AnfoWorld オムニバス情報3(2007.06.23更新)

目次
● PPM、BPM(ぴーぴーえむ、びーぴーえむ)(2007.07.06)
● 上下関係(2006.09.02)(2007.07.06追記)
●化学書『タングステンおじさん』(2005.12.03)(2006.09.02追記)
●世襲(2003.12.01)(2004.06.23追記)
●パーソナリティ(個人主義)(2002.12.23)
●デジタルについて(2001.05.01)(2001.06.17追記)
●標準化(2001.01.29)(2003.04.13追記)(2005.11.29訂正)
●サラリーマン哀歌(新幹線車中にて)(2000.10.23)
●日本の文化(つつましく生きる)(2000.09.04)
●天現寺からの帰り道(小学生のしつけ)(2000.07.14)
●「司馬遼太郎が愛した世界展」を見る(2000.05.27)
●たこ焼きの思い出(2000.05.01)
●MacWorld Expo Tokyo/2000(2000.02.25)(2000.03.14追記)
 
 

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●武蔵野(2000.02.19)
●クリスマス界隈(2000.01.11)
●2年に一度の東京モーターショー(1999.11.02)(1999.11.29追記)
●名古屋名物「味噌煮込みうどん」(1999.10.5)
●立食パーティの参加の仕方(1999.09.08)
●2000年問題( = Y2K)(1999.08.09)
●食感-texture: イギリス人の食感(1999.07.31)
●分散力(1999.6.28)
●書き言葉と話言葉(1999.5.17)
●Linux(ライナックス)(1999.4.30)
●ISO9000について(1999.4.18)
●脳死(のうし)(1999.4.1)
 
  ---  【以下のコンテンツは、AnfoWorldオムニバス情報1 に移動しました】 ---
 
●人の評価と給料(1999.3.13)
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)
●新Power MacintoshG3発売される(1999.01.16)(1999.01.31追記)
●文化(1998.12.30)
●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)
●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)
●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.31)
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
●Windows98のリリース(1998.8.03)
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)
●G3に触れる(1998.1.11)
●Macなともだち(1997.12.21)
●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)
●Windowsの世界(1997.12.21)
●インターネットの功罪(1997.12.21)
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 

 
 
ppm、ppb(ぴーぴーえむ、びーぴーびー) (2007.07.06)
 
 我々の世代の事、世の中の事をふと考えることがある。
我々の世代(40代から60代)は、自殺者が多い。日本の自殺者は、年間30,000人を超えると言う。平成10年からは、30,000人を越えて32,000人から35,000人の間を推移して、斬増の傾向にある。1990年代は25,000人程度で推移していた。2000年になって30,000人を突破した。この数字は、交通事故の6,300人(平成18年度)に比べ5倍以上多い。自殺者の多くは我々の世代に集中している。40代から60代の人口を4,000万人とすると、1/4000〜1/5000の割合となる。交通事故の1/17,000に比べると桁違いに大きい。
 こうした数字を、我々が良く使う百分率(パーセント)で表すと、自殺者の熟年世代に対する割合は0.025%〜0.02%となる。方や交通事故による死亡者総数は、全人口に対して0.0059%となる。この数値は百分率で見ると小さな値であるが、我々の実生活から受けるウェイトはこの数値以上に重みがある。
 パーセントでは小さな値になると言うので、100万を一つの母数とるす比率数値がが提案されppm(parts per million)という単位となった。また、10億を母数とするppb(parts per billion)もある。これらは、パーセントの桁上げ表示と取れなくもない。パーセント表示では、0.0001という「0」がたくさん付いてしまい、使うのに煩わしいというのである意味重宝である。ppmやppbの表現でもパーセントと有効数字は変わらない。
 交通事故死者や自殺者の数は、率の割に身近に感じられる。マスコミの報道もさる事ながら、我々の回りにもこうした不幸に巡り会った人を少なからず見る。交通事故は、ほとんどの人が巡り会う危険性がある。こうしてみると比率による数値はどのような意味があるのかと、疑問が湧いてくる。
 1980年11月、20才になる青年(予備校生)が就寝中の両親を金属バットで殴打して殺害したというニュースがあった。当時そのニュースはとてもショッキングだった。近年、子供が両親を殺害する(またはその逆の)ニュースが流れ、またか、という感じを受ける。こうした一連事件のはしりが1980年の事件ではなかったかと記憶する。こうした事件は、それ以前にはなかった、と記憶する。そうしてみると、人口1億人に対して1人の青年が起こした事件は、1/100,000,000(1億分の1)、10ppbの不幸な出来事だったと言える。それが2006年では2ヶ月に1件程度の割合で起きた。120ppbになった。
 
 
 
 
 
 
●上下関係 (2006.09.02)(2007.06.14追記)
 
 人は人と接して営んでいる。生きること自体は食物の摂取で営まれるのであろうが、人として生きる限りは他人との交わりなくしてあり得ないであろう。
 
 
 
 
 
●化学書「タングステンおじさん」(2005.12.03)(2006.09.02追記) 
 
 仕事で科学番組制作を手掛けるプロデューサと巡り合え、楽しく仕事をする中で、一冊の本を紹介された。その本は、『タングステンおじさん - 化学と過ごした私の少年時代』(Uncle Tungsten -  オリヴァー・サックス〔Oliver Sacs〕著、斉藤隆央訳、早川書房、2003.09.15初版)というものだった。題名だけで見るとなんとなく童話っぽい響きがあるが、内容は高度な化学書である。
 久しぶりにおもしろい本を読んだ。
■ 彼の生い立ち
 作者オリバーサックスは、米国で脳精神科を専門とする医者で、サックス家にはお医者さんが多く、彼の両親も医者をしていた。また、両親の兄弟には化学者が多かった。
 彼の親戚に、イギリスでタングステンを製造しているおじさんがいた。作者は幼年期をイギリス・ロンドンで過ごし、タングステン工場を営むおじさんの工場に遊びに行き、そこで金属や元素などに造詣を深めていく。彼が小学校の頃から思春期を迎えるまでの話である。彼の幼年期は、ちょうど第二次世界大戦があった時で、ドイツ軍の空襲を免れるために子供たちだけロンドンから疎開していた。そうした社会の動乱期と自身の思春期を交え、彼の生活の母体であるユダヤ人社会(彼はユダヤ人だった)の風習も交えて自らの化学の萌芽を面白く紹介している。タングステンおじさんは、彼の化学好奇心を満足させる格好の先生であった。タングステンおじさんのところへ行けばありとあらゆる金属があった。その中でもタングステンはおじさんの大のお気に入りで、彼のライフワーク(仕事)にもなっていた。
■タングステン(W)
 タングステンと言えば、まず白熱電球のフィラメントを思い浮かべる。高温に耐える金属(融点摂氏3,410度)で、電気も通しジュール熱に耐えるため、強い光を発する電球に格好の材料である。しかし私自身はタングステンの固まりを見たこともなければ触れたこともない。重い金属だそうである。比重は19.3。水銀(13.6)よりも重い。たいていの金属は(鉛でさえも)水銀に浮くがタングステンは沈む。タングステンは『金』と同じ比重をもっている。タングステン(tung-sten)は重たい石という意味である。スウェーデンの化学者シューレが発見したもので、発見された当初は使い道のないものだったそうである。タングステンが脚光を浴びるようになるのは、融点が高いことから白熱電球のフィラメントに採用されてからである。X線を発生させるX線管(ターゲット)にも高温に耐えるタングステンが使われている。そのほか鉄の合金としてタングステンを入れた非常に強い鋼板が戦車などの軍用目的に使われている。
 タングステンと言うと非常に固いイメージがあるが、純粋なタングステン金属は柔らかい金属だそうである。タングステンは不純物(化合物)が混じると固くなる。
■ 化学と光
 「タングステンおじさん」の本を読んでいてとても面白かったのは、化学が光に寄与した歴史的背景がとても詳しく面白く描かれていたことである。人類は闇を恐れ、闇を克服するために「明かり」を強く求めていたのだなと改めて感じざるを得ない。
 人類は、火=灯を自由に使うことで外敵から身を守り大きな繁栄を得て来た。その「火」が、植物の火→動物の火→化石の火→電気の火→原子力の火に変わって行くごとにパワーアップして人類の繁栄をみることになる。火の変遷の中の根源は化学であった。化学の世界がどんどん進化していく中で、人類の火もその恩恵を受けて進化した。
 この本を読むと、作者が少年期、回りの親族の影響を多大に受けて科学、特に化学に興味を覚えて行ったのがわかる。また、化学反応の際に発生する熱エネルギー = 光についておもしろく書かれていてとても参考になった。この本には、1900年代の電気による光の歴史をロンドンの風景とともに興味深く書かれている。
 イギリス = ロンドンは、世界で始めてガス灯を事業化して街を明かりで満たした国(都市)である。そのガス灯と電気の灯の競争と淘汰の背景には、明かりを作る素材の探究があった。電灯事業が立ち上がった時、ガス灯事業もかなり抵抗して技術革新を行っていた。そんな様子を彼の書物から伺いしることができる。電灯がガス灯を淘汰するのは、タングステンフィラメントの発明に依る所が大きい。エジソンがガス灯の灯具開発をあきらめ電気の灯りに発明の方針を変えて行ったのは、オーストリアのウェルスバッハという化学者がいて、彼が灯りを作るのにかなり先進的な研究と発明をしていたため(ガスマントルの発明者)、その方面では太刀打ちできなかったという事情があった。そこで、新しいエネルギーである電気に着目して、アーク放電ではなく、ジュール熱で発光する電灯の発明を模索していくことになる。その発明の一番の根本課題は発光体(フィラメント)の発明であった。エジソンは他の発明家が金属の発熱を利用して灯りを作ることに見切りをつけて、融点の高い炭素を利用することを思い付いた。炭素のフィラメントを作るのに、植物(竹)などの有機繊維を蒸し焼きにして炭素繊維(フィラメント)を取り出すことに成功した。しかし、炭素フィラメントは脆く、数百時間の寿命でランプが切れてしまう。
 再び、構造的に丈夫な金属による発熱体研究が始まり、オーストリアのウェルスバッハがオスミウム金属を使った電球を発明する。炭素程度の融点(3,000度)と炭素以上の強度を持つ金属は、オスミウム、タンタル、タングステンの3つだそうである。これらはいずれも電灯のフィラメントとして採用された。この中でタングステンが価格、資源、寿命の点でもっとも優れ、電球のフィラメントとして勝ち残った。オスミウムランプは1897年にウェルスバッハが初めて製作した。オスミウムは極めて希少な金属で、全世界に7kgしかないそうである。また、当時、オスミウムを焼結する技術がひ弱で、オスミウムフィラメントは極めて脆く電球をさかさまにするだけで壊れてしまったと言う。
■ イギリスの科学環境
 作者は、タングステンおじさんや両親などの影響を受けて、化学の造詣を深めていく。彼の家には彼だけの化学実験室があり、いろいろな化学実験を行っている。興味深かったのは、当時のイギリスはおそろしい化学薬品を簡単に手に入れることができ、それを使って相当危険な実験をくり返していることである。両親もそれをことさらに咎めなかった。ただ、危険な薬品を使う時は、その理由を言って十分に注意するようにという程度のことしか言わない。日本人なら、まっ先に両親が制止して恐ろしい実験を行わせない。この辺に教育の仕方の根本的な違いがあるように見受けられる。
 
 
 
 
●世襲(2003.12.01)(2004.06.26追記)
 
