高速度カメラの歴史背景とトピック  (1998.01開始) (2009.12.05)(2019.08.15)(2023.07.27追記)

 
 
【目次】
高速度カメラの事始め
原始高速度写真時代(1827 - 1930)
 
高速度カメラ開発の歴史
間欠掻き落し式フィルムカメラ
ロ−タリ−プリズム式フィルムカメラ
ロ−タリミラ−式フィルムカメラ
ハイスピ−ドビデオ
 
日本でのハイスピードビデオの開発
米国でのハイスピードビデオシステム開発
ハイスピードビデオの発展
記録周波数とのたたかい
撮像素子の開発
撮像素子に求められる性能
カラー高速度ビデオカメラの開発
記録媒体及び記録時間の折り合い
毎秒2000万コマを達成するカメラ
〜イメ−ジコンバ−タ式カメラ
高速度カメラを使った流れの可視化撮影応用例
《その1 エンジン燃焼》
高速度カメラを使った流れの可視化撮影応用例
《その2 アジ化銀による水中衝撃波》
高速度カメラを使った高速飛翔体撮影応用例
 
 

 
 
 
高速度カメラの事始め
 
高速度カメラ(フィルムカメラ、ビデオカメラ) (2008.11.26)(2018.11.22追記)
 
 2008年、テレビをひねると、至る所で500コマ/秒〜1,000コマ/秒の高速度カメラ映像が飛び込んで来ます。オリンピックでも 、プロ野球中継でもスローモーション映像が頻繁に放映されています。市民権を得た高速度撮影画像も、1990年までは特殊技能を持ったフィルムカメラマンが限られた分野で腕を振るっているにすぎませんでした。
しかし、近年では、電子技術の発展により、従来より遥かに簡単に高速度撮影が可能になりました。
テレビドラマでもハイビジョンクラスで300コマ/秒のカメラが普通に使われ始め、デジタルシネマでの映画カメラもデジタルカメラとなって100コマ/秒程度の高速度撮影を可能としています。(2018.12.10追記)。
こうした高速度カメラの歴史をひも解いてみましょう。
 
 目にも止まらぬマジシャンのトランプ手さばきや、車の衝突する瞬間にドライバーがハンドルに叩き付けられる様子、そして、電気スイッチングリレーがコイルによってバウンドする様子等、人間の眼にはとても速くてわからない高速現象を高速度で画像に取り込んで、ゆっくりと再生するスローモーション撮影機械が高速度カメラ(ハイスピードカメラ)です。
スローモーションを得るためのハイスピードカメラ、と言うのは何となく変な語呂ですが、こうしたカメラをハイスピードカメラ(High Speed Camera、高速度カメラ)とかスローモーションカメラ(Slow Motion Camera)と呼んでいます。
 一般のテレビカメラやビデオカメラは、一秒間に30枚(2000年までのNTSC放送局用信号では60フィールド/30フレーム)の画像を取り込んでいます。
また、劇場で上映する35mm(70mm)フィルムを使った映画は、一秒間に24枚の映像を撮影し映写しています。
高速度カメラは、一秒間に100枚以上の間隔で撮影します。これを、1秒間に30枚〜1枚程度の時間間隔で再生を行い、撮影された現象をゆっくりとスローモーションで再現させます。
通常のカメラで記録した映像をどんなにゆっくり再生しても、撮影間隔は、1/30秒(33.3ミリ秒)、もしくは1/24秒(41.7ミリ秒)であるため、こうした撮影間隔よりも短い時間で終ってしまう現象はゆっくりと見ることができません。
このため、短時間で終わる現象を高速度で記録するための高速度カメラが必要になります。
高速度カメラで得られた映像を再生すると、速い動きがゆっくり映し出され、スローモーション映像を得る事ができます。
昨今のYouTubeではこうしたスローモーション画像がたくさんアップされて簡単に見ることができます。(2019.08.15追記)
 
 下の図が、高速度カメラの応用範囲図です。
縦軸に必要撮影速度をとり、横軸に被写体の移動速度をとったチャートです。斜めの線は撮影倍率です。撮影倍率Mは、[撮像面での像の大きさ/被写体の大きさ]を表します。
被写体の大きさがそのまま撮像面に投影される場合、撮影倍率は、M=1となります。(ビデオモニタに映される場合には、さらにモニタ倍率が掛け合わされますが、ここでは撮影のみの倍率を表します。)
 図の読み方を説明します。例えば、図中に示された『●カークラッシュ(自動車の安全実験)』は、時速40Km/s(秒速11m/s)でクルマをコンクリート壁(バリア)に衝突させる実験を想定しています。
この実験では、2m巾程度のエリアを撮影しますから、撮影倍率は M = 1/200〜1/400となります。
この二つの条件によって、二つの交わった交点から水平線を引いて左軸にある縦軸の必要撮影速度を求めると、1,000コマ/秒の値が求まります。この実験では、1,000コマ/秒の撮影速度が必要になることがわかります。
このようにして図を見ると、高速度撮影を必要とする応用分野には、下図に示したおおよその分布ができあがります。
下のチャートの右上にあるデトネーション研究(Detonation、爆ごう)のような対象物の速度が速い(10km/s)場合や、左上のエリアに示した微少対象物の高倍率撮影(撮影倍率100倍以上)では撮影速度も高くなる分野です。
また、右下のように、速度は速い(数km/s)けれど、被写体が大きい撮影倍率の低い(M = 1/100,000)大型飛翔体エリアでは、低い撮影速度が使われます。
 
 
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原始高速度写真時代(1827-1930)
 
 ここで、話を少し遡(さかのぼ)り、高速度写真の黎明に立ち戻ってみたいと思います。
このコーナーは、SPIE(The Society of Photo-Optical Insttrumentation Engineers)のメンバーで、長年、高速度写真関連に貢献されたLincoln L. Endelmann氏の文献を参考にしました(彼の形式張ったスペルはEndelmannで、一般的にはEndelmanでも良いようです)。
出展は、
    An Early History of High Speed Photography 1827-1930
    written by Lincoln Endelman in 1988,
    SPIE's 32nd Annual International Technical Symposium
によりました。
氏は、1989年時点、Endelman Enterprises社(米国カルフォルニア州San Jose)を経営し、スペースシャトルで大気圏外に持ち上げた口径2.4mの反射鏡を持つハッブル天体望遠鏡(Hubble Space Telescope)の画像関係の仕事に携わっていらっしゃいました。
1990年より2年ごとに開かれる高速度写真学会(International Congress on High Speed Photography & Photonics)にも参加され、ハッブル天体望遠鏡の立ち上げの苦労話や送られてきた画像の紹介を熱心にされていました。
2000年9月に仙台で開かれた24回目の会議には、参加されていませんでした。
 
ちなみに、米国での高速度カメラのリーダー的な存在は以下の方々です。
これらの方々は、米国のSPIEと呼ばれる応用物理学会の高速度カメラ部門の運営委員をされている方々です。
これは、2001年時点のものです。
     ● Andrew Davidhazy, Rochester Institute of Technology
     ● Lincoln L. Endelman, Endelman Enterprises
     ● Frank M. Kosel, DRS Hadland, Inc.
     ● Steven A. Muelder, Lawrence Livermore National Lab
     ● Donald R. Snyder, Air Force Research Lab
     ● James S. Walton, 4D Video

 

【英国人 - Fox Talbot】
 世界で最初に高速度写真撮影を行ったのは、英国の写真発明家 William Henry Fox Talbot(1800 - 1877)でした。
1851年のことです。
大気中の火花放電を使って瞬間写真撮影に成功しました。
彼は、ライデン瓶に蓄えた電荷を空中で放電させて1/2,000秒(500マイクロ秒)の発光を作り、回転板に貼り付けられたLondon Times紙の文字を静止させる撮影に見事成功しました。
その時使用した感光材がASA4相当(相当な低感度)で、ガラス板に卵白と水に硝酸銀を混ぜて塗布した「amphyitypes」(amphitype、ambrotype)と呼ばれたものでした。
カメラレンズは、F/32の口径比(現在のレンズの1/500の明るさ)と言われています。
今から比べれば5,000倍も暗い撮影機材で、見事に高速瞬間撮影を行った最初の出来事でした。
 
Talbotの開発した感光材:
この感光材は、ネガ・ポジ写真を初めて可能にしたものです。
 写真感光材は、フランスのダゲール(L.J.M. Daguerre)が最初です。ダゲールがダゲレオタイプの感光材を開発した1839年から2年を経た1841年に、Talbotがカロタイプ(Calotype、タルボタイプTalbotypeともいう)を発表しました。
これは、紙に硝酸銀の溶液を塗布乾燥し、次にヨウ化カリウムの水溶液に入れてヨウ化銀を生成させて乾燥し、さらに硝酸銀、酢酸、没食子酸混合水溶液に浮かばせてのち、乾燥したものです。
 撮影後、硝酸銀、酢酸、没食子酸の混合液で現像し、臭化カリウム液で定着します。この現像工程でネガができます。
これをもう一度カロタイプ紙にプリントしてポジを作りました。(『感光材料の実際知識』、笹井明、東洋経済新報社、1980年)
 
タゲールの開発した感光材:
タゲール(Louis Jacques Mande Daguerre:1787 - 1851)は、世界で最初に銀を使った感光材を開発した人として有名です。
彼は、フランス人です。
 タゲールの感光材は、1839年、8月19日にパリの科学アカデミーで発表されました。ダゲレオ(Daguerreo)タイプと呼ばれた銀板感光材料は、銀板をよく磨いて、ヨード(沃度)蒸気を作用させて表面にヨウ(沃)化銀を生成したものです。
これをカメラ・オブスキュラに入れて撮影し、水銀蒸気で現像して、食塩(のちにハイポ)で定着するものでした。
発表後にこの手法が各地で利用されて、これが写真術のはじまりとされています。(『感光材料の実際知識』、笹井明、東洋経済新報社、1980年)
 この銀塩感光材は感度が低く、晴天の屋外での撮影でも30分の露光が必要だったと言われています。
この時に使われたレンズも明るいものではなく、f = 15インチ(381mm)F/14だったそうで、翌年にはペッツバールが、明るくて画質の良いレンズ(F/3.4)を完成させたので、レンズだけで17倍明るくなり、それだけで撮影時間は1分45秒に短縮されました。
   
【火花写真】
 Fox Talbotの火花発光による写真撮影以降、1856年には、Foucault(フーコー)、1864年にはToepler(August Toepler:1836 - 1912)、Woodらによって火花写真の研究が続けられ、シュリーレン手法(Schlieren)による瞬間撮影が確立されて、衝撃波研究透明体の内部構造の瞬間現象解明の道が拓けました。
 1861年には、ロンドン近郊のWoolwich Arsenalで、飛翔体の弾道研究がシャドウグラフ手法( = Shadowgraph、シュリーレン手法と同じ撮影法。違いはナイフエッジを用いない影絵写真)を使って行われました。
弾丸はカメラと100us発光する光源の間をすり抜けて飛翔し、その陰影がしっかりとカメラに収められました。
 この業績の後、オーストリアのErnst Mach(マッハ)と英国のCharles Boys卿によって、完成度の高い火花写真撮影手法が完成しました。
 
【Pollock】
 1867年には、Alfred A. Pollockによって50枚の連続写真ができる高速度カメラが提案されました。
これは提案だけに終わりましたが、高感度感光材の開発を条件に感光材を円形形状とし、これを回転させて次々に連続写真を撮ろうというものでした。
このカメラが開発されれば、人の歩行や犬のしっぽふり、馬のギャロップ、その他色々な動物の動きを連続してカメラに収められる、というものでした。
 
【英国人 John F. W. Hershel】
 1869年5月11日のLondon Photographic Newsには、Hershel卿が以下のような記事を寄せています。
「1/10秒もの短い露出ができる連続写真撮影可能なカメラが開発され、運動解析ができるようになるだろう。
またカラーフィルムも近い将来開発されるだろう」
 
PollockもHershelもカメラを開発したわけではありませんでしたが、
当代の一流科学者がどれだけ高速度カメラの出現を望んでいたかを知るエピソードです。
 
【カルフォルニア州元知事 Stanford】 (2001.09.22記)(2009.05.31追記)
 1872年、米国西部カルフォルニアの元州知事Stanfordは、馬好きの仲間内で歓談する中で、馬の速足(galloping)時に、はたして4つの脚が地面から同時に離れることがあるか、という議論になり、それが賭にまで発展しました。
当時の考え方は、馬の4本の脚はいかなる時も1本は地面に着いているというものでした。
当代の画家が描いた馬の疾走する絵は、全て4本のいずれかの脚が地に着いてる絵を描いていたのです。
Stanfordは、その考えに異論を唱え仲間内で大いなる議論にまでなりました。
それで彼は、この賭に勝つため写真家を雇って、四つ足が地面から離れる決定的証拠写真を撮ることに決めました。
これが、写真計測の始まりともいうべき歴史的な出来事となりました。
 
Leland Stanford氏のこと:
スタンフォード氏は、州知事とか連邦上院議員、西部開拓の大陸鉄道の鉄道王という肩書きよりも、スタンフォード大学の設立者と言った方が通りが良いかも知れません。
スタンフォード大学は、昨今のコンピュータの発展に多くの人材を育成し輩出してきました。
ワークステーションで有名なSUNという会社もスタンフォード大学で産声を上げました。
スタンフォード大学の正式名称は、Leland Stanford Junior University と言います。
カルフォルニア州パロ・アルトにあり、ここはゼロックスの研究所やアップル社などもあって、パーソナルコンピュータ文化発祥の地とも言えるところです。
スタンフォード大学は世界的に有名で、とても大きな大学であるのに正式名にJuniorという小さな名前がついているのは、彼の一人息子の名前をそのまま大学の名前にしたからです。
彼の息子が、15才の時に夭逝(ようせい)し、それを悼んで1885年、「カルフォルニアの子はみな我が子とならん」と願って創設されたのだそうです。
そのスタンフォード夫妻の一粒種の息子、Leland Stanford Juniorですが、1879年5月に以下に述べるマイブリッジという科学写真家によって、馬上の勇姿が収められています。
9才のスタンフォード少年が、ポニーに跨ってCantering(ゆっくりの駆け足)をしている様子を湿式コロジオン感光板で写真に収めたのです。
 
【英国人 Eadweard Muybridge】← 綴りに注意。彼は出世とともにスペルを変えた。
 元州知事Stanfordの要請を受けて、馬の疾駆する写真撮影を手がけたのが写真家 Eadweard Muybridge(1830-1904、英国人)でした。
マイブリッジは、当初、通常のカメラを用いて撮影を試みましたが、賭に終止符を打つような決定的証拠写真を撮ることができませんでした。
彼は、つぎに複数のカメラを用いて次々にシャッタを切る方式を考えました。
 
■ マルチカメラによる連続写真
マイブリッジの撮影した連続写真を動画にしたもの。マイブリッジは、この写真撮影の成功で当代一の科学写真家として名を馳せていく。
(Wikimedia Commonsより転載)
 各カメラには、馬の疾走に合わせてシャッタを連続的に切るために、糸をシャッタに結わえて馬の走行する馬場に渡し、速足で疾駆する馬が糸を切ってシャッタを切る工夫をして、連続的な写真を撮影する手法を考えました。
また、明瞭な写真を撮るために白い馬を用意し、背景には黒い板を覆いました。
 1872年春、マイブリッジは、サクラメントのユニオンパーク競馬場(Union Park Race Track)にてオクシデント(Occident)と呼ばれる馬を使って最初の撮影に入りました。
 
写真計測用のカメラは12台のScovilleカメラで、レンズはロンドンのDallmeyer社製ステレオレンズが使われました。
心臓部のシャッタ駆動機構は、John Isaacsが考案しました。これは、モールス信号の電鍵と同じような機構で、糸を切るとトリガが働いて電磁ソレノイドによってシャッタが切れるようになっていました。
シャッタは、カメラレンズの前に取り付けられ、キャップのような働きをさせました。
馬が糸を切るとバッテリ駆動による電磁ソレノイドが働いてレバーを押し下げ、インドゴムで作られた2枚のシャッタ羽根が開閉してシャッタが切られました。
感光材料は、20インチx24インチ(50.8cmx61cm)サイズのステレオ湿式ガラス板感光材(コロジオン湿板)が使われました。
当時、こうした感光材は写真家が自ら調合して作っていました。
ジョージ・イーストマン(コダック社設立)がロール・フィルムを作ったのが1888年ですから、それよりも16年も前のことです。
マイブリッジは、動きの速い馬の写真をとるために、短い露光時間でも適正露光が行えてコントラストの良い写真が得られるコロジオン湿版を配合したのです。
 
