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■ レンズのいろいろ(Lenses)
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| 1/a + 1/b = 1/f ・・・(Lens - 1) | ||||||
| a: 物体点の位置からレンズ中心までの距離 | ||||||
| b: レンズ中心から結像点までの距離 | ||||||
| f: レンズ焦点距離 | ||||||
| M = b/a = l / L ・・・(Lens - 2) | ||||||
| M: 撮影倍率
l: 像の大きさ L: 物体の大きさ |
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| 【レンズの厚みを無視できるとき】 | |||||||
| 1/f = (n - 1)・(1/r1 - 1/r2) ・・・(Lens - 3) | |||||||
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| 【レンズの厚みがtであるとき】 | |||||||
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レンズの焦点距離と画角については、右図のような関係となります。基本的に焦点距離の短いレンズほど広い画角で物体を収めることができます。焦点距離の短いレンズというのは、屈折力の強いレンズのことです。度の強いレンズとも言います。像側から光線の入り具合を逆にたどっていくと、焦点距離の短いレンズは強い屈折力のために光線が広く拡がっています。逆に言うと、焦点距離の短いレンズは、広い範囲の光を集めることができることになるわけです。
| 2θ = 2・tan-1(A'B'/2・b) ・・・(Lens - 5) | ||||
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| 2θ = 2・tan-1(A'B'/2・f) ・・・(Lens - 6) | ||||
| (上式は、物体が像よりも20倍以上大きく、bが限りなく焦点距離fに近い時のもの。) | ||||
| f = 1.072・A'B' ・・・(Lens - 7) | ||
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ピントという言葉はどうも日本語のようです。語源はオランダ語の焦点(brandpunt)という言葉のようで、それが訛ってピントという言葉ができたようです。英語ではフォーカッシングと言います。日本語ではピント合わせという言葉が一般的で、フォーカス調整という言葉は技術者の間でよく使われています。
| M = b/a ・・・(前述) | |||||
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レンズで使われている解像力表示は、簡単に説明すると、結像面で1mmの巾に何対の白黒の格子を結ぶことができるかという言い表し方をして、20 lp/mm(lines pair /mm)という表現方法をとります。右図にその概念を示します。20 lp/mmという表記は、1mmあたり20対の白黒の格子を結像面に結ばせることができるというものです。この言い方は、レンズや感光フィルムでの性能を表すときによく使う数値表現です。
左の図は、貼り合わせレンズを使った球面収差補正の基本的な考え方を示しています。凸レンズでは、高い位置からの入射光線は近軸焦点よりも手前に集まります。凹レンズでは高い入射光線は近軸焦点よりもレンズに近い位置から光線が出たように屈折します。凸レンズと凹レンズでは収差が左右対称になるので、両者を組み合わせた貼り合わせレンズを用いると両者に顕著な球面収差が相殺されて良好な像を得ることができます。凸レンズと凹レンズにどれくらいの焦点距離のものを使うかは光線追跡計算によって行われますが、一般的には凸レンズの焦点距離よりも長い焦点距離を持つ凹レンズを使って補正を行います。
絞りの位置をレンズ焦点位置に配置したものがテレセントリック光学系の基本です。左図がテレセントリック光学系の概念図です。一般的な絞りはレンズの近傍に配置され、絞りの口径を変化させることにより透過する光量を調整しています。
| F = f /φent= (f - χ)/φexit ・・・(Lens - 8) | |||||
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- 歪曲(%) = 100 x (y' - Y') / Y' ・・・(Lens - 9)
- y' : 歪曲した像の位置
- Y' : 理想の像の位置
レンズの絞りは、四方八方に拡がった物体からの放射光をレンズがかき集めるときに、光量を調節する機能があります。
| F = f / D ・・・(Lens - 10) | |||||
| F: レンズ逆口径比(Fナンバー、F値) | |||||
| f: レンズ焦点距離 | |||||
| D: レンズ口径 | |||||
- 0.7、1.0、1.4、2.0、2.8、4.0、5.6、8、11、16・・・
| N.A. = n・sinθ ・・・(Lens - 11) | |||||||||
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| F = 1/(2・N.A.) ・・・(Lens - 12) | |||||||||
| レンズのF値とN.A.の関係。 | |||||||||
| 光と光の記録「レンズの分解能」参照 | |||||||||
N.A.は、顕微鏡レンズだけではなく、光ファイバー内の光の伝達する能力を表す数値としても使われています。光ファイバは、ファイバー内部を全反射によって光が進むので、角度の強い(θの大きな)光は全反射をせずにファイバーから漏れてしまいます。ファイバーの全反射を起こす範囲で光をファイバー内に入れてやらなければなりません。ファイバーでは全反射を起こす角度(θ)を N.A.の概念を流用してファイバーの性能を表す数値として使っています。レーザ光などをファイバーに導く時、レーザの集光レンズのN.A.とファイバーのN.A.を一致させておけば効率良くレーザ光をファイバーに導くことができます。
| T = F/√τ ・・・(Lens - 16) | |||||
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| Feff =(1 + M x 1/ψ)F・・・(Lens - 17) | |||||
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大判カメラのレンズでは、レンズを絞り込んで撮影することが頻繁にあります。そのために、大型レンズではレンズ絞りがF128まで刻まれたものまであります。F128まで絞り込んだら逆に回折によって像がボケてしまうのではないかと心配するほどの絞りです。大判カメラ用のレンズではなぜこのような大きな絞り値がついているかというと、大判カメラならではのアオリ撮影をする際に必要だからです。大判カメラのレンズが作る像のエリアは4"x5"(100mmx125mm)で、ライカサイズ(36mm x 24mm)よりもはるかに大きなφ208mmを確保しています。レンズカタログを見ると、興味あることに、絞りによってイメージサークルの大きさが異なっています。Nikkor W180mm F5.6レンズという大判カメラのレンズの仕様では、f5.6の時にφ208mmであるイメージサークルが、f22に絞るとφ253mmとなることが書かれています。絞りによってフィルム像をカバーするイメージサークルの大きさが変わるのです。
く関係ありませんが、レンズには本質的な性質として周辺部での光量低下があり、それがコサイン4乗に従って低下します。これをコサイン4乗則と言っています。この性質はどのレンズにも持っているものです。式で表すと以下の式で表されます。
| E = Eω・cos4θ ・・・(Lens - 20) | ||||
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| DP1 = L x (H + f) / (H +L) ・・・(Lens - 21)
DP2 = L x (H - f) / (H - L) H = f 2 / (δ x F) |
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鏡とレンズではどのような違いがあるのでしょうか。両者の大きな違いは、鏡が光線の反射で像を結ばせるのに対し、レンズは光線の屈折で像を作っていることです。日本人は、鏡とレンズの区別ははっきりとできなかったようで、ミラーには鏡という言葉を与えましたがレンズにはちゃんとした漢字を当てておらず、望遠鏡でも顕微鏡でもレンズを使っているのに「鏡」の字を当てています。メガネなどはレンズそのものであるのに、眼鏡と言っています。日本人の心には、光を扱う器具そのものが「鏡」であったに違いありません。鏡は、邪馬台国の時代からその存在が知られていましたが、レンズは室町の時代にやってきた新参者でちゃんとした言葉を与えられなかったようです。鏡で代用して良しとしたような感じさえ受けます。目にあてるレンズの『めがね=眼鏡』は、その語源がはっきりとはせず、目の視力を矯正するためのさしがね→目のさしがね→目(さし)がね→めがねとなったという説が説得力を持っています。ことほどさように日本人にとって鏡とレンズは似たようなものだったのでしょう。
| 1/a + 1/b = 1/f = 2/R・・・(Lens - 22) | |||||||
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球面鏡の結像公式
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- レンズ表面が球面形状をしたレンズで、もっとも一般的で古くからあるレンズです。レンズ研磨も比較的簡単なのでほとんどのレンズが球面レンズで作られます。上に示した凸レンズ、凹レンズ、メニスカスレンズはすべて球面レンズに属します。
- 1.の球面レンズに属さないレンズで、身の回りの非球面レンズでは遠近両用の眼鏡レンズがあります。非球面のカテゴリーには放物面、双曲面、楕円面なども含まれます。レンズはガラスを研磨して作る関係上、球面仕上げが基本でした。しかし、球面レンズではたくさんのレンズを組み合わせないと収差が取りきれません。レンズの周辺部を少し削ると、補正レンズの枚数を格段に減らすことができることは昔から知られていました。しかしながら、手作業で磨くならともかく、量産レンズで非球面レンズをたくさん作ることは至難の業で、プラスチックレンズが現れるまで非球面レンズの量産化は実現しませんでした。プラスチックレンズは、予め精密な金型を作っておいてそれに溶けたプラスチックを流し込み、レンズ成形することで複雑な形状のレンズを量産することができます。プラスチックレンズによる非球面レンズの登場で、補正レンズを極端に少なくしたカメラレンズが安価にできるようになりました。
- 1995年7月にフジ写真フィルムから発売されたレンズ付き使い捨てカメラ「写ルンです」は、カメラ業界にとって衝撃的な出来事でした。800円程度を支払って、フィルムが入った箱形のカメラを購入し、撮影が終わったら写真屋さんに持って行って、現像とプリントをしてもらうというものです。使い捨てカメラは、そこそこの画質があったので、簡便さも受けてあっという間にフィルムカメラの主力製品になりました。このカメラに使われたのが、1枚のプラスチック非球面レンズ(f=32mm)でした。たった1枚のレンズであれだけの画質が得られるのです。このレンズの特徴は、レンズをプラスチックにして量産化を図り、非球面にして収差を抑え、さらに絞りをF/10にして周辺部の収差も抑え、過焦点距離をかせいで1mから無限遠(∞)までフォーカスが合うようにしています。1枚のプラスチックレンズ成形もさることながら、フィルムの感度向上がF/10という暗いレンズ設計を可能とし、さらに、フィルム面を平面ではなく湾曲させることにより画像周辺部の収差を除去させることに成功しました。1枚のレンズでもあそこまで画質が向上するのか、という特筆すべき事だと思います。
- 焦点距離の曲率が一方向のみに設けられた、カマボコ形状(凹型では雨トイ形状)のレンズです。細かい目盛をふったスケールを読み取るレンズにも使われています。また、レーザをシート状にする光学系にもシリンドリカルレンズが使われています。映画用の撮影レンズ及び映写レンズには、シリンドリカルレンズを組み込んだアナモフィックレンズ(anamorphic lens)、及びシネスコレンズ(Cinema scope lens)が使われています。人の眼の乱視にもシリンドリカルレンズが応用されています。ただし、実際の眼鏡ではメニスカスレンズにシリンドリカル形状をあてるため、乱視を補正するレンズには以下に説明するトロイダルレンズが使われます。
- 円筒レンズ(シリンドリカルレンズ)を長手方向に湾曲させたレンズです。トロイダルとは円環状のという意味です。トロイダルという名前で一般的なものは、電子部品のトロイダルトランスや、自動車の自動変速機に使われ出したトロイダルトランスミッション(CVT = Continuous Variable Transimission)などがあります。これらはいずれもドーナッツの形状からこの呼び名がつけられています。トロイダルレンズもドーナッツ形状といえなくもありませんが、ドーナツの一部分を切り出したような形状をしています。乱視用の眼鏡レンズは、トロイダルレンズの典型です。トロイダルレンズの曲率を小さくして面が無限大(平面)にしたものが円筒レンズ(シリンドリカルレンズ)になります。
- 灯台の投光レンズ、映画照明用レンズ、OHPの投影レンズ、手帳や地図を拡大して見るための携行用のプラスチックプレート状のレンズがフレネルレンズです。通常の凸レンズと違ってレンズに厚みがなく、平板に近い形をしているにもかかわらず集光作用を持つレンズです。このフレネルレンズを結像作用に使おうとすると収差が大きすぎるので、主に光を集める目的に使われます。フレネルレンズは、1822年、フランスの物理学者フレネル(Augustin Jean Fresnel、1788-1827)が灯台の灯光レンズ用として考え出しました。レンズを開発した目的は、レンズの軽量化でした。灯台、サーチライト、映画照明用に使う灯光レンズは、たくさんの光を前面に投影しなければならないので、レンズが大きくなります。そうすると重量がとても重くなるので、軽量化の図れるフレネルレンズは都合良いものでした。また、携帯用のルーペ、老眼者用の書見台用としてもフレネルレンズは安価で持ち運びに便利であるため、プラスチック製の平板のものが使われています。この他、カメラファインダのフィールドレンズとしてペンタプリズムの下に平板のフレネルレンズが貼り付けられています。収納性が良いのが大きな理由です。カメラ用レンズとしてフレネルレンズは使われません。その理由は、レンズ形状が連続ではなく、段階的なレンズ(プリズム)なので周辺部の収差が極端に悪く、使用に耐えないからです。しかしながら、7.で述べるゾーンプレート(DOE = Diffractive Optical Element)の開発により、フレネルレンズ形状でも画像が得られることが実証されました。許容錯乱円以内に像ボケが収まるようにフレネルの断面形状を細かくしてやれば良いということのようです。平板フレネルレンズの材質は、アクリル(PMMA = Polymethylmethacrylate, ポリメチルメタアクリレート) で、金型を使って成形されることが多く10mm角から500mm角程度の大きさのものが市販されています。
