AnfoWorld オムニバス情報3 (2000.02.25)(2013.02.11修正)(2015.08.30修正)

目次
● 粋な60才のオヤジ(2009.10.07)
● PPM、BPM(ぴーぴーえむ、びーぴーえむ)(2007.07.06)
●化学書『タングステンおじさん』(2005.12.03)(2006.09.02追記)
●世襲(2003.12.01)(2004.06.23追記)
●パーソナリティ(個人主義)(2002.12.23)
●デジタルについて(2001.05.01)(2001.06.17追記)
●標準化(2001.01.29)(2003.04.13追記)(2013.02.11修正)(2015.08.30修正)
●サラリーマン哀歌(新幹線車中にて)(2000.10.23)
●日本の文化(つつましく生きる)(2000.09.04)
●天現寺からの帰り道(小学生のしつけ)(2000.07.14)
●「司馬遼太郎が愛した世界展」を見る(2000.05.27)
●たこ焼きの思い出(2000.05.01)
●MacWorld Expo Tokyo/2000(2000.02.25)(2000.03.14追記)
 
 

  ---  【以下のコンテンツは、AnfoWorldオムニバス情報2 に移動しました】 ---

●武蔵野(2000.02.19)
●クリスマス界隈(2000.01.11)
●2年に一度の東京モーターショー(1999.11.02)(1999.11.29追記)
●名古屋名物「味噌煮込みうどん」(1999.10.5)
●立食パーティの参加の仕方(1999.09.08)
●2000年問題( = Y2K)(1999.08.09)
●食感-texture: イギリス人の食感(1999.07.31)
●分散力(1999.6.28)
●書き言葉と話言葉(1999.5.17)
●Linux(ライナックス)(1999.4.30)
●ISO9000について(1999.4.18)
●脳死(のうし)(1999.4.1)
 
  ---  【以下のコンテンツは、AnfoWorldオムニバス情報1 に移動しました】 ---
 
●人の評価と給料(1999.3.13)
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)
●新Power MacintoshG3発売される(1999.01.16)(1999.01.31追記)
●文化(1998.12.30)
●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)
●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)
●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.31)
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
●Windows98のリリース(1998.8.03)
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)
●G3に触れる(1998.1.11)
●Macなともだち(1997.12.21)
●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)
●Windowsの世界(1997.12.21)
●インターネットの功罪(1997.12.21)
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 

 
 
 
●  粋な60才のオヤジ (2009.10.07)
 9月の終わりの晴れた午後、所用で都内に出かけた。
客先に向かう地下鉄の電車での話。私の座っている席からひとつおいて、60才くらいのオヤジさんが座っていた。
その空いた席に、レモン水のペットボトルを左手に持ち、反対の右手にはちょっと重めの荷物を持った60才くらいでちょっと太目の女性がよろよろとやってきて、どんと座った。
 
 見るともなく意識を向けると、彼女はずっとあくせく歩いてきてたようで、息づかいがちょっと荒く、体もちょっと汗ばんでいるようだった。地下鉄電車の中に、汗をかいたペットボトルを袋にも入れず裸で持って歩いてきた(冷たいボトルをちょっと長く持ち歩いてきた)という光景がちょっと目新しく、意識の残像として残った。はっきりとした意識ではなかったけれど、意識の中におぼろげに漂う光景だった。
 私の彼女に対する意識はそれまでで、中年のおばさんの顔も見ることなく意識は別の所に移りつつあった。が、そのオバサンがよっこらと座って、ペットボトルをぐにゅぐにゅ動かしている動作はなぜか視界の中に入っていた。そうした最中、オバサンを挟んだ向こうの60才がらみのオヤジが、そのペットボトルをやおらつまみ上げて、キャプを回し始めた。そしてキャップを緩めたレモン水のペットボトルを、さりげなくおばさんに返した。
私は、その光景に少なからず動揺した。
 
 くだんのおばさんは、頭を何度も何度も下げながらお礼を言って、キャプをゆるめて外しレモン水をおいしそうに一口飲み下した。
おばさんは、荷物を持って長く歩いていて疲れていたのであろう、それに高齢も手伝って、キャップボトルがすぐには外せなかったのだ。
私は、心の中で「やるな、オヤジさん」と思った。キャップを外すのは中々力がいる。それをわかるのは若い人では無理。あのおばちゃんは、喉が渇いていて、地下鉄に入る前にレモン水を買ったのであろう。席に座ったら早々に飲みたかったに違いない。でも握力が残ってなかった。普通ならなんとか開けられるのであろうけれど(それでなければ買わないだろう)、体が疲れ切っていたせいか、キャップを開けるのに何度か手を滑らせた。
隣のオヤジは、その光景を、つまり、彼女が入ってきて座って、ボトルのキャップをひねるまでの20秒くらいの所作を的確につかんでいた。
それを、私は後になって理解した。
 
 お礼を言われたオヤジさんは、言葉を一言も発しなかった。お礼を言われて会釈はしたであろうが(私の視界に入らなかったので確認していない)、当然といった所作のように感じた。そのオヤジにとても興味がわいたけども、ついぞ彼の顔かたち、服装を見ることなく下車した。けっこうりっぱなスーツを着てたような感じも意識の中ではあった。
 ああいうことは中々できない。ましてや60のオヤジ。どういう立場の人だろうかなぁ、と歩きながら思った。きっと、不景気で頭抱えている経営者や雇われ者ではないんだろう。了見が狭いと、あんなことはとてもできない。気配りのきく、体を動かすのを厭わない、心優しいオヤジだと思った。
これぞ男の優しさ。いいねぇ。
レモン水を持った女性が30才前後の女性だったら、私の方が手が速かったかもしれない。(しかし、30才代の娘は、レモン水を電車の中では飲まないだろうし、力も強いに違いない。)
 
 
 
  
● ppm、ppb(ぴーぴーえむ、びーぴーびー) (2007.07.06)
 
 我々の世代の事や世の中の事をふと考えることがある。
我々の世代(40代から60代)は、自殺者が多い。日本の自殺者は、年間30,000人を超えると言う。平成10年からは、30,000人を越えて32,000人から35,000人の間を推移して、斬増の傾向にある。1990年代は25,000人程度で推移していた。2000年になって30,000人を突破した。この数字は、交通事故の6,300人(平成18年度)に比べ5倍以上多い。自殺者の多くは我々の世代に集中している。40代から60代の人口を4,000万人とすると、1/4,000〜1/5,000の割合となる。交通事故の1/17,000に比べると桁違いに大きい。
 こうした数字を我々が良く使う百分率(パーセント)で表すと、自殺者の熟年世代に対する割合は0.025%〜0.02%となる。方や交通事故による死亡者総数は、全人口に対して0.0059%となる。この数値は百分率で見ると小さな値であるが、我々の実生活から受けるウェイトはこの数値以上に重みがある。
 パーセントでは小さな値になると言うので、100万を一つの母数とるす比率数値がが提案されppm(parts per million)という単位となった。また、10億を母数とするppb(parts per billion)もある。これらは、パーセントの桁上げ表示と取れなくもない。パーセント表示では、0.0001という「0」がたくさん付いてしまい、使うのに煩わしいという観点からは重宝である。
 交通事故死者や自殺者の数は、率の割に身近に感じられる。マスコミの報道もさる事ながら、我々の回りにもこうした不幸に巡り会った人を少なからず見る。交通事故は、ほとんどの人が巡り会う危険性がある。こうしてみると比率による数値はどのような意味があるのか、と疑問が湧いてくる。
 1980年11月、20才になる青年(予備校生)が就寝中の両親を金属バットで殴打して殺害したというニュースがあった。当時そのニュースはとてもショッキングだった。近年、子供が両親を殺害する(またはその逆の)ニュースが流れ、またか、という感じを受ける。こうした一連事件のはしりが1980年の事件ではなかったかと記憶する。こうした事件は、それ以前にはなかった、と記憶する。そうしてみると、人口1億人に対して1人の青年が起こした事件は、1/100,000,000(1億分の1)、10ppbの不幸な出来事だったと言える。それが2006年では2ヶ月に1件程度の割合で起きた。120ppbになった。
 百万人に1人の割合(1 ppm)、もしくは10億人に1人の割合(1 ppb)で起きる不幸な出来事は、ゆゆしき問題なのであろうか。
 
 
●化学書「タングステンおじさん」(2005.12.03)(2006.09.02追記) 
 
仕事で科学番組制作を手掛けるプロデューサと巡り合え、楽しく仕事をする中で、一冊の本を紹介された。
その本は、『タングステンおじさん - 化学と過ごした私の少年時代』(Uncle Tungsten -  オリヴァー・サックス〔Oliver Sacs〕著、斉藤隆央訳、早川書房、2003.09.15初版)というものだった。
題名だけで見るとなんとなく童話っぽい響きがあるが、内容は高度な化学書である。
 
久しぶりにおもしろい本を読んだ。
 
■ 彼の生い立ち
 作者オリバーサックスは、米国で脳精神科を専門とする医者で、サックス家にはお医者さんが多く、彼の両親も医者をしていた。また、両親の兄弟には化学者が多かった。
 彼の親戚に、イギリスでタングステンを製造しているおじさんがいた。作者は幼年期をイギリス・ロンドンで過ごし、タングステン工場を営むおじさんの工場に遊びに行き、そこで金属や元素などに造詣を深めていく。この本は、彼が小学校の頃から思春期を迎えるまでの話である。彼の幼年期は、ちょうど第二次世界大戦があった時で、ドイツ軍の空襲を免れるために子供たちだけロンドンから疎開していた。そうした社会の動乱期と自身の思春期を交え、彼の生活の母体であるユダヤ人社会(彼はユダヤ人だった)の風習も交えて自らの化学の萌芽を面白く紹介している。タングステンおじさんは、彼の化学好奇心を満足させる格好の先生であった。タングステンおじさんのところへ行けばありとあらゆる金属があった。その中でもタングステンはおじさんの大のお気に入りで、彼のライフワーク(仕事)にもなっていた。
 
■タングステン(W)
 タングステンと言えば、まず白熱電球のフィラメントを思い浮かべる。高温に耐える金属(融点摂氏3,410度)で、電気も通しジュール熱に耐えるため、強い光を発する電球に格好の材料である。しかし私自身はタングステンの固まりを見たこともなければ触れたこともない。重い金属だそうである。比重は19.3。水銀(13.6)よりも重い。たいていの金属は(鉛でさえも)水銀に浮くがタングステンは沈む。タングステンは『金』と同じ比重をもっている。タングステン(tung-sten)は重たい石という意味である。スウェーデンの化学者シューレが発見したもので、発見された当初は使い道のないものだったそうである。タングステンが脚光を浴びるようになるのは、融点が高いことから白熱電球のフィラメントに採用されてからである。X線を発生させるX線管(ターゲット)にも高温に耐えるタングステンが使われている。そのほか鉄の合金としてタングステンを入れた非常に強い鋼板が戦車などの軍用目的に使われている。
 タングステンと言うと非常に固いイメージがあるが、純粋なタングステン金属は柔らかい金属だそうである。タングステンは不純物(化合物)が混じると固くなる。
 
■ 化学と光
「タングステンおじさん」の本を読んでいてとても面白かったのは、化学が光に寄与した歴史的背景がとても詳しく面白く描かれていたことである。人類は闇を恐れ、闇を克服するために「明かり」を強く求めていたのだなと改めて感じざるを得ない。
人類は、火=灯を自由に使うことで外敵から身を守り大きな繁栄を得て来た。その「火」が、植物の火→動物の火→化石の火→電気の火→原子力の火となり、変化の度にパワーアップして人類の繁栄をみることになる。火の変遷の中の根源は化学であった。化学の世界がどんどん進化していく中で、人類の持つ「火」もその恩恵を受けて進化した。
 この本を読むと、作者が少年期、回りの親族の影響を多大に受けて科学、特に化学に興味を覚えて行ったのがわかる。また、化学反応の際に発生する熱エネルギー = 光についておもしろく書かれていてとても参考になった。この本には、1900年代の電気による光の歴史をロンドンの風景とともに興味深く書かれている。
イギリス = ロンドンは、世界で始めてガス灯を事業化して街を明かりで満たした国(都市)である。そのガス灯と電気の灯の競争と淘汰の背景には、明かりを作る素材の探究があった。電灯事業が立ち上がった時、ガス灯事業もかなり抵抗して技術革新を行っていた。そんな様子を彼の書物から伺いしることができる。電灯がガス灯を淘汰するのは、タングステンフィラメントの発明に依る所が大きい。エジソンがガス灯の灯具開発をあきらめ電気の灯りに発明の方針を変えて行ったのは、オーストリアのウェルスバッハという化学者がいて、彼が灯りを作るのにかなり先進的な研究と発明をしていたために(ガスマントルの発明者)、その方面では太刀打ちできなかったという事情があった。そこで、新しいエネルギーである電気に着目して、アーク放電ではなく、ジュール熱で発光する電灯の発明を模索していくことになる。その発明の一番の根本課題は発光体(フィラメント)の発明であった。エジソンは他の発明家が金属の発熱を利用して灯りを作ることに見切りをつけて、融点の高い炭素を利用することを思い付いた。炭素のフィラメントを作るのに、植物(竹)などの有機繊維を蒸し焼きにして炭素繊維(フィラメント)を取り出すことに成功した。しかし、炭素フィラメントは脆く、数百時間の寿命でランプが切れてしまう。
再び、構造的に丈夫な金属による発熱体研究が始まり、オーストリアのウェルスバッハがオスミウム金属を使った電球を発明する。炭素程度の融点(3,000度)と炭素以上の強度を持つ金属は、オスミウム、タンタル、タングステンの3つだそうである。これらはいずれも電灯のフィラメントとして採用された。この中でタングステンが価格、資源、寿命の点でもっとも優れ、電球のフィラメントとして勝ち残った。オスミウムランプは1897年にウェルスバッハが初めて製作した。オスミウムは極めて希少な金属で、全世界に7kgしかないそうである。また、当時、オスミウムを焼結する技術がひ弱で、オスミウムフィラメントは極めて脆く電球をさかさまにするだけで壊れてしまったと言う。
 
■ イギリスの科学環境
作者は、タングステンおじさんや両親などの影響を受けて、化学の造詣を深めていく。彼の家には彼だけの化学実験室があり、いろいろな化学実験を行っている。興味深かったのは、当時のイギリスはおそろしい化学薬品を簡単に手に入れることができ、それを使って相当危険な実験をくり返していることである。両親もそれをことさらに咎めなかった。ただ、危険な薬品を使う時は、その理由を言って十分に注意するようにという程度のことしか言わない。日本人なら、まっ先に両親が制止して恐ろしい実験を行わせない。この辺に教育の仕方の根本的な違いがあるように見受けられる。
 
 
 
 
●世襲(2003.12.01)(2004.06.26追記)
 
 世襲(せしゅう)について考えてみたい。世襲とは、血のつながった世代が資産や役職、格式を継承することである。代表的なものでは、皇族の継承や、歌舞伎、狂言俳優たちの襲名がこれに属する。古くは、封建制の下での大名の家は世襲であった。また、会社組織でも、小さな組織においてはトップの地位を同族が継承することがあり、これを世襲と呼んでいる。しかし、個人商店などでは、ほとんどの場合同族がお店を継ぐが、これを世襲とは言わない。このように考えてみると、どうもステータスの高いものを同族(親子)が嗣ぐことを世襲というようである。実力を伴う世界、例えば相撲の世界とかプロ野球の世界には、二世はいても世襲はない。二世が親の七光りでその世界に入っても成果が出なければ、継ぐという行為にはならず、世襲とはならない。そう考えると、実力がなくても高いステータスに座れるのが「世襲」ということなのだろうか。実力を伴わなくても、「血」を受け継ぐことが世襲であるとする見方もある。皇位継承などは、まさにその「血」の継承であり、本人の実力よりも「血」を尊ぶ世界である。世襲の本来の意味は、大名や、天皇を頂点とした皇族がそのステータスを『血』という形でしっかりとした組織で固めて代々受け継いで行くことのようである。この世襲の原義を元に、役得を二世に譲ることを俗に世襲と言うようになった。
 
【世襲議員】
 つい先日、衆議院議員選挙が終わった。実に2割近くが親子に渡る世襲議員であった。議員になるにはしっかりとした組織と支持基盤が必要と言われる。選挙に勝つためには基盤を固め、確実に票を集める必要がある。こうした組織作りは衆議院議員個人だけの活動ではとても無理で、彼を補佐する後援会スタッフが草の根戦略を尽くして票を固めていく。後援会の人達も親子代々議員先生に仕えて来た人達であり、後援会から枝葉を伸ばした地域の人達も、家族ぐるみで議員先生を応援する。こうして出来上がった組織ピラミッドは、特に田舎にあっては、国政を地域に反映させ、利益を還元するための大事な仕組みであり、強固に守り続けられている。こうした世襲議員を頂点としたピラミッド構造を見ると、アリやミツバチなどの共生社会を彷彿させる。彼らの組織は、国をどうする、世界をどうするというビジョンは希薄である。自分たちの利益を守るための集団組織としての意味合いが強い。自分たちの地域の道路を建設したり、工業用地を誘致したりして地域が活性化することを前提としている。ある意味では極めてプリミティブな集団である。こうした集団が議員先生を押して牛肉の輸入やらお米の輸入に圧力をかけている。
 しかし、無党派層と呼ばれる組織に与しない浮動票が多く存在して強固なピラミッドが作れない都市部においては議員の世襲は難しい。都市部では、外部からの人口の流入と外部への流出が激しく、地域内だけで仕事をする人が少なくて仕事場と生活の場が離れている。そのため地域の結束が薄く親子に渡るつながりも薄いので強固なピラミッド構造を作ることが難しいのである。このような都市部では、親子に渡る議員を世襲議員とは呼ばずに二世議員と呼んでいる。二世議員は、親が有名でその七光りで票を集めることを大きな特徴としているが、最近ではその二世議員も都市部では苦戦を強いられている。世襲議員は、実力や才能の善し悪しはあまり問われない。彼を取り巻くスタッフがうまくやってくれるからである。世襲議員は何年もそのポストに座っていれば徐々にその役柄をこなしてそこそこの顔になる。まさに世襲である。
 
【世襲社長】
 昔は、会社と言えば創業者の息子が継いでなんの不思議もなかった。創業者の苦労が報われる形が世襲であると考えていも、周りの者はなんら不思議に思わなかった。当然と受け止めた。社長の家を守る番頭も代々その家柄を嗣いだ。この仕組みは、封建制が色濃く残っている地域では今なお受け継がれている。昔ながらの造り酒屋などはこの習わしを受け継いでいる。しかし、会社が世代交代するにつれて、この世襲がはたして会社を安定させて存続するための良い選択かというと、大いに疑問がわいてくる。特に、経済がグローバル化し激しい波に揉まれる現代においては、生き残りをかけた適切な経営戦略が必要となり、地域だけの安定した存在では無くなってきているため、従来の慣例が社員の利益をしっかり守ってくれるかどうか疑わしいものになっている。『血』だけでは時代がついて来なくなったのである。トヨタは、社長の座を代々親族で継承してきたが、1995年に世襲制を廃し大所帯のかじ取りを奥田碩氏に託した。奥田氏も短期間で任期を終え、1999年6月に張富士雄氏にバトンタッチを行った。トヨタは、奥田氏になってからより強固な体制になりシェアも伸ばし、世界的な基盤を整えた感じを受ける。日産は、外部の血を入れることで日本的な官僚主義という名の世襲を捨てた。この血の入れ替えも結果的に見て正しかったと言えるだろう。
 
【歌舞伎】
 歌舞伎役者は世襲である。世継ぎを産むことが大切な仕事であるらしい。素朴な疑問がわき上がるのであるが、世襲された歌舞伎役者は、ホントに演技がうまいのであろうか? 私は、歌舞伎のことは良くわからない。見てもさして面白いとも思わない。人生長くやっていて一度も生の歌舞伎を見たことがない。江戸時代には、大衆を沸かせるもっとも人気のある出し物として、相撲と歌舞伎に人気があったという。封建時代の江戸にあって栄えた歌舞伎が、役者の名声を持続させるために『血』を選び、世襲をとったのは頷ける。しかし、江戸期に世襲の歌舞伎芸能が連綿と受け継がれていく中で、外れた世襲者(下手な歌舞伎役者)もまた子孫にその名前と格式を継がせなくてはならない時、歌舞伎の質もずいぶんと不安定であったろうと想像する。
 考えてみれば、歌舞伎は組織と「血」でなりたっているのかも知れない。歌舞伎の内容は、古い歴史の出来事を面白く仕立てなおして、それにケバイ化粧と絢爛な服を仕立てて派手な演技で立ち回る。それを端役たちがもり立てて興業を成立させる。観客は、何代目市川某の「血」に深層で酔い、派手な演技と仕立てで表層に酔う。世襲の中でたまに傑出した役者が現れると、歌舞伎組織を挙げて一大興業に仕立て上げていくのであろう。
 歌舞伎には、実力よりも、「血」と呼ばれる実力には代え難い価値があるように思える。そして競争力も必要としない。伝統芸能であるから、外界からのはげしい競争にさらされないのである。伝統を守って「血」を守れば良い。実力を試されることは、こと歌舞伎興行の中では重要ではない。うまく立ち回われば良いようである。下手だからといってその地位を追われることはない。その代の俳優が傑出しなくても次の代で成功を納めれば良いようである。りっぱな役者になるために、周りのもの、つまり興業する側も見る側も一団となって歌舞伎を盛り上げているように思える。見る側は、歌舞伎をもり立てるように高い金を払って見物し種を保存している。
 
【封建制と世襲】
 封建時代にあっては、世襲は秩序を維持する大事なことであったと思う。封建制は、主と従の区別のハッキリした秩序社会であり、使う者と使われる者の区別を時空を超えて明確にし固定した。使うものは、自らの財産と地位を守るために相続を固定し同族の中で継ぐようにした。主を守るため、使われる立場の側近は能力のあるものが台頭して体制を懸命に維持した。種は保存されたが、その種は弱々しいものになった。その弱々しい『血』を周りの者が必死で守ったのである。歴史をひも解いてみると、世襲はおおよそ3代くらいで形骸化するようである。あとは組織がしっかりしていればそのまま惰性で続くし、さもなくば空中分解して次の波に飲まれていくようである。徳川が300年続いたのもかなり厳しい統制を敷いての結果であり、階級から人の出入り、建造物、船、火器などの製造、所持を著しく制限した。その秩序も外からの力と内から沸き上がる力に倒されて行った。
 
【民主主義と世襲】
 競争原理が基本である自由主義社会の民主主義は『血』は受け入れられない。すべての者が平等であり、生きる権利を持っている。力があり努力をした者がその努力と能力に対して報いる社会が資本主義の流れをくむ民主主義である。人は生まれながらに平等であり民主主義国家はこれを守ってくれるが、財産は保障していない。勤労と競争によって財産を築いていくものである。一代で獲得した資産は、法律の許す範囲内でどのように処理しようと自由であり、子に引き継がれることも何ら問題はない。しかし、権力は無条件に引き継がれることはない。権力は、集団の統率権を意味するため、人権に関わってくる。人権をコントロールする権利を無条件に子に譲ることは現代の自由主義社会の民主主義では認められない。権力は合議によって、あるいは多数決によって決められるのが民主主義だからである。
 
【共産主義と世襲】
 共産主義の根本は、労働者階級で作られた平等社会である。その社会には、王様も存在しないし貴族も存在しない。そして資本家も存在しない。共産主義は、資本家階級が社会を支配していた時代、つまり、労働者階級を『搾取』という形で扱っていた時代に、労働者を解放するイデオロギーとして台頭した。1900年代初頭には、国家までできあがり、平等を標榜する社会主義国家と、自由を旗印とした自由主義国家が対立した。社会主義も自由主義もどちらも『民』が主人公であることに変わりはない。財産の私物化を極度に限定し、すべての民に平等に還元しようとしたのが社会主義であり、働きに応じて自由に財産を手に入れることができるのが自由主義であった。社会主義にあっては、財産は労働者すべてのものであり私有化は著しく限定された。国を統率する首領も、労働者が合議で選ぶことが基本となっている。
 しかし、こうして出来上がった社会主義国家の現状は、党員が特権階級に胡座をかいて利権を貪るという構図ができあがり、継承されていった。社会主義国家には世襲などあり得ないのであるが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では首領の第一子が党首の座についた。その国でもっともふさわしい後継者が、結果的に息子であったということかもしれないが、表向きの合議によって選ばれたととも取れる釈然としないものである。彼等の国を外から見ていると、彼等内部には国を変えようという革命精神を持った組織がほとんどないことを伺わせる。体制についていけないものが「脱北」という形に表れているだけであり、国を変えて行く力にはなっていないようである。それほど北の体制は守ることに強固な体制となっている。北朝鮮の政策を見ていると戦時中の日本の天皇制におそろしく似ていて気味が悪いほどである。戦時中の日本は、思想が統制され著しく管理された。すべてのものや価値観が天皇の名の下に生かされ、現人神に感謝し、彼のために命を惜しまない教育を受け、天皇の名の下に財産を提供し、命までも提供した。現在の北朝鮮は、そうした戦前の日本になんと似ていることか。金日成は、自国を建設するときに、それまで統治していた日本のやり方を概ね真似たのではないかと思えてくる。彼にとって、イデオロギーなど二の次で、自分の国を作りたかったのに違いないと思えてくる。共産主義がなぜもかくに個人崇拝を認めたのか不可思議ですらある。世襲は権力者の身を守る特権行為なのである。世襲は、『血』という神秘めいたものに仕立て上げ、万人が犯しがたいものにする。しかし、その行為は現代社会にあっては近視眼的行動と言うほかなかろう。
 
 
 
 
●パーソナリティ(個人主義)(2002.09.11)
 
 日本人の個人主義について昔から思いを巡らせている。
 日本人が「個人」を自覚し国を挙げて法律化したのは太平洋戦争後の日本国憲法が出来上がってからと記憶する。その時代よりも前の動きとしては、明治になって欧米の文化が入るようになり「個」というものの考え方が徐々に入ってくるようになった。それまでの日本の文化には「個」よりも「全体」を優先する美学があり、「和」を重んじていた。全体の中に「個」を委ねるのが美徳とされ、個性は消し去るのが良しとされた。封建制では「家」という絶対価値があり、明治憲法下では「天皇」が絶対であった。太平洋戦争では、「個」は神の子として、神( = 天皇)の前に忠誠を誓い神のために御霊を捧げることが至福とされた。この考えが特攻隊に代表されるイデオロギーになった。
 太平洋戦争の終結とともに、天皇制が廃止され米国主導による資本主義、自由主義が入る。日本国憲法の中に「基本的人権の尊重」が盛り込まれ、「個」が優先される国家が動き始めた。「個」が優先されるということは個の自由が認められる、という事である。「個」の自由が認められ自分の判断での行動が許されるようになると、当然のことながらその行動に対して責任を持たなければならなくなる。「個」が優先されなかった時代、社会は「個」に対して自由を束縛した。たとえて言えば、結婚は家と家の決め事であったし、職業も生まれ落ちたときから決められていた。人は絶対者の前に「個」を消し去らねばならなかった。「個」の自由が認められた現在では自分で決めた結婚や職業に対しては自分で責任をもたなければならなくなった。
 自由が日常生活の中の当然な権利となった今、「自由」を責任持って行使できる「個」がどれほどいるかを社会犯罪が多発している今、複雑な思いで思い描いている。
 
【群れる】
 群れるということについて考えてみたい。動物の行動を観察してみると弱い動物であればあるほど群をなして行動する。独立行動の強いライオンでさえも狩りをするときは他のライオンと連携する。反面、ヒグマや北極グマは単独での行動が多いと聞く。我々の社会生活の中でも群れて生活するケースは多い。群れて(他の人達と一緒になって)行動する方が生きる上でのリスクは少ない。
 考えてみれば、人は他人との共存の中で生活している。一人で生活することはあり得ない。江戸時代までの多くの人達は自己を表に出すことが少なかったと言われる。特に農民は部落単位で行動して他の人達と同じように寝起きして種を蒔き、刈り入れを行っていた。それで生活ができたのである。生きる局面で重大な選択を迫られるときは回りの者が決断してくれた。そういう社会だったのである。
 現代は、生まれながらにして選択の自由が与えられ、生きる節節では「個」が自らの責任で物事を選択する時代になった。しかし100人が100人すべて物事を判断できるとは限らない。その人達の多くは判断を群の中のリーダーに求める。リーダが思慮分別ある者であれば群は正しい方向に流れるであろうが多くの場合そうはならずにエネルギーの散乱として周囲にまき散らされる。
 
【基本的人権】
 日本国憲法によって、初めて国が個人の人権を法律で守るようになって50年近くが経過した。人は二十歳以上になれば一人の大人として自らの意志で生きる権利と義務を与えられる。生きるためには「働け」と憲法はうたっている(勤労の義務)。勤労で得た所得を税金として国に納めるのも成人の義務である。そうした国と個人の約束に従って個人が法を守れば国は法によって個人の自由を尊重し保護もしてくれる。我々が何を語ろうと個人の責任において自由であるし、宗教においてもどの宗派に属そうと自由である。また職業についても機会は均等に与えられる。欲しい物を手に入れることも自由であり、売り手が希望する代価を買い手が支払い、それが他に迷惑を与えない物であるならば自由に売買し所持することができる。
 国の政は国民の総意を旨として運営が為されている。
 しかし、国民のほとんどがこうした生き様をよく理解して自分の責任で行動できるとはとても思えない。人にはそれぞれ向き不向きがあり自分の生き方を自分で決められない人もたくさんいる。そのようなケースでは群の塊の中でそういうことに秀でた個がリーダーシップをとってそれぞれの個を尊重しながら集団の営みを続けていく。
 