 撮影当日、オクシデント(Occident)は、1マイルを2分18秒から25秒の速さで(41.7km/h)で疾走しました。
5年の期間をおいた1877年7月には、同じ馬場で同じオクデントを駆って、1/1,000秒を切るシャッタ装置を導入して40ft(12.2m)の範囲を撮影しました。
その時の馬の速さは36ft/s(39.5km/h)でした。
翌年、1878年7月15日、場所をスタンフォード氏の所有するパロアルト馬場の1マイルトラック(1.6km)に移し、Abe Edingtonという馬を使って写真撮影が続けられました。
このときに使ったカメラは12台で、これを1/2秒程度の間隔で次々と撮影し6秒間の撮影を行って、43.9km/hで疾駆する馬の連続写真を収めました。
マイブリッジは、Abe Edingtonの疾走撮影に際し、背景の木製板に高さ15ft(4m57cm)、間隔21インチ(53.3cm)の縦線を施して(後で解析しやすいように)、その前で馬を走らせました。
1879年は、実にたくさんの馬を使った撮影が行われ、馬に限らず牛や犬、羊や鹿、さらにはクマさえもが最新鋭の写真計測カメラの被写体となりました。
また、同年には運動選手も被写体となり、フェンシング、走り幅跳、ジャンプなども撮影されました。
この時期になるとカメラを増設して24台のカメラを使って撮影がなされました。
これらの撮影には、当時、照明光源に適切なものがなかったので、屋外で晴れた日に行われました。
1/1000秒のシャッターを切るには100,000ルクスの明るい屋外が必要だったのです。
電球は、同じ年の1879年にエジソンが発明したばかりなので、現在我々が考えるような人工光源や電力などありませんでした。
 
■ 写真を使った運動計測
 1880年代初頭に入ると、マイブリッジはペンシルバニア大学で一連の研究を始めることになります。
彼は、被写体の背景にこだわり、長さ37m(120ft)に渡って50cm毎に区切ったツイタテを作り50cm角に色を塗り分けて計測しやすいようにしました。
原文ではここの部分がメトリック(メートル表示)になっていて、マイブリッジが計測にあたってメートル法をかなり意識していたことを窺い知ることができます。
(メートル法は、1790年にフランスで提唱され、1799年にメートル原器が完成されますが、当時この規格採用の参加を呼びかけても芳しい反応がなく、70年を経た1870年にナポレオン3世が国際会議を招集して、24ヶ国270名を集め国際標準化を歩み出しました。この時、米国も、英国も積極的でなかったはずです。現在 = 2019年でも米国はヤード・ポンドを堂々と使っています。)
マイブリッジが配置したカメラは24台で、被写体から15m離れたところに横一列に設置されました。
この時に使用された感光材料は、フィルムベースのものではなく、ガラス感光材で、大きさは1インチx1.5インチ(25.4mm x 38.1mm)でした。
カメラレンズは、口径3インチ(φ75mm)、焦点距離15インチ(f381mm)のステレオレンズを使用していました。
ステレオレンズのレンズ間距離は6インチ(152mm)でした。
動きの速い被写体の時には、口径1.25インチ(φ32mm)、焦点距離5インチ(f127mm)、レンズ間距離3インチ(76.2mm)のレンズが使われました。
これらレンズの明るさ(口径比)はF/8程度でした。このレンズを使って1/1,000秒の撮影を行っていました。
 
■ 当時のフィルム感度
 原文には書かれていませんが、レンズ絞りと露出時間、被写体の明るさでフィルムの感度が算出できるので、これより当時のフィルムの感度を算出してみました。
当然、マイブリッジは快晴の日を選んで撮影したものと考えられますから、屋外の日中の快晴時は100,000ルクス〜150,000ルクスと想定されます。
この条件で感光材の感度を算出すると、ASA150(ISO150)ほどの感度となります。
1880年代には、ASA150クラスの感光剤の製造技術を持ち合わせていたことになります。
 
■ 同期装置
 24台のカメラを正確に連動させるため計時装置が開発されました。
初期に使われた各カメラのシャッタを糸で走路と直角に渡して馬で糸を切るという方式を改めて、信頼性の高い装置を開発しました。
この装置は、音叉発振で100Hzのクロックを作り、このクロックとシャッタタイミング時間をグラフに描かせてシャッタの正確な時間を割り出しました。
この装置にはまた、リングのまわりにプラチナで作った24個の接触子受けを設け、その周りを接触子が回転してバッテリからの電気を次々にカメラのシャッタリリースソレノイドに印加させ1/100秒から1/6,000秒単位の時間タイミングでシャッタを切る(連続写真を撮る)機構が設けられていました。高速度連続写真の原型がこの時にできていました。
 1880年当時、精巧な時間発振器と言えば音叉発振器だったことが、この文献からうかがい知れます。
当時、フランスでピエール・キュリー(Pierre Curie: 1859 - 1906)が水晶が極めて安定した振動をすることを発見していました。
水晶発振子は、その後、1921年に米国のケディ(Walter Guyton Cady: 1874- 1974)が開発し、無線電話(ラジオ放送)の送信機の発振回路に使われるようになりました。
 マイブリッジは、ペンシルバニア大学のReichart博士と共同で犬の心臓鼓動における高速度写真撮影技術も開発しました。
この撮影は、おそらく世界で初めての生理学分野での高速度写真だと思います。
マイブリッジは、この高速度撮影で得た一連の写真を映画に直して映写するための『Zoopraxiscope』を開発しました。
 
【フランス人 Janssen】
 1874年、フランスの天文学者 Pierre Jules Cesar Janssen(1824 - 1907) は、金星が太陽を横切る運行を自動的に撮影するカメラを開発しました。
このカメラは70秒の時間間隔で48枚の写真を撮影する計時装置を備えていました。
 使用したフィルムは、円盤状のダゲレオタイプ(daguerreo)フィルムで、これを時計の針のシャフトに取り付け回転させました。
時計の心臓部には、マルチーズクロス(Maltese Cross)機構という間欠運動する機械要素部品が組み込まれていて、一定間隔でフィルム盤が回転して停止するという仕組みになっていました。
この仕組みにより一定の間隔で円板が回転し、静止して露光し、再び回転するという仕組みになっていました。
カメラの前には12個の等間隔に開けられたシャッタディスクが設けられていて、フィルム円板の回転より4倍速い速度で回転しました。
フィルムの前には固定アパーチャが開けられていて、回転シャッタが固定シャッタを横切ることにより露光が行われ、フィルム一回転で48枚の写真を撮ることができました。
一連の写真(48枚)を撮るのに約1時間かかるため、観光板である湿式コロジオン板が乾いてしまい長くカメラにおいておくことができず速やかに現像したといわれています。
 
【フランス人 Marey(1830-1904)】 (2009.05.31追記)
1882年、マーレーが発明した写真銃。1台のカメラで、複数の写真が高速度で撮影できた。マイブリッジの写真撮影から遅れること10年であった。
(Wikimedia Commonsより転載)
 1882年には、生理学者、医療技師であるフランス大学(College de France)教授、マーレー博士(Dr. Etienne-Jules Marey: 1830 - 1904)が、Janssenのカメラを改良して、動物の運動研究に使用しています。
彼は感度を高めた感光材を使用して、鳥の飛翔研究を行いました。
彼は、1878年12月にマイブリッジ(Eadweard Muybridge)に書簡を送り、鳥の撮影についてのいくつかの問題点の解決を依頼しています。
マーレーは、雑誌『Nature』に掲載されたマイブリッジの写真に深い感銘を受けて、彼との親交を深めます。
1881年、マイブリッジはパリを訪れ、画家や科学者、マーレーらに会って意見を交換します。マーレーはこれより自分の考えを捨てて、マイブリッジが考案した連続写真撮影装置にヒントを得て改良を試み、「クロノフォトグラフィー(Chronophotography)」を生み出しました。
クロノ(chrono)とは、ギリシャ語の「時」を表し、クロノフォトグラフィーは、時間分解写真と呼ぶべきもので、映画(Cinematography)の先駆け的存在とも言えます。
 マーレーはまた、馬の蹄を録音するため回転円筒に針を押しあて音を録音する機械を開発しました。
この装置は圧縮空気の働きで針を動かしたもので、現在のオシログラフに原理が似ているものです。
 マーレーの開発した写真銃カメラ(Photographic Gun Camera)は、当初、ガラス乾板に12枚の写真を1/720秒の露出時間で撮影するものでした。
その後、ガラス乾板が感光紙およびセルロイドフィルムに変わり、露出時間も1/1,000秒が切れるようになりました。
さらに撮影速度も改善され100コマ/秒までの撮影ができるようになりました。
 マーレーはまた、繰り返し発光するスパークフラッシュ装置を使って一枚の写真の中にフェンシングの切っ先の突く様子を浮かび上がらせるという多重露光撮影に成功しました。
 1883年には、ランナー(走る人間)に白と黒のストライプの密着衣をまとわせ、120もの方向から高速度撮影をおこないました。また、犬の走る様子も高速度カメラに収めました。
 
フランスは、ダゲールといい、ニエプス(ダゲール以前に感光剤を発明した人物。この感光剤の撮影時間は10時間)といい、はたまたルミエール(兄弟。映画カメラを発明した。エジソンとどちらが早いかが最近まで論じられてきた)やマーレーといい、写真に関しては超一級の開発・先進国だったことが理解できます。
芸術の国フランスは、写実性の高い写真に大きな関心を寄せていたことの証左でしょうか。
この時期のフランスは、キュリー夫妻のように放射性物質や水晶の物性、それにメートル法の制定、高名な幾多の数学者、光学者と、サイエンスの最先端の業績を次々に打ち出していった形跡をうかがい知ることができます。
お隣のイギリスでは、100年も前に蒸気機関の開発で大きなエネルギーを利用した機械産業が勃興していたので、嫌がおうにも触発されたのかもしれません。
もちろん、イギリスも写真機の開発とレンズの製造では当代一の技術力を持っていました。
 
【ドイツ人 - Anshutz】
 1884年、プロシアの写真家Ottomar Anshutz(1846 - 1907)は、持ち運びに便利な(携帯型)、1/1000秒の露出が切れるフォーカルプレーンシャッタ内蔵カメラを発明しました。このカメラは、Goerz/Anshutzカメラと呼ばれました。この発明の後、1886年、Anshutzは、マイブリッジのカメラシステムによく似たカメラを製作します。
24台のカメラを使い、これらのカメラに極めて短い焦点距離のレンズを装着し、20 x 20mmのフィルムイメージサイズを採用しました。
このカメラは、自動シャッタ開閉機構のおかげで24台のカメラを3/4秒の間に次々に撮影し(32コマ/秒)馬の跳躍写真撮影に成功しています。1887年には、12台から14台のカメラを一つの枠に入れ込み、それに撮影済みの乾板を入れて次々にシャッタを切って動画を再生するElectro-Tachyscope(もしくはSchnellseher)を発明しました。
 1894年11月25日には、8枚の乾板を組み込めるプロジェクタを2組使って剃刀が顔面を滑る様子の映写を行っています。
Tachyscopeは、最初にスロットシャッタ(slot shutter)を使用したことでも知られています。
1887年にはまた、電気方式のTachscopeが開発され24枚の画像を連続して再生できるようになりました。
光源は螺旋状のガイズラー管(Geissler)が使われストロボスコープ写真の先駆となりました。
 
ガイズラー管(Geissler tube)は、1857年ドイツのボン大学のプリュッカー(J. Plucker)が、同じ町の理化学機器工のガイスラー(Johann Heinrich Wilhelm Geissler: 1814 - 1879)に依頼して作らせた真空(数十〜数Torr)の冷陰極線管。
当初は、真空放電とスペクトル研究に使われた。
 
 
 
【カメラと映写機】 (2009.05.31追記)
 初期のカメラ製作は、映写機の開発と対をなすものでした。
映写における動画の原理は視覚の残像現象によってもたらされるもので、この基礎実験は1829年、ベルギーの物理学者 Joseph Antoine Ferdinand Plateau(1801 - 1883)によってはじめられました。彼は、「ストロボスコープ効果」理論を導き出しました。彼の理論は、「1秒間に16枚の画(え)が次々に入れ替わって映し出されると、目の残像現象によって、あたかも一連の動きのように見える」というものでした。Plateauは、1832年、自らの理論にもとづいて「Phenakistiscope」を作り上げます。この原型は、英国人(ロンドン)のPeter M. Roget博士がデザインしたものです。この装置は、スリットのあいた円板とその後ろに12枚の一連の動きを与える絵が描かれた円板が配置され、これらが同期して回転するようになっていました。スリット円板がシャッタ効果をなし、絵がスリットを通してその前にあるミラーで反射されて人間の眼に動画として見えるようになっていました。
 同じような装置が、ウィーン工科大学(Vienna Polytechnical Institute)のフォン・スタンファ教授(Prof. Simon Ritter von Stampfer)によって開発されました。
 1853年には、Fraznz von Uchatius男爵によってランタン(光源部)を装備したPhenakistiscopeが作られました。これがその後、多数の見物人が見える「映写機」の原型になったと言われています。
 1869年、米国のA. B. Brownは、マルチーズクロス(間欠運動を行う機械要素)を使ったシャッタ機構によるPhenakistiscopeで特許をとります。
 1882年のマーレー、1884年のAnshutzの功績は、前に述べたとおりです。マイブリッジの「Zoopraxiscope」(1879年)は、Roget博士、Plateauの開発した「Phenakistiscope」とフォン・スタンファ教授のストロボスコープの合作のようなものでした。
 1893年には、Thomas EdisonによってKinetoscopeが発明されます。この装置は手回しハンドルが付いていて一人の鑑賞者だけが動画を見ることができる装置でした。エジソンの他にも同様な装置を作っています。英国ではW. Fries-GreneとM. Evensによって同様のものが作られ、1895年にはDonisropeとCroftsによってフリクションローラとエンドレスフィルムを使った動画装置が作られました。
 1892年には、米国人Robert PaulはKinetscopeをコピーし、米国以外に輸出しました。フランスのルミエール兄弟が経営する会社では改良した映写機を製造しました。
 
 
  
 
【C. Francis Jenkins】
 1893年から1894年にかけて、アメリカの発明家Charles Francis Jenkins(1867 - 1934)が現在の映写機に近いモーションピクチャー方式の装置を発明しました。この装置は娯楽用のみならず運動解析用の機器として使われました。この装置は、「Phantoscope」と呼ばれました。開発に関わる費用は、Thomas Armatが出資しました。Armatは、「Phantoscope」の発明者として名を連ねようとしましたが法的に認めらなかったので、販売に力を入れるようになりました。Armatはこの装置を「Vitascope」と名づけて、ニュージャージー州West Orangeより1893年から販売をはじめました。この機械はBiographとも呼ばれたもので、一人だけがのぞき見できるタイプのMutoscopeを改良したものでした。
 1897年にはThomas Edisonが同じタイプのKinetoscopeを発売し、これがNickelodeon劇場で使われるや人気を博し、映写機の標準となってしまいました。
 
【キセノンフラッシュ撮影 - Harold E. Edgerton】
 今まで述べたような数々の高速度カメラの開発を経て、1930年代初頭に米国マサチューセッツ工科大学のエジャートン博士によるキセノン管を使ったストロボスコープの発明に至ります。詳細は、同ホームページ「光と光の記録 - キセノンフラッシュ」(http://www.anfoworld.com/Lights.html)を参照して下さい。
 キセノンフラッシュの強みは、火花放電に比べて発光時間が短いこと、太陽光に近いこと、大光量が得られること、繰り返し発光が高いこと、使いやすいことなどです。現在のカメラになくてはならないキセノンフラッシュの実状をご存じの方なら、このランプの存在意義の大きさを認めていただけると思います。昨今急速に普及しているデジカメ(デジタルカメラ)や、その前に普及した「写るンです」などにもコンパクトなキセノンフラッシュが内蔵されています。
 
 
 
 
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高速度カメラ開発の歴史
 
 上の例からもわかるように、科学技術者にとって映像機器は、彼等の研究を助ける願ってもない『眼』であり、わからない現象を垣間見たり科学者の理論を検証するための必要不可欠の光学機器だったことがわかります。
この分野の最も画期的な出来事は、レンズの開発とレンズを作る光学ガラスの発達でした。
レンズによってできた被写体の2次元像を記録するための感光材料と、映像を次々と撮るための機構部の組み合せでカメラができました。
カメラは、35mmフィルムを使う一般のスティルカメラから航空測量に使う航空カメラ、高速度カメラ、ビデオカメラに至るまで多岐にわたります。
 この中で、高速度カメラはさらに、駆動機構と撮影速度の観点から下の5種類に分けられます。
 
1. 間欠掻き落し式フィルムカメラ : 10 - 500コマ/秒
    ------ 映画カメラを高速化したもの
2. ロ−タリ−プリズム式フィルムカメラ : 300 - 40,000コマ/秒
    ------ 回転プリズムの屈折光の原理で、フィルムの移動中でも像を同一位置に結像させたカメラ。
    フィルムを間欠に止めないため、撮影速度を格段に上げることができた
3. ロ−タリミラ−式フィルムカメラ : 1,000 - 2,000,000 コマ/秒
    ------ 回転ミラ−の反射とリレ−光学系の組み合せにより、像をフィルム上に次々に結像させた。
    撮影速度をさらに向上させた。
4. ハイスピ−ドビデオカメラ : 100 - 100,000 コマ/秒
    ------ フィルムに代えて電子撮像素子を用いたもので、ビデオカメラを高速化したもの。
    高速度ビデオカメラには、記録部に磁気テープを使ったものと半導体メモリを使ったものの2種類がある。
    高速度ビデオカメラは、当初はビジコン管などの真空管であったが、
    1980年代に固体撮像素子(CCD)が登場し、90年代より固体撮像素子(CMOS)になっていった。
5. イメ−ジコンバ−タ式カメラ : 1,000 - 20,000,000コマ/秒
    ------ イメ−ジコンバ−タチュ−ブと呼ばれる電子管によりシャッタリングや像偏向等全ての動作を
    電子的に行うもの。他のカメラに見られる機構部の質量慣性が無いため高速撮影が可能。
 