 世襲(せしゅう)について考えてみたい。世襲とは、血のつながった世代が資産や役職、格式を継承することである。代表的なものでは、皇族の継承や、歌舞伎、狂言俳優たちの襲名がこれに属する。古くは、封建制の下での大名の家は世襲であった。また、会社組織でも、小さな組織においてはトップの地位を同族が継承することがあり、これを世襲と呼んでいる。しかし、個人商店などでは、ほとんどの場合同族がお店を継ぐが、これを世襲とは言わない。このように考えてみると、どうもステータスの高いものを同族(親子)が嗣ぐことを世襲というようである。実力を伴う世界、例えば相撲の世界とかプロ野球の世界には、二世はいても世襲はない。二世が親の七光りでその世界に入っても成果が出なければ、継ぐという行為にはならず、世襲とはならない。そう考えると、実力がなくても高いステータスに座れるのが「世襲」ということなのだろうか。実力を伴わなくても、「血」を受け継ぐことが世襲であるとする見方もある。皇位継承などは、まさにその「血」の継承であり、本人の実力よりも「血」を尊ぶ世界である。世襲の本来の意味は、大名や、天皇を頂点とした皇族がそのステータスを『血』という形でしっかりとした組織で固めて代々受け継いで行くことのようである。この世襲の原義を元に、役得を二世に譲ることを俗に世襲と言うようになった。
【世襲議員】
 つい先日、衆議院議員選挙が終わった。実に2割近くが親子に渡る世襲議員であった。議員になるにはしっかりとした組織と支持基盤が必要と言われる。選挙に勝つためには基盤を固め、確実に票を集める必要がある。こうした組織作りは衆議院議員個人だけの活動ではとても無理で、彼を補佐する後援会スタッフが草の根戦略を尽くして票を固めていく。後援会の人達も親子代々議員先生に仕えて来た人達であり、後援会から枝葉を伸ばした地域の人達も、家族ぐるみで議員先生を応援する。こうして出来上がった組織ピラミッドは、特に田舎にあっては、国政を地域に反映させ、利益を還元するための大事な仕組みであり、強固に守り続けられている。こうした世襲議員を頂点としたピラミッド構造を見ると、アリやミツバチなどの共生社会を彷彿させる。彼らの組織は、国をどうする、世界をどうするというビジョンは希薄である。自分たちの利益を守るための集団組織としての意味合いが強い。自分たちの地域の道路を建設したり、工業用地を誘致したりして地域が活性化することを前提としている。ある意味では極めてプリミティブな集団である。こうした集団が議員先生を押して牛肉の輸入やらお米の輸入に圧力をかけている。
 しかし、無党派層と呼ばれる組織に与しない浮動票が多く存在して強固なピラミッドが作れない都市部においては議員の世襲は難しい。都市部では、外部からの人口の流入と外部への流出が激しく、地域内だけで仕事をする人が少なくて仕事場と生活の場が離れている。そのため地域の結束が薄く親子に渡るつながりも薄いので強固なピラミッド構造を作ることが難しいのである。このような都市部では、親子に渡る議員を世襲議員とは呼ばずに二世議員と呼んでいる。二世議員は、親が有名でその七光りで票を集めることを大きな特徴としているが、最近ではその二世議員も都市部では苦戦を強いられている。世襲議院は、実力や才能の善し悪しはあまり問われない。彼を取り巻くスタッフがうまくやってくれるからである。世襲議院は何年もそのポストに座っていれば徐々にその役柄をこなしてそこそこの顔になる。まさに世襲である。
【世襲社長】
 昔は、会社と言えば創業者の息子が継いでなんの不思議もなかった。創業者の苦労が報われる形が世襲であると考えていも、周りの者はなんら不思議に思わなかった。当然と受け止めた。社長の家を守る番頭も代々その家柄を嗣いだ。この仕組みは、封建制が色濃く残っている地域では今なお受け継がれている。昔ながらの造り酒屋などはこの習わしを受け継いでいる。しかし、会社が世代交代するにつれて、この世襲がはたして会社を安定させて存続するための良い選択かというと、大いに疑問がわいてくる。特に、経済がグローバル化し激しい波に揉まれる現代においては、生き残りをかけた適切な経営戦略が必要となり、地域だけの安定した存在では無くなってきているため、従来の慣例が社員の利益をしっかり守ってくれるかどうか疑わしいものになっている。『血』だけでは時代がついて来なくなったのである。トヨタは、社長の座を代々親族で継承してきたが、1995年に世襲制を廃し大所帯のかじ取りを奥田碩氏に託した。奥田氏も短期間で任期を終え、1999年6月に張富士雄氏にバトンタッチを行った。トヨタは、奥田氏になってからより強固な体制になりシェアも伸ばし、世界的な基盤を整えた感じを受ける。日産は、外部の血を入れることで日本的な官僚主義という名の世襲を捨てた。この血の入れ替えも結果的に見て正しかったと言えるだろう。
【歌舞伎】
 歌舞伎役者は世襲である。世継ぎを産むことが大切な仕事であるらしい。素朴な疑問がわき上がるのであるが、世襲された歌舞伎役者は、ホントに演技がうまいのであろうか? 私は、歌舞伎のことは良くわからない。見てもさして面白いとも思わない。人生長くやっていて一度も生の歌舞伎を見たことがない。江戸時代には、大衆を沸かせるもっとも人気のある出し物として、相撲と歌舞伎に人気があったという。封建時代の江戸にあって栄えた歌舞伎が、役者の名声を持続させるために『血』を選び、世襲をとったのは頷ける。しかし、江戸期に世襲の歌舞伎芸能が連綿と受け継がれていく中で、外れた世襲者(下手な歌舞伎役者)もまた子孫にその名前と格式を継がせなくてはならない時、歌舞伎の質もずいぶんと不安定であったろうと想像する。
 考えてみれば、歌舞伎は組織と「血」でなりたっているのかも知れない。歌舞伎の内容は、古い歴史の出来事を面白く仕立てなおして、それにケバイ化粧と絢爛な服を仕立てて派手な演技で立ち回る。それを端役たちがもり立てて興業を成立させる。観客は、何代目市川某の「血」に深層で酔い、派手な演技と仕立てで表層に酔う。世襲の中でたまに傑出した役者が現れると、歌舞伎組織を挙げて一大興業に仕立て上げていくのであろう。
 歌舞伎には、実力よりも、「血」と呼ばれる実力には代え難い価値があるように思える。そして競争力も必要としない。伝統芸能であるから、外界からのはげしい競争にさらされないのである。伝統を守って「血」を守れば良い。実力を試されることは、こと歌舞伎興行の中では重要ではない。うまく立ち回われば良いようである。下手だからといってその地位を追われることはない。その代の俳優が傑出しなくても次の代で成功を納めれば良いようである。りっぱな役者になるために、周りのもの、つまり興業する側も見る側も一団となって歌舞伎を盛り上げているように思える。見る側は、歌舞伎をもり立てるように高い金を払って見物し種を保存している。
【封建制と世襲】
 封建時代にあっては、世襲は秩序を維持する大事なことであったと思う。封建制は、主と従の区別のハッキリした秩序社会であり、使う者と使われる者の区別を時空を超えて明確にし固定した。使うものは、自らの財産と地位を守るために相続を固定し同族の中で継ぐようにした。主を守るため、使われる立場の側近は能力のあるものが台頭して体制を懸命に維持した。種は保存されたが、その種は弱々しいものになった。その弱々しい『血』を周りの者が必死で守ったのである。歴史をひも解いてみると、世襲はおおよそ3代くらいで形骸化するようである。あとは組織がしっかりしていればそのまま惰性で続くし、さもなくば空中分解して次の波に飲まれていくようである。徳川が300年続いたのもかなり厳しい統制を敷いての結果であり、階級から人の出入り、建造物、船、火器などの製造、所持を著しく制限した。その秩序も外からの力と内から沸き上がる力に倒されて行った。
【民主主義と世襲】
 競争原理が基本である自由主義社会の民主主義は『血』は受け入れられない。すべての者が平等であり、生きる権利を持っている。力があり努力をした者がその努力と能力に対して報いる社会が資本主義の流れをくむ民主主義である。人は生まれながらに平等であり民主主義国家はこれを守ってくれるが、財産は保障していない。勤労と競争によって財産を築いていくものである。一代で獲得した資産は、法律の許す範囲内でどのように処理しようと自由であり、子に引き継がれることも何ら問題はない。しかし、権力は無条件に引き継がれることはない。権力は、集団の統率権を意味するため、人権に関わってくる。人権をコントロールする権利を無条件に子に譲ることは現代の自由主義社会の民主主義では認められない。権力は合議によって、あるいは多数決によって決められるのが民主主義だからである。
【共産主義と世襲】
 共産主義の根本は、労働者階級で作られた平等社会である。その社会には、王様も存在しないし貴族も存在しない。そして資本家も存在しない。共産主義は、資本家階級が社会を支配していた時代、つまり、労働者階級を『搾取』という形で扱っていた時代に、労働者を解放するイデオロギーとして台頭した。1900年代初頭には、国家までできあがり、平等を標榜する社会主義国家と、自由を旗印とした自由主義国家が対立した。社会主義も自由主義もどちらも『民』が主人公であることに変わりはない。財産の私物化を極度に限定し、すべての民に平等に還元しようとしたのが社会主義であり、働きに応じて自由に財産を手に入れることができるのが自由主義であった。社会主義にあっては、財産は労働者すべてのものであり私有化は著しく限定された。国を統率する首領も、労働者が合議で選ぶことが基本となっている。
 しかし、こうして出来上がった社会主義国家の現状は、党員が特権階級に胡座をかいて利権を貪るという構図ができあがり、継承されていった。社会主義国家には世襲などあり得ないのであるが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では首領の第一子が党首の座についた。その国でもっともふさわしい後継者が、結果的に息子であったということかもしれないが、表向きの合議によって選ばれたととも取れる釈然としないものである。彼等の国を外から見ていると、彼等内部には国を変えようという革命精神を持った組織がほとんどないことを伺わせる。体制についていけないものが「脱北」という形に表れているだけであり、国を変えて行く力にはなっていないようである。それほど北の体制は守ることに強固な体制となっている。北朝鮮の政策を見ていると戦時中の日本の天皇制におそろしく似ていて気味が悪いほどである。戦時中の日本は、思想が統制され著しく管理された。すべてのものや価値観が天皇の名の下に生かされ、現人神に感謝し、彼のために命を惜しまない教育を受け、天皇の名の下に財産を提供し、命までも提供した。現在の北朝鮮は、そうした戦前の日本になんと似ていることか。金日成は、自国を建設するときに、それまで統治していた日本のやり方を概ね真似たのではないかと思えてくる。彼にとって、イデオロギーなど二の次で、自分の国を作りたかったのに違いないと思えてくる。共産主義がなぜもかくに個人崇拝を認めたのか不可思議ですらある。世襲は権力者の身を守る特権行為なのである。世襲は、『血』という神秘めいたものに仕立て上げ、万人が犯しがたいものにする。しかし、その行為は現代社会にあっては近視眼的行動と言うほかなかろう。
 
 
 
 
●パーソナリティ(個人主義)(2002.09.11)
 
 日本人の個人主義について昔から思いを巡らせている。
 日本人が「個人」を自覚し国を挙げて法律化したのは太平洋戦争後の日本国憲法が出来上がってからと記憶する。その時代よりも前の動きとしては、明治になって欧米の文化が入るようになり「個」というものの考え方が徐々に入ってくるようになった。それまでの日本の文化には「個」よりも「全体」を優先する美学があり、「和」を重んじていた。全体の中に「個」を委ねるのが美徳とされ、個性は消し去るのが良しとされた。封建制では「家」という絶対価値があり、明治憲法下では「天皇」が絶対であった。太平洋戦争では、「個」は神の子として、神( = 天皇)の前に忠誠を誓い神のために御霊を捧げることが至福とされた。この考えが特攻隊に代表されるイデオロギーになった。
 太平洋戦争の終結とともに、天皇制が廃止され米国主導による資本主義、自由主義が入る。日本国憲法の中に「基本的人権の尊重」が盛り込まれ、「個」が優先される国家が動き始めた。「個」が優先されるということは個の自由が認められる、という事である。「個」の自由が認められ自分の判断での行動が許されるようになると、当然のことながらその行動に対して責任を持たなければならなくなる。「個」が優先されなかった時代、社会は「個」に対して自由を束縛した。たとえて言えば、結婚は家と家の決め事であったし、職業も生まれ落ちたときから決められていた。人は絶対者の前に「個」を消し去らねばならなかった。「個」の自由が認められた現在では自分で決めた結婚や職業に対しては自分で責任をもたなければならなくなった。
 自由が日常生活の中の当然な権利となった今、「自由」を責任持って行使できる「個」がどれほどいるかを社会犯罪が多発している今、複雑な思いで思い描いている。
【群れる】
 群れるということについて考えてみたい。動物の行動を観察してみると弱い動物であればあるほど群をなして行動する。独立行動の強いライオンでさえも狩りをするときは他のライオンと連携する。反面、ヒグマや北極グマは単独での行動が多いと聞く。我々の社会生活の中でも群れて生活するケースは多い。群れて(他の人達と一緒になって)行動する方が生きる上でのリスクは少ない。
 考えてみれば、人は他人との共存の中で生活している。一人で生活することはあり得ない。江戸時代までの多くの人達は自己を表に出すことが少なかったと言われる。特に農民は部落単位で行動して他の人達と同じように寝起きして種を蒔き、刈り入れを行っていた。それで生活ができたのである。生きる局面で重大な選択を迫られるときは回りの者が決断してくれた。そういう社会だったのである。
 現代は、生まれながらにして選択の自由が与えられ、生きる節節では「個」が自らの責任で物事を選択する時代になった。しかし100人が100人すべて物事を判断できるとは限らない。その人達の多くは判断を群の中のリーダーに求める。リーダが思慮分別ある者であれば群は正しい方向に流れるであろうが多くの場合そうはならずにエネルギーの散乱として周囲にまき散らされる。
【基本的人権】
 日本国憲法によって、初めて国が個人の人権を法律で守るようになって50年近くが経過した。人は二十歳以上になれば一人の大人として自らの意志で生きる権利と義務を与えられる。生きるためには「働け」と憲法はうたっている(勤労の義務)。勤労で得た所得を税金として国に納めるのも成人の義務である。そうした国と個人の約束に従って個人が法を守れば国は法によって個人の自由を尊重し保護もしてくれる。我々が何を語ろうと個人の責任において自由であるし、宗教においてもどの宗派に属そうと自由である。また職業についても機会は均等に与えられる。欲しい物を手に入れることも自由であり、売り手が希望する代価を買い手が支払い、それが他に迷惑を与えない物であるならば自由に売買し所持することができる。
 国の政は国民の総意を旨として運営が為されている。
 しかし、国民のほとんどがこうした生き様をよく理解して自分の責任で行動できるとはとても思えない。人にはそれぞれ向き不向きがあり自分の生き方を自分で決められない人もたくさんいる。そのようなケースでは群の塊の中でそういうことに秀でた個がリーダーシップをとってそれぞれの個を尊重しながら集団の営みを続けていく。
【自由と義務】
 自由の行使には必ず責任が伴う。自由を行使したければ自由とは相容れない義務が伴う。納税の義務は個人にとってはあまり嬉しくないことかも知れないが日本人である限り、日本人でいる限り日本国民として働き、働いた中から税金を納めることは「義務」なのである。また、お互いに好意を寄せ合った同士が結ばれ家族を形成し、子女を設けた場合には子女が独り立ちさせるまで彼らを養育をする義務がある。子供は嫌いだから別の人に預けてしまうというのは自由を理解し自由を責任もって行使しているとは言い難い。このように自由を行使するには責任と義務が伴うのである。自由は個人のものであるが、その個人は世の中にたくさんいる。その個人がそれぞれに自由を口にし自由を行使したらどうなるか・・・。宗教と宗教のぶつかり合いは自由の名の下において正しい側面があるが相手に危害を加える時点においてそれは相手にとって自由の束縛となるのである。
 以下、仔細な事例において自由と個人主義について考えてみたい。
【衣類】
 衣類は、個を主張する大きな要因である。服飾を大きく分けると男性と女性に分けられ、思春期を迎える青少年から結婚までの30才代、結婚をし家庭をもった40才代、子供を育て上げた熟年50才-60才代、老いの年代に入った70才代の年代別に服飾の好みが変わる。また、職業や好みに応じて身につける服飾に変化が表れる。我々は経験的にそうした相手の身につけた服飾によって相手の個性をなんとなく理解している。衣類は個性の発露ではあるが別の意味で群の共有化の表れとも言える。特に若い世代では人と違う服装を纏うことにより自己を主張し同じような服装で共有し合うことにより連帯を高めている。衣類は個の発露とともに群れに入る制服のようなものである。また民族を主張する場合に民族が育てた民族衣装は何ものにも代え難い個の主張とともに民族に帰依する拠り所となっている。衣類が人に危害を与えないかというと直接的ではないが間接的には十分に考えられる。
【言語】
 言語も衣類と共に個を主張する大事な道具であり、それと共に群れに入るために大事なものである。ティーンエージの女性は感覚的に研ぎ澄まされた部分があり、彼女たちの世代は時代時代で独自の言語を編み出してそれを用いて共有化と差別化を図ってきた。米国の黒人たちは独自の英語表現を編み出し連帯意識を高めている。方言を持つ個人が群を離れると別の群のものがその個人を中傷することがある。また地方という群の中に入るとその群が使う言語に合わせないと浮いてしまうことがある。英国は階級社会と言われていて現代でもその意識が色濃く残されているという。彼らは相手が話す言葉遣いで彼らがどのレベルの階級に属するかを即座に見分けるし興味の多くはそこに集中するという。言語は大いに人を傷つける。言語は人とのコミュニケーションをする上で大切なものであり、自由の表現の大きな手段である。言葉のスタイルはそれぞれの持ち味、言い回し、方言などが加味されるものの相手に伝える意志にはその人の考え方、生き方が反映されている。人は言語に責任を持って自由の行使できる範囲内で活用しなければならない。
【友人】
 類は友を呼ぶ。友人を見ればその人となりが分かるとまで言われる。人との交わりは自由に行える時代になっている。人は、つまるところ互いに高め合い助け合う友人を求めている。人によっては単に寂しさを紛らす相手を求めているかもしれない。人は相手を相互に探しあい認めあいながら関係が築かれる。気の合う友達や互いを尊重しあえる友達と会いその関係が続けられるのならその人の人生は幸せと言わなければならない。人は対人関係の中で喜び、哀しみ、励まされ傷つけられて生きていく。人との付き合いの中で好んだ同士の付き合いで生きられればそれは幸せであるが、全体の中で生活する場合には苦手な相手とどのようにつき合って行けるかが問題となる。これが対人関係、利害関係を軸とする社会では大事なこととなる。決して一人では生きていけないのである。相手と共同で生きていくための触手を作りそれを養わなければならない。
【パーソナル電話(携帯電話)】
 電話の出現によって互いが遠く離れた所にいても関係を保つことができるようになった。
それが一家に1台の電話から一人に一台の電話になり、さらにそれがいつでもどこでも話すことができるようになった。携帯電話の普及率のすごさを見ると、人は、周りからの(家族や気兼ねする周囲の知り合いからの)干渉を避け、個と個の直接のつながりを強く望んでいるようである。家にある電話は取次が必要で、家族を気にしながら電話先と応対しなければならない。しかし携帯電話はダイレクトに相手につながり、相手が合意すればいついかなる時でも交信ができるのである。空間と空間を結ぶ個とのつながりとその欲求は、全体よりも個を優先しながらも、しかし、つまるところ単独では生きられないことを如実に物語っている。
【パーソナルコンピュータ】
 パソコンが個人の手元に入ったことにより、個が扱えるデータ量が恐ろしく増えた。パソコンの普及の大きな要因はインターネットと電子メール、デジカメによる写真の管理、季節の便り(年賀状など)の作成であろう。これらはすべて個人が他に向けて発信もしくは受信をするものであり、パソコンはそうした通信手段の強力な道具となった。こうしたパソコンが今後携帯電話のようにますます小さくなって外に持ち運べるようになり、空間を超えた個と個のつながりを助長していくであろう。
【個と全体】
 こうのように一つ一つの事例を見てみると、世の中はパーソナル(個)に向かって進んでいるようである。そして、個人を最大限に尊重する時代になってきている。しかし個を尊重するといっても個の集まりである全体の幸福を無視した「個の自由」はない。そして平等も自由の下で平等であるべきとする考えが一般的になっている。こうした土壌を形作るまで人類は多くの血を流し叡智を結集して整備してきた。今、我々はその恩恵に与っている。個の確立とは他人がその個を尊重することであり、当の個は他から尊重されるべき人格を日常において完成させていくべきものである。いずれの形にせよ個は他を欲しているし他との関わりなくしてなりたたない。この所を十分に理解し「個」を見つめ、他との関わりを持つべきであろうと考えている。
 