- ▲ 灯台のランプハウス
- フランスの物理学者フレネルが、灯台用の灯光レンズとしてフレネルレンズを発明した動機は、レンズを軽量化して効率よい灯光装置を作りたかったからです。産業革命後の1820年当時は、大型の蒸気船の建造が進み海路の安全運行がとても大事になっていた時代で、遠くまで届く灯台の明かりが求められていました。灯台に使われているフレネルレンズがどのような形をしているのか、我々にはあまり馴染みがないのでよくわからないと思います。灯台に使われるランプハウスは、光源を中心に置いた全面ガラス張りの部屋という感じのものです。このランプハウスで海上50km程度まで光を到達させます。光を遠くまで到達させるためには点光源を効率よく平行光にする必要があります。灯台に使われる光源は思ったほど大きなランプを使っておらず、タングステン電球、キセノンランプ、HMIランプが多いようで、出力も250W〜1,000W前後のようです。灯台ができた当初の光源には、鯨の脂が使われていました。それがラード(豚の脂)になり、ケロシン(灯油)になり、電気の明かりに替わっていきました。ススの出ない高輝度光源は喉から手が出るほどほしかったに違いありません。ススのでる光源はフレネルレンズを曇らせ毎日の掃除が大変だからです。電気の明かりができた当時はアークランプが使われ、施設の中で蒸気機関を設備し、蒸気機関によって電気を起こし灯りを作っていました。
- 灯台の光源は、光の到達距離が大事なので、光の量よりも光度(カンデラ = 一点から放出される単位立体角当たりの光束)の強いものが求められます。出力の大きい光源は点光源ではなく面を伴った光源となるので、むやみに出力の高いものを使うのではなく、出力は低くても光度の高いランプ(点光源)が選ばれています。一点から放出される点光源を精巧に平行光に変えるのがフレネルレンズの役目です。平行度の良い光線を作らないと、光は遠くまで届かず短い距離で発散してしまうのでフレネルレンズの研磨加工・製作は極めて高い精度が要求されます。
灯台のレンズは、大きさと性能よって6等級に分かれていて、1等が一番大きく、6等が一番小さいものになっています。日本では、1等級の灯台は犬吠埼(千葉県銚子)、室戸岬(高知県)を含め6箇所にしかないそうです。1等級のレンズは、焦点距離f=920mm、レンズ内径1,840mm、レンズの高さ2,590mmと決められています。レンズは、2面、3面、4面、もしくは8面でできていて、レンズが光源の回りを回転して海上を水平方向にスキャンするようになっています。多面のフレネルレンズで覆われたランプハウスの中心に光源が置かれます。すべての等級にわたってレンズの焦点距離と内径は2倍の関係があり、焦点距離の2倍が内径になっています。つまり光源はフレネルレンズの焦点距離に設置されていて、光源から出た光が平行光で放射される仕組みになっています。1等級のレンズの大きさは2,590mmとかなり大きく、レンズ焦点距離920mmの2.8倍、Fナンバーで表すとF/0.36となります。この値から、フレネルレンズはかなり明るい光学系であることがわかります。灯台のランプハウスのレンズ中心部は、フレネルレンズの特徴である同心円状の薄型凸レンズ形状をしています。レンズの高い位置と低い位置では、長いプリズムを長手方向に緩やかにカーブをつけた構造となっていて、それが何段にも鎧戸のように装備されています。こうしたシャンデリアにも似たようなガラスの部屋で覆われたライトハウスによって、比較的小さな消費電力の光をきれいに整った平行光にして夜の海に遠くまで投光できるようにしています。
- このような軽量化を図ったフレネルレンズライトハウスでも、1等級の重量はレンズ部だけでも5トンにもなると言います。この重たいガラスのランプが回転して夜の海に強い光を投げかけます。光の強さは、1等級の灯台で100万カンデラの光度があるそうです。
- 灯台のフレネルレンズを見るととても優雅で芸術性さえ感じます。下図のフレネルレンズは、米国フロリダにあるセントオーガスチン(St. Augustine)灯台のものです。重厚な感じを受けます。こうしたレンズはすべて手作りなのだと思います。一等級の灯台が日本に6灯しかない需要を考えると、世界中で数社程度の光学会社が灯台のレンズを作っているのではないでしょうか。日本の灯台は多くはフランスから輸入していたようです。フランスのソーター・ハーレー社、イギリスのチャンスーブラザーズ社などから輸入して、1919年(第一次世界大戦終結)以降は、国産化に力をいれ、現在では日本光機工業が日本の灯台レンズの製造、メンテナンスを一手に引き受けているそうです。
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- 米国フロリダにあるセントオーガスチン(St. Augustine)灯台。
- ほとんどすべてが光学ガラスでできている。
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- 静岡県御前崎市の灯台(明治7年、1874年建設)。
- 建設当時は一等閃光レンズでしたが、太平洋戦争時連合軍の標的にあって破壊されました。
- 戦後、三等大型レンズになりました。
- 窓の中にはフレネルレンズが装備されていて、中心に置かれた点光源を平行光にして遠い海の先に投げかけています。
- フレネルレンズ灯体は、20秒で一回転しています。
- レンズが両面にあるので、10秒周期で海上に光を水平にスキャンしています。
- 2006.02.14に見たこの灯台の光は白い光でした。キセノンランプかHMI ランプと思われます。
- この灯台の高さは22.5m、光軸は海抜約54mにあります。
- 灯台の光度は、56.0万カンデラ。到達距離は、19.5海里(約36km)。
- 木下恵介監督映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となった有名な灯台です。
- 上に述べた大規模な灯台のフレネルレンズとまでは行かなくても、投光を目的としたフレネルレンズは自動車のヘッドランプ、テールランプなど身近に見ることができます。これらのランプも点光源を効率よく前照させるためにレンズ前面にいろいろなカッティングが施されています。これらのレンズはモールドによる大量生産でできています。
- 光学ガラスは、一般に均一の屈折率を持っていますが、このレンズは光の進行方向の断面に対して屈折率が徐々に変化するレンズです。光ファイバーのコア部のガラス組成がこの原理でできています。グリンレンズは、一般的に、φ1.0〜φ2.0mmx2〜5mm程度の円柱状のガラス(BSG=ドープされた硼珪酸ガラス)でできていて、ガラス内部の屈折率が中心から周辺部に行くに従って放物線的に変化しているものです。円柱状のガラスレンズは、両端が光学研磨されています。両端が平面であってもガラス内部の屈折率の変化により集光作用があります。グリンレンズでは、平行な光が一方から入ったときに反対側の端面で集光するようにできています。このレンズが端面で集光する働きをもつことから、レンズの性能を表す数値の一つとして波長のピッチで表し、0.25Pと呼んでいます。0.25Pというのは1/4波長を意味していて、レンズの端面に光が収束することを意味しています。無限遠の光の焦点が射出側の端面より外にでるレンズを0.23Pのレンズと言っています。グリンレンズには焦点距離という考え方はありません。平行光がどの位置で集光するかが問題になるレンズです。グリンレンズは、ファイバーのカプリングを目的として使われます。
- 光の回折作用を使ったレンズです。通常の可視光域でのレンズとしてよりも、単色光、それも波長の短いX線領域で使われます。可視光領域ではピンホールレンズの派生としての位置づけが強いレンズで、ピンホールよりは明るいけども通常のレンズに比べて暗くて収差が出やすくソフトフォーカスの画像になります。単波長で使うのであればそこそこおもしろい使い方があるのではないかと思います。
- 分光分析に使われる回折格子は細かな直線上のケガキ線が普通ですが、ゾーンプレートはきめの細かい同心円状のケガキ円です。中心部から周辺に行くほどパターンの間隔が短くなり、その間隔は使用する波長とパターンの数の積の平方根に比例して決められます。
- X線で使われるゾーンプレートのきめの細かさ(ピッチの間隔)は、ルーリングエンジンを使った機械製作レベルを越えたもので半導体製造技術(フォトリソグラフィー)を用いたナノレベルのオーダーでできています。X線用のゾーンプレートの働きは、ちょうどナノレベルでのフレネルレンズと言えましょう。これは、X線のような非常に直線性が強い光、言ってみれば通常の光学レンズでは収束できない光を集光させたい目的に利用され、X線光源の集光や拡散目的に使われます。この素子は、製造上の問題からあまり大きなものができず、φ1mmからφ5mm程度の大きさに限られるため、この大きさでのX線ビームの取扱となります。 シリコン基板の上にタンタルの金属膜を2.5umの厚さにして、これを同心円のパターン形状として作られます。パターンの巾によって回折限界が求まるので、細かい線ほど波長分解能が良くなります。X線のような波長の短い光は、数十nmレベルのパターンを形成したゾーンプレートでX線光源のレンズが作られています。
- ▲ 回折光学素子(DOE = Diffractive Optical Element)
- 2000年9月、キヤノンが写真レンズ用に積層型回折光学素子を用いた望遠レンズ(EF400mmF4DO IS USM。EFはEOSカメラ用AutoFocus、DOはDiffractive Optics、ISはImage Stabilizer、USMはUltraSonic Motorの略、価格77万円)の発表を行いました。回折光学素子は、ここで述べているゾーンプレートと構造が極めて似ていて、レンズ面に同心円上の微細なケガキ線を入れることで積極的に回折を生じさせ、これを2枚向き合わせることにより(積層構造)、不要な回折を抑制し効率よく光を伝達できるというものです。回折光学素子(DOE)は、波長による色収差が屈折型レンズと逆になるという特性があり、積層型回折光学素子と従来の屈折型レンズを組み合わせると、極めて良好な色収差補正が可能となります。その補正の性能は、現在主流になっている低分散の蛍石以上の効果が得られると言われていて、尚かつ、回折ピッチ(間隔)を変えることで非球面レンズと同様の収差補正ができると言われています。こうした特徴から、望遠レンズに積層型回折光学素子を組み込むことにより、従来のレンズよりも格段にコンパクトで高性能なレンズが可能になりました。キヤノンは、回折光学素子を写真レンズに応用しようというプロジェクトを1995年に立ち上げ、2000年に試作品を完成させました。5年の歳月を要したのは、基本設計もさることながらミクロン単位でのグレーティング加工が必要な金型設計や、レンズ成形加工の難しさがあったに違いありません。キヤノンが開発した回折光学素子は、直径が100mmの大きさを持ち、中心部は7-8mmの同心円上のピッチ、10ミクロン程度の高さを持ったケガキ線が刻まれ、周辺部に行くに従いピッチが細かくなり100ミクロン程度になっています。
- それにしても、回折現象を写真レンズの要素に組み込んだというのはすごい着想だと思います。
- DOEは、今後、望遠レンズの他に眼鏡ディスプレー(HMD = Head Mounted Display)、液晶プロジェクタレンズ、小型カメラ用レンズなどに応用が期待されています。
レンズで、同じ口径で同じ焦点距離なのに、たくさんのレンズエレメントで構成されているものがあります。これを厚いレンズと呼んでいます。カメラレンズの多くは円筒状の黒い筒に納められて、その中にたくさんのレンズエレメントが入っています。なぜ、このような厚いレンズがあるのでしょうか。 これは前にも何度も述べましたが、たくさんの光をレンズで集めて画質の良い像を得るために、近軸光線領域の像形成を近軸領域外でも満足させたり、平面像を周辺部に渡って良好に形成させるためにレンズ収差を除去する必要上からたくさんのレンズエレメントを使っているのです。おおよその傾向として、たくさんのレンズエレメントで構成されているレンズは、高価で高性能です。最近のレンズは非球面レンズの製造や良質の光学ガラスの開発によって、これに従わない小数のレンズエレメントで性能の良いものができています。

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| レンズ前面部:フィルタを取り付けるネジが切ってある。 | カメラに取り付けるレンズマウント。産業界では、ニコンのFマウントとCマウントが一般的。 | ||||||||||||||
| フォーカスリング部: 鏡筒を回してピント調整を行う。撮影距離を示す数値が左に、絞りによるピントの合う範囲が右に示される。撮影距離の数値は、メートル表示とフィート表示の2系列で示されている。 | 絞りリング部: 鏡筒を回してレンズの絞りを調節する。絞りの値は、開放値から√2の倍数(1.4、2、2、2.8、4、5.6、8・・・)で数字が刻まれている。 | ||||||||||||||
| レンズの内部は、上の図のようになっている。レンズは焦点距離Fを持っているが、焦点距離は前方の焦点距離(F)と後方焦点距離(F')の2つある。焦点距離は、レンズの主点からの位置で求められ、前方と方向の焦点距離のため主点はHとH'の2つある。主点は、レンズによって変わり、この位置はレンズメーカーに問い合わせなければ正確な位置はわからない。 | |||||||||||||||
- ▲ 焦点距離(Focal Length)
- レンズのもっとも基本的な性能の一つです。レンズは、当然の事ながらレンズの前と後ろに焦点位置を持っています。前方の焦点距離を(F)で表し、後方焦点距離を(F')で表します。焦点距離が長いと屈折力が弱く焦点距離が短いと屈折力が強くなります。拡大撮影や広い範囲を撮影するには焦点距離の短いレンズを使い、遠い所のものを引きつけて撮影するには焦点距離の長いレンズを使います。 人間の標準的な視角(50°)を画角に持ったレンズを標準レンズと言い、それよりも広い画角をカバーするレンズを広角レンズ、狭い画角をもつものを望遠レンズと言っています。(「焦点距離と画角」参照)
- ▲ レンズの主点
- カメラ用レンズは、収差を抑えるために複数のレンズを組み合わせてレンズを作っています。レンズの焦点距離を決める際に、レンズの光学的中心が問題となります。このレンズの中心位置が主点と呼ばれるもので、Hで示されます。通常レンズには二つの主点(HとH')がありこの主点の距離を主点間距離と言います。通常薄いレンズや曲率の対称な球面レンズではレンズの主点(H、H')はレンズの中心にあり、両者は同一です。しかし複数のレンズエレメントで構成されるレンズでは主点が異なるのが普通で、厳密な光学式を定義するときに 主点間距離(HH')を考慮します。主点間距離を考慮した光学式は以下の式で表されます。