【自由と義務】
 自由の行使には必ず責任が伴う。自由を行使したければ自由とは相容れない義務が伴う。納税の義務は個人にとってはあまり嬉しくないことかも知れないが日本人である限り、日本人でいる限り日本国民として働き、働いた中から税金を納めることは「義務」なのである。また、お互いに好意を寄せ合った同士が結ばれ家族を形成し、子女を設けた場合には子女が独り立ちさせるまで彼らを養育をする義務がある。子供は嫌いだから別の人に預けてしまうというのは自由を理解し自由を責任もって行使しているとは言い難い。このように自由を行使するには責任と義務が伴うのである。自由は個人のものであるが、その個人は世の中にたくさんいる。その個人がそれぞれに自由を口にし自由を行使したらどうなるか・・・。宗教と宗教のぶつかり合いは自由の名の下において正しい側面があるが相手に危害を加える時点においてそれは相手にとって自由の束縛となるのである。
 以下、仔細な事例において自由と個人主義について考えてみたい。
 
【衣類】
 衣類は、個を主張する大きな要因である。服飾を大きく分けると男性と女性に分けられ、思春期を迎える青少年から結婚までの30才代、結婚をし家庭をもった40才代、子供を育て上げた熟年50才-60才代、老いの年代に入った70才代の年代別に服飾の好みが変わる。また、職業や好みに応じて身につける服飾に変化が表れる。我々は経験的にそうした相手の身につけた服飾によって相手の個性をなんとなく理解している。衣類は個性の発露ではあるが別の意味で群の共有化の表れとも言える。特に若い世代では人と違う服装を纏うことにより自己を主張し同じような服装で共有し合うことにより連帯を高めている。衣類は個の発露とともに群れに入る制服のようなものである。また民族を主張する場合に民族が育てた民族衣装は何ものにも代え難い個の主張とともに民族に帰依する拠り所となっている。衣類が人に危害を与えないかというと直接的ではないが間接的には十分に考えられる。
 
【言語】
 言語も衣類と共に個を主張する大事な道具であり、それと共に群れに入るために大事なものである。ティーンエージの女性は感覚的に研ぎ澄まされた部分があり、彼女たちの世代は時代時代で独自の言語を編み出してそれを用いて共有化と差別化を図ってきた。米国の黒人たちは独自の英語表現を編み出し連帯意識を高めている。方言を持つ個人が群を離れると別の群のものがその個人を中傷することがある。また地方という群の中に入るとその群が使う言語に合わせないと浮いてしまうことがある。英国は階級社会と言われていて現代でもその意識が色濃く残されているという。彼らは相手が話す言葉遣いで彼らがどのレベルの階級に属するかを即座に見分けるし興味の多くはそこに集中するという。言語は大いに人を傷つける。言語は人とのコミュニケーションをする上で大切なものであり、自由の表現の大きな手段である。言葉のスタイルはそれぞれの持ち味、言い回し、方言などが加味されるものの相手に伝える意志にはその人の考え方、生き方が反映されている。人は言語に責任を持って自由の行使できる範囲内で活用しなければならない。
 
【友人】
 類は友を呼ぶ。友人を見ればその人となりが分かるとまで言われる。人との交わりは自由に行える時代になっている。人は、つまるところ互いに高め合い助け合う友人を求めている。人によっては単に寂しさを紛らす相手を求めているかもしれない。人は相手を相互に探しあい認めあいながら関係が築かれる。気の合う友達や互いを尊重しあえる友達と会いその関係が続けられるのならその人の人生は幸せと言わなければならない。人は対人関係の中で喜び、哀しみ、励まされ傷つけられて生きていく。人との付き合いの中で好んだ同士の付き合いで生きられればそれは幸せであるが、全体の中で生活する場合には苦手な相手とどのようにつき合って行けるかが問題となる。これが対人関係、利害関係を軸とする社会では大事なこととなる。決して一人では生きていけないのである。相手と共同で生きていくための触手を作りそれを養わなければならない。
 
【パーソナル電話(携帯電話)】
 電話の出現によって互いが遠く離れた所にいても関係を保つことができるようになった。
それが一家に1台の電話から一人に一台の電話になり、さらにそれがいつでもどこでも話すことができるようになった。携帯電話の普及率のすごさを見ると、人は、周りからの(家族や気兼ねする周囲の知り合いからの)干渉を避け、個と個の直接のつながりを強く望んでいるようである。家にある電話は取次が必要で、家族を気にしながら電話先と応対しなければならない。しかし携帯電話はダイレクトに相手につながり、相手が合意すればいついかなる時でも交信ができるのである。空間と空間を結ぶ個とのつながりとその欲求は、全体よりも個を優先しながらも、しかし、つまるところ単独では生きられないことを如実に物語っている。
 
【パーソナルコンピュータ】
 パソコンが個人の手元に入ったことにより、個が扱えるデータ量が恐ろしく増えた。パソコンの普及の大きな要因はインターネットと電子メール、デジカメによる写真の管理、季節の便り(年賀状など)の作成であろう。これらはすべて個人が他に向けて発信もしくは受信をするものであり、パソコンはそうした通信手段の強力な道具となった。こうしたパソコンが今後携帯電話のようにますます小さくなって外に持ち運べるようになり、空間を超えた個と個のつながりを助長していくであろう。
 
【個と全体】
 こうのように一つ一つの事例を見てみると、世の中はパーソナル(個)に向かって進んでいるようである。そして、個人を最大限に尊重する時代になってきている。しかし個を尊重するといっても個の集まりである全体の幸福を無視した「個の自由」はない。そして平等も自由の下で平等であるべきとする考えが一般的になっている。こうした土壌を形作るまで人類は多くの血を流し叡智を結集して整備してきた。今、我々はその恩恵に与っている。個の確立とは他人がその個を尊重することであり、当の個は他から尊重されるべき人格を日常において完成させていくべきものである。いずれの形にせよ個は他を欲しているし他との関わりなくしてなりたたない。この所を十分に理解し「個」を見つめ、他との関わりを持つべきであろうと考えている。
 
 
 
●デジタルについて(2001.05.01)(2001.06.17追記) 
 
デジタルについて述べてみたいと思う。
一般的に言って、世の中に何気なく使われている言葉で実際の意味を理解して使っている人は案外少ないのではないか。こうした流行語を十分に理解もせず臆面もなく使いこなせる人は要領のいい人だろうなぁ、とよく思う。
 
「デジタルって何だろう?」、と実兄が会う毎に私にぼやくのでぼんやりと考えるに至った。
 デジタルと言う言葉が出てくる背景には、デジタルでない世界からデジタルの世界へと意識を切り換える意識革命の意味合いが込められていた。デジタルの対語がアナログである。デジタルを一言で言うと「数値化」、もっと突き詰めていうと「0」と「1」の二種類しかない記号表現の世界である。(現実の生活の場では、「0」と「1」では人に理解されないために十進法の数値表記をさしてデジタルと言っている。)この「0」と「1」の数値表現を数学では二進法と言っている。二進法が今や全世界を席巻し、全ての世界を支配している。なぜならコンピュータに使われている算術手法が二進法に他ならず、コンピュータで扱う世界は全てこの2進法に置き換えられるからである。
「0」と「1」だけの世界がこれだけ信頼を得て世界を支配するようになったのは興味あるところである。
 二進法というのは二つの数字しか持っていない。十進法は10個の数字をもっていて「9」の値に一つ値が加わると桁が上がり「10」という数字になり、0〜9までの数字で順繰りに数を表し加減乗除を行う。
これに比べ二進法は「0」と「1」の二つの数しかないため、「1」にもう一つ加えると「2」とする事ができず、桁が繰り上がって「10」となる。従って、「1001」という二進法の数値表記は十進法に直すと「9」となる。「1111」は15に相当する。二進法ではそれぞれの桁が「1」「0」しかないので、コンピュータのロジックでは、電流を流す、流さない、電位を持っている、持っていないというスイッチの「ON」、「OFF」に相当させることができる。コンピュータは従ってスイッチのかたまりでできているといっても過言ではなく電気を通したり止めたり、あるいはそれを保持して演算を実行し、その結果の数値を2進法として記憶し表示している。これをビットを立てると言う。「1001」というのは4つの桁のビットを立てるわけであり、これをある時間タイミング(クロック)で別の4桁の数値と加減乗除を行う。この4桁のビットを4ビット処理と言っている。最初のマイコンは4ビットから始まり、1970年代後半のマイコンキットは8ビットCPUが開発され、NEC9801シリーズで有名になったパソコンは16ビット対応になり、現在は32ビットから64ビットの桁数を持つに至っている。64ビットは十進数に直すと200京(2,000,000兆、19桁)の数字に相当し、この数字を1つのタイミングクロックで演算処理する。これを通常CPUのクロックである500MHzのクロックで行うとすると、19桁単位の計算を1秒間に5億回繰り返して行うことができる。これらの数値は我々の日常生活には及びもしない数の世界である。
 
【デジタル時計】
 デジタルという言葉が一般大衆に出回ったのは、「時計」からではなかったかと記憶する(詳細記事は「時計」の項を参照)。1970年代後半、高級というイメージが定着していた腕時計に価格革命が起きる。デジタル時計の登場である。デジタル腕時計は従来の歯車や宝石による軸受け及びムーブメント一切を排除し、内部の水晶発振子によって正確な信号を作り(これをクロックという)、この信号をカウントして時を刻み時を表示する。液晶ディスプレイの登場で時計には機械的に可動する部分が全くなくなり精度の向上、低価格へと発展していった。計時表示が数字そのものであったため「デジタル表示」と呼ぶようになりそれが時代を経てデジタル時計となった。これに反して時針、分針、秒針のついた時計をアナログ表示時計と呼ばれるようになった。アナログ時計では読み手は針の指した位置と文字盤から時刻を読みとった。スイスの高級時計Rolex(ロレックス)などは未だに機械式アナログ腕時計を作っている。マニアの間ではかなりの人気らしい。1969年にSEIKOが開発したクォーツ時計も中身はデジタルであったが、文字盤が従来の円板タイプで時針、分針、秒針で時を刻み表示をしていたのでデジタル時計とは呼ばれなかった(クォーツ時計と呼ばれた)。
 
【デジタル機器】
 時計のデジタルには高級感が薄れてきているが、オーディオやカメラ、その他の装置で「これはデジタルです。」と売り手が買い手に言うとき、暗に「この機械は性能が良くて時代の最先端を行っています。」という意味合いを言外に匂わせている。その言葉に信頼を寄せる人は幸せであるが、売り手がなにやらうさんくさい御仁である場合、「デジタル、デジタルってい言うけど、ホントにデジタルは万能で良いものなのか?」という考えが頭をもたげる。
 今の時代、「デジタルは良いものなのか?」という疑問は滑稽に思える。今や生活の根幹は全てデジタルになってしまっているのだから、質問の余地はなくなってきている。電話は回線網のレベルでは全てデジタルに置き換わってしまっている。電気を作る発電所もすべてデジタルに置き換わり時々刻々かわる電力事情に対応した発電量を制御している。新幹線の運行も全てコンピュータが管理をして不測の事態を絶えず想定しながら指示を出している。時計に至っては振り子時計や砂時計、日時計を使うユーザは皆無になってきているのではないか。しかし、中にはデジタルではなくアナログに執着する人たちもいる。スイスの高級時計メーカーは未だにゼンマイを使った機械式腕時計を作っている。
 
▼ CD(コンパクトディスク)の仕組み
オーディオマニアの中には塩化ビニールのLPに針を落としてプレーヤーで音楽を聴いている人がたくさんいる。こうしたアナログの時計もオーディマニアも少なからず存在する。
CDのデジタル音に比べアナログレコード(塩ビのLP)の方が高音域がリッチで豊かな音を再生してくれるそうである。CDは1秒間に4万4千100分割(44.1KHz)で連続した音を分割し、その一つ一つに65,000階調(16ビット)の音の強さを割り当てている。従ってCDには44.1KHz以上の音は記録できない。これがCDには豊かな音が出せないとマニアから言われている所以である。
CDの出現はオーディオ業界にとってはデジタル音楽への一大革命であった。オーディオの世界もデジタルの関わりが全くなかったわけではない。コンピュータが発達した1960年代にはコンピュータで音楽を作るシンセサイザーが萌芽していたし、1970年代にはPCM(Pulse Coded Modulation)と言って音をパルスに変調してオーディオテープに録音していく技術が発達していく。DAT(Ditigal Audio Tape)はこのPCM技術を使った方式である。しかしながらオーディオの世界をデジタルに一変させたのはCDの出現に他ならない。なぜなら、それまでのアナログの総本山であるレコードを音楽販売店から一掃させてしまったからである。レコードに置き換わるだけの潜在性能をCDは持っていた。
CDのデジタル録音の詳しい仕組みについて以下で見てみよう。
CDの根本的なことは、デジタルに直すときの標本化(量子化)が通常の人間が許容できる範囲であること。取り込みエラーに対して十分な配慮がなされていること(信頼性が高いこと)、使いやすいことが上げられる。CDは音楽業界に受け入れられ出版業界でも大容量メディアとして業界の標準となっていった。さらにCDの特許を持つソニーはこのデータメディアをエンタテイメント(娯楽)の分野Playstationに投入する。任天堂(ファミコン、スーパーファミコン)がICメモリと基板で作ったソフトカートリッジでソフトを供給していたのに対し安価なCDで対抗したのである。この戦いの結果はみなさんもよくご存じの通り。
 
【CD = コンパクトディスク】
▼ 歴史
 CDの誕生は1982年。ソニー、日立、日本コロムビアによってデジタルオーディオディスクとしてのCDが発売された。そのCDが1989年にはLPに対する売上シェアが90%を上回った。CDは20年の歴史を持つことになる。
 ちなみにステレオは1958年に開発された。24年後の1982年にデジタルオーディオの元祖CDが発売されるのである。1982年はデジタルオーディオ元年と呼ばれている。
 CDの対抗馬であるレーザディスクは1972年、オランダフィリップス社で開発された。このディスクは光学式ビデオディスクであったがデジタルではなかった。オーディオディスクは、1977年にこのビデオディスクを基本としてソニー、三菱、ティアック、日立、日本コロムビアが発売している。
1979年、フィリップスは現在のCDの基本である直径11.5cmのコンパクトディスクを発表。1980年にはフィリップスとソニーによって規格統一の合意に達し、本格的なCD時代が到来することになる。ディスクの直径はソニーが提案するφ120mmとなった。この径はベートーベンの第九交響曲がそっくり入る67分を目安としたためこの直径となった。
▼ CDの記録周波数:44.1KHz
 CDの音声のデジタル録音は、原音を左右それぞれ44.1KHzで16ビットに量子化される。録音の段階では、16ビットを8ビットずつに分けている。これを1シンボルと呼ぶ。従って、量子化された1サンプルの音は16ビット、2シンボルとなる。
 CD録音時は、この1シンボル8ビットを14ビットに変換する。8→14なので、これをEFM(Eight to Fourteen Modulation)と呼んでいる。つまりサンプリングされた音は2シンボルなので28ビットのデータで1つの音を構成することになる。音自体は16ビットに変わりがない。この手法はソニーとフィリップスで共同開発された。
さらに、EFMで14ビットにされた1シンボルに3ビットのつなぎビットを挿入して17ビットとし、これが1シンボル単位となる。つなぎビットの目的は、記録波形の直流成分を少なくすることにあり、長い期間でみてHIGHとLOWが等しくなるようにする。14ビット、1シンボルの波形がHIGHになっていればつなぎビットをLOWにしてトータルで0になるようにする。つなぎビットで直流成分を低く抑えるには、DSV(Digital Sum Value)という数値から判断して行う。つなぎビットは記録情報が増えて不利になるような気もするが、実際にはそれ以上のメリットがある。
▼ データ容量
 CDの記録には、データの誤り、欠損の回復を狙いとして、1フレーム単位でデータが格納される。フレーム周波数は7.35KHz。チャンネルビット数は4.3MHzとなっている。
1フレームのビット数は588ビット。
フレームの最初は24ビットの同期信号 + つなぎビット3ビット。
次に制御信号として14ビット(1シンボル) + つなぎビット3ビットが当てられる。
次にデータのシンボルが12ヶ。(17ビットx12)
誤り訂正用パリティビットが4シンボル。(17ビットx4)
このデータシンボルとパリティがもう一回つながる(17ビットx16)
このようにして、1フレームあたり
  17ビット x 32データ + 27ビット + 17ビット = 588ビット
588ビットの塊となる。この塊を取り出して誤りがないかどうかをチェックしエラーがなければこのデータを再生段に送る。
1フレームには上記の説明よりデータが24個あることがわかるが、CD音声データは、左右(L.R)2チャンネルあり、音声データは2つのデータで1つの音声単位を構成しているから、最終的には6対の左右の音声データが1フレームに格納されていることになる。1フレーム6対のデータで、1フレームは7.35KHzで格納されるため、
  7.35KHz x 6 = 44.1KHz
の音声サンプリング周波数が導き出される。
記録容量は、1フレームが588ビットの塊でこれを7.35KHzで記録していくため、
588ビット x 7,350Hz = 4.3218Mビット/秒の記録となる。
これが74分間続くとCD-ROMの記憶容量は、合計
  4.3218Mビット/秒 x 60秒/分 x 74分 = 19,188.792Mビット( = 2,398.599MB)
となる。これは通常言われているCD-ROMの記憶容量650MBの3.6倍である。
音声自体のデータは、
  14ビット x 2シンボル x 2チャンネル x 44.1KHz x 60 x 74 /8ビット
   = 1,370.628MB
となり、一般に言われているCD-ROMの容量の2倍の記録容量がCDには確保されていることになる。
 通常、CDはサンプリング周波数44.1KHz、16ビット量子化、左右2チャンネルサンプリング、74分記録であるから、
 16ビット x 2チャンネル x 44100Hz x 60 x 74 /8ビット = 753.216MB
となる。
つまり、ここで言いたいのは、CDの記憶容量はデータ容量の3.6倍程度ある、ということであり、記録データの安全のために色々なチェックデータビットが加えられているということである。
▼ データ書き込み
 CDに記録されるビットは1つ当たり約230ナノ秒の間隔で行われる。ビットは0.5umの巾の大きさで、各トラックは1.6umピッチで構成されている。CDの読みとりはCLV(Constant Line Velocity)線速度一定方式で読みとられる。線速度は1.2m/s〜1.4m/sでデスク回転数は約600〜200rpmである。
CDの大きさは直径120mm、中心にφ15mmの穴が空いていてφ50mm〜φ116mmの33mmの巾が記録領域である。
▼ CDとMD
CDの容量は60分で650MB。それに対してMDも同じ時間の録音ができる。MD=MiniDiskのサウンドはCDとほとんど変わらず実際のCDと同じ44.1KHz、16bit、ステレオというフォーマットになっている。しかしMDのコンピュータ的容量は140MB、これはCDの約1/5の容量しかない。したがって、MDにはATRAC(Adaptive Transform Accoustic Coding)という圧縮技術が取り入れられている。これは一種のマスキング効果で、例えば、大きな音と小さな音が重なっていると、小さな音は大きな音にかき消されてしまうことを利用してマスキングを行う。主に高音と低音の部分でマスキングを行い1/5の圧縮を行っている。ちょっと聴いただけではわからないMDの音も、本当によく聴いてみるとやや音質が落ちている。
 
デジタルも全て万能というわけではない。デジタルにはデジタルの問題点があり苦慮しながらシステムを構築している。そうしたデジタルの考え方と、デジタル処理で陥りやすい過ちを認識し、デジタルと良いお付き合いをした方が賢いと考える。
 
■ デジタルの語源
デジタルの語源は英語である。digitalと書く。digitというのは「指」という意味があり、指折り数えるような簡単な数値表現、直接的な数値表現という意味合いからデジタルという表現がされるようになったと思う。それまでは計測する針が読み取り盤の上を移動しそれを読み手が読みとっていた。時計の文字盤、温度計、秤(はかり)、物差しなどがそうであった。
 デジタルの反対の言葉であるアナログはanalogという英語から来た。もともとの意味は類似とか相似という意味である。万物の現象を別の形になぞって(針の振れとか液柱の溶液の動きとか)表現したのでこのような難しい言葉が当てられた。アナログには連続量をそのまま表示するという意味が込められ、デジタルには連続量をある単位で区切って強制的に量を当てるという意味合いが込められている。強制的にある単位で区切ることを「量子化」と呼んでいる。
デジタルは数値表示、数値処理をより簡便に確実により速くという考え方で発展してきた。現在では我々の回りにあるほとんどのものがデジタルによって加工されている。一見なんの変哲もない写真でさえもその陰ではデジタルによって記録され色づけされプリントされている。出版雑誌も新聞も全てコンピュータによって編集され印刷されている。電話口で喋る言葉も全て細かくデジタルに細切れにされ、聞き手のもとで再度音声として組み上げられて耳に届く。デジタルによって1本の電話回線で同時にたくさんの加入が可能となった。先に述べたCDディスクにしてもMDディスクにしてもMP3にしても全てデジタル音声である。
 
■ 標本化(デジタイズ)の基本要素 - 発振
デジタル化する場合に問題になるのが、どのくらい細かく細切れにするかということである。音楽の場合には1秒間にどれだけ細かく標本化できるかということが原音に忠実にデジタル化する目安となる。CDでは1秒間に44.1KHzでサンプリングしている。従って、44,100Hzの正確な基準信号に従って音を刻んで行かなければならない。こうした正確な基準信号(発振信号、パルス信号)の発見と発明が今日のデジタルの世界を確固なものとした。デジタルに限らずアナログでも基準信号という考え方は至る所にある。例えば、無線はテレビ、ラジオなどは基準の発信信号を用いて電波を送受信している。時計においてもアナログデジタル問わず基準信号というものがある。基準信号は安定した振動をする特性を持っていなくてはならない。
 
【水晶】
▼ピェール・キュリー
デジタルの時代になって、精度の良いクロックを電気的に作る関係上脚光を浴びて来たのが石英の結晶(水晶 = クォーツ)である。
水晶片に電気的な振動挙動があることを発見したのはフランスの物理学者ピエール・キュリー(Pierre Curie、1859-1906。ラジウムの発見者であるキュリー夫人の旦那)である。
1880年、ピエール・キュリーは石英の結晶である水晶を押しつぶしたとき電気が流れることを発見した。逆に水晶を引き延ばすと逆方向に電気が流れた。また、水晶に電気を流してやると力を受けたように水晶がぎゅっと縮むことを発見した。さらに、水晶に電気を急激に流したり通電を止めたりすると規則正しく膨張と収縮することを突き止めた。当時この物理的振動が速い現象であったので超音波を発生するのに使われた。この現象を物理的な言葉で言うと、圧力によって電気が流れる圧電現象もしくはピエゾ電気(piezoelectricity、ピエゾは圧力の意味)と言っている。圧電素子には水晶の他に圧電セラミクス(PZT:チタン酸ジルコン酸鉛)などが有名である。ちなみにピエール・キュリーは、現在のMOやCDで恩恵を与っている磁性体のキュリー点(磁性体を加熱するとある温度で磁性が急速に減少する現象)を突き止めた人としても有名である。MOやCDは彼の原理を応用して半導体レーザを磁性体に照射しレーザの熱で磁性変化を与えて記録を行っている。
 
▼発振子 -(標準化の項の「時計」を参照)
発振子には水晶の他にどのようなものがあるのであろうか。時を刻むのに必要なこの発振子を思いつくまま上げてみると、ゼンマイ・テンプ発振子、振り子、音叉、LC、セラミック圧電素子、水晶発振子などが思い浮かぶ。
 
▼ゼンマイ・テンプ
ゼンマイ・テンプによる発振は腕時計で有名な方式である。機械的な加工精度で発振精度が大きく左右される。現在腕時計では「クロノメータ」というジャンルで全機械式の時計が今だ作られている。振り子方式の発振は地球の重力加速度(G)と振り子の長さで周期が決まり時を刻むのには簡便であった。振り子の長さが温度によって変わるので精密なクロックとしては不向きであった。音叉発振子は音叉による共振原理を応用している。音響発振なので音は温度に依存する。また高周波には対応できない短所がある。精度は99.9977%まで高められるそうである。この値は正確そうであるが、1日24時間(86,400秒)では1.987秒となり、1日に2秒の誤差を覚悟しなければならない。
 
▼LC発振回路
電気的な共振回路としてコイル(L)とコンデンサー(C)を組み合わせた発振回路がある。比較的高い周波数の発振が可能であったので無線装置の発振回路に利用された。この回路はLやCなど精度のよい値が得にくいため発振精度は3%前後と音叉発振子よりも悪い反面、100MHz程度の発振が簡単な構成で得られた。セラミック圧電素子は水晶ほどの精度を要求しない発振素子として利用される。価格も安い。精度は0.5%程度。水晶発振子は0.001%の精度を持つ。
 
▼発振誤差
精度の高いはずの水晶発振子でも誤差は出る。誤差の主な要因は温度と結晶中の不純物および結晶片のカッティングだそうである。精度の高い水晶発振子は水晶片の厳選から始まると言われる。不純物が混ざっているものやカットサイズがばらついているものは選定から外される。この選定に合格した素子はさらにエージングと呼ばれる馴らし工程に入る。通常この馴らし期間は1ヶ月から3ヶ月かけて行われる。この馴らしをへて水晶発振子は「枯れて」安定する。さらに温度補正回路を加えて水晶発振子の完成を見る。最高級の水晶発振時計は原子時計につぐ正確さと言われ、年に1、2秒の誤差と言われている。
 
▼発振周波数
クォーツウォッチに使われる水晶の振動数はほとんどのメーカーが32,768Hzを採用している。これは15ビットパルス(215 = 32,768)分解能で1秒をカウントするためである。従ってクォーツウォッチの時間分解能は1/32,768 = 31.518 usとなる。もちろん水晶はこれよりも高い発振周波数を得ることが可能で高周波数の方が精度が良くなる。しかし、高周波発振は高い電圧を必要とし分周回路も複雑となる。SEIKOが最初のクォーツウォッチ「アストロン」を開発したときの水晶発振は8,192Hz(13ビット分解能)であった。開発担当者はもっと高い周波数がほしかったそうであるが当時の技術で許される最大の振動数がこれであったと言われている。
 
 
 
■ アナログ時計とデジタル時計 (最先端の宇宙開発に採用されたアナログ時計) (2001.05.12記)
 
▼宇宙計画が採用したアナログ時計
面白い事実がある。アポロ計画(米国が国威をかけて推進させた人類を月に送るという宇宙開発計画)でアメリカ航空宇宙局が採用した公式時計は、機械式の手巻き時計であった。
1969年7月20日、人類史上初めての有人宇宙船が月面に着陸したとき、アームストロング船長はじめコリンズ、オルドリン宇宙飛行士の腕に巻かれた時計は、スイスOMEGA(オメガ)社の作った手動巻きゼンマイ機械式「スピードマスター」であった。
この宇宙飛行用として公認された時計は、クォーツ式でもなければ当時注目を集めていた音叉発振時計でもなかった。
クォーツ時計は電池を使用し長い年月にわたり高温や低温にさらされると電池の性能が低下したり機能しなくなる。
手でゼンマイを巻く機械式時計は精度はクォーツよりも劣るものの宇宙で想定されるさまざまな環境への対応力が大きかった。
また自動巻は重力を利用して内蔵された振り子でゼンマイを巻く方式であるが無重力では機能しないため確実な手動巻きが選定された。
 
▼オメガ社スピードマスター
NASAが宇宙飛行士が着用する腕時計の選考に入ったのは1962年と言われている。
オメガ社のスピードマスターは、1957年(昭和32年)スポーツ用時計として生まれた。
手巻き、30分計、12時間計、タキメータ付きクロノグラフであった。
1962年、NASAが宇宙飛行士用の時計を選定するために町の時計店から買い集めた10種の時計の中で、このスピードマスターだけが数々の過酷な認定試験にパスした。
この時計は以来NASAの公式時計として採用され、1989年にはソ連宇宙飛行士の標準時計ともなった。
 
▼NASAの環境試験
 NASAが行った過酷な認定テストは以下の通りである。
 
・70℃の室温で48時間(2日間)
・93℃で30分
・氷点下18℃で48時間(2日間)
・相対湿度95%で連続240時間(10日間)
・衝撃6方向から40G
・5Hzから2,000Hzの振動
・333秒間に1Gから7.25Gまでの加速度
・上記の条件を加えた後でも24時間で5秒以内の精度
 
オメガのスピードマスターは、精巧なムーブメントに加えそれを保護する三重密閉構造のケース、竜頭やプッシュボタン部分の特殊パッキン、ケース裏側の「O」リング、風防ガラス内側の鋼鉄製リングによってしっかりと内部を保護し上記の過酷な試験をパスした。
オメガ社は、この他Seamaster(シーマスター)と呼ばれるダイバーズ・ウォッチも開発している。
この時計は、3重密閉構造を採用し数々の歴史を残している。
1970年にはフランスの深海探査会社コメックスが海底探査用に採用、非公認ながらアメリカ海軍の特殊部隊が採用していたという記録も残っているという。
この他にも、1927年ドーバー海峡を遠泳横断したイギリス女性メルセデス・グラインツの腕に巻かれたロレックス・オイスターは完全防水の名声を得ることになったり、スプリット・オブ・セントルイス号で単独大西洋無断着陸横断飛行(1927年)を行ったリンドバークの提案によりロンジン社が1931年にナビゲーション時計を作ったりしている。 
 
▼耐環境デジタル時計
こうした高級アナログ時計に対して、耐環境デジタル時計も出回りはじめている。
デジタルならではの多機能さも加わって独自の地位を占めるにいたっている。
私は1980年当時からデジタル時計を愛用している。
デジタル時計を使い始めた当初はとまどいもあって使いづらかったが、慣れるに従いデジタル時計でないと事足りなくなっている。
電池は3-4年に1回程度の割合で取り替える。
デジタル時計は高価なものがなく、安いもので2,000 - 3,000円から高いものでも60,000円がせいぜいである。
それで月差2秒程度、時刻合わせもワンタッチ、日付機能、アラーム機能、ストップウォッチ機能が備わっている。
液晶デジタル時計は品がないと言われればそれまであるが、計測関係の仕事をし余暇に自転車に乗っていたりするとデジタル時計はなんとも都合の良いものである。
ここ数年はCasioの"G-Shock"と呼ばれる時計を愛用している。
G-Shockと言うとウレタンゴムで被われた時計を想像しがちであるが、私のものはチタン合金で被われて且つ耐Gのある"MR-G"と呼ばれる時計である。(この時計は2015年8月時点も使っているこの時点で18年間の使用になる。)
 
■ デジタルの数値処理
デジタルは、人間の思考過程から産み出されたものである。
もっと直裁に言えば、コンピュータの発達(もっと源流をたどればシリコントランジスタの発達)によって出来上がった産物である。
コンピュータの記憶は、「0」と「1」が組み合わさった符号である。
記憶どころか計算でさえもこの「0」と「1」で行っている。
コンピュータは電気的なスイッチを利用して全ての処理がなされるため、コンピュータの世界は「0」と「1」の2進法が基本となっている。
コンピュータの回路は「ON」か「OFF」かの二つしかない。
そうした論理回路(スイッチング回路)が膨大な「0」と「1」の電気的なスイッチを経て(例えば、1秒間に4億回の間隔[ = 400MHz]で2の32乗数値[ = 32ビット処理]、つまり430億という10桁の数値処理を行って)演算、判断、制御などを行っている。
自然界の情報をコンピュータで処理しようとするためにすべてこのような「0」と「1」に置き換えられるようになった。
これがデジタルの始まりである。
しかしコンピュータの中でデジタル化され処理されたデータは再び人間が判断できるように自然な情報に戻さなければならない。
人間の判断が存在する限り、01001011のような無機質なデータは受け付けがたい。
従って、
 
  自然の量(アナログ量)→コンピュータ処理(デジタル量)→人間の認識(アナログ量)
 
というアナログ量からデジタル、そしてまたアナログ量に変換するという流れができる。
この変換をAD変換(Analog to Digital Transfer)、DA変換(Digital to Analog Transfer)と言っている。
音声も電話回線もテレビもコンピュータの高性能化と小型化によってどんどんデジタル化されている。
 
  なぜ?
 