 これらのハイスピ−ドカメラの全ては、1930年代から1990年代にわたって開発されたものです。
この時代は、第1次世界大戦、第2次世界大戦、宇宙開発、冷戦、核開発、など非常に緊迫した世界情勢であり、その中でコンピュータに代表される電子技術が大いに進歩し、これらの時代背景の後押しで高速度カメラが育っていきました。
1960年代から2000年ではシリコン半導体技術が急速に発達し、その技術で作られるCPU、メモリの発達でコンピュータを始め各種デジタル機器装置が大いに発達し、高速度カメラもその恩恵を受けてきました。
 
高速度カメラは、この他にも、
 
(1) ストロボ高周波発光及びパルスレーザを使ったカメラ -  10,000コマ/秒程度
------- 一枚の写真上にストロボを使って多重露光撮影するカメラ。
   ドラムカメラ(流しカメラ)とパルス光源による高速撮影。自発光体は不可。
(2) 火花追跡手法を用いたカメラ -  10,000〜100,000コマ/秒程度
------- 流体研究分野に使用、流れ場に電極を渡し高電圧を印加。
   放電スパークが流れに沿って発生する。
   放電を数回にわたり、高周波で発生させると流れの推移を可視化。
(3) クランツ・シャルディンカメラ -  10,000〜200,000 コマ/秒程度
------- ドイツ人クランツとシャルディンが考案。複数のスパーク光源とレンズで撮影。
(4) マルチカメラ
------- 複数のカメラを使って、シャッタ時間を少しずつずらして撮影する方式。
   撮影速度は、1,000コマ/秒程度。
   1870年代、エドワード・マイブリッジはこの手法で疾駆する競走馬の分解写真を得た。
(5) 遅延シャッタを用いたシングルカメラ ← 周期的な現象用
------- 何回も試行できる現象で、同期信号が得やすいものに用いられる。インクジェットの吐出挙動など。
(6) ストリークカメラ
------- フィルムにスリットをわたし、フィルムを連続して移動。切れ目のない映像が得られる。
   競技の写真判定用、超高速現象用に使われる。 
 
といったタイプの高速度カメラがあります。
2000年代にあっては、カメラといえばデジタルカメラであり、高速度カメラもCMOSの固体撮像素子とDDR(メモリ)、SD(半導体記憶装置)を使ったものが主流となりました。
次に代表的な高速度カメラについて、その生い立ちや活躍のエピソードを紹介しましょう。
 
 
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間欠掻き落し式フィルムカメラ
 
 現在使われている映画カメラは、ロール巻きにした映画用フィルムをカメラに装填し、フィルムを間欠的に送りながらフィルムが停止した所でシャッタ(回転式円板シャッタ)の開口部が開いて露光を行っています。こうした映画カメラと同じ原理で高速撮影を行うのが、このタイプのカメラになります。フィルムを高速で駆動する場合、カメラ駆動部に加わる負荷とフィルムに加わるテンションが大きな問題となります。この問題は、1900年当時の技術では解決できず、このタイプの高速度カメラ開発は、ロ−タリ−プリズム式フィルムカメラより遅れて、1950年代に入ってからです。映画カメラは、これより先の1870年代に米国エディソンとイーストマンによって完成していました。このタイプのカメラは、ロ−タリプリズム式フィルムカメラより撮影速度は劣るものの、解像力が優れてるため比較的遅い高速現象に使われました。
 アメリカで推進された宇宙開発、特にジェミニ・アポロ計画でこのカメラが湯水の如く使われました。この宇宙計画を進めるにあたり、人工衛星のコマンド部(指令船)とサ−ビスモジュ−ル(機械船)部分を作っていたノ−スアメリカンロックウェル社は、計画のスタ−ト当初から3年間位まではあらゆる事柄が全て未知の要素ばかりだったので、どんな小さなことを決めるにも高速度カメラを使った実験の繰返しを続けたと言われています。たとえば、宇宙船の落下テストにおける20数ケ所からの高速度撮影、"0"Gでの液体燃料の挙動、振動、パラシュ−トテスト、脱出テスト、燃焼テストなどを際限もなく続けたと言われています。
 1986年1月に起こったNASAスペ−スシャトル「チャレンジャ−(Challenger)」の忌まわしい事故は、あれだけ多くのビデオカメラが回りながら原因解明の決定打とはならず、肝心のテレメ−タも真っ先に破壊されてしまいました。最終的に、70mm幅のフィルムを装填した高解像力の高速度カメラが撮影したフィルムから、「打ち上げ55秒後に右側固体ロケットブ−スタから2つの破片らしい物体が飛散、噴煙中の光を反射しつつ落下していくのをとらえ、又、70秒後にもシャトル主エンジンの噴煙の脇から黒煙とともに同様の物体が落下している」のが確認されました。これにより、これら落下物は、ブ−スタのジョイント部を結合しているピンを押さえる金具と見られ、前夜来の雨と寒気による雨の凍結で、ブ−スタのOリング破壊に加えてジョイント部も破壊されたという原因糾明にまで至りました。70mmカメラの解像力は、テレビの400TV 本に競べ格段に多い5,000 本以上もあり、その威力をいかんなく発揮した事例と言えましょう。
 このタイプの高速度カメラは、1950年代から1990年代までの50年間、自動車の安全実験で多く使われました。バリア試験やブレーキ、バンパー、エアバッグなどの各種試験に活躍しました。このタイプの高速度カメラの撮影速度は、16mmフィルムで500コマ/秒、35mmフィルムで350コマ/秒が最高でした。それ以上の撮影速度をするとフィルムが切れてしまいました。
 
 
    
自動車安全実験に数多く使われていた米国フォトソニックス1PL(500コマ/秒)
(1960年代〜1990年代) 
 
 
 日本でよく使用されている間欠掻き落とし式16mm高速度カメラ
  『Photo Sonics 16-1PL』の主な仕様(製造期間1960年代後半-)
 
・撮影速度:   100 - 500コマ/秒
         連続可変、精度±1%もしくは±1コマ/秒
・フィルム容量: 16mm巾映画フィルム、両目、白黒、
         またはカラー、100フィート(30.3m)、200フィート(60.6m)
→ ロール巻きのフィルムは、1フィート当たり16コマの撮影が可能。
  従って、100フィート巻きのフィルムでは、1600コマの撮影ができる。
・マガジン:   200フィートマガジン(標準)、400フィート、1,200フィート
・撮影レンズ:  Cマウントレンズ標準
         (ニコンFマウントもアダプタにより取り付け可能)
・シャッタ定数: K4標準(90°開角度、4という数字は撮影間隔の1/4が露出時間に当てられるという意味。)
         (7.5°、15°、22.5°、30°、60°、90°、
          120°、160°、7.5〜160°可変、オプション)
・露出時間:   K4標準シャッタにて、1/40秒(10コマ/秒)
         〜1/2,000秒(500コマ/秒)
・ファインダ:  ボアサイト方式、倍率10倍
・ヒータ:    100VAC 300W(寒冷地、航空機搭載で使用する場合)
・重量:     5Kg
・使用条件:   温度-60℃ 〜 70℃、耐G性 3軸方向25G(MIL-6181D)
 
 
 
【間欠掻き落とし式高速度カメラの老舗 - 米国Photo Sonics社】(PhotoSonics社ホームページ参考) (2001.05.14記)
 精密機械の極みとも言える、間欠掻き落とし式高速度カメラを世界で一番多く作り、今も特殊映画撮影、軍用、科学技術分野で使われている米国フォトソニックス社の足跡を見てみましょう。 (2023.06.12追記)
 
■ Photo Sonics社の前身
 Photo Sonics社の前身 Acme Tool and Manufacturing Company は、1928年に創設されました。
創設者は、Adolph Furer氏です。
Acme(アクメ)社は、オリジナルフィルムからプリントフィルムをコピーする装置(オプチカルプリンタ)を製作する会社としてスタートし、Walt and Roy Disney(ウォルト・ディズニー)社と取引を始めるようになって、アニメーションカメラなどを含めた映画カメラシステム製作を手がけるようになったそうです。
 1939年にAdolph Furer氏は、息子Edwardに自分の会社の株を売り、一線を退きました。
息子Edwardは、会社をさらに映画カメラ製造メーカーへと位置づけ会社経営を展開して行きました。
1949年にはProducers Service Companyという販売会社も設立させます。
創始者Furer氏が思い描いた自社ブランドの映画カメラ装置が、事実上の業界標準装置となり、アクメ(Acme)は業界の標準用語となりました。
この装置は、アニメを製作する際の必要不可欠なカメラ装置で、アニメーションスタンド、オプティカルプリンタ、マットプリンタ、プロセスカメラ、及びそれらの関連アクセサリーで構成されていました。
Acme Optical Printerと呼ばれたこの装置は、その功績が認められ、1980年には、OSCARで知られるアカデミー賞技術賞を受賞しています。
 
■ 高速度カメラ - 写真計測(Photo Instrumentation)分野への進出
 アクメオプティカルプリンタの精密なフィルム送り機構技術が基盤となって、1940年から1950年の第二次世界大戦・冷戦時代には、米国政府の要請によってミサイル開発のための高速度カメラを設計しました。
 1952年には、業務をオプチカルプリンタから高速度カメラを主体とした写真計測分野へ方向転換し、1960年に入るとほとんどの業務が写真計測システムで占められるようになりました。
当時 Acme Camera Corporationと称していた製造会社を、Photo-Sonics, Inc. という社名に換え、アクメオプチカルプリンタ装置を販売していた販売会社のProducers Service Companyを売却精算して、Photo-Sonics社1社として写真計測分野に特化しました。
 
■ オプチカルプリンタ - Acme社のオプチカルプリンタ(シネマ100年技術物語より)
 フィルムがカラー時代になると、プリンターには絞り方式もランプの光量変化も使えなくなり、一定の色温度を保って光量を制御する方式が求められるようになりました。
ここに登場するのがオプチカルプリンターと呼ばれるコピー装置です。
イーストマンカラーで『地獄門』を製作する際に、アメリカのアクメ102型という大変に高価なオプチカルプリンターが使われたそうです。
密着プリントを行うなら、原画のネガとポジフィルムを密着させて露光を与えるだけでかまわないのですが、オプチカルプリンターになると原画のネガとポジフィルムの間に光学系(オプチカル)が入ります。
オプチカルプリンターの名前の由来はここにあります。
ネガとプリントフィルムの中間にレンズを入れることによって、縮小や拡大ができ、また、シリンドリカルレンズを使えば、像を一方向に圧縮したりできます。そのほかフィルタを入れて色補正を行ったり、マスキング板を挿入してマスキングを施したりと、中間に配置した光学部品によっていろいろ複雑な画像合成と加工ができるようになりました。
 オプチカルプリンターのフィルム露光部分には、ムーブメントというレジストレーションピンを持つ精密な機構があり、このユニット全体をシャトルと言いました。
この機械は、もともと1コマ1コマ止めて露光する(コマ焼き)機構であるため、処理速度は遅いものでした。シャトルが開いて1コマ送って、シャトルが閉じると露光し、シャトルが開いてまた1コマ送るという形で作業を進めて行きます。
これは、アニメ製作撮影時のコマ撮り撮影と同じ方法ですが、1コマ送るときにシャトルをいちいち開け閉めしながら露光していくところが異なっています。
なぜ、こんな面倒なことをするかといえば、1コマ送るごとに画を定位置にピタリと固定させるためなのです。
ただ固定するだけではありません。
重ねたとき縦位置だけでなく横位置も、前の画の位置と寸分違わぬ位置に固定しなくてはならないのです。
 ムーブメントは当時、アメリカではクルマ一台買えるほどの大変高価なものだったそうです。
心臓部のレジストレーションピンは、名人といわれる職人が手作りしました。
何本も作った中から最高の出来のものだけを選んで使いました。
このピンは、パーフォレーション(フィルムの両端に設けられているフィルム送り孔)にスーッと入り、ガタがなくキッチリ収まり、それが深からず浅からず、抜くときも何の抵抗もなくスーッと抜けなくてはなりません。
この1本のピンは、職人が丹念に砥石で磨いて作り上げるもので、どんな精密の加工機械でも作れない代物だったそうです。
フィルムの側でも、一見無造作に開けられているかに見えるパーフォレーションは、フィルムメーカがパーフォレーションを打つ機械を厳重な管理下において、顕微鏡的な精度で絶えずチェックし、温度でフィルムがベースが微妙に伸び縮みすることまで計算に入れてさん孔しています。
アクメの機械は、つい最近(1990年代後半)まで東洋現像の主力をなしていたそうですが、デジタル処理の時代になって、その座を電子装置に譲ったそうです。
 
■ Photo Sonics社の現有製品
 1960年代のフォトソニックス社には、米国の最先端工作機械シンシナチィーが何台も並んでいて、それに加えて、フィルム送りプレートを磨くラッピング職人、レジストレーションピンを製作する職人などを抱えた精密機械製造会社でした。
Acme機械を作ったフィルム送り機構技術が活かされて、同社は傑出した高速度カメラを作ることを可能にしました。
同社は、1960年代から1970年代にかけて、16mmフィルム、35mmフィルム、70mmフィルムを用いた間欠掻き落し式高速度カメラのラインアップを揃えていきました。
 現在(2005年)、同社の製品は、映画産業の高速撮影分野に35mmフィルムカメラが使用されています。
日本でも2000年代初頭まで、CMなどの特殊用途に350コマ/秒クラスの35mm高速度フィルムカメラが使用されています。
 
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ロ−タリ−プリズム式フィルムカメラ (2008.11.26追記)
 
 ロータリープリズム式フィルムカメラは、1990年まで、ハイスピ−ドカメラの代名詞となっていたカメラで、最高40,000コマ/秒の撮影が可能でした。
ハイスピ−ドカメラの中でも最も歴史が古いものです。
このタイプのカメラは、1932年に、米国Eastman Kodak 社とベル電話機研究所によって、2,000 コマ/秒のカメラが商品化されました。
このカメラは、間欠掻き落し式カメラに見られるようなフィルムの間欠運動(フィルムを送って停止させる運動)が無く、フィルムを一定速度で送り、レンズとフィルムの間に置かれた回転プリズムがフィルムの移動速度に同期して回転するために、フィルム上の像が相対的に静止します。
この原理によって、フィルムを間欠的に送る必要がなくなったため、撮影速度を一気に上げることができるようになりました。
 当時、ベル電話機研究所は、電話交換器に使うリレ−の不安定な挙動に頭を悩ましていて、このカメラの開発の直接動機となったと言われています。
このカメラを開発したことにより、30年間懸案になっていた難問を、1 ダ−ス(12本)のフィルムを回しただけで解決を見ました。
ベル電話機研究所は、1938年当時、Fastaxカメラ(市販化されたロータリープリズム式カメラの製品名)の最も大事なユーザーで、年間1,000本以上の16mmフィルムが電話機装置の研究に使われました(Kodak研究所、故C.E.Mees氏談)
この種のカメラで最も有名なカメラは、古くは米国の『FASTAX』、『Hycam』、日本の『16HD』がありました。
自動車安全実験では、1990年代まで、米国フォトソニックス社の「16-1B」、スイスワインバーガー社の「STALEX」、日本の「E-10」が使われました。
主に1,000コマ/秒から10,000コマ/秒の撮影目的に利用されました。
  
【ロータリプリズム式高速度カメラの歴史】(2001.05.14記)
 
■ John H. Waddell
 高速度カメラの代名詞になったこのタイプのカメラの歴史については、たくさんの文献があるというわけではありません。
このタイプのカメラの草分けの時代に、設計者として名を馳せたJohn H. Waddell氏が、映画機械学会(SMPTEの機関誌)にこのカメラに関する貴重な論文を寄せています。
 
『'The Rotating-Prism Camera : An Historical Survey"
     by John H. Waddell, July 1966 Journal of the SMPTE Volume 75, pp666-674』
    (HIstoricalと母音でもないのにAnで始まるという論文名もおかしくないでもありません。
     でもAより言いやすいかも。ある回顧という意味を強く出したかったのでしょう。Historicalという発音が「H」音を出さないイストリカルとしたため母音扱いでAnとなったのかも知れません。)
 