- D = f(2 + M + 1/M )+ HH' ・・・(Lens - 24)
- D: 撮影距離 = 被写体から撮像面までの距離
- f: レンズ焦点距離
- M: 撮影倍率。
- M=b/a bとaは(Lens - 1)で定義。
- HH': 主点間距離
- a = f(1 + 1 /M ) ・・・(Lens - 25)
- b = f(1 + M) ・・・(Lens - 26)
- M: 撮影倍率
- a: 物体点の位置からレンズ主点Hまでの距離
- b: レンズ主点H'から結像点までの距離
- (2009.07.02 Len-24の記述に誤りがありました。
- 2009.06.27 S氏よりご指摘があり訂正しました。Sさんどうもありがとうございました。)
- 上の式は、主点間距離(HH')を考慮に入れた撮影距離(D)とレンズ焦点距離(f)、撮影倍率(M)を表したものです。この式は、拡大撮影を行うときの撮影距離を求める場合に有効です。また、主点(H、H')をもとに被写体までの距離(a)と結像位置までの距離(b)を上の式で簡単に求めることができます。撮影倍率が小さい時(M<<1/100)、bすなわち結像位置は限りなく焦点距離fに近づき、aの物体までの距離は、焦点距離fに撮影倍率の逆数(1/M)を掛けた値になります。また、拡大撮影などのようにMの値が1よりも大きくなると、物体の位置aは限りなく焦点距離fに近づき、結像位置は倍率Mに比例して焦点距離fの倍数で遠くなります。M=1で、a=b=2f、つまり使用するレンズの焦点距離の2倍の位置に物体も像も位置することになります。
- ▲ 口径比と絞り(Aperture Ratio, Diaphragm)
- レンズをよく見るとf50mmF2.0というような標記に出会います。アルファベットの「F」が二つも出てきます。レンズに詳しい方なら、この標記の最初がレンズの焦点距離を表し、次の標記がレンズの明るさを表すものであることを知っています。焦点距離を表すf50mmという標記は、焦点距離(focal length)が50mmであるという意味であり、これはよく理解できます。しかし絞りの意味のFというのはどういう意味を持つのでしょうか。英語では、絞りはDiaphragmという言葉があるのに、あえてF.stopとかF number という言葉を当てています。 この言葉が何から由来しているかは、「F値の由来」のところで述べました。F値は、レンズ焦点距離fに対するレンズ口径の比で示される値です。
- ▲ レンズマウント
- レンズマウントは、カメラに取り付けるための口金で、とても重要な意味を持っています。有名なレンズマウントとしては、産業用CCDカメラ(CMOSカメラ)に使われているCマウントであり、35mm一眼レフカメラに使われているニコンFマウント、放送局のENGカメラに使われているソニーENGマウントなどがあります。レンズマウントの歴史的な意味については、「レンズのいろいろ」で述べました。
- ▲ レンズ設計
- レンズ設計は、我々ユーザが直接に関わることはありません。我々は、出来合いのレンズを使えば良いのでレンズ設計など考えなくてもよいのです。しかし、レンズを使うユーザであっても、どのようにレンズが設計されるのかという概要を知っておくことは、レンズと関わっていく上で決して無意味なことではないと思います。レンズは芸術の塊であるとされています。たしかにきれいに磨かれたレンズは美しく機能的です。その美しく機能的なレンズも、その設計に際しては設計上の制約があまりにも多く、収差と格闘しながら最適なレンズ設計がなされています。レンズ設計では設計者のひらめきと地道な光線追跡計算が必要不可欠でした。コンピュータのなかった頃、光線追跡計算に費やされた時間は途方もないものであったと言われています。以下に、本格的な写真レンズの開発経緯と写真レンズの設計について紹介します。
- 【ペッツバール(Petzval)と写真レンズ】
- 写真レンズ設計の基本は、現在になっても19世紀のペッツバール(Jozeph Miksa Petzval : 1807.01.06 - 1891.09.17、スロバキア人)の時代から変わっておらず、光線追跡(ray tracking)という計算手法が使われています。光線追跡は、ドイツ人のフラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer : 1787-1826)が考案したものと言われています。
- 写真レンズの詳しい話は、項目を改めて述べるとして、ここでは、本格的な写真レンズの黎明としてのペッツバールの果たした役割と、ペッツバール以後の写真レンズの足跡を述べます。そして、なによりも写真レンズを作る設計が極めて忍耐のいる作業であることを紹介したいと思います。
- ペッツバールはハンガリー生まれの数学者で、オーストリアのウィーン大学で数学教授の職を得てラプラスの数式処理(ラプラス変換)を研究していました。
- ■ ペッツバールの新しい写真レンズ
- レンズ設計手法は、彼の研究の主流ではなかったようですが、ひょうんなことでレンズ設計に関わることになります。1839年の夏のことです。フランスのパリ科学アカデミー研究所のアラゴがダゲールの写真術を発表してから、性能の良い写真レンズが必要になりました。アラゴと交流のあったウィーン大学教授のエッティングスハウゼン(Anrease von Ettingshausen) は、写真術の発表を聞いて写真レンズの必要性を痛感し、帰国後、同じ大学の数学者であるペッツバールに設計を依頼しました。彼は、依頼を受けて1840年に設計に着手し、レンズ収差を考慮した光線追跡法を考えだして、ポートレート用色消しレンズを製造しました。1840年は、ガウスの近軸光線の理論が発表された年でしたが、レンズ設計の包括的な収差を総括できるザイデルの収差論(1856年)が出る16年も前の事でした。レンズに対する数学的理論の裏付けはまだ十分ではなかった時代です。ペッツバールは、自らの数学的能力で一気に高性能レンズを作り上げてしまったことになります。
- このレンズは、当時使われていたメニスカスレンズと比べ、口径比がF3.4と16倍も明るく、描写力も格段に優れたレンズだったと言われています。メニスカスレンズとは、メガネレンズのような両面が同じ方向の曲面できたもので、両凸ではなく一方が凸でもう一方が凹面構成となり全体として凸の性能を持つレンズです。ペッツバールレンズは、4枚のレンズで構成され、焦点距離f=149mmで、口径比F/3.4、φ90mmのイメージサークルを持っていました。35mm一眼レフカメラのイメージサークルよりも4倍、2/3インチCCDカメラの撮像エリアより8倍も大きなレンズです。このレンズ設計にあたっては、当時計算能力が秀でていたオーストリアの砲兵隊一個小隊がかり出され、光線計算に協力したという話が残っています。このレンズによって、従来、30分以上も露光にかかっていた撮影が1分半に短縮できるようになりました。この成功を経て、ペッツバールのレンズはオーストリアの光学会社(Peter Friedrich Voigktl穫der氏によるフォクトレンダー社)の手によって1841年に製品化され、そしてパリ万国博覧会に出展され銀メダルを獲得しています。この写真レンズの登場は、ダゲール(L.J.M. Daguerre、1787-1851)が銀塩感光材料を発明し写真の基礎ができた2年後のことです。フォクトレンダー社のカメラレンズは、ツァイスやライツのカメラレンズができるまでの間、優秀なレンズとして君臨しました。
- ■ ペッツバール以前の写真レンズ
- 写真が発明された当時、つまり、ペッツバールが明るい切れの良いレンズを作る前まではたいした写真レンズなどなく、画像がなんとか得られる程度のものだったことが伺えます。ダゲールが用いたレンズは、風景画家や肖像画家が使っていたカメラオブスキュラ用のもので、このレンズは当時、英国の物理学者ウォラストン(William Hyde Wollaston:1766-1828)が作ったものです。写真が作られる前までのカメラオブスキュラは、目で見る人物や風景の転写が主であったので画角が40-50度のレンズが求められていました。このような目的から広角用単レンズであるメニスカスレンズが登場したのです。ウォラストンは、当時メガネレンズの収差を研究していて、視線を動かしても(眼球が回転しても)良質な像が得られるレンズ、すなわち、非点収差を重点的に除去して広角をカバーするメニスカスレンズの研究を行っていました。このメニスカスレンズは、カメラレンズとしても良質なものでした。そこで、彼は遠視用メニスカスレンズを裏返しに使う方式を1812年に考え出し、画角60°の単玉写真レンズを作りました。このレンズは眼鏡用のもので、それを逆さに使っているために、レンズの絞りは目の瞳と同じ位置と大きさにセットされていました。カメラオブスキュラで風景を写し取り、エンピツでなぞるにはこのレンズで特に大きな問題ではありませんでした。しかし、写真感光材ができて、写真撮影用に使うレンズとしては周辺部の収差が大きいので、ダゲレオは焦点距離f=340mmで口径φ81mm、レンズ前面に絞りを入れた口径比F14のシュバリエレンズ(Chevaliers' lens)を新たにあつらえました。シュバリエ(Chevalier)はフランスの光学技術者です。このレンズは、フリントガラスとクラウンガラスを貼り合わせて色消しを図ったメニスカスレンズでした。シュバリエの作ったレンズでも暗かったので、ペッツバールが登場したというわけです。ペッツバールのレンズも、しかし、画面中央部でこそ球面収差、コマ収差、色収差が十分にとれて開放時良好な画像が得られはしたものの、周辺部は像面湾曲が甚だしく画角20°程度しか使用に耐えませんでした。このために、彼の発明したレンズは画角の狭い撮影用に使われ、人物撮影用のポートレートレンズとして有名になっていきました。
- ■ 写真レンズの位置づけ
- 望遠鏡や顕微鏡は1600年頃に発明されていますから、写真レンズは、240年を経て写真感光材料ができた後にそれに追従してできてきた格好です。望遠鏡や顕微鏡の分野では色消しの技術も進み性能のよいレンズができていました。それでもドイツのフラウンホーファーが完成度の高いガラスレンズを作り出した1810年頃に至っても、明るいレンズはできなかったようです。品質のよい光学ガラスができるようになったのは、ペッツバールがレンズを作った30年ほど後のことです。より高度な品質の安定した光学ガラスが作られるようになったのは、ドイツのアッベとショットの時代になってからで、1889年のことです。この年、ショット社によってバリウムクラウンガラスが開発されて、像面湾曲と非点収差が除去できるアナスチグマートレンズが作られるようになりました。1900年を越え、第一次世界大戦を通じてレンズ光学、写真工学は急速に進展していきました。第二次大戦中、米国のKodak社は希土類ガラスを開発し、これが戦後の大口径レンズを生む原動力になっていきました。
- 写真の発明と発展とそれをサポートする明るくて切れの良いペッツバールレンズは、世界的に有名になりましたが彼自身はこの恩恵にあずからず、一財産を築いたのは製造会社のVoigktl穫der社(フォクトレンダー)だったと言います。この会社は、ドイツのツァイス、ライツ社などが優秀なカメラレンズを開発するまで優秀なカメラとレンズを生産していました。ペッツバールの最後は貧しかったと言います。彼は、このほかに望遠鏡やオペラグラスの設計・製造にも携わりました。 ペッツバールの門下生に、物理学で有名なボルツマン(Ludwig Boltzmann)がいます。
- 【光線追跡】
- 光線追跡は、被写体の任意のポイントを数個選び、そのポイントから数十本の光線を引き出してレンズに入射させます。レンズ面に入射した光線をスネルの法則を適用させ、進行していく光線経路を逐次追いかけて、最後のレンズ面から出た光線が撮像面のどの位置に落ち着くかを丹念に計算していきます。最後の計算結果は、像面を貫く座標の差から横収差(Δy、Δz)が求められ、光軸や主光線と交わる位置から縦収差(Δχ)が求められます。この光線追跡は、スネルの法則を基本としていますから、三角関数計算が主計算となり計算精度は7桁が必要となります。7桁の計算はコンピュータで行うと24ビット数値になります。8ビット処理のパソコンでは3回に分ける必要があるので、ストレスなく計算を行うには32ビットCPUがほしい所です。32ビットCPUは、パソコンでは1990年代で実現された性能でPentium4も32ビットCPUです。1960年頃までは、コンピュータが普及しておらず、当時の技術者達は算盤と7桁の対数表(対数表はかけ算と割り算をそれぞれ足し算と引き算に変換処理できるので計算時間が早く間違いが少なかった)を用いて、二人一組で1面毎に計算結果を照合し、誤算を防止しながら光線追跡を行っていました。
- 通常、レンズは4枚から6枚程度あり、レンズ1個に対しては両面(2面)あるので、合計8面から12面の計算が必要になります。この光線追跡に費やされる計算は、熟練した人で1面当たり5分から10分かかり、12面あるレンズでは1本を追跡するのに2時間程度かかることになります。光線追跡は、1本ではなんの情報も得られず、被写体から50本程度の光線を出させて追跡させるため、50本の光線追跡で収差の状況を把握するには100時間の計算が必要になります。1日8時間の労働として12.5日、約2週間の労働を必要としました。計算は、これで終わったわけではありません。2週間の計算によって、レンズの収差のおおよその傾向が把握できたに過ぎません。この計算結果を基に、レンズの曲率半径を変えたり、レンズエレメントの間隔を少しずつ変えたりして収差の改善の傾向を読み取りながら、最適な収束条件を求める計算を何十回、何百回となく繰り返します。レンズの最適条件を求めるため、100回の計算を行ったとして200週間、4年近くの歳月がかかることになります。普通は、計算するグループをいくつかに手分けして作業を進めるために、4年はかからないにしても1年程度の設計期間は当たり前であったことがうかがえます。コンピュータが嘱望されていた設計分野の一つがレンズ設計であったことがこのことから十分に理解できると思います。
- 【コンピュータによる光線追跡】
- 世界で最初にコンピュータが開発されたのは米国で、ミサイルの弾道計算に使われました。日本でコンピュータが国産化された動機は、光学設計にありました。1956年3月、富士写真フィルムの岡崎文次氏 (1914-1998)の手により 1700本の真空管を用いた「FUJIC」というコンピュータが開発され、レンズ設計に使われました。それだけコンピュータの導入が望まれていた何よりの証拠だと言えます。
- 岡崎氏は、1939年に東京帝国大学を卒業後、富士写真フィルムに入社しレンズ設計を担当する中で、10年後の1949年にコンピュータによるレンズ計算手法の開発に着手し、20万円の予算を元に7年後の1956年3月に完成を見たそうです。これが日本の国産化による初のコンピュータでした。このコンピュータは、クロック周波数30KHz、2進法3アドレス(3ビット)、255WORDメモリ(4080ビット)の超音波水銀遅延線による記憶装置を持ったものだったそうで、加減演算を 0.1ms = 1/10,000秒、乗除演算を1.6ms =1/625秒 で行いました。この性能は、人による計算の2,000倍の性能だったそうです。つまり、設計時間が1/2,000に短縮された計算になり、1年の計算が半日以内に短縮されたことになります。このコンピュータは、開発されてから2年半の間に富士写真フィルムの小田原工場で社内、社外のレンズ設計に活躍したそうです。