 
 
●デジタルについて(2001.05.01)(2001.06.17追記) 
 
 デジタルについて述べてみたいと思う。
一般的に言って、世の中に何気なく使われいる言葉で実際の意味を理解して使っている人は案外少ないのではないか。こうした流行語を十分に理解もせず臆面もなく使いこなせる人は要領のいい人だろうなぁ、とよく思う。
 「デジタルって何だろう?」、と実兄が会う毎に私にぼやくのでぼんやりと考えるに至った。
 デジタルと言う言葉が出てくる背景には、デジタルでない世界からデジタルの世界へと意識を切り換える意識革命の意味合いが込められていた。デジタルの対語がアナログである。デジタルを一言で言うと「数値化」、もっと突き詰めていうと「0」と「1」の二種類しかない記号表現の世界である。(現実の生活の場では、「0」と「1」では人に理解されないために十進法の数値表記をさしてデジタルと言っている。)この「0」と「1」の数値表現を数学では二進法と言っている。二進法が今や全世界を席巻し、全ての世界を支配している。なぜならコンピュータに使われている算術手法が二進法に他ならず、コンピュータで扱う世界は全てこの2進法に置き換えられるからである。
「0」と「1」だけの世界がこれだけ信頼を得て世界を支配するようになったのは興味あるところである。
 二進法というのは二つの数字しか持っていない。十進法は10個の数字をもっていて「9」の値に一つ値が加わると桁が上がり「10」という数字になり、0〜9までの数字で順繰りに数を表し加減乗除を行う。
これに比べ二進法は「0」と「1」の二つの数しかないため、「1」にもう一つ加えると「2」とする事ができず、桁が繰り上がって「10」となる。従って、「1001」という二進法の数値表記は十進法に直すと「9」となる。「1111」は15に相当する。二進法ではそれぞれの桁が「1」「0」しかないので、コンピュータのロジックでは、電流を流す、流さない、電位を持っている、持っていないというスイッチの「ON」、「OFF」に相当させることができる。コンピュータは従ってスイッチのかたまりでできているといっても過言ではなく電気を通したり止めたり、あるいはそれを保持して演算を実行し、その結果の数値を2進法として記憶し表示している。これをビットを立てると言う。「1001」というのは4つの桁のビットを立てるわけであり、これをある時間タイミング(クロック)で別の4桁の数値と加減乗除を行う。この4桁のビットを4ビット処理と言っている。最初のマイコンは4ビットから始まり、1970年代後半のマイコンキットは8ビットCPUが開発され、NEC9801シリーズで有名になったパソコンは16ビット対応になり、現在は32ビットから64ビットの桁数を持つに至っている。64ビットは十進数に直すと200京(2,000,000兆、19桁)の数字に相当し、この数字を1つのタイミングクロックで演算処理する。これを通常CPUのクロックである500MHzのクロックで行うとすると、19桁単位の計算を1秒間に5億回繰り返して行うことができる。これらの数値は我々の日常生活には及びもしない数の世界である。
 
【デジタル時計】
 デジタルという言葉が一般大衆に出回ったのは、「時計」からではなかったかと記憶する(詳細記事は「時計」の項を参照)。1970年代後半、高級というイメージが定着していた腕時計に価格革命が起きる。デジタル時計の登場である。デジタル腕時計は従来の歯車や宝石による軸受け及びムーブメント一切を排除し、内部の水晶発振子によって正確な信号を作り(これをクロックという)、この信号をカウントして時を刻み時を表示する。液晶ディスプレイの登場で時計には機械的に可動する部分が全くなくなり精度の向上、低価格へと発展していった。計時表示が数字そのものであったため「デジタル表示」と呼ぶようになりそれが時代を経てデジタル時計となった。これに反して時針、分針、秒針のついた時計をアナログ表示時計と呼ばれるようになった。アナログ時計では読み手は針の指した位置と文字盤から時刻を読みとった。スイスの高級時計Rolex(ロレックス)などは未だに機械式アナログ腕時計を作っている。マニアの間ではかなりの人気らしい。1969年にSEIKOが開発したクォーツ時計も中身はデジタルであったが、文字盤が従来の円板タイプで時針、分針、秒針で時を刻み表示をしていたのでデジタル時計とは呼ばれなかった(クォーツ時計と呼ばれた)。
 
【デジタル機器】
 時計のデジタルには高級感が薄れてきているが、オーディオやカメラ、その他の装置で「これはデジタルです。」と売り手が買い手に言うとき、暗に「この機械は性能が良くて時代の最先端を行っています。」という意味合いを言外に匂わせている。その言葉に信頼を寄せる人は幸せであるが、売り手がなにやらうさんくさい御仁である場合、「デジタル、デジタルってい言うけど、ホントにデジタルは万能で良いものなのか?」という考えが頭をもたげる。
 今の時代、「デジタルは良いものなのか?」という疑問は滑稽に思える。今や生活の根幹は全てデジタルになってしまっているのだから、質問の余地はなくなってきている。電話は回線網のレベルでは全てデジタルに置き換わってしまっている。電気を作る発電所もすべてデジタルに置き換わり時々刻々かわる電力事情に対応した発電量を制御している。新幹線の運行も全てコンピュータが管理をして不測の事態を絶えず想定しながら指示を出している。時計に至っては振り子時計や砂時計、日時計を使うユーザは皆無になってきているのではないか。しかし、中にはデジタルではなくアナログに執着する人たちもいる。スイスの高級時計メーカーは未だにゼンマイを使った機械式腕時計を作っている。
▼ CD(コンパクトディスク)の仕組み
オーディオマニアの中には塩化ビニールのLPに針を落としてプレーヤーで音楽を聴いている人がたくさんいる。こうしたアナログの時計もオーディマニアも少なからず存在する。
 CDのデジタル音に比べアナログレコード(塩ビのLP)の方が高音域がリッチで豊かな音を再生してくれるそうである。CDは1秒間に4万4千100分割(44.1KHz)で連続した音を分割し、その一つ一つに65,000階調(16ビット)の音の強さを割り当てている。従ってCDには44.1KHz以上の音は記録できない。これがCDには豊かな音が出せないとマニアから言われている所以である。
 CDの出現はオーディオ業界にとってはデジタル音楽への一大革命であった。オーディオの世界もデジタルの関わりが全くなかったわけではない。コンピュータが発達した1960年代にはコンピュータで音楽を作るシンセサイザーが萌芽していたし、1970年代にはPCM(Pulse Coded Modulation)と言って音をパルスに変調してオーディオテープに録音していく技術が発達していく。DAT(Ditigal Audio Tape)はこのPCM技術を使った方式である。しかしながらオーディオの世界をデジタルに一変させたのはCDの出現に他ならない。なぜなら、それまでのアナログの総本山であるレコードを音楽販売店から一掃させてしまったからである。レコードに置き換わるだけの潜在性能をCDは持っていた。
 CDのデジタル録音の詳しい仕組みについて以下で見てみよう。
 CDの根本的なことは、デジタルに直すときの標本化(量子化)が通常の人間が許容できる範囲であること。取り込みエラーに対して十分な配慮がなされていること(信頼性が高いこと)、使いやすいことが上げられる。CDは音楽業界に受け入れられ出版業界でも大容量メディアとして業界の標準となっていった。さらにCDの特許を持つソニーはこのデータメディアをエンタテイメント(娯楽)の分野Playstationに投入する。任天堂(ファミコン、スーパーファミコン)がICメモリと基板で作ったソフトカートリッジでソフトを供給していたのに対し安価なCDで対抗したのである。この戦いの結果はみなさんもよくご存じの通り。
 
【CD = コンパクトディスク】
▼ 歴史
 CDの誕生は1982年。ソニー、日立、日本コロムビアによってデジタルオーディオディスクとしてのCDが発売された。そのCDが1989年にはLPに対する売上シェアが90%を上回った。CDは20年の歴史を持つことになる。
 ちなみにステレオは1958年に開発された。24年後の1982年にデジタルオーディオの元祖CDが発売されるのである。1982年はデジタルオーディオ元年と呼ばれている。
 CDの対抗馬であるレーザディスクは1972年、オランダフィリップス社で開発された。このディスクは光学式ビデオディスクであったがデジタルではなかった。オーディオディスクは、1977年にこのビデオディスクを基本としてソニー、三菱、ティアック、日立、日本コロムビアが発売している。
1979年、フィリップスは現在のCDの基本である直径11.5cmのコンパクトディスクを発表。1980年にはフィリップスとソニーによって規格統一の合意に達し、本格的なCD時代が到来することになる。ディスクの直径はソニーが提案するφ120mmとなった。この径はベートーベンの第九交響曲がそっくり入る67分を目安としたためこの直径となった。
▼ CDの記録周波数:44.1KHz
 CDの音声のデジタル録音は、原音を左右それぞれ44.1KHzで16ビットに量子化される。録音の段階では、16ビットを8ビットずつに分けている。これを1シンボルと呼ぶ。従って、量子化された1サンプルの音は16ビット、2シンボルとなる。
 CD録音時は、この1シンボル8ビットを14ビットに変換する。8→14なので、これをEFM(Eight to Fourteen Modulation)と呼んでいる。つまりサンプリングされた音は2シンボルなので28ビットのデータで1つの音を構成することになる。音自体は16ビットに変わりがない。この手法はソニーとフィリップスで共同開発された。
さらに、EFMで14ビットにされた1シンボルに3ビットのつなぎビットを挿入して17ビットとし、これが1シンボル単位となる。つなぎビットの目的は、記録波形の直流成分を少なくすることにあり、長い期間でみてHIGHとLOWが等しくなるようにする。14ビット、1シンボルの波形がHIGHになっていればつなぎビットをLOWにしてトータルで0になるようにする。つなぎビットで直流成分を低く抑えるには、DSV(Digital Sum Value)という数値から判断して行う。つなぎビットは記録情報が増えて不利になるような気もするが、実際にはそれ以上のメリットがある。
▼ データ容量
 CDの記録には、データの誤り、欠損の回復を狙いとして、1フレーム単位でデータが格納される。フレーム周波数は7.35KHz。チャンネルビット数は4.3MHzとなっている。
1フレームのビット数は588ビット。
フレームの最初は24ビットの同期信号 + つなぎビット3ビット。
次に制御信号として14ビット(1シンボル) + つなぎビット3ビットが当てられる。
次にデータのシンボルが12ヶ。(17ビットx12)
誤り訂正用パリティビットが4シンボル。(17ビットx4)
このデータシンボルとパリティがもう一回つながる(17ビットx16)
このようにして、1フレームあたり
  17ビット x 32データ + 27ビット + 17ビット = 588ビット
588ビットの塊となる。この塊を取り出して誤りがないかどうかをチェックしエラーがなければこのデータを再生段に送る。
1フレームには上記の説明よりデータが24個あることがわかるが、CD音声データは、左右(L.R)2チャンネルあり、音声データは2つのデータで1つの音声単位を構成しているから、最終的には6対の左右の音声データが1フレームに格納されていることになる。1フレーム6対のデータで、1フレームは7.35KHzで格納されるため、
  7.35KHz x 6 = 44.1KHz
の音声サンプリング周波数が導き出される。
記録容量は、1フレームが588ビットの塊でこれを7.35KHzで記録していくため、
588ビット x 7,350Hz = 4.3218Mビット/秒の記録となる。
これが74分間続くとCD-ROMの記憶容量は、合計
  4.3218Mビット/秒 x 60秒/分 x 74分 = 19,188.792Mビット( = 2,398.599MB)
となる。これは通常言われているCD-ROMの記憶容量650MBの3.6倍である。
音声自体のデータは、
  14ビット x 2シンボル x 2チャンネル x 44.1KHz x 60 x 74 /8ビット
   = 1,370.628MB
となり、一般に言われているCD-ROMの容量の2倍の記録容量がCDには確保されていることになる。
 通常、CDはサンプリング周波数44.1KHz、16ビット量子化、左右2チャンネルサンプリング、74分記録であるから、
 16ビット x 2チャンネル x 44100Hz x 60 x 74 /8ビット = 753.216MB
となる。
つまり、ここで言いたいのは、CDの記憶容量はデータ容量の3.6倍程度ある、ということであり、記録データの安全のために色々なチェックデータビットが加えられているということである。
▼ データ書き込み
 CDに記録されるビットは1つ当たり約230ナノ秒の間隔で行われる。ビットは0.5umの巾の大きさで、各トラックは1.6umピッチで構成されている。CDの読みとりはCLV(Constant Line Velocity)線速度一定方式で読みとられる。線速度は1.2m/s〜1.4m/sでデスク回転数は約600〜200rpmである。
CDの大きさは直径120mm、中心にφ15mmの穴が空いていてφ50mm〜φ116mmの33mmの巾が記録領域である。
▼ CDとMD
CDの容量は60分で650MB。それに対してMDも同じ時間の録音ができる。MD=MiniDiskのサウンドはCDとほとんど変わらず実際のCDと同じ44.1KHz、16bit、ステレオというフォーマットになっている。しかしMDのコンピュータ的容量は140MB、これはCDの約1/5の容量しかない。したがって、MDにはATRAC(Adaptive Transform Accoustic Coding)という圧縮技術が取り入れられている。これは一種のマスキング効果で、例えば、大きな音と小さな音が重なっていると、小さな音は大きな音にかき消されてしまうことを利用してマスキングを行う。主に高音と低音の部分でマスキングを行い1/5の圧縮を行っている。ちょっと聴いただけではわからないMDの音も、本当によく聴いてみるとやや音質が落ちている。
 
 デジタルも全て万能というわけではない。デジタルにはデジタルの問題点があり苦慮しながらシステムを構築している。そうしたデジタルの考え方と、デジタル処理で陥りやすい過ちを認識し、デジタルと良いお付き合いをした方が賢いと考える。
 
■ デジタルの語源
 デジタルの語源は英語である。digitalと書く。digitというのは「指」という意味があり、指折り数えるような簡単な数値表現、直接的な数値表現という意味合いからデジタルという表現がされるようになったと思う。それまでは計測する針が読み取り盤の上を移動しそれを読み手が読みとっていた。時計の文字盤、温度計、秤(はかり)、物差しなどがそうであった。
 デジタルの反対の言葉であるアナログはanalogという英語から来た。もともとの意味は類似とか相似という意味である。万物の現象を別の形になぞって(針の振れとか液柱の溶液の動きとか)表現したのでこのような難しい言葉が当てられた。アナログには連続量をそのまま表示するという意味が込められ、デジタルには連続量をある単位で区切って強制的に量を当てるという意味合いが込められている。強制的にある単位で区切ることを「量子化」と呼んでいる。
 デジタルは数値表示、数値処理をより簡便に確実により速くという考え方で発展してきた。現在では我々の回りにあるほとんどのものがデジタルによって加工されている。一見なんの変哲もない写真でさえもその陰ではデジタルによって記録され色づけされプリントされている。出版雑誌も新聞も全てコンピュータによって編集され印刷されている。電話口で喋る言葉も全て細かくデジタルに細切れにされ、聞き手のもとで再度音声として組み上げられて耳に届く。デジタルによって1本の電話回線で同時にたくさんの加入が可能となった。先に述べたCDディスクにしてもMDディスクにしてもMP3にしても全てデジタル音声である。
 