この論文をもとに、ロータリープリズム式高速度カメラの開発の経緯を紹介しておきましょう。
 ロータリープリズム式の高速度カメラが市販されたのは、ファスタックス(Fastax)と呼ばれるカメラが最初で、1934年のことです。
その後、数多くのロータリープリズム式カメラが開発され、多方面に活躍しましたが、原型はあくまで最初のファスタックスカメラだったそうです。
他の数多くのカメラはファスタックスカメラの変形と言えるものでした。ロータリープリズム式カメラの歴史背景として、1932年、ベル電話機研究所の依頼により製作されたイーストマン(Eastman)ERPI Type II がその源流があります。
このカメラの開発には、数多くの著名な科学者が投入され、ユニークな高速撮影速度をもつカメラ開発に情熱が傾けられたそうです。
彼らの目標は、1マイクロ秒だったと文献に書かれてありました。
 
■ 最初の開発設計者
 最初にこのタイプの高速度カメラの開発を担当したのは、
・ Fordyce Tuttle(コダック) - カメラ設計
・ Joseph Boon(コダック) - カメラの設計
・ C.H. Rumpel(ベル電話機研究所 = BTL) - 現象との同期装置
の3人です。
彼らは高速度カメラを設計開発した後、1943年以降この分野に留まらずに別の分野に移って行きました。
TuttleとBoonは、高速度カメラ開発に先立ち、ロータリープリズム式映写機を使って動画再生の研究を行いながら間欠映写効果の評価を行い、撮影用カメラの研究をしました。このロータリープリズム式映写機は、Leventhalが設計したものであり、ロータリープリズムの理論体系は、イギリスの光学の権威であるDennis Taylorが行いました。
Taylorは、映写機(プロジェクター)についてのみしかロータリープリズムの像移動の理論付けを行わなかったため、撮影機(カメラ)に関しては彼らが独自に行いました。
 
■ 初号機 Eastman ERPI Type II (1932年)
 初号機は、1932年に開発されました。
このカメラは、開発会社の名前を尊重してEastman ERPI Type II と名付けられました。
ERPIというのは、Electric Research Products Inc.の略で、ベル電話機研究所と同格の親会社の電話会社(American Telephone and Telegraph社とWestern Electric Company社)の製造請負会社です。
タイプ2と名付けられたのは、イーストマンはこの他に映画カメラを高速度化した(16、32、64コマ/秒の)間欠駆動式(Intermittennt)高速度カメラの開発も行っていたため、タイプの違うロータリープリズム式高速度カメラをタイプ2としたのです。
 
開発された高速度カメラの主な仕様と構成は以下の通りです。
・ 使用フィルムと撮影速度: 16mm映画用フィルム、2,000コマ/秒
・ デュアルスプロケット: ドライブスプロケットとスプリングホールドバックスプロケット
  → ロータリプリズムカメラでは、1ヶのスプロケットが主流になっていましたが、
    初号機は2つのスプロケットを使っていたようです。
    一つはフィルムを正確に送るためのもので、もう一つはフィルム送りに制動を加えるため、
    スプリングでバックテンションを与えているもののようです。
・ overloaded Motor: 駆動モータ
  → 高速で駆動する関係上、定格モーターに定格以上の電圧を加えて
    高速回転をさせたものと思われます。
    こうした使い方は、通常は許されないのですが、
    撮影時間が数秒で終わってしまうため許容できる範囲と
    認めたものと思われます。
・ スプリングベルト式テイクアップ: フィルム巻き取り式機構
   → 多くの映画カメラで採用されている方式
・ 2面回転プリズム
   → 多くのロータリープリズムが4面であるのに初号機は2面だったようです。
     多面体の方がプリズムの回転が少なくてすむのですが、プリズムが大きく
     なったり平行平面を作るのが難しく、初号機は2面プリズムで開発したようです。
・ 音叉発振器によるクロック
   → 当時、精度のよい発振器と言えば音叉発振器だったようです。
     水晶発振器はもう少し時代を待たねばなりませんでした。
・ レンズ: 固定焦点距離レンズ 1つのみ
・ 電源: モータ駆動用電源(交流電源)
 
このカメラの音叉発振器を持つ信号発信装置は、150ポンド(75kg)もしたそうです。それに電源が40ポンド(20kg)! 
カメラ本体と信号発信装置は74ポンド(37kg)の筐体に入れられて一体となっていました。
これを「ポータブル」と称して、初号機が完成したのです。
 
このカメラの完成を待って導入された研究機関は、
 
▲ BTL - ベル電話機研究所(Bell Telephone Laboratory)
▲ GM - ジェネラル・モータース
▲ 米空軍 - United States Army Air Corps (Wright Field)
▲ 米海軍 - United States Navy
 
の4機関だったそうです。
ベル電話機研究所のエピソードは上で紹介しました。
最近(2001.05)エンジンに関する書物(『エンジンのロマン』鈴木孝著)を読む機会に恵まれました。
その中で、ジェネラル・モータースがこのカメラを使って世界で初めてノッキングの解明ができたエピソードを紹介していました。
それは、ジェネラル・モータースのエンジン研究者が記念講演で述べられたエピソードが掲載されたものでしたが、彼らがカメラを使用した年代とカメラの性能については私が述べている記述と若干の違いがありました(たぶんカメラに関しては私の記述の方が正しいと思われます)。
しかし、書物の中の記述は、胸躍らせるに十分な迫力ある内容のものでした。
 
■ 高速度撮影 - 処女撮影
 このカメラが最初に使われたのは、1932年、ロスアンゼルスで開かれたオリンピックのことで、大会実行委員長に敬意を表して「Kirby Race Timer Camera」(レース釣りのタイマーカメラ)と呼ばれたそうです。
(1932年と言えば、日本がこのオリンピックに参加して水泳などで輝かしい成績を収めました。NHK大河ドラマ「いだてん」(2019年)でこの件が物語化されています。)
 
■ 改良
 こうしてできた高速度カメラも問題点がいくつかありました。それが以下に述べる項目です。
・ 撮影速度の不足
       → 速い撮影速度がほしい。
・ホールド・バックスプリング(フィルム送りのバックテンションを受け持つバネ)の耐久性
       → 約12ロール毎に取り替えなければならない。
・フィルム巻き取りスプリングの適正化
       → うまく機能せず、時として、深刻なフィルムジャミング
        (フィルムが走行軌道から逸脱してフィルムの衝突状態、深刻な目詰まり)を起こした。
・16mmデーライトローディングスプールのクリップの破損
       →当時のフィルムは、スプールに取り付けられたスプリング式のクリップでフィルムを止めていた。
        そのクリップは、高速度カメラの高速撮影のために高速回転し、遠心力でクリップが外れ、プリズムや
        スプロケットを損傷させるという事故を招いていた。
・スチール製16mmデーライトローディングスプール
       →フィルムを被うスプールには当時鉄製のスプールが使われていた。
       アルミ製になったのは1956年頃。スチール製スプールは重量が重いため慣性モーメント
       が大きく撮影速度を上げる際の大きな問題となっていた。スプリングクリップ無しの
       バランスの取れたアルミスプールが作られたのは、BTLの要求に応じて開発されたのが初め
       てである。
 
■ 改良型高速度カメラ
 1933年、ベル電話機研究所(BTL)は、Eastman Kodak社に初号機の2倍の撮影速度を持つ新型カメラの開発を持ちかけました。
しかし1927年に起きた世界恐慌以来アメリカは構造的な不況に直面していて、Kodak社はパテント毎この製品を放棄してしまいました。
BTL側は、Rumpelが開発した同期装置のパテントを持っていましたので、彼らはこの特許とKodakから譲り受けたパテントで新たに高速度カメラを開発することになりました。
新たに編成されたエンジニアとして、Stoller、Herriott、Morton、Smith、Crabtree、Waddellで構成されました。
これらエンジニアの中で、Waddell氏以外は1948年までに(すなわち15年の間に)ハイスピードカメラの分野から去っていきました。
Waddell氏だけはその後もこの業界に残り、数々の高速度カメラを開発していきました。
 改良型高速度カメラ(BTL High Speed Camera )が開発されたのは、1934年のことで、以下の改良点を踏まえていました。
 
・ 4面平行プリズムの採用:
  → 1934年当時、回転軸を受けるベアリングには、最高回転数1,000rps(60,000rpm)
    という制約があったので、むやみにプリズムの回転数を上げて撮影速度の向上を図る
    ことはできませんでした。従って、2面平行プリズムを4面平行プリズムとして同じ
    プリズムの回転数でも相対的な撮影速度を2倍に上げる方法が採られました。
・ 撮影速度: 4,000コマ/秒
  → 4面平行プリズムの採用により撮影速度を4,000コマ/秒とすることができました。
・ ドライブモータと直接カプリングしたシングルスプロケットの採用
  → 従来は、2つのスプロケットを使用していたのを1つのスプロケットとし、このスプ
    ロケットとモータを直接カプリングしました。またプリズムシャフトへは1対のギア
    を介してプリズムを回す方式にし、メカトラブルを最小限に抑えるようにしました。
・ テイクアップモータの採用:
  → フィルム巻き取り用に、スプロケット、プリズムを駆動させるモータとは別の2つ目
    のモータをテイクアップスピンドル(フィルム巻き取りシャフト)に直接カプリング
    させました。このカメラに採用されたモータは両方とも掃除機などに使用される直巻
    きユニバーサルモータでした。
・ 可変電圧トランスの採用:
  → ユニバーサルモータを制御する電源として、電圧制御できるパワースタットとかバ
    リアックのような可変電圧トランスが必要でした。
 
■ 当時の16mmフィルム
  高速度カメラは、フィルムを高速度で送ります。Kodakなどのフィルムメーカーは、24コマ/秒の通常のカメラを想定して高速度で送るフィルムの強度はあまり感心を寄せませんでした。
従って、フィルムは高速度で送ろうとすると、フィルムが切れてしまったりカメラメカニズムに噛み込んでしまう、いわゆる我ら業界で言う「ジャミング」(jamming)を起こしました。
実際のところ、4000コマ/秒で撮影するカメラの移動速度は秒速30.6m(時速110km)におよびます。
フィルムを送るモータも強力なもので、フィルムを回すスプロケット、フィルムの移動に合わせて精度良く回転する回転プリズムも製作に高度の技術が要求されました。
1980年当時は高速度カメラ用のフィルムはEastman Kodakのものが優れていると言われていました。
特にフィルムを装てんしてるスプールと呼ばれる遮光用の鍔(つば)にはアルミ板が使われていて、その精度も十分にあって高速回転でも偏心によって異音が出たりメカニズムを損傷させることはありませんでした。(2019.08.15)
 
【日本のロータリプリズム式カメラの開発】
 日本でのロ−タリプリズム式カメラの開発は、1935年浜松工専の福原博士の研究に始まり、戦後、同じ浜松工専の鴨川寿教授と東京大学の植村恒義教授(1922〜2006.08)の手で2台の高速度カメラが各々市販化されました。
1960年代になって、植村恒義先生(東京大学)の指導の下で日立工機がいくつかの高速度カメラを開発しました。
1970年前半には、その製造権を(株)ナックが取得し、いくつかの改良を加えて、1982年には10,000コマ/秒のカメラとして2000年まで販売されました。
 
       
左:10,000コマ/秒、
ナックE-10(エンジン燃焼撮影に使用)
右:耐G(車載)性能、1,000コマ/秒、
米国フォトソニックス社16-1B
(自動車安全実験用車載用カメラ)
 
 
スイスWeinberger社の耐G(車載)高速度カメラ。
車の安全実験用として1990年後半まで活躍した。
コンパクトなカメラ。16mm映画フィルム100ft巻(30.3m)使用。
  
下左図は、ロータリプリズム式高速度カメラの原理図。
対物レンズとフィルム(結像面)の間に光学回転プリズムを配置し、
フィルムの移動を打ち消すようにプリズムによって光学像を移動させる。
1910年代にイギリス人Tailerがこの原理を考えた。
上右写真:16mm高速度カメラE-10とアルゴンレーザを組み合わせたレーザシュリーレン撮影
定容積チャンバ-による燃焼撮影。ガソリン、ディーゼル燃焼解析は火炎の色が重要なので
カラー撮影が不可欠。10,000コマ/秒でのカラー撮影が可能。
  
 日本の唯一の16mmロータリプリズム式高速度カメラ『E-10』の主な仕様(製造期間1981〜 2002頃)
・撮影速度: 300 - 40,000コマ/秒
       300 - 10,000コマ/秒(標準4面プリズム)
          イメージサイズ: 10.3mm(横)x7.4mm(縦)
       600 - 20,000コマ/秒(8面プリズム)
          イメージサイズ: 10.3mm(横)x3.7mm(縦)
       1,200 - 40,000コマ/秒(16面プリズム)
          イメージサイズ: 10.3mm(横)x1.8mm(縦)
・フィルム容量: 16mm巾映画フィルム、両目、白黒、またはカラー。
         100フィート巻(30,3m)、400フィート巻(121m)
(16mmフィルムは、1フィート当たり16コマの撮影ができたので、100ft巻のフィルムで
 4000コマの撮影ができた。4000コマ/秒で撮影すると、1秒程度で撮影が終わった。)
・カメラ光学系総合明るさ: F/2.5
              透過率を考慮した明るさ: T/3.0
・撮影レンズ: Cマウントレンズ標準。
        (ニコンFマウントもアダプタにより取り付け可能)
・シャッタ定数: K5標準(K3、K10、K20、K40、K80オプション)
(シャッタ定数とは、露出時間が撮影間隔の1/Kに相当するもので、
 K5は、撮影間隔の1/5が露出時間に相当する。)
・露出時間: K5標準シャッタにて、1/1,500秒(300コマ/秒)
       〜1/50,000秒(10,000コマ/秒)
・制御機構: 全撮影速度にわたってレギュレート(一定走行)。
       撮影速度は、10コマ/秒単位で設定可能。
・途中停止: 3,000コマ/秒以下において可能。
・ファインダ: 1眼レフレックス方式、倍率9.5倍。
・電源: 単相AC100V/200V±10%、電源容量30A以上。
     全レンジ単相200VAC、但し、5,000コマ/秒まではAC100Vで使用可能。
 
 
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  【ロータリープリズム方式の理論を体系づけたHarold Dennis Taylor】(2004.05.22追記)
 米国の代表的高速度カメラ『Fastax=ファスタックス』の生みの親であるJ. H. Waddellの文献(Journal of the SMPTE, Volume 75 July 1966, pp.666-674)によると、市販品として初めてロータリプリズム方式高速度カメラを開発したのは、Eastman Kodak社であったと言われています。
1932年米国ベル電話機研究所(Bell Telephone Laboratories)の要請でKodakが開発したEastman-ERPI Type2と呼ばれたカメラがそれで、Kodak社のFordyce TuttleとJoseph Boonkが設計し、ベル電話機研究所の電気技師C. H. Rumpelが電気制御(現象との同期装置)を担当したと言われています。
 この高速度カメラの開発にあたっては、最初、J. F. Leventhalが開発したロータリプリズム式映写機を基に基礎勉強をして、英国人H. Dennis Taylorがロータリプリズムの理論的は裏付けを行ったとされています。
J. F. Leventhalは、1935年2月12日にロータリプリズム方式の映写機で米国特許(1990791)を取得しています。
 H. Dennis Taylorは、Kodakの高速度カメラの他にも、ドイツの「Pentazet」高速度カメラの開発にも多くの影響を与えています。
 
H. Dennis Taylor(1862-1943):1862年イギリスHuddersfieldに生まれる。最初、建築を志すが、1880年にThomas Cooke社に雇われ光学技術者として才能を発揮しはじめる。Thomas Cooke社は、光学機器と天体望遠鏡の製造メーカだった。1892年、Taylor30才の年に、彼を有名にしたトリプレットタイプレンズ(Cooke Photo Visual telescopeレンズ)を設計し、特許を取得する。この原理を利用して作られた「Cooke」レンズは、映画カメラ用レンズとして名を馳せた。トリプレットタイプレンズは、シンプルで色収差もきれいに取れることから望遠タイプのレンズの基本になった。このレンズには、ショット社が開発した新しい光学材料を採用していた。1895年、ドイツのJena(イエナ)に旅し、そこでErnst Abbeを訪問し、Schottガラス工場で作られている最新のガラス材料の供給を取り付けた。Cookeレンズは、映画カメラ用レンズとして採用され、最初、Thomas Cooke & Sons社で売られていたが、1893年、Taylor&Hobson社が扱うようになり、ランク社の傘下となってRank Taylor Hobson社経由で販売された。現在は、Cooke Optics社が映画用レンズを販売している。
Dennis Taylorは、設計者としての仕事が多く数多くの特許と論文を著している。
 
1892  レンズ焼けによるレンズの反射防止を発見(コーティング=coatingの基礎)
1894  Cook レンズを設計(トリプレット型)
1906  書物『A System of Applied Optics』刊行
1934  論文『The Image Distortion and Other Effects Due to The Glass
        Thickness in Lens System』発表
1937  論文『On the Use of Rotating Plane-Parallel Glass Blocks for
         Cinematography and for Projection with Continuously Moving Film』
 
