorerと競争が激化する中、オープンにすることにより全世界の優秀な知恵を結集させることが目的だったと言われている。マッキントッシュもサーバー用の次期OSもオープンになっている。オープンソースは今後の注目すべき流れであろう。)
 
Linuxは、1991年にはユーザーが一人しかいなかったのに、現在100万人を越えている。
 
> 2. Linuxをユーザが使うことによるメリットは?
現在は、ネットワークサーバーとしての利用が最大の利点と思われる。
ネットワークサーバーとは、たくさんのコンピュータをつなげて、相互にデータ通信を行う際のマネージャのような役割をする。会社にあるサーバは、電子メールの管理やインターネットをする際の交信チェックからデータの保存、コンピュータ相互の通信の手助け、プリンタ管理、関連部門のネットワーク管理などを行っている。
Linuxを使う場合、個人でホームページを開いている人には大変重要なものとなるが、かなり「しきい」が高いことも事実である。「しきい」とは、OSに対する深い造詣と使用する際の使い勝手がWindows95のように簡単ではないということ。
「シェル」「X-Windows」「スクリプト」「カーネル」等の言葉が関連資料に当たり前のように出てくるため、この言葉の持つ意味を理解しなければならない。
 
参考までに、
弊社社内にもLinuxのユーザーが数人いるが、こうした人たちは、かなりコピュータをわかっているパワーユーザーである。彼らは、UNIXを知っていて個人でも使いたい人たちなので、ミニノート(A5サイズ)にインストールして(入れて)使っている。それぐらい、UNIXを理解して使い勝手のわかっている人にとってLinuxは、是非とも使いたいOSなのだそうだ。
 
> 3. 今持っているWindows95マシンにLinuxを移植する事はできる?
>   全てハードディスクをきれいにしないとだめ?
>   別のハードディスクにLinuxをインストールして、
>  Windows95と切り替えて使えない?
複数のOSが混在しても使えるツール(複数OS起動ツール)を持っているか、ちゃんとした知識(UNIXとWindowの起動する正確な流れ)をもっている人であれば可能である。
→ということは、私(安藤)のレベルでは、一つのコンピュータに複数OSを混在させることは危険!?。ただ、 Macintosh は基本的に複数のOSを混在させることはOKなので簡単にできそうな気もするが・・・。
→→Y記:Macでも同様の知識が必要。ただしどちらも体験CD-ROMからのインストールとお試しは充分可能である。注意してもらいたいのは、お試し版も製品版(フルスペック)もUnixとしての使い方は何もついていないこと。苦労してインストールしたのは良いけれど何ができるの?とならないように気をつけて!
 
> 4. システム立ち上げ時必要なRAM容量は?
UNIXには本来は無意味な質問である。自分が管理しているサーバーで32MBである。
速度が関係無ければ、各機種(MacもWindowsも)での最低メモリでOK。
本来はMac-OSもWindowsも正しくメモリ管理が動作していればハードディスクへ自動的に仮想メモリが生成されるはずである。ところがどちらのOSもいいかげんなので・・・!!
システムやアプリケーションが不安定になる。
Linuxは、このOSを配布する各ディストリビュータによりそれぞれ制約があるので注意が必要である。
ちなみに、Linux redhatの場合のフロッピーディスクからのインストールでは、
*PC/XT/AT互換機
*256KBのRAM
*フロッピーディスケットドライブ装置
*MS-DOS ver.3.21以降
でLinuxがインストールできるという。
 
> 5. Linuxは極めて古い(遅い)CPUでも快適に操作できると聞いたけど、
> Intel80436のペンティアム以前のCPUでも十分に動く?
古い80386のAT互換機(初期のリブレット)で充分動いている。
ただし特殊な装置は対応するソフトを作る人がいないので動かない。
従って、古くてもたくさん売れた機種を使うのが良策と思う。
ちなみに、NECのPC98やMacなどのコンピュータは、ほとんどすべての機種へ移植されて使用されている。
 Linuxが公開されて、Intel 以外にも、 Dec Alpha, Motrolla M680x0, Sparc, Mips, Power PC などに移植が進められ、なかでもAlpha に関してはほぼ Intel と同様のレベルにまで達している。
 
> 6. Linuxで走るソフトはちゃんと完備してる?
>  (Excel、Word、Powerpoint、Photoshop、
>  Internet Explorer)など快適に動作できる?
これらLinuxに対応したビジネスソフトは今のところない。これらのソフトが使いたい人には現在は全く無縁のOSである。
ただしWordPerfectやCorelDrawが移植されることは発表されている。
 
> 7. ネットワークでWindows95/98/NTと混在しても問題なく使えるの?
現在、IBMやNEC、DELL等がLinuxのプリインストールモデルを出荷している。
最大の利点はネットワークでのサーバーとしての資質が高いこと。
資質が高いというのは、いろいろなコンピュータが混在しても、しっかり切り盛りしてくれる才能があるということである。
数年前までこうしたことができるUNIXシステムのコンピュータは数百万円していたが、Linuxの移植により中古のAT互換機(十万円程度でも可能)で代用できるようになった。
これがLinuxの最大の利点である。従って、多機種のコンピュータが混在する環境こそLinuxの利点ともいえるわけである。
 
> 8. 今後LinuxはWindowsを脅かす存在になる?
商用コンパイラやデータベース関連のソフト開発環境が整えばそうなるだろう。
理由は、安いハードで安定して動くサーバー関連のアプリが製品として開発できるのため。
これは、WindowsNTを供給するMS(マイクロソフト)社の脅威になる。
ただし一般の方(安藤のようにワープロやエクセルやファイルメーカを多用するユーザ)が意識して触ることは今後もないとYは考えている。
MicroSoftは、USAで行われている独禁法違反の裁判の公判で、
「Linuxがこんなに多く使われているので独禁法違反ではないと」主張しているそうである。
 
> 9. その他、特徴あること
Linuxにはディストリビュータ(発売元?)によりいくつか種類がある。
公開しているものなのでOS本体は1つであるが、ディストリビュータによりインストールの方法やWindowシステム(目で見える画面)が異なる。
 例を挙げると、redhat や TurboLinux や VineLinux 等があり、半年も経てば、流行も変わってくるだろう。
 