■ 標本化(デジタイズ)の基本要素 - 発振
 デジタル化する場合に問題になるのが、どのくらい細かく細切れにするかということである。音楽の場合には1秒間にどれだけ細かく標本化できるかということが原音に忠実にデジタル化する目安となる。CDでは1秒間に44.1KHzでサンプリングしている。従って、44,100Hzの正確な基準信号に従って音を刻んで行かなければならない。こうした正確な基準信号(発振信号、パルス信号)の発見と発明が今日のデジタルの世界を確固なものとした。デジタルに限らずアナログでも基準信号という考え方は至る所にある。例えば、無線はテレビ、ラジオなどは基準の発信信号を用いて電波を送受信している。時計においてもアナログデジタル問わず基準信号というものがある。基準信号は安定した振動をする特性を持っていなくてはならない。
【水晶】
▼ピェール・キュリー
 デジタルの時代になって、精度の良いクロックを電気的に作る関係上脚光を浴びて来たのが石英の結晶(水晶 = クォーツ)である。水晶片に電気的な振動挙動があることを発見したのはフランスの物理学者ピエール・キュリー(Pierre Curie、1859-1906。ラジウムの発見者であるキュリー夫人の旦那)である。1880年、ピエール・キュリーは石英の結晶である水晶を押しつぶしたとき電気が流れることを発見した。逆に水晶を引き延ばすと逆方向に電気が流れた。また、水晶に電気を流してやると力を受けたように水晶がぎゅっと縮むことを発見した。さらに、水晶に電気を急激に流したり通電を止めたりすると規則正しく膨張と収縮することを突き止めた。当時この物理的振動が速い現象であったので超音波を発生するのに使われた。この現象を物理的な言葉で言うと、圧力によって電気が流れる圧電現象もしくはピエゾ電気(piezoelectricity、ピエゾは圧力の意味)と言っている。圧電素子には水晶の他に圧電セラミクス(PZT:チタン酸ジルコン酸鉛)などが有名である。ちなみにピエール・キュリーは、現在のMOやCDで恩恵を与っている磁性体のキュリー点(磁性体を加熱するとある温度で磁性が急速に減少する現象)を突き止めた人としても有名である。MOやCDは彼の原理を応用して半導体レーザを磁性体に照射しレーザの熱で磁性変化を与えて記録を行っている。
▼発振子 -(標準化の項の「時計」を参照)
 発振子には水晶の他にどのようなものがあるのであろうか。時を刻むのに必要なこの発振子を思いつくまま上げてみると、ゼンマイ・テンプ発振子、振り子、音叉、LC、セラミック圧電素子、水晶発振子などが思い浮かぶ。
▼ゼンマイ・テンプ
 ゼンマイ・テンプによる発振は腕時計で有名な方式である。機械的な加工精度で発振精度が大きく左右される。現在腕時計では「クロノメータ」というジャンルで全機械式の時計が今だ作られている。振り子方式の発振は地球の重力加速度(G)と振り子の長さで周期が決まり時を刻むのには簡便であった。振り子の長さが温度によって変わるので精密なクロックとしては不向きであった。音叉発振子は音叉による共振原理を応用している。音響発振なので音は温度に依存する。また高周波には対応できない短所がある。精度は99.9977%まで高められるそうである。この値は正確そうであるが、1日24時間(86,400秒)では1.987秒となり、1日に2秒の誤差を覚悟しなければならない。
▼LC発振回路
 電気的な共振回路としてコイル(L)とコンデンサー(C)を組み合わせた発振回路がある。比較的高い周波数の発振が可能であったので無線装置の発振回路に利用された。この回路はLやCなど精度のよい値が得にくいため発振精度は3%前後と音叉発振子よりも悪い反面、100MHz程度の発振が簡単な構成で得られた。セラミック圧電素子は水晶ほどの精度を要求しない発振素子として利用される。価格も安い。精度は0.5%程度。水晶発振子は0.001%の精度を持つ。
▼発振誤差
 精度の高いはずの水晶発振子でも誤差は出る。誤差の主な要因は温度と結晶中の不純物および結晶片のカッティングだそうである。精度の高い水晶発振子は水晶片の厳選から始まると言われる。不純物が混ざっているものやカットサイズがばらついているものは選定から外される。この選定に合格した素子はさらにエージングと呼ばれる馴らし工程に入る。通常この馴らし期間は1ヶ月から3ヶ月かけて行われる。この馴らしをへて水晶発振子は「枯れて」安定する。さらに温度補正回路を加えて水晶発振子の完成を見る。最高級の水晶発振時計は原子時計につぐ正確さと言われ、年に1、2秒の誤差と言われている。
▼発振周波数
 クォーツウォッチに使われる水晶の振動数はほとんどのメーカーが32,768Hzを採用している。これは15ビットパルス(215 = 32,768)分解能で1秒をカウントするためである。従ってクォーツウォッチの時間分解能は1/32,768 = 31.518 usとなる。もちろん水晶はこれよりも高い発振周波数を得ることが可能で高周波数の方が精度が良くなる。しかし、高周波発振は高い電圧を必要とし分周回路も複雑となる。SEIKOが最初のクォーツウォッチ「アストロン」を開発したときの水晶発振は8,192Hz(13ビット分解能)であった。開発担当者はもっと高い周波数がほしかったそうであるが当時の技術で許される最大の振動数がこれであったと言われている。
 
■ アナログ時計とデジタル時計 (最先端の宇宙開発に採用されたアナログ時計) (2001.05.12記)
 
▼宇宙計画が採用したアナログ時計
 面白い事実がある。アポロ計画(米国が国威をかけて推進させた人類を月に送るという宇宙開発計画)でアメリカ航空宇宙局が採用した公式時計は、機械式の手巻き時計であった。 1969年7月20日、人類史上初めての有人宇宙船が月面に着陸したとき、アームストロング船長はじめコリンズ、オルドリン宇宙飛行士の腕に巻かれた時計は、スイスOMEGA(オメガ)社の作った手動巻きゼンマイ機械式「スピードマスター」であった。この宇宙飛行用として公認された時計はクォーツ式でもなければ当時注目を集めていた音叉発振時計でもなかった。クォーツ時計は電池を使用し長い年月にわたり高温や低温にさらされると電池の性能が低下したり機能しなくなる。手でゼンマイを巻く機械式時計は精度はクォーツよりも劣るものの宇宙で想定されるさまざまな環境への対応力が大きかった。また自動巻は重力を利用して内蔵された振り子でゼンマイを巻く方式であるが無重力では機能しないため確実な手動巻きが選定された。
 
▼オメガ社スピードマスター
 NASAが宇宙飛行士が着用する腕時計の選考に入ったのは1962年と言われている。オメガ社のスピードマスターは、1957年(昭和32年)スポーツ用時計として生まれた。手巻き、30分計、12時間計、タキメータ付きクロノグラフであった。1962年NASAが宇宙飛行士用の時計を選定するため町の時計店から買い集めた10種の時計の中でこのスピードマスターだけが数々の過酷な認定試験にパスした。この時計は以来NASAの公式時計として採用され、1989年にはソ連宇宙飛行士の標準時計ともなった。
 
▼NASAの環境試験
 NASAが行った過酷な認定テストは以下の通りである。
・70℃の室温で48時間(2日間)
・93℃で30分
・氷点下18℃で48時間(2日間)
・相対湿度95%で連続240時間(10日間)
・衝撃6方向から40G
・5Hzから2,000Hzの振動
・333秒間に1Gから7.25Gまでの加速度
・上記の条件を加えた後でも24時間で5秒以内の精度
 オメガのスピードマスターは、精巧なムーブメントに加えそれを保護する三重密閉構造のケース、竜頭やプッシュボタン部分の特殊パッキン、ケース裏側の「O」リング、風防ガラス内側の鋼鉄製リングによってしっかりと内部を保護し上記の過酷な試験をパスした。
 オメガ社は、この他Seamaster(シーマスター)と呼ばれるダイバーズ・ウォッチも開発している。3重密閉構造を採用し数々の歴史を残している。1970年にはフランスの深海探査会社コメックスが海底探査用に採用、非公認ながらアメリカ海軍の特殊部隊が採用していたという記録も残っているという。
 この他にも、1927年ドーバー海峡を遠泳横断したイギリス女性メルセデス・グラインツの腕に巻かれたロレックス・オイスターは完全防水の名声を得ることになったり、スプリット・オブ・セントルイス号で単独大西洋無断着陸横断飛行(1927年)を行ったリンドバークの提案によりロンジン社が1931年にナビゲーション時計を作ったりしている。 
 
▼耐環境デジタル時計
 こうした高級アナログ時計に対して、耐環境デジタル時計も出回りはじめている。デジタルならではの多機能さも加わって独自の地位を占めるにいたっている。私は1980年当時からデジタル時計を愛用している。デジタル時計を使い始めた当初はとまどいもあって使いづらかったが、慣れるに従いデジタル時計でないと事足りなくなっている。電池は3-4年に1回程度の割合で取り替える。デジタル時計は高価なものがなく安くて2,000-3,000円から高いものでも\60,000がせいぜいである。それで月差2秒程度、時刻合わせもワンタッチ、日付機能、アラーム機能、ストップウォッチ機能が備わっている。液晶デジタル時計は品がないと言われればそれまであるが、計測関係の仕事をし余暇に自転車に乗っていたりするとデジタル時計はなんとも都合の良いものである。ここ数年はCasioの"G-Shock"と呼ばれる時計を愛用している。G-Shockと言うとウレタンゴムで被われた時計を想像しがちであるが、私のものはチタン合金で被われて且つ耐Gのある"MR-G"と呼ばれる時計である。
 
■ デジタルの数値処理
  デジタルは、人間の思考過程から産み出されたものである。もっと直裁に言えばコンピュータの発達(もっと源流をたどればシリコントランジスタの発達)によって出来上がった産物である。コンピュータの記憶は、「0」と「1」が組み合わさった符号である。記憶どころか計算でさえもこの「0」と「1」で行っている。電気的なスイッチを利用して全ての処理がなされるためコンピュータの世界は「0」と「1」の2進法が基本となっている。コンピュータの回路は「ON」か「OFF」かの二つしかない。そうした論理回路(スイッチング回路)が膨大な「0」と「1」の電気的なスイッチを経て(1秒間に4億回の間隔[ = 400MHz]で、2の32乗数値[ = 32ビット処理]、430億という10桁の数値処理によって)演算、判断、制御などを行っている。自然界の情報をコンピュータで処理しようとするためにすべてこのような「0」と「1」に置き換えられるようになった。これがデジタルの始まりである。しかしコンピュータの中でデジタル化され処理されたデータは再び人間が判断できるように自然な情報に戻さなければならない。人間の判断が存在する限り、01001011のような無機質なデータは受け付けがたい。従って、
  自然の量(アナログ量)→コンピュータ処理(デジタル量)→人間の認識(アナログ量)
というアナログ量からデジタル、そしてまたアナログ量に変換するという流れができる。この変換をAD変換(Analog to Digital Transfer)、DA変換(Digital to Analog Transfer)と言っている。
 音声も電話回線もテレビもコンピュータの高性能化と小型化によってどんどんデジタル化されている。なぜ? デジタル化した方がコンピュータを使う機器にとって便利だからである。なぜ便利か? そのことについて述べることにする。
 
■ なぜ「0」と「1」の記録が安定しているのか。 - デジタル記録とアナログ記録
 アナログ情報量とデジタル情報量について述べる。アナログ量というのはデジタル量の対語としてできた言葉である。従ってコンピュータが作る量をデジタル量といい、それ以前の量をアナログ量という。これを画像について話を進めると、一般的に人によるスケッチや絵画、35mm巾のフィルムを使ったカメラ画像、VHSテープによるビデオ画像などはアナログ画像と呼ぶ。これらの量の特徴は、画像の濃淡を連続的な変化量として記録していることである。したがって、コピーをするにも元画像と完全同一なものを得ることが難しく、保管する間にも画像品質が経年変化してしまう。スケッチは筆記具の筆圧、濃淡、色などによって記録されるもので人が描く限り一つとして同じものができない。フィルム画像は銀塩粒子が光の強さに反応し黒色銀として現像、定着されるものである。フィルム像も完全に同じ像を作るのは難しく、使用するフィルムの製造、保管、現像条件の厳しい管理をしなければ良質の複製画像を得ることができない。VHSテープによる映像記録もテープ面に記録された磁気量を磁気ヘッドによって拾い上げ電気信号に変換している。テープの走行安定性、テープの磁気量保存能力、磁気ヘッドの性能によって再生画像の品質が大きく変わる。
 デジタル画像は、こうしたアナログ情報を永遠に固定してしまい、何度コピーしても元の情報を損なうことがないという魔法のような能力をもっている。デジタル画像の代表的なものは、デジタルスキャナーで取り込んだ画像データや、最近よく使われるデジタルカメラの画像データ、ビデオカメラからの映像を画像ボードを介してコンピュータに接続して取り込む画像などである。
 デジタル画像はコピーしてもなぜ情報に変化がないのかというと、デジタル画像の情報が「0」と「1」の二つしかない取り得ないからである。さらに、その「0」と「1」の情報を電気的に記録する場合は、「0」の情報が0V〜0.8Vまでの電圧、「1」の情報が2.7V〜5Vという具合になっていて、情報を記録する場合に少々電圧に変動があってもしっかりと「0」と「1」の情報を伝えることができるためである。アナログ情報の場合、例えばビデオ信号は、0.3V〜1.0V間の電圧が明るさになる。0.7Vの間に黒から白までの情報を入れるのである。0.1Vの電気的なノイズが入っても画像が大幅に変わってしまう。かたやデジタル記録では0.1V程度の変動でも情報に影響を与えることは全くない。
 
■ なぜデジタルなのか?
 デジタル画像が発達した理由はコンピュータの発達に負うところが大きい。逆説的に言えばコンピュータはデジタル画像しか扱えないのである。一昔前のコンピュータは今に比べれば格段に能力が劣り、画像を記録するにも再生するにも大変な時間がかかっていた。したがって米国のNASA(航空宇宙局)とか政府の大きな研究所のような高性能のコンピュータを所有する機関以外ではデジタル画像を扱うことはできなかった。
 コンピュータが発達し、コンピュータデータを保存する媒体のコストが飛躍的に安価になり、画像データも共通データ化(共通画像フォーマット化)が進みデジタル化が一般家庭にまで及んだ。
 こうしてデジタル画像の優位性がクローズアップされることになる。デジタル画像の恩恵は以下で述べる。
 ただ、デジタルはすべてにおいて万能ではない。デジタル化の最も大事なことはアナログデータを必要にして十分なデジタルデータに数値化することである。
 
■デジタル記録 - 処理の基本的な考え方
 自然界に存在するアナログ量をデジタルする考え方を述べる。デジタル化の一番の根本は、量子化である。アナログ量をどれだけ細分化して「0」と「1」に分けるかという考え方である。
量子化はサンプリング(標本化)とも言われている。引き合いに出している画像について量子化するパラメータとしては以下のようなものが上げられる。
 1. 空間を量子化する度合い - 画素
 2. 濃度を量子化する度合い - 8ビット、10ビット濃度
 3. 時間を量子化する度合い - サンプリング周波数(撮影速度、コマ/秒)
 4. 情報を多重化する度合い - 複数データの統合処理。
がある。
 
■ 連続量を区分化し数値化する
 連続量を区分化する手法は、数学の微分・積分の考え方を取り入れている。ただし取り入れたのは微分・積分手法の一歩手前の手法である区分求積法で、この方法のうち有限的な量子化手法を採用し無限数を範疇に入れてきれいな連続関数とするまでにはコンピュータに求めなかった。
 ゴツゴツした量子化でも「良し」と見切るやり方にすごみがある。
つまりこのことは、デジタル画像は慎重にサンプリングをしないければ、必要にして且つ十分な十分な情報を提供するものにはならないことを我々に示唆している。
       
 量子化によって得られるデジタル画像の違い
左:360ドット/インチ、右:50ドット/インチ(拡大表示)
 