Taylorは、近代光学発展の重要な役割を担い、ロータリプリズム理論においても優れた功績を残しました。
 
【ロータリープリズムカメラ育ての親 Robert D. Shoberg】(1998.8.25)
ボブ・ショーバーグは、「Hycam」と呼ばれる米国を代表する高速度カメラを設計したエンジニアです。
ミネソタ生まれで、1947年〜1954年のロケット開発時代には、Werner von Brown博士やKurt Debus博士ら著名な科学者らとWhite Sands Missile射場、Red Stone 兵器廠で研究を共にしていました。
1954年、White Sands Missile射場を辞めたShoberg氏は、高速度カメラのメーカであるWallensak Optical 社のFastax部門に入り、1958年にはBeckman & Whitely に入社して、1961年に Red Lake 社 を設立します。
 Red Lake 社の名前の由来は、彼が釣りが好きで、釣りに通っていたミネソタ州北部の池の名前をとってつけたと言われています。社名のロゴも、池の形に似せて造られました。
 Hycamと呼ばれた16mmロータリープリズムカメラは、それが出るまで主流だった「Fastax」(Waddell設計)カメラを一蹴するほどの画期的なカメラでした。
16mmフィルム自体がプリズムとシャッタを回すという発想で、コンパクトなカメラとなりました。
このカメラは、従来の高速度カメラが高速で撮影するとフィルムが切れるという問題を、巧妙なメカニズムで解決したのです。
 彼は、さらに改良を加えた新しいカメラを作ろうとしましたが、大きくなったRed Lakde社の中では、社長といえども、勝手に行うことがかなわず、1976年に新たにPhotonic Systems, Inc.を設立して「Photec」と呼ばれる高速度カメラを開発しました。
このカメラは、1998年現在、米国で生産を続けている10,000コマ/秒クラスの唯一の16mmフィルム式高速度カメラとなりました。
Shoberg氏は、第一線を退き、製造権もすでにPhotographic Analysis Company(現在はVision Research社に社名変更、社長:Connie Jantzen)に移っています。
 Shoberg氏とは、2回会っています。1回目は、1983年にMIT(Edgerton博士主催)で行われた高速度写真セミナーに参加した時(上写真参照)で、この時Shoberg氏は自ら開発したPhotecを持ち込んでカメラの撮影法と取扱の説明を行っていました。
ものすごく大柄な(横方向に)人であったのを記憶しています。
私の名刺を渡したら無造作に名詞をくれたのが印象的でした。
アメリカに来て始めての名刺交換で、誰の紹介でもなく一人で私を売り込んだわけですからしょうがないと言えばそれまでですが、日本の名刺交換儀式とは違うな、と当時思ったものです。
また、日立のことをヒタチと言えず、ハィ〜チと発音していました。
アメリカ人は、すべてヒタチと言えないことを後になって知りました。
 彼との出合いの2回目は、1990年イギリスケンブリッジで開かれた国際高速度写真学会(International Congress on High Speed Photography and Photonics)です。このときは、かなりの高齢にも関わらず杖を付ながら出席され、不自由な舌を動かしながら、同年1月に亡くなったストロボの発明者MITのEdgerton博士の追悼講演をされました。
 2000.08月、Redlake社の社長Steve Ferell氏に会うことが出来、彼の消息を聞きましたが、彼は随分前に他界されたそうです。
ちなみに、高速度フィルムカメラで一斉を風靡したRedlake社は、フィルムカメラの後、1990年代後半に高速ビデオのビジネスに成功して、MotionScopeと呼ばれる廉価版のシステムでマーケットに貢献を果たしました。
また、1998年には、Kodak MASD(前身がSpin Physics社、高速度ビデオカメラで有名)社と吸収合併し、2001年には、Redlake MASD(本社 San Diego)社、2007年には、米国IDT社(Integrated Design Tool Inc.)の傘下に入り、高速度デジタルカメラの製造販売を続けています。(2008.11.27)
 
Robert Shoberg氏が手がけた高速度フィルムカメラ(ロータリープリズム方式)。
左が、Wallensak時代のFASTAX(1960年代)。
真ん中が、RedLake社時代のHycam(1970年代)。
右が、Photonic社のPhotec(1980年代)。
これらのカメラは、米国の宇宙開発を中心に使われた。
 
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ロ−タリミラ−式フィルムカメラ
 
 このタイプのカメラは、予めカメラ内部壁面にフィルムを装填しておき、カメラ内部に配置されたミラ−を回転させ、同じくカメラ内部に配置されたリレ−光学系により、有限枚数の高速写真を得るカメラです。
 このカメラは、米国のNACA(NASAの前身)のエンジン燃焼研究者 Clearcy D. Millerが考案しました。Millerは、1939年に彼独自で製作した40,000コマ/秒のカメラで航空機エンジンのノッキング燃焼撮影に成功し、自らのカメラをさらに改良し1947年には200,000コマ/秒までステップアップさせ研究を進めました。
 1943年、原子爆弾の実用化を急ぐ米国ロスアラモス研究所 光学計測部のBerlyn Brixner(1911.05.21 - )は、Millerの考案したカメラを基に、さらに高速で回転するミラ−とカメラ光学系を設計し、1,000,000 コマ/秒のカメラを開発して実験に使いました。
このカメラは、終戦後になっても東西冷戦下の核開発一連の研究になくてはならぬ物として、ロスアラモス研究所を始めロ−レンスリバモア研究所、サンディア国立研究所といった3大研究所で設備の拡充と共に浸透していきました。
 日本では、戦前に九州大学の栖原豊太郎博士がこのタイプのカメラの研究をされ、戦後、東京大学精密機械の植村恒義教授(1921 - 2006.08)が精力的にこのタイプのカメラを研究されました。
しかし、需要の関係もあってかこの種のカメラで現在も市販し続けているのは、世界的に米国CORDIN社(Uta州 SaltLake市)1社のみで、日本には1,000,000 コマ/秒クラスのカメラが2000年までに約10台程度導入されました。
このカメラの心臓部は、カメラ内部で回転するロ−タリミラ−で、これを圧縮空気もしくは圧縮ヘリウムを使って最高500,000rpmの回転を与えます。
回転ミラ−の材質は高張力鋼を使っても回転により表面が変型してしまうため、軽くて張力に強いベリリウムを用いています。
 
 
 
 
【Berlyn Brixner(1911.05 - )】  (2008.11.27追記)
 ブリクスナ−氏は、ロスアラモス研究所(Los Alamos National Laboratory、米国ニューメキシコ州)で原子力爆弾開発の光学計測を担当された方です。
彼が開発した高速度カメラ(MOD-6)は、記録枚数170枚、3,500,000コマ/秒、イメージサイズ12mmx14mmの性能を持っていました。
彼は、1952年、Eniwetok環礁での水素爆弾実験で、10台の高速度カメラを使用して、起爆から爆発初期の成長を1us単位で画像に集録することに成功しました。
この実験結果は、今なお米国政府の極秘機密であるため未公開ですが、カメラの開発と当時の実験状況を報告した論文は、政府の許可の下で発表されています。
("High-speed photography of the first hydrogen-bomb explosion", SPIE Vol.1801 High-Speed Photography and Photonics 1992, pp. 52-60、"A High-Speed Rotating-Mirror Frame Camera", Journal of SMPTE, Dec. 1952 pp.55-63)
 私は彼に3回会っています。
1回目は、1983年、高速度カメラメーカー(米国Cordin社)主催の高速度カメラセミナーの会場でお会いしました。
Edgerton博士、C. D. Miller氏と共に参加されていました。
とても物静かで、口数が少ない方でした。
2回目は、1992年カナダで行われた高速度写真学会でした。
彼は、ここで自らの経験を論文にまとめ発表していました。
80歳の高齢で彼の仲間もおらず、お一人でやって来られ、会場でも一人ポツンと席に座られていたのが印象的でした。
3回目は、1996年の米国Santa Feで行われた高速度写真学会でした。
彼は、ここでも同じような内容の講演を行っていました。
話しに抑揚がなく、プレゼンテーションも朗読だけなのであまり魅力ある講演ではなかったのですが、米国を代表する高速度カメラの権威なのだなと感じました。
非常に物静かで無駄口は叩かず、黙々と研究をされるタイプで、アメリカにもこのような研究者がいるのだなと感心した記憶があります。
 
【C. David Miller】  (1998.8.25)
 私の父と母は、太平洋戦争時代、名古屋での空襲を経験しています。
空の要塞B29爆撃機が4機編隊で名古屋の兵器廠や民家を焼夷弾で焼き尽くした話しを何度も聞かされました。
当時、この爆撃機は、日本の迎撃戦闘機や高射砲が届かない高度を保って、悠々と爆弾の雨を地上に降らせて南方に引き上げて行ったと言います。
日本でも、この爆撃機を迎え撃つには高高度を飛べる飛行機が必要だったのですが、それを高性能な飛行機はありませんでした。
飛行機が高高度を飛ぶとき、希薄になった空気を如何に効率よくエンジンに送り込んで、推力の出る(速度が速い)エンジンを作るかが重要な課題でした。
日本には、その技術も具体的な燃焼理論もなかったのです。
酸素が欠乏する高高度下でのエンジン燃焼は、出力が急速に低下するのみならず、ノッキングと言って異常燃焼が起きるのです。
この現象が起きたら最後、エンジンは激しい振動に見舞われ、ピストンが破壊されてしまいます。
米国航空局(NACA = National Advisory Committee for Aeronautics、NASAの前身)は、第一次世界大戦で航空機の威力を知るや、高性能エンジンの開発と基礎研究に着手し、航空機エンジンの異常燃焼解明のため高速度カメラを開発してしまいました。
この分野で高速度カメラを開発したのは、NACAのエンジン燃焼研究者C.D.Millerでした。
彼は、回転ミラーをリレーレンズの間に配置させて光束を掃引させることにより、高速シャッタリングができるという"ミラー原理"(Miller 's principle、鏡のミラーではなく、人物のミラー)を発見し、これを応用して最終的に200,000コマ/秒の高速度カメラを開発したのです。
このカメラを使ってノッキング現象を撮影した結果、ノッキングは50マイクロ秒というきわめて短い時間に発生し、燃焼していない温度の低い未燃ガスから起きていることを突き止めたのです。
Millerは、この研究で一躍有名になりました。エンジンも高性能エンジンとなり太平洋戦争に湯水の如く投入されました。
 私は、C.D.Millerに1983年に米国ソルトレークシティで開かれた高速度写真セミナーでお会いしています。
80歳をかなり過ぎたと思われる高齢にも関わらず、セミナーに参加され若い後輩技術者たちが話す講演に熱心に耳を傾けていらっしゃいました。
 
 
米国Cordin社のミラー式高速度カメラモデル317。
35mmフィルム(865mm、24枚撮り相当)をカメラ内側ドラムに巻き付け、
イメージサイズ25mm x 17mmを50枚撮影。最高速度16,100コマ/秒。
カメラ内部光学系の明るさがF18相当、ミラーシャッタ効果でシャッタ時間が撮影速度の1/20と短いので
撮影のための光量はかなりの量が必要です。
右の撮影風景は、光源に専用のキセノン光源を使用して、ドラム1回転分の光量を与えています。
 
 
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ハイスピ−ドビデオカメラ(高速度ビデオ装置)
 
 高速度ビデオカメラの開発は、1972年、米国Video Logic社が開発した120コマ/秒、白黒ビデオカメラに始まります。このビデオ装置は、テレビカメラの4倍のスピードをもっていました。従来、高速度カメラといえば16mm巾映画フィルムを用いた高速カメラが一般的でしたが、このビデオカメラが世に出て以降、多くの種類の高速度ビデオカメラが開発され、高速度カメラの主流になりました。
 フィルムカメラを使えば、フィルムを駆動するメカニズムの高速化により10,000コマ/秒程度の撮影が比較的容易に達成されます。しかしビデオカメラの場合には、取り込む画像は一筆書きのように記録されるため記録周波数が高くなり、高速度映像記録は容易ではありませんでした。
  高周波記録への挑戦、これが高速度ビデオカメラに課せられた命題でした。
 1981年、VHSテープを使った200コマ/秒の高速度カラービデオカメラが市場に出された時、画質はフィルムカメラのそれより格段に劣ってました。しかし、我々の危惧を一笑するかのように、高速度ビデオ装置は急速に浸透していきました。高速度ビデオが発展した理由として、以下の項目が挙げられます。
 
(1) 即時再生が可能。
------ フィルムカメラは、フィルムの現像が必要で、結果を得るまで時間がかかった。
(2) ランニングコストが安価。
------ フィルムカメラはフィルムと現像代が高価。ビデオカメラはビデオテープ使用で安価。
(3) 失敗が少ない。
------ 画質は劣るが、経験が浅くても高速画像を撮ることが可能。フィルムカメラは熟練が必要。
(4) 使用するユーザが拡がった。
------ 長時間録画が可能になったため、何時起きるかわからない偶発的な現象の撮影が可能。
(5) ビデオ機器の知識、設備が浸透した。
------ 市販品でVTR、ビデオモニタ、編集機等が安価に供給されるようになり、得られた画像を
   カセットテープにダビングしていろいろな場所で再生・編集する事が可能になった。
 
 
         米国Video Logic社が開発したINSTAR。     ナックが開発したカラーハイスピードビデオHSV-200。
Instar(左)は、白黒120コマ/秒、1インチビデオテープ、撮像素子は、ビジコン管。
HSV-200(右)は、カラー200コマ/秒、VHSテープ、撮像素子プランビコン管。
 
 世界で始めてのカラー高速度ビデオ『HSV-200』の主な仕様(製造期間1981-1986)
・規格: VHS規格準拠
・電源: AC100V±10%、50/60Hz
・消費電力: 700W(カメラ1台構成)
・録画速度: 200フィールド/秒(カラー、白黒)
・録画時間: 36分(VHS T-120使用)
・録画テープ: 1/2" VHS標準テープ
・露出時間: 1/50,000秒(20マイクロ秒、ストロボ使用時)
       1/2,000秒(標準メカニカルシャッタ使用時)
・再生様式: ノーマル実時間再生、スローモーション、静止、
       1フィールド送り、逆転、再生
・スローモーション: 1フィールド/秒〜15フィールド/秒、連続可変
・オーディオ: 2チャンネル、同時、もしくは録画後録音
・被写体最低照度: 3,000ルクス以上、レンズ絞りF/4(ストロボ使用時)
          25,000ルクス以上、レンズ絞りF/4(メカニカルシャッター1/2,000秒)
・撮影レンズ: Cマウントレンズ標準、(ニコンFマウントもアダプタにより取り付け可能)
・メーカー: (株)ナック(現:(株)ナックイメージテクノロジー)
 
 
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日本でのハイスピードビデオカメラの開発
 
 前にも述べたように、世界で初めてハイスピードビデオが開発されたのは1972年のことです。
米国Video Logic社が、同国Ampex社製の1インチ磁気テープ用垂直スキャン方式ドラムヘッドを使ったビデオテ−プレコ−ダを改造して120コマ/秒の白黒カメラを開発しました。
 日本では1981年、ナック社より世界で初めての1/2インチVHS方式によるカラ−200コマ/秒高速度ビデオを開発しました。
さらに1986年、撮影速度を2倍にした400コマ/秒の『HSV-400』を開発し、1990年には、S-VHS方式による1,000 コマ/秒のカラ−ハイスピ−ドカメラを開発しました 。
 磁気テープ方式による高速度カメラの高速化は、2004年の時点で、フル画像500コマ/秒(部分画像4,000コマ/秒)が最高で、それ以上の速度では記録処理時間が速いICメモリを使用した方式をとっています。
 1994年に開発されたMEMRECAM Ci(ナック社製、1994 - 2002年)は、画像読み出しを直接アドレスできる撮像素子 = CMD(Charged Moduration Device、オリンパス光学工業開発)を用い、記録媒体にはICメモリを採用したカメラ一体構造を採用して、2,000コマ/秒の撮影速度を達成しました。
カメラには、580画素 x 434画素@500コマ/秒で16000枚録画できるICメモリが実装されていました。(約400MB相当のメモリ容量)。
このカメラの特長は、コンパクトな設計思想にあり、ICメモリ、ディジタル回路を全てカメラ内部に収めています。
また、画像をSCSIインターフェースでバックアップ用ハードディスクに転送したり、複数台のカメラの完全同期撮影、遠隔でのカメラ操作が可能な性能を持っていました。
 
 
米国でのハイスピードビデオカメラシステム開発  (2009.12.03追記)
 米国では、1972年のVideo Logic社による高速度ビデオ以来、13年を経た1981年にスピンフィジックス社(Spin Physics社 = Kodak社Motion Analysis Systems Divisonの前身、1999年11月Roper MASDに社名変更、2001年3月Redlake MASDに社名統合、2007年IDT社に統合)によって、新しいタイプの高速度カメラ SP-2000が開発されました。
 