●参考図書
上記を理解した上で興味があれば以下の本がお薦め。
*「すみからすみまでLinux」
  技術評論社 \1,880(VineLinux体験CD-ROM付)
*「VineLinuxOfficial版」 <本気の方>
  技術評論社 \7,800(VineLinux CD-ROM付)
*マックファンには、「日経MAC99/5号」がお奨め。
 PowerPC用LinuxのCD-ROM付。
*日本Linux協会のサイトは来訪の価値あり。
 正しい用語と定義が掲載されている。
*ライナスについて
 「Linux入門」 アジソンウェスレイパブリッシャー \4,078
 の表紙は当然毛布を持った(スヌーピーに出てくる)ライナスくんの絵!
*アスキーNT6月号はWindowsユーザーでLinuxに興味がある方は必読。
 何とCD-ROM付で
 日本語redhatLinux5.2が一枚目のCD-ROMに
 TurboLinuxServer日本語版1.0(ノンサポート)が2枚目のCD-ROMに、
 マイクロソフトのIEの5.0やアップデートファイルと共に入っている!
 Linux特集記事も26ページもあり分かりやすい。
 それに加え、17ページにわたるオープンソースソフトウェアの名論文
 「伽藍とバザール」が掲載されている。
 原題「The Cathedral and the Bazar」'97 発表のもの。
 オープンソースソフトウェアについて書かれた4つの論文の中の1作目です。
 アスキーNTでは次号で2作目の論文を掲載予定です。
 (3作目、4作目についてはまだ未発表。)
 
●Yの感想まとめ
安藤さんに言われ確認して見て驚いた。
こんなに多くの記事や体験CD-ROMがあるなんて知らなかった。
実は昨年末に月刊アスキーの付属の体験CD-ROMからLinuxを一度起動してみたことがある。
RAM常駐版なので電源を切った時点で消えた。これはただのUNIXだった。
 
LinuxがすごいのはPCで単なる普通のUNIXが動くことである。
つまり、安価でどこにでもあるPCを使って、10年以上の歴史を持つ安定した(枯れた)OS(UNIX)が動くことである。
UNIXが得意な分野、ファイルサーバー、プリンターサーバー、メールサーバー、WEBサーバー、での活躍が約束されている。
 
意外だったのは、WEBをベースに考えれば(つまりインターネットを中心に考えれば)、LinuxをクライアントOS(個人のパソコンに、今使っているWindowsやMacOSを捨ててすべて移植するということ)として有望な将来が見えてくることである。
例えば、顧客管理のデータベースを各クライアントPCでLinuxで動かせば1年中電源を入れたままでOK。
従来のOSのように、毎年煩わされるOSの半ば強制的なアップデートは不要になる。
必要なときにオンラインで一斉にソフトの更新やメンテナンス、インストールが可能となるわけだ。もちろんハードは5年前の中古ハードでも充分なパフォーマンスが達成できる。
そのためにオラクル社はデータベースのLinux版を発表し、ATOKのLinux版も発表されている。そして一太郎は当然JAVA版である。
つまり、LinuxをOSとしてネットワークを構築すると、Linuxはユーザーには見えないまま仕事ができるようになる。
見えるのはネットスケープのみ。!!
ネットサーフィンのようにOA作業ができるようになる。
→→ 安藤記:これって、WindowsNTにとっては大いなる驚異だし、サン・マイクロシステムズや、IBM、日立、富士通なんか仕事がなくなっちゃうじゃない!!?。
→→→ Y記:<回答>
サン・マイクロはすでに自社のunixOSを「オープンソース」にしている。(学術利用のみであるが)
コンピュータメーカー各社は、本当はOSのサポートまではやりたくない。またコボルやCやアセンブラやソフトの開発言語も1つにまとめたいと思っている。IBMは本気でJAVAで大型機から個人端末まで社内開発環境を統一する気のようである。OA用のデータベースの構築やネットワークシステムなど、現在は複数のOSや固有の言語でのサポートで苦労している。これがUnix+HTTP+JAVAに統一されれば大変楽になる。
そしてこの場合の部門サーバーや端末等の軽い部分のOSをLinuxにまとめたい意向がある。
Apple社も自社製品のUnixをやめてLinuxにするといわれている。
(蛇足)
 Mac OS Xは、Linuxよりも進んだカーネル(OSの心臓部)といわれているよ。
 (正確にはずーと前からスティーブ・ジョブズがやっていたNeXTがそうだった。)
 
 
車の運転ができる方で、自分のエンジンのピストンを見た人は社内で何人いるだろうか。
サスペンションの減衰率を変えた人は何人いるだろうか。クロスバーで強度アップは?
自宅にお抱え運転手と整備士を住まわせる必要から車は年間1万台しか売れないとベンツ社が公表していた。T型フォードの発売前のことである。
config.sysの変更、機能拡張へ追加、相性や順番の変更、各種ツールの追加などの作業、これらは、車に例えれば一部のマニアやレース参加者のみが行う整備や改造作業と同じようなものだ。
こうした、一切の煩わしいことが、一部のマニアしか好まれないことが、Windowsの世界では未だ強要されているのであるが、LinuxのOSを利用すれば、こうしたことから開放されて、安く安定したネットワークを組めるようになる。
もっとも管理する人はそれなりの力量が求められるが、それでも、ネットワーク上で一気にできるため、一つ一つの個人コンピュータの管理はもはや必要ではなくなる。
 
もしかすると もうすぐPCは冷蔵庫のように電源を入れると10年近くそのまま使うものになるかもしれない。そして十字キーとA,Bボタン(ファミコン、プレイステーションの操作ボタン)ではなくて、WEbブラウザーが家庭や学校でのコンピュータとのインターフェイスになるかもしれない。
 
 

●ISO9000について(1999.4.18)

 肌寒く、小糠雨(こぬかあめ)ふる3月下旬の休日、藤沢市にある米戸(よねと)家を訪問した。米戸氏が、『はじめてのISO9000』(米戸靖彦、技術評論社、平成11年3月25日、\1,800)という本を出版したという話しを聞き、その記念ホームパーティに招待され出席した。
 
 米戸氏は、自らホームページを開き、すべての人に真のISO取得を願っている一人。このホームページは昨年9月インターネットサーチで見つけた。
http://www.sf.airnet.ne.jp/yyoneto/iso9000holder/iso9000.html
 
 このホームパーティは、米戸氏から直々に招待があったわけではない。
私の高校時代の親友(S)からの誘いだった。彼は、現在、自動車関連会社に勤務してISO14000の推進事務局をやっている。メールをやりとりする内、ぽろっと出したISOの話題が今の彼のライフワークであることを知り、また、米戸氏のことを私から彼に盛んに吹いていたことから彼が気に留めていてくれたのだった。
その友人Sの弁によると、
 「こういう仕事をちょっとまじめにやっていて、気づいて振り向くと社内では誰もついてくる者がいなくなるんだよね。刺激を求めるのは外部しかないわけだから(社内には話し相手がいないから)、いろいろなフォーラムに顔を出すようになっちゃった。フォーラムにはワシみたいな者が結構いるんだわ」と言っていた。
 
●インターネットによるISOフォーラム
 ISOの世界では、大きく区分けすると3つの主流フォーラムがあるそうだ。
ひとつは、
『いそいそフォーラム』を主宰する木村忠道氏。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~iso/index.htm
もうひとつは、
『ISO World 』を主宰する辻井浩一氏。
http://www.ecology.or.jp/isoworld/index.htm
最後は、
MSN(Management Support News)を主宰する松森秀一氏
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shuichim/
 