■ 区分積分法
 数学の教科書をひもとくと、連続した変位の面積の総合計を求めていく場合、連続量を細かく細分化して一つ一つを独立した量と見なしそれを寄せ集めて合計するというやりかたが紹介されている。
 ある連続量があったとして、これを連続関数によって瞬時に算出するのではなく、区分に分けて既知の簡単な数式で数量を求め積算するやり方が区分求積法である。以下でよく知られた円の面積について区分求積法をおさらいしてみよう。
 目的は円の面積を求めることである。円の面積を求める一つの足がかりとして円に内接する正多角形を考える。右の図の左では正六角形で円を近似させている。内接した正多角形は多角形分だけの二等辺三角形に分解できることから、その二等辺三角形の面積を求め、それを n 倍してやれば円に内接した正多角形のすべての面積が得られる。そしてこの多角形の数 "n" を限りなく多くしてやることで面の面積に近づけることができる。最終的には面積を求める式の中の変数項である
  sin (2π/n)
が限りなく小さくなるのでn = ∞ においてこの項は単なる2π/nとする事ができ、
  πR 2
に収れんする。これは円の面積で知られた公式である。
 数学の偉大なところは、n → ∞ として普遍的な公式を導き出せることであるが、コンピュータはある限度の数値、例えばここではn = 10 5 程度として、これを十分に真なる値とみなさなければならない所である。これがデジタル(サンプリング)のジレンマである。このサンプリングを細かくすれば限りなく真の値に近づいていくのであるがコンピュータの処理能力、データ量の大きさの関係上限界がある。
 断っておくが、数学的な公式がわかったものに対しコンピュータにその公式を代入して計算させることは可能である。この項では量子化の考え方を紹介したにすぎない。ただ、数値を入れる場合、人は単にR = 5として入れるが、コンピュータはその「5」がどのくらいの精度で(5.0だけなのか、5.000000000なのか)入力されたのかをいつもチェックして入力数値としている(FORTRAN言語はこの数値の規定が実に厳格であった。今は初期値が決められていて特に指定しない限り定義の必要はない。その数値が何回も計算するものであるならば数値の精度を高めた設定にしておかないと誤差が出てくる)。
 こうして一度決定してしまった量子化(デジタイズ化)データは二度とそれ以上の詳細なデータを取り出すことはできなくなる。我々が画像を取り込む時、アナログの画像をどれだけの解像力と濃度で、そしてどれだけの時間サンプリングで取り込めば必要にして且つ十分な情報を得ることができるかを慎重に決めなければならない理由がここにある。
 但し、デジタル化したデータが連続量として認められたものであるならば、ゴツゴツした量子化データを補間してなめらかなデータ量に直すことができる。こうした補間処理によってデジタルデータをよりなめらかなデータにする手法もよく使われている。
 こうして出来上がったデジタル画像は、どれだけコピーしてもアナログ記録(テープレコーダ、銀塩写真)のように劣化することがない。ただ、下記に述べる画像フォーマットの中のいくつかは圧縮によるデジタル保存時、デジタルデータと言えども元のデジタル画像よりも画質が劣化してしまうので注意が必要である。
 
■ デジタルの長所、短所
 これまでに長々とデジタルについて述べたが、デジタルの考えは極めて見極めの良い考え方で単調な作業である。コンピュータでなければとても行えない作業である。
 適切な量子化のもとでデジタル化されたデータは品質の劣化がなく、何度コピーしても品質は同じである。
 最後にデジタルの長所、短所をまとめておく。
【長所】
 ・コピーによる品質の劣化無し
 ・データ通信に便利
 ・編集、加工が容易
 ・互換フォーマットによるデータの共通化が可能
【短所】
 ・量子化(デジタイズ)によっては品質が劣化
 ・データ量が多い
 
 
 
 
●標準化(2001.01.29)(2004.08.26追記)
 
【世界と規格 - 利権と利便】
 人の交流が大きくなると世界がどんどん小さくなっていく。
世界が変わる度に使われる言語や量の単位が統一化され、種々雑多な悲劇をまき散らしながら新しい体制が古い価値観を飲み込んで行く。規則が世界をうまく飲み込めれば統一になり、飲み込めなければ混沌とした世界になる。
 近年、インターネットやマスメディアの発達に伴って世界が急速に狭くなった。
 そんな世界に生きながら「標準化」というものを考えた。お互いが共通の足場で理解し疎通を図るには相手の言っていることが理解できなければならないし、支障なく物事を伝達できなければならない。しかしながらその共通の足場を構築することそのものが当事者にとっては人生を賭けた戦いになっている。パソコンは新しい世界だけに一つ一つの取り決めが未知なものである。5年前に決められた規格が古くなってしまい捨て去られてしまうことがこの世界の日常なのである。マイクロソフト社はパソコンのOSの機軸を作ったために莫大な利権が入り空前絶後の成長を遂げたのは衆目のよく知るところであろう。
インターネットやマスメディアで決められてきた標準化について思いつくものを上げてみる。
クロック、ビット、TTL、C-MOS、電源電圧、VGA、SVGA、NTSC、PAL、テレビチャンネル、ハイビジョン、MS-DOS、Windows、UNIX、TCP/IP、HTML、BASIC、フォートラン、Java、C言語、ASCII、RS232、イーサネット、セントロニクス、GP-IB、SCSI、MO、DVD、VHS、Cマウントレンズ、PCIバス、ISAバス、8インチフロッピーディスク、3.5インチFDD
 こうしたキマリはすんなりと出来上がったものではない。新しいキマリができればそれに対抗してきたキマリや、今までにあった規格が排除されることを意味している。新しいキマリが採用されればそれを推進したグループに莫大な利権が転がり込む。決められた世界に新しく入る者は整地された環境で快適に生活することができる。ちょうど蛇口を捻ると水が出るようにそれがあたかも普通のことのように受け止める。しかし二つのキマリが対立してる中に置かれた使用者は、どちらか一方を選択しなければならず、勝者になるまで苦楽を共にしなければならない。
 利権と利便を求める標準化の道は多くの犠牲を払い、時には国と国の争いまで引き起こしてきた。
 
【メートルとインチ】
■ メートル法 (2004.02.04改)
 メートルという長さの単位は、フランスで考案され公布され全世界に広まった。meterはフランス語で基準となる長さという意味で、ギリシャ語から由来している。ギリシャ語では測定という意味でmeterが使われている。メートルの標準化にあたって多くの犠牲と時間が伴ったことは言うまでもない。メートルが最初に採用されたのは今から210年ほど前の1793年、フランス共和国であった。日本の江戸中期にあたる。メートルの単位の決め方は実にユニークで科学的なものであった。日本の尺貫法の尺やイギリス、アメリカのインチ・フィートに見られるような、つまり、単位の決め方が人の手のひらを広げたサイズであったり、親指の巾や足のかかとからつま先までの長さ、というような人間の尺度から来ているのとは違って、随分と論理的で科学的なものであった。
メートル:メートルの最初の原型は、1790年にタレーランが1秒で振り子が1振幅する長さを1つの尺度とすべきだとフランス国民議会に提案したことに始まる(1mの長さを持つ振り子の周期は2秒となる)。この提案を基に地球の子午線の4分の1を正確に測量してメートルの単位を制定しようとした。実際には、パリを通過する子午線の赤道から北極までの長さの1000万分の1とする取り決めを行い(ということは地球の全周は4000万メートル、つまり40,000Kmということになる)、ダンケルクとバルセロナ間の実測測量に基づいて距離を算出して最初の原器が作られた。当時、バルセロナはスペイン領でありフランスとの関係は極めて劣悪で測量に5年の月日を費やしたと言われている。制定と測量に際してフランス政府はイギリスとアメリカに協力を呼びかけたが両国ともこれを拒否した(アメリカは独立して間もない国で理解がなかったのかもしれない、イギリスとフランスはあまり仲がよくなかった。ドイツは小さな国家に別れていて大きな力とはなっていなかった)。こうしてできたメートル法であったがフランスの呼びかけにどの国も手を挙げず、結局フランス単独で制定を行わざるを得なかった。メートル原器は1799年に一応の完成を見、フランス共和国で保管されることになったが世界の日の目を見るまでに長い月日が経っている。メートル原器が完成して70年経過した1870年、ナポレオン3世が国際会議を招集して24ヶ国270名を集め国際標準化の道を歩み出すことになる。ここに至るまでに1793年の発案から80年の月日が経っていた。1875年にはメートル条約が成立し、1889年、国際メートル原器と国際キログラム原器が作られた。現在のメートルの定義は、メートル原器を廃して、光を利用してより精密にメートルの単位を定義している(1960年には、クリプトン86という元素が発するオレンジの光の波長の1,650,763.73倍と定義され、1983年には光が299,792,458分の1秒に進む長さと変更された)。長さの基準は、メートル原器から定義が変わって行ったが、重さに関しては、1889年以後100年以上も変わらずに国際キログラムが唯一絶対の基準となっている。近年国際キログラム原器を見直そうという動きが高まっている。(重さの項参照)
 メートル法の大きな特徴は、科学的で且つ論理的であったことである。メートル法は十進法を採用していて全て10進法のスケーリングで長さの比較、加算乗除ができた。そして3桁毎にキロ、メガ、ミリ、マイクロと接頭語が用意されていて言い表しやすかった。また、長さを単位として、10cm立法を1リットルとする容積を作り、その容積の水の重さを1Kgとして(1cm立法の水の重さを1gとして)いろいろな単位(ユニット)を組み上げていったことも特筆される。こうした理にかなった単位の表現が科学技術に受け入れられて、物理学ではこの単位が標準となっていく。1864年に、イギリスの物理学者が集まって電気抵抗の単位を制定した際、「CGS単位系」を基準とした。Cは長さの単位でセンチメートル、Gは重さの単位でグラム、Sは時間の単位で秒である。ヤード・ポンドが日常で使われていたイギリスにあって電気をはじめとした物理学ではメートルの世界が一般になって行ったのである。
 メートル法は、1960年の国際単位系(SI = Systeme International d' Unites [これはフランス語であるがフランス語のフォントが適用できないので英語に置き換えた。正確には別の文献を参照されたい])の取り決めに際して、SI単位系の土台となった。メートル法の表記で末端部で整合性がとれない部分が生じ全面的に見直したのがSI単位系である。国際単位系(SI)では、7つの基本単位と2つの補助単位、19の組み立て単位に分類された。日本でも1972年の計量法の改訂に伴いSI単位系の導入を決定している。
▼ 基本単位
1. 長さ: メートル (m)
2. 質量: キログラム(Kg)
3. 時間: 秒(s)
4. 電流: アンペア(A)
5. 熱力学温度: ケルビン(K)
6. 物質量: モル(mol)
7. 光度: カンデラ(cd)
【補助単位】
9. 平面角: ラジアン(rad)
10. 立体角: ステラジアン(sr)
 
■ 尺貫法
 日本がメートル条約に加盟するのは1885年である。フランス主宰による国際会議が招集されてメートルがスタートしてから15年が経過している。当時の日本は、明治政府がやっと軌道に乗りだした頃で、江戸時代に完成を見た尺貫法を廃止してメートルを国の基本尺度とするという方針を出したことは大決断であったろうと想像する。しかし、内情は世界の仲間入りのためにメートル法を表向き受け入れはするものの、本音は尺貫法を容認するというのが本当の所であった感じを受ける。尺貫法は昭和の初期頃でもまだ厳然と強い力を持っていてメートル法が完全に定着するのは昭和30年代に入ってからではなかったかと思う。
▼ 教育と生活の中の尺貫法
 明治以降殖産興業で諸外国の機械や物資が輸入され、それを真似ながらそれらを国産化していた時代は尺貫法の基準とメートル法の基準、ヤード・ポンド(それもイギリスとアメリカ)の基準が混ざり合った時代であったろう。住宅や生活物資の量、重さの基準は古来の尺貫法が使われ、機械製品はイギリスやアメリカからヤード・ポンド規格で作られた機械加工装置(旋盤、フライス盤、中ぐり盤)が輸入されたためインチ・フィートで作られた工業製品がまかり通っていた。
 太平洋戦争後教育制度が根本的に見直され学校の授業ではもはや尺貫法は使われなくなった。私が通った小学校の算数と理科の教科書に尺貫法の記述はなかった。だから私は尺貫法はよくわからない。私の身長も体重もメートル・キログラムで測定されたし記帳もされた。しかし、祖父母はメートル法がまったくわからず、私の体重や身長を尺貫でしか理解できなかった。祖父は体が小さく日露戦争当時の徴兵検査で甲種合格とならなかった。そのことに対し彼は相当堪えていたのか、中学になって成長期を向かえた私に「5尺の上背(うわぜい)になったか?」とよく聞いた。5尺はメートルで言うと152cmである。明治の時代、152cmの身長があることが屈強の若者の基準であり甲種合格なのであった。中学校当時、私は祖父母のために身長と体重、それに容積を伝えるのに絶えず頭のなかでメートル単位を尺貫に変換して答えていた。私が過ごした家には1升、1合の升(ます)があったし、匁、貫を計る分銅付きの天秤棒もあった。祖父は大工をしていて、彼が使う尺がね(さしがね)は尺寸表記のものであった。田畑の広さを表すときはメートル単位ではまったくコミュニケーションがとれず、坪(つぼ)、反(たん)、畝(せ)、町歩(ちょうぶ)で言い表して大きさや広さの比較、規模を表現していた。この世界は尺貫法は強かった。我々も実際の所、ヘクタール(ha)やアール(a)が現実味を持った値ではなかったので日常的に使うことはなかった。しかし祖父母に取ってみれば新しい原野の開拓や敷地を広くして家を建てることが日常の大きな関心事で生きる糧でもあったから、反とか町歩、坪に対する感覚は我々中学生などとは根本的に言葉の重みが違った。
▼ 建物の尺貫法
 生活空間を支配する単位として尺貫法は都合が良いと昭和の中期に育った私でさえ思うことがある。坪というのは本来歩(ぶ)とおなじ単位であったようで、6尺平方の広さを言う。6尺というのは1間(けん)で言い表される。1間という長さが日本の家屋の単位(ユニット)で扉の大きさがこの1間である。つまり1坪は扉2枚分(畳2枚分)の大きさなのである。1間は、人が二歩あるく長さがちょうど6尺であったことからこれを1間としたと言われている。歩数の間隔が3尺(90cm)というのは広い感じがするが中国ではこれが標準であったのだろう。生活空間では1間が一つの基準(ユニット)となって、高さ1.8m(=1間)巾0.9m(=半間)が戸1枚の大きさとなった。従って家屋は1間の高さに鴨居が張り巡らされることになる。私の高校時代友達が実家に遊びに来ることがあり、180cm程度の友人が首を垂れるようにして敷居を跨ぐとき、それを見た祖父は「雲を突くような大男」と形容した。1間のユニットで作った日本古来の家屋は現代の日本人には少し小さいようである。
 1間( = 6尺)四方が1坪(36平方尺、3.306平方メートル)となる。畳もちょうど戸と同じ大きさである。つまり畳一枚は1間(=6尺)x半間(=3尺)となって、畳2枚で1坪に相当することになる。従って6畳の部屋は3坪ということになる。坪と間(けん)は日本古来の生活空間になくてならず、明治(はては江戸時代)の人たちにとっては生活に染みついた単位だったのであろう。
 について少し触れると、畳が一般の人に普及するのはなんと大正時代になってからであるという。江戸時代には富豪の商人の家や大名や武士階級に普及し、それ以前は貴族の敷く敷物であったという。一般の人達は土間と板敷きの家屋で暮らし、板敷きには藁や茣蓙を引いた程度の暮らしであったらしい。畳は万葉の時代から会ったらしいのだが貴人が使用し、現在のように畳を敷き詰めるのではなく板の間に置いたものだった。その規格もまちまちで幅3尺2寸から4尺、長さ3尺5寸から19尺であったという。これが室町の時代になり板の間に敷き詰める習慣になると規格化を本格的にしなければならい必要上規格が計られた。しかしそれでもいくつかの畳ができたという。建屋の間寸法は統一されていたのでその中に敷き詰める畳もそれに合うようにそれぞれ規格を作って行ったようである。現在は大きく分けて2系列があり、京都方面で使われている6尺6寸x3尺1寸3分の本間表、関東で使われている6尺1寸x3尺1分の58引通表であるという。また、アパートにはもう少し小さい畳が使われていると言う。畳には決定的な規格統制はなされていないようである。
 