デジタル化した方がコンピュータを使う機器にとって便利だからである。
なぜ便利か?
そのことについて述べることにする。
 
■ なぜ「0」と「1」の記録が安定しているのか。 - デジタル記録とアナログ記録
アナログ情報量とデジタル情報量について述べる。
アナログ量というのはデジタル量の対語としてできた言葉である。
従ってコンピュータが作る量をデジタル量といい、それ以前の量をアナログ量という。
これを画像について話を進めると、一般的に人によるスケッチや絵画、35mm巾のフィルムを使ったカメラ画像、VHSテープによるビデオ画像などはアナログ画像と呼ぶ。
これらの量の特徴は、画像の濃淡を連続的な変化量として記録していることである。
したがって、コピーをするにも元画像と完全同一なものを得ることが難しく、保管する間にも画像品質が経年変化してしまう。
スケッチは筆記具の筆圧、濃淡、色などによって記録されるもので人が描く限り一つとして同じものができない。
フィルム画像は銀塩粒子が光の強さに反応し黒色銀として現像、定着されるものである。
フィルム像も完全に同じ像を作るのは難しく、使用するフィルムの製造、保管、現像条件の厳しい管理をしなければ良質の複製画像を得ることができない。
VHSテープによる映像記録もテープ面に記録された磁気量を磁気ヘッドによって拾い上げ電気信号に変換している。テープの走行安定性、テープの磁気量保存能力、磁気ヘッドの性能によって再生画像の品質が大きく変わる。
 
デジタル画像は、こうしたアナログ情報を永遠に固定してしまい、何度コピーしても元の情報を損なうことがないという魔法のような能力をもっている。
デジタル画像の代表的なものは、デジタルスキャナーで取り込んだ画像データや、最近よく使われるデジタルカメラの画像データ、ビデオカメラからの映像を画像ボードを介してコンピュータに接続して取り込む画像などである。
デジタル画像はコピーしてもなぜ情報に変化がないのかというと、デジタル画像の情報が「0」と「1」の二つしかない取り得ないからである。
さらに、その「0」と「1」の情報を電気的に記録する場合は、「0」の情報が0V〜0.8Vまでの電圧、「1」の情報が2.7V〜5Vという具合になっていて、情報を記録する場合に少々電圧に変動があってもしっかりと「0」と「1」の情報を伝えることができるためである。
アナログ情報の場合、例えばビデオ信号は、0.3V〜1.0V間の電圧が明るさになる。0.7Vの間に黒から白までの情報を入れるのである。0.1Vの電気的なノイズが入っても画像が大幅に変わってしまう。
かたやデジタル記録では0.1V程度の変動でも情報に影響を与えることは全くない。
 
■ なぜデジタルなのか?
デジタル画像が発達した理由はコンピュータの発達に負うところが大きい。
逆説的に言えばコンピュータはデジタル画像しか扱えないのである。
一昔前のコンピュータは今に比べれば格段に能力が劣り、画像を記録するにも再生するにも大変な時間がかかっていた。
したがって米国のNASA(航空宇宙局)とか政府の大きな研究所のような高性能のコンピュータを所有する機関以外ではデジタル画像を扱うことはできなかった。
コンピュータが発達し、コンピュータデータを保存する媒体のコストが飛躍的に安価になり、画像データも共通データ化(共通画像フォーマット化)が進みデジタル化が一般家庭にまで及んだ。
こうしてデジタル画像の優位性がクローズアップされることになる。
デジタル画像の恩恵は以下で述べる。
ただ、デジタルはすべてにおいて万能ではない。
デジタル化の最も大事なことはアナログデータを必要にして十分なデジタルデータに数値化することである。
 
■デジタル記録 - 処理の基本的な考え方
自然界に存在するアナログ量をデジタルする考え方を述べる。
デジタル化の一番の根本は、量子化である。
アナログ量をどれだけ細分化して「0」と「1」に分けるかという考え方である。
量子化はサンプリング(標本化)とも言われている。
引き合いに出している画像について量子化するパラメータとしては以下のようなものが上げられる。
 
 1. 空間を量子化する度合い - 画素
 2. 濃度を量子化する度合い - 8ビット、10ビット濃度
 3. 時間を量子化する度合い - サンプリング周波数(撮影速度、コマ/秒)
 4. 情報を多重化する度合い - 複数データの統合処理。
 
がある。
 
■ 連続量を区分化し数値化する
連続量を区分化する手法は、数学の微分・積分の考え方を取り入れている。
ただし取り入れたのは微分・積分手法の一歩手前の手法である区分求積法で、この方法のうち有限的な量子化手法を採用し無限数を範疇に入れてきれいな連続関数とするまでにはコンピュータに求めなかった。
ゴツゴツした量子化でも「良し」と見切るやり方にすごみがある。
つまりこのことは、デジタル画像は慎重にサンプリングをしないければ、必要にして且つ十分な十分な情報を提供するものにはならないことを我々に示唆している。
 
       
 量子化によって得られるデジタル画像の違い
左:360ドット/インチ、右:50ドット/インチ(拡大表示)
 
■ 区分積分法
数学の教科書をひもとくと、連続した変位の面積の総合計を求めていく場合、連続量を細かく細分化して一つ一つを独立した量と見なしそれを寄せ集めて合計するというやりかたが紹介されている。
ある連続量があったとして、これを連続関数によって瞬時に算出するのではなく、区分に分けて既知の簡単な数式で数量を求め積算するやり方が区分求積法である
 
以下で、よく知られた円の面積について区分求積法をおさらいしてみよう。
目的は円の面積を求めることである。
円の面積を求める一つの足がかりとして円に内接する正多角形を考える。
右の図の左では正六角形で円を近似させている。内接した正多角形は多角形分だけの二等辺三角形に分解できることから、その二等辺三角形の面積を求め、それを n 倍してやれば円に内接した正多角形のすべての面積が得られる。
そしてこの多角形の数 "n" を限りなく多くしてやることで面の面積に近づけることができる。
最終的には面積を求める式の中の変数項である
 
   sin (2π/n)
 
が限りなく小さくなるのでn = ∞ においてこの項は単なる2π/nとする事ができ、
 
   πR 2
 
に収れんする。これは円の面積で知られた公式である。
 
数学の偉大なところは、n → ∞ として普遍的な公式を導き出せることであるが、コンピュータはある限度の数値、例えばここではn = 10 5 程度として、これを十分に真なる値とみなさなければならない所である。
これがデジタル(サンプリング)のジレンマである。
このサンプリングを細かくすれば限りなく真の値に近づいていくのであるがコンピュータの処理能力、データ量の大きさの関係上限界がある。
 
断っておくが、数学的な公式がわかったものに対しコンピュータにその公式を代入して計算させることは可能である。
この項では量子化の考え方を紹介したにすぎない。
ただ、数値を入れる場合、人は単にR = 5として入れるが、コンピュータはその「5」がどのくらいの精度で(5.0だけなのか、5.000000000なのか)入力されたのかをいつもチェックして入力数値としている(FORTRAN言語はこの数値の規定が実に厳格であった。
今は初期値が決められていて特に指定しない限り定義の必要はない。
その数値が何回も計算するものであるならば数値の精度を高めた設定にしておかないと誤差が出てくる)。
 
こうして一度決定してしまった量子化(デジタイズ化)データは二度とそれ以上の詳細なデータを取り出すことはできなくなる。
我々が画像を取り込む時、アナログの画像をどれだけの解像力と濃度で、そしてどれだけの時間サンプリングで取り込めば必要にして且つ十分な情報を得ることができるかを慎重に決めなければならない理由がここにある。
 
但し、デジタル化したデータが連続量として認められたものであるならば、ゴツゴツした量子化データを補間してなめらかなデータ量に直すことができる。
こうした補間処理によってデジタルデータをよりなめらかなデータにする手法もよく使われている。
 
こうして出来上がったデジタル画像は、どれだけコピーしてもアナログ記録(テープレコーダ、銀塩写真)のように劣化することがない。ただ、下記に述べる画像フォーマットの中のいくつかは圧縮によるデジタル保存時、デジタルデータと言えども元のデジタル画像よりも画質が劣化してしまうので注意が必要である。
 
■ デジタルの長所、短所
これまでに長々とデジタルについて述べたが、デジタルの考えは極めて見極めの良い考え方で単調な作業である。
コンピュータでなければとても行えない作業である。
適切な量子化のもとでデジタル化されたデータは品質の劣化がなく、何度コピーしても品質は同じである。
 
最後にデジタルの長所、短所をまとめておく。
 
【長所】
 ・コピーによる品質の劣化無し
 ・データ通信に便利
 ・編集、加工が容易
 ・互換フォーマットによるデータの共通化が可能
【短所】
 ・量子化(デジタイズ)によっては品質が劣化
 ・データ量が多い
 
 
 
 
●標準化(2001.01.29)(2004.08.26追記)(2013.02.11修正)
 
【世界と規格 - 利権と利便】
人の交流が大きくなると世界がどんどん小さくなっていく。
世界が変わる度に使われる言語や量の単位が統一化され、種々雑多な悲劇をまき散らしながら新しい体制が古い価値観を飲み込んで行く。
規則が世界をうまく飲み込めれば統一になり、飲み込めなければ混沌とした世界になる。
 近年、インターネットやマスメディアの発達に伴って世界が急速に狭くなった。
 
そんな世界に生きながら「標準化」というものを考えた。
 
お互いが共通の足場で理解し疎通を図るには相手の言っていることが理解できなければならないし、支障なく物事を伝達できなければならない。
しかしながら、その共通の足場を構築することそのものが当事者にとっては人生を賭けた戦いになっている。
パソコンは、新しい世界だけに一つ一つの取り決めが未知なものである。
5年前に決められた規格が古くなってしまい捨て去られてしまうことがこの世界の日常なのである。
マイクロソフト社はパソコンのOSの機軸を作ったために莫大な利権が入り空前絶後の成長を遂げたのは衆目のよく知るところであろう。
インターネットやマスメディアで決められてきた標準化について思いつくものを上げてみる。
 
クロック、ビット、TTL、C-MOS、電源電圧、VGA、SVGA、NTSC、PAL、テレビチャンネル、ハイビジョン、MS-DOS、Windows、UNIX、TCP/IP、HTML、BASIC、フォートラン、Java、C言語、ASCII、RS232、イーサネット、セントロニクス、GP-IB、SCSI、MO、DVD、VHS、Cマウントレンズ、PCIバス、ISAバス、8インチフロッピーディスク、3.5インチFDD、iOS、Andoroid
 
こうしたキマリはすんなりと出来上がったものではない。
新しいキマリができればそれに対抗してきたキマリや、今までにあった規格が排除されることを意味している。
新しいキマリが採用されればそれを推進したグループに莫大な利権が転がり込む。
決められた世界に新しく入る者は整地された環境で快適に生活することができる。
ちょうど蛇口を捻ると水が出るようにそれがあたかも普通のことのように受け止める。
しかし二つのキマリが対立している中に置かれた使用者は、どちらか一方を選択しなければならず、勝者になるまで苦楽を共にしなければならない。
利権と利便を求める標準化の道は多くの犠牲を払い、時には国と国の争いまで引き起こしてきた。
 
 
【メートルとインチ】
■ メートル法 (2004.02.04改)
メートルという長さの単位は、フランスで考案され公布され全世界に広まった。
meterはフランス語で基準となる長さという意味で、ギリシャ語から由来している。
ギリシャ語では測定という意味でmeterが使われている。
メートルの標準化にあたって多くの犠牲と時間が伴ったことは言うまでもない。
メートルが最初に採用されたのは今から210年ほど前の1793年、フランス共和国であった。
日本の江戸中期にあたる。
メートルの単位の決め方は、実にユニークで科学的なものであった。
日本の尺貫法の尺やイギリス、アメリカのインチ・フィートに見られるような、つまり、単位の決め方が人の手のひらを広げたサイズであったり、親指の巾や足のかかとからつま先までの長さ、というような人間の尺度から来ているのとは違って、メートルは随分と論理的で科学的なものであった。
 
メートル:メートルの最初の原型は、1790年にタレーランが1秒で振り子が1振幅する長さを1つの尺度とすべきだとフランス国民議会に提案したことに始まる(1mの長さを持つ振り子の周期は2秒となる)。
この提案を基に地球の子午線の4分の1を正確に測量してメートルの単位を制定しようとした。
実際には、パリを通過する子午線の赤道から北極までの長さの1000万分の1とする取り決めを行い(ということは地球の全周は4000万メートル、つまり40,000Kmということになる)、ダンケルクとバルセロナ間の実測測量に基づいて距離を算出して最初の原器が作られた。
当時、バルセロナはスペイン領でありフランスとの関係は極めて劣悪で測量に5年の月日を費やしたと言われている。
制定と測量に際して、フランス政府はイギリスとアメリカに協力を呼びかけたが、両国ともこれを拒否している。
当時、アメリカは独立して間もない国で、それどころではなかったのかもしれない。
イギリスとフランスはあまり仲がよくなかった。
ドイツは、小さな国家に別れていて大きな力とはなっていなかった。
こうしてできたメートル法であったが、フランスの呼びかけにどの国も手を挙げず、結局フランス単独で制定を行わざるを得なかった。
メートル原器は、1799年に一応の完成を見てフランス共和国で保管されることになったが、世界の日の目を見るまでに長い月日が経っている。
メートル原器が完成して70年経過した1870年、ナポレオン3世が国際会議を招集して24ヶ国270名を集め国際標準化の道を歩み出すことになる。
ここに至るまでに1793年の発案から80年の月日が経っていた。
1875年にはメートル条約が成立し、1889年、国際メートル原器と国際キログラム原器が作られた。
現在のメートルの定義は、メートル原器を廃して、光を利用してより精密にメートルの単位を定義している。
1960年には、クリプトン86という元素が発するオレンジの光の波長の1,650,763.73倍と定義され、1983年には光が299,792,458分の1秒に進む長さと変更された。
長さの基準は、メートル原器から定義が変わって行ったが、重さに関しては、1889年以後100年以上も変わらずに国際キログラムが唯一絶対の基準となっている。近年国際キログラム原器を見直そうという動きが高まっている。(重さの項参照)
 
メートル法の大きな特徴は、科学的で且つ論理的であったことである。メートル法は十進法を採用していて全て10進法のスケーリングで長さの比較、加算乗除ができた。そして3桁毎にキロ、メガ、ミリ、マイクロと接頭語が用意されていて言い表しやすかった。また、長さを単位として、10cm立法を1リットルとする容積を作り、その容積の水の重さを1Kgとして(1cm立法の水の重さを1gとして)いろいろな単位(ユニット)を組み上げていったことも特筆される。こうした理にかなった単位の表現が科学技術に受け入れられて、物理学ではこの単位が標準となっていく。1864年に、イギリスの物理学者が集まって電気抵抗の単位を制定した際、「CGS単位系」を基準とした。Cは長さの単位でセンチメートル、Gは重さの単位でグラム、Sは時間の単位で秒である。ヤード・ポンドが日常で使われていたイギリスにあって電気をはじめとした物理学ではメートルの世界が一般になって行ったのである。
メートル法は、1960年の国際単位系(SI = Systeme International d' Unites [これはフランス語であるがフランス語のフォントが適用できないので英語に置き換えた。正確には別の文献を参照されたい])の取り決めに際して、SI単位系の土台となった。メートル法の表記で末端部で整合性がとれない部分が生じ全面的に見直したのがSI単位系である。国際単位系(SI)では、7つの基本単位と2つの補助単位、19の組み立て単位に分類された。日本でも1972年の計量法の改訂に伴いSI単位系の導入を決定している。
 
▼ 基本単位
1. 長さ: メートル (m)
2. 質量: キログラム(Kg)
3. 時間: 秒(s)
4. 電流: アンペア(A)
5. 熱力学温度: ケルビン(K)
6. 物質量: モル(mol)
7. 光度: カンデラ(cd)
【補助単位】
9. 平面角: ラジアン(rad)
10. 立体角: ステラジアン(sr)
 
 
■ 尺貫法
日本がメートル条約に加盟するのは1885年である。フランス主宰による国際会議が招集されてメートルがスタートしてから15年が経過している。当時の日本は、明治政府がやっと軌道に乗りだした頃で、江戸時代に完成を見た尺貫法を廃止してメートルを国の基本尺度とするという方針を出したことは大決断であったろうと想像する。しかし、内情は世界の仲間入りのためにメートル法を表向き受け入れはするものの、本音は尺貫法を容認するというのが本当の所であった感じを受ける。尺貫法は昭和の初期頃でもまだ厳然と強い力を持っていてメートル法が完全に定着するのは昭和30年代に入ってからではなかったかと思う。
 
▼ 教育と生活の中の尺貫法
明治以降殖産興業で諸外国の機械や物資が輸入され、それを真似ながらそれらを国産化していた時代は尺貫法の基準とメートル法の基準、ヤード・ポンド(それもイギリスとアメリカ)の基準が混ざり合った時代であったろう。住宅や生活物資の量、重さの基準は古来の尺貫法が使われ、機械製品はイギリスやアメリカからヤード・ポンド規格で作られた機械加工装置(旋盤、フライス盤、中ぐり盤)が輸入されたためインチ・フィートで作られた工業製品がまかり通っていた。
太平洋戦争後教育制度が根本的に見直され学校の授業ではもはや尺貫法は使われなくなった。私が通った小学校の算数と理科の教科書に尺貫法の記述はなかった。だから私は尺貫法はよくわからない。私の身長も体重もメートル・キログラムで測定されたし記帳もされた。しかし、祖父母はメートル法がまったくわからず、私の体重や身長を尺貫でしか理解できなかった。祖父は体が小さく日露戦争当時の徴兵検査で甲種合格とならなかった。そのことに対し彼は相当堪えていたのか、中学になって成長期を向かえた私に「5尺の上背(うわぜい)になったか?」とよく聞いた。5尺はメートルで言うと152cmである。明治の時代、152cmの身長があることが屈強の若者の基準であり甲種合格なのであった。中学校当時、私は祖父母のために身長と体重、それに容積を伝えるのに絶えず頭のなかでメートル単位を尺貫に変換して答えていた。私が過ごした家には1升、1合の升(ます)があったし、匁、貫を計る分銅付きの天秤棒もあった。祖父は大工をしていて、彼が使う尺がね(さしがね)は尺寸表記のものであった。田畑の広さを表すときはメートル単位ではまったくコミュニケーションがとれず、坪(つぼ)、反(たん)、畝(せ)、町歩(ちょうぶ)で言い表して大きさや広さの比較、規模を表現していた。この世界は尺貫法は強かった。我々も実際の所、ヘクタール(ha)やアール(a)が現実味を持った値ではなかったので日常的に使うことはなかった。しかし祖父母に取ってみれば新しい原野の開拓や敷地を広くして家を建てることが日常の大きな関心事で生きる糧でもあったから、反とか町歩、坪に対する感覚は我々中学生などとは根本的に言葉の重みが違った。
 
▼ 建物の尺貫法
生活空間を支配する単位として尺貫法は都合が良いと昭和の中期に育った私でさえ思うことがある。坪というのは本来歩(ぶ)とおなじ単位であったようで、6尺平方の広さを言う。6尺というのは1間(けん)で言い表される。1間という長さが日本の家屋の単位(ユニット)で扉の大きさがこの1間である。つまり1坪は扉2枚分(畳2枚分)の大きさなのである。1間は、人が二歩あるく長さがちょうど6尺であったことからこれを1間としたと言われている。歩数の間隔が3尺(90cm)というのは広い感じがするが中国ではこれが標準であったのだろう。生活空間では1間が一つの基準(ユニット)となって、高さ1.8m(=1間)巾0.9m(=半間)が戸1枚の大きさとなった。従って家屋は1間の高さに鴨居が張り巡らされることになる。私の高校時代友達が実家に遊びに来ることがあり、180cm程度の友人が首を垂れるようにして敷居を跨ぐとき、それを見た祖父は「雲を突くような大男」と形容した。1間のユニットで作った日本古来の家屋は現代の日本人には少し小さいようである。
1間( = 6尺)四方が1坪(36平方尺、3.306平方メートル)となる。畳もちょうど戸と同じ大きさである。つまり畳一枚は1間(=6尺)x半間(=3尺)となって、畳2枚で1坪に相当することになる。従って6畳の部屋は3坪ということになる。坪と間(けん)は日本古来の生活空間になくてならず、明治(はては江戸時代)の人たちにとっては生活に染みついた単位だったのであろう。
について少し触れると、畳が一般の人に普及するのはなんと大正時代になってからであるという。江戸時代には富豪の商人の家や大名や武士階級に普及し、それ以前は貴族の敷く敷物であったという。一般の人達は土間と板敷きの家屋で暮らし、板敷きには藁や茣蓙を引いた程度の暮らしであったらしい。畳は万葉の時代から会ったらしいのだが貴人が使用し、現在のように畳を敷き詰めるのではなく板の間に置いたものだった。その規格もまちまちで幅3尺2寸から4尺、長さ3尺5寸から19尺であったという。これが室町の時代になり板の間に敷き詰める習慣になると規格化を本格的にしなければならい必要上規格が計られた。しかしそれでもいくつかの畳ができたという。建屋の間寸法は統一されていたのでその中に敷き詰める畳もそれに合うようにそれぞれ規格を作って行ったようである。現在は大きく分けて2系列があり、京都方面で使われている6尺6寸x3尺1寸3分の本間表、関東で使われている6尺1寸x3尺1分の58引通表であるという。また、アパートにはもう少し小さい畳が使われていると言う。畳には決定的な規格統制はなされていないようである。
 
▼ 重さの尺貫法
重さの単位の貫(かん)は貨幣の1文(1銭)を1000枚集めて紐で貫き通した重さに相当する。重さの単位ではこの1銭の重さを匁(もんめ)と称した。したがって1貫は1000匁ということになる。これらは貨幣が発達した室町時代に一般的になった。重さの単位の中に貫(かん)と匁(もんめ)の単位の間に斤(きん)という単位がある。1斤は160匁に相当し600グラムであった。この1斤が6つ程度集まると1貫になった。斤(きん)というのは中国から伝わった重さの単位である。重さのことを目(め)とも呼んでいて斤のことを唐目とも呼んでいたらしい。しかし斤(きん)はおおよその目安で言い表される単位だったようで絶対的な重さの単位とはならなかった。使われる場所で斤と呼ぶ重さの単位は随分と変化した。例えば薬屋が使った大和目は180匁、山椒用は60匁、お茶は200匁が1斤であった。
我々がよく耳にする斤(きん)の呼称はパンの量を表すのに使っている。しかしこのパンの1斤(きん)は、イギリスのポンド(1ポンド= 450グラム)の重さを言い換えて使ったもので120匁( = 450グラム)のことである。この英斤は明治以降日本に定着し、1斤と言えば1ポンドの意味になった。この1斤は頃合いのよい重さなので肉やバターを買うときもこの斤を量単位として両親や祖父母がこの単位で食料品を買っていた記憶が子供心にあった。
ちなみに足の長さを表す文(もん)は貨幣の1文の直径からきており、この1文銭を並べて長さを表していた。この場合は1文が長さの8分(約2.4cm)に相当した。江戸時代に流通していた寛永通宝銭はほぼ規格が統一されていて、この貨幣は物(長さと重さ)の基準にされたようである。寛永通宝銭は重さは一匁、大きさは直径8分であった。
 
 
【尺貫法の源流 中国】
日本の尺貫法の源流は中国に求めることができる。中国文明が進んで紀元前4000年頃から物を測る基準があったという。中国の長さの求め方は、かなりユニークで科学的だった。中国では長さの基準に黄鐘調(おうしきちょう)という笛を使った。この笛を使って笛の管の中にクロキビの粒を90粒ならべその一つを分(ぶん)と呼び10分を1寸、10寸を1尺、10尺を1丈、10丈を1引と10進数で決めた。
長さを決めるのになぜ黄鐘調(おうしきちょう)という笛を使ったのかというと笛の基準音は音の波長であるため長さが一定でこれを長さの単位として求めることがたやすい点が上げられる。
 また、この笛の中に1200粒のクロキビを入れその体積と同じ水を龠(やく)と称し、その2倍を1合、10合を1升、10升を1斗、10斗を斛(こく)とした。クロキビ1200粒の重さを12銖(しゅ)、その2倍を1両、16両を1斤、30斤を鈞(きん)、4鈞を1石(こく)とした。
黄鐘調(おうしきちょう)を長さの基準にしたことは客観的で精度のよいものとなったが、時代の権力者の趣味により音律の好みに多少の違いがあって黄鐘調(おうしきちょう)の長さが変化した。武帝の時(265-290)にこの長さに見直しが行われ、中国の最も権威ある長さの標準ができた。
日本では、文武天皇(701)の時代に唐の制度を見習って大宝令に度量衡の単位が公に定められ標準の原器を全国に配布した。それまでは渡来人が持ち込んだそれぞれの尺度が使われていた。大宝令では長さの単位の尺も小尺(曲尺で8寸8厘)と大尺(9寸7分)の二通りを決めなければならないほどたくさん出回り、とくにこの2つの尺度が普及していたことがわかる。
 
▼ 貨幣と重さ
英国の貨幣の単位であるポンドは銀の重さ1ポンドから来ている単位であるという。日本古来の貨幣の単位である「両」も重さから由来している。「両」はもともとは重さの単位としてあったものであるが、貫、斤、匁、分、厘が一般的になって、両、朱(銖)は、貨幣の単位で使われるようになった。「両」とはもともと両天秤にかけるという意味があるそうで、同じ形の物が対称的に左右に並んだ形でこれから「二つ」の意味になったと言われている。江戸時代は、寛永通宝銭という確立した貨幣と規格が出来上がったが価値のある金や銀は時代時代でいろいろ混ぜ物にされて価値が一定ではなかった。金貨は重さで交換されるとは言っても時代時代でまちまちであったので貨幣を正しく判断し交換できる「両替商」ができた。これらの集団が貨幣市場を形成するようになる。江戸時代の両替商は今の金融機関である。彼らが商売をする上で重さを正確に計る天秤と分銅は欠かせない道具であった。分銅は当時繭形をしていて、この繭形の分銅が両替屋のトレードマーク(看板)となった。現在の地図記号にある銀行のマークは、この分銅の形に由来している。
 