 彼らは、ホームページという新しい媒体を使って積極的にISOの推進・交流に取り組んでいる。
この中で友人Sも、もちろん米戸氏も、これらのフォーラムに参加しながら、忌憚ない意見を交換し合っているようだ。3月20-21日の2日間、大阪にあるホテルサンルート梅田で「いそいそフォーラム合同研修会」が開かれ、友人Sも参加したと言っていた。
 彼らは会社から雇われている関係上、会社に不利益になる発言はきわめて慎重に対処している。しかし、実際の話題を進めていく場合、ある程度は、実際のことを話さないと互いが理解できないことがでてくる。従って電子メールのフォーラム参加では実名を出すことをやめペンネームで呼び合っているらしい。今回のパーティもそうしたフォーラムで知り合った仲間と実際に会ってもっと深い交流をしたいという目的があり、トピックをもうけ集まっているのだそうだ。多くの人は自分のお金で参加しているようだった。もちろん友人Sも休日にもかかわらず遠路 藤沢に来ていた。
こうした、ISOを熱心に進めるメンバーの中で、米戸氏の立場は大変ユニークだと彼らは言う。彼らは、米戸氏のISO観を尊敬をこめて「米戸節」と言っている。
 
 このパーティに参加して感じたことは、
・電子メール、インターネットという媒体で新しい交流の場ができる。
・集まる人たちは社交的で、自己紹介もまったくソツがない。
・ISOに対する問題意識が高い。彼らの真摯な態度に(自分のお金でパーティに参加してるのだから問題意識は高いはず)感銘を受けた。気負いもないしISOが自分たちの会社にとってどういうメリットがあるかをいつも考えてる。
僕みたいに斜めに構えて逃げてない。
・現状の多くの企業が取り組んでいるISOの弊害、文書の多さにはみんなもマイってる。できるだけスマートに、最小限の文書でもISOは全うできると彼らは信じて、それを模索するために集まっているようだった。
要するに品質システムの解釈の摺り合わせと自分の実力の位置づけを互いに面(ツラ)を合わせて確認しているような感じ、と受けとった。
 
 このパーティの席上で、友人Sから、GAI@日本人というネームでフォーラム(電子メール)で知り合いになった方の紹介を受けた。「GAIさんからおもしろいお国柄のエピソードがある」と2日前に転送してくれ、そのメッセージの張本人に会うことができた。以下、その内容:
-----------------
知っている方も多いと思いますが,映画「タイタニック」の笑い話です。
あの映画では, 救命艇が搭乗人数の半数分しかなく, 当然半数の方は極寒
の海に飛び込むことを余儀なくされたのですが, 女性と子供を優先させて
男をいかに飛び込むようにさせるかがポイントになります。そこで,
 
イギリス人の場合
「あなたは紳士ですよね」と言うと, 紳士たるもの… で飛び込んでくれる。
アメリカ人の場合
「大丈夫, 君には保険がかけてある」と言うと安心して飛び込む。
イタリア人の場合
「海に飛び込むのは法律で禁止されています」と言うと飛び込む。
ドイツ人の場合
「船長の命令です」と言うと命令に従い飛び込む。
では, 日本人の場合は?
これがお笑いなんですが,
「みなさんそうしてらっしゃいますよ」と言うと, あーそうですかと飛び込む。
 
で, この笑い話を考えたのが, 日本人ではないところがポイントです。
つまり, 外国人から見た日本人像はこのように思われていると言うことです。
 
ISO9000sだって最初は品質大国日本を誇り,知らん顔していた日本も,
そういう部分を全面的に押すことなく,最後は
「みなさんそうしてらっしゃるから…」
と採用していったような気がします。
-------------
あはははははっ。
 
●話題の中心
 彼らの話題は、2000年対応版のISO9001:2000 CD2が大きな位置を占めていた。
これは、私にはレベルが高すぎてさっぱりわからなかったが、友人Sにかいつまんで聞いたところ、大所は、
 ・経営者の責任がより重くなる - ISOではすべての責任は経営者にあるとしている。
 ・顧客の側にたった(顧客の満足のいく)品質システムづくりが最優先になる。
というところのようだ。現在は、イギリスで作られた原本(英文)の配布が終わり、今はその訳文に大わらわ、という感じだった。
 
●米戸節
 米戸氏の書かれた本の中に、眼からウロコのISO解説があるので2、3紹介する。
 
■ISOはトップダウンのシステム: これがISOの根本的なこと
 問題の本質を述べる。ISOの取得は、日本が今まで培ってきた品質管理のやり方を根本的に覆すもの。日本の製品の品質は、世界に冠たるものがあった。それは従業員の自発的な意志によって職場職場で品質改善(TQC=日本的品質管理)を行ってきた賜物(たまもの)で、世界でもまれにみる高品質の(故障の少ない、傷のない)製品を生み出してきた。
ISOは言下にこれを否定する。
 つまり、ISOは、経営者(社長)がどうしたいという方針ですべてが決まるというシステム。会社は、社長の方針のもとすべてを有機的に結びつけて一糸乱れずに動く、とこういうことである。従って、責任は、我々ではなくすべて社長である経営者に帰結する。
 では、なぜ、日本は、従来の良きTQCを捨てて、ISOに取り組むようになったか。
これは、英国・米国を初めとする白色人種社会が日本があまりにも経済的に先行するので自分たちを守るためにISOによってバリアを作ったというのがホンネのところ。要するにCE(製品の電磁ノイズ対策)マークと同じ。欧州の自動車会社に製品を売るときにはISOを取得していることが最低条件であると言われている。
 もう一つは、昨今の経済変化に伴う、日本の会社の終身雇用制の崩壊があげられる。終身雇用が約束されないと愛社精神が根付かないから、当然の事ながら、社員が率先して行うTQCの柱の一つ、QC活動も停滞する。
 企業内部の最も重要な労働意識が変わり始めた時に、品質保証モデルであるISO9000品質システムが日本に導入された。このシステムは、明らかに経営者のトップ・マネージメントシステムで、経営者の舵取りで動くシステムになっているわけである。経営者にとっては、ありがたい会社経営システムであるわけである。
 
■ISOは良くも悪くも英国で生まれた
 そもそも、ISO9000は、日本文化とは大きく異なる契約社会を背景にした英国で生まれた。「契約」という考えは、徐々に日本にも浸透してきて、プロ野球など茶の間にも入り込むようになってきた。最初に「契約」の概念を考えたのは、フランスのルソーという人。この人の影響は非常に大きくその後の社会、経済に君臨している。社会学はフランスで発展し、フランス革命という近代社会の幕開けを促した。
 18世紀から19世紀にかけたイデオロギーは、精神支柱、数学においてはフランス、哲学はドイツ、経済はイギリス、物理はイギリスとドイツという具合にそれぞれの持ち味を活かしてきた。
 日本はというと、全体の中では個を殺して和を大事にする風土が根付いていた。意を汲んで行動するのが日本人の美学だから個をうまく表現するなんてとてもできない。これは今でも尾を引いている。こんな日本の社会と日本人が、規則に従って個を守りながら社会生活を築いていこうと言うのだから大変である。
 いずれにせよ、英国がこのISOの規格を勝ち得た(アメリカは負けた)ことで、この膨大な利権がイギリスに転がり込んだ。ISO900s認証の利権がガッポガッポとイギリスの懐に入っている。
サッチャー時代に勝ち得たISOの規格採用は、サッチャーが首相時代に成しえた(特大ホームランのような)勲章的出来事だった。
 