▼ 重さの尺貫法
 重さの単位の貫(かん)は貨幣の1文(1銭)を1000枚集めて紐で貫き通した重さに相当する。重さの単位ではこの1銭の重さを匁(もんめ)と称した。したがって1貫は1000匁ということになる。これらは貨幣が発達した室町時代に一般的になった。重さの単位の中に貫(かん)と匁(もんめ)の単位の間に斤(きん)という単位がある。1斤は160匁に相当し600グラムであった。この1斤が6つ程度集まると1貫になった。斤(きん)というのは中国から伝わった重さの単位である。重さのことを目(め)とも呼んでいて斤のことを唐目とも呼んでいたらしい。しかし斤(きん)はおおよその目安で言い表される単位だったようで絶対的な重さの単位とはならなかった。使われる場所で斤と呼ぶ重さの単位は随分と変化した。例えば薬屋が使った大和目は180匁、山椒用は60匁、お茶は200匁が1斤であった。
 我々がよく耳にする斤(きん)の呼称はパンの量を表すのに使っている。しかしこのパンの1斤(きん)は、イギリスのポンド(1ポンド= 450グラム)の重さを言い換えて使ったもので120匁( = 450グラム)のことである。この英斤は明治以降日本に定着し、1斤と言えば1ポンドの意味になった。この1斤は頃合いのよい重さなので肉やバターを買うときもこの斤を量単位として両親や祖父母がこの単位で食料品を買っていた記憶が子供心にあった。
 ちなみに足の長さを表す文(もん)は貨幣の1文の直径からきており、この1文銭を並べて長さを表していた。この場合は1文が長さの8分(約2.4cm)に相当した。江戸時代に流通していた寛永通宝銭はほぼ規格が統一されていて、この貨幣は物(長さと重さ)の基準にされたようである。寛永通宝銭は重さは一匁、大きさは直径8分であった。
【尺貫法の源流 中国】
 日本の尺貫法の源流は中国に求めることができる。中国文明が進んで紀元前4000年頃から物を測る基準があったという。中国の長さの求め方は、かなりユニークで科学的だった。中国では長さの基準に黄鐘調(おうしきちょう)という笛を使った。この笛を使って笛の管の中にクロキビの粒を90粒ならべその一つを分(ぶん)と呼び10分を1寸、10寸を1尺、10尺を1丈、10丈を1引と10進数で決めた。
 長さを決めるのになぜ黄鐘調(おうしきちょう)という笛を使ったのかというと笛の基準音は音の波長であるため長さが一定でこれを長さの単位として求めることがたやすい点が上げられる。
 また、この笛の中に1200粒のクロキビを入れその体積と同じ水を龠(やく)と称し、その2倍を1合、10合を1升、10升を1斗、10斗を斛(こく)とした。クロキビ1200粒の重さを12銖(しゅ)、その2倍を1両、16両を1斤、30斤を鈞(きん)、4鈞を1石(こく)とした。
 黄鐘調(おうしきちょう)を長さの基準にしたことは客観的で精度のよいものとなったが、時代の権力者の趣味により音律の好みに多少の違いがあって黄鐘調(おうしきちょう)の長さが変化した。武帝の時(265-290)にこの長さに見直しが行われ、中国の最も権威ある長さの標準ができた。
 日本では、文武天皇(701)の時代に唐の制度を見習って大宝令に度量衡の単位が公に定められ標準の原器を全国に配布した。それまでは渡来人が持ち込んだそれぞれの尺度が使われていた。大宝令では長さの単位の尺も小尺(曲尺で8寸8厘)と大尺(9寸7分)の二通りを決めなければならないほどたくさん出回り、とくにこの2つの尺度が普及していたことがわかる。
 
▼ 貨幣と重さ
 英国の貨幣の単位であるポンドは銀の重さ1ポンドから来ている単位であるという。日本古来の貨幣の単位である「両」も重さから由来している。「両」はもともとは重さの単位としてあったものであるが、貫、斤、匁、分、厘が一般的になって、両、朱(銖)は、貨幣の単位で使われるようになった。「両」とはもともと両天秤にかけるという意味があるそうで、同じ形の物が対称的に左右に並んだ形でこれから「二つ」の意味になったと言われている。江戸時代は、寛永通宝銭という確立した貨幣と規格が出来上がったが価値のある金や銀は時代時代でいろいろ混ぜ物にされて価値が一定ではなかった。金貨は重さで交換されるとは言っても時代時代でまちまちであったので貨幣を正しく判断し交換できる「両替商」ができた。これらの集団が貨幣市場を形成するようになる。江戸時代の両替商は今の金融機関である。彼らが商売をする上で重さを正確に計る天秤と分銅は欠かせない道具であった。分銅は当時繭形をしていて、この繭形の分銅が両替屋のトレードマーク(看板)となった。現在の地図記号にある銀行のマークは、この分銅の形に由来している。
 
■ ヤード・ポンド法
 量というは身体や身のまわりのサイズから出発して、いろいろな量単位ができてきたことがわかる。そしてその単位量が多くなると別の単位にして換算した。そのステップが6つであったり12であったり4つであったりまちまちであった。その点、メートル法というのは10進数を採用して1000になると指数単位が変わる(キロ、メガ、ギガ、ミリ、マイクロ、ピコ、ナノ)換算になっていて随分と画期的なシステムであった。こういうロジカルなシステムを編み出す能力はフランスは実に長けている。芸術の国と言われながらも優秀な数学者を出している不思議な国である。
 度量衡(どりょうこう)の単位がメートル単位系を基にしたSI(ISO)で統一されつつある中で、ヤード・ポンドはアメリカが依然として採用している標準である。ややもするとヤード・ポンドが標準ではないかしらと思うくらいに衰えを見せない。ヤード・ポンドを作った本家イギリスはここ20年の間に暫時メートルに変えてきて最近では道路標識もマイルからキロメートルに変わり、ガソリンもガロンからリットルに変わって来ている[ただしイギリスのパブで飲むビールは厳然とパイント( = 568ミリリットル)が使われている]。
 ちなみに、ヤード・ポンド法は大英帝国時代のものである。そのため、ヤード・ポンド法は、Imperial Unit(大英帝国の単位) とも呼ばれている。 その名残として今も、特に米国では、British commonwealth として残っている。 現在、commonwealth の参加国は67カ国あるそうである。アメリカでは1992年より、イギリスでは1995年よりofficialにはSI 単位を使うように定められたが、日常生活を縛るまでには至っていない。そのイギリスでは、日常の単位として miles, yards, feet, inches, pints, acres, troy ounces をあげている。しかし、ポンド、オンスなどは1999年12月31日以後は使わない、としているそうである。2001年4月10日朝日夕刊には、英国北部で、 バナナ1ポンドを売った青果店主に罰金2000ポンド(約36万円)を 払うよう命じる判決が出され、イギリスのメートル法への移行が本気であることを伺わせている。これにより2つのポンド(重さのポンドとお金のポンド) の区別はなくなりポンドと言えば通貨の単位だけとなった。
 
▼ 貨幣の「ポンド」
 イギリスの貨幣には「ポンド(£)」が使われている。重さもポンド、貨幣もポンドで頭の中が混乱する。貨幣の「ポンド」のことを特にスターリング・ポンドと称している。重さのポンドはLbであり、貨幣は£を記号単位として使っている。貨幣のポンドは、実は「銀」の重さの1ポンドからきたものである。銀は昔から高価なものであった。中世ヨーロッパでは金よりも銀の方が価値があった時代があったと言われている。もちろん日本も明治になって開国を迎えるまで銀と金との相対価値は銀の方が高かった。今でこそ貨幣は「金」を根本として一元化した金本位制をとっているが、昔は、金と銀のそれぞれ独立した複本位制であったと言われている。イギリスではその銀1ポンドを240当分にわけ240枚の銀貨を作った。その一枚が1ペニー銀貨であった。(ペニー銀貨12枚が集まってシリングという銀貨も作られ20シリングで1ポンドの時代があった。ちなみに1ポンド = 4クラウン、1クラウン = 5シリング = 60ペンスという貨幣単位もできたり、ハーフクラウンという貨幣も、1ギニー = 21ペンスという単位も使われていた。)その後イギリスは1813年に金本位制をとるようになったが「ポンド」という名前だけは残った。
 現在イギリスの貨幣はポンド(£)とペンス(P)の二つだけを通貨として認め、他のシリングや、クラウン、ギニー通貨は廃止された。ちなみに、1ポンド=100ペンスとなっている。
 貨幣の「ポンド」は、重さがきたものであるが、貨幣のポンドが重さのポンドと等しいかというとそうではない。貨幣のポンドは、「トロイポインド」を採用している。普通のポンドは、7000グレーン(1グレーンは約0.065グラム)であるが、貨幣の1トロイポンドは、5760グレーン(約373.14グラム)、1トロイオンスは、480グレーン(約31.1グラム)である。トロイポンドの起源はよくわかっていないという。トロイは中世フランスの商業都市でそこで流通していた単位が主流を占めていたと考えられる。このトロイポンドは、1527年のヘンリー八世によって制定されたという。その後、この貨幣単位は、貴金属用として国際的に通用し、単にポンドとオンスとして使われるようになっている。
 
▼ 重さの「ポンド」
 長さの単位のインチやフートは人間の体の手足の長さから来たものと言われている。歴史上いろいろな長さの基準が出来上がって、それが歴史を経る中で強い国家が単位を規準化していったことは想像に難くない。重さは、古来物を交換する際の大切な目安とされてきた。欧州では穀物の物々交換の際に穀物の単位である「グレーン」が共通の重さの単位であったという。グレーン = grain は、英語では穀物(小麦)を意味し、1粒の小麦を指すことがあり小さな重さの単位になっているようである。
英語圏では、1959年に 1 pound = 453.59237 g と制定した。さらに、1ポンド(lb = pound) = 16オンス(oz = ounce) = 7000グレーン(gr = grain)と取り決めた。
 重さの単位である pound は、ラテン語の pondo (重さ、weight) に由来する。 ポンドの記号 lb は、ローマの単位 libra に依っている。英語の貨幣ポンド表記「£」 も libra の L である。 libra はラテン語でバランスとか重さという意味である。 平衡状態を表すのに equilibrium という英語があるが、これは「equi(等しい) + librium(重さ)」の意味となる。また、 天秤座のことをリブラ(libra) と言っている。イタリアの通貨の単位は lira (リラ) で、これも同じ語源である。
オンスの記号 oz は、ラテン語の onza に依っている。ラテン語の uncia(ウンシア) は 1/12 を意味していて、 ounce の語源もこれに依っている。onza = uncia = ounce = inch で、本来は 1 lb = 12 oz であるが、なぜか16 ozとなっている。
 
▼ アメリカが主流のヤード・ポンド
 ところが、アメリカに行くとメートル表記を見つけるのが難しいくらい日常生活はヤード・ポンド一色である。ヤード・ポンドは歴史が長いだけに継ぎ接ぎだらけの決まりという感じが強く、統一のとれた単位とは言い難い。
 1インチが12集まって1フィートを作り、3フィートになって1ヤードとなる、その1ヤードが22集まって1チェーンとなり、80チェーンが1マイルとなるのである。
 ヤードは、アングロサクソンが使用してきた長さの単位であるが、アメリカとイギリスでは同じヤードという単位を使っていても両者に長さの違いがあった。イギリスでは1855年製の青銅製帝国標準ヤードで長さを定義していた。しかし、これはメートル原器と比較していくとだんだん縮んでいることがわかり、1963年に度量衡法を改正して1ヤードを0.9144mと決めた。これに対してアメリカは1893年にメートルを法律上の正規の長さの単位としたとき、ヤードを慣用単位として認め、その大きさを3600/3937 mと定めた。この値は、0.91440183となりイギリスの値と違いが出で無視できなくなった。そこで米国規格協会(ASA)は1933年に0.9144mを採用し一応の統一を見た。
 アメリカで生活すると、マイルという距離が頻繁に出てくる。車のスピードメータもマイル表示であるし、プロ野球のピッチャーの投げるスピードもマイル表示である。1マイルは約1.6Kmに相当する。1マイルは、5,280ftに相当する値であるが、換算値としては複雑で腑に落ちない。言葉の語源は、1000複歩を意味するギリシャ語のミリアリウムから来ていて、このミリアがマイルになったそうである。1000複歩が1.6Kmであるから1複歩が1.6mであり、これは2歩に相当するため1歩が80cmとなり、一応納得しやすい長さとなる。1マイルは2000歩(1000複歩)だったのである。フィートが足の長さに由来し、インチが人の親指に由来し、マイルが人の歩幅に由来したのである。また、1マイルが5,280ftと半端な数値にしたのは田畑用のファーロング(furlong)との関係を切りよくさせたいためで、8ファーロングを1マイルとしたためとされている。1ファーロングは660ft(201.168m)になる。ファーロングとは聞き慣れない長さの単位であるが競馬などではよく使う単位だそうである。日本語ではハロンと呼んでいるそうである。競馬は田畑の農耕から生まれたものであるとすると、この単位は現役で使われていても不思議はない。この1ファーロングはfollow longが語源で、畔みぞの長さの単位であった。その長さは1ファーロングで10チェーン(chain)に相当する。チェーンは鎖の意味で土地の測量に使われていた器具であるという。それがどのようなものであるか自分には良くわからないが鉄の鎖のようなものであると想像する。1chainは22ヤードに相当し、単位長さの針金が100個リンクで結合されていてリンクには針金の数を示す標識が付けられているそうである。日本では測量に使う鎖ということで“測鎖”と呼んでいるそうである。
 アメリカ人がよく使うエーカー(acre)(4,840平方ヤード、43,560平方フィート)(約4,046平方メートル = 40a = 1,226坪)という面積単位にいたってはどこからきたのかまったくわからない代物である。この面積単位は、2頭の牛を並べてその間に「くびき」と呼ばれる横棒を渡して鋤(すき)を引かせ、それが一日で耕せる広さを1エーカーと呼んだそうである。「エーカー」とはギリシャ語で「くびき」のことである。厳密に言うと1エーカーは、縦と横が1furlongと1chainの長方形の面積と言われている。1ファーロングは10チェーンなので、1チェーン x 10チェーンの面積となる。1:10の長方形の面積が1単位になるというのも面白い単位であるが牛が一日かけて耕すにはまっすぐが都合良かったのかもしれない。1チェーンは22ydなので、22 yd x 220 yd = 4840 yd2となる。
 面積や体積などは繰り上がる単位もまちまちでとても論理的とは思えない。日常の感覚で使う単位としては良いかも知れないが学術的にはあまり感心できる出来映えではない。
 重さに関しても複雑である。1oz(オンス)が16集まって1ポンドとなり、2240ポンドが1トンとなる。
 
▼ ガロン
 アメリカから輸入される飲料や液体ボトル、缶などはガロン(gallon)表示されているものが多い。
ガロンもヤード・ポンド法で制定された体積の規格である。体積の表示も歴史が古いためいろいろな規格が作られた。体積の規格には、液量から定められたものと穀物から定められたものがあるという、その両者に加え米国と英国でそれぞれ制定されたため単純に考えると英国液量(UK gal = 4.54609 L)、英国穀物、米国液量(US fluid gal = 231 cubic inches = 3.785411784 L)、米国穀物(US dry gal = 268.8025 cubic inches = 4.40488377086 L)の4通りの規格が出来上がる。英国は一つに統一したので実際は3つの規格が出来上がっている。もっとも、米国では穀物ガロンは使われなくなり液体ガロンが体積の代名詞になっている。
 ガロンは、イギリスに元々あった2つのガロンがアメリカに伝わった。しかし、その後イギリスではこの2つとは違うガロンに統一したため、3つのガロンができあがった。イギリスでのガロンは元々小麦8ポンドの体積のことであり、16世紀の終わり頃に268.8 cubic inches と決められていた。これは、 Winchester gallon と呼ばれたものであった。これがアメリカに伝わって US dry gallon になった。またイギリスにはこれとは別に商用ポンドというのがあった。1 pound = 6750 grains = 437.387175 g である。このポンドで測った水8ポンドの体積がワインガロンとなった。これは3.5 kg に相当する。この商用ポンドが1707年、アン王女(1702-1714年) の時代に 1 wine gallon= 231 cubic inches と統一された。これが1776年アメリカ独立戦争の頃までにアメリカに輸入され、このWine gallon (Queen Anne's gallon) が米国液量ガロンとなり米国の標準ガロンとなった。その後、1824年にイギリスではいくつかあったガロンがまとまり統一された。1824年の法律「The Imperial Weights and Measures Act」では 1 gallon の定義を 「華氏62度における10 pounds の水の体積」としている。これが 1 UK gal =4.54609 L のもとになった。 このようにして3つのガロンが出来上がったのである。
 