- 現在のレンズ設計用のコンピュータは、1秒間に800面もの計算をするほどに性能が上がっているそうです。人手に寄っていた時代の実に250,000倍の高速演算になります。コンピュータのおかげでレンズ設計はより速く最適化レンズ構成が決められるようになりました。レンズエレメントの多いズームレンズの発展も、プラスチックレンズによる非球面レンズの設計もコンピュータ支援なくしてあり得なかったことでしょう。
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| ■ 球面収差 - 軸上での焦点が合わない。
■ 非点収差 - 光軸外での焦点が合わない。 ■ コマ収差 - 光軸外で彗星のような尾を引く。 ■ 歪曲収差 - 像の歪み。 ■ 像面湾曲 - 結像面上に像が集まらない。 |
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● 単色での収差
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収差
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| ■ 軸上収差 - 波長による屈折率の違いで光軸での焦点が合わない。
■ 倍率色収差 - 色によって像の倍率が異なる。 |
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● 多色の収差(色収差)
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- ・ 凸レンズ:屈折率が高くて分散が低いガラス(バリウムクラウンガラス)
- ・ 凹レンズ:屈折率が低くて分散が高いガラス(フリントガラス)
上に示した(A)と(B)では、どちらが集光が良いでしょうか。答えは(A)で、平凸レンズの場合、平面側に放射してくる入射光を受け、さらに集光する射出側にも平面を向けます。そして、曲率を持った側を平行光にあてた方が集光が良くなります。(A)のレイアウトは一点から出た光を平行光にするのに、平面を入射側に向けているので平行光の精度が上がり、平行光を集光させるのに今度は逆向きに凸レンズを配しているため一点に集まりやすくなります。一方、(B)の配列では、(A)とは逆配列であるため逆効果となって思うような効果が得られません。
(2005.09.25追記)
コマ収差は、天体の彗星(comet)のような尾を引いた点になることを言います。コマは、画像の周辺部でおきる収差で、斜めから入射した光が一点に集まらずに外側に流れるように収束する現象です。簡単に言えば、コマ収差とは光軸外で生ずる球面収差のことです。光軸外で生ずる球面収差には、先に述べた非点収差もあります。非点収差 は、斜めから入る光束の光軸に添ってできる奥行き方向の収差であるのに対し、コマ収差は、焦点面に拡がる収差になります。つまり、コマ収差では、斜めから入る光線は焦点面に焦点を結びます。しかし、焦点面の一点ではなくずれて焦点を結んでしまうのです。これは、言い換えれば斜めから入射する光は、入る角度によって像倍率が異なっていることを示しています。このため一点に集まってほしい点像が周辺に行くに従い像倍率変化を起こしますから、周辺に行くに従い像がボケて大きくなり、尾を引いた彗星(コマ)のような像になるのです。コマ収差は、であるならば、斜めから入射する光束の作る像倍率を入射角全般にわたって同じ倍率にしてやれば、補正できるはずです。 これには、アッベ(Abbe)が示した正弦条件(Sine Condition)が当てはまります。この条件を満足しているときは、光軸からあまり離れていないところまでコマ収差が除かれます。この関係式は、コンピュータなどない時代に、簡単な式で収差が除去できるので当時としては本当にありがたい式だったようです。球面収差とコマ収差を同時に除去することをAplanatism(アプラナティズム)と言い、Aplanatismの光学系をアプラナート(Aplanat)と呼んでいます。
航空写真は、偵察としての軍需目的から出発しました。最初の航空カメラができたのはドイツと言われ、第一次世界大戦が始まった1914年にドイツ映画のパイオニア、オスカー・メスターが作ったと言われています。その後、このカメラの威力に目をつけた連合軍やソビエトなどでは、密かに、しかも大規模な予算を計上して偵察カメラの開発がなされました。飛行機にカメラを載せて、地上高くから地形や建設物を写真におさめる手法は、飛行機が発明されてからのことになりますから、第一次世界大戦を契機に、第二次世界大戦、東西の冷戦を通じた1970年終わり頃まで連綿と続きます。衛星からの宇宙写真も開発されました。
- 【ザイデル (Philipp Ludwig von Seidel:1821-1896)】
- 1821年ドイツに生まれる。日本の年代でいくと江戸時代後期にあたる。彼の幼少期は、郵便局に勤める父親の仕事の都合で学校を転々とした。18才で学校を卒業した後、すぐに大学に入らずに数学の家庭教師を雇い数学の勉強を始める。このときの家庭教師が、ガウスの元で数学を勉強していた優秀なギムナジウム(大学進学コースの高等学校)の教師であったため、彼の数学素養をいっそう開花させることになった。1840年、19才の時にベルリン大学に入学。当時の慣習として大学在学中に他の大学への留学が認められていたので彼もその例にならってケーニヒスベルグ大学に学び、当代の最高数学者、ヤコブ(Carl Gustab Jacob Jacobi)、ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel)、フランツ・ノイマン(Franz Ernst Neumann)らの手ほどきを受けた。この後、ミュンヘン大学へ移り博士号を取得した。博士号は、天体望望遠鏡に使われるミラーの数学的考察についてであり、6ヶ月後には、光学とは関係のない連鎖分数の収束と発散に関する数学論文を書き上げてミュンヘン大学の講師の職を得た。以後、ミュンヘン大学にて天文学と数学に功績を残した。
- ザイデルの功績は、光学、特にレンズの収差論において傑出した足跡を残したことである。彼の収差論は、数学を巧みに応用して単色光で現れる5つの収差を一つの式で書き表し、収差を除去するレンズ設計の際の一つの指標を作り上げたことである。レンズの設計、およびその考察には、オランダのスネル(もしくはフランスのデカルト)が発見した屈折の法則によって三角関数が多用される。複数のレンズを組み合わせた光学設計では、sinθ = θと近似した近軸領域(ガウス領域)が主流であった。計算が楽だからである。しかし、この領域での考察は像のできる位置は特定できるものの、像の質を論議するには何のヒントも得ることがなく誤差が大きすぎた。ザイデルは、入射/射出光線を sinθ = θ + θ3/6 まで展開して光線の式を構築した。3次の項によって数式化された光学式は、球面から成るレンズの収差が数学的にきれいに整理され、5つの係数となって数式化された。5つの係数は、とりもなおさず上で述べている5つの収差である。
- ザイデルは、レンズの性質を3次項まで取り上げた数式でまとめ上げたが、この数式を解いて5つの収差が取り除かれるレンズデータが即座に得られるかというとそういうものではない。あくまでもレンズの性質を1つの式で書き表せるというものであって、レンズの性質を理解して補正への手引きをしてくれる有用なツールとして位置づけられるだけのものである。
- ザイデルの式では、3次項までしか考慮していないので、写真レンズのように広角で明るいレンズ(焦点距離が短く口径の大きなレンズ)では誤差がなお無視できなくなる。精密な光学設計では光線追跡法にかなうものはない。ザイデルは、自分の学問の成果を同じ大学の天文学者で光学器械製造会社を持っているシュタインハイル(Karl August von Steinheil: 1801-1870、息子はAdolph:1832-1893)に提供し、アプラナート(Aplanat)という対称型広角レンズを1866年に作った。このレンズは、非常に性能がよく、以後、このレンズから様々な発展型レンズが生まれた。このレンズは、1840年にペッツバールの設計したポートレートレンズと双璧をなす初期の写真レンズの傑作であった。
- 彼の晩年は決して幸福とは言えなかった。失明が原因で大学教授とアカデミーの要職を早期に辞し、全く見えなくなった彼の看護は、彼が生涯独身で通し家族がいなかったために同じ独身を通した姉が彼の面倒を1889年まで見た。彼の亡くなる最後の7年間は教会の聖職者の未亡人の看護にたよったと言われている。
- また、学術的に功績の多かったザイデルであったが、同国で同年代の数学者リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann:1826-1866)の編み出した幾何学を邪道なものとして生涯を通して認めなかった。
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写真レンズの発達に関する資料はあまりたくさんありません。レンズがこれほど発達したにもかかわらず、レンズが発達してきた系譜を一般の人たちに理解されていないのは先人たちに申し訳ないと思います。ここに写真レンズの発達の流れを振り返ってみたいと思います。
▲カメラレンズの祖、イタリア:
ミュンヘンのシュタインハイル(Hugo Adolph Steinheil:1832-1893)も、英国スコットランドのダールメイヤと同じ年1866年に同じ発想のレンズを作ります。シュタインハイルのレンズはAplanat(アプラナート)と呼ばれました。同時期に2つの発明者が現れたのでどちらが先に作られたのかで当時論争になりましたが、シュタインハイルの方が数週間早く発明したと認められました。シュタインハイルは、1881年に当時としてはもうこれ以上収差が取りきれないと言われたAntiplanet(アンチプラネット)レンズを開発します。このレンズは非点収差を極力抑えて良好な平面像を得ることができたと言われています。それ以上に、このレンズは収差が数値的に十分に考慮されて、これ以上は当代の光学ガラス(イエナガラス以前のガラス)を使っては除去できない所まで来ていました。
- 【ツァイスとアッベとショット】
- 現代光学機器の原点ともなったツァイスとアッベとショットは、どのような関係であったのでしょう。3者のどの人を欠いても現代の光学の発展は遅れていたに違いありません。以下に、3人の人となり、相互の関係を述べることにします。
- ■カール・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss:1816-1888)
- カール・ツァイスは、ドイツワイマールに生まれた。父親は玩具職人であったという。グラマースクールを卒業後、光学機器を製造するお店(師匠はフリードリッヒ・ケルナー)に奉公人として働き、イエナ大学(The University of Jena)で光学、物理学の講義を受けた。1846年、彼が30才の時に独立して、小さな光学機器を作る店をイエナに開業し、簡単な顕微鏡や光学機器などの製造販売を細々と始めた。イエナ大学も当然大切なお客様であった。顕微鏡製作を始めたのは、植物学の教授であるシュライデンからの勧めがあったからと言われている。当時の彼の会社はまったく無名で、ツァイスの名前が少しは知られるようになったのは、1847年、彼が31才の時あたりからであり、奉公人を一人雇った時からであった。この年には顕微鏡を専門に製造する店となって、解剖学用の単玉の顕微鏡製造を始めた。この顕微鏡は、その年23セット売れたという。彼は次に複合レンズを使った顕微鏡製造に乗り出して、これが評判となった。出来が良かったのである。1861年、彼が45才の時にはドイツで最高の栄誉とされる科学器機のゴールドメダルを受賞した。この頃には彼の工房には20名の従業員をまかなうまでに大きくなっていた。1866年までに、彼は1000台の顕微鏡を製造し販売した。彼は正規の大学教育を受けていなかったので、顕微鏡製造で性能を向上させていくのはトライアンドエラー(試行錯誤)しか方法がなく、現状に甘んじることなく絶えなる光学の問題点を解決していくためには、光学の理論的な裏付けのできる技術指導者が必要なことを痛感していた。
- そうした折り、彼はイエナ大学で数学と物理学で教職をとっている26才若い有能な学者、エルンスト・アッベと知り合うことになる。当時のアッベは駆け出しの無給の大学講師であった。田舎大学のイエナ大学には潤沢な物理実験器具が無く、アッベは満足に動きそうもない実験器具に手を加えながら、学生に物理実験を教えていたという。実験器具を手直しをする時に、自分の手ではどうしてもできない所は外に頼むしかなく、イエナの町では腕の良い精密機械業者がカール・ツァイス社であったので、それがもとで二人は交流を深めることになる。当のカールの会社でも、先に述べたような顕微鏡作りに性能の良いものができずに悩んでいた矢先でもあったので、双方は良き理解者と協力者になっていった。カールは、アッベと共同で1869年に顕微鏡の光源装置を開発する。
- 1872年、カールは、エルンスト・アッベを彼の会社に招き入れて、共同で光学機器の性能向上を目指して技術開発を行っていった。アッベは、光学に関して明晰な判断と数学の理論を持っていて、彼の発見した球面収差を補正する正弦条件(sine condition)を用いて理想のレンズ作りがツァイス社で始まった。
- 1884年頃からは、オットー・ショットがガラス光学技術を提供することとなり、ショットの良質ガラスをレンズ材料とすることによって世界最高水準の光学機器を提供できるようになり、ツァイスの名前をさらに有名にしていった。
- カール・ツァイス自身は、ツァイス財団を築きあげず72才で天寿を全うした。
- 彼の意志を受け継いで、ツァイスを財団に仕立て上げ労働条件を改善した会社運営の舵を切ったのは、彼よりも24才若く、彼の死後17年長く生きたアッベ博士であった。
- 20世紀に入って第二次世界大戦が終わる1945年までの半世紀は、カール・ツァイス社は世界の最先端を行く光学機器会社であった。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦によって、ロシアに占拠されたイエナの地はカール・ツァイス社が分断されるという事態に見舞われた。第二次世界大戦後、ドイツの東西分断によって、ドイツ東部にあったイエナはソ連占領統治下に置かれることになる。しかし、連合軍は、世界最高技術を持つカール・ツァイスの光学技術がソ連にわたることを恐れ、ソ連軍に先んじてイエナに入り、技術者の多くを半ば強制的にシュトゥットガルトに移動させ、もう一つのカール・ツァイス社として光学機器の生産を引き継がせた。一方、ソ連軍はイエナにあった工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。これによってカール・ツァイスは東西に分裂し、西側はシュトゥットガルト近郊のオーバーコッヘンに新会社が設立され、東側はイエナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イエナ」を置くことになった。カール・ツァイスは、東西ドイツ双方で生きることになったのである。東西両国に分かれたカール・ツァイス社は、どちらがツァイスの名やコンタックス等商標の権利を持つかで法廷闘争に及ぶ長年にわたる争議が続けられた。