■規格は読むな!!
 この格言は、今回のパーティの集まりでも賛否両論のあった所である。参加者の中にも「米戸節は非常に参考になり、ものの本質をズバリと言い当てているけれど、[規格は読むな]というのはどうも賛成しかねる」と言う方がいた。
 これは、とらえる立脚点が違うためと思われる。今回の参加者は、見る所、大企業で働いている人たちが多かった。米戸さんのポリシーは、100人以下の従業員を持つ中小企業がいかにしたら安くISOを認証して運営していけるかという事である。そのためには、ややもすると肥大化してしまう文書管理の根元であるISOの規格など読むな、と、こういう格言に発展するわけである。規格書を読まなくてもちゃんとISOは取得できるし、現に米戸さんも前の会社でISOを取得した。それほど、規格書は難解である。原語の英語から日本語に直すときに問題があった。そして、規格そのものが法律のようにいかようにも解釈できる。
 日本人は、他人の目をすごく意識するし、他の会社がこうしているからと、ややもすると意味のない文書をたくさん作り過ぎてしまう。彼は、これをISO推進のための一番大きな弊害の一つと言い切る。
 従って、スリムなISOを作りたければ、大手企業がはじめたやり方を中小企業は踏襲するな、と主張する。
 
以上が、ISO漬けになったISO出版記念ホームパーティに招かれて感じた感想である。
当日、右も左もわからない私を暖かく迎えてくれた、米戸ご夫妻、ISOを心より愛するみなさまに感謝する次第である。
 
 

 

●脳死(のうし)(1999.4.1)

 最近、マスコミで脳死の話題が喧(かまびす)しくなり、我が茶の間でも話題になる。
「脳死になったら、集中治療室以外には肉体が維持できないんだから、諦めた方がいいな。オヤジがそうなったら、医者に人工心肺のスイッチを切ってくれるように間違いなくそう言ってくれ。」
「あぁ、そうするよ。でも、オヤジ、口だけじゃダメだぜ、ちゃんと書面に残しとけよ。」
「おっ、おう。やっとくよ(・・・しかし、はっきりしたやつだなぁ)」
・・・
「ところで、脳死と植物人間のちがい知ってっか?」
「うぅ〜ん、よくわかんないや、植物人間てあれだろう。人間がキャベツになっちゃうんだろう。いや、ちがったか? とにかく人間的な生活なんかできないんだろう。集中治療室に入ったままなんだろう。植物人間だろうと脳死人間だろうと大変だよ、本人も、回りの者も。」
「そうだなぁ、ところで、おまえが学校の帰りに交通事故にあって脳に障害が起きて脳死状態になったらどうする、何とかして生きたいか?」
「絶対思わないよ、そン時は、オヤジスイッチ切ってくれよな。」
「わかった、じゃあもう一つ聞くが、交通事故で手足切断しちゃったらどうする?悲観して死にたいか?」
「思わない。手足なくても、まっとうな生き方がまだできるもんな。ちょっと大変かも知らんけど。」
「ふ〜ん、おまえ、死後の世界ってあると思う?」
「あるわけないだろう、そんなもん。」
「おまえ、学校で歴史の勉強しただろう?宗教がよく出てくるよな。宗教が広まっていく背景、先生は教えてくれた?」
「くんない。」
「宗教では、死後の世界や、蘇生という考えがあり、生き返る時体がないとだめなんだ。火葬だってこれを拒否する宗教団体があるし、輸血を拒否する宗教団体もある。いろいろな考えがあるから、脳死だって人の手で生命のスイッチを切れない側面があるんだなぁ・・・」
・・・・
 
と、こんな訳で、春休みに入った息子と、10年前に読んだ立花隆の「脳死」の本を引っぱり出してきて読み出した。
最初に彼にこの本を渡して読んでみるかと言ったら、興味があるらしく15分ほど読んでいたが、
「だめだ、難しくてわからん。」
と、さじを投げた。しょうがないんで、自分が読み直して、面白そうなところだけピックアップして息子に質問するような形で話題を深めた。
 われわれの関心は、脳死なんて完全に元の状態に戻るわけないし、目を開けることもないんだからなぜさっさと死亡判定しないんだろうかということだった。それに世の中には、心臓や腎臓、肝臓など移植以外回復の手だてがなく、なお生きたいとする人たちがいっぱいいる。そんな人たちに役に立ってもらえればそれはそれで良いのではないかと思っていた。
 
 ただ現実問題として、16歳の息子が脳死状態になり、父親である私に命のスイッチを切る選択に迫られたら、早すぎる命の終焉にひどく取り乱すかも知れない。
 
 要するに、医者は生きる可能性を求めるのが職業であるから1000人中999人がスイッチを切ってほしいと思っても、一人でも生きる可能性を望めば、彼らは最前の努力をしなけらばならない義務があり使命があることがわかった。彼らは、死への幇助(ほうじょ)に対して敏感なのである。法律もこれを認めていない。
 
 反対に、臓器を移植する側は、少しでも新鮮な臓器がほしいから脳死を軽く考える傾向がある。彼らは医者仲間から「ハイエナ」呼ばわりされている。(高知で脳死判定されたドナーからの臓器移植は、心臓も肝臓も、腎臓も順調な経過をたどっているという記事が3月27日の朝日新聞に出ていた。また、大阪大学での心臓移植の経過は順調で、今月初旬にも退院できる旨の記事が朝日新聞3月31日に出ていた。)
 
以下、興味ある項目をリストアップする。これは、私と息子が、立花隆氏の『脳死』(中央公論社、昭和61(1986)年、10月15日初版)を読んで、非常に感銘を受けた所である。または、全く知らなくて初めて知り得た所でもある。このリストアップが作者(立花氏)の意に添わないことかもしれない。また、随所に立花氏の「脳死」からの引用があり、それに私の主観が加筆されている。これもまた併せて、ご容赦いただくとしよう。
 
【脳死と植物人間】 - 両者のちがい。脳死の発生過程
 田舎の町医者では脳死は発生しない。田舎の町医者に脳死の判定が迫られることは無い。交通事故で頭をやられた人が急にかつぎ込まれてきても、その時点では脳死ではない。脳死というのは、人工呼吸器につながれてはじめて発生する。人工呼吸器というのは、脳死の患者しか用いない特別の機械だから、そんなにどこでも必要性があるものではない。それに安くても150万円、高いものになると700万円もする。少なくとも田舎の町医者にはない。そういうところでは脳死の発生のしようがない。
 私は、人工呼吸器なしには脳死は発生しないのだということを知らなかった。
 