■ SP-2000
 SP-2000は、1/2インチのビデオテープを使った高速度カメラです。フルフレームで白黒2,000コマ/秒(分割撮影で12,000コマ/秒)の撮影ができました。
この撮影速度は画期的なものでした。
磁気テープを使ったビデオカメラで2,000コマ/秒の撮影ができるなんて夢のような出来事だったからです。
彼らはこの撮影速度を達成させるために、コダック研究所(米国New York州 Rochester)が開発した画像の読み出しを数カ所から読み出す並列読み出し方式のMOS型固体撮像素子を採用しました。
この素子が開発された当時は、まだソニーが市販化に向けてCCDの開発を続けていた時期です。
当時のビデオカメラには、すべて撮像管(電子管)が使われていました。
高速度カメラでもビジコンやプランビコンと言った撮像管を使ったカメラが使われ、200コマ/秒の撮影が精一杯の時代でした。
撮像管では高速で撮像することができませんでした。
こうした時期に、コダック社(とその関連会社 Spin Phisics社)は、高速度カメラ用としてMOS型小型撮像素子を開発し、フルフレーム2,000コマ/秒のカメラを作ったのです。
 SP-2000の持つ撮影速度は、従来のビデオカメラの常識を打ち破る画期的なもので、業界に一大センセーションを巻き起こしました。
これだけの高速撮影が可能になったのは、以下の理由によります。
 
1. 同社が専用の高速読み出しMOS型撮像素子を開発できたこと。
2. 画像素子からの並列信号を記録する多チャンネルマイクロギャップ録画ヘッド、及び
3. 高密度磁気テープの開発ができたこと。
 
 同社は、この並列読み出しによる信号出力で特許を取得しています。
 下の写真が、SP-2000と呼ばれた高速度ビデオ装置です。
この装置はとても重く、大の大人が二人がかりでも車に載せられないほどの重さがありました。
また、やはりというか、磁気テープが高速で走行するために、マイクロギャップヘッドの目詰まりやテープのダメージも多くありました。
この装置は、テープスピードを6.3m/秒で走らせていました。
しかし、この高速度ビデオの登場は、1,000コマ/秒以上の高速度による電子記録装置の幕開けであり、この装置の開発は画期的な出来事だったと言えるでしょう。
 

 

 世界最高速ビデオ装置『SP-2000』の主な仕様(製造期間1981-1986)
・センサー: MOS型固体撮像素子(白黒)
・画素数: 192画素(水平) x 240画素(垂直)
・画素のS/N: 34dB
・ダイナミックレンジ: 64:1(6ビット)
・撮影速度: フルフレーム 2,000コマ/秒、1,000コマ/秒、500コマ/秒、200コマ/秒、50コマ/秒
       分割フレーム@32x240にて、12,000コマ/秒
・露出機能: 特になし。1/撮影速度が露光時間
・磁気ヘッド: 17 x 2 = 34chによるマイクロギャップヘッド
        映像信号32ch、タイミング信号2ch
・ヘッドギャップ: 0.3um
・記録方式: リニアビデオレコーディング
      (ヘリカルスキャンではない)によるFM変調録画
・記録テープ: 1/2インチ巾、高密度磁気テープ
       1,000ft、カセット式
・テープスピード: 6.3m/秒(2秒で定速走行)
・録画時間: 約45秒@フルフレーム2,000コマ/秒
・再生: 60コマ/秒及びジョグモード
・静止画像: バッファーメモリより再生
・再生画像: NTSC信号によるビデオ信号
・モニタ: 12インチ
・サイズ: 本体 約50cm x 50cm x 100cm
・重量: 約120kg
・電源: AC110V、50/60Hz、約5A
・撮影レンズ: Cマウントレンズ標準、
       (ニコンFマウントもアダプタにより取り付け可能)
・メーカー: 米国Spin-Physics社(Kodak MASD社)
 
 
 
 
■ Ektapro 1000 
 Kodak社は、『SP-2000』の後継機種として、1986年にコンパクトなテープ式ビデオ『エクタプロ(=Ektapro)1000』を発売しました(右図参照)。
固体撮像素子は、SP-2000で開発した同じものを用い、記録部をコンパクトにして撮影速度を半分に落として、フルフレーム1,000コマ/秒としました。
また、6分割で6倍速の6,000コマ/秒での撮影も可能でした。
カセットを収める本体部は、SP2000が120kgあったものを36kgまで軽くしました。
モニターを12インチものから14インチのものに大きくしました。
ビデオカメラでフルフレーム1,000コマ/秒の撮影できるのは、1980年代当時、このカメラしかありませんでした。
 また、1989年には世界で初めて半導体メモリ記録方式を使った『Ektapro EM』を開発しました。
1993年には、新しい並列読み出しMOS型撮像素子によるICメモリ式高速度ビデオ『Ektapro HS4540』を発売しました。
このカメラは、4,500コマ/秒の世界最高速の撮影速度を持ち、分割で40,500コマ/秒までの撮影が可能になりました。
1994年には、新しい並列読み出し式カラーCCD撮像素子を使った1,000コマ/秒のICメモリ高速度ビデオ『Ektapro 1000HRC』を発売しました。
このカメラは、Kodakが開発した高解像力の固体撮像素子と単板フィルターによるカラーマトリクス方式の採用により、画質の良好なカラー高速度画像が得られています。
この時期からKodak社は、テープ方式による高速度ビデオの生産を中止し、自ら開発した高速度カメラ用撮像素子を搭載してICメモリ式高速度ビデオのラインアップ体制を整えています。
ちなみにKodak社は、1999年11月に高速度カメラ部門(MASD =Motion Analysis System Division)をRoperに売却し、米国のもう一つの高速度カメラの老舗Redlake社と統合し、Redlake MASD社として製造販売を続けました。
Redlake MASD社は、さらに2007年、同じ米国のIDT社によって引き継がれ高速度カメラシステムの開発を続けています。
 米国では、1987年より米国軍の大型プロジェクトとして、フィルム式高速度カメラに代わる高速度ビデオ撮像素子の開発が始まり、1996年までにはEG&G、Princeton Instruments、SMD社等から512x512画素1,000コマ/秒対応の素子、128x128画素1,000,000コマ/秒対応素子の開発と高速度カメラ試作開発の発表がなされました。
 1995年に、CMOSタイプの高速撮像素子が米国Photobit社から発売されるようになると、2000年以降、1,000 x 1,000画素で500コマ/秒〜2,000コマ/秒のカメラがいろいろなメーカーから次々と作られるようになりました。
 
 以下に示す高速度ビデオは、1998年に登場したCCD固体撮像素子を使ったメモリ式の高速度カメラで、100Gの衝撃に耐える車載用高速度ビデオです。
小型一体型構造で内部にPCカードによるメモリも備えています。
通信はイーサネット100Baseを使って、制御のみならず画像データも送信できるようになっています。
1990年代は映像をデジタルで記録するという技術がまだ成熟しておらず、ほとんどの映像はNTSCアナログ信号を用いてビデオテープに録画していました。
このカメラは、欧米の自動車安全実験、宇宙開発にシステムに組み込まれて使用されました。
このカメラに使われた撮像素子は、Kodakが開発した32ch並列読み出しのCCD固体撮像素子でした。
このカラー単板撮像素子は、KodakのBayer博士が発明したR.G.B.配列のフィルターを使用していて、Bayerフォーマットと呼ばれる画像フォーマットで録画されます。R.G.B.フィルターは、補色フィルター(Cy、Ma、Ye)方式によるカラーフィルターに比べ発色が良くきれいな画像を得ることがでいました。
画像転送は、Bayerフォーマット、TIFFフォーマットのいずれでも保存できるようになっていました。
 
 
 
100Gの衝撃に耐える車載用カラー高速度ビデオ『HG2000』の主な仕様(製造期間 1998 - 2004)
 
・撮像素子: CCD固体撮像素子
      (電子シャッタ及びアンチブルーミング機能付インターライントランスファタイプ)
・撮像素子サイズ: 8.192mm x 6.144mm (2/3インチタイプ)
・撮像素子画素数: 512 x 384 = 198,608画素
・ピクセルサイズ: 16um x 16um
・画素開口率: 70%(水平) x 88%(垂直)
・電子シャッター: 23マイクロ秒 〜 983us(1,000コマ/秒時 )、5us単位設定
・撮影速度: 2,000コマ/秒、1,000コマ/秒、500コマ/秒、250コマ/秒
       125コマ/秒、60コマ/秒、30コマ/秒
・録画枚数及び録画時間: 1,024枚(1,000コマ/秒にて約1秒)
             オプションで2,048枚(1,000コマ/秒にて約2秒)
・再生速度: 1コマ/秒、2コマ/秒、4コマ/秒、7コマ/秒、
       15コマ/秒、30コマ/秒
・インターフェース: RS485:複数のカメラの同時制御可能インターフェース
           RS232:単体のカメラ制御用インターフェース
           イーサネット:UDP/IPプロトコルによる100Base-Tインターフェース
            (イーサネットインターフェースでは画像の転送が可能。)
・撮影レンズ: Cマウントレンズ標準、(ニコンFマウントもアダプタにより取り付け可能)
・耐衝撃: 全方向から100G、10ms、1,000回。
      全方向から50G、100ms、1,000回。
 
 
■ 高画素・高速度カメラの開発 (2004.10.17記)
 10年前(1980年代)の技術レベルと比べるとテクノロジーの進歩の凄さに目を見晴らされます。
1980年代初めに高速度ビデオカメラができた時は120コマ/秒程度が精一杯だったのに、2000年を越えた時点から、メガピクセル画素で1000コマ/秒のカメラが台頭し、2003年には、1504 x 1128画素で、1,000コマ/秒、部分画素で100,000コマ/秒の撮影ができるカメラが開発されました。
 こうしたカメラが出来上がる背景には、
 
  ・ 高速で撮影できる固体撮像素子が開発されたこと、
  ・ 撮影された画像を高速でかつ大量に記録できる記録素子(SDRAM)が開発されたこと、
  ・ 大量の画像情報を転送できる転送プロトコル(ギガイーサネット)が完成したこと、
  ・ 大量の画像ファイルを圧縮する技術(JPEG、MJPEG)が完成したこと、
  ・ 電子回路を非常にコンパクトに設計できる回路技術が進歩したこと
 
などが挙げられます。
 
 100Gの衝撃に耐える車載用カラー高速度ビデオ『HG-100K』の主な仕様(製造期間 : 2003 - 2008) 
 
・撮像素子: CMOS固体撮像素子
・撮像素子サイズ: 18.048mm x 13.536mm(対角線22.6mm)
・撮像素子画素数: 1,504 x 1,128 = 1,696,512画素
・ピクセルサイズ: 12um x 12um
・画素開口率: 45%
・素子感度: ISO200(カラー)、ISO800(白黒)
・電子シャッター: 5マイクロ秒 〜 997us(1,000コマ/秒時 )、1us単位設定
・撮影速度: 1コマ/秒〜100、000コマ/秒、外部信号による撮影が可能。
       (Ext Sync、ROC = Rec. On Command、BROC = Burst Rec. On Command可能)
・録画枚数及び録画時間: 1,024枚(フル画像1,000コマ/秒にて約1秒、部分画像設定ではそれ以上)
・撮影のためのトリガ信号: パソコンよりトリガクリック
              カメラ背面トリガコネクタ(BNC)よりTTL信号の立ち上がり、もしくは立ち下がり
              カメラ背面トリガコネクタ(BNC)よりメイクコンタクト信号
・保存画像: TIFF、JPEG、Bayer-2、AVI
・再生速度: 静止、1コマ/秒〜240コマ/秒
・インターフェース: イーサネット:TCP/IPプロトコルによる100/1000Base-Tインターフェース
        (カメラの制御、ライブ画像表示、記録画像の再生、及び転送)
・通信パソコン: WindowsXP(dot.netがインストールされていること)
・ネットワーク制御: IPアドレス設定により通常のネットワークハブを用いて255台までのカメラの制御が可能。
・撮影レンズ: Cマウントレンズ標準、(ニコンFマウントも取り付け可)
・耐衝撃: 全方向から100G、5ms、1,000回。
・メモリバックアップ: リチウムバッテリ内蔵で撮影した画像保存。不用意に電源が切れても1時間程度保持。
・寸法及び重量: 135mm(H) x 105mm(W) x 282mm(D)、約5.5kg
・電源: DC20-DC50V、最大消費電力40W
・使用環境: 0℃〜+50℃、5〜80%RH(結露なきこと)
 
 
 
 
■ 小型コンパクトな高速度カメラの開発 (2008.11.27記)
 2008年には、以下に示すような、とてもコンパクトな高速度カメラが開発されました。
このカメラは、手のひらに乗るサイズで、この中に画像を保存するメモリを含めすべての機能が内蔵されています。
従って、このカメラは、ギガイーサネットと電源をつなぐだけで操作が可能になっています。
 このカメラの素子は、CMOS固体撮像素子を使っていて、12umx12umの画素サイズ、1280x1024画素で2,000コマ/秒の撮影ができるものです。
技術の進歩には驚くべきものがあります。
  IDT社 MotionPro N3 小型高速度カメラ

 

■ MotionPro N3の仕様 (2008.10〜)
 
・ 撮像素子のタイプ: CMOS固体撮像素子、グローバルシャッタ方式
            (購入時、白黒素子、カラー素子いずれか指定、白黒のほうが画質、階調、感度とも良い)
・ 画素数: 1280画素 x 1024画素(1.31Mピクセル)
・ 1画素の大きさ: 12um x 12um
      (他の高速度カメラに比べ1画素が小さいので拡大撮影では優位。レンズもコンパクトなものが使用できる。)
・ 撮像素子の大きさ: 15.36mm x 12.29mm (対角線19.67mm)
・ 撮影速度:
   - フルフレーム(1,280 x 1,024画素にて): 1,000コマ/秒
   - プラスモード(フルフレーム、1,280 x 1,024画素にて): 2,000コマ/秒
   - 最高撮影速度(1,280 x 16画素にて): 65,000コマ/秒
   - プラスモード最高撮影速度(1,280 x 16画素にて): 130,000コマ/秒
・ 最小露出時間(電子シャッタ): 1us( = 1/1,000,000秒)
・ 最大露出時間: 1/撮影速度 - 3us
         (例: 1,000コマ/秒の時、 997us)
・ 設定露出時間: 1us単位で上記範囲で任意に設定可能。
・ ダブル露出機能(PIV撮影): 可能(インターフレームは100ns = 0.1us)
        (流れの可視化撮影、Particle Image Velocimetry = PIV 撮影に便利。
・ カメラ操作:
- 汎用PC(パーソナルコンピュータ、デスクトップパソコン、ノートパソコン、ラップトップパソコン)を使用
- 操作ソフトウェア: Motion Studio(モーションスタジオ)
      IDT社Webサイトから最新のソフトウェアをダウンロード可能。
- 対象パソコン: WindowsXP sp2、Windows Vista、 Mac OSX 10.4以上
    要求仕様
     CPU: インテル Core2以上
       通信: ギガベースイーサネット
     RAMメモリ: 512MB以上
       HDD: 40GB以上
     モニタ表示: 1208x1024画素以上
       記録媒体: DVD装備
・ 画像保存
- 連番TIFF
- 連番BMP
- 連番JPEG
- AVI 動画ファイル
- MPEG 動画ファイル
・ カメラ寸法:  57mm x 57mm x 77mm、重さは約400g。
・ 電源:DC2V、1A容量
・ 電気信号ユーティリティ
・ データ通信  - ギガイーサネット通信
・ トリガ信号  - SMAコネクタ。TTLもしくはCMOSデジタル信号(立ち上がり、立ち下がり)
・ Sync.IN信号  - 同上。
・ Sync.Out信号  - CMOSデジタル信号(立ち上がり、立ち下がり)
 

 

 

■ 超小型コンパクトな高速度カメラの開発 (2019.08.15記)
 
2018年には、以下に示すようなさらに小型の高速度カメラが開発されました。
カメラサイズは、70mm x 44mm 44mm、270gというとても小さいもので、2560 x 1440画素で1000コマ/秒の撮影を可能にしています。
このカメラは、手のひらに乗るサイズで、この中に画像を保存する4GB相当のメモリを含めすべての機能が内蔵されています。
オプションで、マイクロSDも挿入でき、録画時間を長く取ることができたり即座のバックアップも可能になっています。
通信ケーブルは、USB-Cケーブルを用い、電源、LAN通信、トリガー信号、同期信号をこのケーブルを通して行うことができます。
小型カメラは、耐G性が備わっていて、全方向200Gの衝撃性と40Gの振動に耐えられる設計になっていて、衝撃によるトリガセンサーも内蔵し衝撃で自動トリガがかかるようになっています。
   
IDT社 Crashcam mini 3510 小型高速度カメラ

 

■ CCmini 3521の仕様 (2018.10〜)
 