■ ヤード・ポンド法
量というは身体や身のまわりのサイズから出発して、いろいろな量単位ができてきたことがわかる。そしてその単位量が多くなると別の単位にして換算した。そのステップが6つであったり12であったり4つであったりまちまちであった。その点、メートル法というのは10進数を採用して1000になると指数単位が変わる(キロ、メガ、ギガ、ミリ、マイクロ、ピコ、ナノ)換算になっていて随分と画期的なシステムであった。こういうロジカルなシステムを編み出す能力はフランスは実に長けている。芸術の国と言われながらも優秀な数学者を出している不思議な国である。
度量衡(どりょうこう)の単位がメートル単位系を基にしたSI(ISO)で統一されつつある中で、ヤード・ポンドはアメリカが依然として採用している標準である。ややもするとヤード・ポンドが標準ではないかしらと思うくらいに衰えを見せない。ヤード・ポンドを作った本家イギリスはここ20年の間に暫時メートルに変えてきて最近では道路標識もマイルからキロメートルに変わり、ガソリンもガロンからリットルに変わって来ている[ただしイギリスのパブで飲むビールは厳然とパイント( = 568ミリリットル)が使われている]。
ちなみに、ヤード・ポンド法は大英帝国時代のものである。そのため、ヤード・ポンド法は、Imperial Unit(大英帝国の単位) とも呼ばれている。 その名残として今も、特に米国では、British commonwealth として残っている。 現在、commonwealth の参加国は67カ国あるそうである。アメリカでは1992年より、イギリスでは1995年よりofficialにはSI 単位を使うように定められたが、日常生活を縛るまでには至っていない。そのイギリスでは、日常の単位として miles, yards, feet, inches, pints, acres, troy ounces をあげている。しかし、ポンド、オンスなどは1999年12月31日以後は使わない、としているそうである。2001年4月10日朝日夕刊には、英国北部で、 バナナ1ポンドを売った青果店主に罰金2000ポンド(約36万円)を 払うよう命じる判決が出され、イギリスのメートル法への移行が本気であることを伺わせている。これにより2つのポンド(重さのポンドとお金のポンド) の区別はなくなりポンドと言えば通貨の単位だけとなった。
 
▼ 貨幣の「ポンド」
イギリスの貨幣には「ポンド(£)」が使われている。重さもポンド、貨幣もポンドで頭の中が混乱する。貨幣の「ポンド」のことを特にスターリング・ポンドと称している。重さのポンドはLbであり、貨幣は£を記号単位として使っている。貨幣のポンドは、実は「銀」の重さの1ポンドからきたものである。銀は昔から高価なものであった。中世ヨーロッパでは金よりも銀の方が価値があった時代があったと言われている。もちろん日本も明治になって開国を迎えるまで銀と金との相対価値は銀の方が高かった。今でこそ貨幣は「金」を根本として一元化した金本位制をとっているが、昔は、金と銀のそれぞれ独立した複本位制であったと言われている。イギリスではその銀1ポンドを240当分にわけ240枚の銀貨を作った。その一枚が1ペニー銀貨であった。(ペニー銀貨12枚が集まってシリングという銀貨も作られ20シリングで1ポンドの時代があった。ちなみに1ポンド = 4クラウン、1クラウン = 5シリング = 60ペンスという貨幣単位もできたり、ハーフクラウンという貨幣も、1ギニー = 21ペンスという単位も使われていた。)その後イギリスは1813年に金本位制をとるようになったが「ポンド」という名前だけは残った。
現在イギリスの貨幣はポンド(£)とペンス(P)の二つだけを通貨として認め、他のシリングや、クラウン、ギニー通貨は廃止された。ちなみに、1ポンド=100ペンスとなっている。
貨幣の「ポンド」は、重さがきたものであるが、貨幣のポンドが重さのポンドと等しいかというとそうではない。貨幣のポンドは、「トロイポインド」を採用している。普通のポンドは、7000グレーン(1グレーンは約0.065グラム)であるが、貨幣の1トロイポンドは、5760グレーン(約373.14グラム)、1トロイオンスは、480グレーン(約31.1グラム)である。トロイポンドの起源はよくわかっていないという。トロイは中世フランスの商業都市でそこで流通していた単位が主流を占めていたと考えられる。このトロイポンドは、1527年のヘンリー八世によって制定されたという。その後、この貨幣単位は、貴金属用として国際的に通用し、単にポンドとオンスとして使われるようになっている。
 
▼ 重さの「ポンド」
長さの単位のインチやフートは人間の体の手足の長さから来たものと言われている。歴史上いろいろな長さの基準が出来上がって、それが歴史を経る中で強い国家が単位を規準化していったことは想像に難くない。重さは、古来物を交換する際の大切な目安とされてきた。欧州では穀物の物々交換の際に穀物の単位である「グレーン」が共通の重さの単位であったという。グレーン = grain は、英語では穀物(小麦)を意味し、1粒の小麦を指すことがあり小さな重さの単位になっているようである。
英語圏では、1959年に 1 pound = 453.59237 g と制定した。さらに、1ポンド(lb = pound) = 16オンス(oz = ounce) = 7000グレーン(gr = grain)と取り決めた。
重さの単位である pound は、ラテン語の pondo (重さ、weight) に由来する。 ポンドの記号 lb は、ローマの単位 libra に依っている。英語の貨幣ポンド表記「£」 も libra の L である。 libra はラテン語でバランスとか重さという意味である。 平衡状態を表すのに equilibrium という英語があるが、これは「equi(等しい) + librium(重さ)」の意味となる。また、 天秤座のことをリブラ(libra) と言っている。イタリアの通貨の単位は lira (リラ) で、これも同じ語源である。
オンスの記号 oz は、ラテン語の onza に依っている。ラテン語の uncia(ウンシア) は 1/12 を意味していて、 ounce の語源もこれに依っている。onza = uncia = ounce = inch で、本来は 1 lb = 12 oz であるが、なぜか16 ozとなっている。
 
▼ アメリカが主流のヤード・ポンド
ところが、アメリカに行くとメートル表記を見つけるのが難しいくらい日常生活はヤード・ポンド一色である。ヤード・ポンドは歴史が長いだけに継ぎ接ぎだらけの決まりという感じが強く、統一のとれた単位とは言い難い。
1インチが12集まって1フィートを作り、3フィートになって1ヤードとなる、その1ヤードが22集まって1チェーンとなり、80チェーンが1マイルとなるのである。
ヤードは、アングロサクソンが使用してきた長さの単位であるが、アメリカとイギリスでは同じヤードという単位を使っていても両者に長さの違いがあった。イギリスでは1855年製の青銅製帝国標準ヤードで長さを定義していた。しかし、これはメートル原器と比較していくとだんだん縮んでいることがわかり、1963年に度量衡法を改正して1ヤードを0.9144mと決めた。これに対してアメリカは1893年にメートルを法律上の正規の長さの単位としたとき、ヤードを慣用単位として認め、その大きさを3600/3937 mと定めた。この値は、0.91440183となりイギリスの値と違いが出で無視できなくなった。そこで米国規格協会(ASA)は1933年に0.9144mを採用し一応の統一を見た。
アメリカで生活すると、マイルという距離が頻繁に出てくる。車のスピードメータもマイル表示であるし、プロ野球のピッチャーの投げるスピードもマイル表示である。1マイルは約1.6Kmに相当する。1マイルは、5,280ftに相当する値であるが、換算値としては複雑で腑に落ちない。言葉の語源は、1000複歩を意味するギリシャ語のミリアリウムから来ていて、このミリアがマイルになったそうである。1000複歩が1.6Kmであるから1複歩が1.6mであり、これは2歩に相当するため1歩が80cmとなり、一応納得しやすい長さとなる。1マイルは2000歩(1000複歩)だったのである。フィートが足の長さに由来し、インチが人の親指に由来し、マイルが人の歩幅に由来したのである。また、1マイルが5,280ftと半端な数値にしたのは田畑用のファーロング(furlong)との関係を切りよくさせたいためで、8ファーロングを1マイルとしたためとされている。1ファーロングは660ft(201.168m)になる。ファーロングとは聞き慣れない長さの単位であるが競馬などではよく使う単位だそうである。日本語ではハロンと呼んでいるそうである。競馬は田畑の農耕から生まれたものであるとすると、この単位は現役で使われていても不思議はない。この1ファーロングはfollow longが語源で、畔みぞの長さの単位であった。その長さは1ファーロングで10チェーン(chain)に相当する。チェーンは鎖の意味で土地の測量に使われていた器具であるという。それがどのようなものであるか自分には良くわからないが鉄の鎖のようなものであると想像する。1chainは22ヤードに相当し、単位長さの針金が100個リンクで結合されていてリンクには針金の数を示す標識が付けられているそうである。日本では測量に使う鎖ということで“測鎖”と呼んでいるそうである。
アメリカ人がよく使うエーカー(acre)(4,840平方ヤード、43,560平方フィート)(約4,046平方メートル = 40a = 1,226坪)という面積単位にいたってはどこからきたのかまったくわからない代物である。この面積単位は、2頭の牛を並べてその間に「くびき」と呼ばれる横棒を渡して鋤(すき)を引かせ、それが一日で耕せる広さを1エーカーと呼んだそうである。「エーカー」とはギリシャ語で「くびき」のことである。厳密に言うと1エーカーは、縦と横が1furlongと1chainの長方形の面積と言われている。1ファーロングは10チェーンなので、1チェーン x 10チェーンの面積となる。1:10の長方形の面積が1単位になるというのも面白い単位であるが牛が一日かけて耕すにはまっすぐが都合良かったのかもしれない。1チェーンは22ydなので、22 yd x 220 yd = 4840 yd2となる。
面積や体積などは繰り上がる単位もまちまちでとても論理的とは思えない。日常の感覚で使う単位としては良いかも知れないが学術的には重さに関しても複雑である。1oz(オンス)が16集まって1ポンドとなり、2240ポンドが1トンとなる。
 
▼ ガロン
 アメリカから輸入される飲料や液体ボトル、缶などはガロン(gallon)表示されているものが多い。
ガロンもヤード・ポンド法で制定された体積の規格である。体積の表示も歴史が古いためいろいろな規格が作られた。体積の規格には、液量から定められたものと穀物から定められたものがあるという、その両者に加え米国と英国でそれぞれ制定されたため単純に考えると英国液量(UK gal = 4.54609 L)、英国穀物、米国液量(US fluid gal = 231 cubic inches = 3.785411784 L)、米国穀物(US dry gal = 268.8025 cubic inches = 4.40488377086 L)の4通りの規格が出来上がる。英国は一つに統一したので実際は3つの規格が出来上がっている。もっとも、米国では穀物ガロンは使われなくなり液体ガロンが体積の代名詞になっている。
ガロンは、イギリスに元々あった2つのガロンがアメリカに伝わった。しかし、その後イギリスではこの2つとは違うガロンに統一したため、3つのガロンができあがった。イギリスでのガロンは元々小麦8ポンドの体積のことであり、16世紀の終わり頃に268.8 cubic inches と決められていた。これは、 Winchester gallon と呼ばれたものであった。これがアメリカに伝わって US dry gallon になった。またイギリスにはこれとは別に商用ポンドというのがあった。1 pound = 6750 grains = 437.387175 g である。このポンドで測った水8ポンドの体積がワインガロンとなった。これは3.5 kg に相当する。この商用ポンドが1707年、アン王女(1702-1714年) の時代に 1 wine gallon= 231 cubic inches と統一された。これが1776年アメリカ独立戦争の頃までにアメリカに輸入され、このWine gallon (Queen Anne's gallon) が米国液量ガロンとなり米国の標準ガロンとなった。その後、1824年にイギリスではいくつかあったガロンがまとまり統一された。1824年の法律「The Imperial Weights and Measures Act」では 1 gallon の定義を 「華氏62度における10 pounds の水の体積」としている。これが 1 UK gal =4.54609 L のもとになった。 このようにして3つのガロンが出来上がったのである。
 
逆説的ではあるが、日常生活にはこちらの方が密着しやすい単位かもしれない。手にもつ大きさならインチで表し、歩く距離感はフィートかヤードで表し、車や飛行機ではマイル、ビールは1パイントでほろ酔いになれるが2パイントではちょっと酔っぱらう、という具合である。
我々の生活の中にもインチで表現しているものがいくつかある。テレビ画面の大きさはいまだインチ表示である。自転車や車のタイヤのサイズもインチサイズで表している。コンピュータのフロッピーやハードディスクドライブの物理的な大きさも3.5インチなどのようなインチサイズである。プリンタの解像力はdpiと称して1インチあたりのドットの数を表している。シリコンウェハーもインチサイズであると聞く。
航空機は厳然としてインチサイズで製作されている。カメラは至る所にインチネジが使われている。カメラ三脚ネジはインチネジ。CCD撮像素子の大きさもインチ表示、Cマウントレンズの口径も1インチ。
 
【重さ】 (2004.06.26)(2005.11.29訂正)
メートル法で一番の基本次元は「長さ」であり、これをもとにいろいろな単位が求められた。重さの単位(kg)も長さから定義された。重さは、水の容積をもとにしていて、摂氏4°(水はこの温度の時密度が最大になる。体積は最小)(2005.11.29A.K.氏御指摘により訂正)時の10cmx10cmx10cmの容積を1kgとした。フランスは、これをもとにしてキログラム原器を作った。1875年メートル条約が成立された後、1889年には国際メートル原器と共に国際キログラム原器が作られ現在に至っている。国際キログラム原器は、白金イリジウム合金で作られた円柱状の分銅でφ39mm、高さ39mmの手のひらに乗る程度のものである。このキログラム原器は、パリ郊外の国際度量衡局の金庫に厳重に保管されている。この原器は、1889年製造以後3回洗浄され1988年の洗浄では0.06グラム(髪の毛約1cm分)軽くなった。しかし、メートル法の定義では国際キログラム原器が唯一絶対の重さの定義であるため、軽くなろうとそれが1kgになってしまう。長さの基準がメートル原器を廃して測定の原理だけの定義になっているのに、重さの定義は絶対的基準がなく国際キログラム原器を唯一絶対として現在に至っている。
しかし、その基準も見直しの気運が高まっている。国際度量衡局は、定義変更に向けて検討を始め、日本も加わった国際チームが2方式で競い合っている。その2方式とは、アボガドロ定数法(日本と欧州[EU]連合が研究)とワットバランス法(米国と英国の連合チームが研究)の二つ。日本ではアボガドロ定数法を研究している。茨城県つくば市にある産業技術総合研究所の計量標準総合センターには、ビリヤードとボーリングの球の中間の大きさの質量1キログラムのシリコン単結晶でできた球があるという。その球の直径は、93.6xxx mmであるという。数字が半端なのは真の球体に近付けるために研磨を施したためと言われている。この球の直径を精度の高い測定装置であらゆる角度から測定して、高い精度で体積を求める。一方、シリコンの単結晶の結晶構造の大きさ測定も研究が続けられていて、シリコン結晶の最小単位である8個の結晶の体積も求められている。球の体積をシリコン結晶の最小単位の体積で割ると球がシリコン原子何個でできているか求めることができる。この精度が上がれば、キログラムはシリコン原子の個数で定義できるようになるのである。
 
1Kgの新定義 = シリコン28原子 2.15xxxxxxxxxxxxxxx E25 個の質量
        (上のxの桁数の特定が現在研究中)
 
この研究になぜシリコンが使われているかというと、シリコン単結晶製造技術は近年の半導体製造技術の発展によって、驚くほどの純度で結晶体を作ることができるようになり、その結晶構造も極めて安定していて狂いが少ないためと言われている。シリコンの結晶構造は、ダイヤモンドの構造に似ていてしっかりした構造である。
 現在、アボガドロ定数チームは、原子の数の精度を1000万分の2まで高めているという。あと1桁あげれば定義するに足る精度になるという。一方、ワットバランス法は、電磁気的な力などから定義する方法を研究している。
こうした定義が確立すると、100年以上も使われてきた国際キログラム原器の役割が去ることになる。その時代が来るのは10年から20年後であると言われている。
   - 出展参考「朝日新聞2004年6月26日(土)5面」
 
 
【温度】
温度には現在、3通りの表記法がある。学術的に使われる絶対温度のケルビン(K)と水の固体、液体、気体の3様を100等分した摂氏(°C)と、それに摩訶不思議な華氏(°F、ファーレンハイト)である。アメリカでは、厳然とこの華氏(かし)が生きている。アメリカの天気予報をみると必ずこの華氏が出てくる。華氏温度表示は、日本人にはまったく馴染まない単位である。1983年7月に、一人でアメリカの東海岸に赴いたとき、休日に買い物に出かけた。暑い夏のこと、焼けたアスファルトを歩いていて汗をかきながら道路沿いにあった温度表示塔を見たら98を示していた。暑いのは暑いのであるが98°Fの値が果たしてどの程度であるのか皆目検討がつかなかった。(この温度は36.7°Cに相当する。)
華氏温度の原型は、1724年に出来上がった。ドイツの物理学者ファーレンハイト(Daniel Gabriel Fahrenheit、1686-1736)が、それまでバラバラであった温度計の目盛りの標準化を行った。彼は諸物質の密度や膨張率、沸点などを熱心に測定し物性学に貢献した科学者であったが、温度の標準化における着眼点は生活に根ざしたものであった。彼の拠り所とした「0」度は氷と塩を混ぜて作る日常生活での最低温度に根ざしていた。ファーレンハイトは、食塩と雪の重量比1対3の混合物(-17.78°C)を最低温度0°Fとし、ヒツジの体温が最も高い体温であるとして100°F( = 37.78°C)と決め、この間を100等分した目盛りを作った。現在では、氷と塩の到達温度は、共晶点で-22.0°Cになることが知られていて、これは華氏でいうと零下8度に相当する。
 
華氏温度について無機質的な言い回しで、「華氏は氷点を32度、沸点を212度として、その間を180等分する」と記述されるのをよく見かけるが、あまりにも味気ない言い回しである。なぜ氷点を32度して沸点を212度とし、それを180等分しなければならないのかの説明がない。たぶんこれは、セルシウスの温度計を睨みながら摂氏の温度目盛りに対してこうなる、という説明からきたものと考える。ファーレンハイトが望んだ目盛りのつけかたはこれを望んだわけではなく、あくまでも身近にある温度分布をわかりやすく親しみにある目盛りにすることであったと思う。
 
摂氏は華氏に遅れること18年の1742年、スウェーデンの物理学者セルシウス(Anders Celusius:1701-1744)によって決められたもので水の3態から来ている。摂氏の方が実にわかりが良いと思うのだが、なぜかイギリスとアメリカは摂氏を採用することがなかった。
 
ちなみに、華氏と摂氏の換算は以下の式で表される。
 F = 32 + C*9/5
   F:華氏温度(°F)
   C:摂氏温度(°C)
 
【時間】
時間は、比較的すんなりと「秒」という万国共通の単位が、日付とともに全世界に受け入れられて行った。この単位が10進法でもなく複雑な繰り上がりをするにも関わらず物理量の基本単位(SI単位)になった。
時間の目安としては、1日、1年というのはわかりやすい。太陽の位置、星の位置を測定すればかなり正確に地球の位置が特定できるまでに16世紀以降の天文学や機械工学、電子工学は発達した。それ以前にエジプトでは天文の知識を用いて1年を365日とし12ヶ月とする太陽暦が紀元前2700年頃にはできていたのである。1日を分割する時間の単位もエジプトを起源として、1日を24等分して1時間とし、さらに1時間を60等分して1分とする単位が出来上がっていた。さらに1秒は1分を60等分したため、1日は86,400秒となった。時間を目盛る道具として日時計、水時計、火縄時計、ローソク時計、砂時計が使われた。
 
▼ 1秒
「1秒」の定義は、天文学者が1000年以上も慣習的に使用してきた「1平均太陽日の1/86,400」から来ている。1日を24分割(時 = hour)してこれを60等分(分 = minute)してさらに60等分(秒 = second)すると86,400分割になる。これは、1799年フランスがメートル法を導入した際に同時に決められた定義であった。平均太陽日とは太陽の南中時刻をもとに求めた一日を年間で平均したもので、当時、地球が正確な周期で自転していると考えられていた。しかし、その後、地球の自転周期には誤差のあることがわかりこの定義では絶対的な「1秒」を特定することが難しくなった。そこで、1956年に定義が変更され、「1900年当初の太陽年の1/31,556,925.9747(3千155万6千925.9747)を1秒とする」ようになった。有効数字12桁の精度である。一日の時の刻みは86,400で変わりがないから、1900年一年の「時」を分割して「1秒」と定義したのである。この定義に従うと1年は365日と0.2421988日(もっと詳しい日が割り出せるが私の計算電卓ではこれが精一杯)ということになる。これで「1秒」の定義は確定されたが、我々の生活は太陽と地球の公転、自転でなされるため時代が経るに従って地球の自転・公転周期、それに太陽の自転の誤差のために正確な時計の針と太陽が南中する位置、太陽の自転の位置がずれることが想定される。こうして閏年及び閏秒が変則的に導入されることになった。
 
■ 閏年・閏秒
これまでに述べたように、正確な「1秒」が定義されるようになると、天体の運行には誤差があるため、天体の運行に左右される人々の生活に支障が出る(夜の10時になっても日が沈まない、とか季節が暦とズレルなど)。このためある期間で正確な計時と暦の「時計」を補正する必要がある。正確な時計で計る1年は、365.2421988日であり、4年で0.9687952日(約1日)の誤差ができる。これを補正するため4年に一度この誤差分を補正する閏年を設け2月28日を1日増やして29日を設ける。しかしそうすると1年当たり0.0078012日先走ることになるので、128年に一度閏年をやめる必要が出てくる。この補正のやり方は、400年に3回閏年を省くという方法で、対処している。具体的には西暦の末尾二桁の数字が00年の年は400年の倍数以外は平年とする。従って西暦1900年は平年、2000年は潤年となった。これで暦年と1太陽年との差は0.0003日に収まりほとんど影響はなくなるが、それでも計算上は2621年で1日の差が生じることになる。
うるう秒は太陽の自転の遅れによって生じる天文の時間(太陽と地球)と原子時計の誤差である。1972年からこの差が0.9秒を上回らないように「うるう秒」を加えたり除いたりの調整を行っている。これはグリニッジ標準時1月1日午前0時ちょうどの第一優先から7月1日(第2優先)、4月1日、10月1日と予め時間と方法が決められている。具体的には59秒の後に仮の60秒を挿入する事によって1秒増やしている。
 
▼ 振り子時計
11世紀-12世紀の頃の時計は最も精度の良いものでも一日に1,000秒(15-20分)の誤差があった。時計の精度を高めたのはイタリアのリレオ・ガリレイであった。1583年、当時18歳の彼の発見した振り子の等時性は、振り子の周期=時間はオモリの重さや振幅に依存せず振り子の糸の長さだけで決まるというもので、振り子の長さが2倍になれば振り子が行ってもどる周期は4倍になった。しかし彼は実際に時計を作るまでには至っていない。彼の晩年、息子にせがまれて振り子時計の設計図を書いた。これには時代背景があって当時ヨーロッパは航海時代に入っていて航海の安全のために(船の位置を知るために)時間は必要不可欠な装置であった。彼の晩年は天体望遠鏡による天体の観測がたたって完全に目が見えなくなっていたので自ら時計を組み立てることはしなかった。
こうして航海の安全をする目的に時計開発の機運は嫌がおうにも高まっていった。航海時計の発明の最初はオランダの科学者クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695)であった。彼は1657年、ガリレオの振り子の等時性の発見から75年ほど遅れて世界最初の「振り子時計」を発明して特許を取得し、1661年に航海に採用された。この時計は、天候が良好な時には従来の時計よりはるかに正確に時を刻んだが、天候が荒れると振り子が踊ってしまって実用に堪えないことがわかった。科学者ホイヘンスがとらえた振り子を通した力学の世界はすばらしい統一性を見せていて(遠心力、重力場の違い、運動エネルギーと運動量保存の法則)、1673年に出版した『振り子時計』はその後の力学の教本になた。
 
▼ ばね時計
振り子の欠点を補う手法として、バネの等時性(バネが引っ張られる変形量は引っ張る力に比例する)を発見したイギリス人科学者フックによってバネによる時計が作られる。彼はこの『フックの法則』を1660年頃発見するのであるが、発表を1676年の16年間も伏せていた。しかも1676年の発表は暗号のような形でしか発表しなかった。どうして彼は自分の発見を速やかに行わなかったかと言えば、彼はこの発見を使って時計を発明しようとしたからである。彼はバネとより正確に時を刻む「アンクル脱進機」を考案してイギリス国王に見せるまでになる。しかし航海用の頑丈な時計の発明にまではいたらなかった。
航海用の時計がいかに望まれいたかは、上のエピソードでも知ることができるが、1714年、当時最大の海運国であったイギリス議会では航海用時計を発明した者には10,000ポンドから20,000ポンドの賞金を与える、という決議がおりていた。また競争国フランスでも1716年に同じように10万リーブルの賞金をかけていた。国家がこれほどまでにひとつの発明を奨励した例はほかにあまり見あたらない。イギリスで賞金がかけられた時計は、イギリスから西インド諸島にいくまでの航海の間に、経度で0.5度以内の誤差が必要条件になっていた。これを6週間の航海と換算すると1日に3秒以内の誤差ということになる。
 
▼ クロノメータ
いろいろな人がこの発明に取り組み、これを完成させたのはイギリスの大工ジョン・ハリソンであった。彼は1728年から1770年の32年間に5つの航海時計を作った。4番目の時計は重さが30Kgもあったが誤差は1日わずか0.1秒というものであった。彼はこの時計で1765年にイギリス政府から賞金を得た。開発を初めて37年の月日がかかっている。彼が最後に作った航海時計(クロノメーター)は精度は前と同じで大きさをぐっと小さくして大きめの懐中時計程度にすることに成功した。この時計は英国王室海軍デプトフォード号に乗せられて実地テストが行われ、81日の航海で誤差5.1秒とう驚異的性能を実証した。
 
▼ 電子式時計
時計は、その後200年の間、ゼンマイ、ギア式、振り子式機械の時代が続くが、1953年(第二次世界大戦後8年を経過)に革命がおきる。フランスのフレッド・リップが電気式時計を発明し、その3年後にはトランジスタ回路を取り入れた振り子時計を発売して精度を飛躍的に高めた。トランジスタ振り子時計は、振り子のおもりの部分にSN極を持った永久磁石を埋め込み振り子の振幅する両端には発振コイルが置かれていた。振り子が振られて発振コイルに近づいて離れるとき発振コイルにわずかな電流が流れる。この電流をトランジスタで増幅して振り子を振らせる駆動コイルにフィードバックさせる。この閉ループは安定していて振り子が安定して振動し時を告げる機構となっていた。
 
▼ 音叉時計
この振り子の発振器を音叉に変えたアキュトロン(ACCUTRON)と呼ばれる音叉時計が1960年米国ブローバ・ウォッチ社(Bulova)で発売された。これは人工衛星に搭載するタイム・スイッチの要求から生まれたものである。振り子は宇宙では用をなさなかった。また、振り子は重力が重要なパラメータで使われる場所によって重力加速度が異なり精度にも影響を与えた。音叉は振動子によって振り子よりも安定した発振源となった。精度は99.9977%と当時の宣伝パンフレットに記載された。しかし、その音叉振動子も1日2秒の狂いがあった(0.0023%は、1日86,400秒では1.987秒に相当する)。音叉振動子は高周波発振ができずアキュトロンの発信周波数は360Hzであったという。
音叉ウォッチはあまりにも短命にその生涯を終える。その理由は、ブローバ社がパテントを開放しなかったため世の中への普及が遅れたことと、予想以上にクォーツ時計が早く実現(1964年)実用化されたため音叉時計の価値が急速に下がってしまった。
 
▼ 水晶発振時計(クォーツ)
音叉に代えてより安定な振動をする発振素子が現れる。水晶振動素子である。水晶はクォーツとも呼ばれている。水晶が極めて安定した振動をすることは1880年フランスのピエール・キュリーによって発見されていた。彼は水晶片に電圧を加えると水晶片が変形し、水晶片に圧力を加えると電圧が発生することを発見した。水晶片に高周波電圧を加えると振動し、その振動周期は水晶片の寸法とカットで一定の安定した振動周期となる。1922年に米国のケディが水晶振動片を開発してから無線電話(ラジオ放送)の送信機の発振回路に使われるようになった。水晶発振器を使った世界最初の水晶時計は、1929年米国ベル電話機研究所のマリソンが開発し特許を取得した。マリソンは、1000KHzの水晶発振器出力を真空管回路で1KHzまで逓減しその発振出力で同期モータを回転させて歯車を回し秒針、分針、時針を回した。彼の発明した時計は真空管の使用量も多く重厚で時計全体は簡単に移動でききないほど巨大(高さ2m、縦横約60cm)であったと言われている。
日本で市販されたクォーツ時計の第一号は放送局用の時報用設備時計だった。1958年に精工舎が「時報用標準時計装置」として名古屋の放送局、CBC = 中部日本放送に納入した。このクォーツクロックの時間精度は10日で1秒以内、月差換算で0.08秒以内の精度であった。水晶振動子はATカットで4.8MHz発振で安定した発振を行うため摂氏60度±0.01度の高温槽に入れられていた。この振動子を作るのに名人級の職人3ヶ月を要した。当時はトランジスタ(ICももちろん)が普及していなかったため大量の真空管を使用した。故障や停電の対策としてトランジスターとバッテリの直流電源によるバックアップ装置も備えられていた。したがって装置の大きさは、2m(高) x 1m(巾) x 0.5m(奥)という大きな本棚程度であった。
 