 逆説的ではあるが、日常生活にはこちらの方が密着しやすい単位かもしれない。手にもつ大きさならインチで表し、歩く距離感はフィートかヤードで表し、車や飛行機ではマイル、ビールは1パイントでほろ酔いになれるが2パイントではちょっと酔っぱらう、という具合である。
 我々の生活の中にもインチで表現しているものがいくつかある。テレビ画面の大きさはいまだインチ表示である。自転車や車のタイヤのサイズもインチサイズで表している。コンピュータのフロッピーやハードディスクドライブの物理的な大きさも3.5インチなどのようなインチサイズである。プリンタの解像力はdpiと称して1インチあたりのドットの数を表している。シリコンウェハーもインチサイズであると聞く。
 航空機は厳然としてインチサイズで製作されている。カメラは至る所にインチネジが使われている。カメラ三脚ネジはインチネジ。CCD撮像素子の大きさもインチ表示、Cマウントレンズの口径も1インチ。
 
【重さ】 (2004.06.26)(2005.11.29訂正)
 メートル法で一番の基本次元は「長さ」であり、これをもとにいろいろな単位が求められた。重さの単位(kg)も長さから定義された。重さは、水の容積をもとにしていて、摂氏4°(水はこの温度の時密度が最大になる。体積は最小)(2005.11.29A.K.氏御指摘により訂正)時の10cmx10cmx10cmの容積を1kgとした。フランスは、これをもとにしてキログラム原器を作った。1875年メートル条約が成立された後、1889年には国際メートル原器と共に国際キログラム原器が作られ現在に至っている。国際キログラム原器は、白金イリジウム合金で作られた円柱状の分銅でφ39mm、高さ39mmの手のひらに乗る程度のものである。このキログラム原器は、パリ郊外の国際度量衡局の金庫に厳重に保管されている。この原器は、1889年製造以後3回洗浄され1988年の洗浄では0.06グラム(髪の毛約1cm分)軽くなった。しかし、メートル法の定義では国際キログラム原器が唯一絶対の重さの定義であるため、軽くなろうとそれが1kgになってしまう。長さの基準がメートル原器を廃して測定の原理だけの定義になっているのに、重さの定義は絶対的基準がなく国際キログラム原器を唯一絶対として現在に至っている。
 しかし、その基準も見直しの気運が高まっている。国際度量衡局は、定義変更に向けて検討を始め、日本も加わった国際チームが2方式で競い合っている。その2方式とは、アボガドロ定数法(日本と欧州[EU]連合が研究)とワットバランス法(米国と英国の連合チームが研究)の二つ。日本ではアボガドロ定数法を研究している。茨城県つくば市にある産業技術総合研究所の計量標準総合センターには、ビリヤードとボーリングの球の中間の大きさの質量1キログラムのシリコン単結晶でできた球があるという。その球の直径は、93.6xxx mmであるという。数字が半端なのは真の球体に近付けるために研磨を施したためと言われている。この球の直径を精度の高い測定装置であらゆる角度から測定して、高い精度で体積を求める。一方、シリコンの単結晶の結晶構造の大きさ測定も研究が続けられていて、シリコン結晶の最小単位である8個の結晶の体積も求められている。球の体積をシリコン結晶の最小単位の体積で割ると球がシリコン原子何個でできているか求めることができる。この精度が上がれば、キログラムはシリコン原子の個数で定義できるようになるのである。
1Kgの新定義 = シリコン28原子 2.15xxxxxxxxxxxxxxx E25 個の質量
        (上のxの桁数の特定が現在研究中)
この研究になぜシリコンが使われているかというと、シリコン単結晶製造技術は近年の半導体製造技術の発展によって、驚くほどの純度で結晶体を作ることができるようになり、その結晶構造も極めて安定していて狂いが少ないためと言われている。シリコンの結晶構造は、ダイヤモンドの構造に似ていてしっかりした構造である。
 現在、アボガドロ定数チームは、原子の数の精度を1000万分の2まで高めているという。あと1桁あげれば定義するに足る精度になるという。一方、ワットバランス法は、電磁気的な力などから定義する方法を研究している。
 こうした定義が確立すると、100年以上も使われてきた国際キログラム原器の役割が去ることになる。その時代が来るのは10年から20年後であると言われている。

- 出展参考「朝日新聞2004年6月26日(土)5面」

 
 
【温度】
 温度には現在、3通りの表記法がある。学術的に使われる絶対温度のケルビン(K)と水の固体、液体、気体の3様を100等分した摂氏(°C)と、それに摩訶不思議な華氏(°F、ファーレンハイト)である。アメリカでは、厳然とこの華氏(かし)が生きている。アメリカの天気予報をみると必ずこの華氏が出てくる。華氏温度表示は、日本人にはまったく馴染まない単位である。1983年7月に、一人でアメリカの東海岸に赴いたとき、休日に買い物に出かけた。暑い夏のこと、焼けたアスファルトを歩いていて汗をかきながら道路沿いにあった温度表示塔を見たら98を示していた。暑いのは暑いのであるが98°Fの値が果たしてどの程度であるのか皆目検討がつかなかった。(この温度は36.7°Cに相当する。)
 華氏温度の原型は、1724年に出来上がった。ドイツの物理学者ファーレンハイト(Daniel Gabriel Fahrenheit、1686-1736)が、それまでバラバラであった温度計の目盛りの標準化を行った。彼は諸物質の密度や膨張率、沸点などを熱心に測定し物性学に貢献した科学者であったが、温度の標準化における着眼点は生活に根ざしたものであった。彼の拠り所とした「0」度は氷と塩を混ぜて作る日常生活での最低温度に根ざしていた。ファーレンハイトは、食塩と雪の重量比1対3の混合物(-17.78°C)を最低温度0°Fとし、ヒツジの体温が最も高い体温であるとして100°F( = 37.78°C)と決め、この間を100等分した目盛りを作った。現在では、氷と塩の到達温度は、共晶点で-22.0°Cになることが知られていて、これは華氏でいうと零下8度に相当する。
華氏温度について無機質的な言い回しで、「華氏は氷点を32度、沸点を212度として、その間を180等分する」と記述されるのをよく見かけるが、あまりにも味気ない言い回しである。なぜ氷点を32度して沸点を212度とし、それを180等分しなければならないのかの説明がない。たぶんこれは、セルシウスの温度計を睨みながら摂氏の温度目盛りに対してこうなる、という説明からきたものと考える。ファーレンハイトが望んだ目盛りのつけかたはこれを望んだわけではなく、あくまでも身近にある温度分布をわかりやすく親しみにある目盛りにすることであったと思う。
  摂氏は華氏に遅れること18年の1742年、スウェーデンの物理学者セルシウス(Anders Celusius:1701-1744)によって決められたもので水の3態から来ている。摂氏の方が実にわかりが良いと思うのだが、なぜかイギリスとアメリカは摂氏を採用することがなかった。
 ちなみに、華氏と摂氏の換算は以下の式で表される。
 F = 32 + C*9/5
   F:華氏温度(°F)
   C:摂氏温度(°C)
 
【時間】
 時間は、比較的すんなりと「秒」という万国共通の単位が、日付とともに全世界に受け入れられて行った。この単位が10進法でもなく複雑な繰り上がりをするにも関わらず物理量の基本単位(SI単位)になった。
 時間の目安としては、1日、1年というのはわかりやすい。太陽の位置、星の位置を測定すればかなり正確に地球の位置が特定できるまでに16世紀以降の天文学や機械工学、電子工学は発達した。それ以前にエジプトでは天文の知識を用いて1年を365日とし12ヶ月とする太陽暦が紀元前2700年頃にはできていたのである。1日を分割する時間の単位もエジプトを起源として、1日を24等分して1時間とし、さらに1時間を60等分して1分とする単位が出来上がっていた。さらに1秒は1分を60等分したため、1日は86,400秒となった。時間を目盛る道具として日時計、水時計、火縄時計、ローソク時計、砂時計が使われた。
▼ 1秒
 「1秒」の定義は、天文学者が1000年以上も慣習的に使用してきた「1平均太陽日の1/86,400」から来ている。1日を24分割(時 = hour)してこれを60等分(分 = minute)してさらに60等分(秒 = second)すると86,400分割になる。これは、1799年フランスがメートル法を導入した際に同時に決められた定義であった。平均太陽日とは太陽の南中時刻をもとに求めた一日を年間で平均したもので、当時、地球が正確な周期で自転していると考えられていた。しかし、その後、地球の自転周期には誤差のあることがわかりこの定義では絶対的な「1秒」を特定することが難しくなった。そこで、1956年に定義が変更され、「1900年当初の太陽年の1/31,556,925.9747(3千155万6千925.9747)を1秒とする」ようになった。有効数字12桁の精度である。一日の時の刻みは86,400で変わりがないから、1900年一年の「時」を分割して「1秒」と定義したのである。この定義に従うと1年は365日と0.2421988日(もっと詳しい日が割り出せるが私の計算電卓ではこれが精一杯)ということになる。これで「1秒」の定義は確定されたが、我々の生活は太陽と地球の公転、自転でなされるため時代が経るに従って地球の自転・公転周期、それに太陽の自転の誤差のために正確な時計の針と太陽が南中する位置、太陽の自転の位置がずれることが想定される。こうして閏年及び閏秒が変則的に導入されることになった。
 
■ 閏年・閏秒
 これまでに述べたように、正確な「1秒」が定義されるようになると、天体の運行には誤差があるため、天体の運行に左右される人々の生活に支障が出る(夜の10時になっても日が沈まない、とか季節が暦とズレルなど)。このためある期間で正確な計時と暦の「時計」を補正する必要がある。正確な時計で計る1年は、365.2421988日であり、4年で0.9687952日(約1日)の誤差ができる。これを補正するため4年に一度この誤差分を補正する閏年を設け2月28日を1日増やして29日を設ける。しかしそうすると1年当たり0.0078012日先走ることになるので、128年に一度閏年をやめる必要が出てくる。この補正のやり方は、400年に3回閏年を省くという方法で、対処している。具体的には西暦の末尾二桁の数字が00年の年は400年の倍数以外は平年とする。従って西暦1900年は平年、2000年は潤年となった。これで暦年と1太陽年との差は0.0003日に収まりほとんど影響はなくなるが、それでも計算上は2621年で1日の差が生じることになる。
 うるう秒は太陽の自転の遅れによって生じる天文の時間(太陽と地球)と原子時計の誤差である。1972年からこの差が0.9秒を上回らないように「うるう秒」を加えたり除いたりの調整を行っている。これはグリニッジ標準時1月1日午前0時ちょうどの第一優先から7月1日(第2優先)、4月1日、10月1日と予め時間と方法が決められている。具体的には59秒の後に仮の60秒を挿入する事によって1秒増やしている。
 
▼ 振り子時計
 11世紀-12世紀の頃の時計は最も精度の良いものでも一日に1,000秒(15-20分)の誤差があった。時計の精度を高めたのはイタリアのリレオ・ガリレイであった。1583年、当時18歳の彼の発見した振り子の等時性は、振り子の周期=時間はオモリの重さや振幅に依存せず振り子の糸の長さだけで決まるというもので、振り子の長さが2倍になれば振り子が行ってもどる周期は4倍になった。しかし彼は実際に時計を作るまでには至っていない。彼の晩年、息子にせがまれて振り子時計の設計図を書いた。これには時代背景があって当時ヨーロッパは航海時代に入っていて航海の安全のために(船の位置を知るために)時間は必要不可欠な装置であった。彼の晩年は天体望遠鏡による天体の観測がたたって完全に目が見えなくなっていたので自ら時計を組み立てることはしなかった。
 こうして航海の安全をする目的に時計開発の機運は嫌がおうにも高まっていった。航海時計の発明の最初はオランダの科学者クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695)であった。彼は1657年、ガリレオの振り子の等時性の発見から75年ほど遅れて世界最初の「振り子時計」を発明して特許を取得し、1661年に航海に採用された。この時計は、天候が良好な時には従来の時計よりはるかに正確に時を刻んだが、天候が荒れると振り子が踊ってしまって実用に堪えないことがわかった。科学者ホイヘンスがとらえた振り子を通した力学の世界はすばらしい統一性を見せていて(遠心力、重力場の違い、運動エネルギーと運動量保存の法則)、1673年に出版した『振り子時計』はその後の力学の教本になた。
 
▼ ばね時計
 振り子の欠点を補う手法として、バネの等時性(バネが引っ張られる変形量は引っ張る力に比例する)を発見したイギリス人科学者フックによってバネによる時計が作られる。彼はこの『フックの法則』を1660年頃発見するのであるが、発表を1676年の16年間も伏せていた。しかも1676年の発表は暗号のような形でしか発表しなかった。どうして彼は自分の発見を速やかに行わなかったかと言えば、彼はこの発見を使って時計を発明をしようとしたからである。彼はバネとより正確に時を刻む「アンクル脱進機」を考案してイギリス国王に見せるまでになる。しかし航海用の頑丈な時計の発明にまではいたらなかった。
 航海用の時計がいかに望まれいたかは上のエピソードでも知ることができるが、1714年、当時最大の海運国であったイギリス議会では航海用時計を発明した者には10,000ポンドから20,000ポンドの賞金を与える、という決議がおりていた。また競争国フランスでも1716年に同じように10万リーブルの賞金をかけていた。国家がこれほどまでにひとつの発明を奨励した例はほかにあまり見あたらない。イギリスで賞金がかけられた時計は、イギリスから西インド諸島にいくまでの航海の間に、経度で0.5度以内の誤差が必要条件になっていた。これを6週間の航海と換算すると1日に3秒以内の誤差ということになる。
 
▼ クロノメータ
 いろいろな人がこの発明に取り組み、これを完成させたのはイギリスの大工ジョン・ハリソンであった。彼は1728年から1770年の32年間に5つの航海時計を作った。4番目の時計は重さが30Kgもあったが誤差は1日わずか0.1秒というものであった。彼はこの時計で1765年にイギリス政府から賞金を得た。開発を初めて37年の月日がかかっている。彼が最後に作った航海時計(クロノメーター)は精度は前と同じで大きさをぐっと小さくして大きめの懐中時計程度にすることに成功した。この時計は英国王室海軍デプトフォード号に乗せられて実地テストが行われ、81日の航海で誤差5.1秒とう驚異的性能を実証した。
 
▼ 電子式時計
 時計は、その後200年の間、ゼンマイ、ギア式、振り子式機械の時代が続くが、1953年(第二次世界大戦後8年を経過)に革命がおきる。フランスのフレッド・リップが電気式時計を発明し、その3年後にはトランジスタ回路を取り入れた振り子時計を発売して精度を飛躍的に高めた。トランジスタ振り子時計は、振り子のおもりの部分にSN極を持った永久磁石を埋め込み振り子の振幅する両端には発振コイルが置かれていた。振り子が振られて発振コイルに近づいて離れるとき発振コイルにわずかな電流が流れる。この電流をトランジスタで増幅して振り子を振らせる駆動コイルにフィードバックさせる。この閉ループは安定していて振り子が安定して振動し時を告げる機構となっていた。
 