- 1989年、ドイツ統合後には、再び一つになった。財団傘下の企業として、カール・ツァイス社やツァイス・イコン社(Zeiss-Ikon)、ショット・グラス社 (Schott Glas)などがある。
- ■エルンスト・アッベ(Ernst Abbe:1840-1905)
- アッベは、紡績工を父に持つ貧しい家庭に生まれ、奨学金によってイエナ大学で物理学と数学を学び、その後ゲッチンゲン大学で熱力学によって学位論文を取得した。1863年、23才の年にイエナ大学に講師の職を得て物理学と数学の研究に入る。1870年にはイエナ大学の物理学と数学の教授(ただし員外教授)になり、1878年、38才の時にはイエナ天文台と気象台の台長に任命されている。天文台とはいえ、田舎町イエナの天文台は質素なもので、家族の住む小さな家が天文台についていたのでそこで生活をしていた程度であった。天文の施設はお粗末なものであったという。その間、1866年にはツァイス社から技術所長の招聘を受け、光学の研究に没頭していくようになる。ツァイス社の技術所長と言っても従業員5名の小さな会社のことである。光学顕微鏡の理論的解明協力を依頼された当時のアッベは、26才の無給の大学講師であった。暮らし向きは貧しかった。しかし、当然、彼には光学によって財をなしたいとか、学問の世界で有名になって学府の長に立ちたいという野望は希薄であった。その証拠に、彼の学問が世間に認められるようになった1878年、ベルリンの有名な物理学者ヘルムホルツが彼の家を訪ね、学問の都であるドイツ帝国の首都ベルリンに出て、ベルリン大学の物理学教室の特別教授の職に就く申し出をした。彼は、しかし、その職を断りイエナでのカール・ツァイスとの顕微鏡の共同研究の道を選んだ。清貧の求道者のようであった。彼がイエナ大学であまり良い待遇を受けていなかったのは事実のようで、彼は生涯正教授になることはなかった。それは一つには彼の出自がよくなくプロレタリアート出身であった事が大いに影響していた。アッベは、イエナ大学の正教授であるカール・スネルに認められ、彼の娘を嫁にもらうという幸せをつかんでいたが、イエナ大学から認められるまでには至らなかった。また、彼の家族に不幸が襲う。1874年末から彼の家族のすべてがチフスにかかってしまった。家族を救うためには自分も健康になることはもちろん経済的な助けが必要であった。この状況の中で、アッベはツァイスに手紙を出している。ツァイスからの提案は、彼の会社の共同経営者となることであり、その見返りとして全売り上げの利益のうち1/3をアッベが受け取るというものであった。彼らは、1876年にその契約を交わした。
- 1868年、アッベは顕微鏡におけるアポクロマチックレンズを考案する。ただし、この顕微鏡もこれを作り上げる光学ガラスがなかったために、ショットが作ったイエナガラスができあがるまでの20年間、1886年まで待たねばならなかった。また、アッベは、1869年に顕微鏡に使う照明手法を考案し、その光源装置を製作する。1872年には、彼を有名にするレンズ収差に関する正弦条件(Sine Condition)や光学の倍率限界を解き明かす。数年のちには彼の理論に裏打ちされたツァイスの17種類の顕微鏡レンズが完成した。顕微鏡レンズの開発にあたって、彼が示した光学材料の性質を示すアッベ数(Abbe Value)は、光学設計の大切な設計数値となった。アッベ数とは、3成分の波長(C線、D線、F線)の屈折率を使った逆分散値で、この数値をきめ細かく決めた光学ガラスの製造と品質管理によって、光学機器は設計通りの性能が出るようになった。またアッベは、精密工学分野でも足跡を残し、測定物と基準物を同一の軸上に配置して機械的に生じる誤差をできるだけ小さくするアッベの原理を編み出し、これを応用した測長器を開発した。測長器は、ツァイス社で光学機器を製造する際に精度が良く歩留まりのよい製品を作るのに不可欠なものであった。アッベは生産技術でも多大な足跡を残したことになる。
- 1882年、イエナガラスも完成せず、アポクロマチックレンズもできていない時期、ドイツの医学学者コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843-1910)がツァイスの顕微鏡を使って結核菌を発見する。その当時のコッホは、ベルリンの帝国衛生院の所員であった。アッベは、コッホに油浸系顕微鏡を紹介し、明るさを大幅に向上させるための改良を施した照明装置付き顕微鏡の活用をアドバイスしたと言う。ツァイス社は、レンズのみならず装置そのものまで深い洞察力で装置を向上させていたことが伺えるエピソードである。ちなみに、細菌はフランスのパスツールが1862年に発見している。20年もの歳月をかけてようやく完成させた至宝のアポクロマート顕微鏡を、アッベは意図的に特許化しなかった。当時、ツァイスには、同国のライバルであるエルンスト・ライツ社(Ernst Leitz, Wetzlar:1850年設立)がいた。アポクロマート顕微鏡ができたとき、いよいよ自分たちの会社(ライツ)も終わりかと思ったと言う。しかしアッベがあえて特許を申請しなかったことにより、ヴェッツラーにあるエルンスト・ライツ社もアポクロマート顕微鏡製造ができるようになった。
- 1888年、アッベのよき理解者、カール・ツァイスが亡くなる。アッベが58才の時である。アッベはツァイスの亡くなった1年後、彼らの会社を私物化せず公のものにするためカール・ツァイス財団を作った。財団を作る際に、カールの息子ローデリッヒ・ツァイスがカールの財産を相続して発言権を持ち、アッベとは違う方向で会社を運営しようとしていたので、アッベは善意を尽くして財団設立に同意させたという。この財団のすごいところはアッベ自らの財産を提供したのみならず、ツァイス社が発明した多くの特許を無料で公開したことである。この財団は、現代の企業が取り入れている労働者の働きやすいいくつかのアイデアを盛り込んでいた。その代表的なものは、1日8時間労働であり、有給による休日休暇や、労働災害や病気による保険の適用などであった。アッベの父が、紡織工として一日16時間の労働で身を粉にしてアッベを育てた時代背景と、同時期の同じ地域の哲学者、経済学者、革命家であるカール・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818-1883)が共産主義を唱えて闘争に立ち上がった社会背景を考えると、プロレタリアート出身のアッベが、当時の極悪なまでの社会労働環境をマルクスとは別の方向で改革し、先進的な会社経営を打ち立てたことは記憶にとどめておくべき事と思う。アッベの晩年は、光学技術の科学者と言うよりも会社を運営する経営者という色合いが濃い。経営者としても時代を先取りする優れた雇用システムを取り入れた希有な才能を発揮した。
- ■オットー・ショット(Friedrich Otto Schott: 1851-1935)
- ドイツウィッテン(Witten)で板ガラス製造を営む家に生まれた。父親がガラス工業組合の副会長を務めるほどであったから、彼は比較的裕福な家で育った。幼い頃よりガラスに馴染んで成長しガラスの製造、特性をそらんじるまでになった。光学ガラスの祖と言われる。アーヘン工科大学で化学工学を学んだ後、1875年、イエナ大学で窓ガラス製造時の欠陥に関する論文で博士号を取得した。1876年、彼が26才の年にスペインにヨウ素と硝石を精製する工場を立てる。アッベ博士とは、年が11才離れている。カール・ツァイスとは35才離れている。ショットがイエナ大学に入った当時、アッベ博士は同大学の員外教授の職にあり、カール・ツァイスの会社の技術顧問としても活躍していた。ショットは、アッベ教授の光学理論を理解し、精度の良い光学ガラスの必要性を十分に認識していたと思われる。ショットとアッベ教授とは光学ガラスに関する意見交換がずいぶんとあったようで、1877年から光学ガラスの基礎研究が両者の間で始められている。1879年、ショットは新しい光学ガラス特性の見解を聞くために、酸化リチウムを含んだ新しい光学ガラスをアッベ博士の元に送った。測定の結果、そのガラスはアッベが望んでいた性質を持つものではなかったがショットの仕事ぶりに大いに感銘を受けたという。以後、アッベとショットは光学ガラスに関して長い書見のやりとりを続けることになる。3年の技術書見交換を通じて新しい光学ガラスを作り出す段階にまでこぎつけ、1882年、ショットは研究する場所をイエナに移した。そしてさらなる新しい光学ガラスの試作実験が続けられた。この試作実験は、ショットとツァイス社による光学ガラス研究所の設立という形であらわれた。しかし、この研究には非常に多額の資金が必要であったため、ツァイスとアッベだけの力だけでは研究を継続することは不可能になった。そこで、彼らはプロイセンの助成金を申請し、その資金で新しい設備投資を行い研究所をスタートさせた。1884年には、マインツ(Mainz)に新しい光学ガラスを開発するためのSchott & Genossenガラス工業所を設立した。この会社はカール・ツァイス社との共同出資の工場であった。
- 1886年には、非分散光学ガラスを開発し、44種類のガラスをリストアップした製品目録を完成させた(■ 光学ガラスチャート 参照)。彼らの製品目録は、従来の体系とは大きく異なっていた。従来の光学ガラスが比重だけで区別されていたのに対し、彼らの製品リストには、屈折率や3本のスペクトル線の分散値、比例値まで記載されていた。この精密な光学特性を出せるショットの光学ガラスの完成によって、アッベが20年以上も構想してきたアポクロマートの顕微鏡が実現したのである。ショットはさらに、1887年から1893年にわたってホウ酸珪素による光学ガラスを開発し、イエナガラスの品質を不動のものとした。
- 1891年、彼が40才の年には、アッベ博士の趣旨に賛同して自分の持っていたショット企業に関する持ち株をすべてカール・ツァイス財団に移した。以後この財団は、ツァイスグループとショットグループの2本柱で運営されることになった。
- ガラスは固溶体である。
- 結晶質構造ではない。
- 熱を通しやすい。
- 電気を通しにくい。
- 応力が集中すると破談(亀裂破壊)しやすい。
- 金属とガラスは性質が大きく異なります。金属は、基本的に金属色をしていて、透明ではありません。透明な金属はありません。金属は電気を良く通しますが、ガラスは電気を通しません。金属は、結晶構造が複雑で部分部分で結晶構造を持つものの個々の結晶粒塊が集まってできたものがほとんどです。一部固溶体のものもあります。
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- 【ドイツ数学の巨匠 - ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss:1777-1855】 (2005.07.27記)
- ドイツが生んだガウスは、天才の名をほしいままにした数学者としての位置づけが私の中にある。同時代にフランスのフレネル(Augustin Jean Fresnel、1788-1827)がいる。ガウスの小学校時代、1+2+3+・・・+98+99+100の合計和をいとも簡単な数式に置き換えたエピソードや、当時の教師が、もう彼に教えることは何一つ無いと言わしめたほどの早熟で早くから数学的才能が開花していた。多くの優秀な数学者がそうであるように、彼は天文学を専門とし、1807年、30才の年にゲッチンゲン天文台長となって後、40年間その職にとどまった。
- ガウスは数学者としての位置づけが強いが、数理をもとにした物理学への貢献も多大なものがあった。磁気の単位であるガウスや、複素平面の概念を取り入れたガウス平面、最小二乗法の発見、自然界に現れる誤差の分散(正規分布=ガウス分布)の定義など馴染深いものが多い。光学の分野でもガウスは足跡を残している。レンズの主点という考え方を最初に使ったのがガウスであり、主点を用いてレンズ公式(近軸光線)を導いた。レンズ公式とは、1/a + 1/b = 1/f という馴染みの深い簡単な公式である。この公式が成り立つ光学の領域を近軸光線、ガウス領域と言っている。レンズの主点の考えを著した彼の論文は、1840年の発表であるから、彼の晩年の研究ということになる。彼は数学と天文学が主な研究テーマであり、光学は天体望遠鏡の関係から考察の対象としたように見受けられる。レンズ設計も行っていて、後に写真レンズの標準となるガウスタイプのレンズはガウスの設計したレンズが発端となっている。しかし、現在のガウスタイプのレンズそのものをガウスが着想したかというとそうではなく、有名な学者の名前をニックネームのようにして使ったという感をぬぐいきれない。
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- 右に示すような一定間隔のストライブ(格子状)のチャートを使って、レンズを通して像を作ったとき、どのように像が結ばれるでしょうか。一般的に、解像力を評価する場合、強度レスポンスによる方法と、空間レスポンスによる二つの評価法があります。
- 強度レスポンス法は、チャート(縞 = ストライブ)の濃度を変化させて(濃い濃度から薄い濃度に変化させて)像がどのように追従するかを見る方法であり、空間レスポンス法は、ストライブの周波数を高くしていって(非常に細かな縞格子を使って)どこまで追従するかを見る方法です。
- 基本的に、強度が弱くなるに連れて(コントラストの弱い被写体になるにつれて)、像のレスポンスが悪くなります。また、周波数が高くなると像はそれに追従できずに強度レスポンスも悪くなって行きます。
- こうしたレスポンスを評価する際に使うチャートは、白と黒のコントラストが1:1000、もしくは1:30のもので、周波数は、格子間隔を√2、もしくは2^1/3、2^1/4の等比数列で刻んだものにしています。コントラストが1:1000というのは、白い部分の明るさと黒い部分の明るさの比がこれだけあるということです。つまり輝度比がこれだけあるということです。一般のCCDカメラは、8ビット濃度で画像を得ているので濃度範囲は1:256となります。この意味では1:1000のチャートは、10ビット(1,024諧調)の濃度諧調を持つことになります。こうしたチャートは印刷によって作られますが、印刷は一般のCCDカメラよりも深い階調が得られるのです。透過型のチャートでは、光学ガラスにアルミなどを蒸着することによってこうしたコントラストを持つものを製作しています。このチャートを使ってレンズで大きく拡大投影させ、レンズを通した拡大像を見てうまく像を結んでいるかどうかを調べます。像は、場合によっては顕微鏡を使って調べることもあります。