▼ アストロン
クォーツ腕時計を世界で初めて開発したのは日本の諏訪精工舎であった。
精工舎は直径30mm、厚さ10mmの丸形ケースに水晶片、IC、超小型ステッピングモータを収めてクォーツ腕時計を完成させた。
精工舎は1964年の東京オリンピックを睨みながら水晶発振時計の開発を進める。そしてストップ・ウォッチに水晶発振子を組み込んだ電子時計を登場させた。
1967年にはこの水晶振動子を組み入れた腕時計が発売され、スイスで開かれたヌーシャルテル天文台クロノメーターコンクールで1位から5位までを独占してしまった。
それ以来このコンクールは、スイスの名誉にかけて中断されていると言われている。クォーツウォッチ商品化の第一号は1969年のクリスマスの日(12月25日)に発表された「セイコークォーツ"アストロン"35SQ」であった。この時計は18金ケースながら当時で¥450,000し、国民車(カローラ、¥420,000)を上回る金額であった。当時使用できるICもなかった時代にトランジスタ76個、コンデンサー29個を使用し名人芸によるハンダ付け128箇所によって作られていた。
時計に使えるC-MOS ICが調達されたのは1970年になってからである。
この時計は一般の人には理解を超える価格であったが時計業界には戦慄が走ったと言われている。
これを機に時計はクォーツの時代に突入し、世界レベルでクォーツ時計は他の時計を駆逐していった。
 
【2001.09.04 NHKプロジェクトX放映】(2001.09.04 記)
2001年9月4日、NHKの「プロジェクトX」という番組で、諏訪湖で創業し世界で初めてクォーツ式腕時計を開発した諏訪精工舎(現セイコーエプソン)の開発物語を放映していた。
この放送は、上記に述べたような内容は放送されず、昭和17年38才で諏訪精工舎を興し、58才、胃ガンで他界された山崎久夫氏の人柄と生糸産業の衰退で諏訪の町をスイスをしのぐ時計の町にするという熱意を紹介していた。
世界に先駆けるにはクォーツしかないと言う信念のもと、若い電子工学エンジニアの獲得に全国の大学を回り頭を下げ、静岡大学電子工学岡部研究室から藤田欣司、坂本求吉両氏をはじめ20人の学生を集め電子化に乗り出した。
消費電力の大きい衝撃に弱い水晶を腕時計に詰め込むために不眠不休の研究開発が進められた。
水晶発振子の小型消費電力化は、藤田氏が友人の寮で見たギターの調律につかうU字型の音叉発振子に着眼してU字型の水晶発振子を開発したと言われる。
この開発によって消費電力が激減したと言われる。
小さなスペースに1/100mm単位の部品設計を担当したのは下平忠良氏。水晶発振子の耐震性の設計は藤田氏が行った。
これは水晶発振子をバネ支持で浮かすことで解決を見たという。
こうして製作された腕時計の耐久試験は、社内の体育館を使って社員に腕時計をはめさせてバレーボールのサーバーを3日間連続で行わせ、問題なく時を刻んでいることを確かめて発売に踏み切ったそうである。
昭和44年12月25日クリスマス、銀座服部時計店でこのクォーツ腕時計が発売されたちまち完売されたという。
精工舎のクォーツ腕時計は1Hzのパルス電流で超小型ステッピングモータを回し時針を回した。
それに対し、1971年には米国のハミルトン社がモータを使用しないでパルス電流で発光ダイオードを発光させ時刻を表示するデジタル・クォーツ腕時計を開発した。
しかしこの腕時計はことのほか電力を必要とした。
このために時刻を見るときだけ発光ダイオードを発光させる方法がとられたがこれが人気のでない原因となった。
 
▼ デジタル時計
1973年には精工舎が発光ダイオードに代えて電力をほとんど消費しない液晶表示によるデジタル・クォーツ腕時計を発表した。1974年にはカシオがこの業界に参入し、時計は低価格競争時代に突入する。そのアオリを受けて米国のピンレバーウォッチ(低価格使い捨て腕時計、TIMEXが有名)が大打撃を受けることになった。
 
▼ 原子時計・電波時計
現在、精度の高い時計は原子時計、電波時計で時を刻んでいる。
原子時計は、30万年〜160万年に1秒という誤差を持つ究極の時計である。クロックを作るのに原子のエネルギー準位を用いている。原子は原子核の回りに電子が回っていて、その回る軌道は予め決められている。原子が外部からエネルギーを受けると回りを回っている電子もエネルギーを受け軌道を変えて別の準位に移る。準位が上がった電子は、再びエネルギーを放出してもとの準位に戻る時一定のエネルギーを放出する。そのエネルギーは波長のよくわかったもので、レーザーなどはこの原理を応用して波長の揃った光を放出する。原子時計は、原子が励起して放出するエネルギーの波長を利用して時を刻む発振周波数としているのである。このように原子(分子)の固有共鳴周波数を基準にしたもっとも精密な時計が原子時計である。
現実の原子時計は原子にはセシウム(Cs、原子番号55、アルカリ金属元素、28.4℃で液体)が使われる。セシウム原子を空洞共振器に導いて予めセシウム原子が共鳴しやすい振動数を水晶発振回路によって作り空洞共振器に加える。水晶発振によって共鳴したセシウム原子は共鳴を起こし低いレベルとなってイオン化検出器に導かれる。もし空洞共振器に加えられた水晶発振回路からの発振周波数が違っていればイオン化検出器で得られるセシウムイオンは少ないものになる。イオン化検出器からの検出信号をフィードバック値として水晶発振回路に与えセシウムが共鳴して発振する周波数に水晶発振回路を調整することにより極めて安定した精度の高い発振信号を取り出すことができる。セシウム原子時計は9.2GHz(92億回)の発振周波数をもっている。この発振周波数を分周して時計用の秒パルス信号を得るのである。
原子時計はこのほかにも水素やアンモニア、ルビジウムなどを用いた別のタイプのものがあるが、セシウム原子時計は国際原子時設定のもととなっている。
原子時計を発明したのは、1949年、ワシントンのアメリカ海軍天文台のウィリアム・マルコビッツ。彼が試作したのはアンモニアメーザー型だった。ついでイギリスの国立物理研究所のルイス・エッセンがセシウム原子時計の試作に成功した。
2003.06.10の読売新聞(朝刊38面)によると日本の産業技術総合研究所(つくば市)は2000万年で誤差1秒と従来の20倍も正確な原子時計を開発したという記事があった。世界の標準時のおおもとになる「協定世界時」は、各国の計量機関にある約200台の原子時計の平均値から取られている。しかしその協定世界時も進み方が正確かどうかを監視する必要があり、より高精度な原子時計で比べる必要がある。産業技術総合研究所が開発した原子時計は、冷却した原子を空中に打ち上げて動きの少ない状態で周波数を測る仕組みになっている。
 
【工業分野のインチねじ】
長さの単位には、インチより下の呼び方はない(1/1000インチのmil[ミル]という単位はある)。
アメリカ人は、1/2、1/4、1/8、1/16、1/32インチと細かくしていってその場をしのぐような言い表し方をする。
1インチより小さなものの場合、半分程度ならHalf inchであり、1/4ならQuarterである。
十進数を採用したメートルの方が表記の自由度が高い。
こうしたインチに慣れない我々からみると何故ヤード・ポンドが今だ根強く残っているのかわからない。
 
▼ 航空機分野
工業分野では歴然とこの寸法での規格が使われている。一番根強いのが飛行機である。
航空機はインチで設計され製作されている。
航空機産業は米国がメッカだからなるほどと合点するのであるが依然としてメトリックに代える気配がない。
彼らは義務教育でメートル単位系を教えているのだろうが徹底しているとは思えない。
 
▼ 根強いインチ表記
日本でも強いアメリカの影響からか、ガスや水道管、電気工事の配管にはまだ根強くインチネジが使われている。
カメラの三脚ネジは、1/4インチ(大きなカメラでは3/8インチ)のネジが使われている。
自動車、自転車などのタイヤの呼び径はインチで表示されている。
プリンタの印字性能を表す数値にdpi(ドット/インチ)が使われている。
米国で設計開発された製品は10中八・九インチネジを使っている。
コンピュータや電子工業はアメリカが時代をリードしたためにインチサイズの規格が色濃く残っているのは致し方ないことなのだろうか?それにしても何故アメリカは、ヤード・ポンドにこだわり世界規格に乗り換えないのであろう?
2億5000万人の生活水準の高い人々の生活の根幹を変えるのは大変なことはわかるのだがアメリカ政府がこの状況をどうとらえているのか機会があれば知りたいと思っている。
 
▼ インチサイズのネジ
私事で、しかも時代に逆行するようで恐縮するが、私自身は、実はインチサイズのネジが好きである。
アメリカで使われているネジは日本でもユニファイネジとしてJIS規格で決められ航空機や関連産業で使うことが許されている。
このインチサイズのネジは、ネジ山と太さのバランスが良いのである。
インチネジ(ユニファイネジ)はUNCとUNFの2種類の系列で成り立っていて、UNCがユニファイ並目(Coarseの頭文字をとってC)でUNF細目(Fineの頭文字をとってF)となっている。
インチネジの多くはUNCの並目を採用している。メトリックのネジより若干粗目のピッチであるが私自身はこのボルトやネジのバランスを美しいと思っている。
 
■ ヘンリー・モーズレイ(Henry Maudslay)
このネジの規格についてもかなりの歴史的な変遷があった。
ネジの規格についてはイギリスが口火を切った。
ヘンリー・モーズレイがその創始であろう。
その前にネジの規格化を促した英国の産業革命について触れておく。
 
▼ 産業革命のイギリス - 蒸気機関の改良 - ジェームズ・ワット(James Watt:1736-1819)(2004.08.26追記)(2015.08.30修正)
機械産業は、イギリスで大いなる発展を見た。工作機械のアイデアそのものはルネサンスの天才イタリアのレオナルド・ダ・ビンチに負うところが大きいのだそうだが、こうしたアイデアを具体的に工作機械として世に出すには大きな動力(馬、水力、蒸気、電気モータによるエネルギー)が必要であった。
 
蒸気機関が生まれて発展するまでには多くの系譜がある。
最初のアイデアはイタリアのレオナルド・ダ・ビンチであるが、真空を作り出したのはイタリア人物理学者でガリレオ・ガリレイの弟子トリチェリー(Evangelista Torricelli:1608-1647)である。
大気に力があるのを発見したのは、ドイツ人マグデブルグ(Magdeburg)市の市長ゲーリケ(Otto von Guericke:1602-1686)であった。
ゲーリケは真空(大気)の作る大きな力を実験した人として有名である。
大気の圧力と蒸気の圧力を使って大きな力を出す装置を考案したのは、フランス人物理学者のドニ・パパン(Denis Papin:1647-1712)である。
ドニ・パパンは、新教(プロテスタント、ユグノー)を信じていたためにフランスにいられなくなり、1681年イギリスに渡り物理学者として実績を残し、イギリスのロイヤル・ソサイティの会員になっている。
彼の熱機関は実際には実用にならなかったが、最初に「大気圧機関」を作った人である。
 
【サヴァリー機関(Savery Engine】
初めて実用化に耐える熱機関を作ったのは1698年イギリス人発明家のトマス・サヴァリー(Thomas Savert:1650-1715)である。
彼の発明したサヴァリー機関はイタリアルネッサンス時代に活躍したフランス人ユグノー派エンジニア、ソロモン・ド・コー(Salomon de Caus:1576-1626)の蒸気の実験をもとにしていた。
ソロモン・ド・コーは蒸気の性質をよく理解して、蒸気の力で水を押し上げる実験を特殊なフラスコを使って行った。
サヴァリーは、この原理を応用した装置で鉱山の地下水組み上げに使えないかと着想した。
サヴァリーはものを作り出すことが好きで、時計を製作したり、板ガラスみがき機を発明している。
彼自身、鉱山地方に育ったので、鉱山作業が地下水のわき水で悩まされているのを良く知っていた。
彼は、ド・コーとゲーリッケの蒸気の圧力と真空の原理を応用して蒸気の力による排水装置を作った。
 
その装置は、まず縦坑道にパイプを下ろしその回りにバルブと作用器を配した。
蒸気ボイラーから送られてくる蒸気を作用器に入れてバルブを閉じ、そこに水をかけて凝縮により真空を作った。
その後、坑道から地下水を汲み上げるパイプのバルブを開けて真空になっている作用器に水を汲み上げた。
汲み上がった水はバルブが閉じられ、作用器に取り付けられている排出用のバルブとボイラーからの蒸気バルブを開けて蒸気の力でさらに外に排出された。
こうして1706年に最初のサヴァリー機関がブロードウォーターズの炭坑に備えつけられた。
続いてコーンウォール地方のスズと銅鉱山、つぎにフィール・フォール鉱山などに備えつけられていった。
 
サヴァリー機関は、縦坑の地下17mほどに設置されて、そこからその下10mにある地下水を汲み上げ地上に排水した。
従ってサヴァリー機関は27m程度の地下水を汲み上げることができた。
しかし、鉱山の要求は高まり、より深いところからの地下水をよりたくさん汲み上げる装置を要求した。
サヴァリー機関は真空による水の汲み上げを応用しているため大気圧以上の力は出せず10m以上の高さの水を汲み上げることができなかった。
また、たくさんの水を汲み上げるためには蒸気の高い装置をつくる必要があったものの、当時の鉄素材では破裂する危険がありそうした事故も起き始めていた。
 
【ニューコメン機関(Newcomen Engine)】
サヴァリー機関の限界が見えた時、その限界を突破したのがダートマスで鍛冶屋を営んでいたトマス・ニューコメン(Thomas Newcomen:1663-1729)であった。
サヴァリー機関が発明された頃のニューコメンは35才であった。
サヴァリー機関の開発にニューコメンは製作者として関わっていた。
彼はサヴァリー機関の欠点については熟知していたが、その改良について当時のイギリスの科学的権威ロイヤル・ソサイティの幹事ロバート・フック(Robert Hooke:1635-1703)に手紙を書いたと言われている。
フックから親切な手紙が届き、ニューコメンの考えている水車方式のアイデアはうまくいかないこと、フランス人ドニ・パパンの考案した機関を実用的にした方が現実的なことが指摘された。
 
その指摘を元にニューコメンは蒸気で満たされたシリンダを急速に冷やして真空に作る装置を考案する。
最初のニューコメン機関は、1712年にミッドランスで作られて炭坑に備えつけられた。
このエンジンは、シリンダー直径53cm、高さ3.6mで1分間に12ストロークの往復運動をした。
このエンジンの出力は5.5馬力であったと言われる。
 
サヴァリー機関は、1分間に4回しか水を汲み上げることができず、さらに一回の汲み上げ量も少なく、深い地下からの汲み上げもできなかった。
そのため、ニューコメン機関は効率的に格段に向上したものとなった。
 
1720年にコーンウォールのスズ鉱山に備えつけられたニューコメン機関は、シリンダ直径1.2m、1分間に15ストローク、20馬力で55mの地下から1回に180リットル(約180Kg)の水を汲み上げたと言われている。
 
この量は1分間で、
 
180 Kg/ストローク x 15 ストローク/分 = 2700Kg/分
 
にあたり、1秒間に45Kgの水を55m汲み上げる力となる。これは、
 
45Kgf x 9.8 m/s2 x 55m/s = 24,255W (33馬力)
 
という計算になる。
これは先に書いた20馬力と数値の開きがある(どこかが過剰数値になっていると思われる)が、とにかく当時としては驚異的な数値であった。
 
ニューコメンは、自ら開発した機関の特許で利益を得ようとはせず格別な富を得てはいない。
彼の死後、1733年に特許が満期を迎え、ベートンやスミートン(John Smeaton:1724 - 1792)などがニューコメン機関の改良を続けた。
そしてジェームズ・ワットが新しい蒸気機関を作ってそれが淘汰されるまでの60年にわたって普及し、イギリス石炭産業発達に大きな役割を果たしていった。
ニューコメン機関の性能を極限まで高めたのは、イギリス人土木工学者スミートン(John Smeaton:1724 - 1792)であり、シリンダ直径2.1m、出力75馬力を誇ったと言われている。
 
 
▼ ジェームズ・ワット(James Watt:1736 - 1819)
手軽に大きな動力を作り出したのは、スコットランド生まれのイギリス人ジェームズ・ワットであった。
ジェームズ・ワットは、1736年1月19日スコットランドの小さな漁村グリノックに大工の息子として生まれた。
手先が器用でいろいろな模型を小さいときから作っていたという。
小学校の時は数学が得意であったが高等教育を受ける家庭環境になく、17才で数学器械を作る仕事につくためにグラスゴーに働きに出た。
しかし、グラスゴーには彼がやりたい仕事の手ほどきをしてくれる親方がいなかったため、グラスゴー大学のディック教授の薦めで一時ロンドンに数学器械(真鍮製ものさし、定規、ハッドレー象限儀、羅針盤、関数尺、経緯儀)を作るための修行に出た。
聡明で手先が器用なワットは、1年でほとんどの器械の製作ができるようになり、グラスゴーに帰った。
グラスゴーでお店を構えようとしたが、地元で生まれたものでない限りお店を出すことが許されない鍛冶屋のギルド(組合)のきまりに阻まれてしまう。
しかたなく、グラスゴー大学のディック教授の取り成しで、大学構内に大学付き器具製作者として仕事を始めるようになった。
ワットも生い立ちは恵まれていない。
 
そうした中でワットは、ニューコメン機関の模型に出会う。ワットと親しくしていたアンダーソン教授の持っていたその模型の調子が悪く、ロンドンに修理に出していたが修理に手間取りなかなか上がってこなかった。
ワットはそれ以前からスチーム・エンジンに興味を持っていて、ニューコメン機関を見たくても場所柄遠くて見ることもできなかった。
そんな矢先にアンダーソン教授からニューコメン機関(の模型)の話を聞いたのである。
こうしてワットと蒸気機関との出会いは大学教授の持っていた模型から始まったのである。
それは、ニューコメンが死んで34年経った1736年の事である。
彼はロンドンで直せなかった模型を前に、自らその原理を学びながら修理した。
しかし、模型の修復はできたものの心地よくエンジンが回る所までは至らなかった。
所有者のアンダーソン教授は購入したときからその程度の動作しかしなかった、と修理の出来に満足であったが、ワットはなおも固執し原因を突き止めた。
その模型は、すべてを1/10のスケールで作ったために、作動棹の1/10の縮尺に対して、シリンダー容積が1/10の三乗、すなわち1/1000となっていて希望する出力が出ていないことを突き止めたのである。
こうして彼は、容積の最適値を求める基礎実験を始め蒸気が持つ力を測定していった。
 
1712年にニューコメンが発明した蒸気機関は、テコを使った井戸水を組み上げる機械であり、テコを押し下げる機構部には蒸気圧を利用したピストンとシリンダーが使われ、それで水を汲み上げていた。
ニューコメン機関では、石炭の火力によって得られた蒸気をピストンに送って押し上げ、上がり切ると今度は蒸気で充満しているシリンダに冷たい水を送って蒸気圧を下げてピストンを戻していた。
ピストンとシリンダ内は、絶えず温められたり冷やされたりしたので熱効率が悪かった。
ワットは、シリンダ内で蒸気を冷やす代わりに蒸気を別の部屋に導いてそこで蒸気を冷やし、ピストン・シリンダそのものを冷やすことを改めた。
別の部屋のことを復水器といい、潜熱という考えを導入して熱機関の効率を大幅に高めた。
 
当時、グラスゴー大学にはJoseph Black(1728-1799)という化学者がいた。
彼は熱力学に秀で「潜熱」と「比熱」の理論を確立した人物である。
ワットは、ブラック教授の教えを受けながら、蒸気圧がいかに高いエネルギーを蓄えるかを理解し、その蒸気を速やかに(効率よく)元の水にもどして(真空を作る)復水器の概念を導入するに至った。
大幅な蒸気機関の改良である。
彼は、このアイデアをもとに新しい蒸気機関を作ろうと模索する。
しかし開発用のエンジンを作るにも開発のための資金がなかった。
そんな折り不幸が訪れる。
ワットと共に店を経営していたジョン・クレイグが他界し、店の建て直しのためにスチーム・エンジンの開発を断念しなければならなくなった。
彼は、1756年から1768年(20才〜32才)の12年間を測量の仕事に専念してお店の経営立て直しに努めた。
 
1768年(32才)ようやく暇ができて、再びエンジンの開発が出来るようになりエンジンの模型が作れるようになった。
しかし、実物大の実験装置を作るまでの資金は潤沢になかった。
そんな折り、ブラック教授の口利きでキャロン製鉄所の工場主、そして炭坑も始めていたローバック(John Roebuck:1718 - 1794)の紹介を受けた。
ローバックは、化学技術者でもあり硫酸製造の「鉛室法」を発明した人でもあった。
ローバックは、ワットの蒸気機関に興味を示し、ワットが開発のためにブラック教授からの借金を肩代わりし、なおかつ、エンジンの開発費や特許料を負担して共同でエンジンの販売をしてくれることになった。
ただし、ワットが開発したエンジン特許の権利の3分の2を受け取ることになった。
 
 
▼ ワットとボールトンの活躍
ワットは、1768年8月9日ロンドンで特許を取得、その帰り道、バーミンガムを回ってソホーのボールトン(Matthew Boulton:1728-1809)に会う。
ボールトンはローバック(John Roebuck:1718 - 1794)の友人で当時イギリス第一の工場主であった。
ボールトンは、当時小規模の機械工場に大規模な機械を据え付けるために多くの労働者を雇って大々的な工場を起こした企業家であった。
ボールトンは、ローバックから新しいエンジンの知らせを受けていたのでワットに会いたいと思っていた。
ボールトンの工場では、最新の機械が備えつけられてはいたものの水に不自由していた。
彼の工場の動力は、川に設置した水車であった。その水車は、夏や冬に川の水が枯れると動力が乏しくなった。
そのため、下流でせき止めた水をポンプを使って上流に戻していた。
このポンプを動かすのに6頭から10頭の馬を使っていた。
ボールトンはこの馬に変えてサヴァリー機関かニューコメン機関の導入を考えていた。
そんな矢先、ワットの新しいエンジンをローバックから聞きワットに会いたいと思ったのである。
ワットは、水くみだけでなく機械を動かす動力としても蒸気機関ができるアイデアを語った。
 
ボールトンと出会った後、ワットは引き続きローバックの援助の下で実サイズのエンジン開発に取り組んでいたが、希望通りの性能を出すにはほど遠かった。
そうこうするうちに、1772年(36才)イギリスに不況の波が押し寄せる。
ローバック(John Roebuck:1718 - 1794)は炭坑の痛手を被り、ワットの研究開発費や特許の利権をボールトンに委ねることにした。
1974年(38才)、ワットはバーミンガムのソホー(Soho, Birmingham)に移ってエンジン開発を続けることになる。
そこで苦労しながら、そしてボールトンの支援を受けながら蒸気機関の改良に取り組むのである。
 
ワットは、ピストンが下がる時に蒸気圧の冷却による圧力だけでなく、ピストンの反対側に蒸気を送ってピストンを押し下げる機構を考えた。
この手法をさらに改良して、大気圧でしか動作しなかったニューコメンの蒸気機関の機械部品精度を高めた高圧容器(2気圧程度)とピストン、シリンダを作った。
高圧蒸気が逃げないような高精密なピストンとシリンダは、英国ウィルキンソン社が作る大型精密シリンダーによって解決を見た。
英国の実業家ジョン・ウィルキンソン(John Wilkinson:1728-1808)は、ボールトンと同い年で父は腕のよい「いもの師」として木炭を使って鉄を作る溶鉱炉を持っていた。
ジョン・ウィルキンソンも父親の後を嗣いで鋳物を扱うようになり、加工も手がけるようになった。
中ぐり盤を発明したのは1774年で、大砲の内側(内径)を削るために考え出したものであった。
ウィルキンソンの中ぐり盤の発明によって、熱効率の良い精確な蒸気機関の製作が可能になった。
この蒸気機関の初号機は、その蒸気機関に使われたシリンダーを作ってくれたウィルキンソン社の溶鉱炉の送風装置であった。
 
ワットとボールトンはまた、蒸気機関に回転運動をする機構をつけて工場でも設置できるように工夫した。
この蒸気機関の恩恵により簡単に大きな動力が取り出せるようになり、工場の動力ならず交通手段の動力(蒸気機関車、汽船)としてイギリスの機械産業の飛躍的な向上の担い手となった。
ただ、ワット自身、大気圧機関からの脱却を積極的には行わなかったと言われている。
彼が改良した蒸気機関は、1気圧の圧力しか加えていなかったのである。
しかし、復水器の採用で熱効率はニューコメン機関より4倍も向上し、蒸気を作る石炭消費率も1/4になった。
一説によると、ワットは高圧にすることの危険性を危惧していたと言われている。
ロンドン科学博物館には、1788年に製作したボア径476mm、ストローク1200mm、13.75馬力の蒸気機関が展示されているそうである。
その展示品の動力伝達歯車(下で述べる遊星歯車)は、丸坊主になっているそうである。
現代の動力伝達用の歯車の歯型はインボリュート曲線(Involute curve)という曲線に沿って作られているが、ワットの時代はまだそうした技術が確立されておらずエピサイクロイド曲線(epicycloid curve)が使われていた。
ワットと彼の協力者であるボールトン(Matthew Boulton:1728-1809)は、この問題に気づき解決の糸口を見つけようとしたが完成までには至らなかった。
 
▼ ワット・ボールトン商会の特許へのこだわり
ワットは、蒸気機関の改良を施し数多くの特許を取得したが、それ以上の改良、例えば高圧蒸気機関の取り組みや蒸気機関車への応用は消極的であった。
いやむしろ特許を巡って裁判を起こしたり、自分たちの事業に敏感で保守的でさえあった。
たとえば競合相手のマシュ・マレー工場周辺の土地を買収してマシュ・マレー(Matthew Murray:1765 - 1826)がそれ以上大きくできないようにしたり、ワット・ボールトン商会に勤めていたトレビシックの高圧蒸気機関のアイデアを取り上げなかったばかりか、独立したトレビシックの蒸気機関に対して特許侵害で訴えたりしている。
また、特許に関してはこんな事件もあった。
蒸気機関を水の汲み上げ用のポンプとして使うだけでなく、旋盤や工場の動力としてつかう回転機機械にしようと考えていたとき、ワットはクランクを用いた回転機構を考え出す。昔の足踏みミシンと同じような原理を使ったものである。
この機構は、機械要素では極めて一般的なもので当時でも機械部品には特許とは関係なく応用され使われていた。
その機構をワットが使おうと考えているとき、それを特許として取得してしまった人物がいたのである。
ソホーの工場に集まる技術屋には、技術を習得しいろんなことを盗み取ろうとしていた。
ワットの指示を受けてクランクによる回転機構の模型を作っていたディックという人物が、勤め帰りのパブで仲間たちと歓談する中、彼の携わっている仕事の内容を話してしまった。
酒に興じたディックは得意になってチョークで床にその見取り図をかいて自慢したのである。
それをパブの片隅で目をひらかせていたバーミンガムのボタンを作る工場主ジェームズ・ピッカードがその特許をさらってしまった。
ピッカードは、ワットがエンジンの部品を作らせたことのあるブリストルの機械師ウォスバラに話をして部品図を引かせた。
ワットはその事実を知って、憤慨したが後のまつりであった。
特許の使用料を払ってクランクを使うか別の方法を考え出すかの選択に迫られることになった。
彼はこの苦境を、遊星歯車機構を使って解決する。この機構は1781年10月に特許取得した。
 
ワットとボールトンが特許に固執したり蒸気機関車の開発に消極的だったのはある意味理解して良い部分がある。
ワットが単身で蒸気機関を改良していた当時、ワットには金がなく、実用化に向けてはほど遠い状況であった。
バーミンガムの金属加工業者の子として生まれたボールトンは企業家であった。
ボールトンに会うまでのワットは、グラスゴーでローバックという製鉄工場主に厄介になり、そこで資金を出してもらって細々と蒸気機関の改良をしていた。
しかし、ローバックの事業がうまく行かなくなり資金援助が難しくなったため、ワットはやむなく蒸気機関の改良の仕事を一時中断して測量技師として働いていた。
そうした中で、ローバックの友人で蒸気機関に強い関心を示したボールトンと巡り会い、バーミンガムのソホー工場に蒸気機関の会社、ボールトン・ワット商会ができたのである。
この会社でも改良型蒸気機関の開発には多額のお金が必要で、ボールトンは金策に駆け回った。
その間に取得した特許権の使用期間がどんどん食いつぶされていった。
その特許権の延長について彼らはイギリス議会に働きかけた。
結局15年の特許権を30年に伸ばす決定をしてもらうことができた。
こうした事情を加味する時、彼らがいかに開発に苦労して金策にかけずり回っていたかが理解できる。
彼らは特許に対してかなり敏感であったろうし、お金のかかる他のことには(ワット自身が自信を持てない分野には)消極的であったのもよく理解できる。
ボールトンは明るい性格の持ち主で、会社が一時大きな借金を背負うことになった時も、ワットを励まし続けていたと言う。
彼らは生涯を通じて二人三脚で彼らの会社を盛り立てた。
 