・ 撮像素子のタイプ: CMOS固体撮像素子、グローバルシャッタ方式
            (購入時、白黒素子、カラー素子いずれか指定、白黒のほうが画質、階調、感度とも良い)
・ 画素数: 2560画素 x 1440画素
・ 1画素の大きさ: 7.5um x 7.5um
      (他の高速度カメラに比べ1画素が小さいので拡大撮影では優位。レンズもコンパクトなものが使用できる。)
・ 撮像素子の大きさ: 19.2mm x 10.8mm (対角線22.0mm)
・ 撮影速度:
   - フルフレーム(2,260 x 1,440画素にて): 1,000コマ/秒
   - 最高撮影速度(2,260 x 16画素にて): 40,000コマ/秒
・ 最小露出時間(電子シャッタ): 1us( = 1/1,000,000秒)
・ 最大露出時間: 1/撮影速度 - 3us
         (例: 1,000コマ/秒の時、 997us)
・ 設定露出時間: 1us単位で上記範囲で任意に設定可能。
・ ダブル露出機能(PIV撮影): 可能(インターフレームは100ns = 0.1us)
        (流れの可視化撮影、Particle Image Velocimetry = PIV 撮影に便利。
・ カメラ操作:
- 汎用PC(デスクトップパソコン、ノートパソコン、ノートパッド)を使用
- 操作ソフトウェア: Motion Studio(モーションスタジオ)
      IDT社Webサイトから最新のソフトウェアをダウンロード可能。
- 対象パソコン: Windows10
    要求仕様
     CPU: インテル Corei5以上
       通信: ギガベースイーサネット
     RAMメモリ: 8 GB以上
       HDD: 500GB以上
     モニタ表示: 1920x1080画素以上
・ 画像保存
- 連番TIFF
- 連番BMP
- 連番JPEG
- AVI 動画ファイル
- MPEG 動画ファイル
・ カメラ寸法:  44mm x 44mm x 70mm、重さは約270g。
・ 電源:DC7.5Vから14V、1A容量
・ 電気信号ユーティリティ
・ データ通信  - ギガイーサネット通信
・ トリガ信号  - BNCコネクタ。TTLもしくはCMOSデジタル信号(立ち上がり、立ち下がり)
・ Sync.IN信号  - 同上。
・ Sync.Out信号  - CMOSデジタル信号(立ち上がり、立ち下がり)
 

 

 
 
 
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ハイスピードビデオの発展  (2009.12.05)(2023.07.26追記)
 
記録周波数とのたたかい
 記録周波数帯域はビデオ装置を設計するものにとって大きなファクターです。
ハイスピードビデオカメラは、一般の電子計測機器とは比べものにならないほどの長時間記録と高い記録周波数帯域を持ちます。
記録周波数は、1,000コマ/秒の高速度ビデオで46MHzに達し、ディジタル値になおすと630Mビット/秒にも相当します。
この程度もしくはこれ以上の撮影速度をもつビデオカメラを開発するには、専用の高速読み出し撮像素子開発はもとより記録周波数の高い記録媒体が必要となります。
 
撮像素子の開発
 NTSC規格(National Television System Committee)(米国は2009年6月放送終了、日本は2011年7月)は、米国、カナダ、日本、韓国で採用していたテレビジョン送受信の規格で1950年に骨子ができました。
1990年代までの映像は高周波の大量のデータであるので、NTSC映像信号規格が大切なものでした。この規格に沿った映像関連機器や素子の入手が楽だったのです。
また1950年代からの急激なテレビジョンの普及が災いして、技術が進歩しても広く出回った受像機の互換を保つため新しい規格を導入できず、長い間抜本的な改良が望めないままでいました。
この規格に準拠した固体撮像素子を高速度カメラに転用する場合、画像の読み出し時間に問題が生じます。
NTSC規格のビデオ信号では、撮像素子からの信号取り出しが1つのシリアル信号であるために高速走査(高速度撮影)が難しく、この問題を打開するにはNTSC規格を離れ、複数の取り出し口から映像信号を並列に読み出す方式が考えられるます。
しかし、この方法にするには撮像素子を新たに開発しなければならず、量産効果を望めないハイスピードカメラマーケットでは多大な開発コストを覚悟しなければなりません。
 この件に関しては、月刊誌「映像情報」1997年6月号に掲載されたソニー(株)の田中正俊氏(2009年現在、ネットカムビジョンを経てかめらもじゅーる工房主宰)の誌上講演で、撮像素子の開発がいかに大変であるかを伝えており、興味深い記事が掲載されています。
また、近年になって、NTSC信号規格にとらわれないコンピュータ画像入力に従った素子が開発され、画像ボードと組み合わせた高速度カメラが開発されています。
以下に高速度ビデオカメラに用いられてきた撮像素子を述べます。
 
【ビジコン撮像管】
1972年米国で開発された120コマ/秒の白黒高速度ビデオINSTARに使用されていた撮像管(電子管)です。
当時としては感度、解像力とともに高速度カメラ用では妥当な選択でした。
(詳細は、「光と光の記録」一時代を築いた撮像管 を参照。)
 
【プランビコン撮像管】
 高速度で撮像管を走査する場合に光電面の残像が問題になります。
1970年代より開発された高感度、高解像力の撮像館(サチコン、カルニコン)などは残像が多く、
高速度カメラには不向きでした。
そこで低残像、高解像力を持つ撮像管の必要性からプランビコンが使われました。
この撮像管は、1980年、200コマ/秒のカラーハイスピードカメラナックHSV-200、1984年HSV-400に使用されました。
 
【ハーピコン撮像管】
 日立とNHKが開発した、低残像、高感度、高解像力撮像管(電子管)です。
キャノンは、2/3インチHARPICON撮像管を用いて放送局用ハイビジョンハイスピードカメラを開発し、1992年のバルセロナオリンピックに投入しました。
撮影速度は180コマ/秒でした。テレビ放送(30フレーム/秒)の6倍の速度でした。
シャッタ速度は光電面の前に取り付けた同期回転円板シャッタを使って1/3,600秒を実現しました。
解像力は800本以上を有し、撮影感度もASA(ISO)感度で350程度確保できました。
60MHzの記録帯域が必要で、5400枚のICメモリによる画像記録ができました。
けれど、メモリ装置が大きくラックマウント形式で、210Kgの重さとなっていました。
(詳細は、「光と光の記録」ハーピコン を参照。)
 
【CMOS型素子】 (2001.03記)(2009.05.31)(2023.07.26追記)
 CMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)型撮像素子は、CCD(Charge Coupled Device)型素子よりも早く商品化されました。
CMOSは、X-Y直接アドレス読み出しができ、構造もシンプルなことから高速度カメラ用に適しており、1982年の米国KodakのSP-2000、1990年ナックのHSV-1000、1993年Kodak HS4540に採用されました。
この素子の欠点はシャッタ機能がないことで、シャッタ機能をするには素子の前に回転円板シャッタを設けなければなりません。(この欠点は、2000年には克服され、さらに全画素一斉にマイクロ秒単位の電子シャッター = グローバルシャッタ機能を持つCMOS素子が開発されました。)
素子の前に液晶シャッタを取り付ける工夫も模索されましたが、透過光量、消光比など解決しなければならない問題点も多くありました。
 CMOSセンサーは、1990年代コマーシャル市場でCCD素子と戦って破れ、いったん市場から退却をしますが1990年の終わりになって、再びCMOSの良さが見直されて活況を呈してきています。
CMOSの良さは消費電力が少ないことが上げられます。
携帯電話につけたりパソコンに載せたりと低消費電力を売り物に復活しました。
2020年代にあっては、CMOS撮像素子は放送カメラ、産業カメラなどすべての映像機器に使われるようになりました。
高速度カメラ用にも再び注目されるようになり、電子シャッタを組み込んだ素子も開発され、2000年以降、主力の座を占めるようになりました。(詳細は、「光と光の記録」MOS素子 を参照。)
 
【CCD素子】  (2009.05.31追記)
 この素子は、ソニーの功績により固体撮像素子の代名詞となりました。撮像管(電子管)から固体撮像素子に変わっていった歴史的な出来事でした。
しかし、CCD固体撮像素子を使った高速度カメラは、走査線単位のアドレス方式のため高速度での読み出しが難しく、製品化は1995年にKodakが開発したカラー高速度カメラKodak1000HRCが初めてです。
CCDは、電子シャッタ機能が内蔵されているのが魅力でした。
高速度カメラ用CCD素子として米国EG&G社から高速度並列読み出しCCDチップが開発され、これを用いた高速度カメラも市販されました。
並列読み出しでは、各ブロック毎の画像S/Nのバラツキが多く、濃度、S/N補正を施したカメラの製作がキーポイントになります。
(詳細は、「光と光の記録」CCD素子 を参照。)
2000年を過ぎた頃より、CMOS素子を使った高速度カメラが主力になり、CCD素子を使った高速度カメラは、主力の座をCMOS素子のカメラに明け渡しました。
 島津製作所から出されている100万コマ/秒の高速度カメラは、CCD素子を改良したオンチップメモリ型のISIS素子を使っています。
 
【CMD】(1992〜2004) (2009.05.31追記)
 オリンパス工業が開発しナックMEMRECAM Ciに搭載している撮像素子で、高速X-Yアドレス読み出しが可能です。エリア指定により部分読み出しができ、2,000コマ/秒までの撮影が可能になりました。素子に補色型単板カラーフィルタをとりつけ、カラーマトリクス手法によりカラー撮影が可能となっています。2008年現在は、製品の製造を中止しています。
 
【オンチップメモリ素子】
 米国Princeton Instruments社、SMD社が開発した超高速度撮像素子で、撮像素子上に画像を記録する高速度撮像素子です。
素子は、光が入る開口部セルと画素情報を蓄え現象からのストップ信号が入るまで吐き出しと記録を行う非露光部の画像蓄積セルで構成され最大1マイクロ秒のクロックでループ録画を行います。
トリガ信号でループ録画がストップし蓄積した画像を通常のビデオレートで吐き出します。
撮影枚数は非露光部の画像蓄積セルの数で決まり、撮影枚数が多いと露光部のセルが相対的に小さくなるため撮影感度に影響します。
撮影枚数は16枚程度。
 同じような原理で、超高速度撮影を可能にしたものに、島津製作所が販売している高速度カメラがあります。
 詳細は、「光と光の記録」、撮像素子・・・CCD (Charge Coupled Device) 素子を参照して下さい。
 
 
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撮像素子に求められる性能
 高速度カメラに求められる撮像素子の条件をおさらいしましょう。
 
【露出時間】
 素子自体にシャッタ機能のあるもの(CCD素子、高速度カメラ用のCMOS素子)と無いもの(一般のCMOS、CMD、撮像管)があります。
高速度カメラには、当然シャッタ機能付が求められます。
撮影したものを単にゆっくり再生してみるだけであればシャッタ機能は必要ありませんが、高速度カメラのユーザの多くは、カメラ画像を一枚一枚静止させて画像から変位を抽出したり、画像処理装置によって粒子速度を求めたり粒径を求めたりします。
高速で推移する対象物が自らの移動で画ブレが起きてしまうのは計測用では御法度となります。
一般に、シャッタ速度は撮影速度間隔の1/5から1/20程度のシャッタ定数が求められます。
素子にシャッタ機能が取り付けられなければ、撮影速度に同期させたストロボやパルスレーザ(銅蒸気レーザ、半導体レーザ、AOM変調アルゴンレーザ)を光源として用いたり、あるいは、パルスモードが可能なイメージインテンシファイア(I.I.、光増幅光学装置)をレンズと素子の間に組み込んで使用します。
1990年代のカメラでは撮像素子の前面に回転円板シャッターを付けて撮影速度と同期して回転させていました。
2000コマ/秒では毎秒2000回転(120,000rpm)となります。
それではあまりに回転が速く、機構的に支障が出るというので、円板シャッターを4分割にして1/4の回転でシャッターを回していました。
 
【撮影感度】
 高速度撮影では、撮影速度が高くなればなるほど、また、露出時間が短くなるほど被写体照度を明るくしなければなりません。
一般家庭用の単板CCD撮像素子には、素子上にマイクロレンズが配置されていて撮影感度を上げる工夫がなされていて、50ルクス程度の室内でもレンズ絞りF2で30コマ/秒の撮影が可能になっています。
これをフィルム感度のISO(ASA)に直すとISO500程度になります。
工業用の白黒CCDカメラは実効感度ISO1600程度を持つものが一般的です。
しかし、高速度カメラでは、高速走査をする関係上、増幅度を一般の素子のように上げることが難しく、被写体照度を上げる必要が出てきます。
我々の経験上、高速度カメラに求められる撮影感度はASA500〜3000で、それ以下のものでは撮影に強力な照明が必要になります。
撮影感度を上げるためには、現在の固体撮像素子のデザインと逆行するようですが、画素1ピクセル当たりの面積を大きくして実効感度を上げる必要があります。
高速度カメラ用に開発されたKodak HS4540(1993年〜2002年)用のCMOS素子は、1ピクセルのサイズが40um、イメージサイズ10.24mmx10.24mmと大型であったため、実効感度がISO1600と高く、簡単な照明設備での高速度撮影が可能でした。
ただ、この素子は画素数が256x256素子とあまり高画質ではありませんでした。
2010年代以降はノイズ除去技術が進歩して小さいピクセル画素で短時間露光でもノイズを抑える技術が進歩して来ました。
 
【画素】
 通常のCCDカメラでは、35万画素が一般的になっていますが、高速度カメラでは、走査速度の関係上、500コマ/秒程度までの撮影速度でしかこの画素のカメラを提供することができません。画素を増やして高速度撮影を可能にするのは並列読み出し方式が正攻法なのですが、熱ノイズによるバックグランドノイズ補正など解決すべき問題も多くあります。
CMOS素子は、CCDと違って高速走査ができるので2000年より1,024x1,024画素で1,000コマ/秒の撮影ができる素子が作られるようになりました。
 
【濃度安定性】
 高速度カメラでは、一般撮影では問題にならないことでも大きな問題になることがあります。バックグランドノイズもその一つで、濃度解析を行うような応用、例えば、火炎の濃度で温度を求めたり、透過減衰法(レーザによる平行光線を噴霧粒子にバックライトで照射し、濃度解析を行って噴霧粒子の平均粒径を求めるもの)では致命的な問題となります。素子の熱的ノイズを下げるため素子の温度を正確にコントロールする必要があります。
 
 
写真提供:東京大学 野球部
 
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カラー高速度ビデオカメラの開発
 カラーハイスピードカメラは、ナック社が1981年に初めて商品化(モデルHSV-200)したものですが、このほかにもソニーが1983年に3/4インチUマチックカセットを用いた高速度ビデオを開発して1984年には1インチビデオテープを用いた180コマ/秒のカラーハイスピードカメラも開発しました。
これらは、スポーツ分野に導入され、1984年ロスアンゼルスオリンピックや、大相撲中継、プロ野球中継に使われました。
また、1992年にはハイビジョン規格のカラーハイスピードビデオがキャノンによって開発されました。
しかしながら、これらはいずれも価格的に、また、運用上で折り合いが難しく、試作的な色合いが濃い製品でした。
 カラーハイスピードビデオは、白黒ビデオに比べて情報量が多く、使用者の立場から見れば必要不可欠な要素です。
しかし、開発する立場から言えばカラー撮像素子、カラー分離光学系、信号処理回路など白黒に比べ格段に高度な開発技術が要求され製作は容易ではありません。
世界で最初に開発されたカラーハイスピードカメラ、ナック『HSV-200』及び『HSV-400』には、撮像素子に高感度、低残像プランビコン管(撮像管)がR.G.B.(赤、緑、青)それぞれ3本使われていました。
R G B 3管方式は解像力が向上する反面カメラサイズが大きくなります。
 解像力の劣化を最小限にとどめ、撮像素子1つでカラー情報まで取り出す方式(カラーマトリクスフィルタ方式)は、市販の小型8mmビデオより使われ始めました。
高速度カメラでは、1994年ナックより開発されたMEMRECAM Ci(1994 - 2004)で初めて使われました。
このカメラに使われた撮像素子は、CCD素子ではなくCMD(Charged Moduration Device、オリンパス工業開発)素子でした。
この素子は、CCD素子に比べ高速走査が可能なため、ハイスピードカメラに適していました。
また、Kodakは、1994年にBayerフォーマットを採用したR.G.B.アレーフィルターによるカラーマトリクス式CCD固体撮像素子を開発し、高解像力のカラーハイスピードカメラ『Ektapro HRC』(1994 - 1998)に搭載しました。
以後、撮像素子は、CCDからCMOSタイプになるも、2020年代に至るまでRGBマトリクス型のBayerフォーマットによる撮像素子が一般的になりました。
Roper メモリ一体式高速度ビデオCR2000(1999 - 2004)
 