- レンズは、中心部と周辺部では当然解像力が異なるので、それを調べるためレンズチャートも中心部と周辺部に解像力チャートを配置します。一般に、レンズ中心部は解像力が高く、周辺部に行くほど解像力が落ちるため、中心部のチャートは細かく、周辺部のものは荒く設計するのが普通です。良質なレンズでは、レンズ中心部は100本/mm程度の解像力があり、周辺部で60本/mm程度あります。4x5インチフィルムを用いる大判カメラレンズでは、イメージサークルが大きいので大きな像面エリアすべてにわたって良好な解像力を求めるわけにはいきません。多くの場合、レンズの絞りを絞るというのは、中心解像力を落として周辺収差を改善させ全体的に解像力を平均化することをねらいとしています。こうすることにより、4インチx5インチ(101.6mmx127mm)の像面エリアを50本/mm程度の解像力でカバーすることができます。50本/mmは、撮像面上で10um単位の像を結像させる能力ですから、このレンズを使ってCCD固体撮像素子でしっかりととらえるには5um単位の画素を持つ必要があります。(「▼フィルムのレスポンス、固体撮像素子のレスポンス」参照。)5um単位の固体撮像素子は小さいサイズのものでしか供給されておらず、4x5インチサイズの写真乾板に替わる固体撮像素子は世の中にないので、レンズの性能は固体撮像素子に比べて十分あることがわかります。このレンズの性能を十分に引き出す固体撮像素子があるとすれば、その画素数は、20,000x25,400画素となります。ちなみに、35mmライカサイズ(24mmx36mm)フィルム用レンズの場合、平均解像力を70本/mmとすると、6,720 x 10,080画素相当になります。現在の高級デジタル一眼レフカメラの画素が、4,000x3,000画素になっているので、レンズの性能から見るとこの程度の画素が必要にしてかつ十分な性能であると言えるでしょう。それ以上の画素をカメラが持つとレンズの性能が劣るためにレンズ性能の良いものを使うか、画像処理を使って擬似的に画質をあげる必要が出てきます。
- レンズの解像力は、非点収差 の影響によって画像の任意の点で放射方向(ラジアル方向、サジタル方向)と円周方向(タンジェンシャル方向、メリディオナル方向)で解像力が変わってきます。従って、画像の任意の点で双方(サジタル方向とメリディオナル方向)の解像度を検査する必要があります。画像中心部では非点収差 の影響は皆無ですが、画像周辺部にいくほど顕著にこの影響が現れてきます。この理由から、レンズを評価する解像力チャートでは、下に示すように、放射状にテストチャートを配置し、サジタル方向とメリディオナル方向での解像力をチェックするようにしています。
- 上で述べたように、画像全般にわたって解像力をチェックするためにいろいろなテストチャートが開発されてきました。JIS規格でもレンズ性能を検査するチャートの規定があり、専用のチャートを製造販売しているメーカもあります。チャートは、基本的には先に述べた格子状のものとドット状(もしくはドーナッツ状)のもの、それに菊の花びら形状のものがよく知られています。こうしたチャートの大きさの異なったものを並べて、画像の部位によってどこまで再現できるかを検査します。検査する値は、多くは[lp/mm](ラインペア/ミリ、ミリ何本)という言い方で表現します。
JIS解像力チャート。解像力の細かさを若干ずらして直交配置したもの。数値は、格子巾ペアの間隔。3.5は、白黒一対が3.5mmの間隔を示す。 JIS規格の解像力チャート。2^1/3の等比級数で作られる。縦方向と横方向で組み合わせられている。 ドットチャート。歪曲の度合いをチェック。 濃度と色情報をチェックするカラーチャート 四半円形状のターゲットチャート。自動読み取りソフトで使うチャート。レンズの歪みを計測。 ジーメンススター(Siemens' Star)ターゲット。放射状に拡がる菊状のターゲット。焦点ポイントのチェックや非点収差のチェックに利用される。 - 上のチャートのうち、解像力をチェックするのは最上段左に示した短冊状の格子線を使います。格子線のピッチは、縦と横の何組かの構成でできあがっています。このチャートが白黒一対の巾が3.5mmだとして、これを撮影倍率1/50に縮小してカメラに撮影したとすると、この格子は撮像面で、
- 3.5/50 = 0.07mm(14.29本/mm)
- となります。
- ドット状のチャート(上右図)は、主に歪みのチェックに使われます。このチャートは、解像力というよりも像の歪みを主に調べるチャートです。ターゲット中心を画像解析ソフトウェアで自動的に特定する場合には、その下の図に示したような四半円計上のターゲットマークが使われます。
- 上図の中程左にあるチャートは、濃度や色を見るためのものです。このチャートではグレーが18段階(85%〜3.5%)に分かれ、カラーは、赤・緑・青・シアン・マゼンタ・イエローの三原色で構成されています。このチャートでは、レンズというよりもレンズを含めたカメラが正しく濃度や色情報を記録しているかのチェックを行います。
- 上図の下に示したものは、ジーメンススターと呼ばれるもので放射状の形状をしています。放射形状のチャートは非点収差 をチェックするのに都合が良く、どの方向にピントが出ていないかを知ることができます。
- 映像を結ばせるレンズは、アナログの情報伝達要素です。従って、アナログ要素であるレンズを評価するには、上で述べたようなチャートを目的に応じて使い分ける必要があります。映像を記録するCCD(CMOS)固体撮像素子は、映像を画素という1単位に分解する点でレンズとは異なりデジタル要素と言うことができます。固体撮像素子ができる以前の撮像管を使ったテレビカメラや銀塩フィルムは、画素という概念がないのでアナログ要素でした。アナログのレンズを使って、アナログの撮像管テレビやアナログの銀塩フィルム感光材に記録する組み合わせは、アナログ + アナログとなります。現在は、アナログのレンズとデジタルの撮像素子が組み合わさったアナログ + デジタルが主流となっています。アナログ+アナログの記録からアナログ+デジタルの記録に変わることにより、画像の性能をどのように評価したら良いのでしょうか。
- ■ デジタル
- デジタル信号評価にはアナログ信号の評価とは違った評価法が取られます。デジタルは、アナログと違って性能限界が明確です。つまりデジタル機器による情報伝達は、デジタルサンプリングされた性能以上には情報を伝達することはできないのです。CCDカメラの場合、カメラの画素以上の解像力は得られません。もう少し詳しく言うと、画素の半分しか解像力がありません。これは、米国の科学者シャノンとナイキストが明らかにしたことです。
- ただし、計測する画像があらかじめわかっているときは、画像の形状から類推してサブピクセルまでの処理をすることがあります。たとえば、円形形状があらかじめわかっているとき、その中心位置を円形形状から重心位置を計算してサブピクセルまで計算で求めることがあります。これは、画像の持っているデータの本質的なものではないので、この項での説明は省いています。
- ■ アナログ
- アナログの場合、デジタルと違って細かい情報を見切ることはしません。細かいところまでそれなりに情報を伝達します。画像や音声などの細かな部分は、人の五感でいうと余韻に相当します。細かいところまで余韻を残したアナログ記録が、銀塩フィルムでありオーディオのレコード盤であると言えます。オーディオのアンプでは、現在でも真空管を用いたものが作られています。東京八王子にあるオーディオ・テクネ社という小さな会社は、真空管を使ったオーディオアンプを作っている会社ですが、このアンプは高い評価を(特にイタリアで)得ています。真空管アンプは真っ正直な増幅が可能です。トランジスタは真空管の増幅機能を真似たものですが、NFB(Negative Feed Back = 負帰還)による増幅が基本となっているために全帯域に渡って素直な増幅ができません。トランジスタアンプでは、後処理によって高音部や低音部にイコライザを用いて補正を加えなければなりません。真空管はリニアリティが優れていて、微小な音から大きな音まで素直に増幅します。原音を忠実に再生するのに真空管アンプほど優れるものは他にないのです。こうした理由から一部のオーディオ愛好家や音楽ホールでは、現在でもなお真空管アンプによる音響装置が作られ、そして使われています。アナログを突き詰めた事例だと思います。もっとも、小さい部屋や車の中で聴く音楽であればiPodで十分でしょうし、駄菓子のように音楽を頬張るのであれば高価で運用に大変な真空管アンプを使う必要は全くないでしょう。
- 時計も、デジタル(水晶発振子によるカウント回路内蔵の時計)が主流である中、アナログ(テンプ=振り子とヒゲゼンマイを使った時計)もしっかりと根付いています。特にスイスの高級機には昔ながらのアナログ時計が高い人気を呼んでいます。30万円、50万円、100万円といったアナログ高級時計を宝物として購入するケースが、所得の低い若い世代にまで広がっているように見受けられます。1日に10秒も狂う高級時計と10日に1秒しか狂わない5,000円のデジタル時計(高級アナログ時計の100倍の精度)で、どうして精度の出ない高価な時計が売れるのでしょう。最近では、一生の間に1秒と狂わない電波時計も2万円くらいで購入できます。科学的に理解しがたい五感(人の心)の満足度がこうしたアナログ時計を希求する事例だと思います。日本の大手時計メーカは、1970年代後半に大々的にデジタル時計に切り替えてしまったのですが、未だ根強いアナログ時計の需要があることと、高級アナログ時計を作ることによってスイスに持って行かれてしまった高級ブランドイメージを呼び戻す目的から、再びそうした時計を作り始めました。計測の分野から見ればアナログ時計が復活する機会はありません。(モーター)スポーツの計時システムなどでは、ほとんどのケースでデジタル時計が使われています。ただ、宇宙飛行士は今でもアナログの手巻き式時計(スイスのオメガ社SpeedMasterは、アポロ計画で採用された宇宙飛行士用の時計)を使っているそうです。バッテリを使わず、シンプルで頑丈というのが採用されている理由だそうです。1日に10秒遅れても正確な計時は宇宙船の計時システムが担ってくれるため、非常用として人の側にいてアシストするという考えのようです。
- いずれにせよ、私たちはアナログとデジタルの両者の特性を十分に理解しておく必要があります。
- 以下、回りくどいかもしれませんが、アナログ記録とデジタル記録の違いについて触れておくことにします。
▼ デジタルとは(2006.05.28追記)
- デジタルという概念を復習しておきましょう。
- デジタルとは何でしょうか。
- デジタルと言う言葉が出てきた背景には、デジタルでない世界からデジタルの世界になった、という意識革命を促す意味合いが込められていました。デジタルの対語がアナログです。デジタルを一言で言うと「数値化」です。もっと突き詰めていうと「0」と「1」の二種類しかない記号表現の世界ということができます。(現実の生活では、「0」と「1」の二つだけの数値表記ではとても理解できないので、十進法の数値表記をさしてデジタルと言っています。)この「0」と「1」の数値表現を数学では二進法と言っています。数値化の世界では、今や二進法が全世界を席巻し全ての数値世界を支配しています。なぜならコンピュータに使われている算術手法が二進法であり、コンピュータ内部で行われている処理 が全てこの2進法であるからです。従って、デジタル画像ももとをたどっていくと二進法の数値記述となります。「0」と「1」だけの世界がかくも高い信頼を得て世界を支配するようになったのは興味あるところです。パソコン(いや、広い意味でIC技術を使ったデジタルプロセッサー)のおかげで、デジタルの世界がみるみる広がって行きました。
- ■ 二進法(Binary Notation)
- 二進法についておさらいをします。二進法というのは二つの数字だけの数的表記の世界です。2つの数字しか扱わないのです。十進法は10個の数字をもっていて、9という値に一つ値が加わると桁が上がって10となり、0〜9の九通りの記号で数を表して加減乗除を行っています。小学校で習う算術が、この10進法による加減乗除に他なりません。これに比べ二進法は、「0」と「1」の二つの数しかないために、「1」にもう一つ加えても「2」とする事ができず、桁が繰り上がって「10」となります。二進法では簡単に桁が上がっていきます。数値が2通りしか取れないので当然と言えば当然です。従って、「1001」という4桁の二進法の数値表記は、十進法に直すと一桁の「9」となります。「1111」は15に相当します。二進法では、それぞれの桁での表記が「1」と「0」しかないので、コンピュータのロジックでは、それぞれの桁に電流を流す、流さない、電位を持っている、持っていないというスイッチの「ON」、「OFF」に相当させて情報を処理させることができます。パソコンの記録媒体であるCD(コンパクトディスク)では、ディスクの記録面(ピットpit = 情報の小さい穴)にレーザ光を当てて、ピット面での光の反射の有無で「0」と「1」を表現しています。ハードディスクドライブでは、記録面の磁性体の状態、「N」と「S」の極性によってデータ記録しています。このように、二進法は「ある」と「ない」の二つの表現方法であると言ってもよいと思います。「ある」と「ない」のわかりの良い簡単な算術が、コンピュータの発達で世界を支配するようになりました。
- このようにコンピュータは、電気スイッチ(「ON」と「OFF」)のかたまりでできているといっても過言ではなく、電気を通したり止めたり、あるいはそれを保持して演算を実行し、その結果の数値を2進法として記憶したり表示部に回しています。コンピュータでは二進法で情報(数値)を入力することをビット(bit)を立てると言っています。たとえば、「1001」という数値は4つの桁のビットを立てているわけであり、これをある時間タイミング(クロック)で別の4桁のビットとの間で加減乗除を行っています。この4桁のビットでの演算処理を4ビット処理と言っています。(上図参照。)4ビット(24 = 16)では、16通りの数値表現ができるので、十進法の10通りの数値を4ビットに当てて二進法による処理がなされてきました。3ビットだと8通りにしかならないので、十進法の数値を割り当てることができません。人間が理解しやすい10進数との狭間にあって、2進法は4ビットを一つの単位として扱われるようになりました。その後、アルファベットの文字や記号(+ - & %)などを当てはめる必要ができたので、4ビットの倍の8ビット(256通り)が入力の基本桁数となり、1バイト(byte)と呼ばれるようになりました。さらに、漢字や世界言語を当てはめる必要から2バイト( = 16ビット、65,000通り)処理が主流になっていきました。
数字の10進法表記(上段)と2進法表記(下段)
10進法 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 2進法 0 1 10 11 100 101 110 111 1000 1001
- 2進法処理装置である最初のマイコンは、4ビットから始まりました。1970年代後半のマイコンキットでは、8ビットCPUが開発され、NEC9801シリーズで有名になったパソコンでは16ビット対応になり、現在は32ビットから64ビットの桁数を持つに至っています。64ビットは十進数に直すと200京(2,000,000兆、19桁)の数字に相当します。この膨大な数字を1つのタイミングクロックで演算処理できるようになりました。昔は、一度にこのような桁での計算ができなかったので、精度が要求される計算では、桁を何回かに分けて処理していました。ビットの少ないパソコンでは処理に時間がかかるわけです。64ビットの演算を通常のCPUのクロックである500MHzで行うとすると、十進法の19桁単位の計算を1秒間に5億回繰り返して行うことができます。これらの数値は、我々の日常生活には及びもしない数の世界です。しかしながら、デジタル画像を見たり送ったりする場合にはこの程度の演算が必要になってきます。