 脳死の患者は、生きていると感じさせる徴表が胸の上下動をのぞいては、全くない。生気というものが一切かけている。顔色はほとんど土気色。本当に死体を人工呼吸器で動かしているという感じになる。
 まぶたを開けると、瞳孔が開いている。完全に死人の眼である。強い光を当てる。生きた人間なら、対光反射といって、光に反応して自動的に瞳孔が閉じようとする。しかし、脳死者の瞳孔は、どんなに強い光を当てても開きっぱなしである。開いた眼の角膜をガーゼかなんかで触ってみる。角膜反射といって、生きた人はすぐ眼を閉じようとする。しかし、脳死者は無反応である。
 指先に痛みを与えてみる。それもなまなかな痛みでなく、鉛筆を爪に縦にあてがい、それを上から強く圧迫するという手段をとって激痛を与えてみる。それでもピクとも反応しない。
 痛みに対する反応というものは、人間の最も原初的な防衛反応だから、意識障害を起こした場合でも、最後の最後まで残る反応である。昏睡状態にある患者でも、強い痛みの刺激を与えると弱々しく払いのけようとする動作を示したり、頭をしかめたりするものである。痛みに全く反応しなくなったら、意識レベルは最低と評価される。
 脳死者の鼻につながれた人工呼吸器の管を外すと、胸の上下動はたちまちにして止まる。それこそ脳死者は一切の動きを示さなくなる。心臓はまだ動いているが、そのままにしておけば、数分後には確実に心臓も停止する。数分後は、心臓は、血液中に蓄えられた酸素を消費しながら動いているが、その蓄えを使いつくしたら、エネルギー源を失って、停止せざるをえないのである。つまり、人工呼吸器の助けを失ったら、脳死者はただちに心臓死を迎えなければならないのである。
 ここのところが、植物状態とは根本的に違うところだ。
 植物状態の患者は、自分で呼吸しているし、自分で血圧などもコントロールできる。栄養さえ補給してやれば、自分で立派に生きていけるのである。そして、対光反射、角膜反射などのテストにもちゃんと反応する。
 機械仕掛けの死人といったおぞましさは全くなく、意識の覚醒はなくとも、間違いなく生きているのである。
 
 
【生体の死】 - 死の定義は難しい、何をもって死とするか。
 人間が死んだとき、生体を構成しているあらゆる部分はまだ生きている。臓器もシステムの構成部分としての機能は失っても、単体としては、まだしばらく生きる。だから、死後の臓器移植が可能になるわけだ。臓器が臓器としての機能を不可逆的に(元に戻ることはなく)喪失して、臓器死の状態に陥っても、まだ、その臓器を構成する細胞は生きている。細胞死はそのあとに進行していく。
 個体死のあと臓器死や細胞死がどう進行していくかは、身体の部位によって大幅に違う。前にも述べたが心臓や脳は死ぬのが早いが、腎臓は死後2時間くらいまで移植可能だし、皮膚は死後48時間、骨は72時間たっても移植可能である。髪の毛や爪は、死後何日間かにわたって伸び続ける。
 細胞死がどんどん進行すると、腐敗がはじまり、死臭がただよいはじめ、放っておけば、軟組織はとけて流れ出し、やがて死体は白骨化する。
 死体を放っておくと、夏季であれば、だいたい、半日から1日で下腹部が青藍色に変色しはじめる。これは腐敗により腸管内に発生した硫化水素(たまごの腐ったようなニオイ)の作用による変色である。三日もたつと腐敗ガスによって死体がふくらみ巨人のようになる。それと同時に蛆虫(うじむし)にむしばまれはじめる。白骨化の完成までには10日から30日かかる。
 
 昔、まだ死んでいない人を死んだと誤診して葬ってしまう、「早すぎる埋葬」の事例がかなり起きた。これは、呼吸をしていない、心臓が鼓動してないという判断で死を宣告するのだが、実は弱々しく、かすかに動いているのだがそれがわからないためにおきる。また思い出したように動いてなかなか完全停止しないために起きる。
 
 
【伝統的な死の判定(法律ではなく慣習)】 - 死を宣告する基準
人の死は、以下に述べる3つの条件がそろったとき死と判定された。これは法文化されたものでなく慣習としてずっと採用されていた。なぜ、法文化されないのか。医学(医術)というものが有史以来、経験を頼りに連綿と続き、いまなおわからない部分が多いので、規定するのに消極的だったことによると思われる。
死の判定:
1. 呼吸の停止
2. 心臓の拍動の停止
3. 瞳孔の散大
 脳死は、この観点から言うと死ではない。なぜなら心臓が動いているから。
心臓の鼓動も、呼吸の停止もある時を境にして突然なくなるものではない。だんだんか細くなり、鼓動も10秒に1回とか徐々に少なくなる。時には、呼吸をしていないように見えることがある。鼓動も弱々しく聞き取れないほどに打たれることがある。これは医者でも見逃しやすい。だから、この判定には難しさを伴うといわれる。大脳も活発な活動を止めるためわずかの血流でも生き延びている。これが、死の正しい判断を狂わせている。80才の高齢の患者には死の宣告はたやすい。しかし、20才の患者に簡単に死の宣告は出しずらいという人間の感情判断もある。
 
 
【心臓は脳に依存せずに動く】
 肺は脳からの指令で動いている。脳幹部にある呼吸中枢が肺に呼吸を命じているのであって、脳が死ねば呼吸中枢は機能を停止する。しかし、心臓は脳がなくても酸素さえあれば鼓動を続ける。
 心臓は脳に関係なく自動的に動く機能を保っている。もとをたどると、心臓の細胞の一つ一つが、リズミカルに収縮する自働機能を持っている。人間の発生のごく初期に、最初の心筋細胞が生まれ、それはすでに拍動を始めているのである。脳の発達よりも早く心臓は動いているのである。
 心臓は、一つ一つの心筋細胞が独自に拍動能力を持っているが、実際の心臓においては、すべての心筋細胞がリズムを合わせて拍動している。リズムを合わせ、力を合わせることで、心臓は強力なポンプとして働き、全身に血液を送ることができる。
 心臓というのは、人体の臓器のなかで最も不思議な器官の一つである。こぶし大ほどの大きさで、ほとんどすべて心筋と呼ばれる筋肉の固まりでできている。これが一分間に72回休みなく拍動を続け、血液を全身に循環させることで人間の生命は保たれている。
 たしかに、心臓には、脳から入り組んだ神経支配を受けているが、これは心臓の動きを体の他の部分に合わせて微妙に調整するため(運動するときは拍動を速めるなど)で、拍動の原動力とその基本的動きは心臓自身の自動能によっている。だから、神経をすべて切断しても心臓は立派に動き続ける。神経を切断するにとどまらず、心臓全体を切り出して体外に取り出しても、それは拍動を続ける。心臓はそれ自体で生きる能力を持っているとも言えるのである。
 