 
▼ 傑出した工作機械設計技術者 - ヘンリー・モーズレイ(Henry Maudslay: 1771 - 1831)
こうした背景の中で機械産業は次々と天才技術者を排出する。
そのうちの一人ヘンリー・モーズレイ(Henry Maudslay:1771-1831)は工作機械の祖とも言われる人で、現在の工作機械(旋盤)の原型の多くを手がけた。
モーズレイは、機械要素であるネジの重要性を認め、高精度のネジを初めて作り、ネジの生産を機械化し、さらにタップ、ダイスなどのねじ製作工具を改良し、最後にはネジの規格を定めて標準化を進めた。
ヘンリー・モーズレーは1771年に生まれた。
12才の時より働きに出て、サシモノ師、鍛冶屋の弟子となり18才で職人として機械師ブラーマー(Joseph Bramah)の工場に雇われた。
モーズレーは、ヤスリを使っても足踏み旋盤を使っても工場で一番の腕前となりその腕をかわれて職長となった。
その工場で、1797年、旋盤の自動機械を発明するに至る。
古い旋盤は材料はベルトによって動力から伝えれて回転していたが、それを切削するバイトは職人が腕に抱えて材料にあてがって削っていた。
モーズレーは、このバイトを台座に固定し送りネジをもうけて自動でバイトを送る工夫を施したのである。
この自動旋盤の働きにより、ワットの蒸気機関の部品が驚くほどの精度で仕上がることになる。
 
ネジ: 呼び径の大きなネジは18世紀までは手作りが原則であった。手作りのネジというのは2本のテープをネジをつくる棒に巻き付けてそのうちの1本のテープの線に沿ってタガネとヤスリで削り落としていくという気の遠くなるような加工法によっていた。この方法では正確なピッチ、ネジ山を作ることが困難であることは容易に想像できることであろう。モーズレイは、機械でネジを切るねじ切り盤を発明した。このねじ切り盤は革命的な価値をもたらした。さらにモーズレイは、親ねじによってネジを切るのではなくネジを創成して切削する方式を発明し、その機械も製作した。呼び径の小さなネジは、古くからタップとダイスが使われていたが、モーズレイはこのタップとダイスに規格を導入して、最大6インチ径までのネジに対して1/8インチ単位もしくは1/16インチ単位で自社の規格を定めた。この標準化は彼の工場ばかりでなく、その便利さ故に多くの機械技術者が採用し、モーズレイ社の規格が広く知られるようになっていった。これが現在のインチネジの規格の原点となっている。
 
モーズレーの旋盤の発明に続いて、リチャード・ロバーツ(Richard Roberts: 1789 - 1864、平けずり盤 = planer、1814年)、フラット、ファックス、ナスミス(James Nasmyth)、クレメント、ウィットウォース(Joseph Whitworth)などの機械技術者達が排出されていく。
 
 
■ ウィットウォース(Sir Joseph Whitworth: 1803 - 1887)
私は機械工学出身であるが、この人物の人となりを知らなかった。
大学時代の講義でさえもこの名前が出ることはなかった。(と記憶する。)
社会人になって精密機器製造会社に就職したとき、年配の機械設計者(当時50才程度)からネジについてチラリとその人の名前が出たのを頭の片隅に留め置いた程度であった(そのエンジニアもおぼろげながら、昔のネジにウィットネジがあるということをポツンと話した程度であった。)
今、またネジの標準化を考えるためいろいろな文献を漁っている中で、イギリス人のウィットウォース(Sir Joseph Whitworth:1803-1887)こそネジの標準化に寄与した最大の功労者であったことを知った。
実は、太平洋戦争前までイギリスから輸入される工作機械はこのウィットワォース規格で作られたものがほとんどだったのである。2015年の現在でもこのネジは顕微鏡の対物レンズのネジ山として生き続けている。顕微鏡対物レンズのRMS規格ネジ(Royal Microscopical Society)でウィットウォースネジが使われている。
 
▼ モーズレイに弟子入り
彼の功績は、モーズレイの作ったネジの規格をさらに推し進め、当時英国で使われていたネジ規格を統一したことである。
彼は1803年12月英国Stockport(マンチェスター北20Kmにある小さな町)に教育者の息子として生まれる。
教育者の家庭で育ったにも関わらずきちんとした教育を受けておらず、14才で紡績工場に見習いに出された。
そこでの仕事を皮切りに2、3の職を転々としながらロンドンのモーズレイの噂を聞いて上京し彼の工場で働きだし、すぐに頭角を現し2番目の技師に任ぜられるまでになった。
 
▼ 独立
1833年、彼が30才の時にモーズレイのもとを辞しマンチェスターに帰り、そこで動力の使える建物の一室を借り自らの会社を興した。
この狭い一室から20年も経たない間に「現代最高能力の機械技術者」と認められるようになったのは、1851年のロンドン大博覧会に彼が設計製作した2軸ねじ切盤、平削盤、ボール盤、立削盤、形削盤などさまざまな工作機械を出展し、その正確無比の出来映えが評価されたためであった。
彼の機械が優秀であったのは、正しい平面(定盤)を使って正確にものを測る、ことを徹底したことであった。
彼は正しい定盤製作のためにキサゲ加工(Scraping)を採用し、2枚の平面の摺り合わせから3枚の摺り合わせを考え出して精度の高い定盤の平面を出した。
 
▼ ネジの規格化
ねじの規格化に際して、ウィットウォースは多大なる功績を残す。
ネジを規格化するというのは、それに従事している者であれば誰でも一度ならず考えるものである。
しかし実際に規格化するとなると、ネジのピッチ、高さ、形状を通り一遍の規格ですますことができないケースが出てくる。
精密にものを動かしたい場合には、ピッチの細かい山の角度が狭いものがほしくなるし、力のかかる所では山の角度が立ったネジ形状が都合がよい。
ウィットウォースは、英国中の主要工場からボルトを集めて平均的な数値を割り出し規格を断行した。
ウィットウォースの規格の主なものは、ネジの山の角度を55度とし、山と谷の丸面取りの高さをそれぞれの全体の高さの1/6とした。
この規格は、おおむね好評をもって向かえられて、1841年の宣言以来2〜3年後には国の内外を問わず広く採用されるにいたり、20年後(1860年、明治維新の頃)には全英国でウィットウォースのネジとして認められ海外にも使用されるに至った。
 
▼ 憂鬱な晩年と米国機械の台頭
ウィットウォースの晩年は、兵器、特に小銃と大砲の改良に傾注することになるが、彼のアイデアは英軍に受け入れられず憂鬱な日々を送ったと言われる。
米国を視察し、人力の熟練によらず機械の優秀さで量産、互換性、原価低減を実行しているのを目の当たりにし、英国の工作機械の将来を憂えて生涯を閉じたと言われている。
 
 
■ ウィリアム・セラーズ(William Sellers)
▼ 米国工作機械の祖
ウィットウォースが英国の機械産業を憂える中、機械産業は英国から米国に移っていく。
米国の論理的で無駄のないプロジェクトの進め方は、お家芸のようでさえある。
米国の工作機械の出色は、ブラウン・シャープ社(創設者:ジョセフ・R・ブラウン)とバンクロフト・セラーズ社(創設者:ウィリアム・セラーズ)に見ることができる。
ウィリアム・セラーズ(William Sellers:1824-1905)は、米国工作機械の父、米国のウィットウォースと尊称された。彼の数々の功績の中で出色のものは、現在のインチネジの標準規格であるセラーズねじを設計、製作、普及させたことである。
 
▼ 現在のインチネジの規格化
ウィットウォースネジと米国が規格化しようとしたインチネジの違いは、ネジ山の角度を55度から60度にしたことと、山と谷の丸面取りを改めて平面とし、それぞれの高さをピッチの1/8としたことである。
ネジ山の角度を60度に変えて鈍角にしたのはネジの強度を強くするためであった。
米国の産業では55度の角度を持つウィットウォースネジはあまり好まれず60度のネジが使われていたのである。
丸面取りを止めて山と谷を平面とし高さをピッチの1/8としたのは加工を容易にした結果であった。
セラーズは、このネジの規格を1864年4月フランクリン協会の会長として提案し反響を呼んだ。
1868年には政府の後押しもあって、1869年にはペンシルバニア鉄道がこのネジを採用するに至り、全米への規格化に動いていった。
 
 
【オーディオの標準化】
製品の標準化には莫大な利権が転がり込む。パソコンの世界のマイクロソフトがOS標準の勝者となり、創設者ビル・ゲイツは巨万の富を築いた(このエピソードはAnfoWordl別館のパソコンの文化11「DOS/V(ドスブイ) = IBM DOS version J5.0/V」「MS-Windows(ウィンドウズ)」を参照されたい)。
ちょっと趣向を変えてもう少し小さな世界(それでも十分に大きな世界)、レコード業界で起こった標準化の駆け引きについておもしろいエピソードがあるので紹介したい。
 
■レコードのエピソード
 
▼ CBSとRCA
1948年、米国の大手レコード会社CBSは、長時間演奏のレコードアルバム、すなわちLPを発表した。
過去40年間のレコードの標準が一分間78回転だったのに対して、新しいレコードは一分間に33と3分の1の回転をする規格を作った。
LPレコードの針は古い78回転レコードに比べて小さいから、レコードの溝の間隔を狭くすることができた。
これと78回転に比べて遅い回転速度のおかげで、LPの両面には以前よりも長時間の音楽を収録できるようになったのだ。
しかも音質が良い。こうして、LPは「Hi-Fi(ハイファイ、高音質=ハイ・フィデリティ)」と呼ばれるようになったのである。
LPの再生に使われる針は小さく針圧も軽いから、従来の78回転レコードに比べてレコードの磨耗が少ない。そして針圧が軽くなったおかげで、レコード盤の材質を従来使われていた厚くてもろいプラスチックではなく、割れにくいビニールで作れるようになった。
あらゆる面で、LPは従来の78回転レコードよりも優れていた。確かにリスナーはLPを聞くための新しいオーディオ装置を買わなければならなかったし、LP盤は78回転レコードより高かった。しかしすばらしい高音質で音楽を聞けることに比べたら、そんなことは大した問題ではなかったのだ。
1948年、CBSがLPを発表した時期とだいたい同じ頃、街の反対側ではRCA(米国の音楽会社)が最初の45回転シングル盤を発表した。LPほどではなかったが、45回転レコードも78回転レコードより音質がいい。しかしLPが片面に20分収録できるという特徴を持っていたのに対して、45回転レコードは78回転レコードよりも安く、LPに比べるとはるかに安くコストを抑えられるという特徴を打ち出した。45回転盤は、ジュークボックスにも向いていた。真ん中にある大きな穴が、ジュークボックスのロボットフィンガーがレコードをつかむのにもってこいだったのだ。
45回転もすばらしい製品だったが、やはり新しいプレイやーを購入しなければならなかった。
1948年と言えば、一つの戦争が終わり、次の戦争のことなど誰も考えもしなかった時代である。当時、アメリカとアメリカの嗜好が世界中を支配していた。ちょうどそんな時期に、レコード業界は次の40年間に音楽はどう売られるべきかという二つのすばらしいアイデアを提案したのだ。その結果、何が起こったのだろう??
 
▼ オーディオ業界のスランプ
どちらのタイプのレコードを買おうか決めかねていたアメリカ人は、結局どちらも買わなかった。そのために、レコード業界はあっという間に4年間にわたるスランプに陥ってしまったのである。
1948年にレコード業界に起こった出来事は、業界の二大メーカが全く同時に新しい技術的標準を販売しようと決めたことの結果だった。
結局、45回転レコードは若者の支持を獲得し、LPは市場の高級志向(ハイエンド)の部分をとることになった。そして両方のレコードがかけられるプレイヤーが登場し、二つの標準は最終的に互いに補い合う形で市場に出ていくようになったのだ。だがこうした状況は、それぞれの発明者たちの当初の意図とは違っていた。どちらも、市場を完全に独占するつもりだったのである。
市場には常に二つの標準が存在するものだが、そのうちの一方が必ず市場を独占するようになる。たとえば、乗り物を買いに来た客の85%は乗用車を買い、残りの15%はトラックを買う。また、アメリカの家庭にあるビデオカセットレコーダの85%はVHSで、残りの15%は8ミリビデオだ。この二つの数字、85と15にはいたるところでお目にかかる。これは神様が消費者向け製品に対して決めた第一の標準と第二の標準の自然な比率なのかもしれない。
 
 
【ビデオテープレコーダの規格】
 
▼ 日本ビクターとソニー
ホームビデオの規格においても標準化のための激しい競争があった。日本ビクターが開発した1/2インチ磁気テープをカセットに収めたVHS方式と、Sonyが開発した同じ1/2インチ巾の磁気テープをちょっと小さ目のカセットに収めたベータフォーマットタイプの2つのタイプが開発され、1976年から1985年にかけてて熾烈な争いを続けた。磁気テープ方式のテレビ画像の記録装置の開発は、1950年米国からスタートする。VTR開発の動機は米国東部と西部とのTV放送の時差を解消する手段のためと言われている。
 
▼ ビデオテープレコーダの開発
1951年、米国RCA(サーノフ会長)社の三大重要研究項目の一つとして開発が指示され、サーノフ会長はこれをVideographと名付けた。2年後の1953年、RCA社は磁気テープを4系統に分ける4トラック方式のカラーTV録画の研究発表した。その3年後の1956年には、英国BBC社はVERA(白黒TV用録画装置)という装置を開発する。これらのビデオ録画装置は録画する磁気ヘッドがオーディオテープレコーダと同じ固定ヘッド方式であったため画質はテープの走行速度依存していた。当時、テープ速度は数m/sで、収録時間が短く、テープの走行ムラが直接再生信号のジッタになったため実用化にならなかった。
 
▼ 米国Ampex
 1956年4月、米国Ampex社社は磁気ヘッドを回転ドラムに取り付けヘッドを回転させるビデオ録画装置を開発する。4ヘッドバーティカルスキャン方式VTRと呼ばれるものでこの開発により固定ヘッドが抱えていた諸問題を一気に解決した。VHSもベータフォーマットのホームビデオ装置もこのアンペックス社の回転ヘッドの流れをくんだものであった。
 1957年、米国放送業界の大手CBSは、Ampex社から10台のVTRを購入した。日本では、1958年にOTV、NHK、TBSがAmpexのVTRを輸入している。
▼ 日本での開発
日本での製品開発は、1954年より東芝と日本ビクターによってスタートし、1959年には東芝より1ヘッドヘリカルVTRが発表された。翌年日本ビクターは、ヘッドの数を1つ増やした2ヘッドのヘリカルVTRを発表する。国産のVTRは1960年のローマオリンピックで華々しくデビューすることになる。1960年、NHKは、東芝の1ヘッドヘリカルVTRをもとにPAL方式のTV信号をNTSC信号に変換するTV方式変換装置を開発し、ローマオリンピックに使用した。
1964年11月にはSONYが登場する。ソニーは、オーディオで培った磁気記録の技術をさらに磨きをかけて、1/2インチオープンリール2ヘッドヘリカル方式VTRを実用化し放送業界に足場を築いていく。1969年からは、それまでオープンリールテープタイプから使い勝手のよいカセットテープタイプのビデオレコーダの開発が急ピッチに進む。このカセットレコーダ開発の急先鋒がソニーと日本ビクターであった。
 
▼ U-matic規格とベータ、VHS
1969年、SONYは放送業界で一時期標準となる3/4インチ巾のテープをカセットに収めたU-matic規格を発表する。
1975年にSONYは、家庭用向けのビデオテープレコーダに「ベータマックス」方式を取り入れたVTR発表する。同年、松下がVX方式VTRを発表し、翌年には東芝・三菱がVコードII方式VTRを発表している。
そして、ソニーのベータマックスに遅れること1年後の1976年、日本ビクターがVHS方式VTRを発表する。これに対抗するかのように、1977年にはグループを巻き込んだ形でソニーは東芝、三洋と一緒になってベータフォーマット方式VTRを発表するに至る。日本ビクターの親会社である松下はホームビデオは両者に落ち着くと睨み自社開発を諦め両者の動きを注意深く見守った。日本ビクターとソニーは互いに自ら開発した規格統一に向け仲間に入るグループ作りに専念する。しかし仲間作りに両者の特徴が出た。二つの規格は同じ1/2インチ巾の磁気テープを使っている点やカセットにテープを詰め込んで使う点など極めて似た所が多く画質も両者甲乙つけがたかった。わずかな違いといえばソニーのベータフォーマットの方がカセットが小さくコンパクトで、ビクターの方が少しばかり長時間の録画ができた。
 
▼ 熾烈なグループ獲得争い
グループを作るに当たってビクターは内部の技術情報を公開した。ソニーはビクターほどオープンに技術情報を公開せず主従の関係をより明確にさせたグループ作りを目指した。ソニーのグループ作りの対応に故松下幸之助会長はいたく立腹し松下電器産業の方針をVHSに切り換えていく。業界での松下の影響力(販売網)は強く、松下をグループに加えたVHS陣営は次第にシェアを伸ばし最終的にはベータフォーマット規格を駆逐してしまった。一般家庭のマーケットを知り尽くした松下の強みと恐ろしさを世間に知らしめた出来事でもあった。
 VHS vs ベータ戦争の後遺症はソニーに少なからぬ打撃を与えた。大きな損失を出し売り上げに多大なる影響を与えた。幹部に対するボーナスカットも行われた。
 
▼ ベータカム
ソニーが開発したベータフォーマットは現在放送局分野で「ベータカム」というカメラとその取材システムで生き続けている(実際は家庭用VTRの基準と違うだろうがカセットテープはベータフォーマットのものが使われている)。放送業界のソニーの力は強い。録画装置とカメラが一体になったベータカムは業界標準になっている。この理由は画質のクォリティの高さもさることながらカメラの操作性、局に帰ってからの編集の容易さにある。
VHS vs ベータ戦争で敗れたソニーは即座に次の戦略を打ち出し8mmビデオで新しい基準を打ち出し市場制覇に乗り出した。そして8mmデジタルムービーと続いていく。
 
 
【コンピュータの標準軌 - ビル・ゲイツとは違う標準化の仕方】
 
▼ 多様な製品
アメリカの鉄道事業の黎明期、レール幅には規定がなかった。そこで、当初はそれぞれの鉄道会社がまちまちの幅でレールを敷設していた。その結果、ある土地からの別の土地に貨車一台分の穀物を運ぶ時に1台でスムーズに運ぶことができなかった。鉄道業界がたった2本のレールを軌間を規格化するまでに約30年かかった。そしてこの業界に線路幅の規格が誕生することにより、標準軌(スタンダード・ゲージ)と呼ばれる軌道が市場の約85パーセントをしめることになったのである。
いまコンピュータの世界でも、標準軌が生まれようとしている。新しいことを行うには新しい規格が必要である。データを記録するメディアだけでも、
オープンオーディオテープ、フィリップスタイプオーディオカセットテープ、コンピュータ用MT、8インチフロッピィディスク、5インチフロッピィディスク、3.5インチフロッピィディスク、Zipディスク、Jazディスク、128MB光磁気ディスク、230MB光磁気ディスク、630MB光磁気ディスク、1.1GB光磁気ディスク、コンパクトディスク(CD)、光レーザディスク、DVD、1/2インチVHSテープ、1/2インチベータフォーマットテープ、8mmビデオテープ、MD、ハードディスクドライブ、フラッシュメモリ、PCMCIAカードメモリ・・・
という途方もないくらいのメディアが市場に溢れている。
データを保存するメディアだけでもこれだけの標準候補がある。コンピュータにはその他に通信に関する規格、ディスプレイに関する規格、入力に関する規格、ソフトウェアプログラムに関する規格、それにOS(オペレーティングシステム)に関する規格など枚挙に暇がない。
 
▼ OSの標準化
コンピュータ産業が個人をベースにしたビジネスに成長した今、市場規模は世界規模で100兆円規模をはるかに超えているだろう。この市場を1社が牛耳ることは不可能だ。IBMでさえそれは不可能だ。
 今後は、ライバル会社が作ったコンピュータやソフトウェアをゼロから作る会社の製品が成功することになるだろう。コンピュータの根本要素の一つであるOSについて考えてみたい。OSの詳しい成り立ちは、AnfoWorld別館『パソコンの文化』パソコンOSの誕生コンピュータの系譜、他)を参照されたい。
 
▼ Windowsとは別の標準軌 - UNIX 
この異端のアイデアを私たちに提案したのは、サン・マイクロシステムズ(SUN Microsystems)という会社である。サンはオープンシステムズ・コンピューティングという概念を考え出し、ソフトウェアを文字どおりタダで提供することによってコンピュータの一マーケット分野を切り開いた。アップルやマイクロソフト、IBM、DECなどの会社とはまた違った形態の新しい会社が現在もUNIXというネットワーク環境に強いシステムを活かしながら総合システムを提供する会社として確固たる位置を築いたのだ。こうした会社のあり方が次代の標準になっていくのかもしれない。サンという会社は、「UNIX」(ユニックス)という究極のコンピュータOSを周辺装置を巧みに利用して完成させた会社、と言えなくもない。
ネットワークコンピューティングが主流になりつつある今、
パソコンよりも先んじてネットワークコンピュータの文化を
作ったUNIXは、今や業界の標準になりつつある。
Windowsというマイクロソフト社が開発したOSも、現在はWindowsNT、Windows2000というUNIXを意識しUNIXと同じような概念のOSに変わりつつあるし、Windowsのライバルの「Linux」もUNIXそのものである。またアップルが開発を急いでいるMac OSXもUNIXを骨格としたおしゃれなOSと言えなくもない。
 
▼ SUN創設
コンピュータ業界のほとんどすべてのベンチャー企業がそうだったように、サンと言う会社もゼロックスの失敗がきっかけで生まれた会社である。DARPA(国防総省国防高等研究計画庁)はゼロックスで開発されたアルト・ワークステーションを購入したいと考えていた。ゼロックスのスペシャルプログラム・グループは、これをアルトの全開発予算をまかなえるだけの金額をふっかける絶好のチャンスだと思い、DARPAでさえ手が出ないほどの価格提示をした。彼ら(DARPA)は仕方なくゼロックスとの交渉を諦めて通りの先にあるスタンフォード大学へ向かい、そこでモトローラ68000プロセッサを使った汎用ワークステーションを発見した。これは「S・U・Nワークステーション」(Stanford University Network Workstation)と呼ばれ、本来スタンフォード大学ネットワークで使うために設計されたものだった。
SUNワークステーションは、ドイツからスタンフォード大学院に留学していたアンディー・ペヒトルシャイムという学生が設計したものだ。スタンフォードでもゼロックスと同じように売ることが目的でコンピュータを作っているわけではなかったので、ペヒトルシャイムはDARPAの要求を聞きその注文を肩代わりしてくれるコンピュータ会社を探すことにした。3-Com(スリー・コム)のボブ・メトカーフにSUNワークステーションの製造を持ちかけたが、断られてしまった。ベヒトルシャイムは、IBMにまで話を持ちかけた。しかしIBMもSUNワークステーションの製造を断わってしまった。
 結局、どこの会社もSUNワークステーションの製造に関心を示してくれなかった。そこでベヒトルシャイムは、自分でサン・マイクロシステムズという会社を始めることにしたのである。ビノド・コースラとスコット・マクニーリという二人のスタンフォード大学院生と、バークレーから来たビル・ジョイの三人が、彼のパートナーになってくれた。そして、スタンフォードの三人がハードウェア設計とビジネスプランの作成を担当し、ジョイが、ソフトウェアを担当することになった。彼は、UNIXオペレーティングシステムのバークレー・バージョンで重要な役割を果たした経験がある。
 
▼ あり合わせの寄せ集め
サンには独自の技術を作り出す余裕はなかったから、新しい技術はいっさい開発しないことにした。SUNワークステーションが独創的なコンピュータだったら、スタンフォード大学は設立したばかりのこの会社にロイヤリティーを要求していただろう。だがこのワークステーションは、それ自体がそれほど画期的なものではなかったのだ。ネットワークにはボブ・メトカーフのイーサネットを採用し、外部記憶装置にはスモール・コンピュータ・システムズ・インターフェース社(SCSI)仕様に準拠した市販品を使っていたのである。また、ソフトウェアはビル・ジョイが作ったバークレー版UNIXを採用した。バークレー版UNIXがDECのミニコンピュータVAXでうまく動いたから、ベヒトルシャイムと彼の友人達は単にVAXをもっと安いハードウェアに交換したかっただけだったのだ。言語からオペレーティングシステム、ネットワーク、そしてウィンドウ・システムまで、すべてがあり合わせの規格品ばかりだったのである。ここでUNIXと言われるOSについて触れる。
   UNIX:
   ▼開発者
   UNIXは、1968年にAT&T(アメリカ電話電信会社)ベル研究所
   のケン・トンプソンとデニス・リッチという二人の科学者によって
   開発された。開発の動機は、それまで使用していたタイム・シェア
   リング・システム(TSS)がユーザフレンドリでなかったからだっ
   た。二人は、DECのミニコンPDP-7で高級言語のC言語を使って独
   自のOS開発を作り完成させたのがUNIXだった。
 
   ▼由来
   UNIXの名前の由来は漠然としているが、unity(統一)とかunique
   (独自性)という意味と一説に言われている。また、UNIXはもとも
   とeunuchs(去勢された男)をもじった者とも言われている。UNIX
   は、“去勢されたマルティクス”という意味で、マルティクスとは、
   ハネウェル・ブル社が開発したタイムシェアリング用大型OSであっ
   た。当時ベル研究所で使われていた大型コンピュータのOSがこのマ
   ルティクスであり、このOSに彼らが不満を持っていたというのであ
   る。
 
   ▼UNIX教
   UNIX開発当時、コンピュータ自体が高価で扱いが難しく限られた人
   しか使うことができず、OSそのものも扱うのが難しかった。それは
   ちょうどラテン語で書かれた「聖書」のようなものであり、彼らは
   コンピュータの文化に宗教にも似た独特の文化を築いて行く。それ
   は「ユニックスタリアン」という言葉が表しているように熱狂的な
   信者を作り、多くの宗教と同様、いろいろなUNIXから派生した宗派
   を作って行った。
   UNIXは、技術者に評価されたが、AT&Tは求めに応じてソース・プ
   ログラムであるソースコードと技術情報を公開した。ところが、自
   分の都合の良いように、それを置き換えるコンピュータメーカやユ
   ーザが続出した。その結果、UNIXとはいうものの、オリジナル版と
   は微妙に異なるUNIXが世の中に出回るようになった。コンピュータ
   業界ではこれらのUNIXを「方言」といっている。1980年代の半ば
   の段階では、世界で方言は1000を越えるのではないかと言われるよ
   うになっていた。
 
   ▼UNIXの統一
   その後、UNIXは、統合の機運が高まり、最終的に大きく分けて2つ
   の流れができる。現在SUNの上級技術重役のビルジョイがスタンフ
   ォード大学学生時代に作成したBSD版と、AT&Tが開発をさらに続
   けたシステムV(ファイブ)の2つ。
   しかし、1993年3月、Windows NTの開発でUNIXの危機に火がつ
   いた両陣営は本格的に統一の模索をはじめた。
   米国HP(ヒューレット・パッカード)、IBM、サンソフト、ザ・サン
   タ・クルーズ・オペレーション、ユニベル、USLの6社が発起人とな
   り、その他、25社以上の賛同を得て、「共通オープン・ソフトウェア
   環境」を提唱する『COSE』(Common Open Software
   Environment)発表した。目的は、業界標準ソフトウェアの共通仕様
   化を促進し、異なるUNIXシステム製品間の移植性(ポータビリティ)、
   統一性、相互運用性(インターオペラビリティ)の向上を推進すること
   であった。
 
   ▼Linux
   COSE発足の2年前に、フィンランドのライナス氏は独自にPCで動くUNIX、
   すなわち、Linuxを書いていた。
   Linuxの特徴は「オープンソースのOS」として有名になった。
   オープンソースとは、プログラムが誰でも見えるように、ソースコード
   (ソフトの設計図)を完全に公開したプログラムのことを言う。
   (正確には公開することが義務付けられている)
   従って、当然の利点として、インターネット上でこのプログラムをタダ
   で入手できるので、とんでもなく大勢の人々が入手して、物凄い勢いで
   改善されることになる。
   (ネットスケープ社もブラウザソフトNetscape Communicatorのプロ
   グラムソースを昨年公開したが、Internet Explorerと競争が激化する
   中、オープンにすることにより全世界の優秀な知恵を結集させることが
   目的だったと言われている。オープンソースは今後の注目すべき流れと言
   っていいだろう。)
   Linuxは、1991年にはユーザーが一人しかいなかったのに、現在数百万人
   を越えている。
 