- 人は2進法で物事を考えることが苦手で、逆にコンピュータは10進法で計算をすることができません。従って、人がテンキーを使って10進法に従った数値を入力すると、すぐさまこれを2進法に変換してコンピュータ内部の処理に回します。コンピュータ内部で処理された結果を人が判断する際には、2進法で処理されたデータを10進法に直してモニタなどに表示しています。最近では、数値だけの表示が見づらいので、表やグラフに直して表現しています。アナログ表記にしているわけです。
- こうしたデジタルの革命は、トランジスタの発明と発展を抜きにして語ることができません。トランジスタの発明によって、高速演算処理が可能なデジタル回路が発展しました。(トランジスタ以前には真空管でデジタル回路が作られ、電気による計算機ができる前には、イギリスの数学者チャールズ・バベッジ(Charles Babbage:1729-1871)が歯車による計算機を発案しています。)トランジスタの発展につられるようにしてデジタル機器が進歩したのです。トランジスタの発展は、集積回路技術、もっと言うと、シリコン半導体(トランジスタ初期はゲルマニウム半導体が主流でした)を使った集積技術があったからこそなしえました。その発展の究極がCPUの高集積化、ICメモリの高集積化です。ゲルマニウムでは今のような集積回路の発展は不可能でした。シリコンの精製技術、そしてシリコンの酸化膜によるプレーナー技術がなければ今の集積回路は生まれていませんでした。トランジスタの集積化とともにIC(Integrated Circuit)が1960年に発明され、デジタル素子(IC素子、TTLデジタル回路)が米国テキサスインスツルメンツ社から発売されました。TTLデジタルICファミリー素子の発明によりデジタル回路が大いに普及します。ちなみにICトランジスタを使ったコンピュータは、1964年に開発された米国IBM社によるIBM/360が最初です。
- デジタル装置のもっとも身近なものは、デジタル時計です。電卓はマイコンの元祖です。パソコンはデジタルそのものです。現在は、CD 、DVD、オーディオ、カメラまでデジタルの時代になりました。テレビ放送もデジタル化が進んでいます。1990年前半まではテレビ画像を送信するのはアナログでした。画像はとてもたくさんの情報があり、これをデジタルで送信するのは技術的に無理だったのです。NHKが開発したハイビジョンは、開発当時アナログで送信されていました。それでも送信帯域が足りないのでMUSEと呼ばれるアナログ圧縮により画像を送っていました。この方法ではスポーツなどの動きの速い画像は処理が追いつかずに前の画像が持ち越されてダブった画像になりました。現在ではハイビジョンもデジタルになり画像のダブりもなくなっています。デジタル処理の驚くべき発展というほかないでしょう。
- 現在のきらびやかなデジタルの世界は、元をたぐっていくと「0」と「1」の電気情報に行き着きます。
- ■ 標本化(デジタイズ)の基本要素
- デジタル化を行う場合に問題になるのが、元のデータ量をどのくらい細かく細切れにして、「0」と「1」の情報に変換するかということです。たとえば、音声信号(オーディオ)の場合、1秒間にどれだけ細かく音を標本化すれば原音に忠実なデジタル音になるかという問題があります。オーディオCDでは1秒間に44,100サンプリング(44.1KHz)で標本化を行っています。従って、このサンプリング(標本化)ではこれ以上の周波数(高音部)は含まれていないことになります。人の耳は20kHzは聞こえないという前提に立った規格です。また、CDでは、音の深さを16ビットと規定しています。CDに記録されたミュージックの音の強さは1:65,000のダイナミックレンジを持つことになります。それ以上の音圧に関しては原則として再生できないことになります。デシベルでいうとこの16ビットの音圧は96dBに相当し、人間の可聴音圧120dBに少し足りないレンジとなります。オーケストラは、120dB程度まで音が出るそうですので、静かな音から最大音までを同じ条件で収録してCDに納めることは無理となります。
- デジタル画像では、画像を標本化するのに画素(pixel = ピクセル)という考え方を導入しました。CCD カメラの構造は、画像をデジタルにする上で格好の素子でした。時間(T)と空間(X、Y、D)に対する標本化がデジタルの基本概念です。
- ■ 自然の量(アナログ量)→コンピュータ処理(デジタル量)→人間の認識(アナログ量)
- 自然の世界は、音にしてもレンズを通した画像にしても、「0」と「1」の情報でできているわけではありません。量は無限大にあり、量の変化は滑らかです。こうした自然界にある量をアナログ量と言いますが、この量の変化をコンピュータが処理をするとき、もとのアナログ量をデジタル量に変換して処理を行い、その結果を出力する際に再びアナログ量に戻すという工程を経ます。この変換をAD変換(Analog to Digital Transfer)、DA変換(Digital to Analog Transfer)と言っています。音声も電話回線もテレビ送信もコンピュータの高性能化と小型化によってどんどんデジタル化されています。人の認識がアナログを好み、自然界にあるものがすべてアナログ(ただし、量子力学では飛び飛びの値を取る)であるのになぜ、デジタル変換をしなければならないのでしょう。それは、デジタル化した方が便利だからです。なぜ便利なのか? そのことについて述べることにします。
- ■ なぜ「0」と「1」の記録が安定しているのか。 - デジタル記録とアナログ記録
- アナログ情報量とデジタル情報量について述べます。アナログ量というのはデジタル量の対語としてできた言葉です。従ってコンピュータが作る量をデジタル量と言い、それ以前の量(自然界にある連綿と続く数えられない量)をアナログ量と言います。これを画像について言うと、人によるスケッチや絵画、フィルムを使ったカメラ画像、 VHSテープによるビデオ画像などはアナログ画像と言って差し支えないでしょう。アナログ量の特徴は、画像の濃淡を連続的な変化量として記録していることです。したがって、これらをコピーする場合、元画像と完全同一なものを得ることは難しく、保管する間にも画像品質が経年変化してしまいます。スケッチは筆記具の筆圧、濃淡、色などによって記録されるので、人が描く限り一つとして同じものはできません。フィルム画像は、銀塩粒子が光の強さに反応して黒化銀として現像され定着されるものであり、アナログ記録の顕著なものです。そのフィルム像も完全に同じ像を作るのは難しく、使用するフィルムの製造条件、保管、現像条件の厳しい管理をしなければ良質の複製画像を得ることができません。VHSテープによる映像記録も、テープ面に記録された磁気量を磁気ヘッドによって拾い上げて電気信号に変換しています。テープの走行安定性、テープの磁気量保存能力、磁気ヘッドの性能によって再生画像の品質が大きく変わってきます。
- デジタル画像は、こうしたアナログ情報を永遠に固定してしまい、何度コピーしても元の情報を損なうことがないと言う魔法のような能力をもっています。デジタル画像の代表的なものは、デジタルスキャナーで取り込んだ画像データがあり、それにデジタルカメラの画像データ、ビデオカメラからの映像を画像ボードを介してコンピュータに接続して取り込む画像などがあります。端的に言えば、コンピュータに保存されたデータ(文書、音楽、画像)はすべてデジタルデータです。なぜならば、コンピュータは、「0」と「1」しか扱わない(扱えない)世界だからです。
- ハリウッドで作られる映画は、基本的には35mm(もしくは70mm巾の)映画フィルム(アナログ)で撮影が行われますが、現像を終えた後の画像処理、効果処理などはすべてデジタル処理がなされています。こうしてできあがった作品は全編デジタルで保存され(A/D変換)、配給時にレーザプリンタで再びフィルムに焼き付けコピーされて(D/A変換)、映写機で上映されています。SFXと呼ばれるジャンルの映画(ロード・オブ・ザ・リング、スターウォーズ、ターミネータ、ジュラシックパーク、キングコング)などは言うに及ばず、米国ピクサー社が手がけるアニメ(ファインディング・ニモ、Mr.インクレディブル、カーズ)などはデジタル映画の典型です。一昔前(1994年)に作られた映画「フォレスト・ガンプ」(トム・ハンクス主演、ロバート・ゼメキス監督、アカデミー賞6部門受賞)は、自然なドラマの流れの中に、おやっ?と思う映像シーンが多数見受けられました(ニクソン大統領に会うシーン、ピンポンのシーン、両足を切断された軍曹のシーンなど)。これらはすべてデジタルで作られたものです。「アポロ13」という映画にも本当か?と思ってしまうようなデジタル画像で作られたロケットの打ち上げシーンや宇宙活動のシーンが多数ちりばめられていました。このように、デジタル映画はつぎつぎと新しい世界を切り開いて行きました。
- デジタル画像は、コピーしてもなぜ情報に変化がない(劣化しない)のかというと、デジタル画像の情報が「0」と「1」の二つしか取り得ないからです。さらに、その「0」と「1」の情報を電気的に記録する場合、「0」の情報が0V〜0.8Vまでの電圧、「1」の情報が2.7V〜5Vという具合になっていて、情報を記録する際に少々電圧に変動があってもしっかりと「0」と「1」の情報を伝えることができるためです。アナログ情報の場合、例えばビデオ信号は、 0.3V〜1.0V間の電圧が明るさ情報となっていて、0.7Vの間に黒から白までの情報を入れなければなりません。0.1Vの電気的なノイズが入っても画像が大幅に変わってしまいます。方やデジタル記録では、0.1V程度の変動でも情報に影響を与えることは全くないのです。デジタル保存の真骨頂がここにあります。
- ■ なぜデジタルなのか?
- デジタル画像が発達した理由の一番大きなものは、何度も言いますがコンピュータの発達です。もっと広く言うとデジタル電子回路の発達です。逆に言えば、コンピュータの発達無しにはデジタル画像の発展はあり得ませんでした。一昔前のコンピュータは、今に比べて格段に能力が劣り、画像を記録するにも再生するにも大変な時間がかかっていました。したがって、米国のNASA(航空宇宙局)とか政府の大きな研究所のような高性能のコンピュータを所有する機関以外ではデジタル画像を扱うことは事実上不可能でした。
- 12年前(1994年当時)のパソコンを考えて見ましょう、当時は、インターネットが産声を上げた時期で、画像が配信できるWWWネットワークソフト = Netscape Navigatorの前身であるモザイク・コミュニケーションズ社製の「モジラ・バージョン0.9」が発売された時期です。HTML言語(HyperText Marking up Language)とWWW(World Wide Web)が1989年にティム・バーナーズ・リーによって開発され、その言語で記述された文章はどんなパソコンでも回線を通じて全世界、津々浦々、いつでも即座に読み出せるというものでした。当時の通信手段は、専用の回線のある施設は別として、電話回線によるRS232Cの転送速度の9600bbs(9,600ビット/秒)が主流でした。パソコンには、現在主流になっているUSB2.0(Universal Serial Bus)もIEEE1394(The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc. = 米国電気・電子標準化団体が採用した1394番目の規格)も、ましてイーサネットなどという高速通信インターフェースなどもついていません。Comポート(RS232C)とプリンタポート(セントロニクス)、もしくはSCSI(スカジー)と呼ばれるインターフェースが主流だったのです。その中で、長距離転送ができるのはシリアル転送であるRS232Cでした。この通信規格は、米国機電子工業会(EIA = Electronic Industries Association、1997年よりElectronic Industries Alliance)が1969年に決めたもので、テレタイプに使われていました。この規格はシンプルな規格で、電話回線を使って全世界と通信できたので一躍脚光を浴びました。CPUは、1993年に開発されたPentium(66MHz)が使われ、DRAM16MB、HDD400MBのパソコンが一般的でした。
- 当時のパソコンは、640x480画素、RGB各8ビットの画像表示が主流となっていました。今となってはびっくりすることに、この表示は、画像表示というより文字表示でした。当時、文字表示は文字のコード(2バイト)を画面表示ジェネレータに送って、ジェネレータ部で文字を発生させて1文字24ビットx24ビットで画面に表示させていました。従って大きさも固定されていたので、文字の大きさは半角、倍角、4倍角程度しかサポートできていませんでした。VGAモニタでレポートを書くとき、文字は20文字x26文字と固定されていたので400字詰め原稿用紙程度でした。当時、滑らかな文字と画像をふんだんに使って表示していたのはマッキントッシュしかありませんでした。滑らかな文字を自由な大きさで描くことができるようになったのは、Windows98からです。それでも滑らかな文字(ポストスクリプト)を表示するにはかなり高性能のパソコンが必要でした。この事実からわかるように、10年ほど前のパソコンは、640x480画素のデジタル画像を1秒間に60回程度リフレッシュして描画することは、画像表示ボードの性能、CPUの性能、そしてメモリ容量の点からも恐ろしく困難であったのです。画像の表示はきわめてノロマでした。ですから、当時のパソコンは決められた画素数によるドット文字による通信が中心で、見た目にかっこいいポストスクリプト対応の文字や画像表現によるホームページは作ることができませんでした。ポストスクリプトというのは、米国Adobe社が長年開発してきた言語表示の言語で、文字を数式で表す言葉でした。ビットではなく数式です。文字を数式で定義していたのでどんな大きな文字でもスケールを多くすれば滑らかな表示をすることが可能だったのです。しかし、1990年当時のパソコンではポストスクリプトを処理する能力が貧弱で1画面を作り上げるのに恐ろしい時間が必要だったのです。
- 当時のRS232Cによるデータ転送では、1秒間に最大9600ビットのデータしか送ることができませんでした。通常、データを送る場合にはエラー処理などがあって、設計速度そのままでデータを転送できることはほとんどありません。イーサネット通信にしても規格速度の1/10〜1/20程度がせいぜいです。そうしてみると、RS232C通信では1秒間にせいぜい960ビット(120バイト)の情報しか送れないことになります。