 
記録媒体及び記録時間の折り合い (2000.09.18記)(2009.05.31)(2023.07.26追記)
■ 半導体メモリ
 1980年代前半、高速で大容量の記録媒体は磁気テープのみでした。
当時の技術水準では、ICメモリを使った映像記録を行うには莫大な実装基板と費用がかかりました。
1990年代になってICメモリの高集積化と低価格化が可能になり、半導体メモリを用いたハイスピードビデオが開発されるようになりました。
高速度カメラの記録媒体として世界で初めてICメモリを採用したのは、米国 Eastman Kodak MASD (後 Redlake MASD)社のEktapro EMという装置でした。
半導体メモリは、高速でデータアクセスができ、かつディジタル記録であるため再生画像の劣化がありません。
但し、電源をOFFにするとメモリを保持できないため、映像データをビデオテープにダビングする必要があります。
また別の録画に移りたい時も一旦ビデオテープにおとさなくてはならず、これがメモリ方式のジレンマになっています。
 こうしたジレンマを解決を解決したのが、1990年代後半に一般的になってきたネットワークの100Base規格によるイーサネット通信です。
この機能は1秒間で最大100Mbitのデータを転送できるもので、この機能を取り入れたRedlake MASD社の高速度カメラ(モデルHG)は200枚のカラー画像を10数秒で転送できる機能を持ち、且つデジタル画像フォーマットで保存できるという特徴をもっていました。
■ 磁気テープ 
 ナックMEMRECAM C2S(1996年開発)は、記録方式にICメモリを採用し、これに高速ビデオでは世界初のJPEG圧縮技術を導入して96MバイトのICメモリで200コマ/秒、約20秒の撮影を可能にしました。
JPEG圧縮技術を採用した録画方式は見かけの記録容量が増えるものの、解析用には問題があり2000年の現時点では高速度カメラ画像の一般的な画像フォーマットになっていませんでした。
 製造する立場から高速度ビデオカメラを見た場合、メモリ方式の方が作りやすいため、世界的に見てほとんどのメーカがメモリ方式の高速度ビデオカメラを製作しています。
これは、2009年現在も続いています。
 1996年10月に発売したナック社のテープ方式のHSV-500C3は、デジタルカメラとVHSフォーマットの1/2インチVHSテープを採用した小型高速度カラーハイスピードビデオで、長時間録画が可能となっています。
しかし、磁気テープによる高速度カメラも、VHSテープの需要の落ち込みと大容量の半導体メモリが安価に出回るようになって、それを使った高速度カメラが出てくるようになると、しだいにその役割が減るようになり、2007年頃から姿を消してしまいました。
■ その他 
 その他の記録媒体として、バックアップ用の2次記録媒体である光磁気(M/O)メモリが挙げられます。
このメモリは、3.5インチ(φ89mm)の光ディスクに半導体レーザを使って230M(もしくは650M)バイトのディジタル記録・再生を行うものです。
メディア(光ディスク)は、一枚200円〜500円程度(2000年当時)で、20Gバイトのハードディスク(20,000円程度)に比べ安価です。
但し、データの読み取り/読み出しはハードディスクに比べさらに時間がかかります。
また、CD-ROMライターも安価になり、始め650MBの永久保存を考えるならばCD-ROMディスクが使用できます。
さらに大容量のディスクとしてDVD(Digital Video Desk、φ120mmディスク、2.6GB容量)が、1997年になってコンピュータ用記録メディアとして登場しました。
2023年現在では、光学メディアが収れんし、多くはSDに置き換わるようになりました。
SDは10,000円ほどで1TBの容量のものが入手でき、USB3.0やThunderbolt3などの通信で高速保存ができるようになっています。
■ 光ディスク(アナログ記録)(1990年頃 - 2000頃)
 ディジタル記録はデータの劣化が無いと言うメリットがある反面、データの読み取り/読み出しに時間がかかります。
これを補うものにアナログ方式による光ディスクレコーダがあります。
この原理は、レーザーディスクに似たもので、内蔵された半導体レーザによりφ30mmディスクに30コマ/秒の録画速度で2時間の記録ができるものです。
但し、このディスクはレーザ光によって焼き切る形で記録されるため、ディスクメディア(約20,000円〜30,000円)は、一回の記録のみとなり再録画はできません。
また、この記録は、アナログ方式となっています。
それでもデータの劣化は他のアナログ方式より格段に優れ、800本の解像力を持っています。
アナログでありながら高解像力、大記録容量(換算容量90Gバイト/ディスク)をもつ光ディスクは、30コマ/秒の録画、静止、サーチ、スロー再生等の使用上のメリットが大きいといえます。
 この装置も、2000年以降、DVDの台頭とMPEG圧縮方式の録画方式の開発によって、生産中止を余儀なくされました。
 
 1990年の後半になって、ハードディスクドライブが驚異的にやすくなり且つ大容量を持つようになってきました。
30GB程度のハードディスクが\30,000代で入手できるようになりました。
このハードディスクに、UltraSCSIのような40MB/s程度の高速転送で画像データを送ったとすると、512x384画素8ビット情報で1秒間に203枚の画像を転送できることになります。
このハードディスクを8台並列に接続して、それぞれのハードディスクに32ch並列読み出しから取り出す画像データの4ch分をあてると、1600コマ/秒までの記録ができる計算になります。
データ容量も240GBとなり、1,000コマ/秒で512画素x384画素8ビットの画像が20分も録画できることになります。
 計算上とはいえ、テープ方式しか録画時間を稼げなかった時代からデジタルで長時間録画できる指針が示されたことは興味あるところです。(2000.09.18)
 
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毎秒2000万コマを達成するカメラ 〜 イメ−ジコンバ−タ式カメラ
 
 より高速度のカメラを求める場合、慣性を持った機構部では到達速度に限界があるので、シャッタリング、像のシフト等全て一連の操作を電子で行うイメ−ジコンバ−タ式カメラが開発されました。
イメ−ジコンバ−タカメラは、心臓部に光電効果による電子管(転像管=イメージコンバータチューブ)を使用しています。
 光電効果は、1887年Hertz によって発見され1905年Einsteinによって説明されたものです。
イメ−ジコンバ−タチュ−ブ(転像管)は、可視光像を電子像に変える光電面、光電面の像電子を反対側の蛍光面に飛び出させるための加速電極(15KV)、光電面の背後に近接して像電子の飛び出しを制御しシャッタの役目をするシャッタグリッド電極、複数枚の像を蛍光面にずらして露光させるための偏向電極から構成されます。
  これら一連の動作を電子回路によりサブマイクロ秒でタイミングを合わせながら20,000,000コマ/秒の撮影を達成しています。
イメージコンバータカメラの操作感覚は電子管を用いたオシロスコープときわめてよく似ています。
イメージコンバータカメラの撮影モードは、フレーミング(2次元映像)モードと、ストリーク(流し映像)モードの2種類あり、ストリーク(streak)撮影は多チャンネルオシロスコープと同じです。
ストリーク撮影ではトリガ信号により転像管の偏向電極掃引を水平方向に行い、縦方向がスリットから得られる空間情報になります。
オシロスコープでは4ch程度のアナログ電気信号を5ns/div程度で掃引しますがイメージコンバータカメラは、300ピクセル程度の空間分解能で1ns/mmの掃引が可能です。
オシロスコープに比べ桁違いに多くの情報を得ることができ、レーザ発振発光、ショックウェーブの伝播、放電発光などに使われています。
幾多の改良を経て現在のような使い勝手の良いカメラになったのは1960年代中頃で、英国のJ.Hadland 社(現DRS Hadland社1998.3)が同国のEEV 社製のイメ−ジコンバ−タチュ−ブを搭載して市販化し、放電研究、弾丸の飛翔、爆発研究等に使われました。
 1990年には、イメ−ジコンバ−タカメラの概念を一新するカメラが英国Imco社(ナック社の100%資本による現地法人会社)の手で開発されました。
このカメラは、従来のチュ−ブがガラス製であったのに対しエンベロ−プが全てファインセラミクスとステンレス鋼で作られています。これにより、従来欠点の一つに挙げられていた衝撃による破損、経年変化によるチュ−ブの劣化がなくなり、堅牢で高耐久力、高いチュ−ブ内真空度を実現しました。
ウルトラナックは、コンピュ−タ制御により撮影速度も露出時間も任意に設定できるためオシロスコ−プ的感覚で撮影することができます。
このカメラが使用される分野も従来使われた研究以外に、顕微鏡と接続した高倍率の撮影(液晶の挙動、インクジェットプリンタの研究、水晶発振子の挙動、液滴の生成)や、超高速飛翔体の衝突現象にその用途を広げています。
 
  
   
イメージコンバータの心臓部、イメージコンバータチューブと
  イメージコンバータカメラ ウルトラナックFS501(1990 - 1998)
 
 
 イメージコンバータチューブは、電子管(真空管)の一種です。三極真空管を基本構造として、グリッドによって電子の放出を制御します。
真空管内に放出された電子は、偏向電極によって希望するスクリーン面位置に到達するようになっています。
 左図がイメージコンバータ管の構造図です。
光学レンズによってイメージコンバータ管の左部の光電面に像を結びます。
光の像はここで光の強さに応じて電子が発生し、真空管内部を蛍光面のある右側に飛んでいきます。
この電子管は、光電面が-15kVになっていて、蛍光面が0Vになっています。
ですから、光電面で発生した電子は、グランドレベルの蛍光面に向かって-15kVの加速電圧で力を受けて飛んでいくことになります。
イメージコンバータ管の中には、光電面の背後に3つの電極が配置されていて、このグリッドの電圧の制御で光電面からの電子を蛍光面に放出するか否かを制御しています。
光電面のポテンシャル電位-15kVよりも高い電位にグリッドがセットされると、電子は放出され、ポテンシャル電位よりも低いと電子は蛍光面に放出されません。
その電圧勾配を3つのグリッドによって作っています。
左の図がグリッドの電圧設定を示していて、光電面とグリッド2の電圧の差で電子が放出されます。このスイッチングは最小20nsという短い設定が可能で、この設定により、電子シャッタを20nsできることができました。
 グリッドによって光電面の電子の放出のゲートが開けられると、電子は蛍光面に向かって飛び出していきます。
その間には、偏向電極があって、ここで電子は曲げられて、希望する蛍光面の位置に衝突するようになっています。
こうして電子シャッタと偏向電極の組み合わせで、φ40mmの蛍光面に次々と画像を映し出すことができ、その間隔は50ns、撮影速度に換算して20,000,000コマ/秒が達成されます。
 
 
 
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高速度カメラを使った流れの可視化撮影応用例
《その1 エンジン燃焼》
 地球規模の環境保護が叫ばれる中、自動車から排出される燃焼排気ガスを清浄化するために燃焼そのものを研究する分野が注目を集めています。ディーゼル燃焼は機械効率が高く大型機関にしやすい特徴を持つ反面、排気ガスに多量のススを出し窒素酸化物(NOx)も多いことから、これらを軽減する燃焼を研究が活発に進められています。内燃機関の燃焼は連続で燃焼をするのではなく間欠的に行われ爆発燃焼の形態をとっています。この爆発工程は約15ミリ秒程度の時間内で複雑な燃焼を終えるため、高速度カメラは必要不可欠な計測装置であり、2000年までは、ロータリプリズム式高速度カメラ、ミラー式ドラムカメラ、イメージコンバータ式カメラが1,000〜1,000,000コマ/秒の範囲で使われています。2000年以降、高性能の高速度ビデオが開発されたため、これらのカメラも使われるようになりました。高速度カメラで使われる撮影手法は、アルゴンレーザを光源としたシャドウグラフ手法や、燃焼火炎中の燃焼生成化学種に反応する波長を有するレーザをシート状に照射し研究対象の燃焼物質の生成過程を可視化する手法が取り入れられています。
   
   高圧噴霧実験風景(提供:(株)新エィシーイー)1994年
 
 
高速度カメラを使った流れの可視化撮影応用例
《その2 アジ化銀による水中衝撃波》
 
 イメージコンバータ式高速度カメラの撮影応用例を示します。この応用は、東北大学衝撃波工学センタ−高山和喜教授の協力を得て撮影を行いました(1992年)。衝撃波の研究は、研究対象が極めて高速に推移するので、一枚の映像を得るのにサブマイクロ秒の露出時間を必要とします。この実験は、水中に 0.7mmx0.7mmのアジ化銀を光ファイバの先端に接着させて水中にセットしました。起爆は、YAG レ−ザの発生する熱エネルギを使い光ファイバを通して行いました。衝撃波を可視化するために、アルゴンレ−ザによるシャドウグラフ法を用いました。撮影速度は、衝撃波の全体をとらえるため200,000 コマ/秒にセットし一枚当りの露出時間を300nsにセットしました。YAGレ−ザからエネルギが与えられて衝撃波が発生するまで200μ秒かかるため、カメラにトリガ信号が入力してから200μ秒後に撮影開始するように遅延時間をセットしました。デ−タ設定を始めカメラの操作は、NEC9801note パソコンに組み込まれたカメラ操作プログラムを使い、RS232C回線を通じて行いました。
下の写真がその撮影結果で、衝撃波の発生、アルミ板を反射・透過した衝撃波の伝達をよくとらえています。
写真は、左上が撮影開始直後の映像で、以下下方に行き一列右にシフトし上方に進行していく千鳥撮影となっています。
 
    
ウルトラナックによる200,000コマ/秒撮影。
協力:東北大学流体科学研究所 衝撃波工学センター高山和喜教授 1992年
 
    MP4ファイル ムービー
                  
     上記(水中衝撃波)のムービー再生       点火玉(白金線)の線爆破(10,000,000コマ/秒)
                          提供:通産省 資源環境技術総合研究所 1992年
 
 上右のMP4ファイルムービーは、ダイナマイトの信管に使われる白金線でできた点火玉の起爆する様子を示した高速度画像です。
点火玉には、上右写真に示されるようにV字型のワイア(白金線)が渡され、これに3000Vで18Jの電気エネルギーを瞬時(0.4us)に加えます。
この時の白金線が線爆破している様子を10,000,000(一千万)コマ/秒で撮影しました。
白金線の大きさは、φ30um(0.03mm)巾2mmのV字型。抵抗は0.3Ω。このムービーは、大変興味あるもので、白金線は、熱膨張も、せん断によるアークもなく、エネルギー注入後300ns(ナノ秒)で熱発光が始まり、白金線が一様に熱せられてドロドロになり、線爆破になっているのがわかります。
この映像から発光の広がり速度が2,000m/s以上に達していることがわかりました。
 
 
 
高速度カメラを使った高速飛翔体撮影応用例
 航空宇宙分野では、スペースデブリ(宇宙空間に漂うゴミ)が宇宙船に衝突する際の基礎的な研究や、宇宙創世の基礎的な研究に、秒速2-10Km/hで打ち出す実験装置が使われています。これらの実験は非常に高速に推移するため、一般的な高速度カメラでは現象の挙動全域を十分に推し量ることはできません。秒速10Kmというと、1マイクロ秒(百万分の1秒)で100mm進む速さです。
 ロケットが地球から宇宙へ打ち上げられ、重力に逆らって地球から脱出するのに必要な速度(第一宇宙速度)は秒速7.9Kmと言われています。逆に宇宙の隕石などもこのくらいのスピードで、抵抗のなかった原始地球表面に衝突していたものと考えられています。
 秒速2-10Kmが、この分野ではかなり重要な数値で、地上でこの速度を得るために高速飛翔体打ち出し装置もいろいろ考案されています。左の写真は、名古屋大学 工学部マイクロシステム工学 藤原 俊隆教授の研究設備で、2段式軽ガス銃と呼ばれる高圧ガスを利用して0.4mgのプラスチックペレットを5Km/sでチャンバーに打ち出す装置(1992年当時)です。軽ガス銃とは、まさに鉄砲のことで、ペレットを弾に見立ててガスでペレットを押し出します。押し出すといっても5Km/sで押し出すわけですから、慣性のある重い窒素のようなガスではガス自体がそのスピードに達しませんから、軽いヘリウムとか水素を使います。しかし、すべてこれらの軽いガスでまかなえないので、2段式にして、1段目は爆薬の燃焼ガスで、軽いヘリウムガスを圧縮させて細い導管に導いて加速させます。1992年に行った試験は、この5Km/sで打ち出されるペレットが初期の目標速度に達しているかどうかということと、ペレット飛翔する姿勢を見る目的に高速度カメラが使われました。その時の撮影速度は、200,000コマ/秒〜1,000,000コマ/秒でした。
 
 撮影の結果より、
・ペレットはある程度の損傷は受けているものの基本的には原型に近い形で押し出されている。
・飛行姿勢はほぼ安定している。
・飛行速度5Km/sのペレットは、ほとんど破壊限界に達しており、速度をあげるには
 ペレットの材質、形状を変える必要がある。
との知見が得られました。
 この種の高速度カメラは、撮影枚数が15枚程度と限りがあるので、高速度で飛び出してくるペレットと撮影するタイミングを精密に合わせなければなりません。
このタイミング(トリガ)には、ワイアカット手法が使われました。ペレットが打ち出される風上に細いワイアをセットし、ペレットがこのワイアを切ることにより電気的信号を発生する仕組みです。撮影に使用された光源は、通常に使われているストロボフラッシュを使いました。このストロボは、フル発光で約1ms程度の発光があります。高速度カメラから見れば、こうしたストロボも記録時間分だけ光ってくれるのであれば連続光源と見なすことができます。100,000コマ/秒の撮影で15枚分の撮影では150マイクロ秒となるので、ストロボ発光でも十分な連続発光となります。ストロボは、発光輝度が高いのでバックライティングで照明すれば、500ns(0.5マイクロ秒)の露出が可能です。また、ストロボは、通常電気信号をもらって発光がピークに達するまで80〜100マイクロ秒かかるので、トリガのためのワイアも100マイクロ秒手前にセットします。位置は、ペレットの想定速度から計算します。速度を5Km/sと仮定したとすると、1マイクロ秒で5mmの推移をしますので500mm手前にワイアをセットします。
 
 
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