標準化は多くの場合、力と力の論理が支配する。それは権力であることもあり、大衆の力であることもある。「運」が左右する事も多い。
 
 
 
 
●サラリーマン哀歌(新幹線車中にて)(2000.10.23)
 
 景気の低迷が言われ続けて久しいのに朝晩の通勤や新幹線の混み具合はどこ吹く風のようで、週末ともなると単身赴任をしている人々の西へ東への移動の脚となり、夕刻プラットフォームに滑り込む新幹線からは背広姿のサラリーマンが大量に掃き出される。
 月曜日の朝、首都圏の電車は異様な混み具合を呈する。しかし週末の朝ともなるとそれほどでもなくなる。なぜ週明けが異常に混むのかと言えば、週初めは客先に直行することがなく自分の会社に出社してミーティングや書類整理などの仕事をする人たちが多いからだろうと想像している。彼らは月曜日の午前中に週の計画を立ててその日の午後や翌日から客先訪問を始める。週末ともなると蓄積疲労が溜まり、「後、1日」という心のかけ声に励まされ、1週間の帳尻を合わせるスケジュールを消化することになる。
週末には約束を先送りしていた期限切れの物や人が動く。
 ここ数週間、週の後半は泊まりがけの出張が重なり、夕刻帰京の長距離電車に乗る機会が増えた。
 
 新幹線を使って西から帰京する車中で社員旅行(ゴルフツアーの帰り)のオヤジの団体に出くわし不愉快な思いをした。その団体は8名ほどの60才がらみのオヤジでシートを対面にして酒盛りやっていた。日本酒やらワインやらウィスキーやらが結構な量たらい回しされ、酒の肴もプンプンと匂いを周囲にまき散らしていた(タバコの煙よりいいか、と気を取り直すくらいちょいと異様な匂いだった)。自然と彼らの会話のボルテージが上がる、嫌でも会話の内容が突き刺さってくる。公共の場でおおっぴらに酒盛りされるのはとても辛い。ここは酒場とチャウんやぞぉ、と疲れていらだっている心がつぶやく。
こちらは缶ビール1本と柿ピーでささやかな週末の疲れを癒しているのに、オヤジたちのうるさいこと。こっちも酔っぱらわないと彼らの愚痴っぽい会話が神経を刺し心が消耗する。同乗した相方は全く酒をたしなまないので辛い車中になったことだろう、・・・こういう時は寝るしかないのだが。150名ほどの閉ざされた空間(16両ある車両の1つ)はいろんな人がいるハズである。貸し切りのバスや電車の空間ではないのである。酒をたしなまない乗客もいるだろう。そういう配慮はできないものかな。酒飲みは品位が悪いから見ていてとても辛い。彼らは会社の幹部(社長と専務、取締役の一行だったみたい)なのにあの素行はいただけなかった。
 彼らは、会社ではそれなりの地位もあり部下も多いだろう。だから会社ではちゃんと真面目に勤め上げていると想像する。
 こうした今回遭遇した出来事は彼らだけに責められる行動ではない。至る所で見られる光景である。
 日本人はpolite(親切)で行儀良くて親切だと外国から来た人々は褒めてくれるが、反面お酒の席では普段鬱屈した精神面を吐露するようなおぞましい社交場が現出する。
本音と建て前の日本の文化の一側面を見た。
 
 東京駅についた時、プラットフォームから窓越しに3才くらいの男の子が車内に向かってニコッて笑ってた。思わず見とれて笑いかけてる相手を見たら、30才くらいの人の良さそうな大柄なパパさん。彼もニコニコして自分の息子笑顔を返していた。
  《出迎えに来たんだな。》
プラットフォームに下りた時、その子供がニコニコしながら降り口の所に歩いてくる。後ろから、若い人の良さそうなお母さんがニコニコしてついてきてた。ジーパン姿でちょっとお肉がついて、髪を後ろに束ねて、顔は化粧をしていないんだけど嬉しそうに息子の後を歩いていた。
(きっと長い出張で、若いパパさんが週末の新幹線で帰って来るというので東京駅まで迎えに来たんだろな。)
なんか、胸に込み上げてくるものがあった。
 
・・・十年ほど前、私にもそんな経験があった、イギリスだったか長期に出張してて成田に降り立ったとき、息子ら(当時7才と4才)が迎えに来てくれた。キャッキャッって笑って出迎えてくれた。
あの笑顔はもう、安藤さんちにはないからそういう光景に出くわすと無性に懐かしさがこみ上げてくるんだろう。
 家路につくスカイライナーの車中で4人でシリトリゲームをして帰った思い出がある。
今は誰もシリトリゲームをやろうなんて言い出す奴はいない。
 
 いろいろな人を乗せた電車や人が交錯する駅は人生のいろいろな断片を見せてくれる、そんなこんなを感じた週末の長距離列車であった。
 
 
 
●日本の文化(つつましく生きる)(2000.09.04)
 
 過日、息子(中学生)の国語の教科書を読んでいて面白いトピックに出会った。日本の文化の一側面を面白く見据えて切り取った秀作だった。
 そのトピックを書いたのは、「やまだ ようこ」という発達心理学者。
トピックの題名は「包む」
この作品は、日本人が身も心も「包む」ことにこだわる文化もった人種であることをいろんな側面からアプローチしていた。こうした日本の独特の文化を良と見るか悪とみるかは賛否のあるところであろうが、折に触れる日本人の慎ましやかさをとても“涼”とする自分がある反面、はっきりとものを言わない日本人の感覚にストレスをためている自分をも認めている。いずれにせよ、日本が培ってきた日本的なもの、日本の文化を改めて面白く考えさせてくれた作品であった。
【やまだ ようこ: 1948年〜  岐阜県に生まれる。発達心理学者。
著書に『ことばの前のことば』『私をつつむ母なるもの』などがある。】
 
【物を包む包装の美学】
 国語の教科書『包む』という作品には、彼女が包装展に参加して、「包む」美学に感心させられた様子が描かれていた。展覧会には、寿司や菓子の木箱、味噌や酒の樽、香辛料や羊羹の竹筒、魚や餅の竹皮や竹かご、ちまきやだんごの葉包み、縄の巻き柿や納豆のつと、米や炭の俵、酒とっくりや漬け物かめ、におい袋や紙袋などが展示されていた。これらの多くはふだん身近にあるものばかりだが、一堂に並べてみると、それらに一貫して流れているシンプルな美しさと静かさで確かな存在感に息をのむほどであったという。
彼女は言う。
『今までわたしは「米俵の美」など考えたこともなかったのだが、力のこもった丸い形態や、わらの縦線と縄の結び目の生み出すリズムの完成度の高さに驚いた。米俵は、米の副産物のわらを使ったいわば廃物利用の包みだが、細かくてこぼれやすい物をしっかり包み込み、移動にも積み重ねにも適した形で、しかも編み目を傷つけないで中の米の質を調べられるように編まれていた。
 展覧会の席で話題になった五つの卵を縦に並べてわらで結びつけただけの簡素なわらつとには、卵の丸い美しい形、成長を内に秘めた力強さをそのまま生かしながら、卵の危うさ壊れやすさを補う確かな技術がさりげなく添えられていた。
 このように、自然の素材と中身の形態をたくみに生かした、用の美にかなうさまざまな包みは、どれも気の遠くなるような年月に渡って受け継ぎ洗練させてきた、無名の人々の知恵と美意識の結晶である』
 
【風呂敷の機能性】
 「包む」ものの一番ポピュラーな風呂敷についての面白い見解があった。単なる布きれが多くの機能を持って日本の生活を支えてきた。日本人の生活の知恵と文化の結晶を見ることができる。今は廃れてしまった「ふろしき」の機能性に日本の文化の一面を見ることができる。
『ふろしきは、もと平包みともいわれ、入浴の時に用具を運んでいき、衣服を脱いで包み、風呂から上がった後にはその上で衣服を着けるのに使われたという。一枚の布で、持ち運び用の袋、脱衣かご、バスマットをかねたわけである。
 ふろしきは、それ自体に形がないから、中身に合わせて、四角い物も丸い物も包むことができる。革のバックでは形が決まっているために、用途や中身によって何種類も必要になる。ふろしきは、不必要になれば畳んで小さくすることもできる。古いバッグの再利用は難しいが、ふろしきは幾枚あっても場所をとらないし、のれんや敷物やぞうきんに使うこともできる。』
 
【風呂敷文化の延長】
『ふろしきの思想は、日本のふとんや部屋の使い方にも共通している。ふとんを畳んで押入にしまい、隅に折り畳んであったちゃぶ台を出せば、同じ部屋を寝室から食堂へ、そして茶の間へと自由に変形できる。このように時と場合によって形態や機能を変えるのは、わたしたちの住生活が貧しいからではない。寝室にはベッド、食堂にはテーブル、居間にはソファーを置くには、その目的だけの固い箱(部屋)が必要で、空間の使い方は限定されてしまうだろう
 ふろしきの思想は、和服にも共通している。着物は、20代の人が40代になって体型が変わっても着られる。変形も容易である。洋服のように身体に合わせて切り刻んでいないから、もとの布に戻して仕立て直すこともできる。そして使わないときには、畳んでしまえるから、型崩れしないように固い大きな箱(洋服ダンス)に掛けておく必要はない。
 いつから、バックはカッコイイが、ふろしきはダサイものになってしまったのだろう。なぜわたしたちは身近にあるよいものを認めて大切にしないで、遠くの外国のものばかりあこがれるのであろう。』
 
【包む文化の潜在的意識】
 風呂敷の包む文化から、人との付き合いのなかで自分を包む、相手を包むことに対してどういう文化が生まれてきたのであろうか?
『「包む」ことは、物を保護したり保存したり移動させたりするために、世界中に見られる普遍的な行為だが、それをとりわけ大切に育んできたのが日本の文化かも知れない。デパートで贈答用の菓子を買うと、一つ一つが薄い和紙にくるまれ、化粧箱に入れられ、のしがかけられ、包装紙で包まれ、さらに紙袋にくるまれて手渡されるのが常である。
 ところで、「つつむ」には、人の感情や表情を内に抑えて、外に表れないようにするという意味もある。その変化した形である「つつしむ」も「つつましい」も、ともに、あからさまではなく、控えめであることを意味している。
 わたしたたちが「つまらないものですが。」「ほんのおしるしに。」と言いながら、幾重にも包まれた中身を差し出すのは、「つつしみ(慎み・謹み)」こそ、大切な心が入っているしるしだからである。それは、「わたしの心をこの中に包んであなたに贈ります。」と無言のうちに伝える、非言語的コミュニケーションの一つなのである。』
 
【包む日本文化】
『日本文化では、「心」は、「身」の中に包まれた中身として認識される。「身」と「実」は同じ語源をもつといわれるが、「心」は、リンゴの実の中の芯のように身に包まれている。すなわち、「皮」の内部に「み(実・身)」があり、さらにその中に「しん(芯・心)」があるというわけである。
 わたしたちにとって「心」は、奥に秘めたところ、中心や核心にあるほうが気持が安らぐように感じられるのは、それが心の居場所だからであろう。
 このように、身と心を一つのものの外と内とみなす認識のしかたは、進退と精神を二つに分けて対立するものとみなす西欧の認識のしかたとは違っている。
 わたしたちの心は、小箱の中を開けるとその中にさらに小箱が入っている日本の伝統的な容器「入れ子」のように、幾重にも包まれた形をしている。本当に大切なものは、裸でむき出しよりも、何かの中に包まれていた方が自然で安定していると感じられるのである。』
 
 こうしてみると、日本の文化は慎み深い、心を優しく包み込んだものであると言って良い。決して直截な物言いをしないように気を遣い、人を傷つけないように自分の気持を何かに包んで相手に伝える文化である。
 こうした反面、日本人は本音と建て前の社会風土を持っている。やまだようこ氏が述べている「入れ子」の中身が大したこと無くて、包む外側が大仰なものだとしたら、これはまさしく日本の今のおかしな、世界の目から見ると異質で何を考えているのかわからない「本音と建て前」という日本の一側面が浮き彫りにされてくるのであろう。
 
 我々の世代は、欧米の文化を強烈に受け入れてきた時代であった。古いものはどんどん捨て欧米の文化を無条件に受け入れてきた感じを受ける。ただ、都合の良いところだけは昔の日本の文化を残しているようである。我々の世代も若い頃は「現代っ子」と呼ばれて、当時のオトナ達が我々の行く末を案じ、悲観的になっていたのを思い出す。そうした我々が今の若い世代を「現代っ子」と批判し悲観的になっているのは皮肉なことである。
 実のない心をことさらに包み込んで外に出さない気持は誰の心にもあろう。外側をことさらに着飾ることは欧米でも盛んである。ただ欧米は包むという概念は無いようだ。着飾るという意識はあるものの身は包み込まずに外に出してうまく表現するという考え方である。
 高校時代、日本人と欧米の人間関係について読んだ本に、日本人は心の奥底に届くまでかなり着込んだ外面がありうち解けるまでかなりの時間が必要で、その反面欧米人はかなり容易にある程度の実まで到達できるというのがあった。たしかに欧米人は気さくに話しかけいろんな意見を交換する。
 日本はどんどん欧米化されて個人が尊重され、ストレートな物言いや、着飾らない風土が若者の間に定着しだしてきている。だからといって「つつましさ」を捨て去って良いとは言い切れないだろう。この包むという文化はお隣の韓国にも中国にもない日本独特の文化であるように思う。
 心の自然な流れと身と心のバランスがとれるきれいな包みの日本人になることが日本人の良さを守っていくことだと思う。
 
 
 
 
●天現寺からの帰り道(小学生のしつけ)(2000.07.14)
 健康のために自転車(マウンテンバイク)を乗るようになって1年あまりが経とうとしている。最近は都内の名所旧跡を訪ね歩くのにマウンテンバイクを利用するようになった。自転車から見る町の風景は電車から見る風景や自動車での移動とはまた違った風景を提供してくれる。
 ある5月の昼下がり、自転車を支度して、目黒白金台にある国立科学博物館附属の自然教育園に 向けてペダルを漕いだ。高校時代の友人がメールくれて、あそこは自然(武蔵野)の宝庫、と教えてくれたため、矢も楯もたまらず自転車に飛び乗ったのである。
 帰り道、天現寺から広尾に抜ける歩道で、Yoochi舎(KO大学附属小学校)の児童3人組が歩道を塞ぐように歩いているのにでくわした。Yoochi舎の児童はランドセルにペンの紋章が焼き付けられているのですぐわかる。
「Yoochi舎のボンボンはしょうがないなぁ。世間知らずのボンボンだからなぁ、自分のことバッカ考えてんのかなぁ。この子たちは大きくなったらステータスの高い社会人になるんだよなぁ。」
なんて考えながら、いつ道あけてくれるかなぁ、としばらくの間ユックリと彼らの後に従うようについていった。しばらくして、何かの拍子に後ろを見た児童の一人が自転車が来ているのに気づいて仲間を促した。そのうちの一人の子が小走りに前に走って道を空け、私の方を向いて後ろ向きで歩きながら、ペコリとお辞儀をした。
「道を塞いですいません」
とでも言うかのように。
なんてしつけの良い子だろうと、思わずうれしくなってしまった。
こんな子がYoochi舎にいるんだと思ったら、KOもやっぱ捨てたもんではないな、と変に評価が高くなってしまった。
 東京人のKO贔屓(びいき)というのはすごいものがある。地方出身者から見るとKOよりも個性豊かでハングリー精神の旺盛なW大学の方が魅力に感じるのだが、東京人のKOブランドはスゴイ。KOにあらずば大学にあらずみたいなところがある。毛並みがすごく良い。めでたくKO大学に入学しても、KO高校から来てないやつは外様扱いだろうし、KO中学からでないともっとダメ。それ以上にYoochi舎から上がってこないと真のKO Boyに非ず、見たいなところがあるようだから(これは東京に出ていろいろなお客様の話を聞いて実感した)、Yoochi舎の子供なんかすごい鼻持ちならない子かと思ってた。
それが今回、こんなしつけのいい子もいるんだと、なんだかうれしくなった。
(ちなみに女子高生3人組は絶対道あけない、というか絶対後ろを見ない。そこが男と女の違いだ。女性の歩行者集団は総じて視点が狭い。歩いているときは仲間の位置関係が大事で周りが見えない。そういう女学生がほとんど。例外は10にひとつくらいだ。)
 
 
 
 
●「司馬遼太郎が愛した世界展」を見る(2000.05.27)
 
 5月16日、「司馬遼太郎の愛した世界展」を見るために神奈川近代文学館を訪れた。神奈川近代文学館は、ケヤキとイチョウの葉の生い茂る山下公園から石川町に向かう小高い丘、港の見える丘公園に隣接されている。
 司馬氏は、1996年2月(4年前)自宅で倒れて急逝された。死ぬ直前まで歴史を考え歴史の中に自分を置いていた人だった。名誉とか世俗欲にはほど遠く、いつも歴史の中に自分をおいていた、そんな人だったような気がする。司馬氏の作品に触れてからと言うもの、人間の見方が変わり、歴史の見方も変わったように思う。「活きた歴史」、それを司馬氏は我々に絶えず与え続けていたように思う。
 
【最初の出会い】
 私が初めて司馬さんを知ったのは中学1年生の時と記憶する。NHKの大河ドラマが驚異的な視聴率を稼ぎ出した時代で、そのドラマ、北大路欣也扮する「竜馬がゆく」(43年 1月 7日〜43年12月29日)を見た時だった。当時、歴史にそれ程深い興味のなかった私は、坂本竜馬という人物がどれほどの器量の持ち主でまた、歴史的にどんな立場にいた人かもわからなかった。NHKの大河ドラマに採用されたと言うだけで「大した人なんだ」という単純な思いしか抱かなかった。当時、作者である司馬遼太郎という人物にもそれほどインパクトをもって受け入れてはいなかった。内容にのめり込むこともなく漠然と、そしてたまにテレビを見るという程度の認識であった。
 
【高校時代の接点】
 高校生になって週刊朝日を読むようになった。その週刊誌には、早乙女貢の「おけい」や池波正太郎の「真田太平記」の時代小説が連載されていて、司馬遼太郎の「街道をゆく」も連載され始めていた。ちょうど昭和46年(1971年、私が高校1年生)のことである。以来彼が急逝する1996年までの25年間延々とこのシリーズが続くわけである。文庫本にして43巻。
書きも書いたりという感じである。わたしはどういうわけか当時、「街道をゆく」をおもしろおかしく読んだ記憶がない。世間を知らない高校生の私にとって風土も歴史もそれほど興味をそそるものではなかった。
 高校三年生の時に、再びNHKの大河ドラマで「国盗り物語」(48年 1月 7日〜48年12月30日)が放送されるようになり、司馬遼太郎の名前を再度意識するようになった。斎藤道三の名前がやっと私の頭の中に住むようになり、学校の歴史で学んだ「下克上」という名前の重みをこのドラマから知ることになった。斎藤道三の名前はそれ以前にも知るチャンスはあった。岐阜城(金華山)には何度か登ったことがあったし、そのときに彼の名前は目に入ったはずである。しかし頭に焼き付くまでには至らなかった。
 当時、私は受験生だったこともあり、この「国盗り物語」のドラマをすべて見たわけではなかった。
 同じ時期NHKでは「日本史探訪」という歴史ドキュメンタリーを手がけていて、歴史上の人物にスポットを当ていろんな側面からその人物の人となりを浮かび上がらせる番組を放送していた。鈴木健二アナウンサーが主に音頭をとって、海音寺潮五郎氏とか司馬遼太郎氏、山本七平氏、新田次郎氏のような歴史に新しいスポットを当てることができる人を招いて歴史上の人物の人となりをおもしろおかしく引き出していた。わたしはこの番組をテレビで見るよりも番組を本にまとめたものを学校の図書館で貪り読んだ。私は高校を親元を離れて下宿していたのでテレビがなかったのである。
対談形式でまとめられたその本は生きた日本史を私に与えてくれた。司馬遼太郎氏に近づいた第一歩であった。その対談の中で司馬氏は歴史上の人物をイキイキと蘇らせていた。
 ちなみに、NHKの歴史番組は、順序は定かでないが、
「日本史探訪」、「歴史への招待」、「ライバル日本史」、「堂々日本史」、「歴史スペシャル」、「歴史誕生」、「ニッポンときめき歴史館」、「その時歴史が動いた」
と変遷してその都度新鮮な切り口を今も我々に提供している。
 
【竜馬がゆく について】
 高校時代と大学時代を通じて司馬良太郎氏の「竜馬がゆく」が女性にかなり人気をもっていることを知った。彼女たちの願いは、京都に行って竜馬が歩いた街を歩くことであり、高知の桂浜に行って竜馬像に涙することであった。
私は、そのときになってもまだ「竜馬がゆく」を読んでいなかった。
まだ、私の意識には竜馬は遠い存在であった。我々が習った中学、高校の日本史には坂本竜馬という人物が鮮明に出てこないのである。
司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」という本を通して彼に歴史の大きな位置を与えた。司馬氏以外に坂本竜馬をこれほど評価した人物はいまい。この本のおかげで日本中に「竜馬」ブームが吹き上がる。「竜馬がゆく」は、司馬氏が手がけた作品の中でもっとも売れた作品(1880万部)となった。
司馬氏は、日本の歴史上の人物の中で竜馬だけは世界のどこに出しても恥ずかしくない人物と評している。
 「薩長連合、大政奉還は、坂本竜馬一人がやったこと」と勝海舟が言ったことの真意を探るため、司馬氏は10年もの間じっくりと取材、調査を続け、昭和37年産経新聞の夕刊に連載を始めた。
 私の書庫の「竜馬がゆく」の各巻末には最初に読んだ日付と読み終わった日付、2回目に読んだ日付などが記されている。
一回目は1981年の8月に読んでいる。2回目は9年後の1990年1月になっている。このインターバルでいくと今年あたりが3回目を読み始める頃合いになる。
 
【司馬良太郎 点景】
 白髪、ロイドメガネ、ヘビースモーカー
 旅先の風景に立ち遠くを眺める人
 書斎にこもり本に埋もれて歴史を遡る旅人。
 絶えず虚空を眺めながら歴史の断片を切り取り我々に歴史のあり方を教えてくれる人。
 自動車が乗れずいつもタクシーを使って日本中を駆け回っていた人。
 司馬氏は、現在の時事よりも過去の歴史に大きな比重をかけていた人で、時事問題のコメントを求められてもすぐには回答を出すことができなかった。いろんな視点から事象をながめ、歴史を遡(さかのぼ)り、そしてその時事に歴史的な重みを加えていく、そんな思考を練り上げる人だった。
 司馬遼太郎氏を想うとき、今述べたような外観と人となりが浮かんでくる。
「司馬遼太郎の愛した世界展」の入り口のところでは、神奈川近代文学館に所蔵されているビデオライブラリーで、司馬さんのインタビューの模様が上映されていた。
手のひらを広げて語られていた司馬氏は肝臓が悪そうで、手のひらが赤くなっていた。
 司馬遼太郎氏は、哲学、風土、土を愛した。土を「くに」と読むことを好んだ。すべての人は土から生まれ土に還っていく。その土には幾多の人の生活があり歴史がある。だから土を私物化し投機の対象にするのを好まない。
 青春期、太平洋戦争にかり出された彼はその大戦を通して歴史を深く考えるようになった。あの時代は、モラルも思想もなかった、日本にはもっと良い時代があったのではないか、そう彼は考えた。
 彼が愛した時代は、江戸時代。淡路島生まれで一介の回船業を営む人間で、ロシアとの外交まで行った高田屋嘉兵衛をこよなく愛した。船が大好きで船を語る(書く)ときの司馬氏の情熱はすごかった。当人も「机上の船長」と言っている。それくらい船が好きで船にあこがれた人であった。「菜の花の沖」や「坂の上の雲」ではその船への愛着が文章となって彼の想いがいかんなく顕れている。
 「龍馬がゆく」を執筆するのにその準備期間に10年かかった。
明治維新は世界史的に見ても希有の改革。良くやったと彼は評価する。坂本竜馬は、世界のどこに出しても恥ずかしくない人物、と語っている。
 
 いつも歴史に立脚し、土を愛し、人を愛した。人物をあらゆる方向から眺める鳥瞰(ちょうかん)によって人物を浮き彫りにした、それが司馬遼太郎その人の目であり歴史観、人生観である。
 
【司馬遼太郎氏の原稿の字】
 この世界展で司馬氏の原稿を初めて見た。想像していたのとはちょっと違い、原稿用紙に小さく字を埋めていく感じの字体だった。原稿用紙はB4を二つ折りにした400字詰めの原稿用紙で司馬という名前が印刷され升目も正方形に近い大きな体裁だった。その升目を全く無視して(多くの物書きはそうであるが)、原稿用紙に字が埋められていた。
小さな字、角がはっていなくて丸くもない。それが司馬氏の字体だった。文章への思いが進んで字が追いついていかないような字体に映った。
原稿用紙に書かれた文は他の小説家に見られるような大きな手直しがなかった。
 
【江戸時代の武士道倫理】
 司馬氏は江戸時代が好きだった。江戸に旅するとき彼は江戸を満喫していたようなところがある。しかし、彼は江戸時代そのものの執筆は少ない。ほとんどが関ヶ原を頂点とした戦国期と明治維新の回天に焦点が絞られている。
 江戸時代の武士は、人はどう行動すれば美しいかをいつも考え行動していた。江戸時代の武士は、美的人間、結晶の見事さにおいて芸術品だった、と語っている。その武士道の結晶が幕末において至る所で露天されることになる。
 
【正岡子規の静物彩色】
 私と正岡子規との出会いは、高校1年生。
国語(現代国語)の時間に、生徒に割り当てた作家と作品について調べたことや感じたことを発表させる短歌の授業があった。私の担当は正岡子規。それまで正岡子規についてはほとんど知らなかった。授業の発表の割り当てが決められて、学校の図書館や市立図書館へ出かけていって正岡子規に関する本を調べ、彼の生い立ちや、彼の感性、彼の心象眼を自分なりにまとめてクラスの仲間の前で発表した。発表の1週間はほとんど正岡子規のことばかり考えていた。
 いくたびも 雪の深さを尋ねけり
という歌が今も脳裏に響いている。脊椎カリエスという不治の病に倒れて病床から歌を読んだ。
そんな子規の晩年に自ら筆を執って描いた静物画が展示してあった。、死ぬ直前の夏(明治39年、1902年7月-9月)に描いた作品である。
 その正岡子規を司馬氏は「坂の上の雲」という作品の中に登場させている。
展示品にあった静物画は、
 - リンゴ、キウリ、バナナ、
   枝豆、翠菊、わすれ草、
   ロベリア、アサガオ
などであった。この作品は一種のすがすがしさがあり、作者が病床の身で体の苦痛に耐えていることを感じさせない、涼やかな精緻な作風を見ることができた。正岡子規が描いた静物画はバランスが良く、色合いがやや淡く、彼の透き通るような心も見て取ることができた。
 そんな正岡子規と彼の同郷で同い年である海軍中将秋山真之、その兄である陸軍大将秋山好古を中心に日露戦争の模様が描かれた「坂の上の雲」は私の好きな作品の一つである。
 
【司馬遼太郎の美的世界】
 司馬氏は美術にも造詣深い。福田定一時代産経新聞文化部で文学と美術の担当をしていたという。
須田国太郎、ゴッホ、空海、八大山人、三岸節子、須田剋太、鴨居玲らが好みの作家であったという。これらの作品は総じて暗い色調で暗部の表現に特徴がある。彼はこの暗部のディテールに明るさを感じていたのだそうだ。
 
【濃尾三州記】
 今年2月高校時代の友人に久しぶりにあった。彼は、私が司馬遼太郎が好きなのを気に留めていてくれ、「街道を行く43巻 - 濃尾三州記」を紹介してくれた。
その作品の中に我々の同級生であるF君が登場している、というのが彼が私にこの本を薦めた理由であった。
 私は同級生のFとは高校時代から全くコンタクトがない。名前を覚えている程度の間柄であった。もちろん私の友人もそれ程仲が良かったわけでもなく高校三年の時にクラスがたまたま同じだっただけである。
F君は、名古屋の医学系大学に進み、そこで精神科の医師として働いているようだ。濃尾三州記にそう書いてあった。
私の友人からこの本を紹介され、翌々日書店で買い求めて読んだ。
 この本は司馬遼太郎さんが死ぬ直前の執筆だから遺稿とも言える。
彼は、名古屋、三河を取材して執筆をしている最中に自宅で倒れたと言われている。
私は司馬遼太郎の本はほとんど読んでいるが「街道を行く」は読んでいなかった。膨大な随筆風の風土記で読むのに気後れしたというのが正直な所である。50才くらいになって生活(時間)にゆとりができたら買い揃えようと思っていた本だった。
 この「街道をゆく」は、私が高校時代に下宿していた時、週に一度買っていた「週間朝日」に掲載され始めた作品で、あれからずっと25年以上も続いた長寿連載作品だった。司馬氏が死の直前まで書き続けていたとは知らなかった。
 その本を読むと、F君は、司馬さんが「街道を行く」取材の道先案内人として岡崎の家康ゆかりの地(大樹寺、高月院)に同行している。
私は司馬さんに会いたいなと昔から思っていたのですごく羨ましい気がした。
 本に書かれてある名古屋・三河の内容は、「国盗り物語」「太閤記」「覇王の家」にほとんど書かれてあることだったので新鮮味はあまりなかったのだが、F君が登場していたのがとても新鮮だったし、司馬氏を身近に感じた。
 F君がマイクロバスの車中で座興のために話した俗話、「太田赤だし八丁味噌蔵の石泥棒が蜂須賀小六」という件は面白かった。
 司馬さんはF君(高校の同級生)を評して、とても茶目で好奇心が旺盛な人と紹介していた。
F君は歯医者の息子でお坊ちゃんだった。長身の子で演劇同好会をやっていた記憶がある。ちょっと我々とは毛色が違ったので話したことは一度もなかった。良家の子に持ち合わせている屈託なさと人なつっこさが司馬さんのこの人物評になっているのだろう。
 司馬さんに私はどう具合に写るのか見てもらいたかったな、とポツリとこの本を紹介してくれた友人にこぼしたら同情された。
 