- VGAモードの画像表示は、画面をすべてビットマップで処理しようとすると、640画素x480画素x3色x8ビット = 7,372,800ビットとなり、RS232Cの通信回線でこの画像を送るとなると2時間程度かかってしまいます。画像を圧縮して送る手法は、1984年にコンピュサーブ(CompuServe)社がGIFという画像ファイルを完成していて、それを追いかけるようにJPEGファイルができあがります。1994年当時は、JPEG画像もパソコン上で使われるようになっていました。(画像の圧縮は、FAXを送る目的で開発されたようです。)このJPEG画像をもってしても1枚のデジタルカラー画像を送るのに10分程度かかってしまいます。方やテレビ(アナログ画像)では、同等の画像を1秒間に30枚で送るシステムをとっくの昔に完成させていました。当時、アナログ画像はデジタル画像に比べて2〜20万倍も高速に送ることができたのです。実際問題、2000年までは、ビデオ信号による画像記録の方が遙かに速くて便利であったので、CCDカメラで撮影する画像もVHSテープや8mmビデオテープを使ってアナログ記録を行っていました。
- VHSテープが衰退し、代わってDVDやHDDによる大容量デジタル記録が普及してきたのは、記録媒体が安くなり、MPEG圧縮技術が進み、CPUの性能が向上した2004年あたりからです。その間、インターネットの高速化も図られ、デジタル化が一般家庭にまで及びました。
- こうしてデータ転送の問題が解決されるようになると、俄然デジタル画像の優位性がクローズアップされることになります。デジタル画像の恩恵は以下で述べます。ただ注意しなければならないことは、デジタルはすべてにおいて万能ではないことです。デジタル化の最も大事なことはアナログデータを必要にして十分なデジタルデータに数値化することです。粗いサンプリングでデジタル化されたデータは時として全く役に立たないことがあります。
- ■デジタル記録 - 処理の基本的な考え方
- 自然界に存在するアナログ量をデジタル化する考え方を述べます。デジタル化の一番の根本は、量子化です。これは、アナログ量をどれだけ細分化して「0」と「1」に分けるかという考え方です。量子化はサンプリング(標本化)とも言われています。画像の標本化には以下のパラメータがあります。
- 1. 空間を量子化する度合い - 画素(512x512画素、720x480画素、1280x1024画素、など)に分ける。
- 2. 濃度を量子化する度合い - 8ビット(256階調)、10ビット(1024階調)、16ビット(65,000階調)濃度などに分別する。
- 3. 時間を量子化する度合い - サンプリング周波数(撮影速度、コマ/秒)を使って時間を細切れにする。
- 4. 情報を多重化する度合い - 複数データを統合処理する。
- ■ 連続量を区分化し数値化する
- 連続量を区分化する手法は、数学の微分・積分の考え方を取り入れています。ただし取り入れたのは微分・積分手法の一歩手前の手法である区分求積法でした。区分求積法の中で、特に有限の量子化手法を採用して、連続量を細切れにしてモザイク情報にしました。無限数を範疇に入れてきれいな連続関数とする高校の数学で習う積分法までにはコンピュータに求めませんでした。ゴツゴツした量子化でも「良し」と見切るやり方にすごみがあります。つまり、このことはデジタル画像は慎重にサンプリングをしなければ、必要にして且つ十分な情報を提供するものにはならないことを示唆しています。
- こうして出来上がったデジタル画像(見切りが悪いとゴツゴツ画像になる)は、どれだけコピーしてもアナログ記録(テープレコーダ、銀塩写真)のように劣化することがありません。もっとも、画像フォーマットの中のいくつかは圧縮によるデジタル保存時に元のデジタル画像よりも画質が劣化してしまいます。
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- 円をデジタル化する際の注意点。
- 画素を荒く(量子化を間違える)と十分な情報を記録できない。
- 左の図は360dpi(dot per inch)で画像にしたもので、右は50dpiで行ったもの。
- ■ デジタルの長所、短所
- これまでに長々とデジタルについて述べてきましたが、デジタルの考えは極めて見切りの良い考え方であり、その処理は単調な作業であると言えます。コンピュータでなければとても行えない作業です。適切な量子化のもとでデジタル化されたデータは品質の劣化がなく、何度コピーしても品質は同じになります。
- 最後にデジタルの長所、短所をまとめておきます。
- 【長所】
- ・コピーによる品質の劣化無し。
- ・データ通信に便利である。
- ・編集、加工が容易である。
- ・互換フォーマットによるデータの共通化が可能。
- 【短所】
- ・量子化(デジタイズ)によっては品質が劣化する。
- ・データ量が多い。
- レンズを通してできた像を記録する時に、フィルムを使う場合と固体撮像素子(CCD、CMOS)では特性が変わります。
- 両者の大きな違いは、フィルムがアナログ記録であるのに対し、固体撮像素子はデジタル記録であることです。個体撮像素子では、撮像面に画素と呼ばれる小さな光を蓄える部屋が作られていて、そこで画像が区切られます。部屋(画素)で情報が仕切られるということは、情報が細切れになることであり、デジタルサンプリング(標本化、量子化)されることを意味します。固体撮像素子では、画素数以上の情報を得ることは基本的には不可能です。(ただし、被写体の形状がわかっている場合、例えば円形のものを写す場合、複数の画素から円形の形状や中心位置をサブピクセル単位まで計算によって求めることは可能です。)
- 2/3インチCCD(8.8mm x 6.6mm)で、800x600画素を持つ撮像素子自体の解像力は、
- 800画素/8.8mm x 1/2 (本/画素) x 1/2 (ナイキスト限界) = 22.7本/mm
- となります。
- 反面、銀塩フィルムのようなアナログ記録は画素という概念がなく、銀塩粒子の大きさが解像力の決定要因となります。また、アナログ画像は、デジタル画像のように量子化によってある解像力以上になると情報が突然に消えることはありません。アナログ記録では、細かい情報に対して突然に無くなることはなく徐々に無くなっていき、最後までかすかに情報を持っています。銀塩フィルム自体は、白黒フィルムでおよそ200本/mm程度の解像度があり、カラーフィルムで100本/mm程度の情報を持っています。アナログ記録媒体は、一般のCCD 撮像素子の100倍以上の情報を持ちえるのです。
- 最近の光学書やCCDカメラの関連書籍を読んでいると、解像力の項目にナイキスト線図という言葉が出てきます。これは、古典的な光学分野では使われなかった言葉です。デジタルの世界で登場してきた言葉です。
- ナイキスト線図とはどのようなものなのでしょうか。それに、ナイキストというのはどんな人物なのでしょうか。
- ナイキスト(ハリー・ナイキスト、Harry Nyquist、1889.2.7 - 1976.4.4)は、スウェーデンのNilsby生まれの物理学者で、自動制御理論の研究で知られています。彼は、18才の時に米国に渡って帰化を果たし、ノースダコタ大学で電気工学を学び、エール大学(イェール大学、Yale University)で博士号を取得しました。大学卒業後、28才の年の1917年から1934年までの17年間、AT&T研究所(American Telephone and Telegraph Compnay)に勤め、電信画像と音声通信の研究に従事しています。その後、1934年から1954年までベル電話機研究所に移り通信技術の研究に従事しました。当時のベル研究所からは、きら星のごとく有名な研究者達が輩出されています。トランジスタを作ったショックレー(1947年)や、CCD素子を考案したW.S.ボイルとG.Eスミス(1970年)、レーザの研究で知られるタウンズ(Charles H. Townes:1915〜)、コンピュータの世界を席巻しているUNIXを構築したケン・トンプソンとデニス・リッチ(1968年)もベル電話機研究所の研究員でした。私のライフワークである高速度カメラも、このベル電話機研究所で産声を上げました。この時代、第二次世界大戦から東西冷戦時代にかけてのアメリカは、国を挙げて国防に取り組み、トランジスタの開発もレーザの開発もインターネット(通信分野)も活発な研究が進んで、ベル電話機研究所は特に優れた研究成果を出していきました。
- 1927年、AT&T研究所で通信技術の研究をしていたナイキストは、アナログ信号をデジタルサンプリングする際に、これを再現するのに取り出したいアナログ信号周波数の2倍が必要であることを突き止めて発表しました。これが後に、ナイキスト - シャノンのサンプリング定理(標本化定理 = Sampling Theorem)と呼ばれるようになり、デジタル信号処理をする上で非常に大切なものとなりました。シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916.04 - 2001.02、米国ミシガン州生まれ)は、情報理論に関する有名な数学者でコンピュータ技術の基礎を築き上げた人です。彼の数学的メスによってナイキストの発見の数学的裏付けがなされました。標本化定理とは、要するに、音声信号とか画像信号、温度データなどのアナログ信号をデジタル信号として取り込む際に、ほしいアナログ情報信号の2倍以上のサンプリングを持ったデジタル信号処理が必要である、という理論です。温度制御をおこなう温度管理で10Hzの確からしい温度データが欲しいとき、これをデジタルサンプリングする場合、最低0.05秒に一回(20Hz)でデータを取らないと正確な温度計測ができないことを意味します。また、例えば、100Hzで振動している物体を計測するには最低200Hzでサンプリングできる測定系が必要であることを示しています。2倍のサンプリングがあればなんとかデータが読み取れる、というのが標本化定理です。
- ここで一つの試みが行われます。CCDに代表されるデジタル撮像素子は、撮像面が碁盤の目のように区切られていて、画素という単位でレンズによるアナログ像が標本化されます。固体撮像素子では、画素が画像情報の基本単位となってこれ以上の細かい情報は基本的には読み出すことができません。画素をナイキストのサンプリング定理に当てはめますと、像の情報は、カメラの画素の半分しか記録できないことになります。1,000mm x 1,000mmの対象物を、1,000画素 x 1,000画素でとらえると、情報は1mm四方ではなく、2mm四方(500 x 500サンプリング)の記録となります。下図に示したデジタルカメラで写した解像力チャートの画像は、上の説明をよく表しています。白と黒の画像は4ピクセル(2ピクセルx2)以上ないと十分にその情報を伝えることができません。2ピクセルがデジタル画像の最小検出単位になることをよく物語っています。
- 方やレンズは、CCDカメラのように映像を升目に分けることはなく、アナログの光学要素と言えます。光ファイバーのような繊維で映像を情報伝達するものも、標本化するとして差し支えないでしょう。
- ■ 開口率(Fill Factor)と解像力
- ここでちょっとした疑問がわき上がります。レンズとは直接関係ありませんが、デジタルサンプリングした時の疑問です。CCDカメラに使われている固体撮像素子は1画素分がすべて受光部ではなく、一部分しか受光部として使っていません。受光部が一画素の面積に占める割合を開口率(Fill Factor)と呼びます。電子シャッタ機能があるインターライン型CCDカメラ(現在のほとんどのCCDがこのタイプ)は、素子部に転送回路を配線しなければならない関係上、開口率は20%程度です。古典的なCCDカメラであるフレームトランスファ型では、画像の転送を画素上で行うので開口率が100%になっています。
- 一般のCCD素子の場合、受光部が点在する画素でアナログ情報のどこまでを忠実に再現できるのでしょうか。結論から言いますと、周波数的には開口率が低いカメラの方が細かい部位を再現できる反面、正しい位置情報は欠落してしまいます。
この図は、固体撮像素子そのものの画像ではありませんが、およそこのようなモアレ画像となります。オリジナル画像(左図上)の中心部の細かい部分は、高い周波数成分を持っているため、撮像素子の画素と干渉を起し、画像情報が間引きされて低い周波数成分として現れてしまいます。
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もし、固体撮像素子にモアレを防ぐためにローパスフィルタが挿入されているとすると、12umx12umサイズの素子自体の解像力はローパスフィルタによって20.8本/mm換算になるので、レンズは倍の41.6本/mmの性能を持ったもので十分であると考えます。ただし、デジタル素子の解像力は、20.8本/mm以上の画像は全く受け付けないので、強度レスポンスは、この値を境に100%近くから0%まで急激に減少します。方やアナログ素子(レンズ)は、緩やかにレスポンスが変化します。この観点から見ると、アナログ素子(レンズ)の解像力は、デジタル素子の持つ(ローパスフィルタを考慮した)解像力の地点で80%以上の強度レスポンスを持っていることが望まれます。アナログ素子の場合、強度レスポンスが10%程度のわずかに解像度を保った状態でも解像力があると見なすことがあるので、両者の解像度の換算には十分な考慮が必要です。
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- tanω’/tanω= (M*L/2*b)/(L/2*250)=M*250/b ・・・(Lens-41)
- M=b/aより、
- tanω’/tanω=250/a ・・・(Lens-42)
いろんなことを述べましたが、一般的に虫メガネの倍率は、M = 250/f としている文献を多く見かけます。遠視の人なら無限遠近くに像を結ばせても問題なく虚像を見ることができますからこの式で問題ないのでしょう。私のように極度の近視と遠視が混じっていると25cmぐらいが一番楽に像が見えるので上に示した倍率が正しいようです。ルーペや顕微鏡の接眼レンズの倍率(x5とかx10)も簡単な公式(無限遠での虚像による算出、 M = 250/f)で求められているようです。
2000年より、記録媒体をフィルムから個体撮像素子に代えたデジタルカメラが一般的になって来ました。プロフェッショナル用デジタルカメラの始まりは、1991年の米国Kodak社が開発したDCS100(Digital Camera System)が最初だと記憶しています(図左参照)。当時、Kodak社は他社に先駆けて独自の大型CCD素子を作っていたので、その素子(1.3メガピクセル)を既存のNikon一眼レフカメラ(Nikon F-3)に組み込んで販売しました。CCD素子は、1024画素x1280画素(素子サイズ16.4mmx20.5mm)で、電子シャッタ機能を持たないものだったので、カメラのフォーカルプレーンシャッタで露出を行っていました。その時に使われていた撮像素子サイズは、ライカサイズより小さかったために、焦点距離f28mmのレンズが標準レンズとなっていました。イメージサイズ(撮像面の大きさ)で標準レンズの焦点距離が変わる理由を以下の図に示しました。f28mmの焦点距離を持つレンズは、ライカサイズでは広角レンズの部類に入ります。ライカサイズの広角レンズには明るいレンズはなく口径比F2.8程度が最も明るいもので、標準レンズf50mmF1.4に比べて4倍も暗いものでした。また、このカメラは、SCSIのインターフェースで、ショルダーバックのパワーサプライ部とデータ部(左図の電源及びコンソール)に接続されていて、撮影した画像データを保存することができ、さらに保存した画像データをパソコンに送ることができました。