 心臓移植した場合、筋肉はつながるけれど神経はつながらないので移植後は、普通の健康な人の心臓みたいに状況変化にすばやく適応はできない。
 しかし、脳死になると、いくら人工肺で酸素を送り続けていてもやがては心臓が止まる現象が認められている。原因は、まだ解明されていない。これは想像するしかないのだが、終局的には心筋の酸素不足しかない。人間の血液というのは、実は日常的に不足している。脳をはじめ全身の臓器が血液を要求する。それに筋肉も皮膚も要求する。それらの要求を全部一度に満たすことはできない。だから全体として不足している血液をそのときどきの状況に応じてやりくりしながら使っているのが現状である。たとえば、食事のあとは消化管に持っていくとか、寒いところでは皮膚に持っていくとか、しょっちゅうやりくりのために、血液をあっちに振り向けたり、こっちに振り向けたりして調節しなければならない。やりくりで足りなければ心拍を速めて、血液の循環量を上げるということもする。
これが脳死などによりコントロールができなくなると各臓器がそれぞれ身勝手な要求をして血液を奪い合い、合理的配分ができないから、どこかの臓器が不全症を起こす。するとそれが他の臓器不全をもたらすという形で、多臓器不全が起こり、結局、心臓も止まるのではないかと想定されている。最近、脳死者にADH(抗利尿ホルモン)とカテコールアミンを投与すると心停止までの時間を長期にわたって引き延ばす研究結果が報告されている。
 
 
【脳はブドウ糖のみに依存している】
 脳はそのエネルギーをすべて、血中のブドウ糖から得ている。これが脳の特異な点である。他の器官や組織であれば、エネルギー源として利用するのはブドウ糖だけではない。むしろ、脂肪や蛋白質の方が多い。人間の生体の全エネルギーの80%は脂肪と蛋白質から得られている。ところが脳は、脂肪や蛋白質をエネルギー源に利用できないのである。
 誤解のないように言っておけば、それは脳の中に蛋白質や脂質がないということではない。蛋白質、アミノ酸、脂質は生体のあらゆる部分を構成する材料であり、ニューロンもそれらのものを材料としてできている。だから、当然、脳の中にも沢山の蛋白質、アミノ酸、脂質がある。
 しかし、それは、血液が消化器官などから運んできたものではないのである。血液がそうしたものを運んできても、脳には血液脳関門という関所というようなところがあって、そこでブドウ糖以外のものはブロックされてしまう。しかし、それでも、蛋白質や脂質は脳内の生化学反応に必要だから、それらはすべて、ブドウ糖によって、脳の中で合成されているのである。
 だから、脳にとっては、ブドウ糖は単にブドウ糖であるだけでなく、同時に蛋白質でもあり、脂質でもあるのだ。脳が呼吸したブドウ糖のうち、30%以上が蛋白質や脂質に変えられて利用されているようである。
 
 
【脳のエネルギー消費】
 脳は力仕事は何もやらないのに、血液量も大きいし、酸素消費も大きい。だいたい1分間に750mlの血液が流れ込み、1分間に45mlの酸素を消費している。これは全身の血流量の17%、酸素消費量の20%にあたる。
 酸素不足には脳は大変弱い。血流がストップすると、人間は10秒程度で意識を失う。脳に大量の血液が必要とされるのは、酸素消費もさることながら、脳内で物質代謝が激しく行われているからである。血中のブドウ糖がどんどん分解されて大量のエネルギーが作り出されている。
 そのエネルギーが何に用いられているかといえば、もっぱら脳の神経細胞間の信号伝達のためである。
 
【脳細胞】
 脳細胞はどれだけあるか。
脳細胞を一つ一つ数えあげた人など誰もいない。小さなサンプルをとって数えてみて、それの重量比から全体を推定するなどの方法が採られている。その精度はきわめて低い。つい最近まで、脳のニューロンの数は140億個と推定されていた。現在では1000億個という推定が普通だが、もっとあるという学者もいる。1兆個という推定すらある。
 ではシナプスの数はどうか。最近では、1000兆個という推定が一般的である。
 なぜ、これほどたくさんあるのか、脳はわからないことだらけだ。だから脳死判定も慎重になる。人が死ぬとき、たとえ脳が死んでいても意識は存在しているのではないかという疑問が残る。それでなけば使わない組織は退化する進化論に反して脳細胞がこれほど多くあるはずはないではないか。
 
【臨死体験 - 脳波の平坦で死と決めつける危険性】
 アメリカのエモリー大学医学部助教授のマイクル・H・セイボムは、医学者の立場から、五年間にわたって臨死体験を収集分析し、"Recollections of death - a medical investigation"(『あの世からの帰還』日本教分社)を著した。彼は臨死体験を収集する過程で、全身麻酔をかけられ意識がない状態で手術されたのに、手術中のことを記憶している患者に何人も出会い、これを記録している。次のものは心臓手術を受けた52歳の体験記である。
 「・・・・先生方が使ったノコギリの絵が描けますよ。肋骨を開く器具の絵もね。ずっとそこにあったので、他のものよりは多分詳しく思い出せると思いますよ。ほとんどシーツで隠れてましたけど、金属の部分は見えましたからね。先生方がその器具を使ったのはですね、肋骨を両側に開いておくためだったんじゃないでしょうかね。先生方は、その回りに器具をいろいろぶら下げててはっきり見えませんでしたけど、時々鉗子をですね、はずして、鉗子にはさんだガーゼを突っ込んだんですよね。・・・(略)」
 セイボム博士は、この患者の記憶の信憑性を確かめるために、病院に保存されている手術記録と照合してみた。その結果、両者が驚くほど一致していることが確かめられている。もちろんこの患者は、手術中に麻酔がさめてきたというのではない。手術中麻酔が完全にかかって昏睡状態にあり、「臨床医学上の意識」はなかったことが記録上も確かめられている。
 脳波残存が内的意識残存を意味するかどうか、内的意識残存がこのような形の外界意識を意味するかどうかは不明である。不明であるが、そのような可能性を否定する根拠もまたないのである。そのような可能性が否定できない限り、やはり脳幹死説(脳を構成している部位で人体の根幹を支配する脳のことを言う。感情や記憶は大脳で行う)はとるべきでないだろう。
 
 大脳はその人の人格そのものであり(泣いたり笑ったりは大脳で行う)、脳幹は臓器と同じであるという説が有力で、脳幹は人工で作ることができるだろうし、移植も可能という見方がある。そうすると、脳幹死だけで人に死の宣告を与えて良いかという問題が出てくる。というようなことを上では述べている。
 