▼ 音叉時計
 この振り子の発振器を音叉に変えたアキュトロン(ACCUTRON)と呼ばれる音叉時計が1960年米国ブローバ・ウォッチ社(Bulova)で発売された。これは人工衛星に搭載するタイム・スイッチの要求から生まれたものである。振り子は宇宙では用をなさなかった。また、振り子は重力が重要なパラメータで使われる場所によって重力加速度が異なり精度にも影響を与えた。音叉は振動子によって振り子よりも安定した発振源となった。精度は99.9977%と当時の高校宣伝パンフレットに記載された。しかし、その音叉振動子も1日2秒の狂いがあった(0.0023%は、1日86,400秒では1.987秒に相当する)。音叉振動子は高周波発振ができずアキュトロンの発信周波数は360Hzであったという。
 音叉ウォッチはあまりにも短命にその生涯を終える。その理由は、ブローバ社がパテントを開放しなかったため世の中への普及が遅れたことと、予想以上にクォーツ時計が早く実現(1964年)実用化されたため音叉時計の価値が急速に下がってしまった。
 
▼ 水晶発振時計(クォーツ)
 音叉に代えてより安定な振動をする発振素子が現れる。水晶振動素子である。水晶はクォーツとも呼ばれている。水晶が極めて安定した振動をすることは1880年フランスのピエール・キュリーによって発見されていた。彼は水晶片に電圧を加えると水晶片が変形し、水晶片に圧力を加えると電圧が発生することを発見した。水晶片に高周波電圧を加えると振動し、その振動周期は水晶片の寸法とカットで一定の安定した振動周期となる。1922年に米国のケディが水晶振動片を開発してから無線電話(ラジオ放送)の送信機の発振回路に使われるようになった。水晶発振器を使った世界最初の水晶時計は、1929年米国ベル電話機研究所のマリソンが開発し特許を取得した。マリソンは、1000KHzの水晶発振器出力を真空管回路で1KHzまで逓減しその発振出力で同期モータを回転させて歯車を回し秒針、分針、時針を回した。彼の発明した時計は真空管の使用量も多く重厚で時計全体は簡単に移動でききないほど巨大(高さ2m、縦横約60cm)であったと言われている。
 日本で市販されたクォーツ時計の第一号は放送局用の時報用設備時計だった。1958年に精工舎が「時報用標準時計装置」として名古屋の放送局、CBC = 中部日本放送に納入した。このクォーツクロックの時間精度は10日で1秒以内、月差換算で0.08秒以内の精度であった。水晶振動子はATカットで4.8MHz発振で安定した発振を行うため摂氏60度±0.01度の高温槽に入れられていた。この振動子を作るのに名人級の職人3ヶ月を要した。当時はトランジスタ(ICももちろん)が普及していなかったため大量の真空管を使用した。故障や停電の対策としてトランジスターとバッテリの直流電源によるバックアップ装置も備えられていた。したがって装置の大きさは、2m(高) x 1m(巾) x 0.5m(奥)という大きな本棚程度であった。
 
▼ アストロン
 クォーツ腕時計を世界で初めて開発したのは日本の諏訪精工舎であった。精工舎は直径30mm、厚さ10mmの丸形ケースに水晶片、IC、超小型ステッピングモータを収めてクォーツ腕時計を完成させた。精工舎は1964年の東京オリンピックを睨みながら水晶発振時計の開発を進める。そしてストップ・ウォッチに水晶発振子を組み込んだ電子時計を登場させた。1967年にはこの水晶振動子を組み入れた腕時計が発売され、スイスで開かれたヌーシャルテル天文台クロノメーターコンクールで1位から5位までを独占してしまった。それ以来このコンクールは、スイスの名誉にかけて中断されていると言われている。クォーツウォッチ商品化の第一号は1969年のクリスマスの日(12月25日)に発表された「セイコークォーツ"アストロン"35SQ」であった。この時計は18金ケースながら当時で\450,000し、国民車(カローラ、\420,000)を上回る金額であった。当時使用できるICもなかった時代にトランジスタ76個、コンデンサー29個を使用し名人芸によるハンダ付け128箇所によって作られていた。時計に使えるC-MOS ICが調達されたのは1970年になってからである。この時計は一般の人には理解を超える価格であったが時計業界には戦慄が走ったと言われている。これを機に時計はクォーツの時代に突入し、世界レベルでクォーツ時計は他の時計を駆逐していった。
【2001.09.04 NHKプロジェクトX放映】(2001.09.04 記)
 2001年9月4日、NHKの「プロジェクトX」という番組で、諏訪湖で創業し世界で初めてクォーツ式腕時計を開発した諏訪精工舎(現セイコーエプソン)の開発物語を放映していた。この放送は上記に述べたような内容は放送されず、昭和17年38才で諏訪精工舎を興し、58才、胃ガンで他界された山崎久夫氏の人柄と生糸産業の衰退で諏訪の町をスイスをしのぐ時計の町にするという熱意を紹介し、世界に先駆けるにはクォーツしかないと言う信念のもと、若い電子工学エンジニアの獲得に全国の大学を回り頭を下げ、静岡大学電子工学岡部研究室から藤田欣司、坂本求吉両氏をはじめ20人の学生を集め電子化に乗り出した。消費電力の大きい衝撃に弱い水晶を腕時計に詰め込むために不眠不休の研究開発が進められた。水晶発振子の小型消費電力化は、藤田氏が友人の寮で見たギターの調律につかうU字型の音叉発振子に着眼してU字型の水晶発振子を開発したと言われる。この開発によって消費電力が激減したと言われる。小さなスペースに1/100mm単位の部品設計を担当したのは下平忠良氏。水晶発振子の耐震性の設計は藤田氏が行った。これは水晶発振子をバネ支持で浮かすことで解決を見たという。こうして製作された腕時計の耐久試験は社内の体育館を使って社員に腕時計をはめてバレーボールのサーバーを3日間連続で行い問題なく時を刻んでいることを確かめて発売に踏み切ったそうである。昭和44年12月25日クリスマス、銀座服部時計店でこのクォーツ腕時計が発売されたちまち完売されたという。
 精工舎のクォーツ腕時計は1Hzのパルス電流で超小型ステッピングモータを回し時針を回した。それに対し、1971年には米国のハミルトン社がモータを使用しないでパルス電流で発光ダイオードを発光させ時刻を表示するデジタル・クォーツ腕時計を開発した。しかしこの腕時計はことのほか電力を必要とした。このために時刻を見るときだけ発光ダイオードを発光させる方法がとられたがこれが人気のでない原因となった。
 
▼ デジタル時計
 1973年には精工舎が発光ダイオードに代えて電力をほとんど消費しない液晶表示によるデジタル・クォーツ腕時計を発表した。1974年にはカシオがこの業界に参入し、時計は低価格競争時代に突入する。そのアオリを受けて米国のピンレバーウォッチ(低価格使い捨て腕時計、TIMEXが有名)が大打撃を受けることになった。
 
▼ 原子時計・電波時計
 現在、精度の高い時計は原子時計、電波時計で時を刻んでいる。
原子時計は、30万年〜160万年に1秒という誤差を持つ究極の時計である。クロックを作るのに原子のエネルギー準位を用いている。原子は原子核の回りに電子が回っていて、その回る軌道は予め決められている。原子が外部からエネルギーを受けると回りを回っている電子もエネルギーを受け軌道を変えて別の準位に移る。準位が上がった電子は、再びエネルギーを放出してもとの準位に戻る時一定のエネルギーを放出する。そのエネルギーは波長のよくわかったもので、レーザーなどはこの原理を応用して波長の揃った光を放出する。原子時計は、原子が励起して放出するエネルギーの波長を利用してこれを時を刻む発振周波数としているのである。このように原子(分子)の固有共鳴周波数を基準にしたもっとも精密な時計が原子時計である。
 現実の原子時計は原子にはセシウム(Cs、原子番号55、アルカリ金属元素、28.4℃で液体)が使われる。セシウム原子を空洞共振器に導いて予めセシウム原子が共鳴しやすい振動数を水晶発振回路によって作り空洞共振器に加える。水晶発振によって共鳴したセシウム原子は共鳴を起こし低いレベルとなってイオン化検出器に導かれる。もし空洞共振器に加えられた水晶発振回路からの発振周波数が違っていればイオン化検出器で得られるセシウムイオンは少ないものになる。イオン化検出器からの検出信号をフィードバック値として水晶発振回路に与えセシウムが共鳴して発振する周波数に水晶発振回路を調整することにより極めて安定した精度の高い発振信号を取り出すことができる。セシウム原子時計は9.2GHz(92億回)の発振周波数をもっている。この発振周波数を分周して時計用の秒パルス信号を得るのである。
 原子時計はこのほかにも水素やアンモニア、ルビジウムなどを用いた別のタイプのものがあるが、セシウム原子時計は国際原子時設定のもととなっている。
原子時計を発明したのは、1949年、ワシントンのアメリカ海軍天文台のウィリアム・マルコビッツ。彼が試作したのはアンモニアメーザー型だった。ついでイギリスの国立物理研究所のルイス・エッセンがセシウム原子時計の試作に成功した。
2003.06.10の読売新聞(朝刊38面)によると日本の産業技術総合研究所(つくば市)は2000万年で誤差1秒と従来の20倍も正確な原子時計を開発したという記事があった。世界の標準時のおおもとになる「協定世界時」は、各国の計量機関にある約200台の原子時計の平均値から取られている。しかしその協定世界時も進み方が正確かどうかを監視する必要があり、より高精度な原子時計で比べる必要がある。産業技術総合研究所が開発した原子時計は、冷却した原子を空中に打ち上げて動きの少ない状態で周波数を測る仕組みになっている。
 
【工業分野のインチねじ】
  長さの単位にはインチより下の呼び方はない(1/1000インチのmil[ミル]という単位はある)。アメリカ人は、1/2、1/4、1/8、1/16、1/32インチと細かくしていってその場をしのぐような言い表し方をする。1インチより小さなものの場合、半分程度ならHalf inchであり、1/4ならQuarterである。十進数を採用したメートルの方が表記の自由度が高い。こうしたインチに慣れない我々からみると何故ヤード・ポンドが今だ根強く残っているのかわからない。
▼ 航空機分野
工業分野では歴然とこの寸法での規格が使われている。一番根強いのが飛行機である。航空機はインチで設計され製作されている。航空機産業は米国がメッカだからなるほどと合点するのであるが依然としてメトリックに代える気配がない。彼らは義務教育でメートル単位系を教えているのだろうが徹底しているとは思えない。
▼ 根強いインチ表記
 日本でも強いアメリカの影響からか、ガスや水道管、電気工事の配管にはまだ根強くインチネジが使われている。カメラの三脚ネジは、1/4インチ(大きなカメラでは3/8インチ)のネジが使われている。自動車、自転車などのタイヤの呼び径はインチで表示されている。プリンタの印字性能を表す数値にdpi(ドット/インチ)が使われている。
 米国で設計開発された製品は10中八・九インチネジを使っている。
 コンピュータや電子工業はアメリカが時代をリードしたためにインチサイズの規格が色濃く残っているのは致し方ないことなのだろうか?それにしても何故アメリカは、ヤード・ポンドにこだわり世界規格に乗り換えないのであろう?2億5000万人の生活水準の高い人々の生活の根幹を変えるのは大変なことはわかるのだがアメリカ政府がこの状況をどうとらえているのか機会があれば知りたいと思っている。
▼ インチサイズのネジ
 私事で、しかも時代に逆行するようで恐縮するが、私自身は、実はインチサイズのネジが好きである。アメリカで使われているネジは日本でもユニファイネジとしてJIS規格で決められ航空機や関連産業で使うことが許されている。このインチサイズのネジは、ネジ山と太さのバランスが良いのである。インチネジ(ユニファイネジ)はUNCとUNFの2種類の系列で成り立っていて、UNCがユニファイ並目(Coarseの頭文字をとってC)でUNF細目(Fineの頭文字をとってF)となっている。インチネジの多くはUNCの並目を採用している。メトリックのネジより若干粗目のピッチであるが私自身はこのボルトやネジのバランスを美しいと思っている。
 
■ ヘンリー・モーズレイ(Henry Maudslay)
 このネジの規格についてもかなりの歴史的な変遷があった。ネジの規格についてはイギリスが口火を切った。ヘンリー・モーズレイがその創始であろう。
 
▼ 産業革命のイギリス - 蒸気機関の改良 - ジェームズ・ワット(James Watt:1736-1819)(2004.08.26追記)
 機械産業は、イギリスで大いなる発展を見た。工作機械のアイデアそのものはルネサンスの天才イタリアのレオナルド・ダ・ビンチに負うところが大きいのだそうだが、こうしたアイデアを具体的に工作機械として世に出すには大きな動力(馬、水力、蒸気、電気モータによるエネルギー)が必要であった。
 蒸気機関が生まれて発展するまでには多くの系譜がある。最初のアイデアはイタリアのレオナルド・ダ・ビンチであるが、真空を作り出したのはイタリア人でガリレオ・ガリレイの弟子トリチェリー(1608-1647)である。大気に力があるのを発見したのは、ドイツ人マグデブルグ市の市長ゲーリッケ(1602-1686)であった。ゲーリッケは真空(大気)の作る大きな力を実験した人として有名である。大気の圧力と蒸気の圧力を使って大きな力を出す装置を考案したのは、フランスのドニ・パパン(1647-1712)である。ドニ・パパンは、新教を信じていたためにフランスにいられなくなり1681年イギリスに渡り物理学者として実績を残し、イギリスのロイヤル・ソサイティの会員になっている。彼の熱機関は実際には実用にならなかったが、最初に「大気圧機関」を作った人である。
【サヴァリー機関】
 初めて実用化に耐える熱機関を作ったのは1698年イギリスのトマス・サヴァリー(1650-1715)である。彼の発明したサヴァリー機関はイタリアルネッサンス時代に活躍したソロモン・ド・コー(1576-1626)の蒸気の実験をもとにしていた。ソロモン・ド・コーは蒸気の性質をよく理解して、蒸気の力で水を押し上げる実験を特殊なフラスコを使って行った。サヴァリーはこの原理を応用した装置で鉱山の地下水組み上げに使えないかと着想したのである。サヴァリーはものを作り出すことが好きで時計を製作したり板ガラスみがき機を発明している。彼自身、鉱山地方に育ったので鉱山が地下水のわき水に頭を悩ましているのを良く知っていた。彼は、ド・コーとゲーリッケの蒸気の圧力と真空の原理を応用して縦坑道にパイプを下ろしその回りにバルブと作用器を配して蒸気ボイラーから送られてくる蒸気を作用器に入れてバルブで閉じそこに水をかけて凝縮させて真空を作り、坑道から地下水を汲み上げるパイプに取り付けたバルブを開けて真空になっている作用器に水を汲み上げた。汲み上がったらそのバルブを閉じて、こんどは作用器に取り付けられている排出用のバルブとボイラーからの蒸気バルブを開けて蒸気の力で汲み上げた水をさらに外に排出する仕組みとしていた。1706年最初のサヴァリー機関がブロードウォーターズの炭坑に備えつけられた。続いてコォンウォール地方のスズや銅の鉱山やフィール・フォール鉱山などに備えつけられていった。サヴァリー機関は、縦坑の地下17mほどに設置されて、そこから下10mにある地下水を汲み上げ地上に排水した。従ってサヴァリー機関は27m程度の地下水を汲み上げることができた。しかし、鉱山の要求は高まり、より深いところからの地下水をよりたくさん汲み上げる装置を要求した。サヴァリー機関は真空による水の汲み上げを応用しているため大気圧以上の力は出せず10m以上の高さの水を汲み上げることができなかった。またたくさんの水を汲み上げるためには蒸気の高い装置をつくる必要があったが当時の鉄素材では破裂する危険がありそうした事故も起き始めていた。
 
【ニューコメン機関】
 サヴァリー機関の限界が見えたときその限界を突破したのがダートマスで鍛冶屋を営んでいたトマス・ニューコメン(Thomas Newcomen1663-1729)であった。サヴァリー機関が発明されたころニューコメンは35才であった。サヴァリー機関の開発に当たってはニューコメンは製作者として関わっていた。彼はサヴァリー機関の欠点については熟知していたがその改良については、当時のイギリスの科