【司馬遼太郎氏のベストセラー】 平成11月5月現在
1. 龍馬がゆく   8巻    1880万部
2. 坂の上の雲   8巻    1190万部
3. 翔ぶが如く   10巻    940万部
4. 街道をゆく   43巻    871万部
5. 項羽と劉邦   3巻     630万部
6. 国盗り物語   4巻     625万部
7. 関ヶ原     3巻     490万部
 
 
 
●たこ焼きの思い出(2000.05.01)
 
 たこ焼き - 庶民的な響きをもった、幸せになるボール。
柔らかくてアツアツで、鼻腔を刺激するソースのツンとくる匂い、
ノリと鰹節と小麦粉の焦げた匂い。
 今週半ば大阪に出張して、大阪営業所の仲間との二次会で大阪のたこ焼きにありつくことができた。
その「たこ焼き」の屋台は、東洋ホテルの向かいの路地にありとても有名なのだそうだ。
 
■ 私のたこ焼き人生
 私がたこ焼きを意識したのはいつのことだろう?
私の中学時代までは、お好み焼きと、焼きそば、ラーメン、おでん、カレーライスが最上のゴチソウだった。
お寿司なんて一生に一度食えるか食えないかくらいの殿上人だったので、中学時代と言えばおでんに焼きそば、それにお好み焼きが夢のゴチソウだった。
当時、たこ焼きは少なくとも三河の山奥まで入っていなかったような記憶がある。
 大学時代、車を持ってペンタックス35mmカメラ携えて名古屋市内を徘徊している時、名古屋城のお堀端でたこ焼きを焼いている屋台を見つけた。名古屋城の写真の構図を決めながら、たこ焼きを頬張ったのが最初の出会いだった。
 いきなり、うまいと思った。
 たこ焼きは、熱くなくてはダメ。フゥ〜フゥいって食べないとあの醍醐味は半減である。
そして、柔らかくなくてはダメ。舌の上で転がすようにして、ハフハフ言って食べないとダメ。そして、ニオイと味覚のハーモニー。
これがたこ焼きの真骨頂なのである。
 
 結婚して、たこ壺プレートを買った。
会社の営業部にいた先輩が、15年前に私に話してくれたこと;
「息子(当時小学校5年生)が、友達呼んでたこ焼きを作っておいしそうに食べてるよぉ。」
という話を聞いて、あっ、おいしそうだな、と思った。
ウチの息子(当時、3歳と1歳)らに作ってやった時から病みつきになった。
 子ども達は、食卓の上でたこ焼きプレートに溶かした具が見る見る丸くなるのがとてもおもしろいらしく、おとうさんがたこ焼きを焼くのを食い入るように見ていた。
香ばしい香りとうまみのあるボール、それにタコブツのシコシコした食感にたまらない食をそそったようである。
 下の息子が5歳の時、彼の大の好物がオヤジが作るたこ焼きだった。たこ焼きの作る夕暮れは、五歳の息子がオヤジの周りにまとわりついて、やれ、小麦粉だの、キャベツだの、タコだのと指図がうるさかったのを記憶している。
 子ども達が大きくなるにつれ、子ども達の喜びが大人になり、食卓でたこ焼きをする回数は減っていった。
 そんな、一夕、
「今日はおとうさんが作る夕食だよ」って、暗に自転車遊びは夕方5時までで切り上げて帰ってきてくださいな、という強制をしつつ、
カミサンが高校三年と中学三年になる息子らに何が食べたいかを尋ねた。彼らからは、オトナになりかけの精神構造でストレートな物言いも避けつつ、「たこ焼き」っていう返事が返ってきた。まだ、彼らの脳髄には幼い頃味わったオヤジのたこ焼きの食感があるらしい。
総じてオヤジの作る庶民的な料理(お好み焼き、焼きそば、たこ焼き、ラーメン)は、結構評判がいい。
特にオヤジの作るたこ焼きはとてつもなくウマイ。自分でいうのもなんなんだが。
 
■ 安藤家のたこ焼きの作り方
 とにかくダシや具がそんじょそこらで買って食べるたこ焼きとわけが違う。すべてにおいて凌駕(りょうが)してる。安藤オヤジは、ものを作るとき金に糸目をつけない。タコは久里浜に限ると言って、明治屋で100g、1000円もするタコを平気でごっそり買ってきて、たこ焼きのタコに使ってしまう。これはホントコリコリしてうまかった。
 刺身ができるくらいの新鮮なものを、めちゃくちゃたくさん入れる。普通たこボール1つに1個程度のタコが入っていれば上等なわけだが、安藤オヤジの場合は二つ三つ入っている。一つも入ってないタコボールをもらった5歳の息子の哀しそうな顔が忘れられないので。
 たこ焼きの決め手は、「ねぎ」。
これを入れるのと入れないのでは、天と地の開きが出る。
それとキャベツ。これもたこ焼きを作る上での大きな隠し味。歯ごたえと風味がこれで決まる。
お店のたこ焼きは、キャベツを入れない。しかし、安藤家の場合にはたこ焼きにふっくらした感じを出して、たくさん食べられるように繊維質を多く含んだキャベツを入れる。キャベツは、見た目にわからないくらいに、そして歯ごたえでわずかに繊維質を感じてそしてキャベツの甘みが出るように細切れにして、かつ粉々に切り刻んだものを使う。
あとは、かつおダシ、桜エビ、タマゴ、紅しょうがを入れる。
天かすも入れたいところであるが、家中のものから「むかつく」からダメと却下。
オヤジのたこ焼き作りの秘伝は、「麩(ふ)」。
これでふっくらやわらか、ボールの周りの焦げ目がカリカリ焼き上がる。くだんの麩は、スピードカッターと呼ばれる野菜や肉をミンチ状にチョップする道具を使う。
 大阪のたこ焼きは、実は、小麦粉のほかに、たこ焼きをふっくらとさせるためにある粉を入れるそうであるが、それがなんだかわからない。仕方がないので、安藤家ではいろいろ試した結果、鯉が好きな麩(ふ)が威力絶大であることをつきとめた。一般的には、山芋がフックラ感を出すと言われている。半年前にスーパーで山芋の粉を買い求めて使ってみたがいまいちフックラ感にかけた。
 後は、小麦粉をいかにきめ細かく水で溶いて練り上げるかに勝負をかけている。この生地の出来不出来でおいしさが全然変わってくる。適当に小麦粉を溶いたのでは生地にざらざら感があって美味しくない。だから、この工程は結構腕っ節が要求される。力仕事であるため、奥方にはなんとも酷な作業となる。だからこれはオヤジの仕事となる。この小麦粉を浄水器で濾過した水でユックリと徐々に溶かして、30分程度練り上げる。
 
■ たこつぼ
現在我が家にたこやきプレートは2枚ある。
1枚は15年以上も使い込んでいる。
油を引いてはたこを焼いて、使い終わると、湯水でサッと洗い流すだけ。洗剤を使って油を落とすことはしない。鉄に染みこんだ油が、たこボールの良質な焦げ目をつけてくれるからである。
 
■ 火力
火力はカセットコンロを使用している。
手軽で便利なことからこれを使用している。
けれど、火力にムラがあるため(中心部のタコ壺が強くて周辺部が弱い)、
最初に中心部に入れてボールにした後周辺部へ移動させて焦げ目をつけるようにしている。
火力が全体に渡るようなコンロを作る必要性を感じてはいるが、まだ製作には至っていない。
炭火で焼いたらどうだろうか、なんてことも考えている。
 
■ ボールの返し
 たこ壺に入ったたこボールは、アイスピックのような長い鉄串を使って返す。
油を引いた壺に、具を落とし込んでジュウジュウ言わせながら表面に膜ができるのを待つ。
壺面に接触している具の下面に膜が出来上がってきた頃を見計らって鉄串で返す。鉄串はタコボールの下面を時計方向にグルリと回してなぞるようにしてひっくり返す。唐突に鉄串を入れて跳ね上げるとボールはうまく回転しない。ボール下面と壺はある程度ひっついているので、壺とボール面をうまくなぞるようにして接触面を切り離すように回すとうまく転がる。回す感じは屋台のおじちゃんのやり方を見てまねをすればよい。
 
■ タレ
 我が家ではとくに特別のソースを使っているわけではない。ブルドッグの中濃ソースを使っている。どろっとした感触のソースである。
 特製ソースを作っても良いのだろうけれど今のところこれで満足している。
これに好みに応じて青のり、カツオブシをふりかけて食べる。
 
 
 
●MacWorld Expo Tokyo/2000(2000.02.25)(2000.03.14追記)
 
 2月18日(金曜日)平日を利用して、MacWorld Expo Tokyo/2000に参加した。この展示会は6年間毎年かかさず見に行っている。二年前よりこのホームページを立ち上げるようになって、当時参加した時のメモを
 
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
 
として残してあるので読み直してみた。
 今年のアップルは、iMac、iBookの好調な売れ行きと在庫管理、シェアの確保と堅調な経営戦略を展開し、クロスプラットフォーム(Office98、ファイルメーカPro、アドビPhotoshopなど)も順調に推移してWindows陣営と協調する姿勢が明確に見えてきた。
 
今回のMACWORLD Expo Tokyo/2000の来場者数は18万人を越え2年連続の伸びとなった。
2月16日から19日の4日間に行なわれた「MACWORLD Expo/Tokyo 2000」の来場登録者数が182,688名に上ったと発表した。昨年の175,797名(期間3日間)を上回り、2年連続の伸びとなった。ちなみにスティーブ・ジョブズ氏による基調講演の入場者数は6,503名と昨年とほぼ同様となっている。
  -  http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/20000221/macw.htm
 
 こうしたコンピュータ産業の流れの中で、アップルがどういう姿勢でコンピュータ文化の一翼を担っていくかの提案をする場がMacWorldになっているような感じを受けた。つまり、アップルの姿勢に賛同する関連会社がこの展示会に参加し、Windows、Macどちらでも良いという姿勢の関連会社は出展を見合わせている感じを受けた。
 例を挙げれば、プリンタで有名なキャノンの出展はなく(関連会社の新潟キャノテックは出展)、HP(ヒューレットパッカード)社も出展はなかった。また、昨年マビカを出展したSONYも今年は出展せず(もっともVAIOというSONYのWindows対応コンピュータがマックのコンセプトに近いからライバルの感じも受ける)、東芝やもちろんNECの出展もなかった。昨年電子メール戦略の一環で大きなブースを確保していたAOL(アメリカ・オンライン)社も今年は出展がなかった。
 こうしてみると、アップルの方向性に共鳴してアップル独自のコンピュータ文化に共鳴する関連会社が城下町を築いて気炎を上げたという感じを受けた。
 展示会場の中心は大きなスペースをアップルが確保してメインにプレゼンテーションが行える会場(シアター)を設営し、その周りを今年のアップルの戦略商品(iMac、iBook、G4マック、Apple Cinema Display、AirMac、デジタルビデオ編集=iMovie)が取り囲んでいた。
このシアターの来場者の数はこれまでの最高記録を今回達成したそうである。
この理由として、マックが提唱しているMac OS Xに大きな期待が寄せられている証拠だと感じた。
アップルのブースを中心に、アップルの譜代大名とも言える
・ファイルメーカー社(元クラリス社、アップルのソフトウェア会社)
・アドビシステム社(アップルの画像ソフトを手がけた会社。Photoshopはあまりにも有名)
・マイクロソフト社(アップルの株主。マックのGUIをWindows移植に成功)
・マクロメディア社
 パソコンのシェアではWindows陣営に真っ向から勝負できるはずはなく、マックにしかできないことをしよう、マックらしさを前面に出そう、
Think Different
というキャッチフレーズも今年の合い言葉に使われていた。今回のキャッチフレーズの顔は、黒澤明監督、フランシス・コッポラ監督、チャップリンであった。
iMacの登場以来かって会社存亡の危機に瀕したときのアップルの面影はなく、基調講演では、前年1,350,000台ものMacが売れたという報告があった。これは6秒に1台の割合で出荷されたことになるという。それだけ着実にマックユーザが増えてきている。
CEOになったスティーブ・ジョブズの再建が見事に当たったことになる。
アップルの今年の戦略は、
・新OS Mac OS X の発売
・G4 500MHz マッキントッシュの立ち上げ
・最高速 PowerBoook、iBookの発売
・AirMacを始めとしたネットワーク環境の提案
を重点戦略に掲げていると感じた。
 
   
アップルの定番キャッチフレーズ 「Think Different」
今回は昨年他界された黒澤明映画監督のパネル(左)が目についた、左はアップルブース
 

G4 500MHz Mac + 液晶ディスプレー(Apple Cinema Display)

 わたしの見たかったものの一つがこの新しいパワーPCを搭載したG4 500MHz Macである。
G4(第四世代)のPower PCは、米国IBM、Motolora、Apple3社の共同で開発された。このCPUの大きな特徴は、浮動小数点演算を高速にできる構造を盛り込み、1秒間に3.6ギガブロック(1ギガブロックは、10億回もの浮動小数点演算)の処理ができる。
 もう一つの特徴は、このCPUに、Velocity Engineが搭載されていることである。この機能を平たく言えば、画像や音声などの演算処理が従来のCPUに比べて驚く速いことである。いままでのプロセッサは32ビットもしくは64ビット単位でデータ処理をしていたが、Velocity Engineの場合は128ビット単位で処理を行うという。
 (PowerPC G4のVelocity Engineにはさらに高速な処理を可能にするため、新たに162のインストラクションを追加しているという。)
 128ビット単位でデータを処理すると言うことは、32ビットの浮動小数点演算を一度で4つの処理(場合によっては8つ)ができる。これは今までのプロセッサの2倍から4倍にあたる高速処理を意味する。
 このCPUは、Photoshopを多用するユーザには嬉しい福音となっている。アップルのホームページには、Photoshopを作っているアドビシステムズ社のJohn E.Warnock氏のコメントとして、「いまのところ、Photoshop5.5のプラットフォームとしては、G4が群を抜いている。」と寄せている。 そのほかにも、G4のVelocity Engineがうみだす優れたパフォーマンスを証明する開発者から次々と記録をぬりかえているという報告が寄せられている。
 
 G4 500MHz Macと並んで度肝を抜かれたのが液晶ディスプレーである。
横幅の長い、従来の3:4の画面からハイビジョンのような横長の液晶ディスプレーに目が奪われ、その明るさにも驚いた。このディスプレーは、Apple Cinema Displayと呼ばれている。シネマと呼ぶくらいだから映画画面に似せたのだろう。この液晶ディスプレーは、横1600画素、縦1024画素、1670万色表示で対角線で22インチの大きさである。ディスプレーは、TFTのアクティブマトリクス方式で180cd/m2の輝度を持ち、コントラストが300:1と仕様にうたってある。会場で見た液晶は、明るくてスッキリしていた。G4 500MHzマックとの相性も良くサクサク動いていた。このコンピュータを使って、会場から私のホームページアクセスしたのだが、驚くほど高速に画面を表示した。会社にある、私の知る限り私のホームページを一番サクサク表示してくれるものがペンティアムII 400MHzのWindowsコンピュータなのだが、今回のこのマックではそれよりも2〜3倍くらい速い感じを与えた。画面表示が驚くほどスムーズに、そして色再現もよかった。CRT(ブラウン管画面に近づいたかな)とも思わせた。マックの標準フォントであるOsakaフォントの表示に厚みがあって私のホームページが格調高く見間違うほどだった。このディスプレーは単体では売らないそうであるが、単価は\500,000だそうである。アップル社の直販であるアップルストアでUltimateというモデル(G4 500MHz Mac付)で\926,000で販売されている。
 重量は11Kgでずっしりとした重さだった。消費電力は62W。これだけ明るくて大きいとちょっとしたCRT(ブラウン管)のディスプレーに近い消費電力になるんだろうと思った。
 
Mac OS X (マック オーエス テン)
 待ちに待ったOSの登場である。今回のExpoで、その開発状況と日本語環境での操作画面の触りを紹介していた。このMac OS Xの公式発表は、先月1月に行われ、春に「ベータ版」を関連先に配布して、夏に発売するそうである。翌年2001年1月からはハードウェアにインストールして出荷すると発表していた。
同時に、今まで慣れ親しんできたMac OS9などの古いバージョンの開発、改良が完全にストップする。
新しいOS(Mac OS X)は、従来のOSとは根本的に違う。違うが、従来使用していたアプリケーションはそのまま動かせるという。ただし、新しくOS Xに加えられた機能は使えない。この移行をスムーズに行えるとアップル側は踏んだのであろう。
1984年にスタートしたMacのOSは、これまで何度か“フリーズ”のしない信頼性のあるOS作りが望まれてきた。一つのアプリケーションソフトがエラーを起こすと他のプログラムはもちろんシステムそのものが止まることがあった。この問題はWindowsにもあるのだが、マックよりも信頼性が高いと言われていた。ネットワーク環境やマルチタスク環境で一番信頼性の高いのがUNIXだと言われている。マイクロソフトは、WindowsにおいてUNIX環境にすべく、ビジネス、学術研究分野でWindowsNTと呼ばれるUNIX環境のOSを提供してきた。一般ユーザーにはMS-DOSの時代からのユーザを引きずっているため、Windows3.1、Windows95、Windows98と進化を遂げているが、OSの根幹にはMS-DOSが支配している。マイクロソフトもこの呪縛から解き放たれて真のマルチタスク、ネットワーク環境を目指すべく新しいOSを構築したいに違いない。それが、Windows2000のOSとなって現れた。しかし、これは、WindowsNTの別の名前であって、Winodws98ユーザをすんなり移行させるものではない。
このように、OSサプライメーカは、過去の遺産をスムーズに移行させるという義務を課せられている。アップルは、Mac OS Xで大きな賭に出ていると言ってよいだろう。
 OS Xのような試みは過去何度も行われた。しかし、そうした試みは悲しいことにいつも完成しなかった。1991年頃に開発が進められた“Pink”は動く姿を見ることはなかった。1994年に計画が発表された、“Copland”は、アプリケーションプログラマーの手に渡るところまで行ったが十分な周辺機能が満足しない上      に、旧OSからの移行が極めて困難な状況が露呈した。そのCoplandも完成を見ることなく開発途上でプロジェクトが中断した。
スティーブ・ジョブズがアップルを辞してNeXtという会社を興し、再びアップルに帰ってきた時持ち込んだのがNeXtのOSであった。このOSはUNIXを基調としたOSでこの技術が今回のMac OS Xに反映されていると言われている。
 
●NeXT Computer社
1985年にアップルを飛び出したSteve Jobsが設立した会社。
Jobsは個人でも購入できる最初のコンピュータ、AppleIIを世に出し、GUIという全く新しい概念を持ったコンピュータである Macintosh を誕生させた。
NeXT Computer社は、1989.9.18にNEXTSTEPというOSを登場させたが、1993.2.10にブラックチューズディ社へハードウェア部を売却、NeXT Software社に社名変更
 NEXTSTEPは、4年間の開発期間を経て登場させたOSである。NEXTSTEPを特徴づける決定的な要素として、今のインターネット/イントラネット時代を予言したかのようなネットワーク機能を持ち、OpenDocやJavaに採用されているCORBAという先端オブジェクト技術を、最初からOSの中に取り込んでいた。
 NEXTSTEP以外にも彼の先見性を感じさせる技術は山ほどある。NEXTSTEPはInterface Builderというオブジェクト指向アプリケーションを容易に開発できる環境を備え、最近ではWebbObjectsというネットワークアプリケーションの開発環境を発表している。
 米国Apple Computer社は、1996年12月、Next Software社を4億ドル(約450億円)で買収した。これが次期マルチタスクOSの Mac OS X の基盤となる。
インターネットのはしりで、HTML言語を開発した、ヨーロッパの素粒子研究所(CERN)のプログラマー ティム・バーナーズ・リー(イギリス人、Oxford 大卒)が1990年、コンピュータ同士で通信の手順と文書の指定を取り決めるプロトコル(通信手順)このプログラムの作成にNeXTコンピュータを使用したのは有名な話。
 
その新しいソフトは、どのレベルのCPUで動作するのか(G3マック以上)? 必要RAMは(64MB)? OSの金額は? ネットワーク環境でのWindowsとの連携は? など興味ある疑問は尽きない。
困難な作業ではあるが、この新しいOSの完成こそ次世代のパソコンの世界のマックの確固たる位置を築く上で必要不可欠な事だろうと思う。
 
【Darwin】
Mac OS X の大きな戦略は、
    Beyond the Box
としている。単なるハードウェアという箱屋の世界を越えて、ソフトウェアとハードウェアの両方を構築するところにアップルの真骨頂があり、ユーザが使いやすいパーソナルコンピュータを目指す、という意志表示が見て取れる。Mac OS X の核をなすものが「Darwin」と呼ばれるカーネルである。これは発想の根幹がUNIX(ユニックス)に由来している。ユニックスはこのコーナーでも紹介した(●Linux(ライナックス)(1999.4.30))が、ネットワークをベースにした拡張性の高いOSで、ワークステーションでよく使われている。パソコンの台頭と共にWindowsでもこの要求が高まりWindowsNT→Windows2000で全てのWindowsをこの方向にもっていこうとしているし、Macでも採用が見当されては消滅し今回ようやく日の目を見ることになった。
Darwinは、ネットワーク環境を主眼に、マルチタスク処理を念頭に置いている。プレゼンテーションでは、UNIXと呼ばず、Linux(リナックス)ライクなOSと表現していた。UNIXは確固とした商品でありむやみに言葉にできない理由があるのだろう。Linuxはオープンソフトウェアである。
 
 UNIXの扱いはコンピュータ言語に精通したプロしか使用できず一般ユーザーには使い勝手の悪いOSである。Mac OS Xの苦心は、UNIXの世界を優しいユーザーインターフェースでどれだけ包み込めるかという所にあるようだ。
 
 Darwinでは、こうした機能をメインに、メモリの保護、仮想メモリの有効活用、ネットワーク環境、FreeBSD、BSD UNIXの利用をうたっている。このDarwinでは、たとえアプリケーションの一つがエラーなどでクラッシュしても他のアプリやシステムには影響を与えいない構造となっている。その様子をメイン会場のシアターで実演講演を行っていた。
 
【Quartz、OpenGL、QuickTime】
 Darwinの上の階層に位置するのが、表示、描画を担当するこれらの機能である。Quartzは、2D描画、OpenGLが3D、QuickTimeがマルチメディアを受け持つ。従来OpenGLの位置には、アップルが開発したQuickDrawが割当られてる予定であったがWindowsの(開発そのものはシリコン・グラフィックス社の)OpenGLが主流となり、ゲームやCGはこの機能で作られているためアップルもOpenGLの採用に踏み切った経緯がある。この機能で制作された作品に、QuakeIII、Arena、Maddem2000、StarWars Pod Racerがある。QuickTimeは、1992.6月に販売を開始し、同年11月にはver.1.5としてWindows用のQuickTimeも販売された。マッキントッシュのマッキントッシュらしいマルチメディアの中核をなすもので、どんな性能のマックでもサウンドと動画同期再生ができる画期的なものである。現在ではパソコンのマルチメディアでの業界標準になっている規格である。インターネットにおいてもQuickTimeの位置は確固たるものがあり、1997年、マイクロソフトがアップルの株を取得したのもQuickTimeの技術が欲しかったからと言われている。Mac OS Xでは、この技術にさらに磨きをかけ、Digital Video Instrument Streamingを始め、グラフィックとオーディオの編集、ビデオフォーマット編集が簡単にできるようになっている。このQuickTimeは全世界で2000万人がダウンロードしたと言われている。
 Quartzは、アドビシステムズ社が開発したPDF技術をベースとしており、これをさらに発展させてリアルタイム描画やグラフィック機能を充実させている。
 Mac OS Xにおいてもこれらの3つの描画機能を踏襲発展させている。
 
【Classic、Carbon、Cocoa】
 アプリケーションを担当するのがこの階層である。この三つの階層は、API(Application Programing Interface)というカテゴリーに入るものである。
 Calssicは、旧MacOSの全てを担当する。ClassicによってMac OS9で走る全てのアプリケーションがMac OS Xで走るようになる。講演では、マイクロソフトのExcelを動かして旧来の資産が引き継がれることを示していた。ただし、Mac OS Xで追加された機能は旧Mac OSでは使用できない。
 Cocoaは、次世代オブジェクト指向のアプリケーションソフトが動く環境を作る機能であるという。Cocoaは、旧NeXT社(スティーブ・ジョブズが社長)のOPENSTEPの資産を踏襲している。
 Carbonは、Mac OS Xで追加された機能が使える環境を提供するもので、大手のソフトウェアメーカ(アドビシステムズ社、マイクロソフト社、Quark社、ファイルメーカ社)ではこの機能に沿ったソフトウェアを開発中であると言う。
 
【Aqua】
 Aquaは、マックを触るユーザが直接見て操作するユーザーインターフェースの部分で、画面とボタンなどを管理する所である。
 このアクアがUNIXと呼ばれるネットワークで定評のあるOSの基本概念を取り入れて「Aqua」と呼ばれる衣(ころも)に包み、アップルが長年取り込んで来た使いやすい操作環境を提供してくれる。表示画面は、名前の如く「水」をイメージした構成になっていて、半透明でそれぞれのアイテムが有機的に結びついている。アピアランスとしては完全に新しく作り直した感じを受けた。画面の下(デスクトップ下面)に配置されたアイコンから直接アプリケーションを呼び出せる「Dock」機能も洗練された機能だった。Dockに格納されたアイコンはマウスで自由に大きさを変更でき、興味あるアイコンにカーソルを合わせるとアイコンが大きくなり視認しやすくなる機能もあった。また、QuickTimeという動画ファイルを再生しながらDockに収納するとアイコン内でムービーが再生されるという凝った機能もあるそうだ。
 サウンドにも独特の工夫をくらし、グラフィック描画の速い画面を構築していた。ビジネスユースとしては何もここまで凝らなくも良いのではないかと思えるのだが、競争が激しいこの業界においては差別化しないと生きていけない事情はよく飲み込んでいる。
 
 いずれにしても「使いやすい」というのが今後 Macintosh が生き延びていくための生命線であることには変わりない。
 
【ヒラギノ フォント】
 アップルの標準フォントのOsakaはバランスの良いフォントで私がマックが好きな理由の一つがこの疲れない文字表示である。
 Mac OSXでは、大日本スクリーンと共同開発する「ヒラギノ」フォントを採用する予定であるという。このフォントは、明朝、ゴシック、中ゴシックなど6種類のフォントを用意し17,000文字まで表現できる予定だという。
 

デジタルビデオ編集

デジタルオーディオ

コンピュータ文化

 パーソナルコンピュータがこの世に出て19年目を迎える。
パソコンは、従来の大型コンピュータとは全く違った思想で生まれ発展してきた。結果的には、大型コンピュータ(メインフレーム、ミッドレンジシステム)を駆逐するまでに発展してしまった。
パソコンは、ビル・ゲイツ、やスティーブ・ジョブズがティーンエイジャーの頃より関わってきた、米国西海岸のオタッキーが作り上げた文化である。
 ちょうど、我々の世代が築き上げてきた文化と言っても過言ではない。
そんな文化を若者たちが吸収してどんどん裾野を拡げつつある。
MacWorldの展示会に出ていつも感じることは、ネクタイ姿のお客様、出展業者がほとんど見あたらない、という事である。
 カジュアルなウエアを着た若者、はては中年男性までがさりげなくかっこよさを主張している。出展業者の説明員もトレーナー姿、CEO(最高経営責任者)もジーンズ姿。こうした展示会は我々の業種とはかけ離れている。そうした説明員によるプレゼンテーションも、モーターショーや電子機器のトレードショーに見られるようなプロフェッショナルな女性(コンパニオン)を使ったプレゼンテーションではなく、中身の良くわかった人が使う側の身になって説明を行っていた。コンピュータと大型プロジェクタを使ったプレゼンテーションはこの業種ではほぼ定着した感じを受けた。プロジェクターの画質は年々明るくなってきている。プレゼンテーションをする説明員も特に女性のプレゼンターが良質になり且つたくさんみかけるようになってきた。この展示会に参加する人たちの4割が若い女性であることを思うと女性による展示というのも大きな意味があるのだなと納得した。
 
 

 

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