 
【脳細胞の懐死】
 脳細胞は、血流によってその生命を維持している。血流から酸素というエネルギー源とグルコースという物質代謝の基とを受け取ることで脳細胞の生命は維持されている。脳細胞のエネルギー消費は激しいから、血流が停止すれば、ほぼ数分以内に脳細胞の死がはじまる。ただちに「すべての細胞が同時に」死ぬわけではないが、血流が全面的に停止すれば、やがてほどなくして、脳細胞はすべて死なざるを得ないのである。
 死んだ脳細胞は、自己融解という現象を起こす。卑俗な表現を用いれば、脳がドロドロに融けていくという現象である。ひどい場合には、解剖して脳を取り出そうとしても、指の間から流れ落ちてしまうほどであるという。これは、脳細胞の中にある蛋白分解酵素が、細胞の死によって活性化するためであるといわれる。自分で自分を融かしてしまうので、自己融解といわれるのである。
 自己融解は、脳細胞が死んでから起こる死後現象である。細胞の死はその前に起きている。そして、細胞の死が起こる前に、脳の機能喪失が先立っている。
 
 
【脳死に至る経路】
脳死は人工呼吸器の登場とともに生まれた。人工呼吸器がなければ、脳幹の死はすぐに心臓まで伝わる。呼吸中枢が死ぬと呼吸筋の活動が止まり、酸素が全身で不足する。酸欠で心臓も活動できなくなるのだ。人工呼吸器は強制的にガス交 換をおこなわせることで、この必然性を断ち切った。酸素さえあれば、心臓は自立的に動くことができる。
脳死が起こる仕組みは、充分には解明されていない。大きな流れは以下の通り。
 
(1) 脳循環不全:脳に何らかの障害が起き、脳への血流が阻害される。脳に血が流れない。
(2) 脳アノキシア:脳が酸素不足になる。酸素をたくさんほしがる脳に血が流れないから酸欠になる。
(3) 血液脳関門の機能低下:脳の毛細血管の透過性が高まり、血液中の成分が滲み出す。
(4) 脳浮腫:脳組織がむくんで腫れてくる。
(5) 頭骸内圧(脳圧)亢進:頭骸腔の容積は限られているので、脳室内の圧力が増大する。
(6) 脳ヘルニア:脳の一部が第三脳室に押し出される。
(7) 脳血流停止:頭骸内圧が血圧を上回ると、血液が脳に入り込まなくなる。
(8) 脳幹機能不全
脳死の直接原因は、脳ヘルニア(脳が腐って膨張し脳幹を圧迫死させる)か脳血流停止による脳の懐死の2つだと言われている。
しかし、現実は、すべての脳死が脳ヘルニアを伴っているとは限らない報告例がたくさんある。
 脳死患者の剖検記録で、脳ヘルニアがない例がある。ガス中毒とか心筋梗塞などの例と思われるが、ちょっとした驚きだった。また自己融解無しの例が27%あった。だから、実は脳死のメカニズムはまだあまりよくわかっていないのである。
 
 
【脳梗塞と脳死(全脳梗塞)】
 脳死は全脳梗塞とも言われているがそれと普通の脳梗塞で死んだ脳とはハッキリ違う。脳死の場合には、脳が全部一度に死ぬ。瞬間的には同じではないがほぼ同時期に死ぬ。しかし、脳梗塞の場合は、梗塞が起きた部位の細胞だけが死んで、周囲の細胞はみな生きている。そうすると、必ず周囲の生きている組織が反応を起こす。これを生活反応と言うが死ぬ細胞を傍観せず助けようとする。この反応にはいろいろなことが起こるが、たとえば、マクロファージという食細胞が出現してきて、これは正常ならば絶対出現してこない細胞であるが、それが梗塞を起こして死んだ細胞をどんどん食べて片づけていってしまう。掃除してしまうわけである。この食細胞は不思議なことに、生きた細胞と死んだ細胞をちゃんと区別する。そして死んだ細胞だけを片づけていく。この片づけ作用には血流が必要。片づけたものを血流が運び出していく。そして、片づけがすむと、そこにグリア細胞が増殖して空いたところを埋めていき、修復作用が進行していく。
これが脳死の場合は起こらない。マクロファージは血流から出てくるわけで、血流がストップしている脳死では出現のしようがないわけである。脳死では周囲の細胞も一緒に死んでいくから修復作用が働かない。周囲が生きている場合、死んだ部分が大きいとそこにみんなマクロファージに食われて穴が開いたままになるというようなことはあるが、そこが自己融解でドロドロに融けて残っているということはない。ドロドロに融けて残るというのは、それを食べてくれるマクロファージが出現しなかった。血流が途絶えていた、まわりもみんな死んでいたということを意味する。
 自己融解がどんどん進んでいくと融けた脳の破片がモロモロになって、脳脊髄液の中に流れ出し、それが下の脊髄の部分に落ちてくるということがある。脳と脊髄はつながっているからである。それで心臓が動いている限り脊髄は生きているから、そこで食細胞が出現して、上から落ちてきた死んだ脳細胞を一生懸命片づけようとする。けれど、上からどんどん落ちてくるからとても間に合わない。こういうのが最末期の一番ひどい症例である。
 
 
【脳死への悪用】 - 麻酔・睡眠薬で擬似脳死ができる
 反射、瞳孔散大、自発呼吸停止以外の脳死判定基準を見ていくと、「深昏睡」は麻酔でも当然実現されている。あと残るは、平坦脳波だけだが、これも麻酔では簡単に実現してしまう。
 だいたい脳波というのは、麻酔薬に限らず、中枢神経に働く薬物の作用によって平坦になることが珍しくない。麻酔薬の種類によって、脳波が変化していくパターンは違うが、どの麻酔薬にしろ、麻酔がかかると初めはリズミックになり、やがて波長がゆるやかになり、深い麻酔になると脳波は脳波は例外なく平坦になってしまうのである。
麻酔で深昏睡の人と、脳死の人は、臨床的には区別つかない。同じである。
麻酔がかかっている人をそうとは知らないで脳死判定すると仮定すると、医者でも間違える。いきなり深昏睡の患者を見せられて、さあこれは脳死か麻酔がかかった状態かどっちか区別しろといわれても、これはまず誰にでもできない。
 麻酔と脳死をとりちがえるという説は、現実には有り得そうもない荒唐無稽な話と思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。麻酔ということばを用いれば、手術のときにかける麻酔にしか考えが及ばないだろうが、麻酔をかけると同じ効果は、睡眠薬、鎮静剤、向精神薬など、各種の中枢神経に作用する薬物の大量服用によってもたらすことができるのである。それは薬物を用いた自殺未遂などの場合、容易に起こりえる。これは十分に悪用可能だ。
 深麻酔がかかった状態と脳死の状態とでは、ともかく見た目では臨床的に全く区別がつかない。同じ状態である。どちらも脳の働きは全く失われている。ところが一方は時間がたてば麻酔がとけて意識を回復する。ところが脳死のほうは、どんなに時間がたってももとに戻ることはない。この両者を区別するものは何か。これはよくわかっていない。
東京医科歯科大学天羽敬裕教授(麻酔学専門)の話:
 「さぁ、それは難しい。実をいうと、そもそも麻酔がなぜかかるかということも、科学的にまだ解明されていないんです。説だけはいろいろあるんですが、ほんとのメカニズムはわかっていない。かかるメカニズムがわからないから、とけるメカニズムもわからない。」
 「この薬をこれだけ使った場合、こういう状態になっても必ず戻るという、臨床的経験の積み重ねがあって、その範囲内でやってるから、必ず戻るわけです。なぜ麻酔がかかるのかというような問題が解明されても臨床的には何の役にもたたない。だから、そういうことはあまり研究されないんですね。この薬はなぜきくかよりも、どれだけきくのかのほうが大事なんです。麻酔医にとっては、メカニズムはどうでもよいから、ちゃんと麻酔がかかってくれればいいんです。基本的には、麻酔薬は脳の代謝を抑えるわけです。代謝が抑えられているから、長時間死んだような状態になっていても、またもとに戻れる。しかし、具体的にどういう代謝がどのように抑えられて、それによってどうなるのかというメカニズムはわからない。」
 --- 代謝を抑えると、低体温なんかも・・・・。
 「そうです。だから、低体温麻酔という麻酔もある。人間の体温をどんどん下げて、20℃以下という超低温体温にすると、意識を失い、脳波も平坦になり、呼吸もしてない、心臓も動いてない状況になって、このときの状態なんか、完全に死んだ人と同じですよ。そういう状況で心臓を止めて、完全に血流を止めた状態で手術ができるんです。」
 --- そのときは脳にも血流がいかない。
 「もちろんいきません。」
 --- どのくらい血流をとめたままいられるのですか。
 「体温に逆比例して、血流遮断の可能時間が伸びていくんです。体温に逆比例して、酸素消費量が減っていくから、血流遮断が可能になるんですね。20℃で最長1時間止められますが、普通は30分くらいでやっています。それくらいなら全く問題ない。」
 
 
【尊厳死と安楽死】
 医学が発達したおかげで、人は簡単に死ぬことができなくなった。
古来の生の美学はいかに見事に死ぬことであった。散り際を見事にして名前を永遠に残すことであった。
肉体をむしばみ、身内に経済的、精神的圧迫を加えながらもこれほどまでにして生きなければならないのか、苦しまねばならぬのかという疑問が沸く。
 
 尊厳死は、自分の意志で命の尊厳を守るために死を選ぶこと。植物人間と化した当人が、それになる以前に文書などで尊厳死を選ぶ権利が認められている。しかし、医者は生命延命装置を取り外すだけで積極的な死への幇助(ほうじょ)は行ってはならない。
安楽死は、末期ガンなどはなはだしい苦痛にさいなまれている知的精神的判断能力のある患者自身が口頭および文書で自発的に医師に真摯で持続的な要請をし、医師が耐えがたい苦痛の期間を短縮する目的で、患者を苦しめない方法で短期間に死亡させる死、しかしこれはオーストラリア以外法律で認められていない。日本ではまだ、聞き入れてもらえない。
 
森鴎外が「高瀬舟」で人の尊厳死と幇助(ほうじょ)を問題視したが、医学が発達した今日この結論はいまだ解決されていない。
 ●尊厳死の発端 - 自由国民社:「現代用語の基礎知識」からの引用
 1976年に、アメリカのニュージャージー州最高裁判所で、植物状態で生命維持装置を付けられていたカレン・アン・クインラン嬢からその装置を外してよいという画期的な判決が出された。(私が高校時代に、カレン嬢をめぐる生と死の論争を友達とよくやったことを思い出す。)生命維持装置を外されたカレンは自発呼吸を続け、9年間植物状態のまま生き続けた。彼女は、覚醒と睡眠の周期があり、個人としての知的精神的活動はできないが、植物機能としての自発的呼吸や血液循環、消化、さらに失禁しながら排尿、排便なども継続して、いつ果てるとも知れずに眠り続けた。その裁判の数カ月後にカリフォルニア州で、世界で初めてリビング・ウイル(直訳:生きる意志、日本語訳はなぜか尊厳死・自然死)を法制化した「自然死法」が施行された。この法律には「成人が、末期状態になった時には生命維持装置を使わないか取り外すようにと、前もって医師に対して文書で指示する書面を作成しておく権利を認める」という内容が明記されている。この法律によって、カリフォルニア州の住民は、知的精神的判断能力がある間に前もって医師に対する自分の医療についての指示を書いたリビング・ウイルの文書を残しておけば、死ぬ前にその文書は法的に発効するので、医師は患者の意思に従って、延命治療をしないでよいことになった。このような文書は「生きているうちに発効する遺言」ともいえる。
 生命維持装置を付けられた患者は、集中治療室の中に隔離されて、人工呼吸装置、人工栄養装置、水分補給装置、持続導尿あるいは人工透析装置などに接続されたうえ、脳波、心電図、血圧、脈拍、呼吸などの持続的モニターの器具とも繋がれて、患者はチューブや電線などに囲まれて、俗にスパゲッティ症候群といわれるような状態で生かされ続けている。このような状態で生きていることに疑問をもち、生命維持装置などのやり甲斐のない延命医療の介入を止めて、寿命がきたら息を引き取れるよう自然な状態に戻してもらって、自分らしい死を迎えたいというリビング・ウイルを残す人が増えていった。つまり一分でも長く生きていることに生命の尊さや神聖さを認めるのではなく、自分らしい生き方をして死ぬことに自分の生命の質(クオリティー・オブ・ライフ)の高さを感じ、尊厳ある死と考える人々が増えてきた。つまり、自然死すなわち尊厳死と考えるようになった。カリフォルニア州の自然死法に続いてアメリカの他の州でも同じような法律が制定されたが、尊厳死法と称する州も出てきた。
 
 息子と「脳死」を勉強して、少なくとも私自身は以下のことを学んだ:
 人は、いかに長く生きるかというのが本当の生き方ではなく、限れた中でいかに充実した人生を送れるのかを考えなければいけないかを痛切に感じている。
 生きている内に、しかも肉体が健全で、精神が健全な内の人生が最も充実した、もっともしなくてはならない時期であることを自覚すべきである。
ーにそのまま画像が記録できるデジタルマビカの無料貸し出しサービスを行って、これを借り受けるお客の長い行列ができていた(右写真)。貸し出して撮影したフロッピーはそのまま持って帰ることができ、一般のブラウザソフト(Netscape Communicator、Internet Explorer)で見ることができる。デジタルマビカ(MVC-FD81)は\99,800で85万画素のプログレッシブCCDを採用。VGAモード(640x480画素)で25枚〜40枚の画像をフロッピーにを記録できる。XGAサイズでは10〜16枚。インフォリチウムというバッテリの開発で、使用時間も格段に向上し連続撮影2時間ができるようになった。私のもっている3年前にかったSonyの35万画素のデジカメDSCのバッテリーは30分しかもたないのだ。その昔一斉を風靡したDSCも進化し、211万画素になった(DSC-F55K)。価格は\115,000。カールツァィスレンズを使用して、効率の良い反射光も取り入れた液晶パネルの採用で、バッテリ使用時間も伸び、1,000枚の撮影が可能になった。
 

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